「う~ん。馬車、まだ来ねえのかな。予定より、ずいぶん遅れてるんですケド」 現在の時刻は、朝5時を回ったところだ。才人は詔の巫女に選ばれたルイズの供として、魔法学院の校門前で王宮から来る迎えの馬車を待っていた。もちろんそれは、彼ら主従を隣国ゲルマニアへ運ぶための馬車だ。「うっさいわね、集中できないから黙ってて」 大きな旅行鞄の上にちょこんと腰掛けたルイズが、相手の顔も見ずに答える。膝の上には『始祖の祈祷書』と羊皮紙が広げられており、そこには幾度も修正したのであろう文章の残骸が散らばっていた。この期に及んでもなお、姫の結婚式で詠み上げられるはずの詔は完成しておらず、ルイズは必死の思いで祝いの文言を捻り出しているのだった。「てか、なんで今までほっといたんだよ!」「ほっといたわけじゃないわ! それは、あんただって知ってるでしょ。めちゃくちゃ難しいのよ、これ!」「結婚式のスピーチなんだよな? 苦手なの最初からわかってたんだから、みんなに手伝ってもらえばよかったじゃん」「これは、詔の巫女が全部自分で考えなきゃいけないって決まりがあるの。誰かに助けてもらえるものなら、とっくの昔に頼んでるわよ!」「めんどくせえんだなあ」「そういうわけだから、静かにしててちょうだい。ゲルマニアに着くまでに、どうにか形にしておかなきゃいけないんだから」「へいへい」 気のない返事の後、才人は再び街道のほうへと視線を移した。王宮からの馬車は、まだ来ない。連絡のあった到着予定時刻から、既に数十分が経過している。都内のバスとか電車がこんなに遅れたら、大騒ぎになるよなあ……などと益体もないことを考えていると。冷たい風が、ひゅうとふたりの間を通り過ぎた。「ううッ、さみー! 最近ずいぶんと冷え込むなあ」 才人は、両腕で身体を抱え込みながら小さく震えた。吐いた息に混じった水蒸気が外気によって冷やされ、白く変わる。「再来月はもう『降臨祭』だもの、当然よ」 不満げな声で才人が問うた。「俺にとっては当然でもなんでもねーんだけど。なんだよ、その『降臨祭』って」「そういえば、あんた異世界人だったわね。ついうっかり忘れそうになるけど」「忘れんなよ! それ、大切なことですから!」 ガーッと大口を開けて抗議する才人を軽くいなしながら、ルイズは答えた。「『降臨祭』っていうのはね、かつて『始祖』ブリミルがハルケギニアに降臨したとされている日をお祝いする、真冬のお祭りなの。ちなみに、その日が新年の1日目でもあるわ」 クリスマスと正月を足して2で割ったようなもんか、などと才人が考えていると、そこへ再び寒気が襲いかかってきた。これはまずい。このままでは間違いなく風邪を引く。「なあ、ルイズ」「あによ」「お姫さまの結婚式が終わったら、街に服買いに行っていいか?」「服?」「そのお祭りが真冬の行事ってことは、つまり、これからもっと寒くなるんだろ? 俺、冬服持ってねえからさ」 そう才人が言った途端。ルイズはムスッとしたような顔で俯いてしまった。俺、何か怒らせるようなことしたか? あ、もしかするとルイズの護衛をサボろうとしてると思われたんだろうか。そんなことを考えていると、唐突にルイズが口を開いた。「ひとりで買い物なんかできるわけ?」「そんくらいなら大丈夫だよ」「店の場所、わかってんの?」「知らねえけど、誰かに聞けばいいだけだろ」 呆れたような声で、ルイズは言った。「そもそもあんた、どんな服があるのか知らないんじゃない?」「そういえば、そうでした……」 がっくりと項垂れる才人。だが、次の瞬間。彼の脳内に<天啓>と呼ぶべき閃きが降りてきた。そうだ、これを口実に使えばいいんじゃなかろうか。「だったらさ、その……ついてきてくれないか?」「え?」「だからさ、街まで一緒に行って、そんでもって、お前がよさげな服選んでくれよ。もちろん、タダでなんて言わねえ。お礼に、どっかでメシでも奢るからさ」 ルイズと街で買い物。