戦勝に沸くトリスタニアの町を、ひとりの少年がとぼとぼと歩いていた。「寒いな」 ウィンの月は日本でいうところの十二月にあたる。ハルケギニアが最も寒くなる時期なのだと彼は主人から教えられていた。 まるで少年――才人の心と連動しているかのように、空は灰色の分厚い雲で覆われている。そんな彼の思いとは裏腹に、町は熱気に包まれていた。 ――ダングルテール北部で起きたアルビオン艦隊との激突は、トリステイン側の劇的な勝利で幕を下ろした。王政府の広報誌はもちろんのこと、トリスタニアに点在する各新聞社もこぞって戦いの詳細を報じている。 ――新国王サンドリオン一世、即位までの経緯! ――『戦乙女』アンリエッタ姫、将兵たちに勇気と勝機をもたらす! ――天界より舞い降りし不死鳥が呼んだ奇跡! テューダー王家の復活! ――新旧王家の乗法魔法、アルビオン艦隊を粉砕! 再来週には未曾有の大勝利を祝う戦勝パレードが開催される。同時に、新国王の戴冠式が執り行われる予定だ。 それらに商機を見出した商人たちが、交戦中のアルビオン大陸を除く世界各国から王都に集い、商談に精を出している。主人についてきた護衛や従者たちが街を練り歩き、ダングルテールでの戦いに参加した兵士たちの健闘を称え肩を組み、杯を交わす。 大きな祝祭を前にした前祝いといった雰囲気が街中に漂っていた。「いいよな、みんな気楽に騒げて」 人混みをかきわけて移動しながら、才人は思う。(あそこまでやらなければ、ルイズと一緒にこの街を歩けてたのかな……) もちろん、助けに行ったことを後悔なんてしていない。 聞いたところによると、あの戦いにおけるトリステイン側の死者はゼロだったという。王軍の一部に重傷者が出たらしいが、命にかかわるほどではないそうだ。 もしも、あのタイミングで濃緑の不死鳥が現れなかったら――最低でも数百単位の死傷者が出た。それが王軍元帥の見立てだった。 とはいえ、別の意味でヴァリエール家がピンチになってしまったのも事実。 その場にいた訳ではないので又聞きになってしまうのだが、どうもゼロ戦に乗っていたルイズの姿を〝遠見〟の魔法で見ていた者が大勢いたらしい。 お陰で、やれ「国難の際に、己の身を投げうち国を護ろうとした立派な姫君」だの「『烈風』の再来」だの大騒ぎになった挙げ句、早速ルイズを持ち上げようとする動きが出てきた。(公爵はもともと王さまになりたくなんかなかったのに、ルイズを戦争の道具にしたくないからって理由で即位を決めたんだよな。教えてもらったときはさすがに驚いたけど……なら、余計にルイズが目立っちゃいけなかったんだ……) 当初はいまいち理解できていなかったが、エレオノールからブリミル教の成り立ちや、ハルケギニアの歴史について詳しく教えてもらった今ならわかる。(『始祖』ブリミルって、地球でいうところのイエスさまみたいなひとなんだよな) クリスマスにケーキを食べ、大晦日はお寺で鐘をつき、元旦に神社へ初詣に行くという、信仰に寛容過ぎる国で生まれ育った才人には想像しにくいことだが、国によっては聖典の一文を巡って論争になることなど日常茶飯事。それこそ『聖地』とされる土地を巡って、複数の国が長い間戦争していたりするわけで。(ようするに、ルイズが虚無ですってバラすのは、そういう国で「イエスさまが復活した」って宣言するようなもんだ) そうなれば、間違いなく大騒ぎになる。関連する宗教について、学校で習う程度の知識しかない才人でも、どんだけヤバイか想像できてしまう程に。(師叔がルイズの魔法を隠してたのも、バレたら絶対戦争になるって考えたからだよな。最初は意味わからんかったけど、今じゃ俺でもそう思ってるくらいだし) それほどに、宗教というものは人間の心に根差しやすいものなのだ。 そうした政治的感覚の鋭いヴァリエール公爵――もといサンドリオン一世は素早く事態の収拾に乗り出した。