――アンリエッタの心は、恐怖によって押し潰される寸前だった。 まるで創世神話に登場する雄々しき巨人のように悠然と立ち、敵艦隊の攻撃からトリステイン軍を守っていた巨大ゴーレムの一体が膝をついたとき。馬上に在ったアンリエッタは小さく震えた。 土の山となったゴーレムの周囲に、大勢の人間が集まっているのが見える。彼らが崩れた土砂に埋もれた者たちを救い出そうとしているのだと気付いたアンリエッタの震えが、さらに大きくなった。 これまで、絵巻や吟遊詩人の語りでしか知らなかった戦場というものの現実。そうだ、ここは多くの死が撒き散らされる場所なのだ。そのことを改めて思い知らされた。 そんなところへ、わたくしは大切な『おともだち』を送り込んだ。それも、自分と同じように戦などとは全く縁のない年若い娘を、己が恋に浮かれてしでかした不始末の尻拭いと、女としてのわがままを通すためだけに。「無知とは、大きな罪なのですね……」 悔恨の涙が姫君の顔を濡らそうとした、その直前。巨兵の一体が砲弾の雨を浴びて崩れ、土塊となり――さらに数体が、二度と再生できぬ程に砕かれた。 それを見た麗しき姫君は、ついに恐怖に屈した。既に参戦当初の――死後の世界ヴァルハラで、愛するひとに会いたい。などという甘ったれた気持ちは、敵艦隊の斉射によって忘却の彼方へと吹き飛ばされている。 今の今まで知らなかった、いや、理解すらしていなかった死に対する畏れが、アンリエッタの口から悲鳴を上げさせようとした刹那。サンドリオン王の声が周囲に響き渡った。「狼狽えるな、まだ策はある! 『始祖』の加護と、余を信じるのだ!」 溢れ出そうになっていた恐怖の叫びは、この声によって辛うじて堰き止められた。胸を押さえ、大きく深呼吸して息を整える。 そうだ、わたくしが取り乱したところを見せたが最後、畏れが全軍に伝播してしまう。そうなれば、恐慌状態に陥った軍は総崩れとなり――トリステインは、6000年の歴史に幕を降ろすことになるだろう。 つい先日、己の声がいかほどの<力>を持つのかを理解したアンリエッタは震える身体に鞭打つと、背筋をぴんと伸ばした。胸を反らし、キッと敵軍を睨み付ける。すると、それまで周りから聞こえていた悲鳴混じりのざわめきは、ぴたりと止んだ。 視線だけで、そっと遠縁の叔父の顔を覗き込んだアンリエッタは、彼の顔に驚きと、それでいて嬉しそうな笑みが浮かんでいるのを確認した。「どうやらわたくしは、ここへ来てから初めて陛下のお役に立てたようですわね」 誰にも聞こえない程の小声でそう漏らしたアンリエッタは、我知らず微笑んだ。このかたは、いつもこうやってわたくしを支えてくれる。『英雄王』と名高い祖父や、名君と評判の父王が深い信頼を寄せていたというのも頷けるというものだ。 アンリエッタは、かつて口さがない宮廷雀たちが流していたサンドリオン王――ラ・ヴァリエール公爵に関する噂を耳にしたことがある。 曰く、「自領の運営だけが大切で、国を一切顧みようとしない不忠者」 だの、「王軍以上の兵力を持っているのに領土を拡張しようとしないのは、彼が貴族にあるまじき腰抜けで、臆病だからだ」 などという、本人が耳にしたら噴飯し、夫人が聞いたら王宮ごと空の彼方へ吹き飛ばされそうな噂話だ。「馬鹿なひとたち。彼らは今の陛下を見てもなお、あんなことが言えるのかしら」 そもそもラ・ヴァリエール公爵が国政に関わらないのは、自領の維持と国境の守護を職務とする封建貴族であり、領土を持たず王政府から仕事を引き受け、その内容に応じて給料が支払われる宮廷貴族とは根本から異なるからだ。もしも、彼が本来の役目を果たすことなく宮廷政治にうつつを抜かしていたら、今頃トリステインはゲルマニアに併呑されていたかもしれない。 命を賭して、他国の脅威から国を守る。これ以上の忠義が他にあるだろうか。 現に、ラ・ヴァリエール公爵は祖国が滅亡の危機に瀕した今、王となり軍を率いて戦場へ赴いた。彼が本当に臆病者なら、アンリエッタの言葉など無視して自領へと引き返し、彼女の母マリアンヌのように部屋に籠もっていただろう。そのまま『レコン・キスタ』に恭順すれば、命を永らえることもできたはずだ。にも拘わらず、あえて反撃の旗手となった。 そして今もまた、恐怖で折れそうなわたくしや自軍の兵士たちを鼓舞し続けている。 敗北すればここで死ぬ。もし生き延びたとしても『レコン・キスタに反逆した愚か者』として断頭台の露と消える運命を自ら背負った人物が、腰抜けなどであるはずがない。 そんな貴族の鑑とも言うべき人物に対し、今、わたくしができることは……こうして畏れなど感じていないというかように振る舞うくらいだ。戦を知らぬ女が怖がらなければ、殿方たちはどっしりと構えていられるだろう。いいえ、動じては恥だと考えるに違いない。だから、わたくしはもう怯えを表に出さない。出してはいけない。 ……と、決意してはみたものの、やはり怖いものは怖い。アンリエッタは天を仰ぐと、小さく祈りを捧げた。「トリステインの全ての民と、勇敢な国王陛下に――どうか『始祖』のご加護を」 ――その直後。空から最初の奇跡が舞い降りてきた。○●○●○● 始めに気がついたのは、空に上がって周囲を警戒していた風竜隊の見習い騎士だった。「あれは……鳥? いや、竜か?」「どうした、ルネ。まさか敵の増援か?」 同じ風竜隊の見習い騎士が声をかけた。彼らはまだ、その顔にあどけなさを残している。例の結婚式の影響で、大勢の正騎士たちが先遣隊としてゲルマニアへ派遣、あるいは休暇を取って隣国へ旅立ってしまっている。結果、まだ叙勲されていない少年兵たちが駆り出されているのであった。「アッシュ! 敵かどうかはわからないけど、南の空から――」 ルネと呼ばれた竜騎士の少年は、天を指差した。すると、彼が見つけたものがみるみるうちに大きくなる。それがとてつもない速さで近付いてきているからだと気付いたのは、それからしばらく経ってからのことだった。 次にそれを目にしたのは、王軍本陣上空に陣取っていたグリフォン隊の隊長、ワルド子爵だった。「なんだ? あの竜は……どこの所属だ?」近くには一騎だけしかいないようだが、もしも敵の増援による偵察だとしたら、看過できない。すぐ側に本隊が潜んでいることに他ならないからだ。 