――彼は、困惑していた。目に映る……今の自分を取り巻く環境に。 抜けるような青い空と、どこまでも広がる荒野。それはいい。遙か後方に控えている子供たちと、小さな笑みを浮かべて彼らと同席している教師ども。沈黙を守っている公爵と、その傍らで震えている金の髪の娘と、戸惑いの表情を浮かべた儚げな妹。 自分の正面、50メイルほど離れた場所に立つ、幻獣の姿を模したとおぼしき刺繍入りの黒いマントを羽織り、羽根飾りつきの帽子を被っている女性。顔の下半分を鉄の仮面で覆ったその人物についても、まあ……すぐに理解できるであろう。だが……。「何故に、わしはここにおるのかのう……」 ……しかし、その疑問に答えてくれる者はなく。「元トリステイン王国近衛魔法衛士隊所属、マンティコア隊隊長カリーヌ・デジレ・ド・マイヤール。二つ名の由来は『強く、激しく吹き荒ぶ風』。『烈風』カリン」 ただ、目の前に立つ人物による、名乗りの声が響くのみであった。 ――今から、約2時間ほど前のこと。 朝は出席しなかったルイズと才人、そしてカリーヌ夫人を加えた昼餐会が終わり、全員がのんびりと食後の談話を楽しんでいた際に、それは起きた。話の切りがよいところで、カリーヌ夫人がこう切り出したのだ。「ミス・タバサ。ひとつお願いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」 彼女の言葉に、ラ・ヴァリエール公爵が一瞬凍り付いたのだが、タバサにはそれが見えなかった。何故なら、完全に公爵夫人にのみ視線を向けていたから。「わたしにできることでしたら」 タバサの返事に、優しげな微笑みを浮かべたカリーヌ夫人は、彼女にこう申し出た。「ありがとうございます。実は、そちらの従者殿からお話を伺って、大変興味が湧きましたの。そこで、もしよろしければ……場所を変えて語り合いの機会をいただければと」 その言葉に、昼餐会場にいた召使いたちの間に漂っていた空気が固まったのだが、彼らは客人席の後方に控えていたため、これまた残念なことに、さすがのタバサにも気が付けなかった。「もちろんわたしは構いません。タイコーボー」 そう言って、タバサは太公望の顔を見た。すると……何故か、彼の表情は見事なまでに硬直していた。いや、視線だけが、あちこちを彷徨っている。「タイコーボー、どうかしたの?」 太公望はタバサの問いには答えず、額に汗をたらしながら、夫人へ確認を取った。「失礼ながら、その語り合いとは……いったい、どのような?」 彼の言葉に、ヴァリエール公爵家の長女と三女の顔が引き攣った。「あ、あの、か、母さま? ま、ま、まさか」 ルイズが、顔中を強張らせながら母に問うと、夫人はキッと娘を見据えて答えた。「わたくしが語り合いたいといえば、決まっております。ルイズ、あなたも知っていることでしょう?」 場のただならぬ雰囲気に、ようやくタバサは気が付いた。いったい彼らは何を言っているのだろう? そう思って周囲をよく見てみると、先程まで控えていた召使いたちが、そそくさと部屋を後にしている。執事長など「私、用事を思い出しました」などと言って、真っ先に退出してしまった。「そ、そんな、か、母さま? お、お客さまを相手に、そ、そのようなことを、な、なさるというのは……ねえ? カトレア」 明らかに作り笑いとおぼしき笑みを浮かべたエレオノールが、そう妹へ話を振ると。「わ、わたしもそう思いますわ」 カトレアも本当に困ったような声で、それに答えた。ラ・ヴァリエール公爵はというと、上品なハンカチーフで額の汗を拭っている。 そんな彼らの様子など一顧だにせず、カリーヌ夫人は太公望を見据え、こう言った。「娘を魔法に目覚めさせてくださった方が、どのような人物であるのかをしっかりと見極める。これは、親としての責任です」 そう言い放ち、公爵夫人カリーヌは席から立ち上がった。表情こそ、先程と変わらず笑みを浮かべたままだ。しかし……その身体から、強烈な何かが吹き出している。「あ、あの、公爵夫人。わたくしめは、その」 あわてふためく太公望の言葉は、無慈悲にも途中でかき消されてしまった。突如起こった轟音によって。