――アルビオン王国皇太子、ウェールズ・テューダーだ。 その場に居合わせた全員が、若き皇太子を見つめていた。皆、あまりのことに呆然自失といった格好だ。「君たちが何を言いたいのかは理解できるよ。皇太子ともあろう者が、何故こんなところで貨物船を襲うような真似をしていたのか。どうだい、違うかね?」 ウェールズ王子は、いたずらっ子のような笑みを浮かべて言った。「いやなに、簡単な理屈だよ。景気の良い貴族派連盟軍には、続々と物資が送り込まれる。敵の補給路を絶つのは戦の基本。しかしながら、堂々と王軍旗を掲げていては、あっという間に敵のフネに囲まれてしまう。この『イーグル』号だけでは到底太刀打ちできない。空賊を装うのも、致し方ないということだ」 そこまでウェールズが言っても、全員が揃ってあんぐりと口を開けたまま、その場へ棒のように突っ立っているばかり。あまりにもあまりな状況で目的の人物に出逢ってしまったが為に、完全に心の不意を衝かれてしまったのだった。 そんな中、ようやく立ち直った太公望が口を開いた。「あ、あの、大変失礼ですが……」「なんだね?」「本当に、本物の皇太子殿下で……?」 その疑問に答えたのは、目の前の若者ではなく、キュルケだった。「間違いなく、ウェールズ殿下だわ! だって、あたし……ヴィンドボナで開かれた式典へ皇太子殿下が出席されたときに、貴賓席でお顔を拝見しているもの」「証明できるか?」「この『微熱』が殿方の顔を見間違えるなんてこと、あるわけないじゃないの!」 ふたりのやりとりを聞いていたウェールズが、くすくすと笑った。「まあ、この状況やさっきまでの顔を見れば、無理もない。僕は正真正銘、アルビオン王国皇太子・ウェールズだよ。ふむ、そうだな……では、これならどうだろうか」 ウェールズは、自分の薬指に填めていた指輪を外すと手のひらに載せ、水精霊団の一同に見えるよう、目の前に差し出した。丸い宝石が指輪の中央で輝いていた。その石は透明で、内側には空を漂う雲を思わせる乳白色の物体が漂っている。 ルイズはその指輪に見覚えがあった。正確には、石が留められている特徴的な台座が彼女の記憶に残っていた。大貴族・ヴァリエール家の一員として、幼い頃から数多くの美術品に触れ、審美眼を養ってきたルイズだからこそ気が付くことができたとも言える。「そそ、その指輪……も、もしや、アルビオン王家に伝わる『風のルビー』では?」「ふむ。君は、何故そう思ったのかな?」 ウェールズの問いかけに、ルイズはゴクリと唾を飲み込むと、言った。「だ、台座の拵えが、トリステイン王家に伝わる始祖の秘宝『水のルビー』と、非常によく似ているからです」 ルイズの言葉を受け、ウェールズはにっこりと魅力的な笑みを浮かべた。「なるほど。君たちは、確かにトリステイン王家の信任を得ているようだ。これはまさしく『始祖』の秘宝。王族の側近くに在る者しか、その価値を見出せないはずだからね」「た、大変失礼をば致しました……」 揃って頭を下げた一同に、ウェールズは鷹揚に頷いた。「それはこちらの台詞だよ。おっと、申し訳ないが、ずっとここへ留まっているわけにはいかない。他のフネに目撃されると、色々と不都合だからね。まずは海岸線まで移動するとしよう。ところで、船長」「へ、へい、何でございましょう?」 いきなり話を振られたマリー・ガラント号の船長は、心底仰天した。急転直下の展開について行けなかったところへ、よりにもよって正真正銘、本物の皇太子殿下から直接の御下問とくれば、慌てるなと言うほうが無理である。「この船の名前と、積荷は何だね?」「トリステインの『マリー・ガラント』号。積荷は硫黄でございます、はい」「船ごと全部買った。料金は、相場の3倍額支払おう」 思わぬ申し出をされた船長は、歓喜に震えた。それからウェールズは、甲板の上に佇む水精霊団の一同に向けて、こう言った。「君たちは、我が『イーグル』号へ乗り換えてくれたまえ。歓迎するよ」○●○●○●○● 一同は、皇太子自らの先導で『イーグル』号の後甲板の上に設けられた、立派な船室に通された。