王都トリスタニアの西端には、地上30階建ての巨大な魔法塔がそびえ立っている。その塔を中心に、数々の宿舎や薬草が植えられた広大な畑、周囲を取り囲んで他者を寄せ付けぬ分厚い壁で守られた拠点がある。 そこは、創立から数千年の歴史と伝統を誇る、王立魔法研究所。通称『アカデミー』と呼ばれる学術研究機関であり、トリステイン王国の『知』を司る場所だ。 こういった研究機関は、トリステインに限らず他国にも多数存在するが、取り扱っている研究内容は千差万別。国家や機関によって大きく異なる。 たとえば、ガリア王国で現在最も精力的に取り組まれている研究は、魔法人形『ガーゴイル』に関するものだ。これらの研究成果は、衛兵の代わりに置いて門を守らせたり、重い荷物の運搬を補佐するなど、生活に即した技術として利用されている。 ジョゼフ王が即位し、この研究を始めさせた当初こそ、一部の貴族や寺院などから、「神の御技たる魔法をそのように使うのは下賤で、はしたないことなのではないか」 と、いったような意見が出たり、「魔法のできない『無能王』らしい思いつきですな」 などと陰口が叩かれることもしばしばであったが、鼻薬を嗅がされたり、もたらされた研究成果によって、自身の領地収入や寄付金の額が大幅に増えたことがわかった途端、彼らは一斉に口をつぐんでしまった。 ……結局のところ。新しい技術が台頭してきたとしても、自分たちが損をせず、逆に大きな利益があることさえ理解できれば、こういった輩は文句など言わなくなるのだ。 帝政ゲルマニアでは『魔法と工業技術の融合』に関する研究が盛んだ。中でも、冶金技術の向上に関して、特に熱心に取り組んでいる。 <錬金>の魔法で金属を錬成すると、どうしても不純物が多く混じってしまう。これは、メイジ個人がそれぞれに持つ『感覚』と『イメージ』によって、錬成結果が大きく左右されてしまうためだ。 だが、問題の不純物さえ上手く取り除くことさえできれば、将来的に鉱山で採掘した鉱石から精製される金属と同等か、それ以上の物が比較的安定して入手できるようになるという見込みから、この研究に投資している資産家は多い。なお、錬成における個人差を埋めるための魔法研究も、併せて行われている。 これらの研究による副産物として、ゲルマニアでは『錬金術師』と呼ばれる、<錬金>を専門としたメイジが数多く輩出されている。 中でも、ハルケギニア中にその名を轟かせている『宝剣の錬金術師』シュペー卿が作る宝剣は、その美術品としての価値も相まって、なんと一振りが王都の郊外に庭付きの屋敷を構えることができるほどの高値で取引されている。彼の作品を自分に仕える平民の従者や護衛士たちに持たせるのが、一種のステイタスになっている程だ。 ある意味、過去の常識や伝統に囚われず、金と実力さえあれば、魔法の有無に関係なく貴族の身分を手に入れることができるゲルマニアならではの現象とも言えるだろう。 ――そして、トリステイン王国の王立魔法研究所の基本方針はというと。 かの機関では、創設当初からの理念と伝統を守り、所属する研究者の全てが一丸となってひとつの課題に取り組んでいた。そのテーマとは、『魔法をより深く学ぶことで、始祖の御心を知る』 ことである。ただし、それは……「なぜ、魔法によってこのような事象が発生するのか」 と、いったような、魔法の仕組みや詳細を調べるための研究ではなく、「かつて『始祖』ブリミルが用いた炎は、どのような形で、どんな色をしていたのか」 とか、「聖具を作成するための金属として、どのようなものを用いるのが最も適しているか」 とか、「寺院に設置された燭台の火を揺らすための風量は、どの程度の強さが望ましいか」 などといった、およそ生活の役に立たないもの――すなわち『神学』の域を出ないものがほとんどであった。とはいえ、トリステインのアカデミーが『始祖に関する研究』という分野において、ブリミル教の総本山たるロマリア皇国連合に次ぐ研究成果を上げているのは、間違いようのない事実である。 ……それがきちんと国政に生かされているのかどうかについては、また別の話だ。 