――慌ただしかった朝食の後、魔法学院の図書室にて。 比較的容易に発見できた<制約>のルーンに関する書物と、その用法に関する注意事項をまとめた資料を閲覧しながら、タバサとキュルケは揃って頭を悩ませていた。「予想していた以上に、難しい魔法だった。<制約>だけに」「制限がある? タバサ。あなたって、たまに顔色ひとつ変えずに冗談言うわよね」 <制約(ギアス)>。水の系統魔法に属するこのスペルは、現在ハルケギニアのほぼ全ての国で使用を固く禁止、あるいは制限されている『禁呪』のひとつである。 この魔法が禁じられた理由は簡単だ。呪文の対象者に特定の『命令』を与え、本人の意志に関係なく自在に操れるという効果があるからだ。おまけにこの魔法をかけられた者は、指示の内容のみならず、操られて動いていたことも、魔法にかかった記憶さえも残らない。 腕の良くないメイジがこれを使用した場合、対象者の目に独特の輝き――<魔光>が宿るため、比較的簡単に見破ることができるのだが、熟練者が唱えた場合、瞳の奥に<魔光>が完全に隠れてしまう。そのせいで、実際に呪文の効果が発動するまで、本人は勿論のこと、周囲の者も<制約>をかけられていることに気付けない。おまけに<魔法探知>にも反応しなくなるという、非常に厄介な特性までついている。「ただ……資料によると、例の『惚れ薬』ほどの効果があるわけではない」「アレは危険すぎたものね。まあ水の秘薬があってこそなんでしょうけど、本当にどんな命令でも聞く、って感じだったもの。一部例外もあるみたいだけど」 そう。<制約>は、かの『惚れ薬』のように、対象者を完全な操り人形にしてしまうほど強力な魔法などではなかったのだ。たとえば、『日の入りと同時に』『倉庫の中にある箒を1本持ち出し』『自室の壁に立て掛けよ』 と、いう『発動条件』『行動指定A』『行動指定B』という命令が可能なのだが――。 羽根ペンの先で羊皮紙をこつこつと叩きながら、タバサは呟いた。「このように指定した場合、複数の箒があった場合どれを選ぶか、どうやって持ち出すか、また、立て掛ける位置などについては、かけられた人間の裁量任せになってしまう」 それを聞いたキュルケが、机に頬杖をつきながら続けた。「しかも、条件付けを増やすためには、そのぶんだけ『属性』を足さなきゃダメとか……なんで禁呪指定されるほど危険な魔法が『ライン』スペルなのか、ずっと不思議に思ってたんだけど、こういうことなら納得できるわ」 まず、呪文を唱えるために水属性を1つ使い、行動内容を指定するために2つ目の<水>を重ねる必要がある。つまり、先に述べたような3つの指定を行えるのは<水>を4つ重ねることのできる『スクウェア』メイジのみであると、ふたりの前にある資料には記されていた。これを見たタバサは、小さく眉根を寄せて呟いた。「わたしは『スクウェア』に達してはいるものの、基本は風系統。風だけなら4つ重ねられるけれど、水はまだふたつまでが限界」 もっと修行を積まなければならない、という親友の呟きを受け、キュルケがぼやいた。「火系統で『トライアングル』のあたしじゃ無理ね。たとえ唱えられたとしても、まともに効果が発動するかどうかすら怪しいわ。ただでさえ、自分の系統に属さないスペルを唱えるのは難しいのに……反属性の魔法を成功させるのは、ほとんど不可能に近いもの」「他系統のメイジでは、父さまか学院長レベルのメイジでないと、まずまともに扱えない」「オールド・オスマンって、確か全部の系統が『トライアングル』以上だって噂だけど……タバサのお父上って、そこまで凄かったの?」 親友の問いに、タバサは小さく頷いた。「父さまは、全系統『スクウェア』を達成していた」 キュルケの顔がぴくぴくと引き攣った。「な、何よそれ! 四系統、完全制覇ってこと!? そんなの『始祖』ブリミル以外に、聞いたことないわ! あなたのお父上って、正真正銘の天才だったのね……」 使用する属性が1つで済む『ドット』スペルならば、さほど技量を必要としないのだが、他系統で複数の属性を重ねる必要がある、つまり『ライン』よりも上位の魔法を扱うとなると、生まれつき<複数系統>の資質を持つメイジでないと厳しい。