体ごと右足を引いて、拳撃の軌道から身を外す。顔のすぐ横を過ぎる拳、その風切り音から尋常ならざる破壊力を見て取るヴィルヘルミナの至近……腕の長さ程も無い距離から、続け様に少年のボディーブローが繰り出される。
「(芸が無い)」
その豪腕に逆らわず、ヴィルヘルミナは少年の肘を軽く上に押した。たったそれだけの動作で拳撃は行き場を見失い、少年は面白いように一回転する。
「く……っ」
路面に頭から叩きつけられる寸前、少年は逆立ちに左手を着いてこれを凌ぐ。そのまま右手で炎弾を投擲、銀の爆発が狭い路地で弾けた。
「………ふむ」
当然のように爆発から逃れてアパートのベランダに着地したヴィルヘルミナは、爆煙の中に居るだろうミステスを見下ろして顎を摘んだ。
「(………これは、どう判断すべきでありましょうか)」
「(奇怪)」
力の統御や自在法の行使は十二分に出来ている。だと言うのに、それに不似合いなほど体術の方はお粗末だ。一体どんな経緯を経れば、こんなミステスが出来上がると言うのか。
「油断大敵」
「解っているのであります」
はっきり言って敵じゃない、とは思うものの、保有する力の総量だけは並ではないし、まだ身に宿す宝具の能力も判っていない。体術が未熟と言うだけで楽観は出来ない。
「………む」
だと言うのに、またミステスは真っ正面から跳び掛かって来た。
「はあっ!!」
撃ち放った炎弾がアパートを中途から貫通し、その余波で上部を崩落させる。
銀炎と砂塵が舞い踊る中、悠二は視覚ではない感覚でフレイムヘイズの気配を捉え、足裏に爆発を起こした跳躍によって殴り掛かった。
ヘカテーにも評価された怪力による一撃は……虚しく空を切る。代わりに手首に巻き付いた一条のリボンが、悠二を小石のように軽々と投げ飛ばした。
「――――――」
視界も定まらぬ回転の果てに、大通りの路面に背中から墜落する。遠くなる意識の中で、飛び散るアスファルトの破片がやけにゆっくり見えた。
「(強い………体術だけなら、ヘカテーよりずっと………)」
軋む身体を起き上がらせる。頭のどこかを切ったのか、一筋の血が眉間を流れて顎から落ちた。
「(やっぱり、まともに戦っても勝ち目は無い)」
しかし悠二は、圧倒的な窮地であるにも係わらず、自分でも意外なくらいに冷静だった。
平井を巻き込まれた激昂も、絶望的な敵への恐怖も間違いなく在るのだが……それらを完璧に御するだけの理性が残っている。
「(頭に血が上って突撃するだけのガキ、そういう風に思わせるんだ。接近戦に狙いがあるって、悟らせないように……)」
考えを整理しながら立ち上がる間に、悠二を追って来たフレイムヘイズが降って来る。高さも重さもまるで感じさせない着地で、華奢な外見からは考えられない威圧感を放って来る。
「思ったより頑丈でありますな。これなら、もう少し力を込めても壊れはしないでありましょう」
ミステスの破壊は、中の宝具の無作為転移を意味する。宝具を回収するという敵の意思を確認しつつ、悠二は両の掌に火球を燃やした。
それを放つ……よりも速く、
「う……!?」
非情なる討ち手の背中から、数多のリボンが一斉に襲い掛かって来た。
一条は最短に、またある一条は弧を描き、迂回し、地を這い、螺旋を巻いて、刃の如く硬質化したリボンが八方から迫る。
「む……っ」
直線に飛んで来た切っ先を、首を捻って躱す。旋回して左右から迫るリボンを、前に跳んで避ける。着地と同時に足裏に爆発を起こして地を這って来た刃を焼き散らし、爆発による後方への離脱で頭上から降って来た連撃から逃れた。その勢いを逆手に取って串刺しにせんと唸る背後からの槍衾を………
「っだあ!!」
悠二は振り返りもせず、左手に燃やしていた炎弾を放つ事で薙ぎ払った。
「………?」
体術の未熟さと不釣り合いな反応。その動きを訝しむヴィルヘルミナに向かって、またも悠二は一直線に突っ込んで来る。
「(やはり、子供か……)」
本来はもう少し戦えるのかも知れないが、平井ゆかりの件で我を失っているのだろう。そう結論づけて、ヴィルヘルミナは再び万条を悠二へと伸ばす。
「うおっ! ……?」
今度は逃がさない。脇を過ぎる純白の刃の甘さに悠二が疑問を抱く隙に、十重二十重のリボンが悠二を襲い、躱され―――
「っ……しまった」
“外れた攻撃”によって編まれた白条の刃が、蜘蛛の巣のように少年の全周を囲んでいた。その表面に桜色の紋様が浮かび上がり………
「うわああぁっ!?」
『爆破』の自在式が弾けて、余波で大通りの両脇の建物の窓ガラスを軒並み叩き割るほどの大爆発を巻き起こした。
「(やり過ぎたか―――)」
ミステスを破壊してしまったかも知れない、そんな危惧を抱くヴィルヘルミナの視界を―――間髪入れず、爆炎の中から猛スピードで飛んで来た巨大な何かが埋めた。
「(車……!?)」
それが、桜色に燃えたワゴン車であると気付いた瞬間、歴戦の討ち手はそれを“投げ返していた”。
全く勢いを殺さず、どころかヴィルヘルミナが加えた力分の加速を得た鉄塊は………追撃として放たれていた炎弾に直撃し、融爆する。
「(今の『爆破』が、効いていない……!)」
至近からの爆圧に押されて堪らず後退する。敵の姿を気配で探る……という呼吸同然の対処、よりも早く―――
「(上っ!)」
存在の感知ではなく、洗練された直感に従って、ヴィルヘルミナは右掌を突き上げ、即座に炎弾を撃ち放つ。
それは違わず、頭上から降って来ていた銀の炎弾に直撃し、鮮やかな銀と桜の花弁を舞わせた。
―――その、背後。
「(ここだ―――)」
爆炎に紛れ、陽動に隠れて、坂井悠二はそこに居た。
右手に在るのは、一枚のタロットカード。
「(これで、決める)」
低い姿勢から逆袈裟に振り上げる動きの途上で、カードは銀に燃えて姿を変えた。
新たに握られたのは、幅広の刃を持つ西洋風の大剣。
「(『吸血鬼(ブルートザオガー)』!!)」
背後から振り上げられた容赦ない斬撃は、
(ガキィ……!)
