身動きが取れない。
「(―――やばい)」
炎を練り上げる間が一拍、足りない。
「(『零時迷子』が―――僕――分解―――)」
敵の腕は強固な防壁に包まれている。『戒禁』もアテにならない。
容れ物が、坂井悠二が―――消滅する。
抗う事も出来ないのに、やけに視界がゆっくりと動く。―――それが酷く、残酷に見えた。
「(死――――)」
“狩人”の時とは違う。保険も打算も無い正真正銘の危機を前に………覚悟とは真逆の、魂の底から捻り出すような拒絶が湧きあがり―――結晶する。
「っ………!?」
ヴィルヘルミナにも、
「え………?」
悠二自身にも、何が起きたか解らなかった。
ただ、うるさく脈を打つ心臓……少年の核たる宝具の前で、半透明に光る菱形の切片が、『戒禁』をも貫くつもりで繰り出された右腕を止めていた。
「ッ………」
消滅への恐怖が、ヴィルヘルミナより早く悠二を予想外の現象への困惑から立ち戻らせる。
その一瞬で、ありったけの力を全霊を以て炸裂させた。
「ッオオオオオオオオーーーーーー!!!」
獣じみた咆哮と共に、かつてフリアグネを打ち破った時と同じように、己そのものを燃やすような大爆発が巻き起こる。
「む………うっ……!?」
いくらヴィルヘルミナと言えど、躱せるわけがない。咄嗟に身を庇った鬣を薙ぎ払われ、全身を炎に焙られ、しかし逆らわずに上空へと飛ばされる。
「(まだこれだけの力を残していたとは……)」
「(自爆)」
「(……そう、これで終わりであります)」
手痛い反撃を受けたものの、未だ『万条の仕手』は健在。逆に悠二は、粗雑で構成の不安定な爆発によって力の殆どを消耗した。
「(……やっぱり無理、か……)」
しかし、悠二自身もそんな事は承知の上。これ以上は戦えないと悟っての、玉砕覚悟の一撃だった。
ただ、轟然と燃え盛る炎の中で………感知に優れた悠二だけが気付く。
「(来た――――)」
殆ど感動と言っても良い歓喜を得て、しかし、だからこそ………ただ到来を待つような事はしない。
「(今の僕に、出来る事………)」
もう力は残っていない。刺し貫かれた両足では、立っているのもやっと。
「(彼女なら、きっと気付く)」
解を見つけて、少年は静かに目を鎖す。
煉獄と化した一帯の上空に浮かび、仮面の討ち手は万条を構える。服はボロボロ、仮面の耳も焦げているが、戦闘不能には程遠い。
「このまま消滅させるわけにはいかないのであります」
「回収」
もはや悠二に抵抗する力が残っていないのは明白だが、念には念を。先ほどの様に不用意に近づくまいと、白刃の先を全力で硬化する。『戒禁』を越えて、『零時迷子』を取り出す為に。
「(今度こそ………)」
あの手足では避けられない。もう何をする余力も残ってはいないだろうとリボンを伸ばそうとしたヴィルヘルミナの周囲で………
「む………ッ」
またも、予想外の事態が起きる。ミステスの維持していた銀の封絶が、一気にその範囲を狭めたのだ。
「(封絶を維持する力も残っていない……!?)」
ミステスの消滅、『零時迷子』の無作為転移を危惧するヴィルヘルミナは、すぐにその見立てが誤りであると知る。
「―――――――」
自らの背後、すぐ傍まで迫っていた陽炎の壁から突如として現れた、恒星の如き大火球の一撃によって。
「っああああああぁ!!」
先の爆発に勝るとも劣らない無茶苦茶な大火力に直撃され、ヴィルヘルミナは浮遊すら崩されて落下を始める。
陽炎の世界に咲く大輪の華。輝く色は―――明る過ぎる水色。
「(そんなっ……馬鹿な―――!!)」