そして、ほとんどのメイジは、キュルケや『烈風』カリンのように<単一系統>であることが多い。複数の系統を自在に扱えるというのは、とてつもなく貴重な才能なのだ。「父さまが――」 それほどの天才で、ジョゼフ叔父さまが魔法的に無能だったからこそ、ガリアは危うくふたつに割れるところだったのだ――と、続けそうになり、タバサは内心驚いた。蒼髪の少女は、己の家族に降りかかった悲劇を、まるで他人事のように分析してしまった自分の変化に戸惑った。そんな己の心を静めるかのように、タバサはゆっくりと資料のページをめくりながら呟いた。「この本によると<制約>は、スペルを確実に対象者の耳へ入れなければ効果を発揮せず、さらに『命令』の指定もできないと書かれている」 資料に視線を落としていたため、親友の微妙な変化に気付かなかったキュルケが続けた。「おまけに、唱える時には対象者と視線を合わせなきゃいけない上に、相手の意志が詠唱者よりも強かったら、あっさり抵抗されるだなんて、条件が厳しすぎるわよ! それなのに、たったの1回しか発動させられないのよね? 使いづらいったらないわ」「少なくとも、夜中に部屋へ忍び込んで、眠っている人間に<制約>をかけるようなことはできない」「人混みに紛れて狙い打ちする、なんていうのも難しそうね。これを見る限りだと」 タバサはがくっと肩を落とし、うなだれた。「前もってここまでの情報を持ってさえいれば、もっと上手く立ち回れたはず」 <制約>は禁呪ということもあり、おそるべきスペルとして、その効果は世に広く知れ渡っている。ただし、それはあくまで『呪文の対象者へ、強制的に命令を刷り込むもの』という、非常に曖昧な情報だけに限られる。 タバサは、複雑な家庭の事情ゆえに『裏仕事』に関わることが多かった。よって、一般的なメイジよりも多くの知識――<魔光>の存在や<魔法探知>にかからなくなるという情報を持ち合わせていた。だからこそ、あの夜襲いかかってきた侍女が、実は<制約>によって操られていたのではないかという推理を働かせることができたのだ。 しかし、さすがのタバサも<制約>という魔法が、これほど発動条件の厳しいものだということまでは知らなかった。元より禁呪であるため、資料の数は限られている。この情報自体、数千年分の蔵書があり、一般生徒立ち入り禁止の『フェニアのライブラリー』でなければ集められなかっただろう。とはいうものの、調べようと思えばいつでも可能だったのだ。タバサは思わず嘆息した。 そんな親友の様子に、キュルケが反応した。周囲を伺い、聞き耳を立てている者が誰もいないことを確認すると、彼女は蒼い髪の少女に囁きかけた。「やっぱり、例の任務に関することかしら?」「そう。タイコーボーが、わたしに<制約>をかけて欲しいと言ってきたのは、おそらくそれが理由」「ねえ。その話、もう少し詳しく教えてもらっても構わなくて?」 タバサは小さく頷くと、キュルケに向かって静かに語り始めた――今回の任務について。あの怖るべき夜の話と、その後に起こった出来事を。○●○●○●○● ――いっぽうそのころ。 ガリア王国のヴェルサルテイル宮殿、その一画にあるプチ・トロワでは。イザベラ王女と王天君が『部屋』の中で、厨房から拝借――例によって『窓』からこっそりとパクったワインを飲み、新鮮な果物をつまみながら、昨夜の一件について振り返っていた。「あんなに怒っていたあなたの弟が、わたしの下で働いてくれるなんて……!」「アイツは本当にイイコちゃんだからなぁ。お兄サマの言うこたぁ素直に聞くんだよ」 王天君の報告によると、彼の手腕により、イザベラに向けられた弟の怒りを打ち消すことに成功したばかりか、大人しく自分の下で働くことを承諾させてきたらしい。 当然のことながら、それを聞いたイザベラは歓喜した。自分の失敗のせいで、喉から手が出るほど欲しかった有能な部下を手にする好機を逸してしまったばかりか、凶悪な<力>を持った相手を完全に怒らせてしまったと落ち込んでいただけに、喜びもひとしおであった。「さすがはオーテンクンね! これで、わたしの組織を今よりもさらに強化できるわ!」「ククッ。ま、せいぜいこき使ってやんな。