『マリー・ガラント』号の船員たちは、ここには居ない。つい先程まで、自分たちのものだったフネの曳航を手伝っているらしい。 船室に到着後、全員が簡単な自己紹介――任務中は名を隠しているという事情を説明した上で、それぞれの『暗号名』を名乗り、一礼した。その最中、皇太子はちらとタバサに視線を移したが、何も言わなかった。タバサも、視線で礼を返すに留めた。 挨拶を済ませた後、全員が用意されたテーブルについたのを見届けたウェールズは、笑顔で言った。「それにしても驚いたよ。襲撃したフネに、トリステインからの使節団が乗り合わせていたこともそうだが、最も衝撃を受けたのは、あの……」 彼の言葉で、この場に居合わせた全員の視線が太公望へ移動した。「その節は大変申し訳ありませんでした。乗組員全員の命に関わると判断致しましたので、急遽、あのような手段を取らせていただいた次第で……」 額に汗を流しながら言い訳をする太公望に、ウェールズは訊ねた。「なるほど。もしや、君はマリアンヌさま……もしくは、アンリエッタの使い魔か?」 思いもよらぬ質問に、太公望の口があんぐりと開いた。タバサの片眉も少し上がった。「は?」「今更とぼける必要はない。先住の<変化>それに<魅惑>。人間が使えるものではない。となると、妖魔か亜人。まさか、既に滅びて久しい韻竜種かね!?」「いやいやいやいや」「へー、そうなんだー、しらなかったなー」「ソード! 話がややこしくなるから余計なことを言うなッ! 殿下、わたくしめは断じてトリステイン王家の使い魔でも、ましてや妖魔や韻竜などではございませぬ!」「では、一体何者なのかね? 僕たちの正体を看破した眼力だけではない。大人を差し置いて最上位者とおぼしき振る舞いを見せていたのだから、それ相応の理由があるはずだ」 笑顔を絶やさぬまま、そう問うてきたウェールズへ、太公望は答えた。「何者もなにも、見たままでございます! 今回はたまたま自分が仕切り役を任されていただけの話でして。あの先住魔法にしても、単に道具を用いただけのことで……」 太公望は席を立ち、懐にしまってあった『如意羽衣』を取り出し、纏ってみせた。「これは、わたくしの出身地に伝わる『如意羽衣』という魔法具で、過去に出会った者の姿と<力>を写し取り、真似ることができる秘宝中の秘宝なのでございます」 厳密には、少し違うのだが――そのように『羽衣』の効果を説明する太公望。「なんと、そのような魔法具が存在するとは! できれば、実際に<変化>するところを見てみたい。そうだな、僕に変身してみてはくれないか」 その申し出に慌てた太公望であったが、しかし。「どうしたんだね? さあ、やって見せてくれたまえ」 笑顔を絶やさず迫る王族の申し出に、使うたびに体力を消耗するなどという言い訳を――たとえ、それが真実だとしても――述べるわけにはいかない。ここで下手を打てば、この次に控えている重要な『交渉』に失敗する可能性が高くなる。おまけに、自分が妖魔だなどという、あらぬ疑いをかけられることにも繋がる。確かに自分は人間ではないが、それが明らかになった場合、あまり好ましくない状況に置かれることは想像に難くない。「……承知致しました。では、その効果のほどをとくとご覧あれ。ウェールズ皇太子殿下に<変化>ッ!!」 ボウンッ! という音と共に、太公望の姿がウェールズと瓜二つに変化した。それを見た王子と、彼の後ろに控えていた兵士たちは、揃って驚きの声を上げた。「これは、なんとも大変な魔法具だな! まるで、鏡を見ているようだ」 と、そこまで言ったところで、ウェールズは目の前の少年の様子がおかしいことに気がついた。息が荒く、滝のような汗を流している。心なしか足元もふらついているようだ。 かたや太公望も、自身の身体におきた異変に気がついていた。もちろん、その原因についても。よって、慌てて元の姿に戻ったのだが……既に、手遅れであった。 慣れない宝貝を――しかも、本来自分が持ち得ない<力>を使い続ければどうなるか。