――アンスールの月、ティワズの週、ダエグの曜日。 ルイズが、自分に課せられた<運命>について知らされてから、5日が経過した。しかし彼女の生活は、これまでと一切変わらないものだった――少なくとも、表向きは。 これは、「目立たないようにするためには、何も変えないのがいちばんだ」 と、いうラ・ヴァリエール公爵が打ち立てた方針によるものである。 本当にそれでいいのだろうか? 『伝説』の系統に目覚めた者として、もっとすべきことがあるのではないか。そう考えたルイズであったが、自分の目をただまっすぐに見据えてくる、威厳に満ち溢れた父親に口答えをすることなど……彼女には、できなかった。 ――そんなルイズの新生活を紹介しよう。 朝、日が昇る前に目を覚ます。そして寝間着の上にガウンを羽織り、父親の書斎を――誰にも見られることのないよう<瞬間移動>を使うことによって訪れ、その場で『指輪』と『本』を借り受け、新しい呪文が現れていないかどうかの確認を行う。 しかし<虚無>に目覚めた時のように『指輪』と『本』が光ることはなく、新たな呪文も全くみつからなかった。ラ・ヴァリエール公爵とルイズは、嘆息しつつも――逆に、読める文字が増えるときに光るのかもしれない。それをひとつの目安にしてもよいのではないか。そう結論した。 それからルイズは、再び<瞬間移動>によって自室へ戻り、ガウンを脱いでベッドの中へ潜り込み、使用人が自分を起こすためにやって来るのをじっと待つ。 現れた使用人の手による着替えを終えた後、今度はダイニングルームへと歩いて移動し、そこで家族揃って朝食を摂る。相変わらず無言のうちに過ぎてゆく食事を済ませた後『いつも通りに』大好きな次姉カトレアの部屋で、長姉エレオノールを交え、姉妹3人で優雅にお茶を楽しむ。 だが、実際に部屋の中にいるのはこの3人だけではない。才人がカリーヌ夫人と稽古をしている間、暇を持て余したデルフリンガーが、彼女たちとの会話に加わっている。そう、これは優雅なティータイムと見せかけられた『始祖』ブリミルと<虚無>魔法に関する研究のための時間なのだ。 あるとき。デルフリンガーが、この席でとんでもない発言をした。「相棒が、嬢ちゃんのために絵図面描いてる姿がさ、なんだか不思議と懐かしかったんだ。そうそう、思い出した。ブリミルのやつと、ガンダールヴの姉ちゃんに似てるんだよ。あいつらも、よくああやって、一緒に新しい魔法を考えてたっけなあ……」 これを聞いて仰天したのはエレオノールである。 この時点で、デルフリンガーが『始祖』ブリミルを護る『盾』として使われていた、文字通り国宝級の<マジック・ウェポン>であり、才人がその『光の剣』の使い手として召喚された伝説の使い魔<ガンダールヴ>であることを、父親とオスマン氏から打ち明けられていた彼女は、探求心のあまりぷるぷると震える両手を必死の思いで抑えながら質問した。「あ、あなた、し、しし『始祖』ブリミルを、し、知っているというの!?」「そりゃあ知ってるさ。なにせ俺っちは、ガンダールヴの姉ちゃんに握られて、あいつを護ってたんだかんね。いやはや、懐かしいねえ。あいつらも、よくふたりで新しい魔法を創る実験をしてたっけなあ。相棒が、ルイズの嬢ちゃんに『見えない盾』の魔法を教えたときみたいにな」 新しい魔法を創る実験。なんとこの剣は、その場面に立ち会っていたのだというのだ。この話を聞いたエレオノールは、歓喜のあまり、その場で飛び跳ねそうになるのをこらえるだけで精一杯といった体であった。それはそうだろう、なにせ『始祖』の魔法開発秘話を聞くことができるというのだ。こんな機会は、得ようとして得られるものではない。 だが、カトレアはそんな姉とは全く別のところが気になっていた。 ――ガンダールヴの姉ちゃん。つまり……。「まあ! 『始祖』ブリミルを護っていらした『神の盾』は、女のひとだったの!?」「ああ、そうだよ。顔や名前は全然思い出せねえけど、やたらとキツい性格だったってのは覚えてるぜ。懐かしいねえ……相棒とルイズの嬢ちゃんは、立場までそっくりだったっけ。あ、普段のやりとりがって意味な」「た、たとえば、どど、どんなところが?」