つっても、やりすぎるとアイツぁスネるから気ぃつけろよ……なんてこたぁ、さすがにもう言うまでもねぇか」「ええ、くれぐれも気をつけるわ。今後は、あなたの弟に向いた仕事を厳選するようにするわね! それと……シャルロットをいじめるのも、ほどほどにしたほうがいいかしら」「そうしときな。それはともかくよぉ。あいつらのことだが……」 食器を使わず、指で果物をつまんでぽいっと口に放り込みながら、イザベラは笑った。王族としての慎みや気品など、欠片も感じられない仕草である。「あの子たちが、同じ部屋で暮らしていた……ねえ。まあ、貧乏貴族が見栄を張るために従者を雇ったのはいいけれど、部屋を与えるだけの金銭的な余裕なくて、自分と一緒に住まわせてる――なんてことは、これといって珍しい話じゃないんだけれど」「へぇ、そぉいうもんなのか」「ええ。だがらこそ、一緒にいても学院側が問題にしていないんだと思うわ」 イザベラは、手にしていたグラスに新たなワインを注ぎ込みながら嘲笑った。「それにしても……ぷぷっ、あの子もとうとう貧乏根性が染みついてきたってわけね! あれでも一応は王家に連なる者なのに、みっともないわぁ! どうせなら、思いっきりそのあたりを突っついてやりたいところなんだけど……」「仮にも元王族相手にそれをやっちまうと、うるせぇコトになる……か」「そういうこと。まったく面倒だわぁ~、王家の血筋って。おまけに、万が一あなたの弟が人間じゃないことがバレると、それはそれで別の問題が発生するしね」 シャルロットが、よりにもよって強力なエルフの亜種(と、イザベラは思っている)を使い魔として従えていることが外に漏れたら、またシャルル派の連中が息を吹き返すかもしれないわ……と、声を出さずに続けるイザベラ。 と、そんな彼女の内心を知ってか知らずか、王天君がニヤリと嗤う。「まぁ、オメーが気にしないってんなら別にいいけどよぉ」「あら、何か含みのある言い方ね? まさか、他にまずいことでもあったの?」「いや……な。アイツは人間が大好きだからよぉ」 これを聞いたイザベラは、口に含んでいたワインを吹き出しこそしなかったものの、思いっきりむせた影響で気管の中へと流し込んでしまい、げほげほと激しく咳き込んだ。 エルフたちは、ハルケギニアに住まう人間全てを『蛮人』と蔑み、自分たちよりも生物として格下であると認識している。そのため、人間とエルフが結ばれることなどまずありえない。よって、従姉妹が未だ自分の<使い魔>の正体を知らないことを差し引いても、間違いが起こる事など絶対にないだろう。イザベラは、そう考えていたのだが……。「昔っから、内緒で住処を抜け出しては、しょっちゅう人間どもの国へ遊びに行ってたくらいだしなぁ」「ちょ、ちょっと待って! ま、まさか……」 果物と同様に調理場から頂戴した干菓子を囓りながら、王天君は続けた。「今はじっくり育ててる真っ最中ってトコだろーな。アイツ、妙にあの人形姫が気に入ったみたいだしよ」「そ、育ててるって! 確かに、あの子は15歳にしては小さいけれど、それって……」 イザベラの顔色は、赤と青を交互に行ったり来たりしていた。いや、まさかあの子に限ってそんなことは。でも、風竜で飛んでいたときのふたりの様子は、まるで……。「まぁ、いくら気に入ったからっつっても、さすがに喰ったりはしねぇだろうが」「つまり、絶対じゃないってことよね!? いくらなんでも、それはまずいわ!!」 従姉妹姫シャルロットは、既に王族としての身分を剥奪されている。とはいうものの、元王族ともあろう者が、万が一にも人間の天敵であるエルフと情を交わし、さらにそれが外部へ漏れたとしたら、ただの醜聞などという話では済まない。ガリア王家の威信に傷がつくばかりか、最悪の場合、国が傾きかねない程の一大事だ。 そもそも、自分が王天君と同じ部屋にいるところを誰かに見られただけで、王位継承権を剥奪されても文句は言えない程なのだ。イザベラの顔から、ざあっと血の気が引いた。 蒼髪の王女は慌てて立ち上がると『部屋』の外へ飛び出そうとした。だが、王天君がそんな彼女を引き留めた。「オイ、イザベラ。まだ話の途中だぜぇ?」「悪いけど、また後でね! 急いで部屋を別にするよう命令しないといけないし!」