そして、このような気風がゆえに、少しでも変わった研究テーマ――たとえば、風と火の魔法を利用した暖房装置の制作などといった『始祖から伝えられし魔法本来の用法から外れたもの』を提示すると、最高評議会と呼ばれるアカデミーの運営意志決定機関によって、研究の開始前段階で全て弾かれ、消えてゆく。 審査によって弾かれ、研究予算が下りない程度ならばまだいい。あまりにも『伝統』から外れたテーマを出したりすると、最悪の場合『異端』の烙印を押された挙げ句、研究員としての資格をも剥奪され、アカデミーはおろか学会からも永久に追放されてしまう。 これが伝統と格式を重んじる、トリステイン王立魔法研究所の現実だった。 だが、そのような空気が蔓延している機関だったからこそ、長期休暇を終えて戻ってきた直後にエレオノールが示した姿勢は、最高評議会のメンバー達から高く評価された。 復帰直後。評議会長の元へと挨拶に訪れた彼女は、なんと、こう言ったのだ。「長期の休暇をいただきましたお陰で、改めて自分の研究について見つめ直すことができましたの。『始祖』の御心に近付くためには、神学をより深く学び直す必要性がある。今のわたくしに真に不足しているものは、それなのだと」 エレオノールの言葉を聞いたアカデミー評議会長のゴンドラン卿は、大いに喜んだ。「さすがは、国内でも特に伝統と格式を重んじる、ラ・ヴァリエール公爵家のご息女だ。一時期は、その、なんだ。色々あっていまいち研究に熱が入らないようであったが、彼女本来の調子が戻ったようで、何よりだよ」 などと、会談終了後に自分の秘書に向かって、ほっとした様子でそう告げたほどだ。 だが、そんなエレオノールの態度を、逆に不安視する者たちも存在した。その筆頭は、彼女の同僚であり後輩でもある、ヴァレリーという名の女性研究員だ。「神学をさらに追究する、ですって? まさかとは思うけれど……例の一件を気に病んで、将来は修道女になる、なんて言い出したりしないでしょうね」 エレオノールが、長年付き合っていた貴族から一方的に婚約を破棄されたという噂は、既に魔法研究所中に広がっている『公然の秘密』であった。噂が出回り始めた当初こそ、単なるゴシップだろうと思っていた人々も、「そうよ……こんなふうに研究一辺倒の生活を送っているから、彼との縁がなくなってしまっただけなのよ。わたくし個人に難があるわけではないの」 などと、どんよりとした空気を纏い、ひとりぶつぶつと呟き続けていたり――もちろん当の本人は、そんな自分の思考が、外界へだだ漏れになっているなどとは思いも寄らなかったわけだが――どこかで『結婚』という単語を耳に入れた途端、それを発した者の側へと電光石火の如き素早さで駆け寄り、ぎりぎりと喉を締め上げながら、「そのように縁起の悪い言葉を、わたくしの前で軽々しく口に出さないでくださる?」 と、凄まじい勢いで詰め寄った挙げ句、「さあ『結婚は人生の墓場』とおっしゃい! じ・ん・せ・い・の! は・か・ば!!」 などと、不気味な微笑みを浮かべながら復唱を迫る姿を見てしまっては、真実であると認めざるを得ないだろう。特に、エレオノールと仲の良いヴァレリーは――自身が締め上げられた経験を持つだけあって――他の人間よりも余計に、同僚の行く末を案じていた。「彼女、戻ってきてから自分の研究室に籠もりっぱなしだし……きっと、精神的に不安定になっているに違いないわ。少し気分転換させてあげたほうがいいわよね」 ヴァレリーはそっと自室の外へ出ると、研究塔の4階にある、エレオノール専用に設けられた研究室へと向かった。 ――いっぽうのエレオノールはというと。一部の同僚たちから、そんな目で見られていることなどつゆ知らず。ただひたすらに、自分の征くべき『道』を邁進していた。 半月ほど前。彼女の妹が、真の系統に目覚めた直後のことだ。エレオノールは、ひとり父親の書斎へと呼び出され、衝撃の事実を知らされていた。「が、が、ガンダールヴの名を聞いたときに、もしやとは、思っていました、けど……やっぱり、あ、あのサイトが、おちびの使い魔……しし、しかも、み、ミスタ・タイコーボーもミス・タバサに<召喚>されて、このハルケギニアへやって来たですって!?」 