――ギューフの月、ティワズの週、エオーの曜日。 トリステイン魔法学院の校門前では、多種多様な私服に身を包んだ貴族の学生や平民の使用人たちが、季節外れの長期休暇を満喫しようと馬車へ乗り込む姿が数多く見受けられた。そこには、水精霊団のメンバーの顔も混じっている。 太公望は、そんな様子を学院長室の窓から眺めながら、部屋の主に言を向けた。「なるほどのう。姫君の結婚式を口実に休暇を与え、あえて人員を分散させることで、ここを敵の襲撃目標たりえなくしたというわけか」 自慢の顎髭をしごきながら、オスマン氏は答えた。「ふぉふぉふぉ、人質にしうる貴族の子弟が大勢いればこそ、この学院は『火薬庫』として機能してしまうのじゃ。ならば、その人数を大幅に削減してしまえばよい」「この特別休暇について、王政府には?」「無論、報告済みじゃ。情けないことだが、そっちのルートから『レコン・キスタ』へ情報が流れるのはほぼ確実じゃろう。これで、襲撃の旨味が減った我が魔法学院が脅威に晒される確率は大幅に下がるはずじゃて」「ふふん、やるではないか」「君の情報と、忠告があってこそだよ。それに、わしは例の『破壊の杖盗難未遂事件』で思い知ったのじゃ。いくら頭数が揃っていたとしても、火急の折に動けぬメイジなど、まるで役に立たない置物同然だということをな」 思わずため息を漏らすオスマン氏。正直、彼の内心は複雑だった。本来であれば、国内最大級のメイジの砦と呼んで差し支えないトリステイン魔法学院が、敵の襲撃を想定して職員や生徒たちを避難させることなど、あってはならない事態なのだ。 何故なら、魔法学院に所属しているメイジは、戦時や緊急事態が発生した際に一切頼りにならない。周囲からそのように受け取られるに等しいからだ。生徒たちだけならばいざ知らず、教職員がそのような目で見られることは、最悪トリステインの沽券に関わる。 しかし、悲しいかな彼らは一部の教員を除き、実戦経験が一切無いというのが現実だ。生徒たちは言わずもがな。オスマン氏でなくとも、頭が痛くなるだろう。休暇という形を取っているとはいえ、避難させていることに変わりはないのだから。「ともかく、これで魔法学院についてはなんとかなりそうだのう。絶対安全とまではいかないまでもな」「できうることならば、コルベール君だけではなく、きみたちにも残っていてもらいたかったのじゃが……」 手元にある2通の申請書を見ながら、オスマン氏は深いため息をついた。何故ならば、忘れかけていた――いや、忘れたかった現実を思い出さざるを得なかったからだ。 オスマン氏の目の前に立つ太公望は、ガリア王国花壇騎士団の装束に身を包んでいる。太公望が以前から懸念していた通り、タバサの元へガリア王政府からの召喚状が届いたのだ。もちろん、彼も同行するよう命じられていた――隊服着用の指定付きで。「やはり、ミス・タバサも姫殿下の結婚式に参列するのかね」「おそらく、従姉妹の代理として――ということになるとは思うがな」 オスマン氏は忌々しげに息を吐くと、越境許可証の作成に取りかかった。 ――そうだ。今、自分の目の前に立っている男を呼び出したのは『虚無の担い手』たるミス・ヴァリエールではない。ミス・タバサ――ガリアの大公姫、シャルロット・エレーヌ・オルレアン。ガリアの宮廷で繰り広げられた醜い派閥戦争の犠牲者。半ば国外追放に近い形でこの魔法学院に留学してきている、哀れな少女なのだ。 オスマン氏は、悔やんでいた。やはり早急に行動を起こすべきだったと。卒業生との間に太い繋がりを持つとはいえ、王政府への政治的な発言権を持たない自分の養子という形でタバサと太公望のふたりをトリステインに取り込んでしまえば、ガリア王国からの外圧を受けることなく、それを実現できていただろう。むしろ、厄介払いができたと感謝すらされたかもしれない。 だが、太公望がガリアの騎士になってしまった現状ではもう手遅れだ。 身元不明の少年にしか見えぬ彼を貴族、それも花壇騎士の一員として迎え入れたということは――ガリアの王政府に、何らかの思惑があるのだろう。