小さな島国の、空港から少し離れた市街の中心を、陽炎のドームが包み込む。その内側で、山吹色の木の葉が花のように舞い散っていた。
「(まったく、討滅の道具ごときに何をグズグズしているのかしら)」
誰も彼もが制止する世界で一人、リボンをあしらったドレスに身を包んだ金髪の少女……まるでフランス人形のような可憐な少女だけが動いている。
その唇が僅かに窄められ、途端に燃え上がった周囲の人間の炎を吸い込み、燃え滓を代替物として残す。
「(本当に、役に立たない護衛だこと)」
炎を吸い終えた唇に二本指を一当てし、鋭く切った。その指先から山吹色の光の帯が伸びて、残されたトーチの一つに突き刺さった。
今は護衛が居ない。香港の時のような事があった時の為にも、頻繁に『揺りかごの園(クレイドルガーデン)』を仕掛けておく必要がある。
「(空港のある街なんかに、あまり長居はしたくないと言うのに)」
彼女の自在法は気配を遮断する効力を持っている。気配察知の自在法でも使われない限りまず気取られる心配はないが、言い換えれば気配察知を使われれば簡単に見つかる。人も徒も集まる空港の近くなどは、他に比べて危険が大きいのだ。
どうせ報酬の一つも渡していない護衛。いっそ、このまま捨て置いてしまおうかと考えながら、少女は霧の世界を歩く。
自在法の仕掛けを広範囲に植え付け、自分たちにとって無敵の陣を施してから、陽炎の異界を解除した。日常を取り戻した人々の中で、一際目立つ彼女はやや軽い足取りで元居た場所へと歩き出す。
自分が居なければ何も出来ない愛しい少年が、今ごろまた何か新たな欲望を抱いているかも知れない。その欲望に応える事にこそ無上の喜びを覚える彼女は、期待に胸を膨らませながら迎えに行き……そこで―――
「汚ねぇな! ゴミ飛ばしてんじゃねぇよクソガキ!」
「こいつ何処のボンボンだ? 財布の中身スゲーんだけど」
「へへっ、外国で大金持ち歩いてると危ないですよー? ぎゃはは」
下劣な人間に踏みつけられる、愛しい少年の姿を見た。
「………―――!」
あまりの光景に、少女は怒声を上げる事すら出来ず目眩を起こしてよろめいた。そうしている間にも、下劣な人間が少女に気付いて何事か喚いている。無論、そんな声は少女には聞こえていない。
聞こえるのは………
「ねぇ、ティリエル、いい?」
ゴミ虫の向こうで、許可を貰わねば“こんな当たり前の事”をする踏ん切りさえつけられない少年の、懇願だけ。
「ええ、お兄様。存分に御上がり下さいな」
それを拒むなど、考えられない。少女の許可を得た瞬間………
「え――――」
人間たちは、血風を巻いて“上半身だけ”飛ばされた。
そして、死体という物体に変わる前に燃え上がり、少年に喰われる。残った下半身が薄く燃えて、元の彼らの姿を形成した。
「まぁお兄様! ちゃんとトーチの分を残せるようになったのですわね! 偉いですわ!」
鎧姿に大剣を握る少年を抱き締めて、少女は頬を擦り寄せ蕩けるような声を上げる。常ならば騒ぎの元にもなりかねないが、幸いにもここは人気の無い路地裏だ(そうでなくとも、彼女は彼の行動のほぼ全てを容認する)。
手放しで褒めちぎられ、抱きつかれながら、しかし少年はつまらなそうに握った大剣を眺める。
「だって、じゃまされたくないから、こんな なまくらじゃない、すっごいけんほしいもん」
「ええ、ええ、判っていますわ」
少年の口から発せられる言葉は、声というよりも“音”。人間の声帯では出せない異質感の塊。
「ねぇ、はやくいこう、ティリエル! はやくほしいよ、『にえとののしゃな』!」
せがまれ、ねだられ、少女は簡単に首を縦に降る。
「ええ、そろそろ出発に致しましょう。お兄様」
護衛との約束など、最愛の兄の欲望の前では無きに等しい。少女は、少年は、紅世の徒“愛染の兄妹”は、欲望の赴くままにその足を進め出した。
昨夜から鍛練を始め、今朝は散々に叩きのめされ、ヘカテーの入浴を待ってから、悠二は痛む身体に冷たいシャワーを浴びた。
もはやヘカテーを完全に家族の一員として扱っている千草も交えて朝食を済ませ、高校からは拒否していた筈の弁当を渡されて、悠二はヘカテーと一緒に学校に―――
「別々に登校しよう」
行きたくなかった。
「…………?」
悠二の意図が読めず不思議そうに首を傾げるヘカテーの頭上に、ヒヨドリが降り立つ。
「だからほら、噂とか立ったらお互いに困るだろ?」
「噂………?」
頭上のヒヨドリと一緒に目をぱちくりさせるヘカテー。予想通りではあるが、やはり悠二の言いたい事は理解してもらえない。
かと言って、
「……何の噂ですか?」
と返されると、応えに詰まる悠二である。さっきの言い方で察して貰えれば楽だったのだが、その内容を直接……しかもヘカテーに言うのは憚られる。
「(でもこのままだと、結局 噂が立ってヘカテーの耳にも入るだろうし……)」
どう言えばいいものかと、悠二が頭を抱えていると、ふと………
「…………………」
ヘカテーの目付きが、スッと細くなった。どことなく不愉快そうな視線は、悠二に向けられたものではない。
向こう側から歩いて来る、肩まで伸ばした髪を金に染めた、いかにもバンドとかしてそうな二十代前半の男に向けられている。その彼が咥えていた煙草が………一瞬にして水色に燃え散った。