「なんでだよ? さっきまでは気にしないって言ってたじゃねぇか」「だって、あなた言ったじゃないの! 弟が、あの子のことを育ててるって!!」「あぁ。アイツのことだから、たぶん色々面倒見てんじゃねーかと思ってな」「だから! それがまずいっていうのよぉ!!」 自慢の蒼髪を振り乱して叫ぶイザベラに、王天君はニヤリと嗤って見せた。「そーか。やっぱりアイツが人形姫の勉強を見てやるのは、ヤバイことだったのか」「は?」「アイツぁ、口では面倒くさいだのなんだのと文句は言うが、結構なお人好しだからよぉ。だから、普通の人間ともすぐに仲良くなっちまうんだ。ちらっと部屋ん中見た限りじゃ、効率よく風を起こすための基礎から教えてやってるみたいだったなぁ」「ええっ?」「従者っつーより、親の顔だよなありゃあよぉ。いや、兄貴か? 『惚れ薬』の影響残ってんじゃねーかっつーくらい、あの人形姫のこと気にしてたからなぁ……ったく本当に物好きなヤツだぜ。ああ、ちなみに太公望もオレと同じで、肉は喰えねーからな?」 イザベラは思い出した。そうだ、あの男は『心』を強制的に塗り替える効果を持つ、魅了の秘薬『惚れ薬』を飲まされてもなお、シャルロットを『妹認定』したのだ。つまり、従姉妹のことを異性として全く意識していない――と、ここまで考えるに至って、イザベラはようやくその事実に気付き、顔を熟したリンゴのように赤らめた。「オーテンクン。あなた、わたしのことをからかっていたのね!?」 その声に、実に悪い笑顔でもって応えてきた王天君を見て、イザベラは叫んだ。「もうっ! オーテンクンのいじわる~ッ!!」 ……ガリア王国のプチ・トロワ宮殿内は、今日『は』平和であった。○●○●○●○● ――そして場面は、再びトリステイン魔法学院の図書室へと戻る。 キュルケは、背中にびっしょりと嫌な汗をかいていた。「聞いておいてよかったわ……」「どういうこと?」「ああ、気にしないで。こっちの話だから」 危なかった……もし、あのとき下手にイジっていたら、せっかく盛り上がってきていた雰囲気が、壊れていたかもしれない。キュルケは、絶妙なタイミングで乱入してきてくれたオスマン氏に、心の中で感謝した。「<制約>で、暗殺命令を与えられていた可能性のある侍女……ね。だけど、今聞いた話と、この資料を調べてみた限りでは、なんだか違うっぽいわね」「そう。だからこそ、このことを知っていれば、別の可能性も追えたはず」 なるほど……と、キュルケは思った。確かにタバサの言う通り、ミスタ・タイコーボーはそれを知りたいが為に<制約>をかけて欲しいと言ってきたのだろう。そういうことならば『任務』という言葉に反応した理由として納得もできる。ただ、それなら何故、彼は寝不足気味だったのだろうか。「ねえ、タバサ。夕べ、何かおかしなことはなかった?」「わからない。どうやって寝間着に着替えたのかも、よく覚えていない」 一瞬「ミスタが着替えさせてくれたんじゃないの?」などと、からかいたくなったキュルケであったが、先程の件があったので、さすがに自重することにした。「ああ、それならあたしが着替えさせてあげたのよ。あのときミスタに頼まれて……って、あああああっ!!」 いきなり発せられたキュルケの大声に、タバサは思わずビクリと身体を震わせた。図書室出入り口付近のカウンターにいた司書がものすごい顔で睨み付けてきたことに気付き、慌てて彼女の口を塞ぐ。「ここで大声はだめ」「ご、ごめんなさい。けど、あたし、大変なことを忘れてて……!」「大変なこと?」 夕べ、他にも何かあったのだろうか? 思わず首をかしげてしまったタバサへ、キュルケが至極真面目な顔で囁いた。「ミスタ・タイコーボーは、確か<念力>と<ウインド>しか使えないんでしょう?」 ……それはつまり。「部屋に戻れない!?」「そうよ! あたしたち、行き場のない彼を放り出して来ちゃったのよォ~!」 今まで、あまりにも自然に――必ずふたり揃って、あるいはタバサが側にいる時だけ部屋への出入りをしていたので、全くその事実に気付けなかった彼女は愕然とした。まさか、これも偽装のひとつたったのか、と。 しかし、キュルケがここまで慌てている理由がわからない。「彼は子供じゃない。