パラパラと、テーブルの上に埃が舞い落ちてくる。なんと、先程まで昼餐会場に存在していた壁が、完全に消失していた。怖ろしく強烈な<風>である。 杖を構えていたカリーヌは、ふう……と、ため息をついた。「これ以上弱く放つのは難しいわね。まあ、なんとかなると思いますが」「か、カリーヌ! だ、だから、それはだな……!」 ガタガタと震えながらも、必死の覚悟で妻を抑え込もうとしたラ・ヴァリエール公爵であったが、そんな彼の思いも空しく、彼女が止まることはなかった。その二つ名が如く。「お受けいただけますわよね? 従者殿」○●○●○●○● ――ラ・ヴァリエール公爵家・屋敷の一画にある客間のひとつにて。「ルイズのお母さまが、あの『烈風』カリン……」 しきりに頭を下げ、恐縮した様子でエレオノールが立ち去った後。タバサを含む招待客全員が、ルイズの口からその驚愕の事実を知らされていた。「なあ、その『烈風』カリンっていったい何のことだ?」 例の婚約破棄とルイズと手を繋いで歩いたことによる影響か、精神的にだいぶ立ち直った才人がそう尋ねると、その場にいた全員――ただし、まるで魂が抜け出たような顔をして、ソファーの背もたれの中に埋もれている太公望を除く――が、口々にその『伝説』を語る。 曰く、トリステイン王国のみならず、ハルケギニア始まって以来の<風>の使い手。 曰く、ひとりでドラゴンの群れを退治した『勇者』。 曰く、大公が反乱を起こした際に、たったひとりで全てを鎮圧してのけた『英雄』。 曰く、若き日のグラモン元帥が、一個連隊(1500~2000名規模の軍勢)を率いて、とある戦場に赴いた。しかし、彼らが到着した時点で、既に敵軍はカリンひとりの手によって鎮圧されていた。 曰く、隣国ゲルマニアの軍と、国境付近で小競り合いになった際『烈風』出陣の報が戦場に届いた瞬間、敵軍が全てを捨てて逃げ出した程の『伝説』。「オイ、なんだよそれ。どんな化け物だよ!」 思わず、そう口にしてしまってから、しまった! ルイズの母さんのことなのに、とんでもなく失礼な事を言っちまった。その考えに至れた才人は、おそるおそる、その娘を見たのだが……彼女は、ただカタカタと小さく震えているばかり。もはや、それどころではないといった風情だ。「あの『烈風』だけは絶対相手にしたくない。これは、父上の口癖のようなものだよ」 話の中に出てきたグラモン元帥、その実の息子であるギーシュの言葉に、モンモランシーが追従する。「とっても美しい方だって聞いてたわ。昔から、カリンさまは男装の麗人じゃないかって噂もあったんだけど」「ええ、私もその噂は耳にしています。まさか本当だったとは、驚きましたぞ」 コルベールは、額に浮かんだ汗を拭きながらそう呟いた。 そんな彼らの様子と、埋もれた『パートナー』太公望の姿を見ながら、タバサは後悔していた。何故、もっと夫人の言う『語り合い』とやらについて、詳しく内容を聞かなかったのだろうか、と。 既に、彼の主人として振る舞っているタバサが、それに応じてしまった以上――取り消すことなどできはしない。それに、立場上タバサの従者とされている太公望が、上位者による申し入れを断ることなど、絶対にできないのだ。 ルイズから、この事実はヴァリエール公爵家の親族と、近しい者にしか明かしてはならないとされている『秘密』だから、絶対に言えなかった。そう聞いてしまっては、彼女やその家族たちを非難するわけにもいかない。実際問題、女人禁制とされているトリステイン王国近衛魔法衛士隊の『伝説』が女性であるなど、到底明かせない事実だろう。 それにしても。タバサには、どうしてもわからないことがあった。そんな彼女の思いを代弁してくれたのは、親友のキュルケであった。「だけど、なんでいきなりミスタに決闘を申し込んできたりしたのかしら? 直感で、彼のことを強力な風メイジだって知ったのだとしても、不自然よね?」「まったくじゃ。一体、カリーヌ夫人に何が起きたというのだろうか?」 そう言って、太公望に視線を移したオスマン氏。実は、彼だけは知っていたのだ。どうしてこんな事態が発生したのか。 