―――『トーチ』。
紅世の徒が人間を喰らうと、そこに在る筈の存在の欠落によって世界に大きな歪みが生じる。そうして生まれた歪みはいつしか巨大な渦を巻き、紅世もこの世も呑み込む滅亡の時……『大災厄』を招くと言われている。
その歪みを抑える為の緩衝材としての道具こそがトーチ。人間の全てを喰らわず残し、残した存在で構築される代替品。水面に石を投げ入れれば激しい波が起きてしまうが、ゆっくりと水に浸らせれば波紋は小さく済む。その要領で、トーチは少しずつ存在を薄れさせ、少しずつ人々の認識から外れ………誰に気付かれる事もなく消える。
もっとも、これは大災厄を危惧する討滅の道具……『フレイムヘイズ』の理屈だ。歪みを感知して現れる同胞殺しとの無用な争いを避ける為に、徒はトーチを残して歪みを軽減させる。無粋な殺戮者との介入を避ける為なら扉に鍵を掛ける程度の手間など問題にならない。
“頂の座”ヘカテーが、ここ御崎市に現れたのも、それが理由の一つだった。
「えっ、と………」
御崎市の駅前通りに位置する御崎グランドホテルのカウンターで、受付の近衛史菜は困っていた。目の前には小柄な少女。水色の髪と瞳に、大き過ぎる外套と帽子に着られている特徴的過ぎる容姿の少女。そんな少女が……先ほどから恨めしげ(な気がする)視線を近衛から離さないのだ。
「あの、ね? お父さんとかお母さんとかは一緒じゃないのかな?」
彼女はただ、未成年の子供にホテルの部屋は貸せませんよと至極当たり前の事を言っただけだ。何も問題は無い筈なのだが、少女は首を縦に振ってはくれない。ただただ無言で、近衛に不服の視線を送って来る。5分か、10分か、それともほんの数秒か、何とも言えない対峙を経て………
「あ……っ」
水色の少女は何も言わずに踵を返して引き上げる。途中 一度だけ振り返って、近衛の顔……ではなく胸の辺りを見てから、ゆっくりとした歩調で自動ドアを抜けて行った。
「(………何だったんだろ、今の)」
何故か異様に蓄積された疲れを吐き出す様に、息継ぎよろしく溜め息を漏らす近衛。普通なら家出なり迷子なりと判断して警察にでも電話する場面だったのだが……それが出来なかった。そうしようと考えるだけの余裕を、少女のプレッシャーが与えてくれなかった。
中学生かどうかも怪しい、小柄で可愛らしい少女が、である。
「(………まさか、ね)」
そんな筈は無いと、彼女は自分の馬鹿な……実は的中している推測を一蹴した。
その日。
その日も、坂井悠二は当然のように自分の日常の中に暮らしていた。
「敢えて殻を脱ぎ捨てて大物に擬態する、その精神に憧れようと思います!」
家庭は中流。成績は中学の時から中の上下を行ったり来たり。高校一年の4月末、中学の頃に比べればややの破天荒を伴いながらも、新しい高校生活を満足して送っていた。
「殻って言うか貝だと思うけど。それに、カニは大物に擬態してるつもり無いと思うよ」
「カニ違う、タラバガニはヤドカリ!」
その日も、中学以来の友人・池速人が一年の癖に予備校などに行ったので、クラスメイトの平井ゆかりと一緒に駅前のCDショップなどに寄った帰り道……という、最近では珍しくもない日常を過ごしていた。
「ゴールデンウィークどうする? 何か予定とか入ってる?」
「ん〜、お父さんが旅行連れてってくれるとかくれないとか」
「了解。また決まったら教えて」
その日、その時まで……悠二はこんな日常が永遠に続くと思っていた。……いや、そこほでの確信も持たず、当たり前のように無根拠な確信の中にいた。
しかし、そんな日常は、確信は、あまりに呆気なく燃え落ちた。
―――あるいは、燃え上がった。
晩御飯の買い出しがあるからと、平井ゆかりと別れて5分。たったそれだけの距離が、彼の日常を置き去りにした。
「(………えっ?)」
突如として視界に満ちる炎、同じく火線によって描かれた複雑な紋様が広がり、陽炎の壁が異様な世界を隔離する。
「(何だこれ……)」
そんな世界で、それまで何事もなく日常を生きていた全ての人々が、唐突に、不自然に、その動きを完全に止めていた。悠二一人を除いて。
「(何だこれ……!)」
間を置かず、雑踏の真ん中に重い音を響かせて何かが着地する。マヨネーズのマスコットキャラクターそっくりの巨大な人形と、有髪無髪のマネキンの頭を出鱈目に集めた玉。そんな姿の、“化け物”。
「(何だこれ!?)」
もはや悪夢さえも通り越した、全く馬鹿な光景だった。あまりの有り得なさに声も出ない。なのに、それを笑い飛ばす事も出来ない。“それでも現実は止まらない”。
「いただきまぁ〜す!」
人形の口が耳まで裂けて、首玉の口が横一閃にパックリと開かれる。途端―――制止した人々が猛烈な勢いで燃え上がった。その炎は悠二を焼かず、熱も持たず、しかし異常な明るさを持って……糸の様に細まって化け物の口に吸い込まれていく。
炎の内に在る人々は燃えない。髪を焦がされる事も肌を爛れさせる事も無い。ただ………吸い込まれるに従って炎を小さく、弱く、薄くさせていく。
悠二はそんな光景を、ただ放心の中で眺めていた。こんな状況に在って、それ以外の何が出来ると言うのか。
