『わ、私……』
恐ろしく鋭い大太刀が胸を貫き、粗雑な力が爆発となって弾けた。
『それは……たくさん、今日も、昨日も、その前も、ずっとずっと……教えてくれたから』
醒める事の無い想いと、癒える事の無い痛みを胸に抱く四百年の月日は、遂に終わりを迎えた。これ以上ない器と、文句のつけようもない結実によって。
彼女への愛の証、憎い男が同胞を狩る為の道具―――それだけの、筈だった。
『私も、愛してるよ』
一方的な片想い。遣り遂げる事のみに意味がある自己満足。報いも、救いも、得られるとは思って“いなかった”。
『……さあ、行け。怖い女が、外で待ってる……』
だからもう、本当に、思い残す事は無い。既に開けておく事も出来ない目蓋の奥で、旅立つ我が子を見送った。
『(見ていたか、マティルダ・サントメール………)』
聖堂が崩れる。力を失った浮遊島が大海へと落ちる。流れ込む水流の暴威に曝されながら、口元には笑みが浮かんでいた。
『(これが俺の、お前への愛だ)』
鎧が燃え、皮が剥がれ、肉が削げて、襤褸を纏った白骨だけが宮殿を漂う。僅かに残る意識の欠片に、少女との日々が蘇る。
しかし、やがてそれも終わりを告げる。彼を運ぶ海流が止むと同時に、骨だけの身体は銀の水盤の上に崩れ落ちた。
『(…………ちっ)』
文句の無い最期に水を差すような終焉の棺に舌打ちをして、眉を顰める。……そうしたくとも、彼には既に舌も眉も無かった。
―――少年と少女が邂逅を果たす、数年前の出来事だった。
「ダーウト!」
「!?」
少し広めの和室で、平井ゆかりの鋭い指摘が近衛史菜ことヘカテーを打つ。
背中をビクリと跳ねさせた小さな少女は、渋々という態度を全身から漂わせながらトランプの山を回収する。
「フフン♪ ヘカテーって顔には出ないけど、結構わかりやすいよね」
意地悪く鼻を鳴らす平井を、ヘカテーが上目遣いで恨めしげに見る。その様子に佐藤と田中が笑った。
何だかんだで和気藹々に楽しむ一同に、悠二は窓の外の景色を眺めながら安堵の溜息を吐く。
「(まあ、普通に遊ぶくらい問題ない、よな……?)」
ここは御崎市から離れた海沿いの片田舎。高校に入ってから親しくなったグループが集まっているのは、季節外れの海の家である。
なぜ悠二らがこんな場所に居るのか? 時は、二十四時間ほど遡る。
……………………
『皆で旅行に行こう!』
ゴールデンウィークを目前に控えた学校の昼休み。いつの間にか日常化していた悠二、ヘカテー、平井、吉田、池、佐藤、田中による昼食の席で、平井が唐突にそう言った。
『旅行って、そんなホイホイ行けるほど皆 金ないだろ』
『だいじょーぶ! うちのじーちゃん家だから、電車代さえあれば行けるって』
『『おおっ!』』
平井の提案に、真っ先にイベント大好きの 佐藤と、非常にノリの良い田中が感嘆した。
親の許可だの男女での旅行だので池や吉田が思い悩み、成り行きが読めずにヘカテーが首を傾げている間、悠二は全く別の事を考えていた。
『(………平井さん、ゴールデンウィークは親と旅行かもとか、言ってたのに……)』
平井ゆかりの両親は悠二と同じく、“狩人”フリアグネの燐子に喰われてトーチとなった。存在の残滓すら薄れ、消えた後には何も残らない。
人々の記憶からも消えて、居る筈の人間が居ないという不自然な現実は、世界の整合性を保つ為に均されてしまう。
「(僕が“そうなってない”のは、偶然『零時迷子』が転移してきた……それだけの事なんだよな)」
そんなこんなで、最終的に参加を決めた池や吉田も伴って、悠二達は平井ゆかりの祖父の海の家に厄介になっている。因みにヘカテーは存外に興味津々であり、悠二の母・千草もこういったイベントを厳しく咎める性格ではない為、悠二も漏れなく参加の運びとなった。
「んじゃ、次『大富豪』で」
「ヘカテー、ルール知ってる?」
「……知りません」
紅世の徒である、という以上に世慣れないヘカテーが輪の中に溶け込むのも、ものの三日と掛からなかった。
持ち前の明るさでクラスのムードメーカーとなりつつあった平井が、『可愛いから』という清々しいほど単純な理由でヘカテーを引っ張り回し、それに佐藤と田中が便乗した為である。
『ヘカテー』という彼女の本名も、いつの間にか渾名として定着してしまっていた。
「……吉田さん、遅いね?」
「何か、じーちゃんが魚捌くトコ見たいんだって。昼ご飯は期待してい賜えよ諸君」