それを横から攫うような真似をすれば、最悪の場合、かの国を敵に回すことに繋がる。それだけはなんとしても避けねばならない。トリステイン王国のみならず、彼ら主従の安全のためにも。 アルビオンの現状については、太公望だけではなく独自のルートからも情報を得ている。結婚式の期間中、トリステインが危機に晒される可能性が高いことも充分承知している。自分の留守中に、彼らが魔法学院に残ってくれてさえいれば……万が一のことが起きても安心できたのに。 しかし。そんなオスマン氏の切なる思いは、タバサと太公望のふたりを乗せた風竜の後ろ姿と共に、虚しく空に消えるのみであった――。○●○●○●○● ――その翌日。 壮麗なヴェルサルテイル宮殿の一角プチ・トロワでは、そこの主たるイザベラ王女が、自らが呼び出したふたりが来るのを待っていた。 蒼く長い髪を指でいじりながら、イザベラは側にいた侍女に尋ねた。「ねえ。人形娘たちは、まだ来ないの?」 侍女は、周りに助けを求めるような視線を投げたが――全員が、目を伏せている。困惑しきったような声で、彼女は主人の質問に答えた。「あ、あの、シャルロットさまは、まだ……」 それを聞いたイザベラは、勢いよく椅子から立ち上がると、侍女に詰め寄った。「おい、お前! 今、なんて言った!?」「ひッ……いえ、あの……」「あれの名前は『人形7号』だ。何度言えばわかるんだい!?」「もも、申し訳ございません……」 侍女は恐縮して、何度も頭を下げた。「覚えの悪い愚図には、相応の罰を与えなきゃいけないねえ」 そう言い放つと、イザベラは繰り返し罵詈雑言を吐き、侍女を精神的に追い詰め始めた。侍女はがくがくと震え、目には恐怖による涙が浮かんでいる。そんな彼女の姿を見ているイザベラの顔は、堪えようもない愉悦で歪んでいた。 ――くどいようだが、この王女に暇な時間を与えると、本当にロクなことにならないのである。 周囲を固めていた侍従たちは、一刻も早く件の人物たちが現れるのを願った。 ……と、そこへ呼び出しの衛士がタバサたち主従の到着を告げた。「人形7号さま! 使い魔8号さま! おなり!」 謁見室のそこかしこで、安堵のため息が漏れ聞こえた。そして、ようやくイザベラの癇癪から解放された侍女が、柱の影へ逃げるように駆け込んだのとほぼ同時に、謁見室へと繋がる大扉が開かれ、人形7号ことタバサと、使い魔8号こと太公望が姿を見せた。 イザベラは、現れた主従に視線を向けた。相変わらず何を考えているのかわからない、凍り付いた水面のように無表情な従姉妹姫と、別の意味で扱いが難しい、彼女の使い魔。そんな彼らの背丈は、自分よりも頭ひとつ分は小さい。 しかし、それは見かけだけのこと。彼らふたりの内に、とてつもない<力>が隠されていることを知っているイザベラは、ふんと鼻を鳴らした。昔の彼女であれば、彼らに激しく嫉妬して、悔しさにその身を焦がしていただろう。だが、今は違う。この世には魔法以外にも大きな<力>があることを、未来の女王たるイザベラは知り得ていた。だから、彼女はそれを行使することにした。 イザベラは、タバサに向かってじろじろと無遠慮な視線を投げかけると、命令した。「人形。そのマントを外しな」 貴族にとって、マントは身分証明のようなものだ。それを外せとは――と、周囲の侍従たちがタバサに同情溢れる視線を向けた。しかし、本人はまるで自室で着替えをしているかのように、あっさりと身に纏っていたマントを外した。 イザベラとしては、着ているものを全部脱げと言いたかったのだが……あまりやり過ぎてしまうと従姉妹のすぐ横に立っている男がどう動くかわからなかったので、ぎりぎりのところで自重することにした。 シンプルな白いブラウスに黒のプリーツ・スカートという、魔法学院の制服だけの格好になった従姉妹姫を、イザベラは無遠慮に観察した。ただ背が小さいというだけでなく、すとんとした体つきで、年頃の娘に相応しい凹凸がまるで無い。 今までさほど気にしていなかったが、いくらなんでもこれはおかしい。この娘は、あと3ヶ月ほどで16歳になるはずだ。それを思い出したイザベラは、何気ない口調で問うた。