「はあっ……はあっ……はあっ……!」
呼吸を忙しなく繰り返し、両手を交互に振り上げ、休みなく足を前に出して、平井ゆかりは走る。
自分でもこんなに速く走れるとは知らなかったと思うほどの、明らかに過去最高のスピードで坂井家目指して驀進する。
「(なんで!? 坂井くん家ってこんなに遠かったっけ)」
だと言うのに、いつもより時間が掛かってしまっている。……まるで、気付かぬ内に遠回りさせられているかのように。
「(まさか、これがフーゼツ? って事はやっぱり……)」
悪い方にばかり考えてしまう頭を振って、さらに加速。50メートル先に見える坂井家の前まであっという間に到着し、革靴の底を擦り減らしつつ停止する。
「お邪魔します!」
「あら、ゆかりちゃん? 学校はどうしたの?」
「ちょっと野暮用で!」
インターフォンも鳴らさず飛び込み、居間からの坂井千草の声にも足を止めず、一直線に階段を駆け上がって悠二の部屋の戸を開ける。
………やはり、悠二は居ない。
「(学校に行ったんなら、何ですれ違わなかった………?)」
とっくに判っている事を自問自答して、そんな自分の頭を小突く。
「(……ここと学校の間に今、フーゼツが張られてる)」
自分はヴィルヘルミナを連れて通学路を歩いていた。坂井悠二は学校に向かっていただろう。そしてヴィルヘルミナは突然いなくなり、自分は悠二やヘカテーに会う事なく坂井家に着いてしまった。
その事実から導かれる現実を認め、そうなった原因に辿り着く。フーゼツとは、人ならざる者たちが戦う為の舞台だった筈だ。ならば当然、今そこで、誰かと誰かが戦っている事になる。
「(……ヘカテー)」
ヘカテーは人間ではない。もはや否定できない現実に多大な衝撃を受けて……より以上の精神力で押さえ込む。
フーゼツが張られてしまえば、もう彼女らに介入できない。現に平井は、恐らくここに来る途中に在っただろうフーゼツに気付く事すら出来なかった。
「……ゆかりちゃん、何かあった?」
「……千草さん」
だが、しかし、
「ヘカテーの部屋、入っても良いですか?」
それで諦められるほど、平井ゆかりという少女は物分かりの良い性格ではなかった。
無数のリボンが雪崩を打ち、白刃の槍衾となって迫って来る。
「く……っ!」
一つ一つ避け切るのは不可能と悟って、悠二は瞬時に力を練り上げる。後方に逃げる悠二の足を軽く上回る刃の先端が届く寸前で………
「だあっ!!」
全身からありったけの銀炎を放出させて、間一髪焼き払った。その直後……炎を放ち炎に包まれた瞬間を狙って、
「っ」
桜に燃える特大の炎弾が、投擲されていた。自らの炎で視界を奪われている悠二は、しかし鋭敏な感知能力でそれに気付き……避けられないと悟る。
先の『爆破』を優に越える威力を誇る炎弾は、銀炎を裂いて容赦なく悠二に迫り、
「……!?」
突然、銀炎と一緒に掻き消えた。何かに阻まれて弾かれたのではなく、水泡が大気に届いたように、忽然と。
「(……『耐火』の宝具、でありますか)」
「(生意気)」
この期に及んで、この未熟なミステスが自在法で凌いだとは考えない。そしてそれは、紛れもない事実だった。
首に提げる形で悠二の服の下に隠されている指輪、『アズュール』。かつて御崎市を蚕食した“狩人”フリアグネから腕ごと奪った“火除けの指輪”の力。
「(……気付かれたよな、今ので)」
悠二もまた、このフレイムヘイズを相手に楽観的な希望は持たない。また一つ、数少ない手札を曝した……そうせざるを得なかった事を歯軋りと共に認める。
「(いや、もう……手札なんて残ってないか)」
強いて言えば『零時迷子』の『戒禁』が通用するかも知れないが、あのリボン……“狩人”の時のように腕をもぎ取れるという期待は持てない。
「(『零時迷子』を欲しがってるなら、すぐ破壊される事はない。やれるトコまで、やってやる)」
自力で逆転する術はもう無い。今の悠二に残された選択は唯一つ、ひたすら時間を稼ぐ事。
「(……結局最後は、頼る事になるわけか)」
それでも、少しは褒めて欲しい。そんな情けない感慨を抱きながら、悠二は両手に炎を燃やす。―――ただ一心に、水色の少女の到来を信じて。
箸先に摘んだタコさんウインナーを口に運び、食す。
「………イマイチです」
旅の醍醐味の一つという駅弁を座席で味わう、近衛史菜こと“頂の座”ヘカテー。紅世の徒にとって食事は娯楽以上の意味を持たないが、今のヘカテーはこの行為に並々ならぬ関心を示している。……もっとも、田舎の駅で購入したこの弁当はかなり手抜きだが。
「(……学校に行っても、今日はおば様のお弁当が無い)」
これはもしや、学食とやらに赴く日が来たのではなかろうか。期待と不安に瞳の光を揺らめかすヘカテーはふと、窓の外に見慣れた時計塔を見つける。
一人で電車に乗るのは初めてだったが、どうやら思ったより早く御崎市に到着したらしい。手早く弁当を平らげ、そのゴミをまとめて自動ドアまでテクテク歩いて開門を待つヘカテー。
しかし、
「っ!?」
自動ドアは開く事なく、速度が緩む事もなく、電車は御崎市を素通りした。
「あぁ………」