もともと、太公望かオスマン氏がふたり揃って、歓待期間中にラ・ヴァリエール公爵夫妻へルイズの<虚無>について警告をする予定だった。そのための打ち合わせも、前もってしっかりと行っている。 朝食前のわずか一瞬、彼と接触した時に『ゼロ成功』とだけ伝えられたオスマン氏は、詳しい事情はわからないが、おそらく公爵の側から接触を受け、彼から話すことになったのだろうと判断していた。その結果、カリーヌ夫人が太公望のひととなりを見定めようとして、こんな申し出をしてくるに至ったのだ。 ちなみに。オスマン氏は『烈風』の正体を知ってはいたものの、これはトリステイン王国の秘事といっても過言ではない極秘情報である。よって、太公望にその事実を明かしてはいなかった。もしも、太公望がそれを知らされていたならば、もっと別の『道』がありえたのかもしれないが――残念ながら、そうはならなかった。「まあ、頑張れとしか言いようがないのう」 そう声をかけてきたオスマンに、「おのれ狸ジジイが……人ごとだと思って、気軽に言ってくれる……!」 こう呟き返すのが精一杯の太公望であった。 正直なところ、太公望は本気で困っていた。自分への評価をリセットしようとしていた矢先にこの災難。よりにもよって、このハルケギニア『最強』を謳われるメイジから挑戦を受けるなど、想定外にも程があるのだ。 ルイズやワルド子爵に文句を言おうにも無理だ。そもそも、これは外に出してはいけない情報だ。そういう意味では、ワルドに対する『口の堅さ』に関しての個人評価は高まる。ただ、単純に忘れていた可能性や、初対面である太公望に対する警戒が故に黙っていたことを考えると、まだ保留せざるを得ない。 もしタバサが断ってくれたとしても、受けざるを得なかったであろう。なにせ、あんな情報を伝えた直後なのだ。相手の人格を見極めるために、何らかの手段を取ってくるのは間違いない。 現に、ラ・ヴァリエール公爵は『魔法の話を聞きたい』という、やや迂遠な手段でもってコンタクトを取ってきている。おそらく、すぐに直接会談の機会が訪れるであろう。そう予期していた太公望であったが、カリーヌ夫人がこんな手を打ってくるというのは、はっきり言って策を練った段階では、予想の埒外であった。 しかもだ。これは『人格を見極める』ための一戦である。太公望お得意の搦め手は、絶対に使えない。かといって、自分を『おちこぼれ』と話した直後に、全力で戦うという選択肢も取れない。そもそも、余程のことがない限り、そんなつもりなどさらさら無い。 ――これらの条件を満たしうる策を検討せねばなるまい。まったく面倒な! この状況では、誰も頼りに出来ない。自分だけでなんとかせねばならぬ。ソファーの柔らかさだけに安らぎを感じながら、太公望は、必死に己の最大の武器たる脳を回転させる作業に戻った。○●○●○●○●「あのふたり、何者かしら? ハルケギニアの人間じゃないわよね。なんだか、根っこから違うように感じるの。とっても不思議だわ」 大きなワゴンタイプの馬車に乗り練兵所へと向かう道すがら、カトレアから唐突に投げかけられた言葉を受けたタバサとルイズは、心から驚いていた。ちなみに、この馬車の中にはカトレア、エレオノール、タバサ、ルイズの4名が乗り合わせている。これは、カトレアたっての希望であった。 妹のおかしな言葉に、エレオノールは首をかしげた。東方からの客人なのだから、ハルケギニアの人間でないことはわかりきっているだろうに。何故、カトレアはこんなことを言い出したのだろう。ただ、エレオノールは自分の妹が特殊な勘の持ち主であることをよく知っていた。だから、尋ねた。「それは、どういう意味かしら? カトレア」「ええと、何ていったらいいのかしら? あのふたりは、とても近い場所から呼ばれたんだけれど、でも、わたしたちとはすごく遠く離れた……そうね、まるで別の世界から来たような、そんな感じがするの」 静かに微笑みながら語るカトレアに、エレオノールは心底困ったといった顔を見せた。「ねえ、カトレア。あなたって、すごく勘が鋭いから、ちょっと試しに聞いてみたけれど。わたくしには、何を言っているのかさっぱりわからないわ。