――ふたつの国で、歴史が大きく動こうとしていた、ちょうどそのころ。ラ・ヴァリエール公爵家の使用人居住区として割り振られている場所の一部屋で、平賀才人が天井を眺めながら、うめき声を上げていた。「か、身体中の筋肉が、悲鳴あげてやがる……俺、もう動けねえ……」 ベッドの上に横たわった才人は、激しく後悔していた。こんなことになるのなら、やはり太公望たちと一緒にキュルケの実家へ遊びに行くべきだったと。 ……どうして、才人がこのような状態になっているのかというと。 例の歓待期間終了後――つまり、今からちょうど1週間前のことだ。ルイズの『護衛』としてラ・ヴァリエール家の屋敷へ残った才人に対し、彼女の父親である公爵がこう言い渡したからだ。「大切な娘の護衛を任せる以上、それ相応の使い手になってもらわねば困る」 ……と。 そして、それからの一週間。才人は毎日のように――昼間はルイズママ、夜はルイズパパの手によって、たっぷりと『稽古』をつけられるハメに陥ったのである。 ――稽古初日。 よりにもよって、あの『烈風』と剣を交える。しかも、デルフリンガーではなく訓練用の木刀を使ってそれを行うと知った才人は、当然の如く及び腰になったのだが。「魔法が使えぬ平民相手に、無体な真似はしませんから大丈夫です」 そう告げたカリーヌ夫人に、練兵場まで無理矢理連れ出されてしまった。本人の声はもちろんのこと、護衛対象であるルイズの意見すら聞いてもらえなかった。 ……ちなみに。「いくらなんでも、あんなのと戦えるわけねーだろ! RPG始めて城から一歩外に出たら、目の前にラスボスが突っ立ってるようなもんじゃねーか! クソゲーとかってレベルじゃねーぞ!?」 これは、よりにもよって『烈風』カリンと相対することになった才人が、稽古前に思わず漏らした本音である。 極端な喩えだが、あながち間違っていないものだから質が悪い。なにせ才人は、ごくごく最近――その『ラスボス』が実際に戦っているところを、すぐ間近で目撃しているのだ。実際、カリーヌ夫人の目から見た才人の姿は、さながら冒険を開始したばかりの初期レベルの冒険者。あるいは、経験値稼ぎのためにひたすら狩られ続ける、ザコモンスターといったところであろう。 そして『稽古』が始まったのだが――確かに、カリーヌ夫人は手加減をしてくれた。剣士である才人に合わせ、なんと自分も<剣の魔法>しか使わないという条件で相手をしてくれたのだ。 カリーヌ夫人が扱う<風の細剣(レイピア)>は、ただ速いだけでなく、思わず見とれてしまうほどに優雅でありながら、その動きに一切の無駄がなかった。 これまで、ギーシュの『ワルキューレ』や、オーク鬼しか相手にしたことがなかった才人は、人間と――それも実戦経験者と剣を交えるのは初めてだったこともあり、あっと思う暇すらなく、握っていた木刀をはじき飛ばされた挙げ句、喉元に切先を突き付けられた。近接格闘に持ち込む余裕など、どこにもなかった。 無理もない。才人の相手は、この世界最強と謳われた騎士なのだ。つい数ヶ月前まで、平和な国・日本でごくごく普通の高校生として生活していた才人が対抗できる相手などではない。いくら<ガンダールヴ>のルーンを持ち、太公望やギーシュと戦闘訓練を続けていたとはいえ、土台からして違い過ぎるのである。 幾度めかの掛り稽古の末、刀身で手首をしたたかに打ち据えられ――あまりの痛さに地面へ蹲ってしまった才人に対し、カリーヌ夫人は問いかけた。「魔法を使えぬ身でありながら、これほどの速度で動けるとはたいしたものです。しかし、対人剣術についてはまだ素人の域を出ていないようね。もしや、これまで稽古の時ですら、本物の剣士と対峙したことがないのではありませんか?」「は、はい、その通りです。格闘術については、太公望師叔から直接教えを受けているんですが」 素直に才人が答えると、やはりそうかと夫人は頷いた。