いざというときは『レコン・キスタ』に走ってもよいというお墨付きをもらっているとはいえ、今の状況でそんなものは、命綱になどならない。 ワルドは腰から素早く軍杖を引き抜くと<遠見>の呪文を唱えた。魔法はすぐに完成し、まるで目の前にいるかのように異物の姿が大写しになった。「竜ではないな。そもそも、生き物かどうかも怪しい」 カヌーの両脇に細長い板を取り付けたようなその物体は、金属で出来ている。鋼の皮膚を持つ生き物など、ワルドは聞いたことがない。おまけに翼をはためかせることなく滑空している。竜というよりも海鳥――カモメのようだ。もっとよく観察しようと目を細めた彼は、舳先に信じられないものを見つけた。「あの桃色の髪…… まさか、ルイズ!? それと、前にいるのは……妙な帽子と仮面のせいで顔は見えんが、もしや学者殿か?」 と、いうことは。あれは東方の魔法具か。どちらにせよ、早急に陛下のお耳に入れねばなるまい。そう判断したワルドが報告のために地上へ降りようとした直後。周囲から驚きと歓喜が入り交じったような叫び声が上がった。「信じられん! アルビオンの火竜が、あんなにあっけなく……」「見ろ! もう2騎……いや、今3騎目が墜ちたぞ!!」「あんな竜、我が軍にいたか? いや、そもそも味方なのか!?」「アルビオンの狗どもを駆逐してくれたんだ、味方に決まっている!」「あ、また1騎墜ちた!」「奇跡だ……我々は今、奇跡を目撃しているのだ!」 そうこう言っているうちに、巨大戦艦の周囲を舞っていた火竜の姿が見えなくなった。全て件の『竜』によって撃墜されたのだ。 歓声の中、ワルドは思わず独りごちた。「あれが虚無の使い魔の<力>か。やはり、僕の判断は間違っていなかったようだ」 トリステイン軍の声援を背に、鋼鉄の鳥はさらに前へ前へと進んでいく。その先に在るのはアルビオン空軍艦隊旗艦『レキシントン』号。「ルイズ……学者殿。見届けさせてもらうよ、伝説の復活をね」 瞬く間に火竜を撃ち堕とし、さらに巨大戦艦に迫る竜をその目にしかと焼き付けたアンリエッタは、救いの手を差し伸べてくれた『始祖』に対して心の中で感謝を述べた後、王の隣へ馬を寄せた。「陛下。あれが『鷲』ですのね?」 ところが、戻ってきた声にはいくばくかの畏怖と、戸惑いが混じっていた。「違う。あれはわし……いや、余が手配したものでは……」 呆然と見上げるサンドリオン王の視線の先で、彼の困惑の原因が『レキシントン』号の真上目指して上昇し――数分ほど上空をぐるぐる飛び回っていたかと思うと、猛然と急降下を開始した。 ――それが、ふたつめの奇跡の始まりだった。○●○●○●「これはいったいどうしたことだ!」「わかりません。陸に近い海の天気は変わりやすいものですが、ここまで極端な変化など、聞いたことがありません。それも、こんな――」 アルビオン艦隊は混乱を極めていた。無理もない、つい先ほどまで雲ひとつない快晴だったにも拘わらず、突然発生した濃霧によって、視界が完全に遮られてしまったのだから。「風メイジの魔法で、なんとかならんのか?」「無理です。既に試してみましたが、霧を吹き飛ばすことはできませんでした。かなりの広範囲に渡って発生しているものと推測されます」「他の艦との連絡は?」「できません。霧が濃すぎて手旗信号が見えず、使い魔同士の交信も不可能。竜騎士隊は全滅。たとえ残っていたとしても、この状況では飛べないでしょう」「ならば、霧の外へ脱出すれば……」「それは危険です! 他の艦の現在位置すら取得できません。この状態で動けば味方同士で衝突し、轟沈する可能性が――」「では、どうすればよいというのだ!」「……早くこの霧が晴れるよう『始祖』に祈るしかありません」 ダンッという、何かを叩いたような音が周囲に響いた。しかし、それすらも濃い霧に阻まれ、誰の目にも見えなかった。 ――いっぽうそのころ、霧の外……空の上では。「大丈夫か? ルイズ」「ええ、少し休めば平気よ。ちょっと魔法を使いすぎただけだから」 才人にぐったりと身体を預けながら、ルイズは返事をした。彼女はまるで肌触りの良い椅子に座っているかのように、彼にもたれかかっている。大きな仕事をやり遂げたあとに生じる心地よい疲労感と才人の温もりが、彼女を優しく包み込んでいた。 眼下に広がる霧を見ながら、才人は訊ねた。「これ、あれだろ? アルビオンの……」「ええ、大陸の下にあった霧をイメージしてみたの。ウェールズ殿下が仰っていたでしょう? 貴族派連盟には、あの霧の中で動けるような腕のある航海士がいないって」「なるほどな。だから、霧で艦隊を包み込んだってわけか」 カタカタと刀身を揺らしながら、デルフリンガーが笑った。「いやぁ、今度の『担い手』は頭がいいねぇ。これなら時間稼ぎにゃピッタリだし、何より相棒もお前さんも、危険な目に遭わずに済む。いいことずくめやね」「ほ、褒めたって何も出ないんだから!」「しかしなんだね、ちと張り切りすぎたんじゃないかね?」「まあ、さすがにこれはなあ……」 相棒の発言に、才人は同意した。それもそのはず、ルイズが<幻影>の魔法で創り出した霧は、艦隊はおろか戦場の周囲数リーグを覆い隠している。それ以外で唯一目に映るのは、ラ・ロシェールにそびえ立つ世界樹のてっぺんだけという有様だ。「まさかとは思うけど、霧で地上まで隠してたりしないよな?」 呆れたような声で問う才人に対し、ルイズは顔を真っ赤にして抗議した。「そんなことするわけないでしょう! 艦隊が浮かんでた高さより下は、そのままよ。全部包み込んだら敵だけじゃなく、トリステイン軍も動けなくなっちゃうじゃないの」「それならいいんだ。お前たまにやり過ぎるからさ、つい心配になっちまって」「わわ、わたしがいつやり過ぎたって言うのよ!」「俺が知ってるぶんだけでも、最初から全部教えて差し上げましょうか? って、おいこら暴れんな、危ないだろうが!」「う、うるさいわねッ! だいたいあんたは、いつもそうやってひとをバカにして――」 と、身体ごと向き直って拳を振り上げたルイズが、まるで糸が切れた操り人形のように、ふにゃりと崩れ落ちた。「お、おい、ルイズ!?」 慌てる才人の耳に、デルフリンガーの間延びした声が響く。「単に気絶しただけだ。