海に囲まれた殺風景な香港の空港、その一帯を陽炎のドームが包み込んでいる。内側に舞い散る炎、地に描かれる火線、いずれも桜。
「く……っ!?」
外界と因果を切り離された舞台の中で濁った紫の炎が爆ぜ、黒煙の中から一人の女が弾き出された。
狐の仮面の縁から幾多ものリボンを生やしたメイド、という異様な風体の女は、両足で路面をガリガリと削りながら踏み止まる。
しかし、黒煙を裂いて一人の少年が獣の如く彼女を追っていた。華美な鎧を全身に纏い、兜から豪奢な金髪を覗かせる美少年。その細腕が血色の波紋を揺らす幅広の大剣を振り上げ、仮面の女目がけて容赦無く振り下ろされる。
「(甘い)」
余りに疾く、余りに荒々しい斬撃を、しかし仮面の女は苦も無く防ぐ。仮面から伸びるリボンの一条が刃を止め、次の瞬間には大剣を握る少年ごと投げ飛ばしていた。
錆びたシャッターをぶち抜いて倉庫に叩き込まれた少年に向けて、そのまま桜色の炎弾を放り込む。放たれた弾が爆炎を撒き散らし、倉庫を桜色に炎上させた。
「…………………」
そっと、仮面の女は自身の左肩に触れる。その掌をベッタリと血が汚した。
大剣は止めた。刃に触れてもいないと言うのに、何故か彼女は傷を受けていた。
「……あの大剣型宝具の力でありますな」
「接触禁物」
言いながら、仮面の女は足裏に爆発を生んで後方に跳んだ。一拍の後、たった今 離脱した路面に多数の蔓が鋭い穂先を立てて突き刺さる。
積み上げられたコンテナの上に着地した仮面の女が蔓の出所を目線で追えば、美しくも恐ろしい妖花を背にした美少女……先ほどの少年と瓜二つの美少女が立っている。
その少女が、肩を怒らせ目を吊り上げて怒声を上げた。
「っシュドナイ! あなたがついていながら これはどういう事!? 私の大切なお兄様が火傷でも負ったらどうするおつもりですの!!」
「やれやれ、随分な言われようだ」
燃えるような視線の先……桜色に炎上する倉庫の中から、涼しげな声が返った。直後に倉庫の屋根が内から突き破られ、飛び出した何かが重々しい衝突音を響かせてコンクリートに落ちた。
表面を黒く焦がすそれは、亀の甲羅を二つ合わせた不可解な物体。その姿が蠢いて、変質する。プラチナブロンドの髪をオールバックにし、サングラスとダークスーツを身につけた男のものへと。
ただ、右腕だけが違う。アンバランスに備わった巨竜の手の中に、鎧の少年が無造作に掴まれている。
「そう思うなら、ちゃんと君がソラトの手綱を握っておくんだな。今の君らでは、彼女の相手は勤まらん」
「……紅世の王である貴方が、討滅の道具ごときを随分と高く評価されるんですわね」
「成り立ちがどうであれ、現実に脅威であれば評価もするさ。………しかしまあ、逃がすだけならどうとでもなる」
自分に対する過小評価……ではなく、少年の扱いに眉間を歪めた少女に向けて、男は少年を放り渡した。同時に無数のリボンが彼に突き刺さり、すぐさま紫の炎を受けて燃え散らされる。
「そう……ならばこの場は任せましたわ。事前に打ち合せた通り、先に日本でお待ちしています」
少女からすれば、わざわざ無粋な同胞殺しと争う理由など無い。男……シュドナイの言い分をあっさりと聞き入れて、愛しい少年を抱き抱えたまま足下の花を伸ばして封絶の外へと逃げていく。
その背中を見送る事もなく、仮面の女はシュドナイを睨み続けていた。
「やけに簡単に見逃してくれたな、『万条の仕手』」
「貴方が彼らの護衛でなければ、むざむざと逃がす事も無かったのでありますが」
「未確認情報」
遠く睨み合い、静かに言葉を交わす。両者は今も変わらず戦闘の中に在った。
「大戦から数百年も行方知れずだったお前が今になって姿を見せたという事は……二代目でも現れたか」
再び、男の姿が形を変える。虎の首、鷲の手足、蝙蝠の翼に蛇の尻尾……生き物の身体をとにかくデタラメに組み合わせたデーモンへと。
「……悪趣味な姿でありますな」
吐き捨てた女の仮面から鬣の如く溢れる万条が、鋭利な刃物のように硬質化する。
「くくっ……旧態以前の知己にまで嫌われるか。やはり、“人間”には些か合わんらしいな」
笑う虎の牙の隙間から、紫の炎が溢れ出る。
「さあ、存分に喰らい合おう」
陽炎の世界で、炎と炎がぶつかり合う。
―――坂井悠二と“頂の座”ヘカテーが出会う、二週間前の出来事だった。
四月も末の御崎市御崎高校。零れ落ちたはずの日常に留まる坂井悠二は、しかし切実な窮地に立たされていた。
「えっ、と………」
転校(?)してきたヘカテーという、彼にとっては余人の何倍ものサプライズイベントを経たわりには、午前中の授業は比較的平和に進んだ。
何かとんでもない事をしでかすのではと恐々とする悠二の隣で、ヘカテーは動物園のパンダを見る目でしげしげと授業を観察していたし、授業合間の5分休憩では彼女に迫り来る質問全てを悠二が無難に(面白みなく)捌き切った。