「ねえ、あんた。毎日きちんと食べてるの?」 コクリと頷くタバサ。だが、そんな受け答えで満足するイザベラではない。口を歪めて従姉妹を詰問した。「その口は、ただの飾りかい? ちゃんとわかるように答えな」「1日3回、きちんと食べている」「ふうん。で、量はどうなんだ? 足りてないんじゃないかい?」 その問いに答えたのは、タバサではなく彼女のパートナーだった。「あれで足りないというのならば、魔法学院の敷地全部を畑にしないと間に合わな……がふうッ!」 タバサの拳が、太公望の後頭部を直撃した。スコーンという小気味のよい音が謁見室に響き渡る。勢いよく身体を捻っての一撃は、目にも留まらぬ早業だった。すぐ側にいた侍従や衛士たちのみならず、イザベラまでもが思わず顔を引き攣らせる程度には。 太公望が頭を抱えて床に伏せる横で、何事もなかったかのようにタバサは答えた。「特に問題はない」「ま、まあ、それならいいんだ。仮にも王族だったあんたが餓死なんかしたら、ガリア王家の恥だからね」 このやりとりを『部屋』から覗いていた王天君は、豪奢なソファーに寄りかかり、身体をのけぞらせて高笑いしていた。「ハ……ハハハハッ、ダセェ! あいつぁ、異界でもこんな扱いなのかよ! こいつぁもう一種の体質かなんかじゃねぇのか?」 何かというと、仲間たち――本来、部下であるはずの者たちにボコボコにされていた『半身』の過去を思い出した王天君は『窓』を見遣りながら独りごちた。「に、してもだ。あのガキ、マジでイザベラの従姉妹なのかぁ? 似てんのは、髪と目の色くらいじゃねぇか」 すらりとした肢体、絹糸のように艶やかな蒼い髪と、瞳の奥まで吸い込まれそうな碧眼。かつて傾国の美女と呼ばれた母親の側にいた王天君の目から見ても、イザベラは『綺麗』というカテゴリに分類できる女だ。しかしその従姉妹はというと、まるで幼子のような姿形をしている。彼のパートナー曰く、従姉妹とはふたつしか違わないとのことなのだが、とてもそうは思えない。「年齢にそぐわねぇあの身体……もしかすると、あのガキには普通じゃねぇ何かがあるのかもしれねぇなぁ」 太公望がいなくなったときに王天君が慌てたのは、理由がある。それは、自分の元に『肉体』が残っていたからだ。他者の肉体を乗っ取る『借体形成の術』を持たない『半身』が、魂魄だけの状態で長期間彷徨うことになれば――最悪の場合、消失の危険性があるからだ。ところが、いざこちらの世界へ来てみると、太公望は自分の肉体を得ていたのだ。「太公望のヤツを、異界へ引き寄せやがっただけじゃねぇ。胡喜媚に消失させられたはずの肉体まで復活させやがった。あのバカは全然気付いてねぇみてぇだがな」 爪を噛みながら考え事をしている王天君の眼下では、イザベラが謁見室にいた侍従たちを下がらせ、今回の任務を言い渡していた。それは、「イザベラの影武者として、ゲルマニア皇帝の結婚式に参列する親善大使となれ」 と、いうものだった。 王女の馬車で王都リュティスの南に位置する軍港サン・マロンへと移動し、そこでガリア王国艦隊旗艦『シャルル・オルレアン』号に乗船。空路でゲルマニアへと向かうというのがその詳細だ。 暗殺された父の名を冠する戦艦に、その子が仇の娘の影武者として乗り込む。端々に皮肉の満ちた任務である。だが、これがあくまで偽装に過ぎないことを王天君は知っていた。 まもなく、イザベラの父親が仕掛けた『遊技(ゲーム)』が始まる。影から敬愛する父王の手助けをしたかったイザベラは、その真意を隠し、再び『影武者』として彼らを使いたいという理由を掲げ、タバサと太公望をガリアへ呼び寄せたのだ。 ジョゼフ王は、イザベラが申し出た案に対し、これといって賛成も反対もしなかった。それが、王天君には少し引っかかった。彼は僅かながらもジョゼフ王の人となりを見て、自分の母親や、華麗なる戦いを好んでいた彼女の同輩に近い――想定外のトラブルをも歓迎し、その上で娯楽に変えてしまうような人物だと判断していたからだ。 とはいえ王天君としても、これから戦地となりうる場所に、己の『半身』を置いておきたくはない。