そんなことは、とうの昔にわかりきっていたはず。それも、あの女狐の<魅惑の術>を再現した直後に、さらに<変化>を行ったりしたら、身体にガタがくるのも当然だ。 多少『交渉』が不利になっても、安全を取るべきであった。我ながら、なんという馬鹿な失敗をしてしまったのだろう。そんなことを考えながら、がくりと両膝をついた太公望は、そのまま床に崩れ落ち――完全に意識を手放した。口から、ぶくぶくと泡を吹いて。「ちょっと!」「おい、いきなりどうしたんだよ!?」 いきなり床に倒れてしまった太公望を見て、水精霊団の一同は悲鳴を上げた。タバサと治療係のモンモランシーが、急いで彼の側へと駆け寄った。 太公望の手を取ったモンモランシーの顔色が変わった。彼女は水のメイジだ。触れたものの『流れ』を感じ取れる感覚が生まれつき備わっている。火のメイジが『温度』を、風メイジが『音』を、土系統のメイジが『物質の組成』を知覚できるのと同じように。「なんなの、これ……身体中の『流れ』が、ボロボロじゃないのよ!」「たぶん『如意羽衣』の使い過ぎ」 タバサの言葉に、一同は「あ……」と呟いた。彼らは、如意羽衣が<生命力>を対価に奇跡を起こすアイテムであることを、前もって知らされていたからだ。「一体何事だ! 彼は、大丈夫なのかね!?」 席を立ち、心配そうな声で問うてきたウェールズに、タバサが簡単に事情を説明した。それを聞いたウェールズは、固い表情で言った。「なるほど、済まなかった。王族の頼みとあらば断れまい。僕の好奇心のせいで、彼に大変な無理をさせてしまった。おまけに、大使殿を人外呼ばわりするなど、無礼にも程がある。王族の一員である僕がこのていたらく。我がテューダー家から民心が離れるのも道理だ」 倒れ伏した太公望の側に片膝をついていたタバサは、王子の言葉を受け、頭の片隅に引っかかるものを感じた。彼が化け物扱いされるのは、今に始まったことではない。けれど、先程行われた会話の中に、重要な何かが隠されているような気がする。それは、一体何? そんなタバサの思考は、診察を続けていたモンモランシーの声によって中断された。「殿下、このフネに水メイジは同乗されていますか? わたくしどもの<治癒>だけでは、到底治せそうもありません。どうかお力添えを」 モンモランシーの願いに、ウェールズは頷いた。「数名待機している。医務室になら、水の秘薬も置いてある。もちろん、自由に使ってくれて構わない」 その言葉を合図に、数名のメイジが倒れていた太公望に駆け寄り<レビテーション>をかけた。タバサは、彼が持っていた手紙をコルベールに手渡すと、未だ意識を失ったままの『パートナー』に付き添い、モンモランシーと共に船室の外へ出て行った。 ――それから、1時間ほどして。 モンモランシーとタバサ、そしてフネに同乗していた水メイジたちによる懸命の治療によって、ようやく意識を取り戻した太公望は、見舞いに訪れたルイズたちの口から、現在の状況について聞かされた。 曰く、無事皇太子に密書を手渡すことができた。 曰く、問題の手紙はこのフネには無く、ニューカッスル城に置かれている。 曰く、手紙を受け取るために、現在ニューカッスル城に向けて航行中である。 ……全てを聞き終えた太公望は、盛大なため息をついた。「よりにもよって、全員で王党派の本陣へ向かう羽目になるとはのう」「仕方がないじゃない! どっちみち、貨物船は殿下がお買い上げになったんだもの。わたしたちだけじゃロサイスまで行けないし、トリステインへ戻ることもできないわ」 そう。太公望が不安視していたのは、まさしくこの状況に陥ることだったのだ。 そのため、何とか『マリー・ガラント』号だけでもトリステインへ戻してもらえるよう、皇太子に話を持ちかけるつもりであったのだが……無理をした結果、交渉のテーブルにつくことすらできなかった。 太公望は、文字通り頭を抱えてしまった。正直なところ、これは自分たちにも、トリステインにとっても致命傷になりかねない大失敗だ。