呼ばれたって、誰に? それに別の世界? もしかして、東方の端から、ミス・タバサに招かれたという意味かしら?」 眼鏡の端を押さえながら確認してきた姉と、不思議そうに自分を見つめるふたりの少女に向かって、カトレアは、まるで謎かけをする女神のような表情を見せた。「さすがに、そこまではわかりませんわ。そんな気がしただけで。特に、あの方! ミス・タバサの従者殿は、まるで神話の彼方からいらっしゃったみたい。あらいやだ、ごめんなさいね。わたし、すぐに間違えるのよ。もう気にしないで」 そう言って、ころころと笑うカトレアの顔を、タバサは驚愕の思いで見つめた。姉の不思議な<力>について良く知るルイズもびっくりしていた。カトレアの言うことが、完全に当たっていることに。 ハルケギニアとは全く別の世界。『地球』という星から<サモン・サーヴァント>によってやって来たふたり。ひとりはまだ<力>に目覚めていない状態だが、もうひとりは3000年前に、その世界の『神話』の終焉を見届けた伝説の英雄。 このひとは、一体何者だろう? 勘が鋭いなどという次元を遙かに越えている。念のため、あとでタイコーボーへ伝えたほうがいいだろう。胸の中でそう呟いたタバサは、ふいにそこが、どきどきと高鳴り始めたことに気が付いた。そうだ、これから行われるのはまさに『伝説』と『神話』の戦いなのだ! ――ハルケギニアの『伝説』にして、歴史上最強を謳われる『烈風』カリンと。 ――別世界・地球の『伝説』にして、時を越えて語り継がれる『軍師』太公望。 戦いを好まぬ彼には、心から申し訳ないとは思う。思うのだが……実際問題として。こんな対戦は、本来ならば、どんなに見たいと望んでも絶対に実現しない、まさしく夢のカードである。 一瞬たりとも、彼らの戦いから目を離してはならない。タバサは、そう心に決めた。○●○●○●○● ――そして舞台は、ラ・ヴァリエール公爵領・練兵場へと移る。 屋敷から、馬車で1時間ほどの距離にあるそこは、正直なところ荒野と呼んで差し支えないような有様であった。地面のあちこちがでこぼこしている。その傷跡から察するに、ごくごく最近使われたばかりなのであろう。「ま、太公望師叔なら大丈夫だろ? 英雄様の戦いってやつを見せてもらうぜ!」 などと、バシバシと自分の背中を叩きながら言ってくる才人に対し「ずいぶんと元気になったではないか。元はといえば、おぬしが原因とも言えるのだぞ!?」と、怒鳴りつけてやりたいのを必死に堪えながら、太公望は馬車を降りると、練兵場の中央へスタスタと歩いていった。 そして、ふたりの英雄は、50メイルほど互いの距離を開けると、向かい合った。「大切な恩人にして学者でもあるあなたに、このような真似をするのは、本来礼にもとる行為であることは、充分に承知しております。ですが、これは親として。いいえ、ルイズの母として! 成さねばならぬ試練とお考えくださいまし」 既に避難……もとい、高台に位置する観客席へ移動した者たち全てに聞こえるよう、高らかに宣言したカリーヌ夫人。色褪せた――しかし、一切手入れを怠っていないマンティコア隊の隊服に身を包んだ彼女に対し、太公望はこれまた大音声でもって応えた。「わかっております。わたくしと致しましても、ここで逃げるわけには参りませぬ。最下級ではありますが、ガリアより爵位を賜った、貴族のはしくれ。そして、わたくしはこう考えます。魔法が使える者を貴族と呼ぶのではありませぬ」 『打神鞭』をグッと握り締め、太公望は高らかに叫んだ。「敵に後ろを見せない者を、貴族と呼ぶのだ!」 その宣言に、満足げな笑みを浮かべるカリーヌ。いっぽう観客席では。「どうしてかしら。今の宣言を聞いたら、なんだかイラッとしたんだけど」「奇遇ですな、ルイズお嬢さま。わたくしめも、全く同じ気持ちに襲われたところです」 一段高い席に腰掛けて、そう呟いたルイズに追従したのは、側に控える才人であった。「学者の身でありながら、良い覚悟です」 気に入った。そう言いたげな顔をしながら呟いたカリーヌ夫人へ、太公望はニヤリと笑いかけた。「カリーヌ夫人。なにやら誤解をされておられるようですが、わたくしめは『学者』などではございませぬ」 不敵に笑いかけてくる相手に、怪訝そうな表情を見せるカリーヌ夫人。