「ああ、それなんだがな……」 ルイズの問いに、何やら含み笑いをしているような声で答えるデルフリンガー。「いつも、ブリミルのやつが『なあ、新しい魔法を考えついたんだ。ちょっと試してみていいかい?』なんつって、姉ちゃんを実験台にしようとするんだ。そのたんびに『ふざけないで! この高貴なわたしを使い魔にできたんだから、もっと敬意を払ってしかるべきよ!』なんて怒鳴りつけられてな……いやあ、懐かしいねえ」 カチャカチャと鍔を鳴らすデルフリンガー。どうやら笑っているらしい。 使い魔に怒鳴られる主人。エレオノールの中にあった、敬愛する『始祖』ブリミルのイメージが、がらがらと音を立てて崩れ落ちていったのは言うまでもない。 いっぽうルイズは、羞恥で顔を真っ赤に染めながらも――この話を聞いて、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。 当初は『始祖の再来』などと呼ばれ、その重圧と使命感に打ち震えていたのだが、実はそのブリミル本人が、所謂、謹厳実直で欠点など一切ない、完璧な偉人などではなく――どこにでもいる、ごくごく普通の人間だったことを知ることができたからだ。 それに……『始祖』ブリミルと、かつての<ガンダールヴ>が、どこか自分たちふたりと似ていると言われたのが、ルイズには何故かとても嬉しく感じられた。 ――しかし。それ以外には、たいした収穫は得られなかった。 エレオノールが虚無魔法を習得するためのより詳しい条件や『始祖』ブリミルがどこから来たのか等について、デルフリンガーをさんざん問い詰めてみたのだが、「……知らね」「……忘れた」「……思い出せねェ」 と、いう答えしか返ってこなかった。カトレア曰く、「デルフさんは、6000年以上生きているんですもの。古い記憶が埋もれてしまうのは仕方のないことだわ」 とのことだったが、事実カトレアには、例の<能力>で、デルフリンガーが嘘を言っていないことが感覚的にわかっていた。また、彼の『中の声』が、複数個の『扉』のようなものによって遮られており、全く聞き取ることができないのも確かであった。「何かきっかけさえあれば、思い出してくれるんじゃないかしら」 カトレアの言葉に、エレオノールは嘆息した。「そうね……今までの話を聞く限りだと、それは充分ありえることだわ。ひょっとすると、特定の場面や、キーワードに反応するのかもしれないわね」 首をひねり、思いつく限りのいろいろな言葉を投げかけてみたエレオノールであったが、進展はなし。結局その日判明したのは、 ・デルフリンガーは、かつて『始祖』の側に在った。制作者は不明。 ・6000年前の<ガンダールヴ>は女性だった。 ・ルイズのことを嬢ちゃん、過去の<ガンダールヴ>を姉ちゃんと呼ぶことから、彼女はルイズよりも年上である。 ・『始祖』ブリミルと<ガンダールヴ>は大変親しい間柄であった。 ・『始祖』ブリミルは繰り返し新作魔法の実験を行っていた。 ……たったのこれだけである。ただし『始祖』ブリミルが紛れもなく魔法の開発者であることを改めて確認できたエレオノールは、至極ご満悦であった。 昼食の後、ルイズは自室に籠もって魔法やブリミル教に関する古い書物を紐解く。これらは、オスマン氏がわざわざ『フェニアのライブラリー』から特別に持ち出してきてくれた、1000年以上も昔の貴重な古書ばかりである。 その中には、当然『始祖ブリミルとその使い魔たち』に関するものも含まれていた。そこに記されていた内容を読むことによって、ルイズはようやく知るに至ったのだ。何故才人の存在が、自分の系統を導いたのかを。 そして、ルイズの中に、とある疑問が浮かんだのだが……この時点では、まだそれを口にすべきではないと判断した彼女は、自分の心の中に刻み込んでおくだけに留めていた。 夕方以降は、より厳しさを増した『稽古』を課せられた才人の看病――ルイズ本人の言葉を借りるならば『世話』をする。そこで何気ない会話をするのが、彼女にとって最大の楽しみになりつつあった。 いつもの通り、ふて腐れたような声で才人が何事かを呟く。話は必ずそこから始まる。「お伽噺なんかによく出てくる『伝説の勇者』ってスゲエわ。