そのため、状況次第で強力な『ジョーカー』となりうるふたりを『遊技場』から離しておきたいという、イザベラの案に賛成するしかなかった。「さぁてと、そんじゃあ少し様子を見させてもらうとするぜ。人形姫さまよ」○●○●○●○● ――その翌日、ギューフの月、ティワズの週、ラーグの曜日。 色とりどりのリボンや季節の花で飾られたトリステイン艦隊旗艦『メルカトール』号は、神聖アルビオン帝国政府からの客を出迎えるために、艦隊を率いて港湾都市ラ・ロシェールの上空に停泊していた。 3日後、ウィンの月1日に帝政ゲルマニアの首府・ヴィンドボナにて行われる結婚式に参列する前に、アルビオンの新皇帝オリヴァー・クロムウェルと政府高官たちが親善大使として王都トリスタニアを訪問するとの報せが届いていたためだ。 『メルカトール』号の後甲板では、トリステイン艦隊司令長官のラ・ラメー提督が、国賓を迎えるために正装し、居ずまいを正している。その隣では、艦長のフェヴィス大佐が遠くアルビオンの空を眺めながら、口髭をいじっていた。「おのれ、あの薄汚い犬どもめ。約束の刻限は、とうに過ぎているのだがな」 ラ・ラメーは、いらいらとした口調で、傍らに立つ艦長だけに聞こえるよう呟いた。 アルビオン政府が報せて寄越した到着予定時刻から、既に1時間が経過している。ラ・ラメーでなくとも苛立つのは当然だ。上司の怒りは当然とばかりに、フェヴィスは頷いた。「仕えるべき主君に牙を剥いた腐れ犬どもですからな。血の臭いがせぬよう、犬なりに着飾っているのではないのですかな」 大の『レコン・キスタ』嫌いの艦長が答えると、提督は囁くような声で訊ねた。「それならば、まだいいのだがな。艦長、例の件だが……君はどう考える?」「グラモン総軍司令長官殿の指示ですか? 勇猛果敢で知られるグラモン閣下が、あえて我々にのみ警告を発してこられたことにこそ、意味があるものと考えております」「そうか。ただの懸念であってくれればよいのだがな」「はい。国を挙げての慶事を血で汚すことだけは、なんとしても……」 と、そこへ見張り台の上にいた水兵が、大声を上げた。「左舷上方より、艦隊!」 ラ・ラメーとフェヴィスが言われた方向を見遣ると、雲とも見まごうばかりの巨大戦艦を先頭に、アルビオン艦隊がゆるゆると降下してくるところであった。「なるほど、あれが噂の『ロイヤル・ソヴリン』級ですか」 艦長は、巨大戦艦に魂を奪われたかのような声で呟いた。あの艦隊に、姫君の結婚式に出席するクロムウェルと貴族議会の官僚たちが乗り合わせているはずであった。 呆れ果てたような口調で、フェヴィスが呟いた。「あのような大口径の砲を積んだ巨艦をわざわざ『お召し艦』に選ぶとは。砲艦外交もここに極まれりですな」 同意するようにラ・ラメーは頷く。「まったくだ。それにしても、先頭に立つあの艦は本当に巨大だな。後続の戦列艦が、まるで小さなスループかフリゲート艦のようにも見える」「戦場では絶対に会いたくない相手ですな」 提督と艦長が正直な感想を言い合っていると、降下してきたアルビオン艦隊がトリステイン艦隊と併走するかたちとなり、旗流信号をマストに掲げた。『貴艦隊ノ歓迎ヲ感謝ス。アルビオン艦隊旗艦『レキシントン』号艦長』 それを見たラ・ラメーが眉を顰めた。「こちらは提督を乗せているというのに、艦長名義での発信とは。これはまた随分とコケにされたものだな」「不可侵条約がなければ、喧嘩を売られたと思うところですよ」 艦長の言葉に、ラ・ラメーは飾り立てられた自国艦隊の戦力と相手とを見比べながら、ため息をついた。見た目だけは華美な旧式艦が10隻ばかり並んでいる自軍に対し、相手は『ロイヤル・ソヴリン』級巨大戦艦が1隻と、巡洋艦とおぼしき戦列艦が15隻。親善訪問が聞いて呆れるような陣容だ。「買えるだけの戦力は、残念ながらここにはないがな。まあよい、とにかく返信だ。『貴艦隊ノ来訪ヲ心ヨリ歓迎ス。トリステイン艦隊司令長官』以上」 提督が発した命令を側にいた士官が復唱し、それをさらに帆柱に張り付いた水兵が復唱する。信号檣に、指示通りの旗流信号が掲げられた。 