同席していたオールド・オスマンが、重々しく頷いた。「彼の件については『事故』として処理した上で、箝口令を敷いておるが、教職員たちはともかく、生徒たちや魔法学院内で雇っておる平民たちについては、完全に手を回しきれたとは言い難い。よって、いつかは外に漏れてしまう可能性のある情報であることと……」 オスマン氏の視線を受けたラ・ヴァリエール公爵が、その後を引き継いだ。「我がヴァリエール公爵家の長女であり、女の身でありながらアカデミーの主席研究員まで上り詰めた実力者であれば、自力でそこへと辿り着く可能性がある。それを踏まえた上で、エレオノールよ。おまえにだけは前もって伝えておいたほうがよいと判断した」 ルイズの系統と同様、決して他言無用である。そう前置きをした上で、ラ・ヴァリエール公爵は娘に訊ねた。「例の歓待を行う前。魔法学院から帰還した直後に、おまえはわしにこう言ったな? ミス・タバサはガリア王家の血を引く、高貴の出である可能性があると」「え、ええ。そもそも『タバサ』という名前自体、普通ならば犬や猫に用いられるもので、人間につけるようなものではありませんわ。ですから、偽名を使っておられるのではないかと判断したのです。それに、わたくしは実際に『ガリアの青』を見たことがありますもの。あの透き通った水底のような髪色は……ガリア王家の直系か、それに近しい者にしか現れないものとされていますから」 エレオノールの答えに、ラ・ヴァリエール公爵は至極満足げに頷いた。 『ガリアの青』は、その名前こそ通ってはいるものの、実際にどのような『青色』であるのかを詳しく知る者は少ない。ガリアの宮廷に出入りする者たちならまだしも、他国の人間ならばなおさら知り得ないことだ。 実際、このハルケギニアには青色がかった緑や、濃紺色の髪を持つ者なども存在する。よって、身近に青い髪の者がいても、すぐに『ガリアの青』と結びつけて考えることのできる者は、ごく一握りの者に限られていた。 これまで研究一筋に生きてきたとはいえ、トリステインの社交界に通じ、海外の事情についてもそれなりに承知していたエレオノールだからこそ、タバサが偽名を使ってまで身分を偽る必要のある人物だという可能性に辿り着くことができたのだ、とも言える。「君の推測は当たりじゃよ、エレオノール君。とはいえ、さすがにミス・タバサの素性まで明かすわけにはいかんが……ここまで聞いて、何か思い当たることはないかね?」 オスマン氏からそのように告げられて、エレオノールは考えた。おちびの系統を知った直後、新たにわたくしへともたらされた情報について精査しろということか、と。「ガリア王家の血を引く者にしか現れないとされる青い髪の少女が、おちびと同じように『人間』の使い魔を呼び出した。おちびの使い魔サイトは『あらゆる武器を使いこなす』能力を持つ、かつて『始祖』ブリミルが使役したとされる伝説の使い魔と、同じルーンを刻まれし者……」 わずかな時間、頭の中で検討を重ねた結果――彼女はすぐさまそこへ到達した。「ま、まさか、ミスタも……伝説の使い魔の一柱だと仰るのですか!? いえ、そう言われてみれば確かに、あのかたが持つ知識や、魔法具を複数お持ちだという話は……始祖の伝承に残された『神の本』そのものだわ!」 思わず叫び声を上げ、興奮して椅子から立ち上がったエレオノールであったが、何故か目の前にいる老人がくすくすと笑っているのを見て、少々気分を害した。「な、何がそんなにおかしいんですの!?」「いや……な。その若さでたいしたものだと感心しておったのじゃよ。もしも契約の儀式に立ち会っておらなんだら、わしもほぼ確実に、君と同じ間違いをしていたと思えるだけに、なおさらじゃ」「わたくしと、同じ間違い?」「そうじゃ。彼に刻まれたルーンは<アンサズ>で、<ミョズニトニルン>ではない」「アンサズ……確か、暦のアンスール(1月)の元になったとされる、古代ルーン文字ですわよね。わたくしの記憶では<知恵>を象徴する文字で――あ!」 己が辿り着いた答えに、思わず身震いするエレオノール。