正直ナメてた」「なによそれ。どういう意味?」「お城に行って、王さまから『おお伝説の勇者サイトよ! わしは、お前が現れるのを待っていた』とかなんとか言われるだけで、ひとりで平然と旅立っちゃう。さすがは伝説、格が違った。うん、勇者ってスゲエ。俺には真似できません」「ちょっと、なんなのよそれ。ただ待ってるだけなの!? その王さま。騎士をお供につけたりして、勇者さまの手助けをしたりはしないわけ?」「ん……まあ、だいたい椅子にふんぞり返ってるだけだな。で、勇者は武器と小遣い程度のお金持たされて、悪いヤツをやっつけに行かされるんだ。魔王とかな」「ず、ずいぶんと酷い話ね……お小遣い程度で魔王討伐って。それで? その勇者さまは、旅立った後はどうなるの?」「世界中を旅して、魔物を倒したりしながら経験を積んで、強くなって――そんで、最後に魔王を倒して、お姫さまと結婚してハッピーエンドってのがお約束だな。ああ、魔王から『世界を半分やるから仲間になれ』なんて言われることもある」「馬鹿な魔王ね! 勇者さまがそんなことで転向するわけがないじゃないのよ」「いや……それがさ。実際に仲間になって世界半分もらっちゃったり、中には自分が魔王に成り代わったりしちゃうヤツもいたりするんだな、これが」「嘘でしょ!?」「いやマジで。けど、大抵ロクなことにならない」「……サイトは、そんな『道』を選んだりしちゃダメだからね?」「それ以前の問題だよ! 俺、勇者になるの確定なの!? 確定なんデスカ!?」「なによ! 勇者になるのが嫌だって言うの!?」「普通がいい。お嬢さまんちの『台風』と『激流』を体感して、俺はつくづく思い知りました。普通の人生って素晴らしい。地球にいた頃は、真面目に将来のこと考えたりしたことなかったけど、少なくとも俺の進路に『伝説の勇者』はありませんでした」 それを最後にむっつりと押し黙ってしまった才人に、ルイズは尋ねた。「あんたは、その……元の世界に帰ったら、なりたいものがあるの?」「やっぱりサラリーマンかな。普通に考えたら」「サラリーマンってなに?」「会社で働いて、給料をもらうんだ。どんな仕事するかはよくわかんねーけど」「あんたは、それになりたかったの? よくわからない仕事をするものなのに?」「本当になりたいってわけじゃねーよ。さっきも言ったけど、ここに来るまでは……あんまり、そういうこと考えてなかったし。で、お前は? やっぱし立派な貴族か?」 それを聞いたルイズはしばらく黙っていたが――ふいに、ぽつりと呟いた。「わたしはね、普通のメイジになりたかったの。父さまや母さまみたいな強力なメイジになんかなれなくてもいい、ただ、他のみんなと同じように……呪文を成功させることができるメイジになりたかった」 幼い頃から、どんな呪文を唱えても爆発させていたルイズの目標。それは、普通のメイジならばごく当たり前にできることを、当たり前のようにやれるようになりたい。ただ、それだけだった。「あのあと、学院長から聞いたの。わたしが系統魔法を失敗し続けていたのは、単に<力>が大きすぎるだけじゃなくて、系統が合わなかったからなんだって」「それ、どういうことだ?」 才人の疑問に、ルイズは身近な例を出すことによって答えた。「メイジにはね、得意な系統とそうでないものがあるの。たとえば母さまは、風魔法はもの凄いけど、水の<治癒>なんかは全然ダメ。父さまは<水の盾(ウォーター・シールド)>みたいな、身を守るための魔法は上手だけど、攻撃魔法はあんまり得意じゃないわ」 攻撃のママに回復と防御のパパですか。怖ろしくバランスのいいコンビだなあ……やっぱふたりで『伝説』なんじゃねェのか!? そんなことを考えつつ、才人は言った。「ああ……なるほどな。そういえば、公爵は<水>の魔法しか使って来なかったっけ。つまり、ルイズは<虚無>だったから、他の魔法ができなかったってことか」「そういうことみたい。普通なら、自分の系統に目覚めたあとは、他の系統魔法もある程度使えるようになるものなんだけどね……エレオノール姉さまにもそう言われて、試しに<錬金>してみたんだけど、やっぱり爆発しちゃったわ」「てことは、ルイズは母ちゃんと同じで『一点特化型』なのか」 無言のまま、コクリと頷いたルイズ。