すると、アルビオン艦隊から大砲が放たれた。礼砲であるため、大砲に弾は込められていない。火薬を爆発させるだけの空砲である。 しかし、その礼砲は周囲の空気を大きく震わせた。その振動は、実戦経験豊富な提督たちを後じらせる程の迫力を持っていた。「大きな声では言えないが、弾が込められていたらと考えると、正直ぞっとせんな」「……ええ。それで、閣下。答砲は如何しましょう、何発撃ちますか?」 礼砲の数は、相手の格式と位で決まる。最上級の客、つまり国王の訪問に対しては、国際的な通例で11発と定められている。ラ・ラメーは少し考えると「9発でよい」と答えた。訪問者は一国の皇帝だが、彼は三王家の王よりも格が劣る。つまりこれは、ごく一般的な礼に叶う数であった。 なるほど、相手が挑発しているからといって、こちらがそれに乗る義理はないということか。提督の命令をそのように受け取った艦長は、砲撃手に命令した。「答砲準備! 順に9発! 準備出来次第、撃方始め!」 艦長の命を受けた水兵たちが、一斉に行動を開始する。 ――アルビオン艦隊旗艦『レキシントン』号の後甲板で、艦長のサー・ヘンリー・ボーウッドは、左舷の向こうに展開しているトリステイン艦隊を、複雑な思いで見つめていた。 彼のすぐ隣には、アルビオン総軍指令長官ホーキンスの姿も見えた。貴族派の将軍として名高い彼は、本来であれば空軍ではなく、陸軍を率いる高級将校だ。 しかし、今回の『作戦』に必勝を期した貴族議会は、前任のサー・ジョンストンを解任。歴戦の勇士である彼を、新たな総軍司令として任命したのであった。革命戦争で有能な空の戦士を多く失っていたことも、それを後押しした。「艦長」 初めての空軍指揮にも拘わらず、ホーキンス将軍は落ち着き払った声で、傍らに立つボーウッド艦長に話しかけた。「如何しましたか、司令長官殿」「乗艦前に言った通り、私は空戦に関しては門外漢だ。よって、上陸作戦を開始するまでの間は、全面的に君の判断に任せる。だからといって、君たち空軍の手柄を横取りしたり、失敗を押しつけたりするような真似はせんから、安心して職務に励んでくれたまえ」 そう言ってニヤリと笑みを浮かべたホーキンスを見て、ボーウッドは思った。憎むべき貴族議会も、たまにはいい仕事をする。噂には聞いていたが、本当に良い上官を配置してくれたものだ、と。専門外の分野に、素人の上官から余計な口出しをされるよりも、全てを任せてもらったほうが仕事がやりやすいし、軍の士気も上がる。 ボーウッドは姿勢を正して敬礼すると、笑みを返した。「浅学非才の身ではありますが、全力を尽くします」 ボーウッドは、この『任務』に大いなる不満を持っていた。そもそも彼は、心情的には王党派に与していたのだ。しかし彼は、『軍人は政治に関与すべからず』『上からの命令は絶対のものである』 これを守り抜く生粋のアルビオン軍人であった。そのため、元上官が貴族派連盟についた際に、仕方なく『レコン・キスタ』側で革命戦争に参加しただけに過ぎない。 アルビオンの伝統『高貴なる者の義務(ノブレス・オブリージュ)』を体現すべく努力を続ける彼にとって、アルビオンは未だ『共和国』ではなく『王国』であり、クロムウェルと貴族議会は、忌むべき簒奪者でしかなかった。 今回出された『命令』も、彼にとって唾棄すべき内容であった。だが、上司から議会で承認された政治判断だと告げられてしまっては、彼はもう、何も言えなくなってしまうのだった。彼にとっての軍人とは、物言わぬ杖であり、国を守る忠実な番犬に過ぎない。 ――しかし、こんな禄でもない作戦の最中にも、希望を見出せるものなのだな。 頭の片隅でそんなことを考えながら、ボーウッドは部下たちへ矢継ぎ早に命令を下す。「左、砲戦準備」「左、砲戦準備! アイ・サー」 砲甲板の水兵たちによって大砲に装薬が結められ、砲弾が押し込まれる。その直後、左舷向こうの空に砲撃音が響き渡った。トリステインの旗艦が、答砲を発射したのだ。「総員、作戦開始」 ホーキンスの指令を受けたその瞬間、ボーウッドは劇的な変化を遂げた。