『始祖』降臨以前から伝わる神話――この世界は、大いなる神が巨大な斧を振るって創ったとされる逸話。そのうちのひとつを口にした。「勇敢な戦士は、死後、戦乙女(ワルキューレ)に見出され<ヴァルハラ>へと導かれる。天へ昇りし戦乙女と戦士を迎えるのが……そこを統べる戦神。わたくしの記憶が確かなら、<アンサズ>のルーンは、その象徴でもあったはず。み、ミスタ・タイコーボーは、国元で『伝説』と呼ばれるほどの、天才的な軍人でした、わね」 これを聞いたオスマン氏は、満面の笑みを浮かべてラ・ヴァリエール公爵を見た。「いやはや、公爵のご息女は本当にたいしたものですじゃ。若くしてアカデミーの主席研究員の席を確保しただけのことはありますわい。古代ルーン語の資料なしで、これほど即座に答えを出せる者など、そうはおりませんぞ。大抵の場合<知恵>の象徴という所まで調べて満足し、足を止めてしまう。ミス・タバサも、あのコルベール君ですら、そこまででした」 自慢の長女について、オスマン氏から飾り気のない賛辞を受けたラ・ヴァリエール公爵は思わず笑み崩れそうになったが、状況が状況だけに、必死の体でそれを押さえ込んだ。「つまりだ。君ほどの知識と情報を持つ者ならば、最悪の場合、彼が『神の本』であるという間違った結論に達した挙げ句、おかしな推論を重ねて時間を無駄にしかねない。そう判断したため、念のため話しておこうと考えたと。こういうわけなのじゃよ」「おまえは、我がヴァリエール公爵家の中で、最も『始祖』と『伝説』に関する知識を持ち合わせている。その学識と頭脳を、正しき方向へ向けて欲しいのだ」「おちび……いえ、祖国と家族を守るために……ですわね?」 長女が導き出した答えに満足したラ・ヴァリエール公爵は、それ以上言葉を重ねることはなかった。 ――そんな父の期待を背に受けたエレオノールは、ただひたすらに、己の信じた『道』を突き進んでいた。それが本当に正しいものかどうかはさておくとして。「これよ……この資料だわ! わたくしの学説を後押ししてくれるのは!!」 現在彼女が手にしているのは、ごく最近ロマリアから輸入されてきた、最新の神学書に記載されていた『始祖の調べ』という詩であった。似たような資料は、アカデミーの書物庫や王立図書館にも存在していたが、伝説の使い魔についてここまで詳しい記述があるものは、他に無かった。 そして問題の書物には、こう記されていた。 ――神の左手ガンダールヴ。勇猛果敢な神の盾。左手に掴んだ大剣と、右手に構えた長槍で、道征く我を守りきる。 ――神の右手はヴィンダールヴ。心優しき神の笛。あらゆる獣を操りて、導きし我を運ぶは地海空。 ――神の頭脳はミョズニトニルン。知恵の塊、神の本。あらゆる知識を溜め込みて、迷いし我に助言を呈す。 ――そして最後にもうひとり……記すことさえ憚られる……。 ――4人のしもべを引き連れて、我はこの地へやってきた……。「4人のしもべ。つまり、この資料によれば『始祖』ブリミルの使い魔は人間だった。そして『始祖』は、ハルケギニアで使い魔を呼び出したのではなく――出身地または近隣諸国のいずれかで彼らを従えた後に、この大地へ降臨なされたということだわ」 エレオノールは、さらに推測を重ねた。「サイトとミスタ・タイコーボーは、髪や肌の色といい、特徴的な顔形といい、実の兄弟と言っても通じそうなほどによく似ているわ。オスマン氏がおっしゃるには、ふたりの出身国は隣同士だとか。ああっ、もう! ミスタ・タイコーボーが今ここにいらっしゃれば、すぐにでも事実確認ができるのに……」 と……そんな彼女の声に応えるかのように、一羽のフクロウが窓をコツコツを叩いた。慌てて窓を開いたエレオノールは、フクロウの足に括り付けられた書簡を開く。途端に、彼女の顔はぱあああああっと華やいだ。 何故なら、そこには彼女が待ち望んでいた人物が帰還したという報せと、希望する会談日時を折り返し送付されたし――と、いうオスマン氏からの伝言が記されていたからだ。 エレオノールは急いで羽根ペンを取ると、手元にあった羊皮紙にすらすらと文字を書き付け、窓枠に留まって返事を待っていたフクロウの足へと括り付けた。 