どうやら、他系統の魔法が一切使えないという事実が、彼女にとっては相当ショックだったらしい。「あんたの言うとおりだわ。わたしも普通がよかった。どうして、よりにもよってこのわたしが『伝説』なんて肩書き背負っちゃったのかしら……」 楽しみだったはずの時間が、このように一転してどんよりとした愚痴大会と化し……『伝説』を背負った主従が、揃ってため息をつくこともしばしばであった。 そして晩餐の後は、再び自室へ籠もり、新たに覚えた<瞬間移動>を練習する。なお、ルイズがこの魔法をひとりで使用するにあたり、前もって才人から、「必ず、行き先をしっかり決めてから使えよ。そうでないと、魔法が暴走してとんでもない場所に出る可能性があるからな」 ……と、いう注意を受けていた。「あんたのところの伝承にもある魔法なの? これ」「ああ。少なくとも、俺が知ってる<瞬間移動>は、滅茶苦茶ヤバイ魔法なんだ。最初に、行きたい場所をちゃんと決めて跳躍すれば全然問題ないんだけど……なんにも考えないで使うと、地面の中に出現してそのまま出られなくなったり、反動で何十リーグも上空に放り出されたりすることがある」「うっ……そ、それは確かに危ないわね。教えてくれてありがとう」 もちろん、彼が語っているのはゲームやマンガ、SF小説などで得た知識であって、本物の魔法に関する話ではない。だが、例の『防御壁』と同じく、可能性としては充分ありえることなので、念のため口にしておいた才人であった。「いえいえ、どういたしまして。お嬢さまを補佐するのも<ガンダールヴ>の役目でございますから。ああ、そうだ。もうひとつ注意点がある」「な、何かしら」 既に顔を引き攣らせまくっていたルイズに、才人は真面目くさった顔で答えた。「『空間の座標』つまり『場所』を指定して飛ぶのはいいんだけど『モノ』を指標にするのは、できるだけやめたほうがいい。特に、動くモノの近くに跳躍するのはヤバイ。最悪の場合、移動した瞬間ソイツの『中』に出現して、揃って爆発! なんて可能性もある。特に『誰かの隣』なんていうのは、相手が絶対に動かないっていう保障がない限りは、間違ってもやめておけよ」 そう才人から告げられて、ルイズはカタカタと震え出した。「ヲイ、まさかとは思うけど。あのとき、俺の隣指定して跳躍したとか? とか?」 ふいっと視線を外したルイズを見て、才人は確信した。ああ、やってくれやがりましたねこのお嬢さまは……と。しかし、何故彼女がそのような考えに至ったのかについては、全く気付けない。彼の鈍感ぶりは、筋金どころか鉄骨入りなのであった。「なあ、おい! 頼むから、次からは絶対『やる』って宣言してから試してくれよ! ふたり揃って大爆発! なんて結末だけはゴメンだからな!?」「わ、わかったわ……」 その後ルイズは、自主練習中に<瞬間移動>――いや、虚無魔法について、非常に興味深いことに気が付けた。 自室でひとり練習をしている最中に、たまたま部屋を訪れた使用人のノック音に驚いたルイズは、思わず詠唱を停止してしまった。にも関わらず、彼女が当初から思い浮かべていたベッドの上へ跳躍することができたのである。 そう――なんと通常の系統魔法とは異なり<虚無>の場合は、呪文の詠唱を途中でやめてしまっても、必ず何らかの効果が発動するということを発見したのだ。 この件が引き金となり、ルイズは、初めて魔法が成功したときのことを思い出した。 ――それは、太公望に教わった『掴み』『解き放つ』ための手法。『よいか? 自分の<中>に意識を集中するのだ』『魔法を紡ぎ終えるまでに<力>を廻し、巡らせ、集め……そして、唱え終えるのだ。くどいようだが、イメージが大切だからな』 この魔法の場合は、意識を向ける<方向>が逆なんだわ。ルイズは、すぐさまそれを理解した。それに、あの『始祖の祈祷書』にも、こう書いてあったではないか。汝が知る行き先を強く念じ、把握し、掴み、詠唱せよと。 行き先……つまり、自分の<外>に意識を集中するのだ。その上で、全身に<力>を巡らせる。