ゴールデンウィークも明けて五月に入り、そろそろ新しい友人にも慣れようかという頃。吉田一美は今日も常と変わらぬ穏やかな昼休みを過ごしていた。
「ふぁ……よく寝た」
四時間目の授業が終わると、集まった皆がガタガタと机をくっつけて いつもの風景を作り出す。
「さっきの古文、課題出てたぞ。明日までに提出だって」
大柄な体格の圧力を感じさせない愛嬌のある男、田中栄太。
軽薄な態度にも不思議と嫌悪感を持たせない……一応“美”を付けてもいい少年、佐藤啓作。
公正明大にして他人への気配りを欠かさないスーパーヒーロー、メガネマン池速人。
天真爛漫が服を着て歩いているような幼馴染み、平井ゆかり。
入学から微妙にズレた時期に転校して来た、世慣れない雰囲気の水色の少女、近衛史菜……愛称はヘカテー。
そして………入学式を迎える前に一目惚れした、坂井悠二。
みんな気の好い友人であり、ゴールデンウィークには一緒に旅行にも行った。中学時代、机に座って本ばかり読んでいた吉田にとっては、正しく望むべくもない状況であるとも言える。………が、今の彼女はそれで満足する事は出来なかった。
「ど、どうぞ………」
自分も池らと同じく、平井の隣に机を合わせて、その正面に座る悠二に、いつものように手作りの弁当を差し出す。
「あ、ありがと……」
もう習慣と言っても良い出来事が、それでもやはり慣れないのか、悠二は照れ臭そうな笑顔を浮かべて受け取った。そんな些細な事でも嬉しくて、思わず笑みが零れて……そんな自分を内心で叱り付ける。
「(こんなつもりじゃ、ないのに)」
二週間近く前、体育教師から助けてもらった事を口実にして初めて弁当を渡した時は、こんな細やかな日常を求めていたわけではない。
それこそ、出来る事なら告白してしまいたいくらいの気持ちだったし、クラスの大半は告白同然に受け取った。………しかし今は、見慣れた光景に誰一人、反応すら示さない。
「(嫌われてはない、と思うけど……)」
精一杯の勇気を振り絞った結果が、「弁当を貰ってくれているから、嫌われてはいない筈」という、あまりに虚しい進展のみ。その行為にすら、些か不服な結果が付く。
「…………………」
悠二が弁当を開くと、隣に座る近衛史菜がニュッと顔を出し、献立をチェックし始めた。然る後に、鶏の唐揚げを箸で掴んで蓋の上に乗せ、吉田に熱い視線を送る。
「あ、うん。いい、よ?」
そうして了承を得てから美味しそうに唐揚げを食し、代わりにピーマンの肉詰めを吉田の弁当箱に投下する。ここまでの一連の流れを含めての、“いつもの風景”なのだった。
「(近衛さん……)」
転校して来た当初こそ、坂井家に居候しているらしい彼女に激しく動揺したものだが、今ではその無垢な態度に絆されるばかりである。
恋敵……と呼ぶにはヘカテーの態度が不鮮明だし、一方的に敵対意識を抱くなど元来おとなしい吉田には不可能だ。
「(これでいつも、場が和んじゃう)」
何より、こうやって雰囲気が誤魔化されてしまう事に何処か安堵してしまっている自分自身が、一番情けなかった。
「(変わりたいって、思ってるのに……)」
悩み多き少女の日々は、変わる事なく過ぎて行く。―――変わってしまったと、気付く事すら出来ぬまま。
「(………よし)」
ヘカテー……紅世の徒という異物を内包したまま、坂井悠二の日々は過ぎて行く。
朝、学校を出る前に鍛練して、日中はごく平凡な男子高校生として過ごして、夜、零時前に再び鍛練する。
そんな、常に非日常を傍らに置いた日常の中で生きていた。
「(これなら、大丈夫)」
メリヒムが去って二週間。そんな生活を続けて来た悠二だが、何の問題も無かったわけではない。特に、ここ一週間ほどが最も大変だった。
悠二の鍛練とは概ね『ヘカテーの感覚』を修得し、自分のものとする事を意味するのだが……この、他者の感覚というものが厄介だった。
軽く持ったつもりのスチール缶を握り潰してしまう。小走りをすればコンクリートの壁に激突してしまう。……かと思えば鍛練の最中にうっかり油断して、全く強化していない状態で屋根から落ちて骨にヒビが入った事もある(零時になったら全快したが)。
そんな風に、人間と徒の感覚が入り乱れて混乱していたのだが……やっと落ち着いて来たらしい。
手を握り、また開いて、悠二は自身の感覚を把握する。
人間の感覚に戻っている……のではない。ヘカテーの感覚のまま、力を人間レベルにまで加減しているのだ。
いよいよ人間離れしてきた気がするものの、以前の“愛染兄妹”の時の事を考えると喜びの方が強い。もう、何も出来ずに骨に力を奪われるような無様は御免である。
「おーい坂井、そろそろ終わるぞ」
「うん、いま行く」
因みにそんな確認をしている現在、悠二は体育の授業に参加中である。