新たなトリステイン王は、『魔法学院の生徒ならびに教員・従業員は王政府の指示があるまで待機するように』 という勅命を無視してルイズが出陣したことを咎め、彼女を持ち上げようとする勢力を威圧し、さらに実の娘に対し、王の指示に従わなかった罰を与えることで功績を有耶無耶にしたのだ。 ……その役目を『烈風』が買って出た結果ルイズがぼろ雑巾になったわけだが、あまりの苛烈さが故に、おかしな動きを見せていた連中の牽制になったのは間違いない。 『鋼鉄の規律』の健在ぶりをアピールする役にも立ったようだ。(アレ見てもルイズをどうこうしようとするような貴族はただの馬鹿だよな……そんな連中、ルイズの父ちゃんと母ちゃんなら怖くないだろ) そういう愚物が行動したときにこそ悲劇が起こりやすいのだが、それはさておき。 才人は、ルイズが罰を受けるなら俺も一緒にと訴えたものの……ルイズ本人も、彼女の家族たちもそれを許さなかった。 ルイズとしては、「わたしの大切なひとたちを助けに行ってくれたサイトを罰するなんて!」 という理由から才人を庇ったのだが、両親と長姉の意見は違った。 何故なら、ここで一緒に罰するような真似をすればルイズと才人の主従関係が公となり――人間の使い魔というイレギュラーに興味を持った者たちが、詳細を調べる可能性が高いからだ。 やれ失敗だなんだと馬鹿にされるだけならまだしも、そこから〝虚無〟に辿り着く者がいないとも限らない。何せ、太公望とオスマン氏という実例があるのだから。 いずれはバレる話だろうが、できうる限り娘を災難から遠ざけたいと思う親心と自分の虚栄心を秤にかけるほど、才人は曲がった人間ではない。 普通なら、巻き込まれなくて良かったと喜ぶべきところなのだろう。けれど、才人はちっとも嬉しくなかった。あの戦いで僅かながら縮まったルイズとの距離が、大幅に遠ざかってしまった気がしたからだ。 その証拠に、ぼろぼろになったルイズの側にいることすら許されなかった。結果、仕方なくひとりぼっちで街を散策する羽目になったのだから、ため息のひとつもつきたくなる。(せめてきちんと告白しとけばよかったなあ……ほんと臆病だよ、俺) 騒がしい街中でひとり黙り込み、考え事をしながら人混みを掻き分けていく。俯き加減で歩いているうちに、ドンッと誰かの身体と衝突してしまった。「痛ぇなおい!」「あ、すみません!」 屋台の前で料理と酒を楽しんでいた、身体のがっしりした大男にぶつかったのだ。よそ見をしていたのは才人のほうなので、すぐに頭を下げ、謝罪の言葉を口にする。 おそらく傭兵か何かだろう、腰に剣を下げていた。寒風にさらされたむき出しの腕のそこかしこに傷がある。どうやらかなり飲んでいるらしく、酒臭い。周囲には、彼の仲間と思われる屈強な男たちが同じように料理をつまみながら陽気に騒いでいた。「なんだ兄ちゃん、シケた顔してんなあ。ほれ、戦勝祝いだ。一杯飲んでいけよ」 ぐいとグラスが才人の目前に突き出される。 ハルケギニアに来てからワインを飲むようになったが、あまり酒に強くない彼は一瞬躊躇したものの……素直に杯を受け取り、中身を一気に飲み干した。「はは、イケる口だな! もう一杯いっとくか?」「お、その剣! まさか、ボウズもダングルテールの戦に参加してたのか?」 お代わりを勧めてきた男とは別の傭兵が、デルフリンガーを見てそう訊ねてきた。勢いに圧されてしまい、思わず頷く才人。「そうか、そうか! 歳からいって初陣か?」「は、はい、そうです」 男たちはニカッと人懐っこそうな笑みを浮かべた。「そりゃあ運がよかったな! あんなすげえモン、普通見られねえんだぜ」「艦隊をばらばらにした魔法と、そのあとの猛反撃っすか? ほんとに凄かったですよね」「おうよ! 今まであちこちの戦場を渡り歩いて来たがな、あそこまで爽快な勝ち戦は初めて経験したぜ!」「ハッ、最初はえらい負け戦に参加しちまったってぼやいてたくせに、よく言うよ」「あんだとォ!」 男たちの楽しげな笑い声が辺りに響き渡る。