どでかい魔法を撃って疲れてた上に、お前さんと馬鹿話したことで緊張の糸が切れたんだろ。大仕事の後なんだ、そのまま寝かせておいてやんなよ」 エンジンの爆音に掻き消されて聞こえないが、どうやらルイズは寝息を立てているようだった。才人に抱きつくような格好で、胸に顔を埋めている。「そうだな――って、おい、ちょっと待て。ルイズが寝ちまったら、あの霧は……!」 才人の懸念通り、まるで漆喰の壁のような霧が、徐々に薄れていくではないか。「やばいだろこれ! 霧出してから、まだ10分くらいしか経ってねえんだぞ!? こんな短い時間じゃ、ゴーレム立て直す時間が……」 慌ててルイズを揺り起こそうとした才人を、デルフリンガーが止めた。「無理だよ。嬢ちゃんは<精神力>をほとんど使い切ってる。さすがにもう一発撃てっつうのは酷だと思うぜ」「で、でも、それじゃあ下にいるひとたちが……」「そうは言っても、お前さんたちにゃこれ以上できることはないだろ。だから――」「だから、なんだよ?」「違う、そうじゃねえ」 先程までとは一転、デルフリンガーの声音に緊張が混じる。「東から、デカいもんが近付いてくる。たぶん、武装したフネだ」 才人の顔が強ばった。背中に冷たい汗がじとりと滲む。「トリステインには、もう軍艦残ってないんだよな? てことは、敵の援軍か!?」 右手でルイズをしっかと掻き抱き、左手で操縦桿を握り直す。燃料計を見る。ガソリンの残量は、正直心許ない。だけど、何とかここで食い止めなきゃ――と、東の空を睨む。 ややあって、まるで和紙の上に墨汁を垂らしたように、問題のフネがじわりと現れた。照準機を覗き込んだ才人は、それを見て小さな笑い声を上げた。笑い声は、徐々に大きくなっていく。最後にはもう、泣き笑いになっていた。「お人好しのバカは、相棒だけじゃなかったみたいだね」 デルフリンガーの率直な意見に、才人は頷いた。「ああ、そうだな。なんせ命と引き替えに守ろうとしてたくらいだもんな。一隻じゃ勝ち目なんてないってわかってても……駆けつけてくるよなあ」 操縦桿を倒す。また例のドラゴンみたいなやつが近付いてきたら、あのフネだけでは対抗できないだろう。だから、次に俺が守るのは――!○●○●○●「今のうちに怪我人の搬出を。残った者たちは再編を急ぎなさい!」 カリンの命令を受けた兵たちが、わらわらと動き出す。それなりに整然としてはいるものの『英雄王』の時代に前線で戦っていた彼女から見た彼らの動きは、あまりにも緩慢で雑だった。ヴァリエール家が誇る国境防衛軍の兵士たちがこんな醜態を晒したが最後、特訓という名の強烈な罰が待っている。 そういえば――と、カリンは思った。夫がトリステインの王に即位したのだから、わたくしは今、王妃なのだ。つまり、国王不在の間に腑抜けてしまった王軍に、直接喝を入れられる立場になったということだ。「これは、相当気合いを入れてかからねばなりませんね」 兵士たちには見えぬよう、カリンはふっと息を吐いた。もちろん、これには王軍の不甲斐なさに対する呆れが多分に含まれていたのであるが――もうひとつ、彼女には溜め息をつかざるを得ない理由があった。 『烈風』は、胸の内で思わず漏らした。「まったく、あの子ときたら……あれほど目立つ真似は控えるようにと言い聞かせていたというのに」 アルビオンの火竜騎士団と謎の竜の対決を、カリンはしっかり見届けていた。その上で、あれほどの敏腕騎手が何者なのか確かめようと<遠見>して、知ってしまったのだ。あれは間違いなく末娘のルイズと、護衛の少年サイトだ。 あの竜についてはわからないが、この霧の発生源はおそらくルイズの<虚無>だろう。『鋼鉄の規律』としては、この戦が終わり、無事戻ることができたなら――改めて、ふたりに厳しく言い聞かせなければならないだろう。それから、いつの間にあのような魔法を覚えたのか、問いたださねばなるまい。 とはいうものの、彼女は別に怒ってなどいなかった。夫が聞いたら眉を顰めるだろうが、心の内では小さな喜びを覚えていた程だ。「本当に、あのひとが言った通りだわ。どうやらあの子が、わたくしの血をいちばん濃く受け継いでいたようね」 生真面目なところは夫にそっくりだが、それ以外――臆病で、弱虫で。そのくせ負けん気が強く、自ら進んで危険に飛び込んでゆく。 ――貴族たるもの、敵に後ろを見せてはならない。 己の教えを体現している娘。もしもあの子が普通のメイジで、男だったなら――あのひとやわたくしをも超える、立派な騎士になっていたことだろう。 そんな母として、騎士としての想いは、周囲を警戒していた兵の叫びで断ち切られた。「霧が――霧が、晴れてきました!」 カリンは急いで思考を切り替えると、現在の状況を確認する。崩れたゴーレムの復元は成らなかったが、既に<精神力>の切れた者や怪我人の撤退は上手くいった。壊れかけていた巨兵の再生も済んでいる。 時間にしてほんの10分程度の休息だったが、戦場ではそのわずかな時間が勝敗を分けることも珍しくない。ルイズとサイトは、トリステインに勝利の好機を与えてくれたのだ。もっと長く霧が残ってくれていれば、単騎で敵の陸軍に攻撃を仕掛けることも検討していたが……贅沢は言うまい。 次の指示を与えるべく、カリンが声を張り上げようとした直後。今度は別の警戒兵が大声で報告した。「東の上空より、何かが近付いてきます! あれは、アルビオンの……」 前線に緊張が走る。だが――それは、すぐさま驚きに取って変わられた。 改めて<遠見>で確認したカリンは、ふっと小さく笑った。「どうやら、間に合ったようですね」○●○●○●「敵、ではないようですな。それどころか、わたくしどもを守ろうとしているようです」 老齢のメイジが傍らの椅子に座す主君にそう進言すると、相手も同意の頷きを返した。「パリーの言う通り、彼らは僕たちの味方ですよ」「息子や、何故そう言い切れるのじゃ?」 老いたかつてのアルビオン王――ジェームズ一世は、窓の外を<遠見>で観察し続けていた息子に問うた。「あの竜に乗っているのは、ミス・コメット――ヴァリエール嬢です。おっと、今はトリステインの姫君でしたな。前にいる竜騎士の顔までは、残念ながらわかりませんが」「なんと! まさか娘まで参戦させるとは。