これまで何度かトリスタニアに出たことはあったが、大抵誰かと一緒だった。ふたりっきりで出かけたことはない。向こうにその意志はなくとも、これはデートみたいなものだろう。俺ってば天才じゃね? などと内心でガッツポーズを決めていた才人だったが、当のルイズからの返答は、妙に現実的なものであった。「あんた、そんなにお金持ってないでしょ」「な、なんとかなるよ。例の宝探しと任務でゲットした金貨、まだ残ってるし!」「貴族向けのレストランは、すっごく高いわよ」 それなら安いところに……と、言おうとして才人は思いとどまった。相手は普通の女子高生ではない。ハンパない大金持ち、大貴族のお嬢さまである。いい加減な場所へ連れて行ったりしたら、ご機嫌を損ねるかもしれない。いや、それどころか間違いなく嫌われる。 デートひとつするだけでも、めちゃくちゃ難易度高い相手なんだよなあ……いや、そもそも俺、デートなんかしたことありませんけどネ。などと才人がせつない気持ちでいっぱいになっていると、相手から思わぬ台詞が飛び出してきた。「その、あ、あんたが買う必要、な、ないわ」「なんでだよ…… って、あ! も、もしかして、お、お前が買ってくれるのか?」 思わず瞳を輝かせる才人。プレゼント、とはちょっと違うのかもしれないが、好きな女の子が自分のために服を選んでくれる。ふたりっきりで街を歩いて、あちこち店を巡る。こんな、ベタだが青春全開なイベントに心底飢えていた才人は、胸のときめきを抑えるだけで精一杯だったのだが――その後の展開は、彼の予想をして遙か斜め上を超えるどころか、宇宙の彼方へ消えていた。 羊皮紙を睨み付けながら、ルイズが呟いた。実際はそれに集中しているわけではなく、単に才人の顔を見るのが恥ずかしかったからなのだが、ニブい彼にはわからない。「……ター、んで、あげる」「は? 声小さくて、よく聞こえなかったんですが。ワンモア」「……編んであげるわよ」「へ?」 がばっと顔を上げると、ルイズは叫んだ。「だ・か・ら! わたしが! セーター編んであげるって言ってるのよ!!」「なんですとッ!?」 手編みのセーター。てあみ。T・E・A・M・I。買ってくれるどころではない。デートを兼ねたお買い物も魅力的だが、それでも手作りの破壊力には到底及ばない。しかし、その喜びを表に出すのがなんだか気恥ずかしかった才人は、ふてくされたような顔をして、ついつい思ってもいないことを口にした。「お前、貴族のくせに編み物なんかできるのかよ」「子供の頃、母さまに『魔法ができないのなら、せめて裁縫くらいは上手くなりなさい』って、いろいろ仕込まれたのよ」「か、母さまって、あの?」「他に誰がいるっていうのよ」 ルイズの母『烈風』カリンが、暖炉の前でロッキングチェアに座り、優雅にお裁縫。正直想像できない姿なのだが、しかし。「母さまは、編み物が得意なのよ。毎年冬が近くなると、父さまのためにセーターとかマフラー編んであげてるし」「い、意外なところがあるんだネ」「ほんとなら、母さまを侮辱されたって怒るべきなんでしょうけど……あんたの気持ちは、まあ理解できなくもないわ」 普段は勇ましいけど、実は結構家庭的とか。ルイズの母ちゃんって、なにげに男がグッとくるポイント押さえてるよなあ。てことは……もしかして、こいつもそうだったり? つーか、嫌いな男に手編みのセーターくれたりなんかしませんよネ!? ……などと、才人は思わず期待に満ちた視線を向けたのだが。当のルイズ本人はというと、ぷいと横を向いてこう言い放った。「あ、あんた、わたしのこと頑張って守ってくれてるから、その、ご、ご褒美よ。忠誠には報いるものがなきゃ、い、いけないもの」「あー、はいはい。お嬢さまのお慈悲に感謝します」 そーですよネ。うん、ご褒美。俺は犬。ゴシュジンサマの忠実な家来ですから。地べたに座り込み、人差し指で「の」の字を書いていた才人は気づかなかった。