学者ではないのならば、彼はいったい何者なのであろう? だが、そう問いかける前に、彼女の夫であるラ・ヴァリエール公爵の声が響いてきた。「双方がそれぞれ名乗りをあげた後に、わしが『はじめ』と声をかける。それをもって試合開始の合図とする。ふたりとも、よいか?」 その声に、しっかりと頷くふたり。そして刻は、本文冒頭・後半へと戻る。「元トリステイン王国近衛魔法衛士隊所属、マンティコア隊隊長カリーヌ・デジレ・ド・マイヤール。二つ名の由来は『強く、激しく吹き荒ぶ風』。『烈風』カリン」 せっかく『学者』で誤魔化し通せると思っておったのに。だが、万が一ばれた時のことを考えると、ここはある程度の情報を開示しておかねばならぬ。まったく……何故に、わしはここにおるのかのう。太公望は、内心で再び『始祖』ブリミルへ呪いの言葉を吐いた。前もってタバサたちと打ち合わせをする時間が持てたのが、唯一の救いか。そう考えた彼は、高らかに名乗りをあげる。目の前の『伝説』に合わせ、トリステイン風に、かつハルケギニア調で。あえて、現在ではなく過去のそれを大声で叩き付けた。「大陸中央同盟国軍・周国<崑崙>所属、元同盟軍参謀総長、リョ・ボー退役元帥。二つ名の由来は『大公より知恵を望まれし賢者』。『太公望』呂望」 ――ラ・ヴァリエール公爵領内の練兵場を、風が吹き抜けていった。「今、彼はなんと言ったのかね? 同盟軍とか、元帥とか、なにやら不穏な単語が聞こえてきたような気がするのだが?」 広場に立つふたりをいったん制した後、そう訊ねてきたラ・ヴァリエール公爵の声に、タバサは簡潔にこう告げた。「彼は、軍を退役済みの元帥。総勢25万にのぼる同盟軍の参謀総長まで務めた、正真正銘の『軍学』の天才。指揮官としても超一流です」 その発言に、観客席が凍り付いた。その中で、もっとも早く起動に成功したのはギーシュであった。彼は、タバサのほうを向いて、叫んだ。「退役元帥!? 彼は、確か中将ではなかったかね!?」「それは、単なるわたしたちの推測。かつて師団を率いた経験があるという彼の言葉を聞いて、勝手にトリステイン流に当てはめて、中将と予測した上で……そう思い込んでしまっていただけ」 そのやりとりを聞いたラ・ヴァリエール公爵は、慌てて練兵場中央にいたふたりを呼び寄せると、改めてタバサに訊ねた。「彼はいったい何者なのかね? よかったら、教えてもらえないだろうか」 ラ・ヴァリエール公爵の問いに頷いたタバサは、こう切り出した。「実は、つい最近までわたしも知りませんでしたが……とある情報筋によって確証を得ました。彼は、東の大陸における『伝説の参謀』なのだと」 その上で……と、タバサはさらに先を続けた。「タイコーボーの名声が大陸中に響き渡ったのは、強襲をかけてきた敵軍70万に対し、自軍側は25万しか用意できなかったにも関わらず、ほとんど損害を出すことなく相手を封じ、逆に降参させるという策を総軍司令官へと提言し、成功させたことがきっかけです」 淡々と語るタバサを見ていたラ・ヴァリエール公爵の背中を、汗が伝い落ちていった。「彼は、軍人でありながら、まず相手に『交渉』を持ちかけることを信条とし、できる限り平和裏に、話し合いによって事態の解決を目指す変わり種としても知られていました。多くの者たちから臆病者との誹りを受けながらも『兵士や民の血を流さずに済むのならば、それがいちばんだ。敵を倒すことだけが軍人の仕事ではない』そう言って意志を曲げず、退役するまで態度を変えなかったのだそうです」 この言葉に、大きな反応を示したのはカリーヌ夫人だ。『話し合いによって平和裏に事態の解決を目指す』確かに軍人らしくない。ないのだが……。「とはいえ、本当に臆病なのかといえばそうではなく、高級将校にも関わらず、戦況に応じて前線に立つことも厭わなかったそうです。そして、周辺諸国に平和が戻った後、その絶大なる功績と、無駄に血を流さぬ戦いぶりを国王から評価され、大公の地位を打診されていたにも関わらず『そんな面倒くさい地位など不要』と、あっさりそれを蹴って軍を辞め、引き留める者全てを振り払って旅に出てしまったという……別の意味での『伝説』まで持っているのだとか」 これが本当ならば、確かに伝説になってもおかしくない。