ヴァリエール公爵、いや、サンドリオン王はまさに血戦の覚悟で戦場に立っているのだな」 父の言葉に、息子――ウェールズは頷いた。彼の瞳には、強い決意の光が宿っている。「この艦は朕に任せよ。おまえは隊を率いてサンドリオン王をお助けするのだ」「はい。これは、行くあてさえ無き我らに隠れ住む場所と、未来への希望を与えてくれた彼らに恩を返す、絶好の機会です。逃すわけにはいきますまい」 それから王子は、父王の側に立つ老臣に命令を与えた。「父上を頼むぞ、パリー」「お任せください。殿下、ご武運をお祈りしております」 マントを翻し、船室から甲板に出たウェールズは、自分たちを守るように飛び回る竜に視線を向けた。すると竜騎士が仮面を外し、こちらを見て手を振ってきた。「あれは――あのときの」 間違いない。アルビオンから脱出する際に『イーグル』号の舵を取った少年だ。ウェールズが笑みを浮かべながら手を振り返すと、彼は竜を操り、くるりと宙返りしてみせた。並の腕では、あんなふうに飛ぶことはできない。火竜騎士団の中にも、数名いるかどうか。「いやはや、たいしたものだ。艦の操舵だけでなく、竜まで自在に操れるとは。これはもっと強引に、我が軍へ勧誘しておくべきだったかな」 頭を掻きながら歩みを進めると、その先で戦装束に身を固めた兵士たちが待っていた。彼らは革命戦争時から今までずっと、共に戦ってくれた心強い臣下であり――仲間たちだ。 にいっと悪戯っぽく笑った王子に、貴族たちはこれまた似たような笑みで返した。どうやら僕たちは、同じような心境にあるらしい。そう考えた王子は、声を上げた。「野郎ども! 俺たちの敵は『レコン・キスタ』だ! 思う存分暴れるぞ!!」「おお――ッ!!」 ウェールズが、かつて空賊の真似事をしていたときのような号令をかけると、臣下たちは満面の笑みを浮かべてそれに乗った。そのあとすぐに本来の顔に戻った王子と貴族たちは、急いで降下のための準備を始めた。○●○●○● ――これは夢だ。 アンリエッタの身体が、再び震えた。こんなことが、あるはずがない。だって彼らは、炎の中に消えたはず。だからわたくしは、夢を見ているのだ。恐怖や絶望に負けて精神を砕かれた者たちが見るという、儚くも美しい幻を――。 驚愕に打ち震えていたのは、彼女だけではなかった。周囲を固める将兵たちも、グラモン元帥でさえも、霧の向こうからやってきたものが信じられなかった。 霧の奥から現れたのは、側面を黒いタールで塗られたアルビオンの巡洋艦。普通なら、敵の増援だと考えただろう。しかしマストの上に翻るものが、それを明確に否定していた。 深紅の火竜紋が縫いつけられた旗。あれは、既に滅亡したはずのアルビオン・テューダー王家にのみ許される座上旗だ。つまり、ごく一般的な常識で考えるならば。あのフネにはアルビオンの元国王ジェームズ一世、もしくはウェールズ皇太子が乗っていることになる。 そして、そのフネを先導するかのように、先程『奇跡』を見せつけた竜が舞っている。 『イーグル』号の出現に驚いたのは、トリステイン軍だけではなかった。アルビオンの陸軍も、艦上の将兵たちでさえも。驚愕のあまり口が利けないでいた。 まるで時が凍り付いてしまったかのように、戦場は静寂に包まれていた――唯一の例外である濃緑の竜が発する遠雷のような爆音を除いた全てが、その場で停止していた。 ――そんな中、最初に動いたのはサンドリオン王だった。彼はゼロ戦を指差すと、至極真面目な顔をして叫んだ。「皆の者、あれは竜などではない! 伝説の鳳・フェニックスだ!」 すぐ側にいたグラモン元帥が驚きの声を上げた。「フェニックス…… 炎と再生を司るという、あの伝説の不死鳥かね!?」 将兵たちがざわめく。「いかにも! 『始祖』ブリミルがフェニックスをトリステインに遣わし、死後の世界ヴァルハラからテューダー家を呼び戻してくださったのだ。我らを窮地から救うために!」 王の声に応えるかのように、黒塗りの巡洋艦から次々とメイジたちが<フライ>の魔法で飛び降りてきた。彼らの先頭に立っているのは、明るい紫のマントを身に纏い、七色の羽根飾りのついた帽子を被った見目麗しい青年だった。「あの装束は、アルビオン王家の象徴……」「すると、あれは霧ではなく、不死鳥の炎から生じた煙だと……?」「で、では、やはり……!」 ざわめきが周囲に広がってゆく。それを見計らったかのように、サンドリオン王は再び声を張り上げた。「そうだ! 『始祖』の加護は我がトリステインと、彼らテューダー王家にあり!」 戦場で、歓喜の声が爆発した。「うおおおおッ!」「フェニックス万歳! トリステイン万歳! テューダー王家万歳――ッ!!」 昂揚する軍の中に在っても、アンリエッタはまだ呆然としていた。 ざくり、ざくりと砂を踏む足音が近付いてきても、彼女の意識は宙を漂っていた。 ――死の直前、ひとは幸せな夢を見るという。そうだ、わたくしはきっと砲弾の雨に打たれて死んでしまったのだろう。ウェールズさまと同じように戦場に散ったから、こうしてヴァルハラへ来ることができたのだ。その証拠に、ほら、あのひとが迎えに――。 君までここへ来てしまったのかい? そんなふうに声をかけられるとばかり思い込んでいた姫君だったが、彼女の思いは見事なまでに空振りした。自分を迎えに来てくれたはずの恋人が、真っ先にサンドリオン王の前に立ったからだ。「私は、この隊を指揮するウェールズ・テューダー。王党派貴族総勢200名、トリステイン軍にお味方する為参上した」 ウェールズの宣言と同時に、王党派の貴族たちが一斉に杖を掲げる。それを見聞きしたトリステイン軍の将兵が、再び歓呼の叫びを上げた。大隊規模の援軍、しかも全員がメイジという構成だ。さらに彼らは『始祖』の加護を受け、ヴァルハラから舞い戻ってきた勇敢な戦士。盛り上がらないほうがおかしかった。 ここに至ってもまだ、アンリエッタはこれが夢ではなく現実なのだと信じることができなかった。 ……と、ウェールズが彼女の側へ近付いてきた。それから、怒ったような……それでいて困り果てたような顔をして言った。「やれやれ。君は水の精霊(オンディーヌ)の化身だと思っていたのに、まさか戦乙女(ワルキューレ)だったとはね。