そして、見るからに頑丈に造られた金庫の中から複数の紙束を取り出して鞄に詰め込み、部屋の外へと飛び出そうとしたその瞬間。コンコンと遠慮がちに扉がノックされ、エレオノールは口から心臓が飛び出すかと思うほどに驚いた。「ど、どうぞ」 内心の動揺を押し殺すように、来訪者へ入室を促す。 扉を開けて入ってきたのは、ひっつめ髪に眼鏡をかけた妙齢の女性であった。彼女は、エレオノールの様子を見て言った。「もしかして、お取り込み中だったかしら」「え、ええ。これからちょっと、急いで出かける必要があるの。と、ところで、何か用かしら? ヴァレリー」 ヴァレリーと呼ばれた女性は、エレオノールの足元に置かれた鞄をちらと見て、顔にわずかな戸惑いの表情を浮かべながら答えた。「良かったら、今夜街で一緒にお食事でもどうかと思ったんだけど……これから出張みたいだし、無理ね」「ごめんなさい。悪いけれど、また今度誘ってもらえるかしら?」「ええ、もちろん。でも、思ったより元気そうで良かったわ」「あら。わたくしが、どうかしまして?」「あ、ううん、こっちの話だから気にしないで。お邪魔しちゃってごめんなさい」 そう言って、慌てたように部屋を出て行ったヴァレリーの後ろ姿を見送ると、エレオノールは今度こそ目的地へ移動すべく、外へと飛び出した。彼女の行く先はもちろん、トリステイン魔法学院である。 ちなみに。先程フクロウで返送した手紙には、こう書かれていた。『今から3時間後に、お邪魔致します』 ……普段はそれなりに落ち着いている彼女も、やはり『烈風』の血を引く者であった。○●○●○●○● ――どうやら彼女たち姉妹の<力>は、何かを掴むことに特化しているようだ。 来客室に通された後、挨拶もそこそこにエレオノールから手渡された論文へ目を通す羽目になった太公望は、そのように結論した。 今まで開示されていたごくごくわずかな情報の断片から、彼女がとある可能性――『太公望の師が、始祖あるいはそれに近しい者の叡智と<力>を継ぐ者である』『始祖ブリミルが、太公望の祖国からハルケギニアへやって来た可能性がある』 ここまで辿り着けたことに、太公望は素直に感心していた。なるほど、末妹が『虚空』を掴み、次女が『思考』を拾う者だとするならば、彼女は『真理』を手にする者なのかもしれない……と。 こういった『天才』は、過去の歴史においてもごく稀に存在した。そこへ至る道順や数式が完全に間違っている、あるいは存在すらしていないにも関わらず、いったいどういう理屈からなのか、最終的に正しい解答を導き出してしまうのだ。 だが、ある意味当然のことながら、彼らは他者に経緯の説明を行うことができず、やがて個の中に埋没し――長い刻を経て、ようやく正しい道筋を開拓した者たちの手によって、その功績を評価される。ただし、それは既に『真理』へと導いた功労者が、儚く世を去った後であることが多い。と、それはさておき。 ――まずは、太公望の師・元始天尊について。 崑崙山の教主・元始天尊が、地球の『始祖』伏羲の同盟者にして、理念を共有する者であったことは確かだ。 その力と叡智についても、5人の始祖が万が一のときの為に残した『最強の7つ』のひとつであり、周囲の重力を自在に操るスーパー宝貝『盤古幡(ばんこはん)』を完全に使いこなせるほどの実力があったことや、残された知的財産を元に、数多くの宝貝を生み出せた事実。そして封神計画の根幹を立案した腹黒さ――もとい知謀などを鑑みても、彼が『始祖』たちの<意志>を色濃く受け継いでいたことは間違いない。 ただし、これはあくまで地球の『始祖』の話であって、<虚無>云々を含めた、ハルケギニアとの関連性は一切不明だ。そもそも、虚無魔法とされるものが、未だ<瞬間移動>だけしか開示されていない現状で、それを判断するのは無理があるというものだ。 ――次に、ハルケギニアの『始祖』ブリミルが、太公望の祖国……つまり地球からやって来た可能性について。 これは実際にゼロではない。ただし、絶対とも言い難い。