――日が落ちて、数時間も経った頃。 竜籠に乗って、急ぎラ・ヴァリエール公爵家の城へと帰還し、ルイズの魔法に関する詳細説明を待ちわびていた家族たちへ、妹を突然襲った不調の原因と――<精神力>の回復に時間はかかりそうだが、普通に魔法を使うぶんには問題ないことを報告したエレオノールは、その足ですぐさま自室へ戻ると、机の上に置きっぱなしになっていた羊皮紙の束を手に取って、大慌ててめくり始めた。「このわたくしとしたことが、なんて失敗を……!」 エレオノールは、自分の迂闊さを呪った。末妹ルイズの不調と、これまで見たこともない魔法技術の目新しさに気を取られ、肝心なことに気付けなかったことを――彼女は徹底的に悔やんでいた。もしも魔法学院にいる時点でわかっていたら。もっと詳しい話を聞くことができていたかもしれないのに。だが、その事実に思い至ることができたのは、竜籠内部で行っていた『瞑想』の最中であった。 彼女が現在手にしている紙束。それは、以前『お客さま』を歓待した際に行われた、東方の視点から見た、ハルケギニアの魔法に関する見解を書き留めておいたものだ。 エレオノールは、そこに書かれた一文を読み、唇を噛んだ。『世界に溢れる粒状の小さな<力>を、メイジが持つ<力>と魔法語を併せて用いることによって操作する。これが、系統魔法とされるものである』 それから、彼女はごく最近取ったばかりのメモと見比べた。『全ての物質は、小さな粒より為る。四の系統は、その小さな粒に干渉し、影響を与え、かつ変化せしめる呪文なり』「やっぱりそうだわ! どうして、今まで気が付かなかったのかしら。世界に溢れる小さな粒。彼は『始祖の祈祷書』に記されていたことと、全く同じことを言っていたのに!」 そこへ至るまでの『道』が、目の前に何本も用意されていたにも関わらず、不安と焦りという名の深い霧に迷わされ、完全に見逃してしまっていた。エレオノールは、それが本当に悔しかった。「お、王立アカデミーの首席研究員ともあろうものが、こ、こんな……研究室に配属されたばかりの新人がするようなミスをしてしまうだなんて!」 金髪の女史は、思わずその美しい眉根をぎゅっと中央へと寄せた。「ミスタ・タイコーボーは、今日初めておちびが<虚無>に目覚めたことを知ったはずなのに、その事実に一切動じていなかった。おまけに、あの<移動魔法>について、まるで最初から、全部わかっていたような受け答えをしていたわ。そして、彼の先生は、あの魔法と同じ効果のある<魔法具>の開発に成功しているとまで言っていた。つまり……」 ――彼、ミスタ・タイコーボーの国では<虚無>が失われておらず、残っている。あるいは、非常に近しい魔法が数多く存在している。「そうよ! 『始祖』ブリミルは『聖地』に『扉』を開いて、遙か東の大地から、このハルケギニアへ降臨したという説があるくらいなんだもの。いいえ……それどころか、ひょっとすると……ミスタ・タイコーボーの出身国こそが『始祖』生誕の地だということも考えられるわ!」 エレオノールは、己の内に浮かび上がってきた思考を、さらに先へと進めた。 もしかすると、かの国には『始祖』ブリミルの血に連なる者――つまり、彼の親戚縁者が大勢いるのではないだろうか。 そのために、本来であれば『始祖』の血を受け継ぐ者でなくては使うことができず、かつ扱いが非常に難しい<虚無>が、時間の経過と共に失われずに済んだのかもしれない。そのため『失われた系統』『伝説の再来』などと、極端に神聖視されていないのではないだろうか。それどころか、ハルケギニアの四大系統魔法と同じくらい、身近に存在する魔法なのかもしれない。だからこそ、彼はルイズの覚醒を聞いても、全く動じなかった。 そして。その虚無魔法を、アイテムに込めることができるほどの技術と知識を持つ、魔法具工匠(マジックアイテム・マスター)の存在。