手足を締め上げられる痛み、斬撃とは別種の痛みを受けて、ヘカテーは数秒の暗転から覚醒した。
「あら、もう御目覚め? 今から“優しく”起こして差し上げようと思ってましたのに」
目の前には、嗜虐的な笑みを浮かべ、ヘカテーを見下し勝ち誇るティリエル。そのティリエルに抱き締められながら瞳を輝かせるソラト。ヘカテー自身はと言えば、両手足を蔓に縛られて、磔にされた罪人のように吊されている。
「(………どうして)」
身動ぎするだけで激痛に顔を歪め、理不尽な結果をヘカテーは恨む。
ソラトの大剣を、ヘカテーは確かに受け止めた。だと言うのに今、彼女は全身に傷を負って捕えられている。
「これがお兄様の『吸血鬼(ブルートザオガー)』、刃に触れた相手を存在の力で斬り刻む宝具ですの。もっとも、もう古びた玩具でしかないのですけど」
勝者の余裕からか、己が手の内を自ら語るティリエル。その眼が、鋭くヘカテーを睨んだ。
「お兄様は新しい宝具を求めている。判ったら、おとなしく渡して下さるかしら?」
「………新しい宝具?」
その言葉に嫌な予感を覚えて、ヘカテーは気を失っても手放さなかった大杖『トライゴン』を強く握り締める。しかし、続くティリエルの唇は予想に反して、
「もちろん、『贄殿遮那』ですわ」
全く身に覚えの無い単語を口に出した。
「おとなしく渡せば、余計な苦しみを与えずに一思いに葬って差し上げますわよ?」
凄むように一歩、ティリエルが足を進める。見当外れな要求は脇に置いて、ヘカテーは自身の状態を確かめる。
傷は……深い。先ほどの消耗戦と回復に費やしている力を合わせて、この拘束を砕く余裕が無い。
「(いま来られたら、不味い)」
判っていても、こんな状態では時間を稼ぐ術も無い。一か八か、或いは自滅に繋がるかも知れない力の顕現を、それでも今やられるよりはマシと練り上げるヘカテーの、眼前で―――
「え…………?」
ティリエルの上半身が、唐突に“落ちた”。残った下半身も、それに遅れて崩れ落ちる。
胴体から彼女を両断したのは、ヘカテーでもなければ先ほど現れた気配の主でもない。
「ははっ! やったやった!」
彼女のすぐ後ろで守られていた兄、“愛染自”ソラトの凶刃だった。
「やっとてにはいった! ぼくのだ! ぼくのヘカテー!」
ヘカテーには、何がなんだか解らない。
何故この徒は、いきなり自分の妹を斬り倒して、無邪気に笑って喜んでいるのだろう。目先の脅威が一先ず去った安堵以上に、目の前の異様な光景に寒気を覚える。
その、嫌悪感しか持てない無邪気な瞳が、我欲を漲らせてヘカテーを見る。
「もうぼくのだからな! かってにどこかにいったり、あばれたりしちゃだめなんだぞ!」
子供が駄々を捏ねるように言いながら、我慢しきれなくなったようにソラトはヘカテーに飛び付いた。
今度こそと、渾身の力を込めるヘカテーの前で、
「ぐぇ……!?」
またしても、脅威は止まる。背後からソラトの首を掴む、小さな掌によって。
「ねぇ、お兄様。正直にお答えになって?」
それは、山吹色の光を纏う少女の手。先ほどソラトに斬り倒された筈の、ティリエルの手だった。見れば、胴体を両断されたティリエルは、何事も無かったかのように無傷でそこに立っている。
「(……再生が、速過ぎる)」
これでは接近戦も無駄、と現実の脅威を分析するヘカテーの存在など、今のティリエルの眼中には無い。
見えるのは、振り返る事も出来ずに喉を潰されかけている最愛の兄の姿だけ。
「この地には、『贄殿遮那』を求めて来た。そうですわよね?」