「あなたの動きには、規則性がありすぎるのです。今のままでは、戦い慣れた<刃使い>にはすぐにそのクセを見抜かれ、このように無力化されてしまうでしょう。まずは、そこから矯正しなければなりませんね」 そう言って、夫人は後方で稽古を見学していたラ・ヴァリエール公爵に振り返った。「そういうわけですから……あなた」 と、その言葉を待っていたかのように、彼女の夫であるラ・ヴァリエール公爵が、杖を手に前へ進み出て来る。公爵は才人の前へ立つと、呪文を口ずさみ、すっと杖を一振りした。すると、きらきらと輝く光の粒が才人の身体を包み込んだ。「傷の具合はどうかね?」 公爵から問われた才人は、それでようやく気が付いた。カリーヌ夫人との打ち合いでつけられた傷が、全てふさがっていることに。まだ若干の痛みこそ残ってはいるものの、ほぼ完治しているといってよい状態だ。そう、ラ・ヴァリエール公爵は、非常に優れた<水>の使い手であったのだ。「は、はい! もう大丈夫です。ありがとうございます!」 タバサとかモンモンに<治療>してもらったことがあるけど、あれの数倍すげえ。ルイズパパって、ひょっとしてRPGでいうところの<治癒術師(ヒーラー)>なのか!? と、感激を顕わにする才人。だが、それは数分後に――衝撃へと変わった。「よろしい。ならば、次はこのわし自ら相手をしてやろう」 その言葉を聞いたとき、再び『烈風』と剣を交えなければならないとばかり思い込んでいた才人は、心の底から安堵した。これで、ようやくひと息つける。才人は、そう判断した。 まだ30代といっても通用しそうな『烈風』カリンとは違い、ラ・ヴァリエール公爵は年寄りにしか見えない。奥さんよりも、明らかに格下だと思われる――先日、カリーヌ夫人の<ウインド>で、抵抗する間もなくあっさりと空へ吹き飛ばされた人物が出てきてくれた。おまけに、彼は<水使い>だ。 モンモンと同じで、たぶん攻撃魔法は苦手だろう。やっとまともな戦いができそうだぜ。そう考えた才人だったのだが。その認識は、カラメルソースとメープルシロップと蜂蜜の混合液に半日ほど漬け込んだスポンジケーキよりも甘かった。ラ・ヴァリエール公爵が素早くスペルを唱え、杖を一振りした途端。なんと十数本もの<水の鞭>が出現したのだ。 そして、すぐさま<水の鞭>は1箇所に収束し、幅広の両手剣(ブロード・ソード)となった。これぞラ・ヴァリエール公爵の得意技<水流の刃(ブレイド)>である。 その後才人は、気持ちを切り替える間もなく、流れるような動きでもって内へ斬り込んできた公爵の<水流剣>であっさりと木刀を絡め落とされ、指抜きグローブによる接近戦を挑もうにも、再び複数本の<鞭>に変化した<水>によって全身を縛り付けられてしまい――全く身動きが取れなくなってしまった。「普通の魔法使いは、同時に1個しか魔法使えないんじゃなかったのかよ!」 地面に転がされ、残る<鞭>で散々に打ち据えられた才人は、敬語を使うのも忘れ、思わず抗議の叫びを上げてしまった。「かの『東の参謀』殿ほどではないのだがね、わしも<鞭>の『複数展開』を得意としているのだよ」 髭をしごきながら、得意げにそう告げた公爵の言葉に補足をしたのは、すぐ側で彼らのやりとりを見学していたカリーヌ夫人であった。「<剣>と<鞭>による接近戦に限定するなら、我が夫はわたくしよりも数段上です。ついでに教えておきますが……彼は現役時代、一度たりとも<刃使い>相手に負けたことがありません」 つまり。ラ・ヴァリエール公爵は、置かれた状況次第ではハルケギニアの『伝説』よりも強いということになる。しかも、同時に十数本もの<水の鞭>を使いこなす超技巧派。剣か拳かの違いだけで、魔法ありの太公望と戦闘スタイルがほぼ一緒なのだ。すぐさまそれを理解した才人は、頭を抱えてしまった。