ルイズは、自分の体内に独特のリズムが生まれてくるのがわかった。そして、彼女は完全に把握し――掴んだ。「ウリュ・ハガラース・ベオークン・イル……!」 呪文に<力>を込めれば込めるだけ、唱える文字の数を増やせば増やすだけ、跳躍できる距離が延びるらしい。そのとき彼女が『掴めた』範囲は、自分を中心とした半径最大1リーグの『空間』。それら全てに在るものが、鮮やかなまでに脳内へ浮かんできたのだ。その動きに至るまで、余すことなく。 そして、彼女は跳躍した――誰もいない空間、屋敷の上空1リーグの高さへ。 当然のことながら、何もない場所へ出現したのだから……自然の法則に従って、彼女は落下を開始した。だが、ルイズには一切の動揺は見られない。「ウリュ・ハガラース・ベオークン!」 さらに上へ。「ウリュ・ハガラース!」 今度は、横へ跳躍した。繰り返し、繰り返し……彼女は、夜空という空間を渡り続けた。そして最後のジャンプで自室へ戻ったルイズは、ひとつの結論に達した。「普通に空を飛ぶだけなら……<念力>のほうが速いし、疲れないわ」 この<瞬間移動>という魔法は、宙を舞う手法としては、残念ながら……全くもって適していないのであった。「それと……広い『空間』を掴むのも、できるだけやめたほうがよさそうね。行きたい場所だけを思い浮かべて、その周辺だけを把握したほうが<力>の消耗を抑えられるし――それに、飛べる距離を伸ばすこともできそうだわ」 考えついたことを、早速メモに取って残す。こういう几帳面なところは、やはり血筋というべきか、為政者として優秀な父や研究員である姉エレオノールとそっくりである。 ……だがしかし。「おちび! このお馬鹿! よりにもよって、こんな上空に飛び出すだなんて……もしも途中で<精神力>が切れたら、どうするつもりだったのよ!!」「ひたいでふ、ぼうしばぜん! あでざばやべでくだざひおでがいじばず」 実験結果によって判明したことを早速レポートに纏め、提出した途端――その姉の手で、頬を思いっきりつねりあげられてしまった。このように、行動の結果を全く考えず、まるで鉄砲玉の如く飛び出していってしまうようなところは、しっかりと母親の血を受け継いでいるルイズであった。 ――と、こんな調子で日々を過ごすルイズ。今のところ、彼女の周辺だけに限って言えば……まだ、世界は平穏であった。○●○●○●○● ――トリステインの王宮に、アルビオンの港湾都市レキシントンが『レコン・キスタ』と貴族派の連合軍によって完全包囲されたという報せが届いたのは、その日の朝であった。 すぐに軍関係者や大臣、そして主立った貴族たちが集められ、緊急会議が開かれた。何故なら、同都市はこれまでアルビオン王党派が抑えていた主要都市のひとつであり、その空軍基地がある場所だからである。 これまで王党派と貴族派連盟の戦況が膠着していたアルビオン王国内の戦争が、今後の状況いかんによっては一挙に貴族派連盟側に傾きかねない。よって、トリステインが国として王党派に援軍を出すならば、最早一刻の猶予もならない。急使を出し、アルビオン側の承認を得なければならない。 しかし、会議はいつもの通り似たような内容を、ただこね回すばかり。まずは大使館へ事と次第を問い合わせるべきだ、とか、情報の流出を抑えて国内の混乱を防ぐべし、といった意見が飛び交っている。 会議室の上座には、珍しくアンリエッタ姫の姿もあったが――彼女はただ呆然としていただけだった。無理もない、あまりに突然の事態急変に、精神がついていけなかったのだ。 怒号が飛び交う中、アンリエッタはふいに傍らの席を見た。そこに腰掛けているのは、彼女が最も頼りとする人物、ラ・ヴァリエール公爵である。本来はゲルマニアとの間にある国境線防衛を任されている重鎮でありながら、この1ヶ月というもの、自領と国境の安定と昨今の国際情勢を鑑み、わざわざ王宮へ足を運び続けてくれているのだ。 ラ・ヴァリエール公爵は、トリステイン国内において、徹底した保守派として知られる政治家である。また、それは政治思想だけではなく、各種戦略・戦術の組み立てにおいても『守り保護す』即ち『防衛』を基本とする武将として名を馳せた存在だ。 