心の内に抱えていた全てが彼の頭の中から消え去り、ただ与えられた命令を忠実にこなす、完全なる軍人になったのだ。 ボーウッドの視界の端に、艦隊最後尾に配備されていた旧型艦『ホバート』号の乗組員が<浮遊>の魔法で浮かんだボートで脱出する姿が映り込んだ。「準備は終わった。さあ――ここからだ」 答砲を発射し続ける『メルカトール』艦上のラ・ラメー達は、驚くべき光景を目の当たりにした。アルビオン艦隊最後尾の艦の端が、突如燃え上がったのだ。「なんだ? 何事だ!?」 フェヴィスは呟く。次の瞬間、さらに驚くべき事態が発生した。小さな艦はまたたく間に炎に包まれたかと思うと、爆散し、残骸となって地面へ向かって墜落してゆく。 『メルカトール』号の甲板上が、騒然となった。そこへ『レキシントン』号から、さらなる衝撃がもたらされた。それは、手旗手の送って寄越した信号であった。「『レキシントン』号艦長ヨリ、トリステイン艦隊旗艦。『ホバート』号ヲ撃沈セシ、貴艦ノ砲撃ノ意図ヲ説明セヨ」 それを読み取った艦長が、慌てた声で言った。「撃沈だと? 何を言っているんだ、勝手に爆発したんじゃないか! とにかく返信だ! 『本艦ノ射撃ハ答砲ナリ。実弾ニアラズ』 急げ!」 慌てふためく艦長とは反対に、ラ・ラメー提督の頭は徐々に冷えていった。なるほど、この『親善訪問』とやらは、見せかけだけのまやかし。我らを貶める為の罠だったのか。グラモン元帥が抱いておられた懸念が、現実のものとなってしまった。 提督は、落ち着いた声で命令を発した。「総員、戦闘配備につけ」「て、提督!?」 そこへ、さらなる信号が届く。『貴艦ノ砲撃ハ空砲ニアラズ。我ハ、貴艦ノ攻撃二対シ応戦セントス』「馬鹿な! 我々が撃ったのは間違いなく空砲です。実弾だったとしても、あんな後方まで届くわけが――」「あれは偽装だよ、艦長。どうやらアルビオンの犬どもは、さらなる領土の拡張を望んでいるらしい」 ラ・ラメーの言葉でようやく事態を把握したフェヴィスが、怒りで顔を朱に染めた。「お、おのれ、アルビオンの犬どもめが。ふざけた真似を!」 しかし、フェヴィスの憤怒は『レキシントン』号の一斉射撃によってかき消される。 轟音の後、着弾。『メルカトール』号のメインマストが折れ、甲板にいくつも大穴が開いた。砲甲板に届いた弾は爆散し、血煙と多くの死を撒き散らした。「この距離で砲弾が届くとは! アルビオンの艦は化け物か!!」 先程までとは一変、顔を青ざめさせた艦長は、信号手に向かって命令した。「信号送れ! 『砲撃ヲ中止セヨ。我二交戦ノ意思アラズ』」 しかし、当然のことながら『レキシントン』号の攻撃は止まらない。「無駄だよ艦長、やつらは始めから、こうする予定だったのだ」 ラ・ラメーは周囲を見回した。フネのあちこちで火災が発生し、傷ついた水兵たちの苦悶の呻きが渦巻いている。おそらく、自分たちはここで果てることになるだろう。だが、このままでは終わらない。終わってたまるものか。トリステイン貴族の名誉に賭けて。「各部、被害状況報せ! 艦隊全速! 右砲戦用意!」 わずかながらも時間を稼ぎ、敵の情報をできうる限り後方に送る。これが、私にできる最後のご奉公です。炎と硝煙に包まれながら、ラ・ラメー提督は、その人生における最後の命令を下した。 ――国賓歓迎のためラ・ロシェールの上空に停泊していた自国艦隊へ向けて、アルビオン艦隊が攻撃を仕掛けてきたという報せが、事件の詳細な状況報告と共にトリステインの王宮へともたらされたのは……それからすぐのことであった。 そして、さらに数時間後。アルビオンの戦列艦数隻を道連れに、トリステイン艦隊が全滅したとの報が届き――それと前後して、アルビオン共和国政府からの宣戦布告文が急使によって届けられた。 アルビオンからの通達は、これまた一方的なものであった。そこには親善艦隊へ対し、理由なき攻撃を行ったことに対するトリステイン王政府への批難声明と、先日結ばれたばかりの停戦条約を破棄する旨が記されており、最後はこのような文章で締めくくられていた。『自衛ノ為、神聖アルビオン共和国政府ハ、トリステイン王国政府ニ対シ宣戦ヲ布告ス』