「今からでも遅くない、何とか殿下に願い出てみよう」「その……残念ながら、それはもう無理だと思います」 申し訳なさげに頭を掻きながら、コルベールが言った。「何故だ? 風石が足りないというのであれば……」「いえ、そういう問題ではないのです。外を見てください」 コルベールに促され、上半身を起こした太公望は、ベッドの脇にあった窓から外を覗き見て仰天した。なんとフネの翼すれすれの位置に、巨大な岸壁が存在している。「雲に隠れながら、入り組んだ海岸線沿いにフネを移動させているのだそうです。しかも、これは王立空軍の熟達した航海士にしか進めない、特殊なルートなのだとか」 彼ら以外の者が、そこから外れようとした場合……ほぼ間違いなく座礁する。そのように告げられたというコルベールの言葉を受けた太公望は、再びベッドに倒れ込んだ。 ――やはりあの『女狐』は、わしの天敵だ。間違っても救いの神などにはならぬ。そんな思いっきり八つ当たりじみたことを考えながら。○●○●○●○● ――それから、数時間後。 水精霊団一行を乗せた巡洋艦『イーグル』号は、浮遊大陸アルビオンのジグザグした海岸線沿いを縫うように航行を続けていた。そのままさらに数時間ほど進んでいくと、大陸から突き出た岬が見えてきた。その先端には、高く堅牢な城がそびえ立っている。 未だ顔色は優れないものの、水の<治癒>魔法のお陰でベッドから起き上がり、ひとりで歩き回れる程度には回復した太公望を含む客人たちに向かって、ウェールズが説明した。「あれが、ニューカッスルの城だ」 そのまま陸地へフネを寄せるのかと思いきや。『イーグル』号は、大陸の下側に潜り込むような進路を取った。「どうしてまっすぐ進まないのですか?」 ギーシュが投げかけた質問に、ウェールズは城の遙か上空を指差しながら言った。「あれを見たまえ」 全員が視線を向けると、丁度遠く離れた岬の突端の上から、巨大なフネが降下してくるのが見えた。雲の中にいるので、向こうからは『イーグル』号が見えないようだ。 ウェールズが、苦々しげな表情で吐き捨てた。「叛徒どもの、艦だ」 それは、禍々しいとしか形容できない巨艦であった。全長は『イーグル』号のゆうに数倍はある。大きな帆を何枚もはためかせながら、ゆるゆると降下してきたそのフネは、舷側にある砲門を一斉に開いた。砲弾の向かう先は、もちろんニューカッスル城だ。 斉射による轟音と震動が、遠く離れた『イーグル』号にまで伝わってくる。巨大艦から放たれた数多の砲弾は城に着弾し、城壁を砕いた。「あれは、かつての本国艦隊旗艦『ロイヤル・ソヴリン』号だ。叛徒どもが手中に収めてからは『レキシントン』と、その名を変えている」「元は王党派の空軍基地があった場所、ですね?」 レイナールの言葉に、ウェールズは頷いた。「彼の地を貴族派連盟に奪われてから、我が方の敗色が濃厚となった。まさしく因縁の土地さ」 一同は、雲の切れ間に覗く巨大戦艦を見つめた。無数の大砲が舷側にずらりと並び、艦上には竜とおぼしき影がいくつも舞っている。「あの忌々しい艦は、ああして空からニューカッスルを封鎖しているのだ」 それを聞いた太公望は、引っかかりを覚えた。そして、目をこらして雲間を覗き込んだ。確かに、あのフネがあれば岬を孤立させることくらい容易そうではあるのだが――。「城の近辺にはあの艦しか見あたりませぬが、貴族派連盟のものどもは艦隊を出してはいないのですか?」「ああ。わざわざ出すまでもないと判断しているのだろう。なにせ、王党派に味方しようとする者は、現時点で皆無。それに、向こうは我々が『イーグル』号を持っていることにすら気付いていないのだから」「なるほど」「とはいえ、両舷合わせて108門の備砲に、竜騎兵まで積んでいる化け物など相手にできるわけもないので、このまま大陸の下へ潜り込み、地下から城へ戻ることになる」「地下から?」 才人の問いかけに、ウェールズはニヤリと笑いながら言った。「実はそこに、我々しか知らない秘密の地下通路があるのだよ」 大陸の下に移動すると、周囲は深淵の闇に包まれた。頭上に陸があるため、日差しが完全に遮られているためだ。