何せ、彼が公爵位を継いでからというもの、一度たりとも国境線が動いていない。それ以前は、数千年もの永きに渡り、何度も取ったり取られたりを繰り返していたにも関わらず、だ。事実、先代のラ・ヴァリエール公爵は、隣接しているフォン・ツェルプストー家と血で血を洗う闘争を繰り返していた。これだけでも、彼の武将・政治家としての実力の程が伺えよう。 現在では、年齢を理由に対ゲルマニア国境防衛軍の第一線からは退いており、実際に国境近辺の守護役を務めているのは彼の部下たちであるのだが、もちろんその『守護者』としての知謀は、未だ衰えてはいない。 そんなラ・ヴァリエール公爵が、大切な国境守護のみならず、領地運営までをも公爵夫人と部下に任せ、連日のように参内し、同盟国への援軍供出を議会に提出する。 その事実だけを取ってみても、いかにアルビオン王家が――いや、トリステイン王国が危難の淵に立っているのがわかろうというものなのに、何故、彼らはこんなくだらない論争を延々と続けていられるのだろう。でも、わたくしは……そんな家臣たちに、何も言うことができない。アンリエッタ姫は、我が身の不甲斐なさと無念さのあまり、きゅっと唇を噛みしめた。 ――そして昼過ぎ。王宮の会議室に、急報が飛び込んできた。「レキシントン、陥落しました!」 どよめく会議場の中で、ラ・ヴァリエール公爵の怒声が響いた。「そんな馬鹿な! あれほどの都市が、半日持たずに陥とされただと!? いくらなんでも早すぎる。通常の防衛戦ならば、単独で半月以上は耐えられたはずだ。これは一体どうしたことだ! 他に、何か情報が入ってきてはおらぬのか!?」 温厚で知られるラ・ヴァリエール公爵の剣幕に、急報を伝えにやってきた使者は震え上がった。と、すぐさま次の伝令が舞い込んできた。「アルビオン王党派空軍のうち半数が戦線離脱! 造反です! 『レコン・キスタ』の旗を掲げ、貴族派の下へ走ったとの旨、報告あり!」「王党派旗艦『ロイヤル・ソヴリン』号、船内に潜んでいた『レコン・キスタ』の蜂起により占拠されたとの報告あり! 同艦に乗艦されていた、アルビオン王立空軍大将、艦隊司令長官ウェールズ皇太子殿下の生死については、未だ不明であります!」 それを聞いたアンリエッタ姫の顔から、ざあっと血の気が引いた。だが、姫君の顔色を気にしている者は、この場にはいなかった。 もはや、王党派への援軍供出は間に合わない。何故なら、既に貴族派の手によって戦略空域を抑えられてしまったに等しいからだ。 アルビオン王国は、ハルケギニア最強の空軍を擁する国である。いっぽうのトリステイン王国は陸軍を主体としており、空海軍は毛が生えた程度にしか持っていない。そんな力関係にも関わらず、よりにもよってその『最強』の空軍のうち半数と、重要な基地のひとつを貴族派連盟に奪われた。 そう、空を抑えられてしまったがゆえに、トリステインの『軍』を運ぶための運搬船を出すことができなくなってしまったのだ。たとえ出航したとしても、途中で撃ち墜とされてしまっては、援軍の意味がない。 この場を取り纏めるべき議長たる宰相マザリーニも、事態のあまりの急変に、議論すべき内容を出しかねていた。そもそも彼は、ブリミル教の司教枢機卿であって、軍人ではない。よって、現在の状況に対応しきれないのだ。トリステイン王国の内政と外交を一手に引き受け、こなしている敏腕政治家の彼にも、さすがに限界がある。 マザリーニだけではない。その場にいる貴族たちのほとんど全てが、右往左往しているといった状況であった。まるで戦場さながらといった怒号が飛び交う中に在って、アンリエッタ姫は気を失わず、意識を保っていることだけで精一杯であった。これらの報せは、か弱き姫君にとって、あまりにも刺激が強すぎた。 と、そんな姫君に、ラ・ヴァリエール公爵が静かに声をかけてきた。「姫殿下。今こそ、頂戴した『変わるための勇気』を使わせていただきます」「わたくしが与えた……変わるための、勇気?」 姫君の言葉に頷いたラ・ヴァリエール公爵は、懐中から絹布に包まれた『水のルビー』を取り出すと、それを自分の右手人差し指に填めようとした。