何を間違えたのかも判らないヘカテーを置き去りにして、電車は無情にも御崎市から遠ざかる。
次の駅で乗り換えて、今度こそ駅員に確認しつつ御崎市に……と、頭を悩ます少女は―――
「っ……これは……」
ふと、動転して気付かなかった気配を、後れ馳せながら感じ取る。
「…………封絶?」
―――異能者たちの、戦いの気配を。
「いっ……が……ぐぅ!?」
猛スピードで何度も路面を身を跳ねさせて、坂井悠二が転がっていく。
「(う―――――)」
転がる最中、上空で旋回する万条の雨が見えた。咄嗟に地を叩いた掌に爆発を起こし、体勢などに気を回す余裕もなく自ら吹っ飛ぶ。
間一髪の所で白刃の暴威から逃れるも、リボンは路面に突き刺さる事なく矛先を曲げ、逆さまに空中を舞う悠二に向かって加速した。
「くっそぉ……!」
回避不可能な攻撃を前に、悠二は全身から銀炎を爆発させてリボンを焼き散らした。
頭から落ちそうなところを、何とか左手一本で着地する。曲がった肘を伸ばす勢いですぐさま後方に跳び、漸く地面に足を着く。
「この程度の存在が、現在『零時迷子』を蔵している……」
「ミステス」
その正面、戦いの最中とは思えない涼しい物腰で、ヴィルヘルミナが近付いて来る。明らかな侮蔑を向けられていると判っても、悠二には言い返すだけの気力が無い。
必死に逃げ回り、容易く追い詰められ、避け得ぬ攻撃を炎で払う。……こんな攻防を、もう何度繰り返しただろうか。
相手が使う必要最低限の力を、がむしゃらに放出するような無駄な力で防ぐ。こんな事を続けていれば、すぐに力尽きてしまうと判っていても、そうする事でしか防げない。消滅はまさに、時間の問題だった。
「……現在? まるで、『零時迷子』のミステスを他にも知ってるみたいな言い草だな」
会話によって時間を稼げないか。そんな淡い期待に返されるのは、鬣から伸びるリボンの槍衾。
「(一か八か……)」
下手に逃げても捕まるのならと、槍衾に向かって一直線に突っ込む悠二。その全身から灼熱の銀炎が燃え上がり、触れた端から万条を薙ぎ払う。
「(これなら、どうだ!)」
その炎を、魔剣『吸血鬼(ブルートザオガー)』にも纏わせる。如何なる技巧を持っていようと、触れられなければ意味が無い。………という悠二の狙いを、
「それで私の技を防いだつもりでありますか」
「浅慮」
当然、ヴィルヘルミナは読んでいる。純白のカーテンを払い、拓けた視界の向こうで、両手を掲げた頭上に特大の火球を形成する討ち手の姿が見えた。
「(『炎弾』……!?)」
逃れ得ない威力を肌に感じて、しかし悠二はそこに勝機を見出だす。火球が投げ放たれた瞬間……足裏から爆発を起こして一気に加速し、火の中に自分から飛び込んだ。
「(構わない)」
それと同時、『アズュール』による火除けの結界で炎弾を掻き消して、そのまま一気に――――
「ッッ……!?」
そう意気込む悠二の身体が……いきなり吹っ飛んだ。
「あ―――――」
突撃の勢いを逆手に取られたような衝撃に運ばれ、肩から硬いビルに叩き付けられる。
そうして初めて、自分を壁に“貼りつけて”いる物に気付く。
「ぐ……うぁ……ッ」
リボンで編まれた純白の槍。それが交叉法で悠二を捉え、肩を貫通してビルの壁に串刺しにしていた。
「(炎弾は、囮……!)」
そんな、磔にされた罪人に等しい状態を、ヴィルヘルミナが見逃すわけもない。即座にリボンの刃が、無謀な少年の四肢を貫いて固定する。
「っ―――――!!」
声にならない叫びを上げて暴れる悠二、その眼前に、仮面の討ち手が降り立った。
「『約束の二人(エンゲージリンク)』」
痛みを越える恐怖によって動きを止める悠二に向けて、仮面の奥から静かな声が紡がれる。
「『零時迷子』を宿したミステスの少年と、彼を愛した紅世の王。彼らは……私の友だった」
「…………………」
今という時に告げられる言葉に、悠二は声に出さず驚愕する。そう……今まで考えた事も無かったが、『零時迷子』が悠二に転移して来た以上、元の持ち主は既に………
「しかし数ヶ月前、私と彼らは強大な敵の魔手に掛かり………敗北した。生き残ったのは、私一人であります」
予想に違わず、残酷な過去が告げられる。冷徹な声が、微かに震えているように思えた。
「消滅の直前、奴は見た事も無い自在式を『零時迷子』に撃ち込んだ。それは『戒禁』をも巻き込んで異様な変貌を遂げ、彼の存在を蝕んだ」
「ぁぐ……!?」
悠二の四肢を貫いたまま、リボンがゆっくりと引き上げられる。
「誰が何の目的で奴を差し向けたかは判らない。だが『零時迷子』を、彼らの絆を……何者にも汚させはしない」
純白のリボンが幾重にも編まれて、ヴィルヘルミナの腕を覆う。それが『戒禁』への防御と知って、悠二は今度こそ消滅の危機に戦慄く。
「“貴方”に恨みは無いのであります。しかし、『零時迷子』をこのままにはしておけない。彼の為にも、彼女の為にも、そして……必ずこれを狙って再び現れる、“壊刃”サブラクを討つ為にも」
リボンと自在式で武装された右腕が振り上げられ、
「宝具『零時迷子』、貰い受けるのであります」
一瞬の躊躇もなく、突き出された。