突然現れた三体の化け物は、突然現れた一人の少女に一方的に屠られ、消えた。
陽炎の煉獄は続いている。変化は二つ。化け物が消えた事と、空間の中で踊っていた薄白い炎が、いつの間にか少女と同じ明る過ぎる水色に塗り替えられている事だけ。依然として人々は制止したまま、この異様な空間も健在だ。
「っ………」
首玉を焼き散らした少女が、ゆっくりと振り返る。眼と眼が合った気がして、悠二の背筋に冷たいものが走り抜けた。
確かに、この少女の介入が無ければ悠二は間違いなく死んでいた。……だが、だからと言って、どうして安心する事など出来ようか。この、どう見ても得体の知れない少女は……間違いなく、坂井悠二を、造作もなく消し去れる。
見た目の姿に左右されない、どうしようもない恐怖を抱かされるほどの力を少女は持っている。
その小さな掌が、地に突き立てた錫杖を握り……
「―――――」
投げた、と認識した時にはもう、錫杖は悠二の脇腹を撃ち抜いていた。
「は……あ―――!?」
そんな風に、錯覚した。
錫杖は悠二に刺さってなどおらず、制服の脇腹を掠めて破っただけ。その三角頭の杖先が貫いたのは悠二ではなく……
「ちぃっ!」
悠二の背後……ついさっき燃やされ、今も燃えている美女の身体。錫杖の突き立てられたその身体から、舌打ちを一つ残して……小さな人形が飛び出した。
茶色い毛糸の髪、青いボタンの目、赤い糸で縫われた口という造りの粗末な人形が、脇目も振らずに陽炎の外へとその姿を消す。
「…………逃げた?」
呆然とそれを見送る悠二の背後で小さな靴音が聞こえて、弾ける様に振り返る。警戒と困惑に溢れた悠二の心中などお構い無く、少女は軽い足取りで歩み寄り、今度こそ消滅した美女……の倒れていた路面から杖を抜く。その先端には炎が……先ほど人々から吸い上げられた炎が燃えていた。
(シャラン………)
燃える錫杖の先端、幾つも束ねられた三角形の遊環が澄んだ音色を響かせる。それに伴って、炎が火の粉となって四散した。
もう何度目か、悠二は驚愕する。
「す、凄い……!」
周囲に散った火の粉は異界の中のあらゆる物を癒していく。砕かれた路面も、少女の炎で爆砕された店頭も、そして……鬼火めいた炎を怪物に吸われた人々も。
「(やっぱり良い人、なのかな………)」
漠然と胸の内に広がっていた恐怖が急速に解けていく。得体の知れない絶対的な強者……という認識が、怪物を倒し→街や人を治すという一連の行動を経て、最低限の想像の余地を与えてくれた。即ち、『怪物を倒す正義の味方』である。
「(ッ…………違う!)」
直後、反射的に悠二が否定したのは、自分の妄想に対してではない。その前の、何もかもが元に戻ったという錯覚の方だ。
確かに雑踏は以前の姿を取り戻した。一見すれば欠けているものなど無い。だが代わりに、明確な異物が残っている。
化け物に炎を吸われた人々の胸の辺りに……小さな灯りが点っていた。酷く儚く、頼りない、消えかけの蝋燭の様な灯火が。その炎に良い知れない不安と絶望を感じる悠二の前で、
「あ…………」
少女の杖が、小突く様に路面を打つ。それを合図に、陽炎の空間が消え去った。
日常が……帰って来た。
今や、あれが夢ではなく現実だと証明できるものは……人々の胸の灯火と、未だ目の前で悠二を見上げる少女だけ。異界の消滅と共に杖は何処かに消え、水色の髪と瞳はホタル染みた光を潜ませている。それでも少女はそこにいた。
「え、と、その……ありがとう……でいいのかな?」
最初に言うべき言葉は何か、迷った挙句にそんな事を口にする。彼の常識的には正しい選択の筈なのに、酷く的外れな事を言った気がしてポリポリと頬を掻いた。
「…………………」
少女は応えない。微妙に、首を傾げたような気がしなくもない。何だか、このまま会話が成立しないまま立ち去ってしまう予感がして………
「あの、ちょっと教えて欲しい事があるんだけど、いいかな?」
慌ててそれを口にした。これから先、来るかどうかも判らない不可解な脅威に怯えて過ごす事になるのではないか? そんな焦燥が、おっかなびっくり少女の目を見つめさせる。
「…………ええ」
短く、しかし簡単に、少女は初めて悠二と言葉を交わした。そのまま彼の袖口をつまんで、小さな歩幅で悠二を引っ張り歩きだす。
悠二はされるがまま、まだ混乱は抜けていないが、抵抗は無駄……或いは危険である事は理解できた。
「(……これから、どうなる?)」
ほんの数分前の日常が、どこか遠い過去のものであるかのように思えた。
夕暮れを過ぎ、黄昏を迎えた公園。晩ご飯に胸を弾ませ帰る子供たちと入れ替わる形で、二人はそこの東屋に座り込んでいた。
「……………………」
喉が渇く、それは不規則な呼吸によるものだ。
ベンチに座っているというのに、よろめいた。平衡感覚が怪しい。
「(…………酷過ぎる)」
紅世の徒………人間の存在を喰らってこの世を謳歌する隣人。それが喰った痕跡を消す為に残す誤魔化しの代替品……トーチ。
何もかもが荒唐無稽過ぎて、未だ夢の中にいるかのように思える。……いや、思いたい。しかし悠二の眼に焼き付いた光景は、身体に残る痛みは、それを『現実だ』と訴え掛けて来る。