横を向いているルイズの顔が、まるで生まれたての赤ん坊のように真っ赤になっていたことに。 ――と、そんなふたりの元へ、馬蹄の響きが聞こえてきた。「お、馬車が来たみたいだぞ」 早くそれしまえよ! と、せっつく才人に、ルイズは怪訝な面持ちで言った。「ヘンね。馬車にしては、車輪の音が聞こえないし――馬も一頭だけしかいないみたい」 朝靄の中から現れたのは、ルイズが言った通り、馬車ではなく――一頭の馬と、汗だくになったひとりの兵士だった。彼は校門前に馬を止めると、側に居たふたりに問うた。「オールド・オスマンの居室はいずこか?」 才人は、魔法学院の中央塔を指さしながら言った。「建物の真ん中に、大きな塔が見えますよね? そこのてっぺんが学院長室です」「ありがとう、少年」 礼を告げると、兵士は一目散に学院内へ駆け込んでいった。「王宮で、何かあったのかしら」「ずいぶん焦ってたよな。あのひと」 ふたりは互いの目を見て頷き合うと、兵士の後を追った。○●○●○●「やれやれ、なんとか間に合いそうじゃな。コルベール君のおかげで助かったわい」「なんの! こちらこそ、臨時手当までいただけてありがたいことです」 オスマン氏はゲルマニアへの旅支度と書類の作製を終え、ひと息ついたところであった。これから一週間ほど学院を留守にするため、彼が不在でも問題がないよう、様々な手配をする必要があったのだ。 と、ゴンゴンと猛烈な勢いで扉が叩かれる音が室内に響き渡った。「いったい誰じゃね? 騒々しい……」 正体を詮索する間もなく、乱暴に扉が開かれた。部屋に飛び込んできた兵士――王宮からの使者は、大声で用件を述べた。「王宮から参りました。申し上げます! アルビオンがトリステインに対し、宣戦布告! 姫殿下の結婚式は、無期延期となりました!」 オスマン氏とコルベールは、顔色を変えた。「なんと! 宣戦布告とな!?」「せ、戦争が始まるのですか?」「左様。既にアルビオン軍はラ・ロシェール北西部の沿岸に上陸し、周辺の砂浜に陣を張っております」「トリステイン側は、どうしておるんじゃ?」「姫殿下、並びに太后殿下、そして王政府議会の承認を得たラ・ヴァリエール公爵がトリステインの国王として即位。サンドリオン一世を名乗り、王軍を率いて出陣致しました。参謀としてグラモン元帥がつき、さらには『烈風』カリンさまも参戦なさっておいでです」 この報せに、オスマン氏は目を剥いた。「ラ・ヴァリエール公爵が即位!? それは、本当かね!」「いかにも。王政府議会中に、太后殿下が王位継承権放棄を宣言。姫殿下はゲルマニアへの降嫁により継承権を失われたため、ラ・ヴァリエール公爵が第一位継承者となりました」「姫殿下の結婚式は、無期延期になったのじゃろ? ならば、まだ継承権は失われていないのではないかね?」「はい、それなのですが。姫殿下が自ら『わたくしには既に権利はない』と宣言なさった上で、王家に伝わるマントをサンドリオン一世陛下に手渡されましたので――王政府議会としましても、法的に正統な王位継承と判断した模様です」「なるほど。禅譲に近い形で即位なされたのか。そうか、あの公爵がのう……防衛戦で不敗を誇るかのお方が指揮を執られるとは、心強い限りじゃ。しかも、カリン殿とグラモン元帥が側についておられるのだろう? 大事にならずに済みそうではないかね」 ほっとした様子のオスマン氏とは対照的に、兵士の顔色は冴えなかった。「残念ながら、事はそう簡単ではありません」「どういうことです?」 コルベールの問いに、兵士は懇切丁寧に説明した。「アルビオン側は『レキシントン』級の巨大戦艦1隻と巡洋艦9隻を率いています。トリステイン艦隊は敵巡洋艦3隻を沈めましたが、それと引き替えに全滅。その他の艦は未だ建造中で、到底戦に出せる状態では……」「なるほど、制空権を奪われているのですな」「はい。砲亀兵のカノン砲では宙に浮かぶ戦艦を迎撃するのは不可能ですから、我が軍はほとんど無防備の状態で砲撃を受けることになるでしょう」 今度は、オスマン氏が疑問を口にした。