「そういうことは、早く言……ってくださいよ奥方さま!」「礼法に則った決闘ならばいざしらず、あなたは実戦の最中に、敵へ能力の開示を求めるというのですか?」「うぐっ……」 才人は反論できなかった。カリーヌ夫人の言うことは、至極もっともだからだ。「どうやら、あの参謀殿は……身内に対して甘すぎるようですね。まだ子供とはいえ、自分の従者にこの程度の軍事教育すら施していないとは。せっかくの機会ですから、このわたくし自ら鍛え直してあげます」 キリリと目をつり上げながらカリーヌ夫人が叩き付けるような声を出すと、ラ・ヴァリエール公爵が重々しく頷きながら、その意見に賛意を示した。「細剣の扱いについてはカリーヌでいいとして……片手剣と両手剣については、わしが鍛えてやろう。同じ剣でも、必要な動作が全くといってよいほど違うからな」 公爵がそう言うと、夫人は怪訝な顔をした。「あなたには、公務と、宮廷での大切なお役目があるではありませんか」「うむ、その通りだ。よって、昼はカリーヌに全て任せる。わしは、夜の実技担当を請け負うこととする」 それを聞いたカリーヌ夫人は、微笑みながら頷いた。「では、そのようにいたしましょう」「いつもすまないな、カリーヌ。では、よろしく頼む」「俺の意志が入る余地は、全く無いんですネ……」 にこやかに語り合う夫妻を尻目に、才人はがっくりと肩を落とした。○●○●○●○● ――そして、現在に至る。「しっかし……なんつう夫婦だよ。ひょっとして『烈風』カリンの伝説って……ひとりじゃなくて、あのコンビで作ったんじゃねーのか!?」 実は、この才人の推測は当たっている。公式記録を含むトリステインの歴史に、カリンの名前だけが燦然と輝いているのは……夫であるラ・ヴァリエール公爵が性格面と諸々の事情から目立つのを嫌い、自分の手柄をほとんど彼女に譲ってしまっていたからなのだ。 この事実について、名誉を重んじるカリン本人としては、正直なところ不本意極まりなかったのだが――本質的に控えめな公爵の性格をよく知る彼女は、最終的に、しぶしぶながらもそれを受け入れたという裏事情がある。 広域殲滅能力最強の妻と、近接限定なら伝説をも上回る夫。まさに歩く戦略兵器である。しかも、現役時代は今よりも数段強かったというのだから怖ろしい。そりゃあ、ルイズみたいな規格外の『天才』が生まれるわけだよなあ……と、才人はしみじみ思った。 ところで、その『最強夫婦』の愛の結晶であるルイズは現在何をしているのかというと。<念力>を使って、才人の身体に冷たい水の入った袋をあてがっていた。「ここ、このわたしが、ひ、冷やして、あ、あげてるんだから、かか、感謝してよね」 などと、才人とは絶対に目を合わせないよう、顔を背けながら。「なあ、お嬢さま。俺が、誰のせいでこんな目に遭わされてるんだか、口に出してハッキリ言ってみてくれるか?」 つい憎まれ口を叩いてしまう才人であったが、それはもちろん本心などではなかった。 惚れた女の子――しかもとんでもない美少女に、こんなふうにつきっきりで看病してもらえるなんて、男冥利に尽きるぜ……! と、彼は内心の感動を必死に隠していたのだ。正直なところ、これがあるから俺はあの猛烈なまでの『稽古』に耐えられるんだ! とまで思っていた。結局のところ、才人は好きな女の子に対して、とことん弱い男なのであった。「わ、悪いとは思ってるわよ! でも……」「でも、なんだよ?」「あ、あんたは、わた、わたしの護衛なんだから、ああ、あたりまえで」 ルイズ自身、そんなことを口にしつつも、内心では嬉しさを隠せないでいた。 彼女は、自分がおちこぼれであるがために――ずっと、家族から見放されていると思っていた。ところが、そうではなかったとわかったから。 自分の成功を我が事のように喜び、それを手助けしてくれた友人や先生を招いて盛大な宴を開いてくれただけではない。