彼らを見て、才人の心は少しだけ軽くなった。(良かった。俺なんて大したことしてないけど……もしかしたら、ここで笑ってるひとたちもあそこで死んでたかもしれないんだよな) 傭兵たちの一人が声を上げる。「それじゃあ、今度はボウズの初陣勝利を祝って、乾杯!」「乾杯!」 それぞれが、ワイングラスを片手に「乾杯!」と声を上げる。空になった才人の酒杯にも二杯目が注がれ、つまみのあぶり肉が手渡された。一緒になって「乾杯!」と叫ぶ。 と、そこへ新たな集団が乗り込んできた。「粋なことしてるじゃねえか! 俺たちも混ぜちゃあくれねえかい?」 才人を酒宴に誘った傭兵たちも上品とは言い難いが、彼らはさらにガラが悪かった。全員が薄汚れたシャツを身に纏い、腰に曲刀や短銃をぶら下げている。「ほれ、あっちの屋台で手に入れてきた戦利品もあるからよ」 麦酒(エール)の樽をぽんと叩いて笑みを浮かべたのは彼らのリーダーか何かだろうか。ぼさぼさに伸びた長い髪を深紅の布で乱雑に纏め、顔中に無精髭が生えた長身の男だ。 早くも酔いの回り始めていた才人は、とろんとした目で男を見た。(あれ? このひと、どっかで見たような……?) 傭兵たちは新たな客人たちを酒樽と共に歓迎している。何とか思い出そうとするが、酒精の影響で頭に霞がかかったようになり、必要な記憶が取り出せない。 そのうち、宴会騒ぎは周囲を巻き込んでさらに大きくなり――いつしか、飲み過ぎた才人はうつらうつらと船をこぎ始めた……。○●○●○●○● ――才人が目覚めた場所は、見知らぬ部屋の中だった。 いつのまにか、薄暗い室内でベッドに寝かされている。当然才人は混乱した。(どこだ、ここ……? 俺、確か街で飲んでて、それで……) 頭がズキズキする。どうやら許容量を超えて飲んでしまったらしいが、困ったことにその後の記憶が全くない。 周囲を見回すと、カーテンの隙間から光が漏れているのに気付いた。ベッドから降りて厚手のカーテンを開ける。外はすっかり日が暮れて、ふたつの月が輝いていた。「うわ、やべえ。もう夜じゃんか。てか、俺なんでこんなところで……」 と、後方から聞き慣れたカチカチという鍔を鳴らす音が聞こえてきた。「よう。目が覚めたみたいだね、相棒」「デルフ!」「俺っちと相棒を運んできた爺さんが、ベッドの横の机になんか置いていったぜ」 そう言われてサイドテーブルの上を見ると、呼び鈴と一枚の羊皮紙が乗せられていた。『お目覚めになられましたら、こちらのベルを鳴らして下さい。 ――パリー』「パリー? んん? どっかで聞いた覚えのある名前だけど……って、あああああ!」「どうしたね、相棒」「そうだよ! あの髭もじゃの……あれって確か……!」 大声をあげたためにベルを鳴らすまでもなく家の者に気付かれたようで、それからすぐにコツコツという上品なノックの音がして、見覚えのある老爺が入ってきた。「お気づきになられましたか? 殿下がお連れになったときは酷く酔っておいででしたが」 その人物は、テューダ家の従者を務めるパリーだった。 ――それからしばらくして。 飲み過ぎに効く秘薬をもらい、酒気を醒ますために風呂まで頂戴した才人は、着替えとして与えられたお仕着せに身を包み、建物の中を案内されていた。 道すがら、この屋敷がシャン・ド・マルス練兵場のほど近くにあり、トリステインの王室から貸し与えられたものだという説明を受けた才人は、周囲をきょろきょろと見回した。 ヴァリエール家も凄かったが、ここも素晴らしく贅沢なつくりをしていた。随所に設置された家具は上質ながらも嫌味のない品の良さがある。アンティークはもちろんのこと、現代インテリアに詳しい訳でもない才人でも理解できる程なのだから、相当なものだろう。 しばらく歩いていく途中、案内役の足が止まった。どうやらこの先に待ち人がいるようだ。勧められるまま扉を開け、中に入る。 応接間とおぼしき場所で、金髪の凛々しい青年が才人を待っていた。