ひとりでも大丈夫」 どこかで適当に時間を潰しているだろうと続けたタバサを、キュルケは大声で遮った。「そういう問題じゃないのよ! 大人だからまずいの!!」「それは何故?」「このままだと彼の好感度が…… と、とにかく! 早く戻って謝らなきゃ!」 再びギリギリと睨み付けてきた司書に向かって慌てて頭を下げたふたりは、大急ぎで資料を片付け、寮塔へと戻った。「どうだった? タバサ」「部屋にはいなかった」「食堂でも見かけなかったわよね。もしかして、いつもの中庭かしら? あそこなら、寝そべるにはちょうどいいベンチもあるし」「可能性は高い」 しかし、そこにも太公望の姿はなく。揃ってあちこち探し回った末に、彼が本塔裏の日陰に座り込み、瞑想という名の昼寝をしているところを発見したのは、既に太陽が空の真上へと昇った後であった……。 余談だが。太公望を発見したタバサとキュルケは、当初彼が昼寝をしていることに、全く気付けなかった。声をかけても完全に無反応。そっと近寄ってみて、ようやく彼が寝息を立てている――つまり、眠っているという事実に到達することができたのだ。「だって、あれはどう見ても……」「瞑想しているようにしか見えなかった」 ……とは、彼女たちふたりの素直な感想である。仙人になる修行をしていた時代と変わらず、おかしなところで器用な太公望であった。 ――そして、軽い昼食の後。彼ら3人は、揃ってタバサの部屋で『夕べの出来事』について話し合うこととなった。 当初は立ち会いを遠慮していたキュルケであったが、詳しく話を聞いていくうちに、これは同席しておいて良かったと、心の底から安堵した。何故なら、昨夜太公望の兄が現れたという重大な話を聞くことができたからだ。 キュルケは、心の中でそっと呟いた。「危なかった……もしもこのことを知らないまま、あたしが余計な気を回してたら、タバサの恋路を邪魔しちゃったかもしれないわ」 お相手の心を確認せずに、見当違いの茶々を入れるなど『恋愛の伝道師』フォン・ツェルプストー家の娘として、危うくやってはいけない失敗をするところであったと、キュルケは冷や汗をかいた。先の判断の時点で、既に暴発寸前だったのはさておくとして。 だが、太公望が語って聞かせた内容は――恋愛云々以前に、彼女たちふたりの想像を遙かに超えていた。「お兄さんと一騎打ちになったって……怪我はないようだけれど、大丈夫なの?」「うむ、背中を少々打ち付けた程度だ。痛みはもう引いておる」「それなら良かった。でも、全然気が付けなかった……」 悔しそうに唇を噛むタバサに、太公望は思わず苦笑した。「おぬしが気に病むことではない。そもそも王天君の接近に気付けるような者は、そうはおらぬ。実際、わしも完全に不意を打たれてしまったのだ」「そ、それで、勝負のほうはどうなったんですの……?」 不安げに自分を見つめてくる少女たちに、太公望はふうとため息をついてから言った。「手も足も出ずに打ちのめされた挙げ句『実戦からしばらく離れていたせいだろう、完全に鈍っている』と、叱り飛ばされてしまったわ」 そう呟いた後、がっくりと肩を落とした太公望を見たふたりは、仰天した。「あなたのお兄さんが、凄腕の暗殺者だという話は聞いていたけれど……」「ミスタを完封するって、どこまでとんでもない実力者なのよ!?」 そんな彼女たちを見て、苦々しげに呟いた。「相性の問題でな。接近戦を得意とするわしと、遠距離――それも、別空間からの攻撃を主体とする王天君の戦闘スタイルは元々噛み合わぬのだ」「別空間からの攻撃って、どういう意味?」 きょとんとした顔をしているキュルケに、太公望はかみ砕いて説明することにした。「常に死角から攻撃できるメイジだと言えば、怖ろしさを理解してもらえるだろうか?」 これを聞いたキュルケの目が、驚きで見開かれた。「ちょ、ちょっと待って! まさか、あの<夢世界>みたいな場所の中に籠もって、そこから直接<現実世界>にいる相手に攻撃できるってこと?」 既に「背後に『窓』を開けて剣でズブリ」の話を聞いていたタバサが、ぽつりと呟く。「そんなの、察知できるわけがない」「しかも、相手の『空間』を打ち破れるほど強力な術者でなければ『あちら側』へ干渉することすらできぬ。