来客たちが去った後――母親からこう言われたのだ。「失敗という結果だけに囚われていたせいで、苦しんでいるあなたに何もしてやれなかったわたくしを、どうか許してちょうだい」 ……と。 そして、彼女はその後すぐに、学院長の言葉で知ったのだ。父が、ルイズが魔法学院へ入学する前に――わざわざオスマン氏の元を訪れ「どうか娘を目覚めさせてやって欲しい」と頭を下げてくれていたことを。 ――かつてルイズは、ずっとこの屋敷から外へ出たくて仕方がなかった。 父は、いつもルイズのことには無関心で――近隣の領主との付き合いや仕事にしか興味が無いように見えたし、母は娘の嫁入りのことばかり重視し「魔法ができなければ、よい家へ嫁げませんよ」と、公爵家の面子を重視するあまり、毎日厳しく叱りつけてくる。そう思い込んでいた彼女にとって、この屋敷はまるで出口のない牢獄のようなものだった。 だが、そうではなかった。両親は、自分に失望していたわけではなかったのだ。それどころか、心の底から彼女を案じてくれていた。そのことが、ルイズには本当に嬉しかった。ずっと、自分はとっくに見限られているとばかり思い込んでいたから。だから、今は――この屋敷にいられることが、彼女にとっての大きな安息となっていた。 そんな家族の想いと愛情を知るきっかけとなってくれた、目の前のパートナーに、ルイズは本当に感謝していた。もしも彼が<召喚>に応えてくれなかったら……未だに、自分の魔法が失敗していた原因がわからないままだったかもしれないのだ。 その上、彼女のパートナーたる才人は、いつもルイズのことを考えてくれている。 空を飛べるようになったのも『箒星』という素敵な二つ名をもらうことができたのも、彼のアイディアがきっかけであったし――その後も、色々な案を提示してくれている。あの『見えない盾』も『空飛ぶベッド』も、才人が一生懸命知恵を絞り出し、提案してくれた。ルイズの<力>を最大限に生かすために。 それだけではない。彼は、ルイズを護るために強くなろうとしてくれている。あのワルド子爵すら恐れをなす『烈風』の稽古を、1日たりとも休むことなく継続しているのだ。 ――わたしのために、サイトはこんなにも頑張ってくれている。 それは、これまでルイズが知らなかった、いや気付いていなかった快感であった。自分のことを真剣に考え、頑張ってくれるひとがいる――それが、これほどまでに快い気分をもたらすものであったとは。こんなこそばゆい気持ちになるのは、初めてだった。 もうちょっと優しい言葉をかけてくれれば、文句なんて出ないのに。などと思わなくもなかったのだが、才人はいつでもふて腐れたような口調でぶつくさ言いつつも、なんだかんだと手を貸してくれる。ルイズには、そんな彼の態度が……最近では、何故か不思議と心地良いものだと感じつつあった。 だが、それを素直に口にするのがなんだか恥ずかしくて、つい、心とは裏腹のことを言ってしまうのだ。いま、自分の内に芽生えつつあるこの感情を認めたくない――いや、認めてはいけないのだと信じ込んでいたから。「だだ、だいたいね、ここ、こんなこと、ふつうなら、あ、ありえないんだから」「ほほう。それはどういう意味でかネ?」「わわ、わたしは、ここ、公爵家の娘なんだから! ここ、こんな看病……じゃなくて! 護衛のそばに、ひ、ひとりだけでつきっきりとか、ぜ、ぜったいに、ああ、ありえないことなんだから!」 そんなルイズの言い訳じみた言葉を聞いていた才人は、口をへの字に曲げた。こいつ、本ッ当に変わんねえよなあ……と。実際には相当柔らかくなっているのだが、そっち方面の勘については、鈍感を通り越してドラム缶な才人は、それに気付けないのであった。「へいへい。どうせ俺はしがない護衛でございますよ。ああ、左足のほうがなんか温くなってきた」「えっ? ちょっと待って、取り替えるから。