つまり、ミスタ・タイコーボーの先生も『始祖』の<力>と叡智を受け継ぐ者のひとりなのではないだろうか? そこまで考えるに至り、エレオノールの身体が、ぷるぷると震え始めた。「そういえば、ミスタは『魔法は、通常ならば<力>のコントロールを覚えてから習得するもの』だと言っていたわね。にも関わらず、ハルケギニアにはそれらの技術が伝わっていない、あるいは既に失われているようだと推測していたわ。と、いうことは……」 そこから導き出される解答。すなわち『始祖』ブリミルは――生誕の地『東方』ロバ・アル・カリイエで、自分の一族と共に魔法の基礎部分を開発し、ひとびとの間へそれを広めた後に『西方』ハルケギニアを訪れたという可能性がある。 始祖が降臨した当時――つまり6000年前は、あの<フィールド>の魔法や『瞑想』は極秘の技術とされており、自国の者以外に教えることを、固く禁じられていたのかもしれない。それならば、ハルケギニアに伝わっていないのは当然だし、納得もできる。 ひょっとすると<錬金>は『始祖』ブリミルがこのハルケギニアへ辿り着いてから、新たに生み出した魔法なのではないだろうか。それならば東方に<錬金>の概念が一切ないというのも頷ける。あの博識な東の参謀殿が、全く知らない魔法だと驚いていた程なのだから、これは充分にありえる説だ。 あと数日で、取得していた休暇期間が終わる。アカデミーへ戻ってから、始祖に関する資料を確認してみよう。それと、王立図書館の蔵書も調べなければならない。ただし、家族の秘密に抵触する危険性も否定できないため、あくまで極秘裏に。「その前に、ミスタ・タイコーボーからお話を聞いておくことができれば――この説は、さらに信憑性を帯びてくるかもしれないわ。明後日、おちびを学院へ迎えに行くついでに、改めて対談を申し込むことにしましょう。ええ、そうよ。そうすべきだわ!」 眼鏡の奥で、瞳をぎらぎらと光らせながら、エレオノールは独白した。「も、もしかすると、わ、わたくしは……こ、これまで、6000年もの間、誰にも解明できなかった『始祖』生誕の地についてや、魔法開発の秘事に踏み込む好機に恵まれたのかもしれないわ!」 絶対にこの機会を逃してはいけない。何故なら――。「そうだわ! きっと、この『謎』を解くことこそが、わたくしの! <虚無の担い手>を家族に持ち、王立アカデミーの首席研究員となったこのわたくしに『始祖』がお与えになられた使命に他ならないからよ!!」 エレオノールは、興奮で震える腕を押さえるのに苦心しながらペンを取り、ここまでの考えをレポートに纏め始めた。明後日に控えた『対談』予定に備えて。○●○●○●○● ――同時刻。魔法学院内の寮塔5階にある、タバサの部屋内では。「うぬぬぬ……真夏だというのに、いったいなんだ? この寒気は」 何の前触れもなく突如襲いかかってきた強烈な悪寒に、太公望が腕を抱え震えていた。「……夏風邪?」 自分の手を、太公望の額へぴたりと当ててみたタバサであったが、しかし。別段冷たすぎたり、熱すぎたりといったようなことはなかった。「たぶん、違うとは思うのだが……念のため、今日は早めに寝ようと思う」「そのほうがいい。ところで……数時間ほど前に、窓からラ・ヴァリエール公爵家の紋が入った竜籠が飛んでいくのが見えた。ルイズも、寮の部屋へ戻ってきている。まさか彼女の身に、何かあったの?」 心配げなタバサの問いに、太公望は思わず頭を抱えそうになった。あんな派手な来訪をすれば、当然目立つだろうに――ルイズだけでなく、その家族たちも、余程慌てていたのだろう。まあ、今までやれていたことが、突然できなくなったのだ。無理もないことではあるのだが……あとしまつをする者のことも、少しでいいから考えて欲しかったと。 こうなっては仕方がない、ある程度の情報を公開しておいたほうがいいだろう。そう判断した太公望は、今回ルイズに起きたトラブルに関して、外部へ漏れても問題のない一部の出来事を、今後間違いなくタバサの役に立つであろう知識をいくつか付け加える形で、内容を開示することにした。