「やあ、久しぶりだね少年。いや、ミスタ・ソード……それともサイト、と呼ぶべきかな?」 本名を名乗った覚えのない才人は目を白黒させた。「あの、なんで俺の名前知ってるんですか?」「サンドリオン一世陛下から伺っているからね」「な、なるほど」 彼を屋敷に連れ帰り介抱してくれたのはウェールズ王子だった。 どおりで見覚えがあるはずだ。あの無精髭の男は以前ロサイスへの旅路で出会った空賊の頭――変装したアルビオンの皇太子だったのだから。 王子の話によると、彼は情報を集めるために変装し、部下を引き連れて祝祭気分の街中へ繰り出したのだとか。その途中、偶然傭兵たちと酒を酌み交わしている才人を見つけたのだそうだ。 宴会中の才人は夢うつつといった様子だったが……途中で席を立ち、ふらふらと歩き出したらしい。それも、王宮の方向へ。 その姿があまりにも危なっかしく、おまけに酒の匂いをぷんぷんさせた平民が宮廷の門をくぐろうとしたらどうなるか。たとえヴァリエール家の従者でも、厳しい叱責を受けるに違いないと考えた王子は、部下と共に才人を連れ、彼の主人宛に「具合が悪そうだったので、こちらで預かっている」という伝言をフクロウに託した後、この屋敷へ戻ってきたのだそうだ。「ありがとうございました。俺、お酒はあんまり強くないのに、飲み過ぎちゃって……」 ぺこりと頭を下げた才人に対し、王子は鷹揚に頷いた。「いやいや、この程度のことは気にしないでくれたまえ。僕……いや、我ら王党派は君に感謝と謝罪をしなければならない立場なのだから」 顔中に疑問符を浮かべている才人に、ウェールズは説明する。「君は我らを二度救ってくれたんだ。最初はアルビオンからの脱出時に、操舵士として大勢の命を運んでくれた。さらに不死鳥の繰り手として、王党派の誇りと名誉を守ってくれたのだよ」「俺、そんな大したことしてません。友達の身内が死ぬかもしれないって聞いて……それで、俺でも時間稼ぎくらいならできるんじゃないかって、そう思ったからで……」 才人の話を聞いたウェールズは、優しく微笑んだ。「その心持ちが貴族的、英雄的だと言うのだよ。誰に言われたわけでもなく、自らそうしようと決意し、危険な戦場に降り立った。フネの上で、死ぬのが怖いと話していた君が……だ」 そう言われて、才人は照れると同時に嬉しくなった。愛とは何たるかを教えてくれた王子の役に立てたばかりか、こんなふうに褒めてもらえるだなんて思ってもみなかったからだ。「なればこそ、我々は君に謝罪せねばならない。本来であれば、君はトリステインと王党派を救った英雄として讃えられる立場にあるというのに……その活躍が伏せられて、正しく評価されていない。それも、我々王室の事情がゆえに。これは由々しき問題だ」「いえ、俺は別に褒められたくて戦ったわけじゃないですから」 遠慮する才人に対し、王子は断固として告げた。「そういう訳にはいかない。少なくとも、君の戦果のうち竜騎士二十騎の撃墜だけでも、アルビオンの王立空軍なら爵位と領地が与えられてしかるべき活躍だった。それが、我々の名誉と誇りを守ることと引き替えに無かったことにされるなど、あってはならないのだよ」 論説に熱が入ってきたのだろう、ウェールズは身振り手振りを加えながら続ける。「あの濃緑の竜が伝説の不死鳥ということにされたことで、我らは民を置いて逃げ出した無責任な王族という存在から、最期まで勇敢に戦い、反乱軍何するものぞという勇気を世界中に見せつけ、後に『始祖』のお導きでトリステインの危機に遣わされた戦乙女の勇者(アインヘリヤル)、という扱いになった。そのせいで、君の功績が公にできないのだ」 彼の言わんとするところが、ようやく才人にも理解できてきた。王子さまは手柄を横取りしてしまったようで心苦しいのだ。「それなら気にしないでください。俺たちとしても、今の扱いのほうが助かりますし」「む、何故だね?」