他の場所は?」「まだ平気。で、キミは悪いと思ってるだけなのカナ? カナ?」「だ・か・ら! こ、こうやって、わたしが、かか、看病……じゃない、面倒見てあげてるでしょ!」 ――主従揃って素直じゃない……と、いうよりも。実に面倒な性格をしているふたりであった。 と、そんなところへ。コツコツという、控えめなノック音が響いてきた。「開いてますよ」 才人がそう言っても、ノックは続いている。これがルイズや友人たち、そしてこの屋敷で働いている使用人たちならば、すぐさま中に入ってくる。にも関わらず、自分で扉を開けないということは――普段、自らそういうことをしない身分の人物であろう。「もしかして、やんごとないお客さまか?」 そう言って立ち上がろうとした才人をルイズが制し、扉を開けた。そこに立っていたのは……彼女の姉、カトレアであった。「ち、ちい姉さま! あ、あの、えっと」 ルイズがわたわたしていると、カトレアはにっこりと微笑んだ。「うふふ。やっぱりここにいたのね。 もしかして、邪魔しちゃったかしら?」「んな、ななななななにをいってるんですかちいねえさまおじゃまとかよくわからないことをいってまたわたしをおどろかせようとかそういうはなしですかおねがいだからそういうことはやめてくださいわたしびっくりしちゃったんだから……」 などと、息継ぎ無しで呟き続けるルイズに見えないよう、サイトに向かってぺろっと舌を出して見せるカトレア。 それを見た才人は、胸がきゅーんと締め付けられた。ルイズの姉であるカトレアは、柔らかい目つきにふんわりとした笑顔が似合う、優しくとげのない表情の、おっとりとした美人であった。そんな彼女が見せた、思わぬいたずらっぽい雰囲気に、ぐっときてしまったのである。このお姉さん、可愛いよなあ……と。「あ、あのっ、どういったご用件で……?」 ルイズがもう少し大人になったら、このお姉さんみたいな感じになるのかなあ。だったら間違いなく買いだよなあ。などと思いながら才人がそう尋ねると、カトレアは何が可笑しいのか、くすくすと笑いながら部屋の中へ入ってきた。「父さまが、ルイズのことを探していたの。明日、王宮へ連れて行くからって。姫殿下が、久しぶりにルイズの顔が見たいとおっしゃっていたそうよ」 それを聞いたルイズの顔が、ぱっと綻んだ。「姫殿下が!?」「ええ。とても楽しみにしていらっしゃるそうよ。それと、サイト君も護衛として一緒についてくるようにって。だから、今夜の稽古はお休みよ」 才人の顔も、きらきらと輝いた。稽古が休みというのは勿論嬉しい。だが、それ以上に楽しみなのが王宮見学である。仲間たちと、何度かトリスタニアの街へ買い物に行ったときに見かけた綺麗なお城。これまでは、外から眺めるしかなかったのだが、なんと中へ入れてもらえるというのだ。日本で例えるなら、皇居のいちばん奥まで入れるようなものだ。こんな機会など、滅多にない。 だが、才人にはひとつだけ気になることがあった。「あの、カトレアさん。質問いいっすか?」「使用人に伝えるんじゃなくて、わたしが自分でこの報せを持ってきたことについて、かしら? ひとつめは、これね」 ほんわかとした笑顔を浮かべながら、ベッドの側に近付いていったカトレアは、杖を取り出して呪文を唱えた。「イル・ウォータル・デル……」 それは<治癒>の呪文であった。みるみるうちに、才人の身体から痛みが引いていく。いつもは、夜の稽古前に公爵がかけてくれていたのだが、今日は急ぎの仕事が入ったらしく、カトレアがその役目を頼まれたらしい。 ――そう、彼女は既に、魔法を使っても体調不良を訴えることがなくなっていたのだ。「もう痛くないです! ありがとうございます」「ありがとう、ちい姉さま! ところで、ふたつめって?」 妹に微笑みかけながら、カトレアは言った。「うふふ。