本日の体育はドッジボール。他クラスより体力測定が早く済んでしまった事による、足並み合わせの自由競技だ。
チームは出席番号順に五つ。Aが池とヘカテー、Bが佐藤と悠二、Cが田中、Dが平井、Eが吉田と、いつもの面々は見事にバラけている。
「あうっ……!」
Dチームの藤田の背中にボールがヒットし、宙を舞った。咄嗟に頭を下げた事でボールが丸くなった背中にバウンドし、上に跳ねたのだ。
これをDチームがキャッチすれば、藤田の失点は無くなる。それを平井は見事に予期し、「オーライオーライ」とか言いながら待ち構えていた。
「と、見せかけてぇ……」
かと思いきや、敵であるEチームに背を見せたまま深く沈み込んでジャンプ。そのまま縦に回転して―――
「ドライブスルーだぁーーー!」
盛大なオーバーヘッドキックを炸裂させた。蹴られたボールは猛スピードで敵に突き進み、
「んきゃあ!?」
それまで誰もが当てるのを躊躇っていた吉田の胸に容赦なく激突、そして最後の一人たる宮沢にもクッションで命中した上で地面に落ちた。
「ふふん、シェイクも追加でお願いします!」
平井の謎の掛け声と共に、Dチームに凱歌が上がる。
何だか色々と間違っている気がしないでもないが、ともあれチーム交代。Bチーム対Cチームである。
因みに、引っ繰り返った吉田はヘカテーが肩に担いで運び出していた(肩を貸して、ではない)。
「一番やわっこいトコに当てたのに、一美ったらオーバーだねぇ」
ノックアウトした張本人がケラケラと笑っているのを後ろに聞きながら、悠二はBチームとしてコートに入る。
課題は存在の力による強化、ではない。どちらかと言えば朝の鍛練に即した、体術のテストである。
「(人間としての身体能力を維持したままで、田中に勝つ)」
悠二に「人間離れした真似をするな」と口をすっぱくして注意されたヘカテーは、その身体能力の指標として、クラスでも指折りの運動神経を持つバレー少女・緒方真竹を模倣している。
にも関わらず、今日のドッジの第一試合で、ヘカテーは緒方を優に越える活躍を見せ付けた。
これはつまり、同等の能力を緒方以上に使いこなす、ヘカテーの技術によるものだ。
「(今度は、僕の番だ)」
人間としての悠二の能力は田中に大きく及ばない。元々体格が違う上に、あれだけ鍛練してもトーチの悠二には筋肉など付いたりしないのだから。
「プレイボーイ!」
平井の掛け声と共に、試合が始まった。
最初は様子見。積極的に当てにも取りにも行かず、悠二は極めて地味に立ち回る。
チーム全体の戦力は大差ないように見えるが、やはり田中の存在が大きい。Cが二人倒される間にBが三人倒されるペースで追い込まれていく。
外野は最初に決めた三人以外は増えないシステムなので、一度傾いた流れは簡単には取り戻せない。
「……あっという間に俺らだけだな」
「今さらだけどスゴいんだな、田中って」
などと様子を見ている内に、外野との連携で二連撃墜。Bチームは悠二と佐藤だけになっていた。
「ふっふっふっ、さっきヘカテーちゃんにやられた分も纏めてぶつけてやるぜ坂井ぃ」
「……八つ当たりだろ、それ」
「問答無用!」
面白い悪役面で笑う田中の腕から、ヘカテーお墨付きの豪速球が投げ放たれた。
鋭くスピンしながら迫る球は悠二と佐藤の間を抜けて、背後の外野の手に渡り、そのまま四方から逃げ惑う獲物を嘲笑うようなパス回しが展開される。
「(まず、ボール)」
田中を警戒して下がっていた悠二の真後ろの外野に、ベストタイミングでボールが渡った。
無防備な背中に至近からボールが迫り……
「っと」
悠二は見もせず、後ろ手にそれを掴み取った。ボールは悠二の掌中で緩い摩擦を起こしながら回転している。
「よしっ、行くぞ田中ー!」
今のスゴくない? ミラクルだミラクル。などの騒めきに構わず、悠二は内野同士のラインまで一直線に走り………
「おりゃ!!」
助走の勢い、身体の捻り、上半身の発条、体重、それら全てを無駄なく乗せた一投をお見舞いする。
「おっ!?」
カッコつけて真ん中以上に下がっていなかった田中は、予想を超える速球に細い目を見開いた。
しかし避けない。やや高い軌道の球を両手で挟み取ろうとして……
「ぶがっ!?」
しくじり、ボールが顔面に直撃した。
「や、やった……?」
無意識に存在の力を繰りはしなかったか、自分の両手を眺めて確認する暢気な悠二。
何故にか、外野よりも更に後ろで腰を落とす平井が両手を組み、そこにヘカテーが足を掛けた。
「どっせぇい!」
そして、発射。
空気を読んでスローモーションに仰け反る田中の頭上に、水色の影が舞い踊る。
「顔面は……」
「ノーカウント!」
平井の真似をしたヘカテーのオーバーヘッドキックが、ものの見事に悠二の横っ面にクリーンヒットした。