おまけに、周囲は濃い霧のような雲によって包まれている。視界はほぼゼロに等しい。湿気を含んだ冷たい空気が、一同の頬を嬲る。「このような空間であるため、技術を持たぬ者はすぐに上方の陸地に激突してしまう。貴族派連盟の軍艦は、それを怖れるがゆえに大陸の下へは決して近付かないのだ」「確かに。これじゃあとてもじゃないですけれど、危なくて近寄れませんわね」 キュルケが発した心からの感想に、ウェールズが応えた。「地形図と小さな魔法の明かりだけを頼りに進むことなど、王立空軍の航海士にとっては、なに、造作もないことなのだが。貴族派連盟――あいつらは所詮、空を知らぬ無粋者さ」 そう言うと、ウェールズは笑った。しかし、闇に隠れていたせいで、その表情までは覗えなかった。 それから1時間ほどして。頭上に巨大な――直径300メイルほどの穴が空いている場所に出た。ウェールズの命令で、暗闇の中にも拘わらず、穴の下にぴたりと停止した『イーグル』号は、そのままゆっくりと上昇していく。『イーグル』号から派遣された航海士が乗る『マリー・ガラント』号が、後に続いた。「いやはや、実に見事な操船技術ですな!」 感心しきりといったコルベールに、ウェールズは笑いながら言った。「どうだね。まるで空賊のようだろう?」「まさに空賊ですな、殿下」 穴に沿って垂直に上昇すると、その先に明かりが見えた。光の中へ吸い込まれるように『イーグル』号が進んでゆく。次の瞬間、眩いばかりの光に晒されたかと思うと、艦はニューカッスル城の地下にある、秘密の港に到着していた。「すげえ……」「綺麗……」 ルイズと才人は、思わず声を上げてしまった。他の者たちも彼らと同様、周囲の光景に目を奪われていた。そこは、白い光を放つ苔に覆われた、巨大な鍾乳洞だった。 『イーグル』号が鍾乳洞の岸壁に近づくと、一斉にロープが飛んできた。水兵たちがそれを結わえつけ、艦を岸壁に寄せる。その後、すぐさま車輪つきのタラップが近付いてきて、艦にぴったりと取り付けられた。 そこへ、背が高く人品の良さそうな老メイジが近寄ってきた。「殿下! これはまた、たいした戦果ですな」 『イーグル』号に続いて鍾乳洞の中に姿を見せた『マリー・ガラント』号を見た老爺が、にこにこと顔を綻ばせている。「パリー! 後ろのフネに乗っているのは、戦果ではない。我々と取引するために、はるばるトリステインから来てくれた、勇気ある商人たちだ。くれぐれも粗末に扱ってはいけないぞ。積荷は、なんと硫黄だ! 硫黄!!」 集まっていた兵士たちが、それを聞いて歓声を上げた。空の上で完全に孤立していた彼らの元へ、交易商人が現れた。その事実だけでも喜ばしいことなのだ。しかも――。「硫黄ですと!? 火の秘薬ではございませぬか!」「これで、我々の名誉も守られる!」 兵士たちは、おいおいと泣き始めた。パリーと呼ばれた老人も、彼らと同じように顔全体を涙で濡らしている。「先の陛下より、王家にお仕えして幾星霜。これほど喜ばしい日はありませぬ。レキシントンを叛徒どもに奪われてこのかた、苦渋を紙め続けておりましたが……なに、これだけの硫黄があれば……」 にっこりとウェールズは笑った。まるで秋の空の如き、澄みきった顔であった。「ああ。王家の誇りと名誉を叛徒どもに示しつつ、敗北することができるだろう」「はい。まさに栄光ある敗北でございますな! して、ご報告なのですが……叛徒どもは明日の正午に、攻城を開始するとの旨、伝えて参りました」「なんと。間一髪とはまさにこのこと! 戦に間に合わぬは、武人の恥だからな!」 王子たちは、心底嬉しそうに笑いあっている。それを見たタバサは思った。敗北ということは――つまり、死ぬということだ。彼らは、希望のない闇の中で全てを諦め、厳しい現実をただ受け入れているだけだと。 かたや才人は、彼らが何故笑い合っているのか理解できなかった。もうすぐ死ぬかもしれないというのに、どうして彼らはあんな顔ができるんだろうと、本気で悩んだ。「ところで、殿下。そちらの皆さま方は?」 