見えない場所から一方的に打ち倒されて終わりだ」「何それ。反則にも程があるわよ……」「戦闘スタイル以前の問題」 と、ここで思い出したかのようにタバサが付け加えた。「そういえば、あなたはお兄さんの接近を感知できたはず」「ああ、なるほど。夕べはそれをずっと警戒していたから、ろくに眠れなかったのね」「うむ。しかしキュルケよ……おぬし、よくわしが寝不足であると気付いたのう」「わたしには全然わからなかった」 ふたりの言葉を受けたキュルケは、得意げな表情で髪を掻き上げた。「うふふ。殿方の不調を瞬時に見抜くのは、いい女である条件のひとつだもの。そのくらいのこと、できて当然よ」 完全無警戒でぐーすか寝こけていたところを、問答無用で亜空間へ叩き落とされ、抵抗する間もなく『労働』を押しつけられたとは、さすがに言えない太公望であった。おもに、自分の威厳を保つ的な意味で。「と、いうわけでだ。あやつが意地悪姫の使いとして現れた事実と、わしに『鈍った』などと言ってきたことから考えるに、今後はさらに危険な仕事が増えるやもしれぬ。わしが至らぬばかりに、おぬしのことを巻き込んでしまって、本当に申し訳ない」 深く頭を下げた太公望を、タバサは遮った。「元はといえば、わたしのせい。巻き込まれたのは、あなたのほう」「いや、そんなことはない。そもそもだな……」 まるで精霊飛蝗(ショウリョウバッタ)のように、ぺこぺこと交互に頭を下げあうふたりを見ているうちに、さきほどまでの機嫌の良さはどこへやら。キュルケの内に、激しい憤怒の感情が湧き上がってきた。その後すぐに、彼女は太公望の『兄』へ向け、心の中で怒鳴りつけた。「風使いのお兄さんなんだから、少しは空気読みなさいよ馬鹿――ッ!!」 ……と。「せっかく、風竜の上でいい雰囲気だったのに。しかも、タバサが言うには、任務中に殺されそうになったところを、ぎりぎりで飛び込んできたミスタに助けてもらったとか。不謹慎かもしれないけれど、そんな女として憧れるようなシチュエーションまで実現してたのに。夕べのタバサは、あんなにも愛らしかったのに! お兄さんのせいで、それが全部吹っ飛んじゃったじゃないのよ、あんまりだわ!!」 別の『空気』を読んだからこその来訪だったわけだが、そんなことは『恋愛の伝道師』たる彼女にはわからないし、関係ない。せっかくの好機を潰されたと、まだ見ぬ王天君への評価と好感度を大幅に下げたキュルケであった。 そんな彼女の思いとは裏腹に、タバサと太公望の話は続いていた。「あなたのお兄さんが、イザベラの使い魔になっているというのは、確実なの? イザベラは命令を出しているだけで、周辺の誰かが本当の召喚者ということはありえない?」「うむ。あの意地悪姫が、王天君と共に『窓』からわしを覗いている『感覚』を捉えることができた。あのとき『部屋』の中にいたのは、間違いなくあの娘だけだ。王天君の性格からして、無関係の者を『自分の部屋』へ招き入れることはまずありえぬ。よって、彼女が主人であると判断した」「お兄さんの性格、とは?」「わしと違って、あやつは他者を自分の側に近づけるということをしないのだ」「見た目がエルフに似ているから?」 タバサの問いに、太公望は小さく頷いた。「それもあるが、あやつは近接での戦闘は不得手なのだ。基本的に、空間を隔てた場所からの遠隔攻撃を主軸としておるからのう。よって、己の弱点を晒さぬため、敵対の可能性がある他者を自分の側に置いてはおけないのだよ」「理解した。それなのに、イザベラが一緒にいたということは……」「そうだ。既に、それなりの信頼関係を築いていると見て間違いなかろう。おまけに、あやつが最も得意とするのは<紅水陣(こうすいじん)>という、水と縁が深い<フィールド>なのだ。タバサよ、おぬしはあの意地悪姫の系統を知っておるか?」 太公望の言葉に、タバサはあっという顔をした。「イザベラの系統は<水>だったはず」「そういえば、ミスタは<風>で……お兄さまの系統が<水>ってことは!」「<サモン・サーヴァント>は、詠唱者と相性のよい者を自動的に選択する。タイコーボーのお兄さんの場合、自力でイザベラとの間に『窓』を開いた可能性があるとしても、系統が同じならば、その縁で引き寄せられたとも考えられる」 タバサの言葉に、太公望は同意を示した。