「ああ、あの件だがな。ルイズのやつ、どうもわしらがゲルマニアへ移動した後に、家族の前で必要以上に張り切って魔法を披露しすぎたようでのう。今朝になって、何故かまともに飛べなくなってしまったと、わしに泣きついてきたのだ」「まともに飛べなくなった……?」 どういうことだろう。<フライ>の魔法ならば、精神力不足で浮かべなくなることはあっても、動作そのものがおかしくなるようなことはないはずだ。ひょっとすると<念力>での浮遊は、何か特別な制限があるのだろうか。そう考えたタバサは、素直にそれを聞いてみることにした。「それなのだが。<フライ>の場合は、自身の周囲に<風>を纏うことで飛翔する魔法であるため『空間把握』が最低限できれば、問題なく飛ぶことができる。ところが<念力>で同じことをしようとした場合、ちょっとでも『感覚』が狂うと、まともに浮かぶことすらできなくなるのだよ」「それは、たとえば……風邪をひいて熱が出ると、集中力が阻害されて、うまく魔法が使えなくなるのと同じようなもの?」「その通りだ」 タバサの問いに、太公望は頷いた。「念力による<高速飛行>をする場合、自分と行き先の間にある空間と距離、そして座標を完全に把握しておく必要があるのだ。先程タバサが例に挙げたように、風邪などで体調を崩したり、疲れで極端に集中力が落ちると、それに比例して『掴む』ための感覚が鈍る。その結果、まともに飛ぶことができなくなるのだ」「理解した。<フライ>よりも遙かに繊細な『感覚』を必要とするため、身体にほんの少し違和感が生じただけで、障害が発生してしまうということ。でも、それなら今まで疲れによる飛行阻害が起きなかったのは何故?」「それは、ルイズが今まで魔法学院で生活していたからだよ。あの娘は、感情の起伏が激しいからのう。わしらから見たらごくごく日常のささいな出来事に対しても、いちいち怒ったり、大喜びしたり、何かと跳ね返っておったであろう?」 使い魔召喚の儀以降、何かとルイズと関わる機会が増えたタバサは、なるほどと頷いた。かつて、ルイズは『ゼロ』と周囲から馬鹿にされ、いつも激しく怒っていた。あるいは、悔しさにじっと耐え忍んでいた。 ここ最近の彼女は、魔法が使えるようになった喜びを、全身で現していた。感情と<精神力>は密接な関係にある。実家へ戻って、静かな生活を送るようになった彼女の回復力が落ちてしまうのも当然だ。「本来であれば、それに加えて『瞑想』を行うことにより、体力と精神力を回復させることができていたはずなのだが……」 太公望は、頭を掻きながらぼやいた。「わしとしたことが、あまりにも基本的な内容であったがために、教えるのをすっかり忘れておったのだ。『瞑想』は<パワースポット>で行わなくとも効果を発揮するということをな。『蓄積』こそできぬが、回復に関しては、ただ眠るよりも圧倒的に早く行える」 それを聞いたタバサは、なるほどと頷いた。「つまり、それを知らなかったルイズは、外での『瞑想』を全く意味のないものと認識してしまい、帰省してから一切行わなかった。結果、家族の前で魔法を使い過ぎた彼女は、深く疲労し……<精神力>の回復も間に合わなくなった。そのせいで、うまく飛べなくなった。これで合っている?」「うむ、完璧だ。これは、前もってきちんとそれを教えておかなかったわしのミスだ。その結果、帰還した直後にルイズの調子を診る羽目になったと。こういうわけだ」「ひょっとして、さっきからずっと机に向かっているのは、それに関すること?」 タバサが問うたのも無理はない。何故なら学院長室から自分たちの部屋へ戻ってきてからというもの、太公望はずっと机に向かい、羊皮紙に何かを書き記し続けていたのだから。今までの会話中も、ずっとペンを動かしていた。「いや、これはおぬしへ与える、新たな課題だ」 そう言って、太公望は書き終えたページの1枚をタバサへ手渡した。「空気の重さ……圧力とその流れ……それに風の発生。