パリーの問いに、ウェールズが答える。「海外からの使節団だ。重要な用件で、我が王国へやって来られたのだよ」「使節団……で、ございますか?」 もう間もなく滅びる国に使節団が訪れるなど、常識では考えられないことだ。一瞬、怪訝な顔をした老爺だったが、すぐさま表情を改めると、深々と一礼した。「これはこれは。わたくしは殿下の侍従を仰せつかっております、パリーと申します。遠路はるばる、ようこそアルビオンへお越し下さいました」○●○●○●○● 一同はウェールズに付き従い、城の天守にあるという彼の居室へと向かった。途中の壁に設けられていた狭間(さいま)から、ちらりと外を伺った才人は絶句した。 砲撃によるものなのだろう、城の外壁は半壊していた。焼け焦げた壁の近くには、備え付けられていた大砲とおぼしき残骸が転がっていた。そのすぐ側に、赤黒い染みのようなものを発見した彼は、思わず息を飲んだ。 才人は、ようやく肌で実感した。自分は今――正真正銘、命のやりとりをする場所に立っているんだ。テレビやネット越しに見ている訳じゃないんだと。 他のメンバーはというと、戦争というものが身近にある世界に暮らしているせいか、ケロッとした様子で歩を進めている。才人には、何故かそれがとても哀しいことだと思えた。 いくつもの階段を昇り、ようやく辿り着いたウェールズの居室は、とても王族の部屋とは思えない、質素な造りだった。唯一装飾と呼べるものはといえば、岩壁に飾られている、合戦の様子が描かれたタペストリーだけ。置かれている家具も、木製の粗末なベッドに、椅子と机が一組。その机の上には、ニューカッスル城周辺のものとおぼしき地形図と、駒のようなものが無造作に置かれていた。 王子は机の引き出しを開き、中にあった小箱を取り出した。それから首にかけられていたネックレスを外し、ついていた鍵で箱の蓋を開けた。蓋の内側には、うら若い女性の肖像が描かれている。その奥に、ぼろぼろになった紙束が見えた。 客人たちが後ろから覗き込んでいることに気付いたウェールズは、はにかんで言った。「宝箱でね」 どうやら、そこに入っていた紙が件の手紙であるらしい。ウェールズはそれを取り出し、愛おしそうに口づけたあと、開いてゆっくりと読み始めた。手紙がぼろぼろになっているのは、こうして何度も繰り返し読まれたからだろう。 読み終えると、ウェールズはその手紙を丁寧に畳み、封筒に入れて太公望に手渡した。「確かに返却したぞ」「ありがとうございます」 太公望は深々と頭を下げると、その手紙を受け取った。それを見たウェールズは、優しげに微笑むと言った。「明日の朝一番に、非戦闘員を乗せた『イーグル』号と輸送船が出港する。全員それに乗って、トリステインへ帰りなさい」 太公望は、心底ほっとしていた。手紙の中身はまた後で確認するとして、少なくともこの王子は、自分を含む使者の帰り道について、きちんと考えていてくれたのだと。 その礼を述べようとしていたところへ、突如ルイズが割り込んできた。「あ、あの、殿下……さきほど、栄光ある敗北と仰っていましたが、王党派に勝ち目はないのですか?」 躊躇うように問うたルイズへ、ウェールズは至極あっさりと答えた。「ないよ。我が軍は300。敵軍は五万。万に一つの可能性もありえない。我々にできることはといえば、はてさて、勇敢な死に様を叛徒どもに見せつけることくらいだ」 ルイズは俯いた。「殿下が討ち死になさる様も、その中には含まれるのですか?」「当然だ。僕は真っ先に死ぬつもりだよ」 ルイズは、この任務を請け負ったときのことを思い出した。まるで、恋人を案じるようなアンリエッタの様子を。そして、ここまでの王子の仕草を見る限り――おそらく、彼らは恋仲なのだろうと推測した。 近いうちに、王子は間違いなく死んでしまう。そうなれば、姫さまは……わたしの大切な『おともだち』は、深く悲しむに違いない。でも、自分には何も出来ない。せいぜい、王子に亡命を勧めるのが関の山だ。だけど、もしも断られてしまったら……? ルイズは、怖かった。