「ガリアの『裏』を取り仕切る姫と<金鰲>の『闇』を司る策謀家だ。系統だけでなく、相性的にもぴったりなのだ。ある意味、落ち着くべきところに落ち着いてしまったというべきかもしれぬ」 そう呟いた太公望の顔が、何故か安堵しているように見えたタバサは、素直にその理由を聞いてみることにした。「それならどうして、あなたはそんな顔をしているの?」「万が一、ジョゼフ王の使い魔になっておったとしたら。最悪の場合――わしは、この命に替えても兄を討伐しに行かねばならなかったからだ」 血を分けた自分の兄を討つ。そう告げた太公望の顔は、どこまでも真剣そのもので。それが少女たちを不安にさせた。「それは、お兄さまが凄腕の暗殺者だから、ですの?」 震えるようなキュルケの声に、太公望は深刻な顔で頷いた。「そういう意味では、王女の側にいるというだけでも不安なのだが……夕べ見た限りでは、幸いなことに完全に自分の意志で行動しておるようだった。できるだけ早いうちに、こちらへ引き戻さねばならぬ」 これを聞いたタバサは、ピンと来た。「もしも、あなたのお兄さんに<制約>がかけられてしまったらどうなるか。それが知りたかったということ?」「そうだ。そうなった場合の恐怖を、おぬしは身をもって体験したであろう?」 タバサはコクリと頷いた。あの日、彼女は『他者に操られた平民の侍女』の手にかかり、危うく命を落とすところであったのだ。 今回の調査で知り得た情報から判断する限り、<制約>であのような命令を実行させるのはまず不可能だ。つまり、あの侍女は全く別の手段で操られていたか、あるいは何も知らない被害者のふりをして、周囲を欺こうとしていたのかもしれない。 もしも<制約>で似たようなことをしようとした場合は、有能な暗殺者を『素材』として用意する必要がある。手間はかかるが、その場合は『ライン』程度の指示だけで充分だ。『目標を屠れ』これだけで済んでしまうのだから。 タバサは身震いした。その『素材』となるのが、自分のパートナーを一方的に打ち倒すほどの実力者だとしたら。それほどの人物が大人しく<制約>を受け入れるとは思えないが、万が一ということもある。『狂王』ジョゼフが彼を手に入れ、思いのままに操れるようになったらどうなるか……想像するだに怖ろしい。 ジョゼフ王本人が魔法を使えなくとも、彼の側には大勢のメイジが控えている。イザベラの側にいるだけでも不安だという太公望の言葉が、タバサには嫌というほど理解できた。「わしは<抵抗>のための訓練を受けておるので、簡単にはかからぬとは思うのだが、できれば機会があるときに試しておきたかったのだ。そうすれば、どれほどの抵抗力があれば耐えられるか、ある程度当たりがつけられるからのう」「お兄さんも、あなたと同じ訓練を受けているの?」 その問いに、太公望は首を横に振った。「妖魔化しておるだけに一般的な人間よりは耐性があるが、あやつは一度『心』を壊されておるのでな、精神的な抵抗力がわしと比べて弱いのだ。だからこそ、心配なのだよ」 この話を聞いて、タバサははっとした。確かに<制約>は発動条件が厳しい。だが、それ以外にもっと手っ取り早い方法がある。それは『魔法薬』を使うことだ。抵抗力が高いパートナーですら『惚れ薬』の効果から逃れることができなかったのだ。それに、ジョゼフ王ならば母を狂わせたような強力な薬を複数持ち合わせていてもおかしくない。おそらく、彼もそれを不安視しているのだろうと当たりをつけた。「と、いうわけでだ。そちらの準備ができたのならば、早速実験してみたいのだが……かまわぬか?」 そう申し入れてきた太公望へ、タバサは一も二もなく頷いた。被験者は多いに越したことはないため、キュルケも参加することになった。 ――実験開始。 被験者、太公望・キュルケ。実行者、タバサ。 実験内容概略:被験者へ『ライン』レベルの<制約>をかける ※注意事項 ・命令内容は『左手を上に挙げる』に統一すること ・他の魔法を併用しないこと(例:眠りの雲 など) ・試行回数はそれぞれ5回までとする ――実験の結果。「……かからない」「かからぬのう」「魔光も現れないわね……」 ルーンは正しく紡がれているのだが、しかし。