こんな戦場にまで飛び出してくるなんて、おてんばなのは昔から変わらないな」 おちおち死んでもいられない。などと笑えない冗談を飛ばすウェールズを前にして、アンリエッタは混乱の極みにあった。「僕の顔を忘れてしまったのかい? アンリエッタ」 胸の鼓動が早まる。ようやく絞り出した声は、掠れていた。「嘘、嘘よ。だって、ウェールズさまは炎に巻かれて死んだって……」「それは驚きだな! じゃあ、いま君の前に立っている僕は誰なんだい?」 想って想って、想い焦がれた愛しいひとにしか見えない。けれど、アンリエッタはどうしても信じられなかった。これは夢か幻、もしや魔法の類ではないだろうか。 馬上から潤んだ瞳で自分を見下ろす従兄弟姫をまっすぐに見返しながら、ウェールズは自分が自分であることを証明するための言葉を紡ぎ出した。「――風吹く夜に」 アンリエッタは息を飲んだ。それは、ラグドリアンの湖畔で幾度も交わした合い言葉。「水の、誓いを……」 正解だ、と言わんばかりに爽やかな笑みを浮かべ、ウェールズは両手を広げた。アンリエッタは我を忘れて彼の胸に飛び込んだ。「おお、ウェールズさま。ウェールズさま……!」 姫君を受け止めた王子は、苦笑した。「君は相変わらず軽いな! いいや、昔よりも少し細くなっているぞ? 駄目じゃないか。毎日きちんと食べないと、身体に良くない」「だ、だ、誰のせいで、わたくしが……!」 アンリエッタはウェールズの胸にしがみつき、むせび泣いた。そんな彼女を、ウェールズは両腕で優しく包み込んだ。温かい。この温もりは、間違いなく互いが生きている証だ。 そんなふたりを見遣りながら、サンドリオン王が近付いてきた。彼は申し訳なさそうに、こほんとひとつ咳をする。「感動の再会は、この戦いが終わってからにしていただけませんかな。ウェールズ王子には今すぐ手伝っていただかねばならぬことがありますゆえ」 名残惜しそうにアンリエッタの頬を撫でると、ウェールズは彼女を再び馬上に戻した。それからサンドリオン王へ向き直ると、頷いた。「最高の立地ですね。練習の成果を見せるには充分過ぎるほどに」 サンドリオン王は、慌てて指を一本口の前に立てて見せた。 テューダー王家が火の秘薬で自爆したというアルビオンの工作と空を舞う見慣れぬ竜を、無理矢理『創世神話』のフェニックス伝説と結びつけることで誤魔化し、軍を鼓舞した今、彼らとの支援関係を明かすのは得策ではないと判断したからだ。 ウェールズのほうも、周囲から聞こえてくる万歳の声に『不死鳥』『王家の復活』などという単語が飛び交っているのを耳にして、なんとなくだが事情を察した。詳しい話はまた後でしてもらうとして、今はそれに乗っておいたほうがよいと考えた。 サンドリオン王は、ずいと前に出ると杖を抜いた。彼の横に、ウェールズが並び立つ。これからいったい何が始まるのかと、アンリエッタも、グラモン元帥も、居並ぶ将兵たちも、ふたりの王族の一挙一動に注目した。 磨き抜かれた古杖を敵艦隊に向けると、サンドリオン王は言い放った。「『水の王国』に海辺で戦いを挑んだ愚を、その身をもって思い知るがよい」 ――この言葉が。最後の奇跡の始まりを告げる、鬨の声となった。○●○●○●「そんな……アルビオンの『王権』は、未だ健在だったというのか……!?」「ありえん! 旧王家と王党派は自爆して果てたと公式発表が――」 アルビオン軍は、未だ混乱の只中にあった。 無理もない。いきなり分厚い霧に遮られ、それがようやく晴れてきたと思ったら、滅ぼしたはずの王家のフネが、空から舞い降りてきたのだから。 中でも動揺を露わにしていたのは、艦隊旗艦艦長のボーウッドだった。元々彼は王党派寄りであったものの、軍人として上司の命令に逆らえず、しぶしぶ従っていたという裏事情がある。口にこそ出さないものの、貴族議会と皇帝を『簒奪者』と蔑んでいた彼にとって、王権の象徴たる火竜の旗が心に与えた衝撃は、並々ならぬものがあった。 それこそ『戦闘行動中に気を散らしてはならない』という、彼の信条を忘れ去る程に。 そんな部下の姿を見ていたホーキンスも、正直平静とは言い難かった。しかし彼は元々貴族派に属しており、貴族議会が行った偽装を知る、数少ない軍人のひとりだった。 それを苦々しく思ってはいたものの、最後の最後で王族を逃がしたなどと知れれば、貴族派連盟にとって致命傷になりうる。そう考え、無理矢理自分を納得させていた。とはいえ、腹立たしくないと言えば嘘になる。「戦を知らぬ政治家などに指揮をとらせた挙げ句起こした失態の、尻ぬぐいまで任される羽目になるとはな……」 胸の内で貴族議会に対して恨み事を呟く。さりとて、それで現在の状況を打破することなどできない。渋々ながら――しかし表にはその不満を一切表すことなく、歴戦の将軍は己の役割を果たすために立ち上がり、声を荒げた。「あのフネはトリステインが行った、精一杯のまやかしだ! 我らを動揺させ、時間を稼ぐつもりなのだろう。小賢しい真似をしたものよ」「ですが、あの霧は……」「ただの自然現象だ。海辺ではよくあることなのだろう? それに、もう間もなく完全に晴れそうだ。少しずつだが、眼下の軍勢が見えてきたではないか」「それは、そうですが……」「狼狽えるな! 空を知らぬ私でもわかる。巡洋艦1隻で、我が艦隊を相手に一体何ができるというのだ? 我々は、ただ粛々と職務を全うすればよい」 上司に発破をかけられたボーウッドは、ようやく平静を取り戻してきた。だが、それ以外の将兵は未だ狼狽を隠せずにいる。中には錯乱して「始祖の罰だ」などと呟きながら、フネから飛び降りようとする者までいる始末。 革命戦争に生き残った兵たちを無理矢理集め、訓練を積む暇も、団結を強める間もなく無理矢理に事を進めた結果がこれか――と、ホーキンスは歯噛みした。『レコン・キスタ』が合流する前のアルビオン軍なら、到底ありえない光景だ。 ――混乱の渦中にいた彼らは気付かなかった。艦隊の真下、海原の上で……この場所には本来起きえないはずの水流が発生していたことに。「フル・ソル・デル……」「イル・ウォータル・イス……」 ウェールズの詠唱に、サンドリオン王の詠唱が重なる。風が立ち、海面が渦を巻く。 <風>、<風>、<風>、そこに<水>、<水>、<水>。 