また失敗したら、どうしよう。そればかり考えていた。 ――後に、彼女はこの後起こった出来事の始まりを、こう述懐している。「あの日、わたしはやっと認めたの。意地を張って、絶対に表へ出そうとしなかった、本当のわたし――心の奥底に無理矢理押し込めてた、臆病な自分のことをね」 失敗することに怯えたルイズは、震え声で聞いた。今から勝つことなんてできるわけがない。だから、自分たちと一緒に逃げてください。それを、上手く相手に伝えられそうな人物に。素直に己を表現できない彼女らしく、やや迂遠な言い方で。「ねえ、ハーミット。何か策はないの? 王党派が勝てるような、いい方法が?」 無理に決まってる。できっこない。予想していたのは、そんな返答。だが、戻ってきたのは、まるで冗談としか思えないような言葉。「勝てる」「やっぱり無理……って、えっ!?」「だから、勝てると言ったのだ。殿下をはじめとした、王党派に仕掛けられている『罠』を解除すればのう」 ウェールズの顔が、強張った。この賢しらな子供は、いったい何を言っているのかと。たとえこの場に『始祖』が降臨したとしても、この状況を改善する見込みなどないと。 だが、空で起きた事件によって生じていた太公望に対するわずかな後ろめたさが、王子の中に生じかけた憤りを抑えた。それが、彼が辿るはずだった運命を変えた。「面白い。その『罠』とやらは、いったいどういうものなのかな?」「それを説明するために、机の上にある地形図と、駒をお借りしてよろしいですか?」「いいとも」 王子の許可を得た太公望は、地形図の上に駒を並べ始めた。「まずは、現在の状況を確認させていただきます。王党派の現有兵力は300。対する貴族派連盟側は5万。敵軍の数に、艦隊や竜騎兵などの航空戦力は含まれていますか?」「いや、陸地に展開している軍のみだ」「そうですか。あえて航空戦力は無視するとして……おかしいとは思いませぬか?」「ふむ、具体的には?」 地形図の上をこつこつと叩きながら、太公望は説明する。「この戦場の地形ですが……岬の突端にある城が、王党派の本陣です。そこへ至るための道は狭く、大軍でもって攻め入るのはまず不可能です。にも関わらず、5万もの兵力を結集している。攻城兵器は地形的にも使えない。逆に考えてみてください、殿下が本気でこの城を陥とそうとした場合――陸軍をここまで大量に揃えますか?」「……いや、そんな馬鹿な真似はしない。岬の出口は、5千もいれば完全に封鎖できるからな。その上で、艦と竜騎兵を出す。空から艦砲による砲撃を加えて城壁と砲台を破壊し、火竜でもって突入。相手の残存兵力を削いだところで、初めて陸軍を投入する」 ウェールズの顔は、いつしか怜悧な司令官そのものに変化していた。「わたくしも、殿下とほぼ同じ考えです。見通しが良く狭い岬の上を、上空からの援護なしに進軍させるなど、愚の骨頂。兵たちに、的になれと命じるようなものです」「その通りだ。そうだ、何故貴族派連盟は艦隊を出さぬのだ? 叛徒どもがやってくることといえば『ロイヤル・ソヴリン』号で、外壁に嫌がらせ程度の砲撃を加えるのがせいぜい。竜騎兵も、上空をただ飛び回るばかり。城そのものに攻撃を仕掛けてこないのは、どうしてなのだ!?」 静かな声で、太公望は告げた。「しかるべき理由があって、きゃつらは艦隊を出すことができないのですよ。そして、それこそが王党派に仕掛けられた罠を解除するための鍵なのです」 ウェールズは、地形図を睨みながら言った。「予算的な問題ではないだろう。それなら、陸上兵力を5万も出す道理がない。数を大幅に削減して、艦隊側に回せばいいだけの話だ。敵の司令官が、無能であるわけもない。そうであれば、我らはこんな大陸の端まで追い遣られてなどいない」「左様。そもそも、この戦争における貴族派連盟側の『勝利条件』とは何ですか?」「テューダー家と、王党派を全滅させること……では、ないということかね?」「そうです。お嫌でしょうが、ここはあえて、敵の立場になって考えてみてください。