何故なら、これは以前太公望が才人たちに語った内容でもあるのだが、ブリミルが『滅びた世界』から星の海へと逃げ延びた者たちのひとり、あるいは彼らの子孫であるということも考えられるからだ。 『杏黄旗』の起動状況から判断するに、それは決してありえない話ではない。確率からいえば、五分五分といったところか。 じっと黙り込み、額を抑えて思考の海に埋没してしまっていた太公望に向けて、エレオノールが不安と期待に満ちたような声をかけてきた。「あ、あの……それで、いかがでしょうか? この、説についてなんですけれど」 正直なところ、なんとか煙に巻いて誤魔化したいというのが太公望の本音だった。 だが、これほどの知識と感覚を持つ人材を放置し、間違った『道』を探らせ続けるのは忍びない。自分のように永遠の時を生きる者ならばともかく、ごく限られた時間しか持たない人間が相手ならば、なおさらだ。 ――結局のところ。太公望という男は、やはりどこまでもお人好しなのであった。 とはいえ、自分や周囲を大きく脅かすほどの危険までは冒したくない。そう考えた太公望は、大きく息を吐き出した。「エレオノール殿、念のため確認したいのですが」「は、はい、な、なんでしょう?」「これはまだ、誰にも……?」 その問いに、眼鏡の端を抑えながらエレオノールは答えた。「当然、秘匿しておりますわ。わがヴァリエール公爵家だけではなく、国家の安全に関わる情報となる可能性をも秘めていますから」「左様ですか。ならば、ひとつエレオノール殿にお伺いしたいことがあります」「な、なんでしょう……?」 これまでになく真剣な顔で、そう問うてきた太公望を見たエレオノール女史は、思わず息を飲んだ。「あなたは、真理を追うためならば、輪の外へ飛び出す――そう、たとえ『異端』と後ろ指を差されても構わないと言えるだけの、強い覚悟をお持ちですか?」○●○●○●○● ――いっぽうそのころ、学院長室では。「もうええ加減<魔法探知>の効果は切れとる頃じゃろ。モートソグニル~」「ちゅう、ちゅう」 そう呟き、いそいそと自身の使い魔を来客室へ忍び込ませる準備をしていた人物がいた。それはもちろん、この部屋の主であるオールド・オスマンそのひとである。「うくくくく……個人的な話、のう。はてさて、あのエレオノール女史がどんなことを言い出すのか、楽しみじゃわい」 ……とんだ出歯亀ジジイである。 ――さらに。寮塔5階、タバサの部屋では。「ねえ、タバサ。ミスタたちが何をしているのか、興味ない?」「それほどは」「それほどってことは、少しはあるってことよね! だったら『水の塔』の屋上へ行ってみない? あそこって、ほら……来客室の窓がよく見える場所でしょう?」「……そこから<遠見>で、中を覗けということ?」「んもう! タバサってば覗きなんて言っちゃダ・メ。ただの確認なんだから」 と、このように、キュルケが親友を焚きつけていた。「わたしは気が進まない」 それなりに付き合いの長いキュルケにしかわからない程度に顔をしかめて、タバサが答えると。彼女の親友は、自慢の赤毛を揺らしながら青髪の少女にしなだれかかった。それでもタバサはぴくりとも動かない。「本当にあのひとたちのこと、気にならないの?」「話してもいい内容なら、あとで聞けば教えてもらえる」 ついにキュルケは、恋愛に関してはそれなりに気の長い彼女としては珍しく……しびれを切らしてしまった。「……質問を変えるわ。ねえタバサ。あなた、ミスタのことをどう思う?」「どう、とは?」 いつも通り全く感情を表に出さぬまま、タバサは親友に訊ねた。「そうねえ……たとえば、一緒にいるとわくわくしてこない?」「確かに、色々なことを知ることができて楽しい」 思わずがっくりしそうになったキュルケであったが、ギリギリのところで耐えた。「そ、そう。なら、彼の近くにいると、どんな感じがする?」「どきっとする」 この答えに、キュルケは顔全体を輝かせた。「そ、それは、もっと具体的に言うと!?」「すごく……心臓に悪い」 ……だが、帰ってきた答えは想像以上に無情だった。 それから十数分後。肩を落とし、何やら悟りでも開いたような顔をしたキュルケが部屋から出て行くのを見送ったタバサは、ひとり静かな思いに耽っていた。 