………だと言うのに、今現在、四限目を終えた直後の昼休み、それらの努力が呆気なく無に帰した。
目の前には、小首を傾げて悠二を見上げるヘカテー。そして、彼女の手に在る二人分の弁当箱。
『……おば様から、悠二にも渡すよう頼まれました。一人分も二人分も手間は変わらないからと』
今さらになって、今朝の母が妙に上機嫌だった事を思い出す悠二。転校の事を、ヘカテーは千草には話したのだろう。そして……千草ならヘカテーにお弁当を渡すだろう。無論、ヘカテーが周りの目など気にするわけもない。
「…………同棲?」
硬直した教室の空気が、平井ゆかりの不穏な呟き一つで罅割れる。
『お…………』
放心からの衝撃、それが喝采へと変わる寸前……
「ちょっと……」
悠二はヘカテーの首根っこを掴み、
「こっち!」
そのまま、脱兎の如く逃げ出した。残されたのは、やり場の無い熱狂を持て余したギャラリーだけ。
さりとて、そんな静寂も長くは続かない。
「おのれ逃がしてなるものか! 転校生を初日に独り占めにするなんて暴挙が罷り通るほど、我が1年2組は甘くないよ!!」
「「おうっ!」」
「ちょっ!? 平井さん何してんの!!」
誰より早く教室を飛び出す平井。その平井に引っ張られながらもすぐノリノリで付いて行く佐藤と田中。それを見て、何故か慌ててついて行く緒方。忙しない喧騒が二人を追い掛けて行く。
とはいえ、わざわざ追跡までしようとする熱心な野次馬はそれくらいのものだ。悠二のせいで白けた空気に、多くのクラスメイトはそれぞれの昼食に戻っていく。
その、『いつもの昼食』に戻れない一人……
「………どうしたんだろうね、ホント」
頭脳明晰にして他人への気配りも欠かさないクラスのヒーロー……メガネマン・池速人が、何気ない事をぼやきながら吉田一美の机に自分の机をくっつけた。
もちろん、普段から男女二人で昼食など採っているわけではない。
池は中学からの悠二の友人で、吉田は平井の幼馴染みだ。高校に入って親しくなった悠二と平井に引っ張られる形で、最近は四人で昼食を採る事が多かったのだが……今はその悠二と平井が居ない。
「朝も何か騒いでたみたいだけど、吉田さんも近衛さんのこと知ってるの?」
つまり、池と吉田は悠二と平井を間に置いた関係でしかないのだが、それでも「間が持たない」といった事態を招かないのがメガネマンのメガネマンたる所以である。
引っ込み思案でおとなしい吉田にも積極的に話題を振って、居心地悪くならないよう努め………
「………吉田さん?」
ようとして、吉田の様子がおかしい事に気付いた。悠二らが逃げ去った教室の出口を見つめたまま、何事かブツブツと呟いている。
「……たまたまだよ。大丈夫、きっと違う」
「…………………」
自分に言い聞かせるような吉田の呟きに、池は「何が?」と訊く事が出来なかった。
「で、何でいきなり転校なんだよ」
屋上へ続く階段の踊り場で、悠二はガックリと肩を落とす。勢いで逃げては来たものの、既に手遅れであるように思えてならない。
「……興味がありました」
「…………………」
朝からの疑問に対するヘカテーの応えも、これである。わざわざ彼女を引っ張りだしておきながら、むしろ状況を悪化させてしまったのかも知れない。
悩める悠二の溜め息を余所に、ヘカテーは何食わぬ顔で屋上に出るドアを開けた。……因みに、この屋上は立ち入り禁止だ。ヘカテーが開けた拍子に鎖と鍵がバキリと破れているのはご愛嬌である。
「………はぁ」
純粋に弁当を楽しみにしているらしい弾む後ろ姿を見ていると、自分の悩みが馬鹿馬鹿しく思えてくる。
「(後で、池にでも相談すればいいか)」
悠二もいっそ開き直って、その小さな背中に続く。メガネマンならば、無神経な詮索をせずに協力してくれるだろうと他力本願に納得する。
青空の下でいそいそと包みを解くヘカテーに倣って、悠二も久しぶりの母の弁当に手を付ける。
「そういえば……昨日の僕、あれどうなってたんだ?」
卵焼きを頬張りながら、横目でヘカテーを見ながら朝 訊けなかった事を訊く。見ればヘカテーは、ミートボールを箸で突き刺していた。
「あの時は無我夢中で考える余裕なかったけど、あんなの僕に出来るわけないし」
そう、“狩人”フリアグネとの戦いの最中……悠二は明らかに人間の枠を逸脱した力を発揮し、結果フリアグネを倒した。しかし、それが異常だという事は悠二自身が一番よく解っている。ならば、何か理由があるはずだった。
「……私には、他者と器を重ねて感覚を共有する特殊能力があります。あの時の悠二の動きは、私の感覚を基にしたものです」
「感覚の……共有……?」
イマイチ納得していないらしく、難しそうな顔で考え込む悠二を見ながら、ヘカテーはふと自分の指時計を見た(昨日千草に買って貰った)。
「……言葉で解りにくいなら、実際に試して貰います」
「試すって?」
何やら不安そうな悠二の目を見るヘカテーの眼が、
「次の授業は体育です」
キラリと、物理的に光った。