「ゲルマニア軍はどうしたんじゃね? その程度の数であれば、ゲルマニアの艦隊が出れば最低でも互角には持ち込めると思うんじゃが」「そ、そうです! 確か、かの国とは軍事防衛同盟を結んでいましたな!」 悲しげな顔で、兵士は残酷な事実を告げた。「それが……同盟に基づき、マザリーニ枢機卿がゲルマニア大使館に援軍の派遣を申し入れたのですが、先陣が到着するのはどんなに早くとも三週間後とか」 これを聞いたコルベールは、温厚な彼としては珍しく顔を真っ赤にして激昂した。「馬鹿な! いくらなんでも、そんなに時間がかかるわけがない!」 憤慨する部下とは対照的に、オスマン氏は小さくため息をついた。「なるほど、トリステインは見捨てられたんじゃな」 ぐいと自分へ向き直ったコルベールに、オスマン氏は状況を説明する。「例の軍事防衛同盟は、姫殿下と皇帝が結ばれることによって完成されるものであり、その姫の身柄が未だゲルマニアに届いていない以上、破棄してもさほど非難は受けんじゃろう。トリステインと同盟を結んでいなければ、ゲルマニアは『レコン・キスタ』の標的にはなり得ない。さらに、サンドリオン一世陛下が即位したということは――姫殿下の血筋を盾に、将来トリステインをゲルマニアに併合することも不可能。そのような状況で、あえて火中の栗を拾うような真似をしたくないんじゃろうな」 その分析を受けた兵士が、忌々しげに頷いた。「おそらくは。さらに間の悪いことに、大勢の有力貴族が結婚式のためにゲルマニアへ発った直後の宣戦布告でしたので、ろくに兵が集まらず――2千がせいぜい。上陸した敵陸軍もほぼ同数ですが、我が軍とは異なり、空からの援護を受けておりますので……」「さすがの『烈風』殿でも、ひとりで艦隊を相手にするなど無理じゃ。ラ・ヴァリエール公爵……いや、陛下には何かお考えがあるのじゃろうか」「わかりません。しかし……このままでは、早晩トリステインはアルビオンに屈することになるでしょう」 扉の外でこっそり聞き耳を立てていたふたりは、思わず顔を見合わせた。「とと、父さまが、即位……そ、それに、アルビオン軍が攻めてきたですって!?」 ルイズの顔は、既に青を通り越して真っ白だ。自分の与り知らぬところで身分が変わってしまったとか、いきなり戦争が起きただとか、混乱をきたすには充分な状況であった。 かたや才人のほうはというと。「グラモン元帥って、確かギーシュの……それに、ルイズの父ちゃんと母ちゃんが……」 つい先程までの甘酸っぱい雰囲気がまるで夢か幻かのように、一瞬にして掻き消えた。彼の脳裏に浮かんだのは――ニューカッスル城で見た、狭間の向こう側。焼け焦げた壁と、大砲の残骸。そして、地面に染みついた、赤黒い何か。 俺に剣を教えてくれたひとたちが。ルイズや、友人の大切な肉親が、そんな世界に足を踏み入れようとしている。才人の頭に、かっと血がのぼった。少年は扉から離れると、駆け出した。それを見たルイズは、慌てて彼の後を追った。○●○●○● 才人が向かった先は、ゼロ戦の格納庫だった。荒々しく扉を開け、機体に取り付いた彼の背中に、ルイズが声を投げかけた。「どこへ行く気よ!」「ラ・ロシェールの北に決まってるだろ! お前の父ちゃんと母ちゃん……それと、ギーシュの親父を手助けしに行くんだ!」 ルイズは才人の側へ駆け寄ると、彼の腕にしがみつきながら叫んだ。「あんたひとりが行ったって、何にもならないわよ!」 才人はルイズを振り解こうとした。しかし、がっちりと捕まれていて離せない。「問題は、あの空飛ぶ戦艦なんだろ。俺がこいつを使えば、なんとかなるかもしれない」「確かにこの『ドッグ・ゼロ』はすごい速さで飛べるけど、それだけじゃないの! あんな大きな戦艦をどうにかするなんて、無理よ!」 才人は左手に填めていた指抜きグローブを取った。