その炎、“銀”などよりずっと不可思議な色に仮面の下で目を剥くヴィルヘルミナに向かって、同様の大炎弾が多数降り注ぐ。
それは見当違いな狙いで奔り………しかし尋常ならざる余波でヴィルヘルミナを呑み込む。
「(封絶を目隠しにッ……外部からの奇襲……!)」
因果を切り離す封絶を張れば、その内外の様子は互いに掴めなくなる。その性質を利用された。
外から中も見えていない筈だが、そんな事は関係ないと言わんばかりの無茶苦茶な破壊力。しかも、あのミステスにだけは炎による攻撃が効かない。
「(封絶を狭めたのは、この為か……!)」
自在式を込めた鬣で、周囲の炎を払い散らす。そうして拓けた陽炎の空に、見た。
氷の如き冷たい炎を撒き散らす、星の巫女の姿を。
「……“頂の座”、ヘカテー……」
呆然とその名を呟く討ち手に向けて、ゆっくりと錫杖が下ろされる。
冷たい、どこまでも冷徹な瞳に導かれて、
「『星(アステル)』よ」
―――水色の流星群が、降り注ぐ。
御崎市に展開された封絶、その意味はすぐに判った。
昼間から封絶を使った鍛練をするとは思えないし、“それ以外”が人間を喰っているのを見過ごすとも思えない。
「(―――悠二が、襲われている)」
胸の奥に氷の杭を打たれたような確信を得て、ヘカテーは一も二もなく電車から飛び降りた。
着地も待たずに高速で飛翔し、一直線に封絶を目指した。
手遅れかも知れない。とっくに悠二は消滅していて、あの封絶の中には徒しか残っていないかも知れない。
考えたくもない想像が次々と浮かんでは、身体を冷たく固まらせていく。
「(悠二――――)」
寒気に突き動かされるように、封絶の中に飛び込む。真っ先に見えたのは、天を衝く銀の煉獄。悠二の証たる炎を目にして、まず安堵した。
―――直後に、それらの景色が一瞬にして掻き消えた。正確には、いきなり縮小した封絶の内に隠されてしまった。
「(封絶を縮め………あっ)」
陽炎の中に泳ぐ色から、封絶を制御していたのが悠二なのはすぐに判った。その悠二が、なぜ自分の侵入と同時に封絶を小さくしたのか………ほんの数秒でヘカテーは意図を汲み取る。
「(『星』は……ダメ。炎弾を使う)」
それは悠二の意図に違わず、まずは一発。続けて二発三発、さらに四発五発と、特大の火球を封絶の中に放り込む。
これ以上外からの炎弾に意味は無いと判断して、自身も漸く封絶の中に突っ込んだ。
「―――――――」
何故か、真っ先にそれが見えた。
視界の大半を埋める銀の煉獄も、自身の起こした水色の爆炎も目に入らない。
炎の海に隠れるように膝を着く、悠二の姿だけが見えた。
肘が、擦り向けている。肩に、風穴が空いている。腕から、足から、血が流れている。
「(―――誰がやった)」
心に浮かんだ言葉に応えるかのようなタイミングで、水色の爆炎が払われた。
現れたのは、狐を模した仮面から白の鬣を溢れさせる『討滅の道具』。
「『星』よ」
気付けば、光弾を雨に変えて放っていた。
数多の星は中空で無数に分裂し、全てを呑み込む水色の天体となって降り注ぐ。
「く……ッ!」
仮面の討ち手が、白条を編んで巨大な盾を張る。その表面の自在式に着弾した星が、悉く跳ね返って別の光弾と融爆する。
「(―――潰れろ)」
『反射』の自在法。
そうと気付いて、しかしヘカテーはお構い無しに『星』を放ち続ける。
跳ね返され、後続を巻き込んで弾ける光弾は、されど止む事なく、どこまでも苛烈さを増していく。
(ピシッ)
盾が、限界を越える。
「―――――――」
自在式が砕け、天災にも似た轟音が封絶全体を震わせる。連鎖的な爆発が大地を砕き、巻き上がった砂塵が眼下の全てを覆い隠した。