それはね、あなたたちふたりとお話がしたかったからよ」 にっこりと笑いながらそんなことを言われた才人は、どきっとしてしまった。「え、あ、お話って、どういう……?」 このあいだの太公望師叔の件もそうだけど、めちゃくちゃ勘が鋭いひとなんだよなあ、このお姉さん。俺たち、いったい何聞かれるんだろ? 才人は、どぎまぎしながらカトレアの答えを待った。「ルイズとサイト君って、いったいどういう関係なのかしら?」「どど、どういう関係って……」「さ、サイトはわたしの護衛で……」 思わぬ問いかけに、揃ってわたわたするふたりを好ましげに見遣ったカトレアは、ころころと笑った。「あら? わたしは、あなたたちが恋人同士だなんてひとことも言ってないわよ。それなのに、どうしてそんなに慌てているのかしら」 カトレアの発言に、ふたりは真っ赤になった。恋人同士!? 違うわ、そんなんじゃないもん……そう心の内で必死に否定するルイズと、本当にそうなれたらいいんだけど……と、考える才人。「うふふ。そうね、今のあなたたちは、まだ『お姫様』と『騎士(ナイト)』かしら。ミス・タバサたちが『お兄さん』と『小さな妹』みたいな関係なのとおんなじね」 ルイズと才人はどきりとした。ルイズは、やはりちい姉さまは鋭いわ――と。才人は、やっぱりこのお姉さんの勘、ハンパじゃねェ! と、驚愕した。「ふたりとも、どうしてわかるんだって顔をしているわね。でも、わたしにはわかるの。なんだか、普通のひとよりも少し鋭いみたいで」「や、少しってレベルじゃないと思うんですが」「ちょっと、サイト!」 慌てて才人を遮ろうとするルイズの姿に、カトレアはまた笑った。だがその陰で、彼女は気が付いていた。彼らの『中の声』が聞こえていたせいで。『師叔のことといい……ホント、超能力者(エスパー)みたいなひとだなあ』『まさか、ちい姉さま……サイトがわたしの<使い魔>だって、気付いてるのかしら』 カトレアは、内心で驚いていた。この男の子は、おじいさまの連れなんかじゃなくて、ルイズの……しかも使い魔だったのね。 才人が、太公望と同じ『異世界』から来ていることに関しては、既にルイズの声を『聞いて』わかっていた彼女であったが、さすがに使い魔ということまでは知らなかったのだ。そして、カトレアはこの件で、もうひとつの事実に気が付いた。 やっぱり、おじいさまは……わたしの『声』を聞き分ける<力>について、誰にも教えていなかった。きっと、わたしがこの<力>を隠していたことに、気付いてくださっていたんだわ。それを思うと、カトレアは……心がほんのりと温かくなった。 ――つい先日。カトレアは、父親であるラ・ヴァリエール公爵から<力>をあまり使いすぎないよう、厳重な注意を受けていた。「カトレア。例の参謀殿から詳しく聞いたのだが。お前が持っている<力>は、使い過ぎると健康を損なってしまうのだそうだ。彼の国では、実際に寝たきりになった人間までいるらしい。少し使うくらいなら問題はないらしいが、絶対に無理をしてはいかんぞ」『動物と会話する能力と、偽りの姿や嘘を感覚で見破る<力>か……まさか、カトレアにそのように不思議な能力が備わっていたとは。だが、間違っても多用させるわけにはいかん。体調を悪化させる<力>なれば、なおさらだ』 それを聞いたカトレアはすぐに察した。父親が、自分の<能力>に関する詳細について、太公望に確認を取ったのだと。だが、父の『声』を聞く限り、どうやら『心の声を聞く』ことに関しては開示されていないように思える。 ひょっとして、ほかの皆さんにも内緒にしてくださっているのかしら……? 期待混じりの不安を抱いていたカトレアであったが、ふたりと会話をしたことによって確信した。やはり、心の声については誰にも話していないのだと。<力>の詳細を知られることを極端に畏れていた彼女にとって、これはとても有り難かった。 