ガンダールヴのルーンが露わになる。そのまま機体に触れると、ルーンは静かな光を放った。「見ろ。こいつは空を飛ぶだけじゃない。俺の世界の『武器』なんだ」 ルイズは、首を激しく振って言った。「だからって、こんな小さなフネで、あんな大きな戦艦に立ち向かえるはずないわ!」「別に、こいつで戦艦沈めに行くわけじゃねえよ! 他にも、やれることはあるはずだ」「あんたは戦争を知らないから、そんなこと言うのよ! いい? 戦争と冒険は、訳が違うの。素人が戦場に飛び込んでも、死ぬだけだわ!」「ド素人のくせして、お姫さまから戦場のど真ん中突っ切らなきゃならない任務引き受けてきたお前にだけは言われたくないんですが」「う、うるさいわねッ! それとこれとは話が別なの!」「たいして変わらないと思うんだけど」「と、とにかく、戦争は父さまや王軍に任せておけばいいの! 母さまだっているんだし、きっとなんとかしてくれるわ」「トリステインの艦隊は全滅したって言ってたじゃねえか。それに、いくらお前の母ちゃんが強くても、たったひとりであんなでかい戦艦片付けられるはずねえだろうが」 うっと言葉を詰まらせたルイズの目をまっすぐに見据えながら、才人は言った。「お前の言う通り、こいつはかなりの速度で飛ぶことができる。戦艦落とすのはさすがに無理だろうが、囮になって敵の気を散らすくらいならできるはずだ。それに……」「それに、何よ」「俺は、きっと――この日のために準備をしてたんだ」「ちょ、あんた、何言ってるの!?」「俺がもし、普通の……なんでもない人間だったら、たぶん助けに行こうなんて考えなかっただろうな。がたがた震えて、ただ見てるだけだったよ」 自分の目を見つめ返してくるルイズに向かって、才人は静かに続けた。「けどさ。なんの因果か、俺は他のヤツには無い<力>を手に入れちまった。それも、この世界では『伝説』なんて言われてるヤツをだ。そんな選ばれし勇者候補としてはさ、こんなピンチ、無視するわけにはいかねーだろ」「たとえそうだとしても、あんたはこの世界の人間じゃないのよ。なのに、どうしてそこまでするの!?」「お前も、みんなも、俺に良くしてくれただろ。召喚されたばっかりの頃は……まあ、ともかくとしてだ」 右手でそっとルイズの頬に触れながら、才人は続ける。「俺は異世界の人間だから、トリステインがどうなろうが、知ったこっちゃない。けどな、優しくしてくれたひとや、そのひとたちが大切に思っているものくらいは守りたい」 そんなことを言う才人であったが、手が細かく震えている。それに気付いたルイズは、彼の腕をぎゅっと掴んで言い放った。「震えてるじゃないの、バカ! 怖いくせに、無理してカッコつけないで!」「ああ、怖いよ。無理してるよ。戦場になんか、行きたくねえよ。けどさあ……王子さまが言ってたんだよ。守るべきものの大きさが、恐怖を忘れさせてくれるってな」「そういう問題じゃないわ。死ぬかもしれないのよ! わかってんの?」「死なねえよ。俺は生きて絶対帰ってくる。だって、死んだらお前のこと守れないし――それに、一緒に地球へ行くって約束も果たせなくなるもんな」 そう言って、才人はルイズの頭を優しく撫でた。ルイズの顔が、ふにゃっと崩れる。わたしでは、こいつを止められない。けれど、他の誰か――太公望や他の仲間たちは既に学院を発ってしまって留守だが、元軍人のコルベールなら上手く説得してくれるのではないだろうか。そう思って彼がいる学院長室へ行こうとしたが、やめた。自分がいなくなったら、才人はすぐに飛び立ってしまうだろう。 ルイズは、コルベールの元へ駆け込む代わりに才人の胸へ飛び込んだ。ぐしぐしと鼻をすする音がする。あまりにも急に色々なことが起こりすぎて、精神的に耐えきれなくなった彼女は、とうとう泣いてしまったのだった。 しばしの間を置いて――ルイズはきっと顔を上げた。その顔にはもう、涙はない。「わたしも行く」「ダメだ。