いつもより少し遅い坂井家の夕食。いつもなら母と二人で食べる食卓の席に、本日はとびきり変わった客人が追加されていた。水色の髪と瞳に白の法衣、マナーとして大きな帽子は外している小柄な少女である。
この、どう見ても一般的な日本人ではない少女を連れて来た際に、悠二が母・坂井千草にしたのは……
『………道に迷って困ってたし、泊まる場所も無いって言うから連れて来たんだ』
という、説明にもならない説明だった。それも仕方ない。頭を捻って色々な作り話を考えてはみたが、その全てが信憑性の欠片も無い胡散臭い言い訳にしかならなかったのだから。
何も訊かずにおいて欲しいという悠二の願いを知ってか知らずか、千草は快く……というより大喜びで少女を遇した。大らかなのか呑気なのか判らない母の性格が、こんな時は物凄く有り難い。
「………………」
依然として、少女の表情に変化は無い。しかし右手にフォークを、左手にナイフを、取り皿を挟んで垂直に握っている様子からして、少なくとも不機嫌であるようには見えない。むしろ夕食を待ち侘びているようにすら見える。
「ちょっと悠ちゃん、運ぶの手伝ってくれる?」
お呼びが掛かったので、何だか気怠い身体を立たせてキッチンに迎う悠二。そこに、嬉しそうな笑顔でオムライスを完成させた母の姿。
胸に灯火は、無い。帰ってすぐに確認した事実を再び認めて、悠二はバレないように安堵した。と同時に、“自分の事”を思い出して落胆した。
「この上オムライスまで、作り過ぎだろ!?」
「悠ちゃんがガールフレンドを連れて来るなんて初めてだもの。お母さん頑張っちゃった」
知らぬ間に、とんでもない誤解が生まれていた。さらに三割増しの笑顔になった母に何か文句を言おうとして……止めた。ここで慌てても、照れ隠しとか言われるのは目に見えている。
「はいはい。食べきれなくて残っても知らないからね」
「も〜照れちゃって、貫太郎さんとの事を思い出すわ〜」
どちらでも同じだった。いつもの惚気話に突入する前に足早に食卓へと避難すると、先に並べられていたエンドウの湯葉巻き揚げが一つ減っていた。少女は先ほどと同じポーズのまま、素知らぬ顔で座っている。
「………食べた?」
「何をですか」
無表情の上にも無表情に、少女の即答が反射した。別にいいけど、と呟いて、悠二はオムライスを置いて席に着く。それは千草も同様で、人の良さそうな笑顔で「まあまあ」などと言っている。
「待たせちゃってごめんなさいね。それじゃ、えっと………」
椅子に座った千草の言葉が、止まる。それが、呼び方に困ったのだと気付いた時――――
「(………あっ)」
慌てるよりも先に、悠二は自分自身に呆れた。名前に関するフォローを入れるどころではない。あれだけ衝撃的な『真実』をいくつも教えられたというのに、悠二はまだ彼女の名前すら訊いていなかったのだ。
「……近衛史菜です」
そんな悠二の内心の動揺など意に介さず、少女はあっさりと……悠二の懸念など必要なかったような無難な名前を口にした。
「うん。なら、近衛さん。たんと召し上がれ」
千草の一言を合図に、「いただきます」もなく少女のフォークがブリ大根の煮付けに伸びる。無表情に……いや、何かに衝き動かされるような真剣な顔で次々と料理を攻略していく少女の姿に、今度こそ千草は満面の笑顔を咲かせた。
「(……こんなのも、悪くないな)」
悠二もまた、その一生懸命な食べっぷりに僅か胸を解きほぐされる。
「(……………これさえ、無ければ)」
全ての暖かさが反転させる灯火を宿す胸に、悠二は我知らず爪を立てていた。
夕食を終え、食器を引き、少女が何故か千草と一緒に風呂に入った後、
「それで、君の本当の名前が知りたいんだけど」
悠二の部屋で、悠二のジャージを着た少女に向けて、悠二は漸くそれを訊いていた。
「“頂の座”ヘカテー。それが私の名前です」
「ヘカテー、か」
あれだけ色々と話してくれたのに名前だけ言えないという事もないだろうという予想に違わず、少女……ヘカテーはあっさりと教えてくれた。
「じゃあ、ヘカテー」
そうして、目の前の少女の名称をはっきりさせてから、問う。―――自分が今まで、目を背けて来た問題から。
「君は一体、“何”なんだ」
千草がヘカテーの名前に着目した時、悠二は自分が彼女自身について何も知らない事に気付いた。それから夕食、食器洗い、入浴と、考える時間は十分にあったのだ。
余計な前置きも、小賢しい探り合いも無意味。それだけの、絶対的な力の差がある。今の悠二に判るのはヘカテーの力と、守ってくれた事実と、そして……紅世の徒の存在だけ。
間違いなく人間ではない。まだ悠二の知らない別の何かなのか、それとも………
