夜闇を照らす満月の下、二つの影たる四人が高層ビルの屋上に佇んでいる。
「……“千変”シュドナイ?」
「ああ、どうせいつもの護衛遊びだろうがいい迷惑だぜ。空港で張ってた連中が二人、やられやがった」
一人は、黒のコートと同色のライダースーツで全身を固めた小柄な少女。
一人は、ラフなジャケットとスラックスを着た短い黒髪の女傑。
「久しぶりの“王”ね、アラストール」
「うむ。上手く遭遇できると良いのだが」
「……いくら君たちでも、舐めて掛かると火傷じゃ済まないよ。相手は仮にも神の眷属だ」
少女が薄く笑い、ペンダントがそれに応え、ブレスレットが水を差す。異様な会合を続ける二人にして四人は無論、人間ではない。人の器に紅世の王を納めた使命の剣・フレイムヘイズである。
「相手が誰でも関係ない。世界のバランスを崩すなら討滅する。それがフレイムヘイズの使命だから」
もっとも、全ての討ち手がこんな無粋な情報交換を行っているわけではない。殆どの討ち手は、フレイムヘイズの情報交換支援施設・『外界宿(アウトロー)』を利用する。この少女は、特別だった。
もう一方の女傑……『輝爍の撒き手』レベッカ・リードが気配を掴んで急行しなければ、この場の再会も無かった事だろう。
「それともう一人、歪みを探って渡り歩いてる徒がいる。多分、こっちも王だ」
「……歪みを?」
ブレスレットに意識を表出させる“糜砕の裂眥”バラルの言葉に、少女は眉根を怪訝に寄せた。徒は元々世界のバランスに気を払わないからこそ人を喰らってこの世に顕現しているわけだが、わざわざ好き好んで歪みを捜す者など普通は居ない。それは通常、徒を捜すフレイムヘイズの行動である。
「良く解らねーけど、歪みに集まっては封絶に飛び込んで、戦うでも人を喰うでもなく逃げちまうんだと。実害無しってのが逆に不気味だぜ」
少女が抱いた当然の疑念に全面的に同意して、レベッカはつまらなそうに肩を竦めた。これだけの目撃情報が集まっている事は当然、それだけ多くの討ち手が遭遇し、その上で取り逃がしているという事を意味していた。
「何か最近、徒フレイムヘイズ問わず集まって来てる気がするよ。この小さな島国に、何かがあるって事なのかな」
バラルの不明瞭な一言に、明確な解を示せる者はいない。話の終わりを悟ってか、少女はコートを靡かせて踵を返す。
「ありがとう。討滅したら、手紙で知らせる」
「もう行くのか? せっかくだから、外界宿にも寄ってけよ」
「必要だと思えば、そうする」
レベッカの言葉に振り返る事もなく応えて、少女は夜景の広がる市街地へと飛び降りた。小さな影は、あっという間に闇に紛れる。
「……ったく、相変わらず子供だな」
以前と少しも変わらない少女の背中に、レベッカは僅かな失望を乗せて届きもしない別れの言葉を贈る。
「またな、“贄殿の”」
“天壌の劫火”アラストールの契約者、『炎髪灼眼の討ち手』。
そこまでしか己を持たない。それだけが……今の彼女の全てだった。
御崎高校の中間テストを間近に控えた六月の夜。真南川の河川敷の一画を歪んだ陽炎が包んでいた。
と言っても、別に徒が人を喰ったりフレイムヘイズが暴れているわけではない。悠二とヘカテーが今や日常的に行っている夜の鍛練の一幕である。
しかし今夜、その異界に在るのは彼ら二人だけではない。
「差し入れ持って来たよー!」
先日、この世の本当の事に触れてしまった平井ゆかりと、
「…………………」
悠二を襲ったフレイムヘイズ、『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルまで居たりする。
「……平井さん」
あれからまだ、ものの三日と経っていない。しかし数週間が過ぎたような激動の日々だった。
ボロボロの姿を見せるわけにもいかず、悠二が平井のマンションに泊まった翌朝の事。行く先も告げずに出掛けていた平井が、何やら遣り遂げた顔で帰って来た。曰く、「関東外界宿第八支部に加えて貰った」との事。どんなズルい手を使ったのか知らないが、その行動力には相変わらず頭が下がる。
「(何で平井さんは、あんな事を………)」
当然、悠二は猛反対した。外界宿とやらについて詳しく知っていたわけではないが、紅世と関わる危険性は身を以て知っているからだ。
しかし平井も当然、おとなしく聞き入れはしない。「自分の生き方は自分で決める」とキッパリ言い切って、それ以上の説得を封じてしまった。
「(いや、平井さんはまだいい……)」
あの時……今ここにいる坂井悠二に、変わらぬ笑顔をくれた時から、彼女が“こちら”に踏み入って来る予感はあった。
良……くは無いが、理解は出来る。問題は、平井と共にやって来たもう一人の方。
「あんた……いつまで御崎市に居るんだ」
『零時迷子』を狙って悠二を襲撃し、何より平井を非日常に引き込んだ張本人である。
「『零時迷子』がある限りヘカテーは人を喰わないし、この街を荒らした“狩人”はとっくに討滅してる。何でまだ残ってるんだ」