これは……!」 タバサは、その内容を理解し……驚きのあまり目を見開いた。以前書店で買い求め、自室の本棚に収めてある、ハルケギニアの天気と風の関係について記された書物。その内容をさらに吟味した上で凝縮し、煮詰めたようなものが、そこにびっしりと書き記されていたからだ――しかも、非常にわかりやすい図解つきで。「何故、風は吹くのか。どうして、空気の流れが発生するのか。つむじ風が発生する理由とは。そういった<風>に関する根本を纏めたマニュアルを作製しておるのだ。わしからおぬしに与える次の課題は、それをガリア語で読み上げながら古代ルーン文字に翻訳し、紙に書き写すという内容だ」「ひょっとして『複数思考』の訓練課題?」「そうだ。『声に出して読む』『書かれた内容を正しく理解する』『頭の中で、別言語に翻訳し直す』『腕を動かして紙に書き写す』という、同時に全く別種かつ複雑な思考を要する特別メニューだ。さらに、時折わしが話しかけるので、それに答えて貰う」「複数思考中でも、集中力を乱さないための特訓。それがあなたからの対話」「その通り。しかも、そのマニュアルを使うことによって<風>に関する理解が深まり、メイジとしての総合力まで上げられるという、実にお得感溢れる訓練なのだ」 確かに、これはとてつもなく難しいが、最後までこなすことができたら――今後、大いに役立つ訓練だ。タバサは奮い立った。「これは、今から始めても……?」「もちろんかまわぬが、ゲルマニアから帰ってきた直後で、疲れておるのでは?」「大丈夫、問題ない」「そうか。だが、疲れて効率が落ちては意味がないので、今夜はあくまで練習。最初の3ページだけ試すまでに留めるのだ」「わかった」 タバサは、早速自分のぶんの紙とペンを用意すると、少し離れた場所に置いてあるテーブルの上にそれらを広げ、マニュアルに書かれた内容を声に出して読み上げ始めた。「風が吹くとはつまり、空気が動くことである。この動きが発生するのは……」 少女の声、そしてカリカリと紙の上をペンを走らせる音が部屋に響く。「タバサ、読み上げが止まっておるぞ」「……思っていたより、ずっと難しい」「最初からいきなりできるようなら、わざわざ訓練する必要などなかろう?」「……努力する。ん……と、動きが発生するのは、空気に重さが……これを空気圧と呼ぶ。この圧力の違いにより……流体である空気が……圧力の……」「ところでタバサよ。明日の昼食についてなのだが」「食堂は開いているはず……低いほうへ移動を開始する。これが風である」「ほれ、今度は手が動いておらぬぞ」「……いじわる」「かかかか! そう簡単に達成させてなるものか!」「今のタイミング、まさか……わざと?」「当然だ! 集中が乗り始めたところへ声が掛かる恐怖を、存分に味わうがよい!!」「……悪趣味」「クックック……何とでも言え。果たしておぬしは就寝時間前までに、3ページ全てを訳し終えることができるかな!?」「意地でも終わらせる」「ふふん、このわしの妨害を受けてなお、任務を達成することができるかのう? ま、せいぜい無駄な努力をするがよい……って! これタバサ、杖を構えるな! そして殴るな! 痛い! その杖は固いから、叩かれると本当に痛いのだ!!」 主人と使い魔の、心温まる(?)交流はその後しばらく続き――結果。この夜の訓練は目標の3分の1も進まぬまま、終了したのであった……。 ――それから数時間後の、真夜中。 タバサは、ベッドの中で横たわったまま、薄く目を開いた。 昨夜、宿に泊まったときもそうだったのだが――眠りに落ちることができない。ニィドの月は、ハルケギニアが最も暑くなる時期だ。しかし、今日は寝付けないほど酷い熱帯夜ではない。その証拠に、同居人は部屋の反対側に置かれている折りたたみ式寝具の上で、すやすやと寝息を立てている。 外の風が入ってくるよう、窓は全て開け放ってある。窓際に椅子を置き、そこに腰掛けたタバサは、杖を手に取り、手元へ空のグラスを引き寄せると<水>の初歩魔法である<凝縮(コンデンセイション)>のスペルを唱えた。 