お前はここに残れ」「イヤよ」「ダメだって言ってるだろ! 死んだらどーすんだよッ!」「あんた、絶対死なないって言ったじゃないの!」「それとこれとは話が別だろ!」「同じでしょーがッ! いい? とにかくわたしが死なないように頑張りなさい。もしも、あんたかわたしのどっちかが死んだら……」「死んだら?」「どこまでも追いかけて、あんたのこと殺してやるからねッ!」「……また無茶苦茶言ってくれるなあ、おい」 あまりにも矛盾極まりない台詞に、才人は頭が痛くなった。さっさと出撃してしまおうかとも思ったが、よくよく考えてみれば、こいつには<瞬間移動>がある。たとえこの場に置いていったとしても、ルイズの性格からして無理矢理にでもついて来るだろう。「あー、はいはい、わかった。わかりましたよ。一緒に連れてけばいいんだろ」「最初から素直にそう言えばいいのよ」「ったく……こんな時なんだからよ、せめてカッコくらいつけさせてくれよな」「何か言った?」「いいえ、別に。何でもありません」 勇者の旅立ちだっつうのに、締まらねぇよなあ――などとぼやきながらルイズを両手で抱え上げた才人は、きゃあきゃあと抗議の声を上げる彼女をゼロ戦の座席に放り込んだ。 ――結婚式どころか、すっかりお通夜のような雰囲気になってしまった学院長室に、聞き覚えのある爆音が届いたのは、それからすぐのことであった。 コルベールが窓の外を見遣ると、朝日の中、濃緑の翼をひらめかせ、ゼロ戦が空の彼方へと飛び去って行くところであった。あれを操縦できるのは、ひとりしかいない。「サイト君、いったいどこへ行くつもりなんだ?」 窓から身を乗り出すようにして行方を確認すると、なんと北西の空目掛けて飛んでゆくではないか。「ま、ま、まさか、きみは……!」 慌てて<フライ>の魔法で外へ飛び出したが、時既に遅し。異世界の飛行機械は、雲に隠れて見えなくなっていた。 ――それから、数十分後。 タルブの南方にある貴族の屋敷は、大勢の避難民によってごった返していた。戦争が始まったので、この地を治めるアストン伯が、近隣の住民たちを自分の屋敷へ迎え入れたのだ。逃げてきた者たちの中には、タルブの村民たちも含まれていた。彼らは、皆一様に不安げな表情を浮かべている。「戦争だって? ついこのあいだ、アルビオンとは不可侵条約を結んだってお触れがあったばかりじゃないか。いったいどうなってるんだ」「お上の考えるこたぁ、オレたちにゃあさっぱりだ」「蔵は大丈夫なのかしらねえ? あそこに溜め込んでる食料をアルビオン軍に奪われでもしたら、どうやって冬を越したらいいのか……」「それどころか、家を焼かれるかもしれないぞ」「まったく、どうしてこんなことに……」 ふいに――そのうちのひとりが、空を見て呟いた。「何だ、あの音は」 他の避難民たちも、一斉に空を見上げた。「まさか、アルビオン軍が、もう……!?」 誰もが恐怖に怯え、震えていたその時――爆音の主が、雲間から姿を現した。「竜の羽衣だ!」「タルブの守護神さまだ!」「おらたちを助けに来てくれたんだ!」 先程までとは一転、歓喜の叫びを上げるタルブの住民たち。と、それを聞きつけたアストン伯が、護衛の兵士たちを連れて庭に現れた。「何の騒ぎだ? あの奇妙な竜は、一体何だ!?」 遙かな空へ向け、ある者は手を振り、またある者は応援の声を投げかけている。事情を知らない領主が不審に思うのも無理はない。 そこへ、ひとりの中年男性が進み出て言った。「サムライです」「さむ……なんだって?」 男性――かつてゼロ戦に乗り、タルブへ降り立った佐々木少尉の子孫のひとり。つまりシエスタの父は、領主へ向けて、高揚する気分を抑えきれぬまま告げた。「あれは、遙か東の国の騎士。誇り高き――大空のサムライです」○●○●○● ――ダングルテールの砂浜に、アルビオン軍の姿があった。『レコン・キスタ』の象徴である三色の旗を掲げ、ゆるゆると行進している。