『宝の蔵(ミステス)』には、大きく分けて二つのタイプが存在する。
一つは、人間が喰われた後の代替物に宝具が転移して来ただけの、トーチ自体の力は皆無に等しいミステス。
そしてもう一つは、宝具を核として紅世の徒の手で意図的に制作される“戦闘用のミステス”。
徒が下僕として生み出す燐子は、主に忠実ではあるが作成が難しく、明確な自我を宿した燐子を生み出せる徒は少ない。その点、人間を基に造り出すミステスならば、誰が造ろうと一定以上の自我と知能を持っている。
故に徒の中には、燐子の代わりにミステスを造って使役しようとする者もいる。そうして、戦闘用のミステスは造られる。
戦闘用のミステスは通常のミステスと違い、その者が持つ過去、現在、未来、それら全てに広がる『運命という器』の総量ほどの力を持って誕生する。
中には、制作者たる徒の力さえも上回り、討滅してしまう者さえ存在する。
過去の前例を挙げれば、『天目一個』、『異形の戦輪使い』、そして……『永遠の恋人』等がこれに充たる。
その日、坂井悠二は焦っていた。原因は一つ、絶賛居候中の紅世の徒……ヘカテーの不在。
昨日までは、彼女が居ない事をそれほど重く考えてはいなかった。……と言うより、居ないと考えてすらいなかった。家に居なくとも、学校に来なくとも、異質な気配が常に御崎市に在ると感じていたから。
その気配が―――今朝起きたら消えていた。
「(……ヘカテー、どこに行ったんだろ)」
そうなって初めて、悠二は慌てた。最近では珍しくもないランニングと称して家を飛び出し、彼女が立ち寄りそうな場所を一通り回ってみたものの、結果は全て空振り。おまけにタイムオーバー。
時間に気付いてとりあえず家に帰ったものの、既に一時限目の授業には間に合わない。今さら急ぐのも馬鹿らしくなって、人気の無い静かな通学路を気怠げに歩く悠二だった。
「(こんな事なら、昨日の内に捕まえとくんだった。これじゃ居ないのか隠れてるのかも判らないし……)」
用が無くなって御崎市を去った……とは思わない。彼女の欲していた『零時迷子』の自在式を剥がれた覚えは無いし、本当に去るのなら適当な置き手紙など残さないだろう。と、この一月で把握した彼女の性格から判断する。
………それでもやはり、「もしかして」という気持ちが胸の奥で騒つく。
「(本当にヘカテーが居なくなったら………)」
人間として生きてはいけない悠二にとって、ヘカテーだけが“外れた道”で頼る事の出来る拠り所……そんな、依存にも似た情けない感傷を心中で否定して……「ならヘカテーと離別しても構わないのか」という言葉が浮かんで頭を抱える。
自分の先も、自分の今も、揺れるばかりで心底イヤになる少年は………
「…………ん?」
進む先、車も殆ど通らない路地の突き当たりに、不自然なものを発見した。こんな寂れた場所には不似合いな、妙にファンシーな白キツネの着ぐるみである。
「(まさかヘカテー……なわけないか。明らかにサイズ違うし)」
それを訝しみつつも深く考えず、何をするでもなく脇を通り過ぎようと思う悠二の眼前で………
「……ふむ」
抑揚に乏しい声と同時、唐突に着ぐるみの姿が“解けた”。
無数のリボンとなって散逸した着ぐるみの中から姿を現したのは、桜色の髪と瞳を持つ美しいメイド。
「ッ……!?」
その現象や姿ではなく、一瞬にして膨れ上がった気配を感じて、悠二は慌てて跳び退いた。
中の湯が沸騰したヤカンの蓋を開けた時のような、隠されていた力の発露。この世のものでは在り得ない、圧倒的なまでの存在感。
「まさか、ミステスの気配だとは思わなかったのであります」
「予想外」
無感動な声に、更に無感動な声が応える。そんな不思議なやり取りに、悠二は疑念を抱く余裕が無い。
「(徒……!? 気配は感じなかったのに……隠してた? それとも……)」
人ならざる存在が目の前にいる。ただ、その事実を整理するだけで いっぱいいっぱいだった。
「(……いや、ちょっと、違う)」
ふと、気付く。
いま感じている気配が、ヘカテーやメリヒムから感じた『違和感』とは少し違うという事に。
異常な存在感そのものは変わらない。ただ、“ここに在る事そのものがおかしい”という異質な気配が無い。その感覚が……
『人間の器に入った紅世の王』
以前ヘカテーに聞かされた話の記憶と、直結する。そうして、確答へと辿り着く。
「フレイムヘイズ……なのか?」
「……やはり、ただ宝具が転移して来ただけのトーチではないようでありますな」
「戦闘用」
悠二の質問に直接は応えず、頭上のヘッドドレスと確認らしき言葉を交わす“フレイムヘイズ”。その、お世辞にも友好的とは言えない態度に悠二は緊張を強める。
それに気付いていないわけもないだろうに、フレイムヘイズは無表情な顔を無遠慮に近付けて悠二の眼を覗き込んだ。
「しかし、自我を奪われているようにも見えない。制作者を討滅したという事でありましょうか、こんな子供が……」
「不可解」