『スクウェア』クラスであるサンドリオン王が『トライアングル』のウェールズ王子のレベルに自らの能力を合わせ、重ねる。 本来であれば異なる複数のメイジが、互いの呪文を合わせるのは難しい。それこそ毎日のように、揃って血の吐くような訓練を繰り返し、初めて可能となる技だ。 なれど『始祖』の流れを汲む者――選ばれし王家の血は、その障壁を難なく乗り越える。彼らにのみ許された特権、系統の5乗・ペンタゴンすら超える威力を発揮する乗法呪文。 風と水の6乗。『ヘクサゴン・スペル』。 詠唱は互いの魔法に影響を与え、絡み合い、膨れ上がる。ふたつのトライアングルが重なり、渦の上に輝く六芒星が描かれた。 そうして編まれた強大な<力>が、噴水――いや、まるで間欠泉のような激しい勢いでもって海面を持ち上げた。「これが『始祖』に連なる王権に杖を向けた報い……か」 沈みゆく『レキシントン』号の中で、ホーキンスは自嘲した。巨大戦艦の真下に発生した巨大な水柱が、彼が乗るフネを中央から真っ二つにへし折ったのだ。 王族のみが扱えるという乗法呪文の伝説については、当然彼の知識にあった。革命戦争中にそれを目撃しなかったのは、ジェームズ一世が老齢のため呪文詠唱に耐えられなかったのか、あるいはこの威力がゆえに、国土の上で使うのを躊躇ったのか。 はっきりしているのは、自分たちは――この場へおびき出されたということだけだ。これみよがしにタルブへ諸侯軍を配備していたのも、艦隊が海の上空に並ぶのが自然であるように布陣してきたのも、全ては敵の策のうちだったのだ。おそらく、王党派を秘密裏に脱出させたのも彼らだろう。我々は、完全にしてやられてしまった。 トリステインが弱国だなどと、いったい誰が言い出したのだろう。あのゴーレムでの防衛といい、この『噴水』といい、こんな破天荒な作戦を考えつく知将や、その策を実行に移せるだけの実力がある軍人たちが揃っているではないか。 がくんと甲板が傾く。何かに掴まる間も、杖を抜く余裕すら無くホーキンスは海へ向けて滑り落ちていった。 ――ああ、私はここで死ぬのだ。『始祖』に刃向かった軍人が、戦場で生き延びられるはずもない。将軍が全てを諦めようとしたそのとき、誰かが彼の腕を掴んだ。「艦長……!」 死の淵へ沈みかけていた将軍に手を差し伸べたのは、ボーウッドだった。彼の周囲には風メイジとおぼしき者たちが数名浮かんでいる。「あなたは、ここで死んではいけないひとです」「だが、もうフネは……」「やられたのは『レキシントン』だけです。他の艦はまだ生きています。ご命令を!」 将軍の瞳に、再び光が灯る。兵たちはまだ諦めていない。それなのに、総司令官たる私が折れてどうする。ホーキンスは決意を新たにすると、矢継ぎ早に命を下した。「……わかった。旗艦を移し、指揮系統を立て直す。貴君がもっとも安定していると判断する艦まで案内してくれ」○●○●○● ――正直、誤算だった。 サンドリオン王は海上に並ぶ船団を見、歯噛みした。 当初の予定では、艦隊全てを『ヘクサゴン・スペル』で葬り去るはずだった。舞台は完全に整っていた――潮風と、水魔法を通しやすい海。お膳立ては完璧だった。ところが、実際に沈んだのは『レキシントン』号のみ。他の艦は大きく揺らぎこそしたものの、それだけ。敵艦隊は今もなお健在で、その偉容を見せつけている。 失敗の理由は明白だ。全身から滝のように流れる汗と荒い息が、それを証明している。老い衰えた己の体力が、呪文の威力についていけなかったのだ。 噴水が萎みかけている。ちらと横目で見たウェールズ王子の顔色も優れない。彼の場合は体力ではなく、魔法を編むための<精神力>が尽きかけているのだろう。 ゴーレム隊の旗色も悪い。順序良く積み上げてきた計画という名の煉瓦の壁が崩された。このままでは、自分が最も忌み嫌う『いちかばちか』の勝負になってしまう。 仮に砲弾が尽きるまで耐えられたとしても、ほとんど無傷のまま艦隊を返してしまえば、敵はすぐにまた攻め込んでくる。同じ戦法はもう二度と通用しないだろう。そうなれば――今度こそ、トリステインは終わりだ。 歯を食いしばり、サンドリオン王が気合いを入れ直そうとした次の瞬間。いきなり身体が軽くなったような気がした。いや、気のせいではない。何故だ? どうして突然――。 答えは、すぐにわかった。鈴を鳴らしたような美しい声が彼らふたりの詠唱に干渉してきたことで、身体にかかる負担を大幅に軽減してくれたのだ。 今にも倒れそうな男たちを後ろから支えたのは――戦装束を纏った姫君だった。彼女の立つ姿は神々しく、まさに王子が言った戦乙女そのものだった。 立ち直る余裕を与えられた男たちは、杖を構え直して魔法を唱え続ける。 ……そんな彼らを見たトリステインと王党派に属する者たちは、トリステインとアルビオンの新たな未来を予感した。 アンリエッタは水晶の飾りがついた長杖をかざし、凜とした声で呪文を紡ぐ。戦場に集いし王族たちによる三重奏。水と風の6乗に、さらに3枚の水が重なる。新たなトライアングルが加わり、萎みかけていた水が勢いを取り戻す。ぐるぐると高速で渦を巻き、巨大な水竜巻となって天を衝く。 風と水の9乗。『ノナゴン・スペル』がここに完成した。 3人の王族によって生み出された奇跡の水柱。その頂点では、ドーム状に広がった水滴が太陽の光を浴び、きらきらと輝いている。 それを畏怖の眼差しで見上げたグラモン元帥が、呆然と声を漏らした。「……まるで、世界樹(ユグドラシル)のようだ」 ――彼の呟きが、側に居た記録士官によって残され……この戦いは『ダングルテール防衛戦』、通称『ユグドラシル戦役』という名で、後世に語り継がれることとなる。「なんだよ、あれ……」 以前、ラグドリアン湖で見た竜巻よりも、さらに巨大な水竜巻がアルビオン艦隊を薙ぎ払うところを上空から眺めていた才人は、呆然とそう呟くだけで精一杯だった。「ありゃあ、王家の乗法呪文だ。ヘクサゴン……いや、オクタゴン級の威力はあるかね。あの王子さんと嬢ちゃんの親父が協力して放ったんだろうが、相変わらずすげぇやね」「つまり、王子さまには勝算があったってことか」「そういうこったね」「俺たちって、役に立ったのかな?」「ああ立った、立ったよ。お前さんたちが必死の思いで時間を稼いだから、王子さんが間に合って、あの呪文が使えたんだ。