タバサは、キュルケが本当は何を言いたかったのか、自分にいったい何を求めているのかを充分に理解していた。だからこそ、彼女は何もわかっていないふりをして、わざわざあんな答えを返したのだ。「キュルケは、わたしに恋人ができればいいと思っている」 なにせ、1年以上も前から、タバサはキュルケにこう言われ続けてきたのだ。恋は本当に素晴らしい。わくわくして、どきどきして、ただそのひとのことを考えるだけで、夜も眠れないほど興奮するのだと。そして、〆の文句はいつも同じだった。「だから、恋人を作ってみない? なんなら良い男を何人か見繕ってくるから!」 もはやお決まりとなっていたその言葉を、キュルケはここ最近全く口にしなくなった。その代わりに、タバサと太公望の様子を、時折こっそりと探るように見つめてくるのだ。 そんな彼女が、ここ数日間何やら妙に張り切っていた。そこへ、よりにもよってルイズの姉と太公望が会談している場面を覗けなどという、おかしな催促までしてくる始末。 いくら恋愛事情に疎いタバサでも、さすがにそこまでされたら――自分たちふたりが、親友から何を期待されているのかぐらいは判断できる。「間違いなく、わたしとタイコーボーが恋人同士になればいいと願っている」 その考えを口に出したタバサは、改めて自分の心に向けて問い質してみた。わたしは、彼のことをどう思っているのだろう。もしかすると、本当にキュルケが期待するような対象として、彼のことを見ているのだろうか。 確かに、一緒にいると楽しい。だが、わくわくするかと言われると、違う気がする。 近くにいて彼の言動を見続けていると、心臓だけではなく、胃がキリキリしてくる。 彼を思って興奮するどころか、逆に冷静な視点で自分を観察し直すことができる。 キュルケの言葉だけでなく、これまで多くの書物から得てきた『恋』に関する知識と照らし合わせて検討してみても、自分が『そういう対象』としてパートナーを見ているとは到底思えない。ただ……と、タバサは考えた。「じゃあ、わたしは……彼を、どんな目で見ているの?」 ――そう呟いた直後、タバサはふいに思い出した。あの日のことを。 あのとき。暗殺者の手にかかって、命を失いそうになったあの夜。絶望に塗り潰されかけていた心の片隅で、ごくごく僅かにだが期待している自分がいた。 必ず、彼が助けに来てくれる――。 そして、期待通りに彼は現れた。半分途切れそうになっていた意識の中、タバサの心は安堵と喜びで満ち溢れていたのだ。ほら、やっぱりこのひとは来てくれた……と。 だからこそ、イザベラが放った言葉に激しいショックを受け――そこではじめて、自分の従姉妹が置かれた立場や、王女というものについて、真剣に考えるに至ったのだ。 正統な手段で王座を継承したにも関わらず、簒奪者と呼ばれ続ける国王の一人娘。 いつなんどき、そんな嘘にまみれた噂を信じた家臣たちに寝首を掻かれるかわからず、夜もおちおち眠れない。だが、今のタバサのように――いざという時に、手を差し伸べてくれるひとは誰もいない。数少ない味方であるはずの父王との関係も、非常に薄いと話に聞いたことがある。 国の裏側の支配する者として、間違いなく高い実力を持っているにも関わらず、ただ魔法が下手だというだけで笑われ、宮廷のそこかしこで陰口を叩かれ、誰からもその手腕を正しく評価してもらえない――孤独な姫君。 かつて、太公望はイザベラをしてこう評した。「他人に自分の存在価値を認めてもらいたくてたまらない、孤独な子供」 ……と。 あのときのタバサには、その意味が全くわからなかった。豪奢な王宮で大勢の家臣に傅かれるイザベラの、いったいどこが孤独なのかと反論した。今でも、彼女の心情を完全に理解できたとは言い難い。しかし、その内情くらいはわかるようになった。 広い宮殿の中に、イザベラの味方と呼べる者は――ごく僅かにしかいないのだろう。 そんな状況下で、あの東薔薇花壇騎士団の長のように、表では自分に忠誠を誓っているように見せかけつつも、裏では反逆者の娘に心を捧げている者が大勢いることを知ってしまったら――それはいったいどれほどの孤独と恐怖を、心の内に呼び込むのだろうか。