「その、あんまり目立ちたくないんです」「この国では平民が大きな手柄を立てるといらぬやっかみを受けると聞いているが、王が代わった今ならば、そんなことは……」「そうじゃないんです。えと、なんていうか……」 煮え切らない様子の才人を見ていた王子の顔が、はっとした。「なるほど。君はミス・コメット……ルイズ姫と王室を心配しているのだね。確かに、戦場で彼女の姿を見た者は多い。おまけに『烈風』の血を色濃く引くメイジとくれば、王位継承に関する問題が再燃しかねないというわけか」「……はい」 ルイズ姫。その呼称を耳にした途端、才人の胸がズキリと痛んだ。 もともとお姫さまのような存在だった桃色の髪の少女は、父親がトリステインの国王になったことで一般人には絶対に手の届かない――正真正銘、本物のプリンセスになってしまった。それを改めて思い知らされたから。(だけど、俺はあいつが……) と、そんな彼の様子を見ていたウェールズが訳知り顔で微笑んだ。「そうか。君が命を賭けてまで守りたいと願っていたのは、あの可憐な少女だったのだね」「あ、いや、それは……!」 言い訳しようにも全く説得力がない。なにしろ、才人の顔は熟れた林檎のように真っ赤に染まっていたのだから。「ふむ、そういうことなら話が進めやすい。既にサンドリオン一世陛下には本人の意志次第だと許可を頂いていることだしな」 ぽかんとした顔で自分を見つめる黒髪の少年に、王子は太陽のような笑顔で言った。「ミスタ・サイト。僕と一緒にフネに乗り、貴族を目指してみないか?」○●○●○●○●「父さまから聞いたわ! あんた馬鹿なの!?」「そ、そんな言い方ないだろ!」 ウェールズ王子との対談から三日後。 操舵士兼戦闘員として、一ヶ月ほどフネに乗ることを決めた才人はトリスタニアの王宮に登城した――のだが。ルイズと顔を合わせた途端、不毛な言い争いに突入してしまった。 なお、防諜用の魔法がかけられた部屋なので大声を出しても問題ない。「なんでそんな大切なこと、勝手に決めちゃうのよ!」「んなこと言ったって、急ぎだったし……俺ひとりじゃここに来られないだろ!」 日が開いてしまったのは、才人ひとりでは王宮に入れないからである。普段の彼はトリスタニアにあるヴァリエール家の下屋敷で寝泊まりし、必要なときだけ執事長のジェロームたちと共にお城へ行く。平民という身分もさることながら、主人と使い魔というルイズとの関係性をできるだけ悟られないようにしつつ、宮廷事情に慣れさせる――そういった配慮からだ。「だったら、フクロウを飛ばせばいいじゃない!」「お前と俺がやりとりしてるってバレたらマズイんだろ!」「う~ッ……」 ルイズは才人の行動が全く理解できなかった。(アルビオン遠征から戻った後、あんなにショック受けてたくせに……なんでまた戦場へ行こうだなんて思ったのよ! そりゃあ、ウェールズ殿下は死ぬ気なんてないみたいだし、あくまで密輸船を叩きにいくだけなんでしょうけど……) ダングルテールでの戦いの後。サンドリオン一世は即座にラ・ロシェールの港に検問所を設け、アルビオン大陸への物資・金銭の持ち込みを禁じた。『レコン・キスタ』を空で孤立させ、敵を干上がらせる作戦に出たのだ。 そうなると、当然密輸という手段でひと儲けを企む者たちが出る。しかし、トリステインの艦隊はほぼ壊滅。新造艦を急ピッチで建造中だが、最低でもあと一ヶ月はかかる見込みであり、出せるフネはというと、新兵の訓練用に残されていた僅かな練習艦のみ。 ゲルマニアとの外交交渉はトリステイン優位で進んでいるものの、未だ再締結に至っていない。そこで、王党派の『イーグル』号改め『フェニックス』号に白羽の矢が立ったのだ。 風石や弾薬の適時補給、拿捕した密輸船と積み荷を適正な価格で買い取ること、兵士たちに所定の給与が支払われることなどを条件に、テューダー家は『フェニックス』号投入を了承した。 