いちばん美味しいとこは持って行かれちまったがよ」「いいよ、そんなの。守れたんなら……それで充分だよ。なあ、ルイズ」 才人がいちばん守りたかった少女は、相変わらず彼の胸に顔を埋め、すぅすぅと寝息を立てている。眼下を見遣ると、トリステイン軍と王党派が、揃って敵陸軍に突撃を敢行しているところであった。素人目に見ても、流れはトリステイン側にあった。まるで波に押し流される砂山のように、アルビオン軍が崩れ散ってゆく。 勝敗は、誰の目にも明らかだ。俺たちがすることは、もう何もないだろう。そう考えた才人は、優しくルイズの頭を撫でると囁いた。「ありがとな。お前が一緒に来てくれたから、俺、最後まで頑張れたよ」 うにゃ。と、ルイズが声を上げる。まだ眠っているみたいだし、返事をしてくれたわけじゃない。けれど、なんだかとても幸せそうな顔で寝息を立てている少女を見ていると、才人は彼女が愛おしくて、どうにもたまらなくなった。 機体が傾かないよう操縦桿を固定させると、才人はそっとルイズの顎に手をかけた。それから、静かに自分の唇と少女のそれを重ね合わせる。 時間にしてわずか数秒。やや名残惜しそうに顔を上げると、才人は操縦桿に手をかけた。そしてもう一度ルイズの頭を撫でると、優しく声を掛けた。「帰ろう。俺たちの魔法学院へ」 ――それから数時間後。 勝利を収めたトリステイン軍は、野営の準備に取りかかっていた。既に夕刻、まだ後始末も終わっていないというのにトリスタニアへ戻るのは、さすがに無理があるからだ。 ひととおりの作業を済ませた王と王子が休息をとっていると――アンリエッタが微笑みながら口を開いた。「全てが終わった今、ようやく理由がわかりましたわ。何故、陛下がここへわたくしを連れてきてくれたのか、その答えが」 目の動きだけで問いかけてきた叔父の耳元に口を寄せ、アンリエッタは小声で語る。「カリンさまのような伝説級のメイジならばまだしも、わたくしのような戦のいの字も知らぬ足手まといの娘を連れてきたのは、いざというときのための予備にするためでしたのね。そう……ウェールズさまたちが間に合わなかった場合に備えて。フェニックスなんて、皆の士気を高めるための方便。ルイズと陛下は、わたくしの願いを叶えてくださっていたのね」 それから、彼の愛娘を命の危険に晒した詫びを述べたアンリエッタに対し、サンドリオン王はふっと笑うと、とんでもない爆弾発言をした。「やれやれ、未来のテューダー夫人は将来有望だ。いや、アルビオン王国王妃と言ったほうがよいかな? 我々は良好な関係を築けると思うが、どうだろう。間違ってもあなたと敵対したくはないのだが」 王の発言に、王子と姫は目に見えて狼狽え始めた。それから、悲しげな顔で零す。「で、でも、わたくしは……」「アンリエッタは、ゲルマニア皇帝の元に嫁ぐと……」 若いふたりの顔を交互に見遣ると、王は真顔に戻り、彼らに問うた。「ヴァリエール家の成り立ちを知っているかね?」 前後の会話と噛み合わない質問に、ふたりは目を白黒させた。「トリステイン王の庶子が開祖であると、話に聞いたことはありますが」「わたくしもです」 彼らの回答に、サンドリオン王はやれやれと首を振った。「真実というものは、いつしかねじ曲げられてしまうものなのだな……実は、余の先祖である初代ヴァリエール公爵は、領地を持たぬ貧しい騎士の家の出だったのだよ」 この答えに、ウェールズとアンリエッタは仰天した。こっそり聞き耳を立てていたグラモン元帥を始めとする貴族たちも驚いた。既に事情を良く知るカリンは、何も言わなかった。夫がカリンほど相手の身分や家格にこだわらないのは、このあたりに理由がある。そうでなければ貧乏貴族の娘である彼女など、相手にもされなかっただろう。「彼は、当時のトリステイン国王を護る近衛衛士だった。王家に心からの忠誠を誓い、命を賭けて王と、王の家族を守り抜いた。それこそ、数えきれぬほどに。やがてその功績が認められ――褒美としてヴァリエールの地と、王家の姫君を妻として与えられたのだ」「そういうことでしたか……」 アンリエッタとウェールズ、それに居並ぶ貴族たちも納得した。トリステインでは、女王という例外を除き、女が領地や爵位を継ぐことはできない。一代限りの名誉となるか、あるいは婿を迎え、その人物か、相手との間にできた子を後継者として定める必要がある。 つまりヴァリエール公爵家は、その騎士と王家の姫君の間に生まれた子の血を受け継ぐ家だということになる。乗法呪文を扱えたのが『始祖』の末裔たる何よりの証拠だ。 周囲の者たちに理解が広がったと見るや否や、サンドリオン王はにっこりと笑った。「そんな先祖を持つ余としてはだな、対岸の火を畏れて兵を出さなかった臆病者などにではなく、全てをなげうって駆けつけてくれた勇敢な男にこそ、実の娘も同然の可愛い姫を娶って欲しいと、そう思うのだよ」 わっと歓声が上がる。トリステインの貴族たちは、成り上がりのゲルマニア皇帝に大切な姫君を渡したくなどなかったし、王党派に所属する者たちとしても、自分たちの功績がこのような形で報われることを、とてつもない名誉だと受け取ったのだ。 ところが当の本人たちはというと、未だ夢のような話を受け入れられずにいた。「ですが、それでは同盟が……」 不安げな、それでいて瞳に僅かな希望の灯を宿した王子に、王は優しく言った。「先に約束を破ったのは、ゲルマニアだ。こちらだけが律儀に守る謂われなどないよ」 そこへ、グラモン元帥が口を挟んだ。「では、軍事防衛同盟は御破算というわけですかな?」「いや、それもない。『レコン・キスタ』の野望は誰の目にも明らかだ。ゲルマニアとて、今更同盟を破棄しました、ですから我が国は見逃して下さいなどという言い訳が通用するとは思わんだろう。なればこそ、兵の損耗を嫌って援軍を出さなかったのだ。トリステインが陥ちたら、次は大国ガリアではなく、ゲルマニアに杖が向く可能性のほうが高いからな」 それに……と、サンドリオンは心底意地の悪い顔で続ける。「我が国には、外交の名人がいる。これからは余が内政のほうを背負うのだ。今後、彼にはそちらで存分に腕を振るってもらう。