「…………………」
不安と等量の、期待。
化け物を倒して、助けてくれた。不要な手間を裂いて、この世の真実を教えてくれた。判りにくいけれど……人間味のある一面を見せてくれた。
「紅世の徒……人を喰らう事でこの世に存在する、“隣”の住人です」
―――そんな希望は、いとも容易く砕け散った。
「…………………」
可能性の一つとして覚悟していたからか、問い掛ける前に恐れていたほどの衝撃は、無かった。
「君も……人を喰うのか……?」
「必要とすれば、喰らいます」
それも少し、違う。
一縷の望みが砕かれた落胆と失望は、確かに今も身体全体を冷たくさせている。
「……どうして僕を、助けたんだ……?」
「貴方の宿す宝具が必要だからです」
だけど、そんな深い絶望を遠くから見つめているような、不思議な冷たさがあった。
「…………………」
「…………………」
そこで、言葉は途切れる。訊きたい事が沢山あったはずなのに、彼女の正体を知った今、それが正しい事なのかどうか判らなくなった。
黙り込んでしまった悠二の態度を会話の終わりと判断してか、ヘカテーはすっと立ち上がってドアへと向かう。
「待―――」
「貴方の母を喰らうような真似はしません」
咄嗟に出た制止の声を一方的な言葉が遮り、バタンと閉じた扉が会話の続行を封じた。
「喰わない、か………」
その保証に、一体どれほどの意味があろうか。相手は人喰いの化け物、人間……いや、トーチとの約束など平然と破って何の不思議も無い。
だが、それ以前に……あんな言葉自体が不要なのだ。悠二の意思も抵抗も、全てを無視して実行する力が彼女にはあるのだから。
仮にヘカテーの気が変わって千草を喰おうとしたところで、悠二にはどうする事も出来ない。むしろ、ヘカテーを警戒する余りに彼女の機嫌を損ねる方が怖かった。
「(………紅世の、徒)」
それでも、心配である事に変わりは無い。
結局悠二は、嫌な想像を何度も繰り返しながら、一人でひたすらに背筋を冷やしながら、しかし先の考えに従って行動に移さず、電気も消さずベッドにも行かずに長い長い夜を明かした。
明くる土曜の朝、10時。真南川を跨いで御崎市を南北に二分する大鉄橋・御崎大橋の上を、大小の影が並んで歩く。
言わずもがな、恐怖と自責に苛まれて殆ど一睡もしていない坂井悠二と、千草と同じ布団の中で心地好い安眠を堪能したヘカテーである。
わざわざ出歩いているのは、別の徒を探しての事ではない。無駄な努力と知りつつ千草とヘカテーを引き離す作業の一環だ。
「(………これが普通、なのかな)」
一晩悩み続けて気持ちが麻痺しているのか、それとも諦めの境地にでも入ったのか、悠二は殆ど平然とヘカテーと一緒に歩いていた。昨晩、ヘカテー自身の口から彼女は紅世の徒だと聞かされているにも関わらず。
「(……僕って、実はかなりドライな奴だったのかも)」
そんな自分にゲンナリする。昨晩の事にしても、普通は理屈で解っていたとしても『居ても立ってもいられない』状態になるものなのではないだろうか。
………しかしまあ、そんな事は目先の脅威に比べれば余りにも些細な悩みだ。
「つまり昨日の化け物は燐子って奴で、紅世の徒の手下。もっと強くて危険な親玉がいる、と」
「……はい。あれだけ精巧な燐子を複数操っていた以上、恐らくかなりの力を持つ『王』でしょう」
ヘカテーは昨日と変わらない。一つ訊けば気になる事を全て答えてくれるし、無口なわりには理路整然とした説明をしてくれる。
「(こんな事聞いても、意味無いのかも知れないけど)」
どうせ近い内に消える残滓。聞いたところで何か出来るわけではないし、何を残せるわけでもない。
「……ヘカテーって、結構説明上手だな」
「この世に渡り来た徒に訓示を授けるのも、私の役目の一つでしたから」
それでも悠二は、ヘカテーに話し掛ける。彼女にとって自分が、『宝物の入った容れ物』でしかないとしても。今もそう、ヘカテーが悠二について来ているのではない。悠二がヘカテーを連れ出した。そして、それはきっと……母を案じての事のみではない。
「(………ああ、そうか)」
母の姿を思い浮かべていると、唐突に胸の奥に落ちる納得があった。
坂井悠二はトーチ。燃え尽きれば、母親からも忘れられる陽炎。後には何も遺らない。しかしそれは、この世のものに限っての事。
誰の記憶からも消える。そんな事が言えるのは、記憶の消えない者だけだ。でなければ、消えたかどうかすら解らないのだから。
「(ヘカテーになら、残せるんだ………)」
誰かに憶えていて貰える。つまり坂井悠二は、それを欲しているようだった。
―――たとえ、それが紅世の徒だとしても。