水蒸気が集まり、液体となってグラスを満たす。その中に小さな氷を浮かべ、いっきに飲み干した。ひんやりとした水が喉を潤してくれたが、美味しいとは到底言い難かった。魔法で人工的に創り出した水は、自然に湧き出たそれと比べ、数段味が落ちるのだ。「水汲み場で、冷たい水を飲んでこよう」 そのついでに、少し空を舞って気分転換をすれば、すんなりと眠れるかもしれない。そう考え、外へ飛び出したタバサであったが、しかし。残念ながらその試みは成功しなかった。部屋の中では、パートナーの静かな寝息が響いているにも関わらず、だ。 仕方なく、タバサは再び杖を手に取ると――自分に<眠りの雲>をかけた。それで、ようやく彼女は夢の世界へ旅立つことに成功した。 ――ただ、あまり良い夢を見ることはできなかった。○●○●○●○● ――それから1日が経った、ラーグの日の早朝。「うぬぬぬぬ……そろそろ来るだろうとは思っていたが、やっぱりか」 太公望が、灰色の伝書フクロウによって届けられた召喚状を前に、唸っていた。ついに彼の元へ『シュヴァリエ』と『東薔薇警護騎士団章』の正式受勲の手続きを行うため、ガリア王宮プチ・トロワへ出頭せよと書かれた命令書が届いたのだ。 さらに、タバサにも出頭命令書が届いている。任務の詳細内容については、いつも通り何も書かれていない。「ある意味予想通りとはいえ、時期が時期だけに慎重を期したほうがいい」 オルレアン公夫人を救い出した直後であるため、タバサが相手方の動向を不気味だと感じるのは当然だ。太公望も、彼女と全く同意見だった。彼はふうっと大きく息を吐くと、改めて口を開いた。「とはいえ、現時点で深く考え過ぎても仕方なかろう。もちろん、用心を怠るつもりはないが。しかし、ふたり揃って小宮殿のプチ・トロワ指定ということは……ジョゼフ王が自ら出てくるわけではなさそうだのう。一度、顔を拝んでおきたかったのだが」 タバサは、小さく首を振った。「ガリア国内で余程名を上げるか、花壇騎士団の中で相当序列が上がらない限り……普通の貴族では、ジョゼフ王と謁見することはまず叶わない。わたしも、イザベラから『騎士』の任命状を受け取った」「なるほど。まあ、そのあたりは大抵の国に共通することだから仕方がないとして……まったく、ルイズの件といい、これといい……ちと住処を空けただけで、どうしてこうも厄介事がまとめて飛び込んでくるのだ?」 実に迷惑げな顔で、届いた召喚状をひらひらさせながら呟く太公望。「そういえば、ルイズはもう大丈夫なの? 夕べ食堂で顔を合わせたときは、それほど疲れているようには見えなかったけれど」「ああ、それなら心配ない。まだ完全に<精神力>が回復したわけではないが、今まで通り魔法を使うぶんには問題なかろう」「元の<器>が大きいと、回復にも時間がかかる」「ルイズのアレは、特別大きなものだからのう。ま、瞑想についても最初からちゃんと説明しておいたし、魔法の使いすぎにも注意するよう念を押しておいたから、もう帰宅しても平気であろう」 しかし――太公望は、ルイズの<器>について、いくつか気になることがあった。 ひとつは、ルイズの回復速度が、自分たちのそれと比べて、異様に遅いことだ。ルイズの『瞑想』が下手というわけではない。むしろ、太公望が教えた子供たちの中では巧いほうだと言ってもいい。にも関わらず――昨日、約半日かけて<器>の10分の2程度まで戻すのが精一杯であった。 家系的に、そういう特異体質なのだろうか? あるいは<虚無>特有の何かがあるのかもしれない。念のため、オスマン氏を交えて3人で会談してみたが、体質についてはもちろんのこと、虚無の特性についてもたいしたことはわからなかった。なにせ、数千年前に失われた系統のこと、比較対象どころか、資料すらろくに残されていないのだから。 そのあたりについて、今日改めて調査を行う予定であったのだが――この召喚状が届いてしまったがゆえに、それはできそうもない。