ラ・ヴァリエール公爵夫妻は、まずタバサを見……次いで、オスマン氏に視線を移した。「オールド・オスマン。あなたは、彼の正体を……?」 ラ・ヴァリエール公爵は、やや固くなった声でオスマン氏にそう問いかけた。「ええ、まあ……ただ、知ったのはごくごく最近でしたがの。例のフーケ事件の指揮ぶりを見て、これはと思い調査しましたから。何故か、彼は元の身分を晒すのを極端に嫌がっておりましたので、黙っておったまでですじゃ。こんな状況にならなければ、わしとしては本人の意志を尊重し、伏せておこうと思っておったのですが」 そう言って、深いため息をつくオスマン氏。それを見たラ・ヴァリエール公爵は、その場で崩れ落ちるのを必死になってこらえるのが精一杯であった。 ガリアの姫君が持つ情報網と、トリステイン王国最高のメイジにして、魔法学院の長という、卒業生たちからの情報を確保しやすい位置にいるオールド・オスマンが調査の上で知っているということは、彼が『東の伝説』とやらであるのは、ほぼ間違いのない事実なのであろう。そう悟らざるを得なかったからだ。 ――名乗りの際に正体を一部バラすので、話を合わせておいてくれ。これが、太公望からタバサとオスマン氏に、前もって依頼していた『策』のひとつであった。太公望が『伝説』であるのは間違いのない事実である。ただ、出身地が公爵たちの想定と違っているだけで、彼らは一切嘘はついていない。 もっとも、オスマン氏はタバサが語った太公望に関する諸々の内容については完全に初耳だったわけだが、それでもきっちり話を合わせられるのは、流石である。 ラ・ヴァリエール公爵は考えた。そうか、彼はガリア経由でハルケギニアへやって来たのか。その上で、何らかの手柄を立て、晴れてガリアの『シュヴァリエ』となり、その後になって彼の正体を知った者が、ミス・タバサ――いや、かのオルレアン大公の忘れ形見たるシャルロット姫殿下に従者として付けたのであろう。 そして、トリステイン魔法学院という隔離された場所に、姫と共に送り込まれたのだ。『ガリア王国東薔薇花壇騎士団』に入団させたのも、そうしておけば「姫に名誉ある騎士をつけているのだ」あるいは「東の伝説をわざわざ大公姫につけた」と、内部反対勢力、つまり『シャルル派』と呼ばれる反国王の派閥を抑えるための、都合のよい言い訳にしやすいからだろう。 公爵はさらに検討を重ねる。逆に、現国王が抱える派閥『ジョゼフ派』に対抗するため、国外勢力の手を借りるため『シャルル派』の手によって、有力貴族とのコネクションが作り易い、留学生の多い魔法学院へ遣わされた可能性はないだろうか? ……いや、その可能性は低いだろう。もしもそうであるならば、ここまで彼らが正体を伏せてきた理由がわからない。ルイズの件があるのだから、なおさらだ。おそらく、カリーヌがこのような行動に出たこと自体が、姫にも、彼にとってもほぼ想定外の事態であるはず。にも関わらず、わざわざ名乗りを上げた理由は――考えるまでもない。自分たちの身を守るためだ。おもに、カリンの手から。わしでもそうする。 そもそも、彼――大公の地位を蹴った上で国を捨て、旅に出たミスタ・タイコーボーが、ガリア王国に仕えようと考えた経緯。そしてガリアの姫君に、従者にまで身を貶めた上で付き従っている理由が全くわからない。何故そのような真似をしているのだろう? そんな風に、ラ・ヴァリエール公爵が深い思考の淵へと沈み込んでいたのとほぼ同時刻。『烈風』カリンこと、カリーヌ公爵夫人は、遠い昔を思い出していた。 まだ若かりし頃。情熱に浮かされるまま、立ち向かうもの全てに<力>だけで突撃し――失敗してしまった、あの時のことを。 幾度も上司たちから、今は作戦を立てている最中だから、こちらから絶対に手を出すなと忠告を受けていたにも関わらず、それを「臆病者」「騎士として相応しくない」と、なじった上に無視した結果、敵の奸計によって捕らえられてしまった。 