いつまでも好奇の目で見られる事がなくて喜ぶべきか、溶け込んだ先でヘカテーがいつ“やらかしてしまう”かを気にすべきか、複雑な心境の悠二である。
そして、
「……お前ってさ」
周囲の空気に敏感な気配り名人メガネマンは、そんな悠二の内心を目聡く見抜いていた。
「近衛さんの事、ちょっと気にし過ぎじゃないか?」
「うぇ?」
特に悠二が何かしたわけでもないし、何か言ったわけでもないのに、そんな事を言って来る。このタイミングで指摘を受けると思っていなかった悠二は、思わず間の抜けた声を上げていた。
「外国出身で心配なのは判るけど、ちょっと過剰だ。日本語だって完璧なんだし、子供じゃないんだから、そこまで神経質になる事ないだろ」
らしくないぞ、と訳知り顔で眼鏡を押さえる池の言葉に………
「そーそ、俺もそれ前から言いたかった」
佐藤が調子良く便乗し、
「つーか、俺たちにまで気遣う事ないよなぁ」
田中がさりげなく良い事を言い、
「ぶっちゃけウザいよね」
平井が身も蓋も無い一言で、悠二を轟沈させた。
「(ど、どいつもこいつも………)」
人の気も知らずに好き勝手な事を言う四人に、悠二は内心で毒づいた。只の外国出身の世慣れない少女ではないから苦労している………とは、言えない。
「……わかってるよ。気をつければ良いんだろ」
不機嫌な態度を声色に残して、とりあえずそう場を濁すしかなかった。
……実際、もう少しという手応えはある。自在法に限らず、無闇に人間離れした力を使わない事。解らない事は外国出身だからと誤魔化す事。その他もろもろの一般常識。この一週間で、悠二はヘカテーに出来る限り言い聞かせて来た。そろそろ、自分があれこれ口煩くフォローする必要は無くなると悠二は見ている。
この徒の少女、愛想は無いが愛嬌はあるのだ。
「…………………」
そのヘカテーはと言えば、話の流れを飲み下すように一同の顔を順番に眺めて、最終的に悠二の顔に視線を止めた。
これまで悠二が無用な心労を重ねて来たなどと思っていなかったのだろう。その小さな指でズビシ、と悠二を差して……
「私は子供ではありません」
と、のたまった。そんな何気ない仕草も可愛くて仕方ないのか、平井が後ろからヘカテーを抱き竦める。ヘカテーの方も、特に抵抗する事もなく されるがままだ。悠二も別に慌てはしない。既に見慣れた光景である。
「おーい、ゆかりや。昼飯出来たぞ。運ぶの手伝っとくれ」
「はーい!」
台所から声が聞こえて、平井がヘカテーを解放する。戻って来た彼女の手にある新鮮かつ豪華な刺身を見て、一同は一斉に感嘆の声を上げた。
「んっ……はあ、あむ…ちゅ……!」
純白のシーツの上で、豪奢な金髪が乱れる。華美なドレスを引き千切られ、細い肢体を痣になるほど強く掴まれ、“愛染他”ティリエルは一方的に組み敷かれていた。
「んちゆ……ぷはっ……!」
貪られていた唇が放され、口と口の間に銀色の橋が架かる。僅かに離れた視界を、彼女を襲う少年の顔だけが占める。鏡に映したように瓜二つの、彼女の双子の兄の顔が。
「お兄様っ……お兄様……お兄様!!」
済んだ碧眼の中には、優しさの欠片も無い。ただ欲望を満たす……それだけしか無い。
己が欲望のみを残酷なまでの純粋さで追い求める。それこそが彼……“愛染自”ソラトの存在の在り様だった。
「お兄様……私の、愛しい……」
だが、ティリエルはそれで構わなかった。
荒々しく、浅ましいまでの欲望。最愛の兄のそれを、自分に向けて貰える。貪欲に、執拗に、自分を求めてくれる。それ以上の喜びなど存在しない。
それこそが彼女の……“愛染他”ティリエルの存在の在り様だった。
「ティリエル! もっと、もっ――――」
常の様に、決して変わらず、己の欲望に任せて女を求めるソラトの……その嗅覚が、情欲に混じって、疼いた。
「はあっ……はあっ……………お兄様?」
不自然に動きを止めた兄の行動に、ティリエルは胡乱な瞳を向ける。その視線を受けて、何故かソラトは怯えたように跳び退いた。
「ティリエル。ぼく はやくほしいよ、にえとののしゃな! もうちかいよ!」
そして一転、常と変わらない無邪気な姿で駄々を捏ね始めた。こういった彼の気紛れは珍しくもない。ティリエルは少しだけ淋しそうに、しかし微笑んでそれを許す。
「ええ、でしたら そろそろ、揺り籠を作るとしましょうか。捕えた獲物を逃がさない為に」
兄の欲望を、ただ叶える。その喜びに震えるティリエルは、疑問に思わなかった。
何故ソラトが一瞬、ティリエルに怯えた瞳を向けたのかと。