ゲルマニアとの軍事防衛同盟の再構築が、彼の外交官としての最初の仕事だ」 グラモン元帥が、呆れたような声を出した。「きみは、相変わらず酷いやつだな……っと、失礼。陛下もおひとが悪い」 アンリエッタはぷっと吹き出した。外交の名人とやらが誰のことなのか、彼女にはすぐに見当がついたからだ。「まあ! そんな苦労をさせては『鳥の骨』が『鳥がら』になってしまいますわ!」 今度は、そこら中から吹き出す声が続出した。「そういう訳なのですが。彼らの婚約を認めてくれますかな? ジェームズ一世陛下」 一同が振り返ると、そこには老齢のメイジに肩を貸してもらいながら歩み寄る、元アルビオン国王の姿があった。「名誉な話だ。しかし朕としては、それだけで納得するわけにはいかぬのじゃ」 王党派貴族たちの顔色が変わった。我らが王は、この上何を求めるというのか。 ところが彼らの不安に反し、トリステインの新たな王は、こう返した。「臣下を抱える者として、当然の言葉ですな。それでは、トリステインの国王としてお約束しよう。我が国で、アルビオン王国亡命政府の樹立を認める。必要な施設やその他諸々は、こちらで用意させていただく。希望する者は、一時的に我が軍への所属も検討して欲しい。もちろん、相応の給金を支払おう」 ジェームズ一世は、満足げな笑みを浮かべた。「新王は、ひとの心を掴む術を心得ておられるようじゃ。トリステインの諸君は、このような人物を主君として戴けることを、この上もなき名誉と思うがよい」 それからじっと息子の顔を見つめると、わざとらしく溜め息を漏らした。「貴族の娘たちに興味を示さぬと思っていたら、まさか従姉妹と恋仲になっておったとは。朕の目は正真正銘、節穴だったらしい」 ウェールズの顔が、さっと朱に染まる。「アンリエッタ姫。今の我らは領土を持たぬ、流浪の民じゃ。いつ国を取り戻せるのかも、本当に帰れるのかすらわからぬ。それでも……この不肖の息子を支え、共に人生を歩んでくれるというのかね?」 アンリエッタは、一切の迷いなく答えた。「はい。『始祖』に誓って」 サンドリオン王は頷くと、周囲を見渡しながら告げた。「戦後の後始末やこまごまとした仕事が残っている。ゲルマニアとの調整も済んでいない。よって若いふたりには気の毒だが、今すぐ結婚――というわけにはいかん。婚約を発表することもできんが……しかし余は、王としてふたりの仲を祝福しよう」 ジェームズ一世がそれに続く。「彼らがアルビオン王国とトリステイン王国を結ぶ新たな架け橋となるよう、朕もふたりの婚約を認める」 既に闇の帳が下り、篝火に照らされた浜辺を、大きな歓声が包み込んだ。 ――それから。 トリステイン王国は新王の即位と、ダングルテールの地において卑劣な騙し討ちを仕掛けてきた『レコン・キスタ』を打ち破ったことを大々的に国内外へと発表。 同時に、アルビオンの王党派がフェニックスの導きによって現世に帰還した英雄たちだとして、彼らが王都トリスタニアに亡命政府を樹立することを許可。その後、国として正式に国交を結ぶと宣言した。 王党派の一部貴族や船乗りたちは、トリステイン王立空軍に客将として迎え入れられ、空戦における技術の伝播に貢献する。 また、彼らが乗艦していた『イーグル』号は『フェニックス』号と名を改め、以後テューダー家のお召し艦として活躍。このフネの艦長に任命されるのは、最高の名誉とされた。○●○●○● ――トリステイン軍と王党派に属する者たちが、勝利と、まるで歌劇のような王子と王女の恋物語に酔いしれていたころ。 遙か南東、ハルケギニア大陸から長靴のように突き出た半島の端にある、ロマリア皇国連合。ブリミル教の総本山と崇められる場所に立つ、五芒星を模した壮麗な建造物――ロマリア宗教庁の奥に用意された自室で、ひとりの若い男が書物棚を相手に格闘していた。 年の頃は、20をいくつか越えたばかりといったところだろう。透き通るような白い肌に腰まで伸びる長い金髪と、優しげな光を湛えた瞳。知らない者が彼を見たら、女性と見紛うばかりの美貌を持つその青年の名は、ヴィットーリオ・セレヴァレ。ハルケギニアの神官と寺院の最高権威者たる教皇、聖エイジス32世そのひとであった。 だが、崩れ落ちた本に半ば埋もれたその姿は、街のどこにでもいるような、間の抜けた青年としか映らない。「聖下。だから言ったでしょう? そろそろここの書を、まとめて整理しましょうよ。なんなら、召使いに任せればいいじゃないですか」 呆れたような声でそう告げたのは、これまた怖ろしく顔立ちの整った美青年であった。「簡単に言うけれどね、ジュリオ。本の整理というものは、自分でやらないといけません。じゃないと、どこに仕舞ったのかわからなくなるし、そうなったが最後、読み返したくなったときに困りますから。ですが、なかなか時間が取れないんですよ」 言いながらようやく本の山から抜け出した教皇は、側にあった椅子に腰掛けると、今しがたジュリオと呼んだ青年に向かって尋ねた。「それで、例の件はどうでした?」 問いかける彼の貌は、既に先程までの気の抜けた表情ではなく――ブリミル教の頂点に立つ者としての威厳に満ちていた。「はい。ガリアの大公姫――今はその地位を奪われた少女が人間を呼び出したという噂は、どうやら真実だったようです」 確かめるまで、ガリア貴族たちにかなりの鼻薬を嗅がせる必要がありましたがね。と、肩を竦めるジュリオ。「ご苦労さまでした。ということは……その娘が当代の……」「意外な展開でしたね。てっきり、例の『無能』がそうだとばかり思っていたんですが」「わかりませんよ。ふたり揃って、ということも考えられますし。何せ『四の四』を揃えるための手がかりは未だ禄に掴めていないのですから、慎重に事を運ばねばなりません」「片方が『予備』かもしれないですよ?」「その可能性も否定できません。かの系統は、古の時代より謎に包まれていますからね。そういうわけで、ジュリオ」 教皇は、じっと相手の目を見つめた。青と紅。相対する青年の瞳は、それぞれ色が異なっている。夜空に輝く双月になぞらえ、生まれつきそういった目を持つ者を『月目』と呼ぶ。彼らは主に、不吉の象徴とされていた。「役目は心得ております。このぼくが直接見極めて参りましょう――彼女たち主従を」 ジュリオの鋭い双眸が、きらりと光った。