―――『天目一個』。
人間の残影でありながら、紅世の徒……或いは王からも、伝説の化け物として恐れられた“ミステス”。
強大な力を持ちながら一切の気配を持たず、前触れもなく現れては無差別に紅世の者を斬り殺す隻眼鬼面の鎧武者。
気配を全く持たない為、研ぎ澄まされた感覚を持つ歴戦の猛者でも“斬られた事にも気付かずに”討滅されかねず、『天目一個』自身の剣も桁外れの技と鋭さを誇っていた。そして何より、この化け物トーチには紅世の徒が操る自在法が全く通用しなかった。
恐るべき鎧武者を恐れて、近年では徒たちが このミステスの出没する東洋を敬遠するほどになった。………だが、それも過去の事。
数年ほど前から、『天目一個』による乱獲が完全に途絶え、史上最悪のミステスが滅んだという噂が流れ始めた。
噂はしかし、徒の間で確信と呼べるほどのものには成り得ない。真実を知り、生き延びた徒がいないのだから、当然の事だった。
―――『天目一個』の核を為していた大太刀……『贄殿遮那』の行方を知る紅世の徒は、未だ一人として居ない。
潮風の吹く港町の船着き場、四方を海に囲まれたその場所で、互いにTシャツとジーンズの悠二とヘカテーは朝早くから鍛練に励んでいた。
「は……っ!」
いつも使っている棒切れは、この旅行に持って来ていない。今の二人は、互いに素手で打ち合っている。
「ごふッ!?」
と言っても、やはり悠二の攻撃は一つも当たらない。ガードさせる事すら叶わない。また一撃、掌底を胸に受けて悠二が吹っ飛んだ。
「くっ……まだまだ!」
5メートルほど飛ばされて引っ繰り返った悠二は、すぐさま身を起こしてヘカテーに飛び掛かる。左、右と、拳に振り回されるような不自然なフックに、ヘカテーは僅か目を見開いて……当然、容易く掻い潜って悠二の足を払った。
「うわ!? ……とりゃ!」
思い切り背中から落ちそうになった悠二は、間一髪で手を着いて、苦し紛れに足払いをやり返す。それを軽くジャンプして避けたヘカテーは、倒れた悠二に追い打ちを掛けずに少し距離を空けた。
軽快なステップを刻みつつ、シュッシュッと左拳で風を切って悠二を挑発するヘカテー。何とも言えないシュールな光景ではあるが、もちろん彼女は大真面目である。
「(今の不自然な動き、もしかしたら……)」
悠二に言われて力を制限する習慣を付けているヘカテーは、その実体験から一つの推測を立てて、立ち上がった悠二の眼前に踏み込んだ。
「シッ!」
払い除けるような悠二の拳撃が虚しく空を切る。そうしながら後退する悠二の足運びに、ヘカテーはピッタリと付いていく。
「くうっ!」
焦りと共に振り上げられる脚。その“脚の上をジャンプ”して………
「え?」
頭上に跳んだヘカテーは、そのまま高速で前回りに二回転し……回転の勢いそのままに、悠二の脳天に踵を振り下ろした。
「(ヤ バ )」
そこに込められた力を肌に感じて、『痛い』では済まないと警鐘が鳴る。突然の暴挙に疑問を感じる暇も無い。湧き上がる危機感の命じるままに、悠二は両手を頭上で交叉させた。
(ズゴンッ!!)
衝突、轟音。両手に響く重々しい手応え。それらを極限の緊迫の中で感じて……
「………?」
そんな物を感じていられる状態を、不思議に思った。見えていたのに見えていなかった視界が意識と繋がり、
「………順調ですね」
目の前のヘカテーが、やや得意気に頷く姿が映る。
そう……怪我では済まないと戦慄いたヘカテーの踵落としを、悠二は確かに防ぎ切っていた。
「なん……あれ?」
小柄なヘカテーと目線の高さが同じである、という小さな違和感。見れば、悠二の両足は足首までがコンクリートに埋まっていた。
それを見て、漸く、滝のような冷や汗が全身から噴き出した。
「殺す気か!?」
「体捌きはともかく、存在の統御は確実に成長しています。もし直撃しても、悪くて脳震盪でしたよ」
思わず叫び、淡々と返され、その一撃を自分が止めたという事実を悠二は再認識する。目の前に広げた掌を、握り締める。そこに……人間の域を越えた力がある、ようだ。
「(鍛練を始めて、まだ一週間も経ってないのに………)」
成長などという生易しいものではなかった。毎夜繰り返している鍛練、ヘカテーと共有する感覚。それが毒のように、血肉のように、坂井悠二という存在に侵食している。
「………………」
手にした力に、自分は人間ではないのだと どうしようもなく思い知らされる。他でもない自分自身に抱く怖れを、戸惑いを……
『貴方はもう、人間を越えられる』
かつて少女から貰った一言で、抑え、流した。
「(……そうさ、とっくに変わってるんだ)」