「ぐぇ……ごっ……!」
指先が深く、抉らんばかりに首にめり込む。
「お兄様を守るのは誰? お兄様の望みを叶えるのは誰? お兄様が甘えて良いのは誰? お兄様に愛を囁いて良いのは誰?」
返事も出来ない相手に向けて、壊れた機械のようにティリエルは繰り返す。
「そう、私。私、私、私私私私私私私。私以外には有り得ない。そうですわよね?」
言う間にも、ソラトの手に足に胴に蔓が巻き付き、一切の抵抗を封じている。
ソラトに許された動きは一つだけ。
「……っ………!」
さらなる痛みを伴うと判ってなお首を縦に振る、その小さな動作だけ。そうして初めて、ティリエルはソラトを解放した。
「あ……あ…ティリエル……」
両目に涙をいっぱいに溜めて、弱々しく震えるソラト。そんな兄を自分という揺りかごに捕らえるように、ティリエルは優しく抱き締める。
「可哀想なお兄様。大丈夫ですよ、お兄様が求める物は、私が必ず手に入れて差し上げますから」
抱き締めてから、怯える顔を両掌で柔らかく包み込み、そして――――
「っ……!?」
その唇に、自身のそれを重ねていた。
唇を貪り、舌を絡め合い、唾液を交換し合う。戦いの場で、ついさっき自分を斬り倒した相手と、浅ましい欲求に耽溺する。
ヘカテーには何一つ理解できない、力とは全く違う衝撃に圧倒されていると………
「ぷはぁ……だから、まずは……」
唇を離したティリエルの眼が、刃以上に冷たい光を宿してヘカテーを見た。
「邪魔者を、始末いたしましょう」
もはや一切の容赦は無い。流石のソラトももう拘泥は出来ない。
山吹色の炎を燃やす蔓の怒涛が、兄を誑かした恋敵を呑み込まんと押し寄せる。
鞘を滑って、サーベルの刃が抜き放たれる。
それに合わせて男の背中から七色七条の光が伸び、光背とも七色の翼とも見える壮麗な輝きで銀髪の騎士を飾った。
「虹の、翼……」
徒の本質を顕す自在法の発現に、悠二は知らず男の真名を口にする。絶大な力を滾らせ光るその姿は、恐怖を越えて憧れを抱かせるほどに圧倒的だった。
何百年ぶりかという力の充溢に笑みを浮かべる男の横眼が、ジロリと悠二を見る。
立ち竦んでしまっていた悠二は、些か以上に格好悪く、呆けたように気配の核……この街の中心を指で示した。
「よく見ておけ」
魅せるように、誇るように、サーベルが高々と振り上げられた。背にした翼が屈折して絡み合い、虹となった光を刀身が纏う。
「我が必殺の、『虹天剣』を」
その刃が、振り下ろされた。
「――――――――」
爆発的な光輝を放つ虹の濁流が、指した方角へ一直線に突き進む。その閃虹は地を削り、民家を消し、ビルを貫き、触れた物を問答無用に消し飛ばして驀進する。
その途上……とある小学校の屋上で、澄んだ旋律を奏でていた小箱、ティリエルの自在法を支えていた『オルゴール』を、ついでのように消滅させて。
「ま、街が割れたぁー!?」
その馬鹿馬鹿しいほど滅茶苦茶な破壊力に、悠二は堪らず頓狂な叫びを上げる。
男が方角だけを訊ねた理由が、今なら良く解る。距離も障害も、この自在法の前では全くの無意味だからだ。
勝手に盛り上がる悠二を、いい加減うんざりしたような男の眼が睨んでいる。
「………で、当たったのか?」
もう何度目か、呆れた催促が悠二を叱った。
「なっ……!?」
『オルゴール』を破壊されたティリエルはもちろん、
「ッ!?」
磔にされたヘカテーも、即座に異変に気付いた。