「(はは……何やってんだろうな、僕は)」
何よりも最悪なのは今、この状況。他人ではなく自分の胸に宿る灯火。“坂井悠二が既にトーチである”事の証。
「…………僕はさっき、あの化け物に喰われなかった。だから僕は……トーチじゃない」
実際に灯火は胸に燃えているのに、今さら過程に何の意味も無いのに……失った大切なものを渇望する未練は、みっともなく“人間”に縋りつく。
「喰われたのは それ以前だったのでしょう。この街はトーチが異常に多いですから、二度襲われても不思議ではありません」
もちろん、そんな拘泥は簡単な理屈で軽く一蹴されてしまう。突然目の前が真っ暗になって、悠二は頭を抱えてうなだれた。
「(………何やってんだ、ホントに)」
安心したいから……もう巻き込まれる危険は無いと思いたいから、話を聞きたいなどと言い出した。………だと言うのに、これは一体何だろうか。
蓋を開けてみれば、坂井悠二はとっくに死んでいて、ここに残っているのはその残り滓。消えれば誰の記憶にも残らない影。安寧を求めて少女について来たのに、この先で待っているのは消滅の恐怖に怯えるだけの日々だ。
「…………僕、もう帰るよ」
もう、今は何も考えられない。感覚の麻痺した頭で、もう遅い、とぼんやりと思って、無気力な身体を立たせて背を向けた。
と………
「…………………」
その袖口を、再び少女が掴んでいた。変わらず無表情の唇が……
「……貴方は只のトーチではありません。無作為にこの世を転移する宝具を宿した“旅する宝の蔵”、『ミステス』です。誰もが制止した封絶の中で動けたのも、内に宿るその宝具のおかげでしょう」
平然と、衝撃的な事実を告げた。だがもう、大抵の事では今の悠二は驚かない。
「先ほどの燐子はそれを狙っていました。必ずまた現れるでしょう」
「…………え?」
と思った矢先に、驚くどころか凍り付いた。
脳裏から視界に、煉獄の空間が、不気味な姿の化け物が……存在を喰われる人々が蘇る。
「私から離れないで下さい。敵が私の存在を知れば、或いは何事もなく手を引くかも知れません」
そんな地獄に、救いの手が差し伸べられた気がした。不覚にも胸を打たれた悠二は、少し強く手を引かれてベンチに座り直される。
………そうして、再び公園に静寂が降りた。
「…………………」
「…………………」
そこから、少女は何のアクションも起こさない。ただ黙ってベンチに座っているだけ。……そこはかとなく、嫌な予感がした。
「………もしかして、ずっとこの公園に居るつもりなのか?」
「彼らが再び人を喰らう為に封絶……先ほどの空間を張れば、こちらから出向きます。次も譲歩しないようなら、互いに炎を交える事になるでしょう」
悠二が訊きたいのはそういう作戦の話ではなかったのだが、それでも今の言葉で大体わかった。この少女は、本気で公園で夜を明かすつもりでいる。……とはいえ、改めて考えれば無意味な質問だったかも知れない。彼女の寝床が公園だろうと高級旅館だろうと、悠二は母に無断で外泊するつもりなど全く無いのだから。………たとえ、いつか自分を忘れてしまうのだとしても、今の坂井悠二を心配する事は間違いない。
「……あのさ、相手のアクションを待つ場所は、別に公園じゃなくても構わないんだよな?」
少女の眉が、ぴくりと動いた。
………坂井悠二は気付かない。いや、さらなる危険を避ける本能が、無意識の内に思考の隅に追いやっていたのかも知れない。
紅世の徒、世界の歪み、自分の死、この世の本当の事。これだけの話を聞かされてもまだ――――悠二は、彼女が何者であるかを聞いていなかった。
依田デパート………御崎大橋の袂から周囲より頭一つ抜けて聳える廃屋の屋上の縁で、亡霊染みた白い影が揺れている。
「昨日から気配は感じていたが……なるほど、よりにもよって“王”だったか」
全身に白のスーツを身に付け、その上に同色の長衣を靡かせる美青年。その左腕の上には粗末な人形が抱かれ、その右腕は人形の頭を愛おしそうに何度も繰り返し撫でている。
「申し訳ありません、ご主人様。私の判断で勝手な真似を……」
「ああ……そんな悲しい声を出さないでおくれ、マリアンヌ。私が君のする事に不満を感じるはずがないじゃないか」
人形の重い自責に泣きそうな顔を作り、その顔を擦り寄せる。青年と評すべき外見の男が粗末な人形に悶える姿は、その身に纏う気配も相まって凄まじい違和感を放っている。
「少し、考えていただけだよ。縄張りに踏み込んだ獲物を、いかに追い詰めて狩り獲るかをね」
青年の言葉に偽りは無い。大きな目的を控えた今、出来るなら無粋な客など招き入れたくはなかったが………興味がそれを上回った。
「(明るすぎる水色の炎……彼女が自ら動くほどの宝具)」
だが、不安も在る。彼もまた強大な紅世の王、凡百の徒など造作もなく捻り潰す力を持っているが……相手はあの“頂の座”。相手の力はまるで未知数な上、彼が必殺を誇るのはあくまでフレイムヘイズなのだ。
それでも引き下がる理など無い。神を失った巫女など、何を恐れる事があろうか。
「狩ってしまおう、マリアンヌ。“狩人”の真名に従ってね」
数多の灯火の散りばめられた街を眼下に収めて、王の嘲笑が響き渡る。