「とりあえず、学院長から国境越えの認可証を貰いにいってくる。おぬしのぶんも受け取ってくるので、その他の支度を頼んでもかまわぬか?」「わかった。ところで、その手に持っているものは何?」 タバサが指摘したものは。布にくるまれた、一抱えほどある謎の包みであった。「ああ、狸ジジイに頼まれとった書類だ。あやつ、最近わしを秘書か何かと勘違いしておるのか、やたらと仕事を持ち込んでくるのだ」「昨日、一昨日と連続で出てきた桃りんごのまるごとタルトは……」「その報酬だ。まったく、あのようなもので、このわしを釣るとは!」 書類作製を、デザートを報酬に引き受ける――やっぱり、彼に何かモノを頼むときには、甘味を与えるのがいちばんなのだ。充分わかっていたつもりであったが、今更ながらそれを思い知らされたタバサであった。○●○●○●○● ――その日の夕方。 トリステイン魔法学院の学院長室内で、ひとりの女性の絶叫が響き渡った。「が、が、ガリアへ、かっ、帰ってしまわれたですってェ――!?」 大声の主は、ルイズを竜籠で迎えに来た、姉エレオノールであった。「う、うむ。今朝方、ミス・タバサのご実家から報せがあってな……急いで戻ってくるようにと、国元からわざわざ迎えが来たのだ。当然のことながら、ミスタ・タイコーボーも、彼女について行ったのだよ」 凄まじい剣幕で、自分の前へと詰め寄ってきたエレオノールにたじたじとなりながら、オスマン氏は答えた。「で、でもですね、あのかたには、おちび……い、いえ、その、ルイズの件を、お、お任せしていたわけで」「それなんですが、姉さま。ミスタは、わたしにこれを読むように、って」 そう言ってルイズがエレオノールに手渡したのは、古代ルーン文字がびっしりと並ぶ書類であった。それは<風>に関する『自然科学』の書(図解付き)、そして<念力>で簡単な風を発生させるためのコツを記した簡易マニュアル、さらに<瞬間移動>を行う際に注意すべきことを箇条書きにしたメモであった。「あの男、本当に用意周到というか……ミス・ヴァリエールの話を聞いた後、即座にそれを纏めておいたらしい。あくまで基礎の基礎の基礎らしいが、いやいやどうして、良く書けておるわ。わしも勉強になった」 可能であれば『フェニアのライブラリー』に収めたいくらいじゃ。おまけに、あえて不勉強な者には読めぬよう、共通語ではなく古代ルーン語で書かれているのがまた憎たらしい。そうぼやき続けるオスマン氏の声は、しかしエレオノールには届いていなかった。「そ、それで? ミスタはいつ魔法学院へお戻りになるんですの!?」「さあ……」「さあ……って、そんないい加減な!」 机を叩いて抗議してきたエレオノールの迫力に、オスマンは思わずたじろいだ。「いや、そんなことを言われても。そもそも彼らはガリアの『騎士』じゃからのう。ああ、何やら親族への顔見せも兼ねとるらしいから、いつ戻れるかわからんとも言うておった。最低でも1週間……ひょっとすると、夏期休暇が終了するまで戻ってこんかもしれん」「そ、そんな……ッ」 エレオノールは、がっくりと落ち込んだ。傍目に見てもわかるくらいに。 それはそうだろう、過去6000年間、誰も辿り着けなかった『道』を発見したかもしれないのに、その手がかりとなると思しき人物が、しかも、今日会えるとばかり思っていた相手が、いきなり目の前から消えてしまったのだ。そのうち戻ってくるとわかってはいても、気落ちしてしまうのは当然だろう。「なんじゃ? エレオノール君。そんなに、あの男に会いたかったのかね?」 オスマン氏が、いつもの軽口のつもりで叩いたそれに戻ってきた返答。まさか、これが事件の始まりになろうとは、発した本人も、受けた者も、思いも寄らなかった。「えっ? え、ええ……まあ。そ、その、彼と、お話し……したいことが……」 顔を小さく俯かせ、そんなことを言い出したエレオノールの様子に、オスマン氏は仰天した。