それも当然。制止していなければ人間でも一目瞭然の大破壊が、さして離れてもいない場所を貫いたのだから。
「(ピニオンから力を集められない……ッ!)」
ティリエルの『オルゴール』は、一旦自在式を込めればどんな複雑な音色でも奏で続けてくれる、彼女の『揺りかごの園(クレイドル・ガーデン)』を無敵の結界たらしめる中核だった。それを失った愛染兄妹は、もう燐子からの供給を受けられない。
案の定――――
「はあっ!!」
蔓の拘束、妖花の怒涛、それら全てが、ヘカテーの全身から弾けた炎にいとも容易く焼き散らされた。
「(悠二)」
ティリエルだけではなく、ヘカテーも気付いていた。
「(悠二が、いる)」
海の方に現れた気配が、ヘカテーには何も感じなかった場所を攻撃した。
無関係な徒がそんな事をする理由もなければ、都合良く鋭敏な感知能力を持っている事もまず無い。だが、不自然な空白に悠二というピースを埋める事で、状況と狙いが読めて来る。
「(一緒に、戦ってる)」
悠二が“あれ”をしたとは思えない。それでも、何らかの方法で……恐らく『天道宮』にいた徒を味方につけて……敵の結界を無力化した。
さして遠くもない過去、銀に彩られた光景に宿る想いが、炎より熱く胸を焦がす。その熱さが、満身創痍の身体に十分過ぎる力を呼び起こし、
「『星(アステル)』よ!!」
水色の流星群に変えて、撃ち放つ。連鎖的な爆発が絨毯爆撃のように溢れ返って、愛染の兄妹を通りごと呑み込んだ。
「やっ、た……」
傷む身体を大杖で支えて、ヘカテーは爆煙に目をやる。いくらヘカテーが消耗しているとは言え、元来の格が違う。
結界を崩された今、彼女らにヘカテーの『星』を凌ぐ術は…………
「っ」
あった、らしい。
山吹色に輝く光のケープを羽織った“愛染自”ソラトが、爆煙を裂いて飛び出して来た。
「(もう一人が、居ない………?)」
そう、ヘカテーはまず思って、
「―――やって、くれましたわ、ね―――」
次いで、ソラトから聞こえて来た声の正体に気付いて目を見張った。
ソラトを護る光のケープは、只の防護ではない。己が顕現する力すら自在法に変換した、“愛染他ティリエルそのもの”。
「……どうして?」
燐子から力を供給できなくなったティリエルは、事もあろうに自分そのものを削って兄を護った。そこまでする理由が、全く解らない。
「そいつは、お前をゴミのように斬り捨てた。そんな相手に、どうして命を懸けられるのですか」
不可解だった片方は、朧気ながらも理解できた。己が我欲だけにしか興味を持たない、自儘な徒の中でも極端な享楽主義者。
解らないのは彼女、“愛染他”ティリエル。
「―――可哀想な、女ね―――」
消滅を待つ者とは思えない強い瞳が、嘲りを宿した、気がした。
「ヘカテーーーー!!」
命を懸けて自分を護っている妹を気にも留めず、大剣を手にソラトが駆けて来る。こんな時でも変わらず、ただ欲しい物を求めて。
「………『星』よ」
流星が奔り、ソラトを叩く。光弾は直撃した端から弾かれ、その前進を止める事すら出来ない。
が………
「ぐぇあ……!!」
光ではないモノ。流星に紛らせ投擲された大杖『トライゴン』が、ソラトの胸を貫いていた。
「ヘカ、テ………」
届かぬモノに手を伸ばす欲望の使途に、星の巫女を右手を翳し、特大の炎弾を放つ。溢れ返った水色の炎が、浅ましい獣を消滅させる。
「………私にも、命を懸ける使命は在ります」
負け惜しみのように、届かない言葉を手向けに贈る。
―――水色に燃える炎の中、血染めの大剣が墓標の如く突き立っていた。