とはいえ、王党派として密輸船を狩りに出かけたところを、アルビオンの残存艦隊に発見されて追い回された――などという展開になったら目も当てられない。 そこでウェールズ王子と王党派の貴族たちは、以前のように空賊を装うことで貴族派連盟の目を欺くこととし、夜を徹して『フェニックス』号の外壁改修を行っていたらしい。 しかし、全く危険がないわけではないのだ。目立つ護衛を引き連れて密輸を行う馬鹿がいるとは思えないが、空の上では何が起こるかわからない。それに、万が一アルビオン側にバレたら間違いなくその場で戦闘になるだろう。 才人を危ない目に遭わせたくない一心で、ルイズは声を荒げた。「誰がなんと言おうと、わたしは反対よ! だいたい、なんであんたがそんなことしなきゃいけないわけ? 王党派には腕のいい航海士がいるって話だったじゃないの!」 そんなルイズに反論する才人。「航海士はともかく、操舵士の数がぜんぜん足りないらしいんだ。俺が加われば交代して休める人数になるから……それだけ多く出撃できるんだってさ」「そ、そんなの、トリステインの操舵士を雇えばいい話だわ!」「ああ、なんかアルビオンのフネとトリステインのは仕組みが全然違うからダメなんだと」「だったら、く、訓練よ! 訓練すればいいわ!」「見習い乗せる余裕があるなら、そもそも俺なんかに声かけねえだろ。それに、ある程度戦えるヤツじゃなきゃ話になんねーし」「だ、ダメよ! 絶対ダメ!」「なんでだ? 王子さま、困ってるんだぞ。トリステインだって、王党派の手助けがなきゃ密輸の取り締まりが難しいって話じゃねえか。それに、ずっと操舵士やるわけじゃない。あくまでトリステインのフネが揃うまで。ほんの一ヶ月だけだ」 才人の言うことは正論だ。しかし、まだ蕾で花開く前の少女特有の我が儘な独占欲と、彼の身を案じる心がそれを認めない。「そ、そんなのわたし、許さないもん」「お前の父ちゃんからオーケー出てるし。むしろ行ってこいって背中押されたし」「ふざけないで!」「俺は最初っから真面目だっつの!」 側にいて欲しい、あんたに傷付いて欲しくない。一ヶ月も会えないなんで嫌。プライドが邪魔をして、素直に本音を口に出せないルイズはとうとう癇癪を起こした。「あ、あんたはわたしの護衛でしょ! わたしを守るのが仕事なの!」「それが! できねえから! フネに乗るっつってんだろーが!!」 だんだんイライラしてきた才人の声音が一オクターブ上がる。この主従、揃って短気なのだ。「意味わかんない!」「だーッ! なら説明してやるよ! 平民の俺はひとりじゃ城に入れないし、お前の側にもいられない! 目立ってもダメ! だから、王子さまはフネに乗れって言ってくれてんだよ!!」「なんでそうなるのよ!」「一ヶ月お城に来なけりゃ、戴冠式だのパレードの準備だので忙しくて、俺なんてすぐに忘れられちまうだろ。ただの平民だからな!」「そんな理由なら、しばらく下屋敷にいればいいじゃないの!」「それだけじゃねーよ! フネに乗れば貴族にしてくれるって、王子さまとアルビオンの王さまが約束してくれたんだ!!」 ルイズはカッとした。わたしの気持ちよりも、貴族の地位が……お金のほうが大切なのか。少女は怒りのあまり、思ってもいないことを口にする。「ふ、ふん。ああ、あんた馬鹿だから、騙されてるんだわ! へ、へへ、平民が、貴族になんて、なれるわけないじゃない!」 才人はムッとした。彼はウェールズ王子の生きざまに憧れ、尊敬すらしていた。空へ誘われて嬉しかったのも事実だ。そんな人物を嘘つきだと貶められて、黙っていられる彼ではない。「王子さまも王さまも、嘘つくようなひとじゃねえよ! お前だってわかってんだろ!?」「そんなこと言ったって、アルビオン王国は滅亡してるのよ!? 領地はぜんぶ貴族派連盟に盗られて、お金もほとんど置いて来ちゃって……そんなんで貴族になれたとして、どーすんのよ!」「金も領地もいらねえよ! 今の俺に必要なのは貴族っつう肩書きだけだ! 