そんな内心の喜びを表には出さずに、カトレアは笑みを浮かべつつ口を開いた。「あら、困らせちゃったかしら。ごめんなさいね」「あ、いや、そんなことは……」 頭を掻きながら言葉を紡ぐ才人に、カトレアは再び尋ねた。彼女には、どうしても聞いてみたいことがあったのだ――彼女の生い立ちに関わる、強い好奇心がゆえに。「実はね、あなたたちふたりに聞きたいことがあるの。ほら、前におじいさまが炎の勇者さまのお話をされていたでしょう?」「え、ええ。歓待の時よね」『確か、ミスタがいた世界の歴史上、最強の<火>メイジだったはずよね』「そんな話あったっけ? 俺は覚えてないんだけど」『あんときは、ルイズのことだけで頭がいっぱいだったからなあ……俺』「わたしね、昔から身体が弱かったせいで、ずっとお部屋で本ばかり読んでいたから……そういうお話にすごく興味があって」 照れくさそうに話すカトレア。彼女は、長い間部屋の中に閉じこもっていたが為に、外の世界に強く憧れている。ゆえに、例の『勇者様』の冒険譚について、聞いてみたくてたまらなかったのだ。 歓待期間中は、ハルケギニアの魔法談義ばかりで、詳しく聞く機会がどうしても得られなかったが、ひょっとすると、彼らならば、何か教えられているのではないかと考えたのだが――『聞いて』みた限り、どうやらそれは正解だったらしい。カトレアは心密かに喜んだ。「ああ、そういうことっすか!」『うわあ……勇者に憧れるとか。やっぱり可愛いなあ、このお姉さん』「えっと、わたしたちも、そんなにたくさん聞いたわけじゃないけど……領民たちを救うために、自ら前線に立った、真の英雄だったらしいわ」『本当は次の<教皇>になるはずだったのに、寺院に籠もって祈祷するよりも自分の<力>を生かしたほうがひとびとのためになるからって、後任をミスタ・タイコーボーに任せて、危険を顧みず前線で戦ったのよね。確か』 才人のほうはともかく、ルイズの声を聞いたカトレアの胸は躍った。まさしく『イーヴァルディの勇者』そのものではないかと。例の『炎の勇者』は正真正銘、本物の勇者さまだったのだ。「滅茶苦茶強かったらしいですよ。そのひとが前線に立ったことで、大勢のひとが命を救われたんだって、師叔が言ってましたから」『ひとを助ける<力>があったから、黙って見てるだけじゃなくて自分から動くとか、マジで勇気あるよな……思ってても、なかなかできることじゃねーし。俺はどうなんだろう……そういう時が来たら、ちゃんと動けるのかな』「貴族として相応しい行動よね。ご本人にお会いできるものなら、ぜひ一度お目に掛かってみたいわ」『彼の行動は、貴族の模範たるべき立派な振る舞いだわ。いつか、わたしも彼みたいな立派な貴族になれるように、頑張らなくちゃ!』 彼らの声を集めたカトレアの顔が、華麗に綻んだ。「まあ! やっぱり『伝説』になるべくして為ったおかたなのね」 手を打ち鳴らしてそう言ったカトレアの言葉に、何故か目の前の少年の顔が、一瞬だけ陰った。それが気になったカトレアは、理由を尋ねることにした。「あの、わたし……何か悪いことを言ったかしら?」 自分を見つめながら、急に不安げな声を出したカトレアの様子に、才人は焦った。そのせいで、つい、表に出すべきではないことを口走ってしまった。「いや、なんで俺なんかが<伝説の使い魔>になっちゃったのかなって……」『どうして、俺みたいな普通の高校生が選ばれちまったんだろう。師叔は、まだ俺が目覚めてないだけだって言ってくれたけど……ルイズパパとかママのこと見てたら、とてもじゃないけど俺なんかが『伝説』に相応しいとは思えないんだよなあ。はあ……マジで意味わかんねえし』「伝説の……使い魔!?」「ちょっとサイト!」「……あっ」 慌てて制したルイズであったが、時既に遅かった。「まあ! あなた使い魔だったの!? それも、伝説って呼ばれるような?」 