しかし『戦技無双の舞踏姫』とまで呼ばれる討ち手に通じず、構えたリボンに受け止められた。
「(良し……!)」
だが、最初から悠二もこの程度で倒せるとは思っていない。ガードさせる事こそが真の狙い。
「(終わりだ……!)」
宝具『吸血鬼』。
触れた者を、刃から伝わる存在の力で斬り刻む魔剣だった。
その刃に、血色の波紋が揺れ――――
「え………」
たと、思った刹那―――
「ぐあっ!?」
悠二の視界が無茶苦茶に回転し、気付けば路面に大の字に倒れていた。
慌てて立ち上がり、自らの放った必殺の一撃の結果を目にして……絶句した。
「……なるほど、これが狙いでありましたか」
「小癪」
『吸血鬼』から流し込めた力はほんの一欠片、フレイムヘイズの頬を浅く裂いたのみで終わってしまっていた。
「(あれだけやって、防御させる事も出来ないなんて……)」
唯一と言って良い勝機を逃した事に少なからず動揺を覚える悠二に、ヴィルヘルミナはさらなる絶望を与える。
「……その剣、“愛染”の片割れが持っていた宝具でありますな」
これ以上ないほど、意表を突かれる形で。
「あの兄妹が“お前”ごときに討滅されたと言うのも、俄かには信じ難い話でありますが」
淡々と語る討ち手の言は、正しい。
この『吸血鬼』は元々、ヘカテーを狙って現れた“愛染自”ソラトの大剣であり、もちろん悠二が倒したわけでもない。
「(そんな……! 元から知ってたのか……!?)」
隠しておいた切り札が、最初から敵に知られていた。成功以前に作戦自体が無意味だったという理不尽な結末に、悠二は大剣の柄を軋ませる。
「しかし、妙でありますな」
一歩、フレイムヘイズが足を進める。それに気圧されて、悠二も同じく後退る。
「その剣は“愛染自”の宝具。ならば当然、お前は自身の宝具を別に持っているはず。何故それを使わないのでありますか」
「っ………」
言われるまでもない。
使える物なら使いたい。しかし悠二に宿る宝具は、こと戦闘に関しては全く役に立たない。
「……使いたくとも使えない、という事でありますか。何故それだけの存在の力を得るに到ったかは謎でありますが……どうやら戦闘用のミステスではないようでありますな」
歯軋りして黙り込む悠二の態度を見て、ヴィルヘルミナは自身の推測が正しいと確信する。それと同時に、何かが引っ掛かった。
「(………“封絶の中で動く、戦闘用ではないミステス”?)」
ミステスと言えど、その全てが封絶の中で動けるわけではない。むしろ無作為転移して来た殆どのミステスは、他のトーチと同様 何に気付く事もなく消える。
「(まさか………)」
しかし一つ、一つだけ……ヴィルヘルミナにはその例外たる宝具に心当たりがあった。
「……『零時迷子』」
「……だったら何だ」
その呟きに、何を思うでもなく、悠二は応える。今さらハッタリで何とか出来る相手ではなく、元々隠す理由も無い。
その応えが、しかし………
「ッッ!?」
眼前のフレイムヘイズに、火を点けた。
今までとは比較にならない存在感が膨れ上がり、悠二にも判るほどハッキリと表情が変化する。
「……ここからは遠慮容赦一切無用、神器『ペルソナ』を」
頭上のヘッドドレスが変質し、狐を模した仮面となって彼女の顔を隠した。その縁から溢れる万条が、鬣のように風に靡く。
「不備無し」
「完了」
そこに立っていたのは、戦技無双と謳われた仮面の討ち手。悪夢では決して無い夢の世界の住人だった。
「宝具『零時迷子』、回収させて貰うのであります」
―――万条の暴威が、迫る。