効果が現れるどころか、命令以前の段階で完全に抵抗されてしまっている状態である。太公望、キュルケ共に同様の結果に終わった。「あたしは反属性の火系統とはいえ『トライアングル』だから『ライン』スペルを簡単に打ち消せるのはわかるとして……『ドット』のミスタにもぜんぜん効果が現れないって、どういうことなのかしら」 キュルケは首を捻って考えた。メイジたちの常識でいえば『ドット』の太公望にまで呪文が通らないというのは、おかしなことなのだ。「わしの場合は、無意識に<抵抗>してしまっておるようだ。魔法が完成した途端、身体の中に嫌な『流れ』が生じるからのう」「具体的には?」 太公望は、こつこつと指で自分の頭をつつきながら説明した。「うむ。感情を司るのは頭……つまり脳みそだ。魔法が完成した瞬間、ここの『流れ』を無理矢理歪ませるような、気持ち悪い感触があってな。訓練の成果なのだろう、無意識に弾いてしまうのだよ」「そういえば、あなたの国の周辺には精神攻撃を仕掛けてくる妖魔が大勢いたという話を、前に聞いたことがある」 タバサの呟きに、キュルケが納得したといわんばかりに頷いた。「なるほど。だから、ミスタは抵抗力が普通のメイジに比べて高いのね。ところで<制約>と『魔法薬』って、同じような『流れ』があるのかしら?」「似たような『流れ』は感知できたぞ、強さは段違いだがのう」「やはり『魔法薬』のほうが強力ということ?」「そうだのう。わしが実際に受けてみた感覚だと<制約>による支配は、あくまで感情と記憶の一部を操作するだけで、タバサの母上に使われた『魔法薬』のように、魂魄にまで影響を及ぼすことはないようだ。あくまで『ライン』レベルでは、だが」 ただでさえ精神攻撃への抵抗力が強い太公望には、少なくとも『ライン』程度の<制約>はかからないことが実験結果により判明し、太公望は、ほっと息を吐いた。「この程度ならば、王天君に<制約>がかかることはないであろう。ただし、上位のメイジが唱えた場合は、その限りではないが」 それについては、タバサの腕が上がった時点で、もう一度協力を依頼したい。そう告げてきた太公望へ、今度はタバサが別の角度からの実験を提案した。「その『嫌な流れ』に、あえて乗ることはできそう?」「ふむ、やれないことはないと思う。ただ……その場合、命令内容を知らないほうがよい。どうしても意識してしまうからのう。よって、できれば今の実験とは方向性の異なる『行動』を設定してみてはくれぬか? ああ、言うまでもないことだが……」「大丈夫、おかしな『命令』はしない」 タバサは、当然だといった顔で頷いた。「さっきから横で笑っておるキュルケの入れ知恵は無しで頼む」「え~、せっかくの機会なのに」「おぬしはそれだから不安なのだ!」「大丈夫、ちゃんとわたしが考えた『指示』を与える。おかしな真似はしない」「……信用しておるからな?」 ……そして。タバサの提案通り、太公望が『流れ』に乗ってみた結果――。「魔光……瞳の奥に出てたわね」 タバサは小さく頷いた。「しかも『薬』で精神を塗り替えられた時のものとは、明らかに異なる。あの夜、わたしを襲った侍女のものとも。あちらは完全に『光』を失っていたけれど、<制約>の場合は、逆に輝きが増すことがわかった」 手元に置いてあった羊皮紙に、実験結果をさらさらと書き記すタバサ。「あれじゃあ『操られてます』って看板を、首から提げてるようなものだわ。それにしてもタバサ。あなた、随分とキツい命令したわね」「そうでもない」「確かに、普段の彼なら絶対にやらない行動なのは間違いないけれど……あたし、いくらなんでもあれはないと思うわよ?」「そんなことはない」「タバサって……ううん、なんでもないわ」 ――それから、十数分後。「ぐおおおおおッ! く、くく、口の中が! 何故かとてつもない苦みであふれておる! 誰か水を……いや、甘いものをくれ――ッ!!!」 アルヴィーズの食堂内の床を転げ回る太公望を尻目に、タバサはポツリと呟いた。「……おいしいのに」「タバサ。あなた、やっぱり酷いと思うわ……」 タバサの出した命令とは。『今日の夕飯に出されるハシバミ草のサラダを完食せよ』 で、あった。