「ん〜? 何だこいつ」
このまま全てが終われば、この出来事を不可解な悪夢として、再び日常に戻れたのかも知れない。だが、そんな事は起こり得ない。耳まで裂けた人形の眼が、遂に立ち尽くす悠二の姿を捉えた。
「御徒ではないわね。“ミステス”……それもとびきりの変わり種という事かしら。ご主人様に良いお土産が出来たわ」
「わ〜い、ボク達お手柄だぁ〜!!」
この世界に取り込まれた時、すぐに逃げ出せば何とかなったのだろうか。……いや、そんな事は無いだろう。理由は判らないが、皆が止まっている中で一人だけ動いている自分が異質な事くらい判る。逃げ出せば即座に見つかり、あっという間に捕まっていただろう。
「……う、うわ……!」
こんな風に。
だから、何をするにも遅過ぎたのだ。この煉獄の世界に取り込まれた時点で。
「(死ぬ――――)」
巨大な掌に胴体を乱暴に掴まれ、振り回され、持ち上げられ、向かう先は彼を一呑みに出来る巨大な口。
全てを諦め、ただ死を待つだけの彼の視界が……
「え……?」
支えを失って下に、流れた。一拍遅れて―――
「ぎゃああああああ!!?」
耳をつんざく様な化け物の悲鳴が響き渡る。その音に根源的な恐怖を覚える寸前で、尻、背中、頭の順に路面に打ち付けて激痛に苛まれた。
「(た、助かった……?)」
その痛みすらも生への安堵に塗り潰される直後、先ほど悠二を掴み上げた怪物の腕……その肘から先がボトリと、悠二の隣に落ちた。
「うわあぁ!?」
蜥蜴の尻尾の様に藻掻き動いて燃え朽ちる腕のおぞましさに、しりもちを着いたまま無様に後退る。
そうして距離を取る事で、その姿を見た。
「―――――――」
血のように赤い夕焼けの中で、日常から外れた逢魔が時で――――彼と彼女は、出会った。
純白の法衣に身を包んだ、明る過ぎる水色の髪と瞳の少女。淡い光を灯す、怖いくらいに澄んだ姿に見惚れること数秒………
「いぃ痛いッ……痛い痛い痛い痛い痛いィ! よくもボクの腕をーーー!!」
腕をもがれた怪物の苦悶の声が、悠二を目前の危機へと引き戻した。ここに到ってようやっと、悠二は先ほど何が起こったのか本能的に理解する。あの怪物の腕を、あの少女が落として、結果自分は助かったのだと。
「待っ……」
首玉が何か、制止の様な言葉を掛けようとする。それを待たずに、我を忘れて豪腕を振り上げる怪物を……少女が横目に一瞥した。
それだけ、たったそれだけで………怪物は声を上げる事すら出来ずに水色の炎に呑まれて呆気なく消えた。
悠二はやはり、黙って見ているだけ。
「………部下の非礼をお許し下さい、御徒。しかし……一体どういうおつもりですか?」
仲間がやられたというのに、首玉は反撃するでもなく頭を下げ、やけに丁寧な口調で少女に謝る。………言葉の最後に詰問に似た問い掛けを混ぜて。
少女は応えない。目すらも向けない。ただ一歩ずつ足を進めて………悠二の前にしゃがみ込んだ。
「……ぇ、あ?」
この行動に、悠二は大いに驚いた。自分は巻き込まれた側だと認識していた為に、少女が化け物を無視して自分に向き合うなどと考えもしていなかったのだ。
狼狽する悠二にも、やはり少女は構わない。傍らの路面に錫杖を突き立て、目を閉じ両手を組んで制止しまった。その姿は……まるで神に祈りを捧げる巫女そのもの。
「…………やはり、手が加えられているようですね」
やがて抑揚の無い声で呟いた少女は緩やかな動きで立ち上がり、やっとそれまでずっと待たせていた首玉の方を向いた。
「……これは私が貰います。帰って主にそう伝えなさい」
そして、一方的に自分の要求だけを告げた。自分たち……ではなく、自分たちの主をも軽んずる物言いに、流石に首玉の空気が不穏に変わる。
「御言葉ですが、ここは我が主の住まう狩場。それを無遠慮に荒らすというなら、主も黙ってはいませんよ」
「ならば選んで下さい。その口で私の要求を主に伝えるか、それとも自身の消滅を以て私の存在を主に知らせるか」
脅しと、脅し。しかし、それの持つ意味がまるで違う事は、傍で見ているだけの悠二にもハッキリと判った。両者の間に漂う空気が、力の差を歴然と物語っている。
「………………」
「………………」
一方にだけ、緊迫と恐怖を与える沈黙が数秒、
「……………仕方、ありませんね」
諦めた様な首玉の呟きと………
「ッあああああぁぁ!!?」
“首玉でも少女でも無い絶叫”が、悠二の真後ろで木霊した。
「な、何で……!?」
堪らず振り返るとそこには、初めて見る女性……“三体目”が、水色の炎に焼かれて崩れ落ちていた。
「それがそちらの応えですか」
その少女の呟きが、悠二に“自分が狙われた”という事を気付かせる。奇襲の失敗に覚悟を決めたのか、首玉も先までの物分かりの良い仮面を脱ぎ捨てて鬼の形相で少女に突っ込んで来た。
数多の首全ての口が限界まで開かれ、そこから薄白い炎の弾丸が少女に放たれる。
「消えなさい」
それも、全くの無意味。少女の掌から放たれた水色の炎に容易く蹴散らされ、首玉もまた……叫びすら許されず無に帰った。
怪物の消えた、未だ燃え続ける陽炎の世界で、悠二は少女の背中だけを眺めていた。