その張本人たるヴィルヘルミナが、平然と返す。
「何故も何も無いのであります。この街で新たに生まれた問題も、私個人の問題も、何一つ解決していない。こんな状況で、私が去る理由など皆無でありますな」
「至極当然」
「ぐぅ………」
返された悠二は、苦虫を噛み潰したような顔で唸る。構わず続けるヴィルヘルミナの眼が、微かに険しく細まった。
「貴方が体内に『零時迷子』を所有している事についても、私が納得した憶えはないのであります」
「こっちだって、平井さんを巻き込んだのを許した憶えは無い」
睨み合う二人の視線がぶつかり、バチバチと火花が爆ぜる。藪蛇の予感を感じて傍観を貫くヘカテー。
不毛な睨み合いは数秒ほど続き、
「フン………」
呆気なく終わった。
小さく鼻を鳴らしたヴィルヘルミナは、そのまま数歩足を運んで土手の斜面に腰を下ろす。
「…………………」
個人的には納得し難いものの、理屈としては悠二にも解っていた。
『零時迷子』に刻まれた謎の自在式。その正体を知っているらしいヘカテー。いつか『零時迷子』を狙って現れるだろう仇敵。そしてヘカテーが元凶と呼ぶ“教授”。これだけの要素を残して、ヴィルヘルミナが去れる筈がない。
さっきまでの問答も、どちらかと言えば単なる口喧嘩という意味合いが強い(無意味とも言う)。
「私の事はお構い無く。警戒せずとも、今は『零時迷子』に手出しするつもりはないのであります」
「静観」
そしてヴィルヘルミナの方にも、今すぐ再びの凶行に出られない理由があった。
「……それを信用しろって言うのか」
「………貴方は、彼女の事を何も知らないのでありますな」
当然のように訊き返す悠二に、ヴィルヘルミナはむしろ意外そうに目を見開く(悠二には判別できないレベルで)。
「紅世の徒最大級の集団の一つ、『仮装舞踏会(バル・マスケ)』。“頂の座”は、その中でも絶大な尊崇を受ける巫女であります。下手な手出しは戦争さえも呼び、世界のバランスを大きく崩す」
『戦争』という物騒な単語に、それだけの人物であるというヘカテーに、悠二と平井が振り返った。視線を集めたヘカテーは、何やら得意気に胸を張っている。
「だからこそ、見過ごせない。そんな貴女が関与するほどの自在式が『零時迷子』に施され、あの“探耽求究”に狙われているという事実が」
直後に、ギクリと肩を揺らした。藪を突くまでもなく蛇が出たので、そそくさと後退りしてみる。
「(おじ様のバカ……)」
そんなヘカテーにも、ヴィルヘルミナに手を出さない理由が………
「…………?」
あるような、ないような、だった。
『大命詩篇』は秘中の秘。それを狙う討滅の道具など、今すぐ始末して然るべき。だと言うのに、あの時トドメを刺さず、今も放置している。
理由らしい理由と言えば、悠二が駄目だと言ったくらいのもの。その程度の理由が………何故か討ち手の始末より優先されているという矛盾に、ヘカテー自身は気付いていない。
「どうでもいいけど、トレーニングしないの? 零時回っちゃうよ」
気付く前に、手を叩いて急かして来る平井に思考を止められた。
因みに今夜の目的は、平井は見学、ヴィルヘルミナは監察である。
時計を見て、悠二とヘカテーは慌てて準備を始めた。……と言っても、今日は派手に立ち回るような鍛練をする予定はないから、悠二が構えただけだ。
「…………ふぅ」
目を閉じて己の存在に意識を向け、悠二は“あの時”の感覚を思い出す。
迫る脅威、絶対の危機、消滅の恐怖と、それに反発するように求めた……“何か”。それを自身の中から掬い上げて、発現させる。
「…………はっ!」
目を開き、胸の前に持ち上げた拳を開く。その上に、半透明に光る菱形の切片が結晶した。
「………これが?」
「うん、ヘカテーに習った憶えも無い自在法」
ヴィルヘルミナの魔手から、間一髪で悠二を護った未知の現象。それを再現できた事に安堵しつつ、悠二は掌中の切片を眺める。……イマイチ、どんな効果を持っているのか判らない。
しかし正面から覗き込むヘカテーには少し解ったらしく、コクリと首を頷かせていた。
「自在法には、『封絶』や『炎弾』のような、異能者ならば誰にでも使えるものと、私の『星(アステル)』のような、己が本質の象徴である固有のものがあります。これは恐らく、後者です」
「これが……僕の本質……」
言われて、切片を指先で触れて見る。ヴィルヘルミナの一撃を止めた事から考えても、盾のような自在法なのだろうが………
「何か地味だね」
「うん………」
思っていた事を平井にピンポイントで指摘されて、悠二は密かに凹んだ。
『戒禁』を破るつもりで繰り出したヴィルヘルミナの一撃を止めた以上、それなりに強度はあるのだろうが、小さい。広げた掌よりはマシという程度のサイズである。こんな範囲では、炎弾一つ満足に防げない。
ヘカテーの『星』やメリヒムの『虹天剣』に比べると、いかにも低レベルな自在法だった。
「………まあ、それでも無いよりはマシか」
まだ名前も持たない自身の自在法に、悠二は落胆を隠せなかった。