あの時は、幸いにして衛士隊の仲間たちが助けに来てくれたからよかったようなものの、最悪の場合、彼女はトリスタニアの広場で、敵の策略により、街の住民たちから罵声を浴びせかけられる中、公開処刑されてしまうところだった。事実、彼女は処刑台に乗るところまでいってしまっていたのだ。 カリーヌは、慢心を自覚せざるを得なかった。ガリア王家の血を引く姫君に仕えているとはいえ、ただの従者。しかも、貴族として最下級の爵位である『シュヴァリエ』しか持っていない。おまけに本ばかり読んでいるような学者で、元おちこぼれ。自分が名乗った上で、ほんの少しだけ脅かしてやれば、だいたいの性格は掴めるだろう。怪我さえさせなければ、問題になどならないと考えていたのだ。なにしろ、自分は公爵夫人なのだから。 ところが。相手は自分の名を聞いて怯えるどころか、正々堂々。なんと真正面から受けて立ってきた。そこまでは良かった。だが――彼は学者どころか元軍人。それも、あの若さにして東方では『伝説』とすら呼ばれるほどの知謀を持つ、参謀総長であった。同盟国を含むとはいえ、25万の軍勢を用意できる超大国の大公位を与えられるほどの手柄を立て続けてきた、頭脳面における天才。 カリーヌ夫人は頭を抱えてしまった。彼自身が、そう語っていたではないか。自分は魔法を期待されていない。頭脳面でのみ評価されていた――と。それを完全に失念してしまっていた。自分が余計なことをしなければ、彼はこんな風に己の正体を明かしたりはしなかったはず。もちろん、国際問題に発展する可能性があるからだ。 にも関わらず、彼がわざわざ自分の正体について名乗りを挙げたということは……母親として、娘を案ずると言い放ったカリーヌの気持ちに応えてくれた……と、いうこともあるだろう。だが、それ以上に『烈風』と戦うという危険から、自分の身を守ろうとしたのだ。全てを知ってしまった今、もう彼と杖を交えることなどできはしない。昔ならばいざしらず、経験を積み、守るべきものが増えた今――彼女は、そこまで無謀な真似をするほど愚かではなかった。 うわあ……どうしよう。わたしってば、またやっちゃった。まるで騎士見習いであった当時のように、カリーヌはどんよりとした気持ちで、その場に立ち尽くしてしまった。 そんな彼らに、さも心配げな声をかけてきたのは、問題の主たる太公望であった。「あの……わたくしめは、名乗りこそしましたものの、別に元の地位がどうとか、今更そんなことを気にしたりは致しませぬぞ。今は、あくまでタバサさまにお仕えする、ただの従者なのですから。ささ、いざ尋常に勝負!」 実に爽やかな――だが、彼をよく知る者たちにとっては嘘くさいとしか言いようのない笑顔でもって公爵夫人へ語りかける太公望を見たタバサは、やっぱり彼は勇者じゃなくて魔王だ。そう思った。 いっぽう、主人から正式に『魔王』認定された太公望のほうはというと。もしもこのまま戦いになっても構わない。いや、現段階に限っていえば、むしろ戦ってみたい……そこまで考えていた。ハルケギニア最強のメイジの実力がどの程度であるのか、自分で直接見極めることができる機会など、他ではまず訪れないから。 つまり、戦いではなく観察がしたい。それが太公望の本音であった。よって、どちらに転んでも構わない。そう……戦いになっても、相手が『手加減せざるをえない』『自分が本気を出さなくてもよい』状況を作り出したのだ。 このような策をあえてとったのは――観察以外にも目的がある。もしもカリーヌ夫人が『バトルマニア』であった場合、歓待期間中が彼にとっての地獄になる可能性があったからだ。それを阻止するための牽制。もしも戦いになってしまった場合は、1回見られればそれで充分。太公望は、そう考えていた。 だが。そんな『魔王』の驕りと言っても過言ではない考えの隙をついた者がいた。彼女は伝説の勇者でも、雄々しき騎士でもなかった。「あの……ミスタ? 失礼ですけれど、ご無理はなさらないほうがいいと思いますわ。どうやって姿を変えていらっしゃるのかはわかりませんけど、本当はもう、80歳をとっくに越えたお年寄りなのでしょう?」 ――驕れる魔王の時を止めたのは、か弱き姫君カトレア嬢であった。