さらにその後方、大海原を背に、空軍艦隊がずらりと並ぶ。 トリステイン軍は、その500メイルほど後方の崖地に展開していた。竜騎兵とグリフォンが上空を警戒しているが、敵艦隊に対抗できるような規模ではない。 サンドリオン王の側に陣取っていたグラモン元帥が、王となった盟友に尋ねた。「敵軍は、両軍が激突する前に、上空から艦砲による攻撃を加えてくるでしょう。やはり、ラ・ロシェールに立てこもったほうがよろしかったのではないですかな?」 両脇を渓谷に挟まれたラ・ロシェールは、天然の要害とも呼べる場所である。大軍を突入させるには不向きであり、守る側の負担が少ない。もちろんこれは、出陣前に何度も確認されたことだ。しかしサンドリオン王は首を縦に振らず、あえてこの場所を選んだのだ。「トリステイン艦隊が健在で、かつゲルマニアからの援軍が期待できるのであれば、ラ・ロシェールに展開してもよかった。しかし、現状ではいたずらに時を過ごすだけだ。最悪の場合、アルビオン軍の増援が来てしまう」「裂帛の気合いをもって挑めば、アルビオン軍など畏るるに足らず……などと、わたくしならば申し上げるところですが、陛下がそのようなことを仰る訳がありませんな」「無論だ。そのような理屈で兵を無駄死にさせるなど、彼らに対する冒とくでしかない」「昔のわたくしなら、その言葉だけで陛下に決闘を申し込んでいるところですが」「受けて立ってもよいぞ。ただし……」「カードか将棋ですよね。わかっておりますとも」 などと主従が軽口を叩いているところへ、聖獣ユニコーンに跨ったアンリエッタが近寄ってきた。彼女は、愛娘が従軍すると聞いて半狂乱になった母親を振り切り、この地へやって来たのだ。ミスリル銀製の胸当てと短めのキュロットという軍装に身を包んだ姫君は、どこへ出しても恥ずかしくない女騎士に見える。 アンリエッタは周囲の者たちには聞こえぬよう、小声で遠縁の伯父に訊ねた。「我が軍に、勝ち目はあるのですか?」 少女の声は、微かに震えている。これまで他者から敵意など向けられたことのない温室育ちの姫君が、殺気に満ち溢れた戦場に足を踏み入れたのだ。それも無理はない。 そもそも彼女が王軍について来たのは――自らの手で新たな国王を誕生させた興奮によるものでも、国を守るという義務感からでも、内から湧き出た勇気でもなかった。アンリエッタを突き動かしていたものは、愛しいひとを奪ったアルビオン軍に対する恨みと、己の将来に悲観するゆえの絶望……つまり、半ば自棄になっていたのだ。 勇敢に戦い、斃れれば――ウェールズさまが待つヴァルハラへと旅立てるかもしれない。そんなことまで考えていたのだが、いざ戦場に立ってみると……彼女の内部に、生物としての本能である、死への恐怖が沸き起こった。その場で気絶しなかったのが奇跡に近い。 そんな姫君の内心を知ってか知らずか、サンドリオン王は淡々と事実を述べた。「常識的に考えれば、まず不可能でしょうな。たとえトリステイン軍が他国と比べ、軍内部におけるメイジの割合が多いとはいえど、敵は圧倒的な破壊力を誇る空軍に守られている。艦砲が一斉に火を噴けば、我が軍が総崩れとなるのは避けられますまい」 それを聞いたアンリエッタの意識が飛びそうになったが、悲観的な分析をしているにも関わらず悪戯っぽい笑みを浮かべている王に、彼女は僅かな希望を見出した。「何か、考えがおありになるのですね?」「勿論。この日のために、いくつか手札を用意してあります」「それは、どのような?」「いきなり種明かしをしては、面白くありませんのでな。まずは、そのうちのひとつをお見せしましょう――第一、第二大隊! 配備につけ!」 命令を受けた部隊が、左右に展開する。その全員がメイジで構成されていた。「カリン!」「はッ」「1時間……いや、30分でいい。やってくれるか?」 総司令官の命令に応じた『烈風』は老いたマンティコアに跨ると、展開した大隊の中央へ向けて飛び去った。