「けれど、イザベラは王女だから怖いと言えない。その代わりに周囲に不満をぶつけて、自分のほうが従姉妹よりも優れているとわめき散らしていた……子供だから。恐怖と悔しさを打ち消すために。そして、さらに味方を失っていくという悪循環に陥っている」 ガリアの政情から遠く離れたトリステインの魔法学院で、心を許せるパートナーや友人たちに囲まれた生活を送っている自分には、到底理解しえないだろう感情を、イザベラはずっと抱え続けていたのだ。そこに思い至ったとき、タバサの不眠はさらに酷くなった。 もしも父がジョゼフ伯父上を打ち倒し、正統な王権を奪い取っていたとしたら。自分が、イザベラと全く同じ立場に置かれたとしたら――果たして耐えられるのだろうかと、ありえない妄想を描き出したことによって、昏い思考の淵に囚われてしまったがゆえに。 ところが、とある出来事をきっかけに……不眠の原因が、あっさりと消え去った。 任務を終え、ガリアから戻ってきたあの夜。タバサは夢現の中に在りながら、ぼんやりと覚えていた。太公望に背負われ、キュルケから静かに見守られながら、自分の部屋まで戻ってきたことを。 その後――タバサは夢を見た。幼い頃、未だ健在であった両親に連れられて、ラグドリアン湖へピクニックに出かけたときの夢を。嬉しくて湖畔ではしゃぎ回り、水遊びに疲れた自分をおぶってくれた父親と、笑顔でそれを支えてくれた母親の姿を。幸福と温もりに包まれたその幻は、彼女にまとわりついていた暗闇の雲を、綺麗に祓ってくれたのだ。「ごめんね」 思考の末、遂に結論へと達したタバサは、微かに口元を綻ばせながら小さく呟いた。 まさか『雪風』とまで呼ばれた自分が――年長のパートナーと親友のことを、どうやら心の奥底で、父と母のように感じていたらしいなどということは……赤面するほど恥ずかしくて、表に出すことなんか絶対にできない。当然、ふたりにも話せない。「イザベラのことを、子供だなんて言えない。わたしだってそう」 今ならわかる。病から回復し、元気を取り戻した母さまと離ればなれになったというだけで、わたしは不安のあまり眠れなくなったのだ。けれど、信頼できるひとたちが自分の側にいてくれるのだと改めて確認できたから、こんなにも落ち着くことができたのだと、タバサは心で理解した。「今のわたしは、昔よりもずっと弱くなってしまったのかもしれない」 復讐だけを胸に抱いて、全ての感情を封じ込めていたあの頃。それ以外のことから耳を閉ざし、目を瞑っていたときは、ただ内に秘めた憎しみだけが自分を突き動かしていた。物言わぬ、冷たい人形の兵士として。 それが――母を無事救い出した途端。封印していた感情だけでなく、これまで知り得なかった、いや、知ろうとしなかったことに目を向けた瞬間。タバサの視野は大きく広がったのだ。心の安定と引き替えに――。「ううん、安定していたんじゃない。無理矢理押さえつけていただけ。だから、母さまが助かったとわかってから、心の動きを抑えきれなくなったのね」 あの時から、タバサは人形ではなくなった。感情豊かなシャルロット姫に戻ったのだ。周囲の出来事に大きく心が揺れるようになったのが、その証拠だ。 だからこそ。キュルケは、今までよりもずっと熱心に恋愛を奨めてくるのだ。タバサの中で一つの区切りがついたと思しき今、自分が最も楽しいと感じているものを共に分かち合おうと、親友である自分を誘ってくれているのだと、タバサは受け取った。「キュルケの気持ちは嬉しいけれど、わたしはまだ、恋人を作ったりなんかできない。だって、子供だし……なによりも、やらなければいけないことがあるから」 弱くなってしまったぶんは、別のところで取り返さなければいけない。自分の目的――妹の消息を掴み、真実を知る上で、それは絶対に必要なことだから。でも……。「全てが終わった後、わたしが本当に恋人をつくることができたなら……その時には、いちばん最初に、あなたに報告するから。今はまだ……許して欲しい」 タバサは、心の内だけでこっそりと――赤毛の親友に誓った。