蒼き指輪は、公爵が填めるにはあまりにも小さかったが――公爵が指輪に向かって呪文を呟くと、不思議なことに、それはすぐさま適切な大きさとなり、彼の指にぴったりと収まった。 それからラ・ヴァリエール公爵は、大きく深呼吸をして立ち上がると、議会会場に向け、戦艦主砲の砲撃音もかくやというほどの大音声を発した。「静まれ! 姫殿下の御前である。静まるのだ!!」 彼は『指輪』を填めた右手人差し指でもって会場中央を指差すと、こうのたまった。「この緊急時に、いったいなにをもたついているのだ! 既に援軍供出は間に合わぬ。そして、かの国で空域を支配されたということは、アルビオン王家の命運は、ほぼ定まったといっても過言ではない。この状況下において、我らが行うべきことなど、既に決まっておるではないか!」 突然何を言い出すんだ、議長でもないくせに偉そうに。そう反論しようとした貴族たちであったが……みな、声を上げることができなかった。 何故ならば、重職にありながら普段は控えめで、周囲の人間を立てるといった穏やかな紳士であるラ・ヴァリエール公爵から立ち上っている、彼本来の身分――国内最大の権勢を誇り、伝統ある王家の血を受け継ぐ大貴族たる者に相応しい『威厳』という名の圧倒的な気配に、揃って気圧されてしまったからだ。 そんな中。ただひとり、ラ・ヴァリエール公爵の姿――いや、正確に言うと、その指に填っているものを見て、驚愕のあまり震え出した者がいた。それは、この国の宰相を務めるマザリーニ枢機卿そのひとであった。何故だ!? つい先日までマリアンヌ王妃殿下の指に填っていたはずの『王権』が、どうして彼の――『導く者』の象徴である、右手人差し指で輝きを放っているのだ!? だが、マザリーニはすぐさまそこに見出した。優れた政治家にして、トリステイン王家ではなく『王国』の守護者たる彼は、そこにある、とてつもなく大きな利点に気が付けた。 ――ラ・ヴァリエール公爵は、トリステインという国を護る上で、どうしても必要だった存在たりえる。血統だけでなく、その実力も折り紙付きだ。 ブリミル教司教枢機卿は、静かに口を開いた。「ラ・ヴァリエール公爵。確認させていただきたい」「猊下。既におわかりかと思うが、事は急を要する。簡潔に願えますかな?」「もちろんです。あなたは先刻、行うべきことは既に決まっていると仰った。我らは、果たして何をすべきかを、改めて発言願いたい」 ふたりの政治家の視線が一瞬交差した。互いを呼び合うごくごくわずかな口調の変化と、その動作だけで、彼らは互いの立場と、今為すべきことを即座に理解し、頷き合った。「まずは、不要な混乱が起きぬよう、国内における情報の統制を行うこと。流言飛語の類には、これまで以上に気をつける必要があります。『レコン・キスタ』やアルビオン貴族派によって、トリステイン国内で煽動が行われる可能性がありますからな」 マザリーニ枢機卿は、重々しく頷くと――手元にあった羊皮紙に指示を書き留め、側にいた伝令係にそれを手渡した。 「そして、早急に防衛体制を整えねばなりません。特にラ・ロシェール周辺空域の確保は、王都防衛の上での必須事項です。その上で、タルブの近郊に竜騎兵を含む各種哨戒兵を配置します。可能であれば、砲亀兵も展開すべきでしょう。かの地から上陸され、策源地にされると厄介ですからな」「ラ・ヴァリエール公爵。ラ・ロシェール防衛の指揮及び伝令配置の責任者として、グラモン元帥を推薦したいのだが、問題はないだろうか?」「最適の人選です、猊下。彼ならば、必ずその任を全うしてくれるでしょう」 頷き合ったふたりは、同じく会議に出席していたグラモン伯爵――ラ・ヴァリエール公爵の親友であり、対ガリア国境防衛軍の長にして、古くからの盟友に向き直った。 グラモン元帥は、彼らの視線を受け止めると、しっかりと頷いた。それを見たラ・ヴァリエール公爵は、すぐさま次の確認に入る。「枢機卿猊下が現在行われている、ゲルマニアとの軍事防衛同盟についての進捗状況をお聞かせ願えますかな?」 マザリーニ枢機卿は、ぐいと眉をしかめ、苦々しげに吐き出した。「正直、芳しくない状況だ。認めるのは癪だが、国力でいえばあちらのほうが数段上だからな。