「うわ熱ぃ!?」
顔面に炎を受けて慌てる青年。彼が口元を押さえて蹲っている間に、悠二はヘカテーの手を引いて猛然と走りだす。ヒヨドリが飛び去った。
「いきなり何やってんだよ!?」
ほどほどに距離を離してから、鯉のぼりよろしく引っ張っていたヘカテーを下ろして、悠二は叫ぶ。
「煙草が嫌いなのです」
なぜ怒られているか判らないといった顔で即答するヘカテーに、悠二は額を押さえて天を仰ぐ。徒は普通、人と同じ姿で社会に溶け込んでいると言っていたが、当のヘカテーは全くもって溶け込めていない。
「それで……噂とは?」
「………いや、もういい。一緒に行こう」
「? ………はい」
噂以上に、ヘカテーが何かしでかす方が怖い。より厄介な問題を抱える事で、悠二は少年らしい悩みを妥協する事となった。
必要以上の緊張を伴う悠二を余所にして、穏やかに御崎高校の時は流れていく。相変わらず、教師や黒板を大人しく しげしげと眺めるヘカテーは、悠二の心配するような問題を起こしていない。歓迎すべき状況に、何故か そこはかとなく不安を覚える悠二は、そのまま何事もなく昼休みを迎えた。
迎えて…………
「あの、さ、坂井君!」
全く警戒していなかった角度から、完全に予想外の形で、異変は来た。
悠二は、平井を始めとして田中、佐藤、おまけで池あたりに答えにくい質問を連発される事を覚悟して構えていた。
しかし今、悠二と周囲を沈黙させているのは、平井でもなければ質問でもない。
吉田一美……平井の幼馴染みにして、控え目で大人しい少女の差し出して来る、カモノハシ柄の布に包まれた弁当箱だった。
「昨日……その、いつもおにぎりだし、先生にボディプレスしたり、あの……お礼……じゃないけど、っ……カッコ良かったです!」
耳まで真っ赤になって、支離滅裂な事を口走る吉田。恥ずかしいのだろう。弁当箱を差し出す腕より深く頭を下げた彼女は、いつまで経っても顔を上げない。
「『昨日は助けてくれてありがとうございます。凄くカッコ良かったです。お礼ってわけじゃないけど、いつもおにぎりだし、良かったらお弁当受け取って貰えませんか』」
「ッゆかりちゃん!?」
隣から面白そうな顔で通訳する平井に、恥ずかしさが倍増したのか、吉田は真っ赤な顔で叫んだ。無論、平井はニヤケ笑いのままである。
「ほぅ………?」
「あの吉田ちゃんがねぇ。いやはや、“坂井君”もツミヅクリですなぁ」
「チクショウ、何で坂井ばっかり! モテ期か、モテ期なのか!?」
押さえた眼鏡を光らせる池、顎を軽く摘みながら訳知り顔で唸る佐藤、額に青筋を浮かべて喚く田中。無責任に騒ぎ立てながら、男三人が机をくっつけて来た。
当事者たる悠二には、そんなギャラリーに文句を言う余裕は無い。
「(吉田さんが、僕に、弁当………?)」
『女子からお弁当を作って来てもらう』という、非日常関連とは別の次元で現実離れしたイベントに、未だ頭がついて来ていなかった。人間期間も合わせて約十五年間、このテの話と全く無縁だった彼にとって、こういうのは完全に物語の中の出来事なのだった。
「あ、でも……弁当って……」
動揺から、思った事を口に出してしまっていた。朝、母に用意された弁当がある事に気付いて、ついカバンに視線を送る。弁当箱は……無かった。
「いや〜ありがと坂井君。ついつい今日の昼 忘れちゃって♪」
覚えの無い礼に顔を上げると、悠二の弁当は既に平井の手に落ちていた。無論、悠二があげたわけではない。恐らく吉田の挑戦を知っていて、敢えて自分の弁当を忘れてきたものと思われる。「いい仕事したでしょ?」と言わんばかりのウインクが小憎らしい。
「あ、ありがと……」
そうして漸く、悠二は躊躇いがちに吉田の弁当を受け取った。受け取りながら、今さらのように思う。
昨日の弁当騒動は、吉田も見ていた筈。それでも吉田は今日、弁当を作って持って来てくれた。
「(お、お礼だよな。ただの……)」
単に転んで体育教師に落下したお礼。内心で、実は期待の裏返しである割り切りをしながら、悠二は渡された弁当の包みを開く。
「…………………」
そんな一連のやり取りを、ヘカテーは悠二の隣で眺めていた。
吉田は顔を赤くして弁当を渡し、悠二も顔を赤くしてこれを受け取った。何でもないやり取り、自分たちも今朝 千草にして貰ったやり取りで、何をここまで騒いでいるのか解らない。
今、悠二は、ヘカテーを見ていない。それが何故か、少しだけ淋しかった。
「(………ふん)」
内心で小さく鼻を鳴らして、ヘカテーも弁当箱の蓋を開ける。それは、本人も無自覚なパンドラの箱。
「………近衛さんの弁当、坂井君のと中身同じなんだけど」
ピシリと、空気が凍り付く。昨日の段階ならまだ、『千草に弁当を渡すのを頼まれた』だけで確定的ではなかった。が、
「居候ですから」
さらに、ダメ押し。
椅子に座っていた吉田が、儚い吐息を吐いて横倒れに卒倒した。
「…たまたまだよ、大丈夫…弁当の中身くらい……偶然……い、いい居候なんて……」
「たまたまって何が?」
うなされるようにブツブツと呟く吉田に、平井が空気を読まずに返してみる。
「………♪」
因みに吉田の弁当は、ヘカテーが美味しく頂いた。
(あとがき)
誤age失礼。追投稿だとついsageチェックを忘れてしまう………。