「こうです。親指の根元で一本を挟んで、三本指でもう一本を摘んで………」
「……何故こんな面倒な物を……」
夜の封絶の中で、無駄に気合いの入った学者スタイルなヘカテー先生の授業が続いている。生徒は“虹の翼”メリヒム。平井ゆかりの祖父の街で出会った、強大極まる紅世の王。
「(……この徒、これからどうするつもりだろ)」
そんな彼がこの御崎市に居るのは、この世に渡った徒に訓令を授ける『巫女』としての職務を全うせんとするヘカテーの意向だが、悠二の方も今のところはこれで良いと思っている。何故なら、メリヒムを世に放せば別の場所で人が喰われるからだ。
「(やっつけるのが一番良いんだろうけど……ヘカテーにその気は無さそうだし)」
だがそれも、ほんの一時凌ぎに過ぎない。訓令が済んでヘカテーがメリヒムを解放したら、彼が御崎市に留まる理由は無くなってしまう。
「(その時が来たら、どうする………?)」
自問自答を繰り返しながら、悠二は一人で大剣型宝具『吸血鬼(ブルートザオガー)』を振り回す。
因みにこの封絶に踊る炎は、銀ではなく虹。メリヒムの色だ。誰でも使えると言われただけあって、メリヒムほどの王ならば修得は実に容易かった。今はヘカテーによる、『正しい箸の使い方』を実施中である。
「(僕の中身が『零時迷子』だって教えても……意味ないよなぁ)」
メリヒムが悠二の生活に付き合う理由が無い。むしろ、『零時迷子』を持ち去ろうとする可能性の方が高い。
仮にも一度は助けられた相手だが、存在として相容れないならば戦うしかない。……が、頼みのヘカテーはこの様だから結局……などと解の出ない思考の迷路に迷い込む悠二の中で、
「っ」
鼓動と呼ぶには大きな衝撃を伴って、今日一日で失った力が戻って来た。毎夜零時に宿主を回復させる宝具『零時迷子』の能力。それを………
「……何だ、今のは?」
「『零時迷子』。一日毎に力を回復させる、言わば永久機関です」
メリヒムにバッチリ見られた。どころか、ヘカテーがいとも簡単にバラした。
「ちょっ、ヘカテー!?」
『零時迷子』は秘宝中の秘宝と言っておきながら平然とその正体を明かすヘカテーに、思わず悠二は非難めいた叫びを上げる。もしメリヒムが中身に興味でも持ったらどうするのか、という不安を余所に……
「ふぅん」
メリヒムは、大して興味なさそうに鼻を鳴らした。悠二は密かに胸を撫で下ろす。……のも束の間、先ほどの懸念が唐突に現実のものとなる。
メリヒムが、ヘカテーの授業を拒否するように立ち上がり、背を向けたのだ。
「まだ授業は終わっていません」
まずヘカテーが、その不真面目な態度にむっとしつつ制止を掛ける。しかし無視される。
「待ってくれ」
そして悠二の、切迫している割に何処か力強い声が、メリヒムを止めた。
静観な横顔が、振り返って悠二を睨む。
「…………………」
悠二は何も言わない。思っている事を口にすれば、それがそのまま開戦の引き金になりかねない。
少年の言葉を待っているのか、それとも単に興味が無いだけか、メリヒムも同じく何も言わない。
視線だけが交錯する、一方にだけ緊張と圧迫を与える沈黙は数秒で終わり……
「案ずるな」
メリヒムが、小さな嘆息と共に口を開いた。
「今の俺は人間を喰らう事も、世を荒らす事もしない。お前が考えているような心配は不要だ」
「ッ……」
思っていた事を正確に言い当てられ、呑まれるような錯覚を受けて悠二は怯む。怯んで……しかし、それを素直に受け入れはしない。
「それを……信じろって言うのか?」
紅世の徒は『歩いて行けない隣』の住人。この世に顕現する為には人間の存在を奪うしかない。それをしないという事は、いずれ消耗の果てに燃え尽きるという事だ。そんな事を、はいそうですかと信じられるわけがない。
「お前に信じてもらう必要も無い。それとも、信じられないから俺に楯突くか?」
「う………」
馬鹿にしていると一目で判る嫌味ったらしい余裕顔で悠二を脅かし、それを置き土産にメリヒムは飛び去った。
「あ…………」
何を言う暇もなく陽炎の向こうに消えた背中に、悠二は不安と後悔の混じった声を漏らす。その傍らに、さりげなく封絶を引き継いだヘカテーが並んだ。
「………『炎髪灼眼の討ち手』」
「………え?」
そうして、戸惑う悠二に向けて語りだす。
「天罰神“天穣の劫火”のフレイムヘイズ。かつて数多の徒を蹂躙した、最強最悪の女騎士です」
突然の、まるで繋がりの見えない話をされて、しかし悠二はおとなしく傾聴する。
「……その二代目を育てる箱庭と目されていたのが、彼の眠っていた『天道宮』です」