合戦だけではなく政治的な勝利を収めるために、彼らがこの後しなければならない事とは、いったい何ですか?」 貴族派だけならば、王族を滅ぼす。それだけを目的として動いてもよかった。しかし『レコン・キスタ』が加わった現在はどうか。そこまで考えるに至って、ウェールズはようやく太公望が言わんとしていることに気がついた。「戦後、より平和的に国を治めるために、我らを滅ぼすのではなく……屈服させようとしているのか! そうすれば『始祖』に連なる王権を消し去るという、ブリミル教の教義に反するような真似をしなくて済む。世界全体を敵に回すこともなくなる!」 ウェールズは、喉の奥から絞り出すような声で続けた。「艦隊を出さないのは、城を破壊しようとした際に、まかり間違って王族を砲弾で吹き飛ばしてしまうのを避けるため……だな? そして、わざわざ5万もの兵で岬の出口を封鎖しているのは、圧倒的な兵力を見せつけることによって、外からの援護を躊躇わせ、かつ王党派に属する者たちに、絶望を与えることが狙いなのだ!」 太公望は、王子の顔を見て頷いた。「そうすることで内部崩壊を誘因し、殿下たちの身柄を差し出させるために。ここまで従ってきた王党派の兵士たちが、この期に及んで王家の方々を弑さぬと見越した上で」 顔を歪め、呻き声をあげた王子に、太公望は断言した。「『レコン・キスタ』の長であるオリヴァー・クロムウェルは、政治的な勝利を得るために殿下、あるいは国王陛下の身柄を抑えようと、やっきになっているのです。だからこそ、このような布陣を敷いているのだと、わたくしは判断しました」 ウェールズは、乾いた笑みを浮かべながら言った。「つまりだ。君の言う『王党派が勝つ方法』とは、やつらの目の前で、見せつけるように僕と父が死んでみせることだと……」「いいえ、そんなことをしてはいけません。それこそ、敵の思うつぼですわ!」 ふたりの会話に割り込んできたのは、モンモランシーだった。彼女の顔は青ざめ、その身体は小刻みに震えている。「それは、どういうことかな? ミス・フローラル」 王子の質問に、モンモランシーは緊張しながら口を開いた。彼の信用を得るためにも、最初にしなければならないことがある。それを、しっかりと認識した上で。「その前に、まずはわたくしの真の名をお聞き下さい。モンモランシー・マルガリタ・ラ・フェール・ド・モンモランシと申します。これが、その証拠です」 そう告げたあと、モンモランシーは懐からハンカチーフを取り出して見せた。それには、モンモランシ家の紋章が銀糸で刺繍されていた。 ウェールズは、もちろんその家名に覚えがあった。彼女の家は、トリステインでも有数の名家であるからだ。「なんと、モンモランシ家の! 水の精霊との交渉役を務める名家ではないかね」「残念ながら、実家は既に交渉役の任を解かれ、没落しておりますが……それはともかく。今のお話を聞いていて、わたくし、どうしても殿下のお耳に入れておかねばならないことを思い出しました。その、水の精霊に関することで」「……聞かせてもらおうか」 モンモランシーは語り始めた。以前、彼女たちがラグドリアン湖で行った、水の精霊との交渉について。惚れ薬の解除薬を作るという、自分たちに都合の悪いことは省きつつ、何故彼らが湖の水かさを増やしていたのか、その理由を。 全てを聞き終えたとき。ウェールズの顔は、怒りによってどす黒く変色していた。「死体を、まるで生きているかの如く操る効果を持った『指輪』に、それを奪った盗賊の名が『クロムウェル』だと……?」「そ、その、あまりに突飛な話で、そう簡単に信じていただけるなどとは思っておりませんが……」「いや、モンモランシ家令嬢の言葉だ、信じるよ。あの『羽衣』の威力を目の当たりにした後だから、余計にね。我が国で連続して起きた、数々の不可解な事件についても……ようやく得心がいった。そこでだ、君たちに頼みがあるのだが」「わたくしたちに、できることでしたら」 全員を見渡しながら、ウェールズは言った。「今の話を……父と、主立った将兵たちの前で、もう一度してもらいたい」