一緒に聞いていたルイズまでもが目を丸くした。 なに? この態度。本当にこれが……いつも強気で、周りを威圧するような空気を纏っていた、あのエレオノール姉さま? いったいどうしちゃったの!? 長姉のただならぬ様子に、ルイズは心の底から驚いた。 だが、それ以上にびっくりしていたのがオスマン氏だ。なにせ、ラ・ヴァリエール公爵家の長女・エレオノールといえば、トリステインの社交界でも、広くその名が知られた存在なのだ――正直、あまりよろしくない方向で。 とにかく、性格がキツい。伝統と格式高き家柄を誇るあまりに、爵位の低い者に対しては鼻もかけない高慢さが、持ち前の美しさを全て台無しにしているのだと。 つい先頃、長年付き合っていた貴族の男性から、もう我慢の限界だと一方的に婚約を破棄されたという噂まで耳に届いていた。それが本当の話ならば――エレオノールは、元婚約者から、こう言われたに等しい。彼女と結婚するくらいなら、トリステイン国内で最大の権勢を誇るヴァリエール家との繋がりを断っても構わない、と。 だが、ラ・ヴァリエール公爵家での歓待期間中やその前後、エレオノールと実際に話してみた時には、そのように高慢な印象など、ほとんど受けなかった。学生時代と比べ、たいぶ丸くなったものだ。噂は所詮、噂でしかなかった。オスマン氏は、そう思っていた。 いや、まさかとは思うが……念のため、確かめてみるか。オスマン氏は、エレオノールに対し、いくつか質問をしてみることにした。「話とは、いったい何だね? わしでもよければ相談にのるぞい」「いえ、あ、あの、個人的なことですから……け、結構ですわ」 えっ、嘘。これ当たり? ひょっとして当たりなの!? まさか、最近彼女が妙に柔らかくなったのって、そのせいだとか!? オスマン氏は、顔が引き攣るのを懸命にこらえながら、必死の思いで次の言葉を紡ぎ出した。「そ、そうか。では、戻り次第、君宛に連絡を入れたほうがよいかの?」「お願いします! 来週からはトリスタニアへ戻りますので、そちらへ」 即答である。しかも身を乗り出すようにして、連絡先を書き記したメモを手渡してきた。これは、ほぼ確定と言っていいだろう。オスマン氏は、そう結論した。もちろん、エレオノールが太公望と話したいのは『始祖』に関することであって、それ以上でも以下でもない。だが、ここに至るまでの態度がいかにもまずかった。 あの『彫像』エレオノール女史が、まさかあんな年下好みとは――あ、いや中身はジジイじゃったから年上か。互いに学者肌で話が合う上に、メイジとしての強さは、かの『烈風』に匹敵する男。これは、ある意味仕方のないことなのか……。 しかし、あやつの爵位は貴族として最下級の『シュヴァリエ』で……と、待て。そういえば、国元で大公位を蹴ったとかミス・タバサが言っておったわい。おまけに、25万もの大軍の参謀総長を務めるほどの軍人。現在はともかく、昔の身分を考えれば、充分釣り合う。だが――オスマン氏の中で、数々の思いが縦横無尽に駆け巡りはじめた。 目の前にいる老人が、まさかそんなことを考えているなどとは、今のエレオノールには気付けない。現在、彼女を盲目にしているのは『恋』ではなく『知識欲』であった。と、彼女はふいに気付いた。最大の目的が果たせなかったのは残念だ。しかし、彼から妹に託されたものについては――。「ほらおちび! 急いで帰るわよ。それでは、オールド・オスマン。ミスタ・タイコーボーがお戻りになったら、必ず連絡をお願いしますわ! 絶対ですわよ!?」「ね、ね、姉さま!?」 ルイズの手を引っ掴み、駆け出すように外の竜籠へ向かったエレオノール。彼女は、先程渡された数々のレポートを早く読んでみたくてたまらなくなった。オスマン氏が太鼓判を押すほどの内容。それは、いったいどれほどのものなのかと。 ――こうして。本人たちが全く与り知らぬ場所で、大変な人物の中に、とんでもない誤解が生じてしまったことを、改めてここに記す。