自分自身も気付かぬ内に、人間・坂井悠二は死んだ。ここにいる自分はトーチであり、ミステス。だからこの変化は……人間ではなくなったという、過去の喪失ではない。
そう、強くなったのだ。
「よし、もう一丁!」
同じミステスならば、弱いミステスより強いミステスの方が良いに決まっている。
気合いも新たに、悠二はコンクリートに埋まった足を、今度は自分の意志で強化した力で引き抜いた。
今朝はもう終わりにしようという気になっていたヘカテーに、やや不意打ち気味に飛び掛かる。
「させるかー!!」
そして、横合いから飛んで来た両足を横っ面に受けて吹っ飛んだ。そのまま海に落下して、水飛沫で虹を作る。
「ッ坂井君! 朝っぱらからヘカテー相手に何してんの!? 説明次第じゃもう一発食らわすよ!」
海から這い上がった悠二を、彼にドロップキックをかました平井ゆかりが、頭の両端の触角を怒らせて見下ろしていた。
滅多に見られない憤怒の背中に、庇うようにヘカテーを下がらせている。……どうやら、暴漢か何かと誤解されているようだ。
「……ゆかりの蹴りが躱せないようでは、まだまだですね」
ボソリと、ヘカテーは悠二の評価を容赦なく下げた。
「や~ごめんごめん。坂井君がヘカテーに飛び掛かってたのが絵的にアブナかったからつい」
全身ずぶ濡れになった悠二に向けて、平井が両手を合わせて朗らかに謝る。軽い仕草なのに不思議と恨む気にならないのは、彼女の性格ゆえだろうか。
「……まあ、普通は女の子と組み手なんかしてると思わないもんな」
濡れたシャツが肌に貼りつく不快な感触に顰めっ面になりつつも、悠二は平井に強く言い返さない。いつもの棒切れでも持っていればまた違ったのだろうが、今朝のあれは誤解されても仕方ない状況だった。
「って言うか、何か地面に穴あいてたけど……」
「………さぁ、僕らが来た時にはもう空いてたよ」
それよりも、ヘカテーの踵落としの瞬間を見られていなかった事にこそ悠二は安堵する。あれを見られていたら、流石に誤魔化しようが無い。
「けど、何で急にトレーニング? 前までそんなのしてなかったよね」
両手の指を後ろで組んで踊るような足取りで平井が振り返る。鍛練を見られる、という事態を想定していなかった悠二は僅か答えに詰まり………
「今のままでは、心許ないからです。悠二にはせめて、自分の身くらいは守れるようになって貰わないと」
その間に、ヘカテーがあっさりと応えていた。しかも、よりによって本音で。ただ、今回はそれで意味が通る。
「そっかそっか、ヘカテーの要望かぁ。ギリシャとか良く知らないけど、日本より危なそーだもんね」
何やら勝手に納得して、抱き寄せたヘカテーの頭を かいぐりかいぐりと撫で回す平井。外国出身という(あながち嘘でもない)設定が、妙な説得力になっていた。
それはそれとして、安全上の問題から悠二を“鍛えている”らしい水色の少女の行動が、背伸びする子供みたいで愛らしくて堪らない、と平井は思う。力いっぱい抱き締めたまま、クルクルと回った。
不適切な認識をする平井ゆかりはこの一週間後、襲撃した朝の坂井家の庭にて、それが誤りであると思い知る事になる。
「いただきまーす!」
声とも呼べない声を上げて、“愛染自”ソラトが大口を開ける。小学校の体育館に全校朝礼という名目で集められた児童が次々と燃え上がり、彼に存在を喰われていく。
「ふふっ、お兄様ったら」
喰われる者も喰われない者も、何が起こっているか解らない。制止したまま人間を失くす。この陽炎の結界は、“封絶ではない”。
“愛染他”ティリエルが誇る自在法・『揺りかごの園(クレイドルガーデン)』だ。この結界は気配を完全に隠蔽して彼女ら兄妹を護り、また燐子や宝具と組み合わせる事で無敵の包囲網を完成させる。
現に“すぐそこにいる”獲物も、昨日から罠を巡らせる愛染兄妹に全く気付いていない。
昨夜、小さな封絶を展開しておきながら何のアクションも起こさずに解いた事から見ても、それは確実だった。
「(あの『天目一個』を討つほどの相手、用心に越した事はありませんものね)」
心中の言葉とは裏腹に傲岸な笑みを浮かべたティリエルは、鋭く指先を切る。そこから放たれた光条が、生み出されたトーチに突き刺さり、潜り込んだ。
油断は大敵。だが逆を言えば、周到な準備さえ怠らなければ無敵。その準備に適した隠れ簑も持っている。
「では、そろそろまいりましょうか お兄様。『贄殿遮那』を貰い受けに」
「うんっ! はやくほしいな、にえとののしゃな!」
妹の許可に舞い上がる兄の瞳には―――下劣な欲情の色が浮かんでいた。