さっきから、このフレイムヘイズは一言も“悠二と”会話していない。その事実に、悠二はいつかのヘカテーの言葉を思い出していた。
『フレイムヘイズは必ずしも人間やミステスの味方ではない』
徒の理屈だと、話半分にしか受け取っていなかったが、こうして直に目にして理解する。このフレイムヘイズは……自分を本当に“物”だとしか思っていない。
「……昨日から街に在った気配は、あんたなのか」
その事実に十人並のプライドしか持たない悠二も自尊心を傷つけられるが、努めて平静に訊くべき事を訊く。
こうして目の前にして気付いたが、昨日から街に感じていた気配は……いま肌に感じている存在感と同じもの。とすれば……ヘカテーは今朝ではなく、昨日から御崎市に居なかった事になる。
「二、三、質問させて貰うのであります」
やっと声を掛けられた……が、やはり会話にはなっていない。この対応を見て、悠二は眼前のフレイムヘイズに対する一切の期待を捨てた。
「(……逃げられるか?)」
気圧されるように一歩、足を下げる。日々の鍛練で身に付けた統御力を、ただ脚力のみに発揮しようとして………
「貴方を造ったのは、“近衛史菜”でありますか?」
「………は?」
続けられた言葉に、思わずその足を止めていた。
造られた、という言葉に対してではない。街の異常をヘカテーの仕業だと疑っているのなら、トーチである悠二を造ったのがヘカテーだと思うのは不思議ではない。問題は、その後、
「(近衛……史菜……?)」
何らかの方法で徒の気配を……百歩譲ってヘカテーの存在を察しているまでなら良い。だが何故、ヘカテーが人間として紛れ込む為に使っている偽名の方を知っている?
「その名前を、どこで聞いた………」
嫌な予感が、あった。
―――それは、感じたままに現実となる。
「平井ゆかり嬢であります」
「――――――――」
瞬間、目の前が真っ赤になった。
「………彼女に、どこまで話した……」
声が、身体が、震える。
自分が喰われたと知った時以上の、途方もない憤激によって。
「…………………」
沈黙が、聞きたくないと願った応えを肯定する。
「………どうして、彼女を巻き込んだ」
どうしようもなく煮え滾る身体とは逆に、頭は急速に冷えていく。
「……平井ゆかり嬢は、自身の意思で真実を求めた。我々を責めるのは筋違いである以上に、彼女への侮辱であります」
日常の中で輝いていた、そこに在り続ける筈だった眩しい笑顔が、暗い帳に覆われていくように思えた。
「今度はこちらの質問に応えて貰うのであります。近衛史菜は……」
「黙れ」
自分には気配を隠す術が無い。よしんば上手く逃げられたとしても、またすぐに見つかり、捕まる。“こんな奴”が、トーチに同情して宝具を捨て置くなど考えられない。
爆発寸前の怒りが、氷のように冷えた理性によって、一つの意志へと結実される。
「許さない………!」
陽炎の壁が日常と非日常を断絶する。燃える炎は、燦然と輝く―――銀。
「………“銀”?」
『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルは、鉄面皮の内で密かに驚愕していた。
ミステスが激昂した事にでも、封絶を展開できた事にでもない。その中に燃える炎の色に、である。
「(“銀”の正体がミステス……いや、それともこの少年を喰らった徒が……?)」
悠二には知る由も無い事だが、この銀というのは凡百の炎ではない。数百年を生きるヴィルヘルミナでさえ正体の端すら掴めていない謎の徒の炎だった。
その色にヴィルヘルミナは僅か警戒を強め、しかし過不足なく敵の戦力を見極める。
炎の色も、相手の正体も関係ない。向かって来るなら屠るのみ。
実のところ、悠二の認識は正しかった。いずれ徒の手に渡って脅威と成り得るかも知れない宝具をみすみす放置する選択肢など、ヴィルヘルミナは持っていない。
「(とは言え、もう少し情報を引き出しておくべきだったでありましょうか)」
「(迂闊)」
まだ近衛史菜の行方について訊き出せていない……が、大した問題ではない。“これ”を確保してしまえば、遠からず向こうの方から仕掛けて来てくれる。
それら、数秒ほどの思考を遮るように………少年の右腕から銀炎が轟然と燃え上がる。
「はあっ!!」
そうして湧き上がった炎の全てを、人間大の火球に固めて投擲して来た。
しかしもちろん、馬鹿正直に飛んで来る炎弾などに当たる『万条の仕手』ではない。
横っ跳びに避けた背後で、直撃を受けた民家が丸ごと吹っ飛んだ。
その回避を読んでいたように、少年がヴィルヘルミナの目前に迫っている。ギリギリと固められた拳が、容赦なく鉄面皮の真ん中目がけて振り抜かれて―――
「うわあっ!?」
拳撃を繰り出した悠二の方が、物凄い勢いですぐ傍のコンクリート塀にぶつかり、それをぶち貫いて民家に叩き込まれた。
「(? 今のは……)」
微かな違和感を覚えるヴィルヘルミナの背後で、民家が一瞬にして炎上する。
―――灼熱の銀を全身に纏って、怒りに燃える少年が挑み掛かって来た。