しかし、このレキシントン陥落の報を皇帝に伝えることで、同盟のための条件を引き出しやすくなるだろう――ああ、伝令は報が届いた時点で既に送ってある」「承知しました。では、そちらはそのまま進めてください。次に――いや、同時に行うべきことは、ガリアへの防衛同盟打診です。同じ『王権』を持つガリアは、我がトリステインと同様『レコン・キスタ』の標的となりえますからな」「確かに。きゃつらが本気で『聖地』への進軍を検討しているとして……あえて最短距離のゲルマニアではなく、ガリアを経由することも充分考えられますな」 これを聞いて顔色を変えたのは、高等法院に所属する、約半数ほどの――ワルド子爵の内偵調査により『レコン・キスタ』と通じていると判明している裏切り者たちだ。彼らは口々に公爵を非難し始める。そして、そんな声をまとめるかの如く立ち上がってきたのが、彼らの長たるリッシュモン高等法院長であった。「ラ・ヴァリエール公爵。あなたほどの知将が、いったい何を仰るのですか!? そんな目立つことをして、我がトリステインが『レコン・キスタ』の怒りを買ったら、真っ先に標的とされてしまうではありませんか!」 そうだそうだと口を揃える者たちを、ラ・ヴァリエール公爵は鼻で笑った。「リッシュモン殿。この期に及んで、何を言っておられるのだ? まさかとは思うが、かの『レコン・キスタ』が、いったい何と言ってアルビオンの貴族派と手を組んだのか、あなたは知らないとでも言うのかね?」「それは……しかし……」「頼りない現王家を打破し、能力のある貴族が代わりに国を支配することで『聖地』奪還を目指す。それが彼ら『レコン・キスタ』が掲げる理念(スローガン)だ。つまり……次に狙われるのは、地理的にアルビオンから最も近く、聖地への通り道となり、かつ――現王家の中で最も国力が低い、我がトリステイン以外にはありえないのですよ」 以後、完全に黙り込んでしまった者たちを尻目に、ラ・ヴァリエール公爵とマザリーニ枢機卿、彼らに同調する者たちは、次々と今後の方策を打ち出してゆく。 アルビオンからの避難民受け入れや、輸出入に関する件について、国防に関する必要経費の捻出方法や国庫の現状に関する財務局への問い合わせなど、今までの停滞ぶりがまるで嘘のように、会議は激しく流れる川の如き怒濤の勢いでもって進行していった。 そして、いよいよ締めに入ろうかといった段階で、ラ・ヴァリエール公爵は再び行動に出た。彼にとって、今後絶対に必要となるものを、そこから引き出すために。 この機会を逃したら、次はいつになるかわからない。よって彼は、あえてこの場で――後に『逆賊』と誹られることをも覚悟した上で、それを行った。「アンリエッタ姫殿下におかれましては、これまでの件につきまして、何かご意見などございますでしょうか」 そう言って、ラ・ヴァリエール公爵はアンリエッタ姫と目を合わせると、その後『水のルビー』に視線を移し――小さく頷いた。それを見たアンリエッタは、思い出した。先日の会見の際に、ラ・ヴァリエール公爵が、自分に何と言ったのかを。 自分に、もっと<力>があれば。そう嘆いていた彼が、この無力なわたくしに、後押しを求めている。ならば、せめて……わたくしにできることをしよう。アンリエッタは立ち上がり、会議場を見渡すと――はっきりとした声で、こう告げた。「マザリーニ枢機卿と、ラ・ヴァリエール公爵の良いようになさってください。ここまでの内容を聞く限り、おふたりが下した判断が最善であると……わたくしも考えます」 そして、その直後。清廉な姫君は、決定的な一言を放ってしまった――その意味を知らずに。灰色に染まったラ・ヴァリエール公爵が、その言葉を泰然として待ち受けていたことも理解できずに。「ラ・ヴァリエール公爵。わたくしが下賜したその『指輪』が、穏やかな『湖』であったあなたを『激流』に変えてしまったようですね。もちろんそれは……このトリステイン王国にとって良い変化だと、わたくしは思いますわ」 ――アンスールの月、最後の日。水の王国の姫君が放ったこの言葉が。永きに渡って続いてきた古き王家の主流たる血統の完全なる終わりにして、傍流による、新たな王朝の始まりを告げる、鬨の声となった。