「………………」
星光を躍らせるヘカテーが、緩やかに下降する。それを避けるように、砂塵が吹き散らされて隠されていた景色を顕にする。
そうして、ボロ雑巾のようになってうつ伏せに倒れている討ち手を見つけた。
「(まだ、生きてる)」
そうと気付いて、容赦なく、躊躇もなく、大杖『トライゴン』を振り上げる。
至近からの光弾で、人間として唯一残された器さえも粉々に砕くべく。
その手が、止まる。
「ヘカテー、もういい」
後ろから杖を掴む少年の、酷く落ち着いた声で。
「……悠……二……?」
その声で、我に帰る。逆上していた……これが逆上かと、初めての感情に戸惑いながら、頼りない足取りで向き直る。
「……僕も、こいつは許せない。許せないけど……殺す事ない。ちゃんと話せば、解ってくれる」
諭すように、そんな事を告げて来る。
良くは……無い。こんなに傷だらけで、痛そうで、なのに……
不透明な言葉を声に出せず、ただフルフルと弱く首を振る。それをどう受け取ったのか―――悠二は目の前のヘカテーを抱きすくめた。
「っ……ふぅ……」
今度は、熱い何かが胸の奥から込み上げて来た。何故こんなに無様に心乱すのか、自分で自分が解らない。
でも、どうしようもなくて、揺れる心の振幅に堪え切れずに………
「く……ぅ……ふえぇ………!」
―――少年の胸に隠れて、少しだけ、泣いた。
少し上に持ち上げた指先を、パチンと鳴らす。そこから弾けた火花が封絶内部に飛散し、外界と因果を繋げる事で修復されていく。
「うわぁ、酷いな……あんまり余裕ないんだけど」
「………半分は悠二のせいです」
自分の私闘(と認めざるを得ない)によって破壊された街を直す悠二後ろで、さっきから大きな帽子を目深に被ったヘカテーは背中を向け続けていた。
「………………」
照れているらしい少女を可愛く思うし、あのタイミングで駆け付けてくれた事には感動すら覚える。
……しかし、より切実な戦いの脅威が去った今、胸に去来する感情は、ヘカテーに向けたものではない。
「………平井さん」
ここにはいない、フレイムヘイズによって『この世の本当の事』を告げられた少女。
どうしているか判らないからこその不安と、“今の彼女”に会う事に対する不安。矛盾した感情に胸を痛める悠二………の横から、
「呼んだ?」
ニュッと、いま思い浮かべていた顔が出て来た。
「な――――」
あまりに予想の外を行かれた悠二。戦いの最中でも安定していた封絶が揺れる。ヘカテーに後頭をはたかれた。
「な、なな、ななななななな!?」
かろうじて封絶を維持し直すも、やはり動揺を禁じ得ない。大いに大いに慌てていた。
「………ゆかりが、どうして?」
悠二ほどではないにしても、ヘカテーも両目を見開いている。
得意気に左手を腰に当てた平井は、シュビッと一枚のタロットカードを見せ付けた。
「ヘカテーの部屋からパクって来た!」
良く見ると、平井の全身を淡い光が包んでいる。説明を求める意味を込めて、ヘカテーを見る。
「……悠二の護身用に作っていた、存在の干渉を阻害する式です。まだ、未完成ですが」
「そんなの部屋に置きっ放しにするなよ!」
堪らず叫ぶ。その肩を平井がポンポンと叩いた。
「まま、説教も説明も後にしよ。とりあえずカルメルさん、あたしん家に運ぼう。坂井くんも手当て、しなきゃでしょ?」
封絶という、非日常の象徴たる空間の中で、日常の中と変わらぬ笑顔がウインクを寄越した。
たった、それだけで………
「………判ったよ、平井さん」
―――救われたような、気がした。