カトレアは、大げさに驚いた『ふり』をした。そんなカトレアに、才人は床に頭をこすりつけんばかりの勢いで哀願した。以前ルイズから聞いた『もしも噂が広まれば、アカデミーで解剖されるかも』という言葉を思い出したからだ。「あ、あの、すみません。これ、内緒にしてもらえませんか? 周りにバレるとまずいんで――お願いします! だいたい、俺……『伝説』なんて肩書きもらえるような、立派な人間じゃないんで……」「内緒にするのは、もちろんかまわないけれど……」 <伝説の使い魔>とやらが何を指すのかまでは、さすがに知らなかった。だが……独特の『勘』により、いま目の前にいる少年が、その事実を重く感じていることを察したカトレアは、自分が思ったことを、素直に口にした。「ねえ、あなたはひょっとして『伝説』って呼ばれるのが嫌なのかしら?」「あ、いや。そうじゃなくて、なんつーか……相応しくないっていうか」「それは、どうして?」 天使の微笑みといって差し支えない顔を向けてきたカトレアを前に、才人は、思わず抱えていた悩み事の全てをさらけ出してしまった。ずっと心の奥底に固まっていた、不安という名の氷山が、暖かな光によって溶け出したのだ。「俺……これといって取り柄もない、どこにでもいる普通の学生ですから。毎日なんにも考えないで、ただ過ごしてただけの子供なんです。それが、いきなり伝説なんて言われても、ピンとこないっていうか」 その言葉を最後に俯いてしまった才人へ、カトレアは優しく声をかけた。「それは……あなたが、これから始まるからなんじゃないかしら?」 カトレアの声に、才人はぴくりと反応した。「これから……始まる?」「ええ。おじいさまも言っていたでしょう? 無の状態からある伝説なんか無いんだって。そう呼ばれる全員が、そこに至るまでの『道』を歩んでいるんだって」 顔を上げた才人に向けて、カトレアは微笑んだ。「わたし、思うの。あなたは伝説になるために選ばれたんじゃないかしら? きっと、今はその準備をしている最中なんだわ。だから、もう伝説になり終えているひとたちと自分を比べて、落ち込む必要なんかないわ」 どうかしら? そう言って笑いかけてきたカトレアの言葉は、とても暖かく……じんわりと才人の胸へ染み込んでいった。 そうか、俺は……いつか伝説になるために、ルイズに選ばれたんだ。本当になれるかどうかはわかんねーけど、いまは、そのための準備をしてるんだ。才人は、思わず手袋越しに――左手甲に刻まれたルーンへと視線を注いだ。 ――『神の盾』ガンダールヴのルーン。「そっか……そうですよね。お伽噺に出てくる伝説の勇者だって、最初から伝説だったわけじゃないんですよね」 ポツリと呟いた才人に、カトレアはにっこりと頷いた。「勇者っていう称号も、自分から名乗るものじゃないわよね? 何かに立ち向かっていく姿を見た大勢のひとたちが、その勇気を讃えて『勇気ある者』つまり『勇者』って呼ぶようになるのよ」 ――無の状態からある伝説など存在しない。『勇者』とは、自分で名乗るものではない。両方とも、そう呼ぶ者たちがいて初めて生まれるものなのだ。そのカトレアの言葉に、才人は思わず右手でぎゅっと左手の甲を握り締めた。「でも、この家にいる『伝説』は、ホント厳しいですからね……俺、耐えられるかな」「まあ、準備にしてはちょっと激しいわよね」 ルイズの呟きに、才人は猛烈な勢いで反論した。「ちょっとどころじゃねーよ! あれは『烈風』じゃなくて『台風』の間違いだろ!? おまけに旦那は『激流』だよ!!」 そんなふたりのやりとりを聞いていたカトレアは、にこにこと笑みを零していた。 ――『伝説』と呼ばれることを重荷に感じ始めていた少年は、心優しき姫君の助言を受けたことで、いったんそれを地面へ置くことにより――ようやく、はじまりの『道』を歩き始めることに成功した。