「『天道宮』で……フレイムヘイズを育ててた……?」
カチリと不可解なピースが埋まり、また新たな疑念が湧いた。疑問をそのまま口に出す。
「それって……メリヒムがフレイムヘイズを育ててたって事? そんなの可笑しいじゃないか。フレイムヘイズは徒を狩る道具なんだろ」
「……“虹の翼”と“天穣の劫火”との間に何があったのかまでは解りません。ただ一つだけ言えるのは、フレイムヘイズが徒を見逃す最低条件が、『人を喰わない事』だという事です」
そこまで聞いて、漸く、ヘカテーの言いたい事を悟る。
メリヒムの過去はともかくとして、今の彼が人を喰らう事は無い。でなければ、彼がここにいる筈が無い、という事だ。
「………そっか」
安心させてくれたのだと知って、小さな頭を学者帽子の上から撫でた。それが気持ち良かったのか、思い出したように欠伸を噛み殺すヘカテー。
「……今日はもう寝ます」
「ん、おやすみ」
短い歩幅で歩く少女の背中を見送り、悠二はもう一度、陽炎の消えた夜空を見上げた。
「(フレイムヘイズ……か)」
複雑に絡み合い、無慈悲に噛み合わない世の理に思いを馳せて。
その日、平井ゆかりの朝は早かった。
前日までの旅行ではしゃぎ過ぎたのか、電車から降りて家に着くなりベッドに轟沈。風呂も夕食も放り投げて眠りに落ちたところ、その翌朝は彼女にしては珍しいほどの早起きとなってしまった。
とりあえずシャワーを浴びてキッチンを探ってみたらば、旅行の間にパンも卵も駄目になっていた。
「仕方ないので、坂井くん家を襲撃しようと思います」
突撃近所の朝ご飯。
しばらくぶりの坂井家、しかも今は可愛らしい居候がいる筈。トレードマークのツーサイドアップを整えて、弾む気持ちで家を出た。
どうせならパジャマ姿のヘカテーを拝みたいので、やや早足で路面を進む。
「(超絶美少女の居候、ねぇ)」
改めて考えると、いかにも現実離れした話だなぁと、今更ながらに平井は思う。
父親の外国の知人の子、という怪しさ爆発の言い訳も、何だかんだで罷り通ってしまっている。怪しいのは間違いないのだが、「だったら何なんだ」と訊かれても答えられない。それくらいマンガみたいな話だった。
「(シカモ、よりによって坂井君)」
取り立てて特徴の無い平凡な男子高校生が、控え目ながらも可憐な少女に密かに好意を寄せられ、そこに美少女転校生がやって来て居候となる。
「どこぞのラブコメかー!」
滾る衝動に辛抱堪らず、拳を天に突き上げて叫ぶ平井ゆかり。電信柱に仲良く並んでいたスズメが三羽、逃げ出した。
そのままテンションを一切下げず、平井はぴゅうっ! と駆け出す。
「(寝顔にヒゲ書いてやろっ)」
この時間なら悠二は寝ており、その母・千草だけが起きている。悪戯を仕掛ける子供そのものの表情で笑いを噛み殺す平井の耳に………
(パァン!!)
「およ?」
破裂にも似た乾いた衝突音が、届いた。
「(あ〜、そう言えば毎朝 朝練してるとか言ってたっけ)」
旅行中も朝に二人で組み手とかしてたのを思い出し、到着も待たずに企みが頓挫した事に凹む。
気を取り直して、辿り着いた坂井家の入り口……ではなく、塀に手を掛けてニョキッと顔を覗かせたらば―――
「だぁああ!!」
「!?」
視界の中に、とんでもないものが飛び込んで来た。
真っ先に見えたのは、逆袈裟に棒切れを振り抜いた姿勢の坂井悠二。そして、視線を首ごと上向けると……3メートルほど上空に水色の少女が舞っていた。
ヘカテーが殴り飛ばされた……と平井が理解しきるより早く、当のヘカテーは空中で縦にクルリと回る。
「お返しです」
そして、落下の勢いを乗せて思い切り振り下ろす。凄まじい迫力の、しかし余りにも直線的な一撃を、悠二は当然しっかりと防御して、
「は――――」
いとも容易く、すっぽ抜けた。悠二のではなく、ヘカテーの棒切れが。
「シュッ」
「ごふぅ!?」
棒切れを手放したヘカテーは、何の抵抗も受けず悠二の眼前に着地。低い姿勢からの正拳突きで鳩尾を撃ち抜いた。
然る後に、腹を押さえて蹲る悠二の周囲を軽快なステップで回る。
十秒と待たずに立ち上がった悠二の顔には、苦悶以上の歓喜が表れていた。
「や、やった……! 初めてヘカテーに“ガードさせた”ぞ!」
「……あの程度で喜ばないで下さい。私に攻撃を当てたわけでもないのに」
それら、些か以上にアンビリーバブルな光景に釘付けになっていた平井は………
「なうっ!?」
跳ね上げられ、回転しながら落ちて来る棒切れに脳天を直撃されて、塀から無様にひっくり返った。
「あらあら」
縁側に座っていた千草が、困った風に笑った。