王党派になるつもりなんかねーし! それも話して、納得してもらってるし!!」「はあ? 訳わかんない。何がしたいのよ、あんた!」(ああもう。こいつ、頭いいくせになんでわからねえかなあ!) 才人は苛立ちのあまり、エレオノールや太公望のように、目の前にいる少女の頬をつねりあげたい衝動に駆られた。無駄に興奮しているせいで、起承転結をきっちり説明できていないのが悪いのだが……そのことに気付いてすらいない。「そんくらい察しろよ、この馬鹿!」「誰が馬鹿よ!」 大声で怒鳴る才人。真っ赤な顔をして、瞳は怒りに燃えていた。「お前に決まってんだろ! だいたい、誰が好きこのんで戦おうとしてると思ってんだよ! 軍艦は好きだけど、戦争なんか大ッ嫌いだ! 貴族にだって、なりたくなんかねーよ!」「だったら、最初から行かなきゃいいじゃないの!」 ルイズは怒鳴り返した。大声を上げ続けてきたせいで、ぜえぜえと肩で息をしている。(なによ! 心配してあげてるのに、そんなに怒鳴らなくてもいいじゃない。三日ぶりに会えてほんとに嬉しかったのに、サイトと話すのが楽しみだったのに……わたしの気持ちなんて全然わかってない! それって使い魔……パートナーとしてどうなのよ!) いっぽう、才人はぷるぷると肩を震わせていた。(ふ、ふん! ほら見なさい。わたしのほうが正しいんだから! 何か言い訳を考えてるんでしょうけど、これ以上馬鹿なこと言うようなら、久しぶりに蹴りでも入れてやるわ) ところが。才人の口から飛び出た言葉は――ルイズにはもちろんのこと、本人にとっても完全に想定外のものだった。「……なんだよ」「なに? ハッキリ言いなさいよ!」「好きだから! 一緒にいたいんだよ!」 真っ赤な顔をしてそう言い放った才人。しかし、ルイズは何を言われたのかわからなかった。(い、今、サイト……なんて言ったの? 好き? ううん、そんなはずない。聞き間違いよね)「お前が好きなんだよ、俺は! 顔見てるだけでドキドキすんだよ! 守りたいと思ってんだよ! ずっと側にいたいんだよ!」 ルイズの全身を巡る血液がかあっと熱くなる。ばくばく鳴る心臓の音がうるさい。「けど、貴族じゃないと自由に城に入れねえから王子さまが気を利かせて、フネで大手柄立てたことにしてくれるっつってんだ! 俺が竜騎士撃ち落として助けてくれたからってな! 自分たちのせいで俺の手柄取っちまったようなもんだから、そのくらいはさせて欲しいんだって! 王子さまだけじゃねえ! 王さまも、王党派の貴族のひとたちも、みんなそう言ってくれてんだよ!」「え? え?」「そもそもお前さ、なんで俺が戦ってきたと思ってんの? お前のおっかねえパパとママ相手に、死ぬほど辛い稽古続けてた理由わかってんの? お前が好きだからだよ! 何とも思ってねえ女のために、そこまでやる訳ねえだろうが! そうじゃなきゃ空戦とかヤバそうだし参加しねえよ! 魔法学院に戻ってごろごろしてるっつうの! いい加減気付けよ!」 そこまで一気にまくし立てたところで、才人はようやく気がついた。(ちょ、俺、何言ってんの? なんで勢いで告白なんかしちゃってんだよ! 今はそういう話してたんじゃねえだろうがああああああ!!) おそるおそる目の前の少女を見ると、両手で顔を覆い隠し、床にへたり込んでいる。指の隙間から僅かに見える頬が、夕焼け空のように赤く染まっていた。(うわああああ! やっちまった! もうおしまいだあ! 馬鹿! 俺の馬鹿! 馬鹿犬!) がっくりと床に突っ伏した才人。彼の顔も、思い人と同じように紅潮していた。 ――両者ともに無言のまま時は過ぎ。 ようやく我に返ったルイズだったが、もう何が何だかわからなかった。相変わらず心臓はばくばく言ってるし、頬も熱を帯びている。 唯一理解しているのは、才人から好きだと告白されたことだけ。(ど、どうしよう……こんなとき、どうすればいいの……?) 喜びたいけど喜べない。才人の言うとおり、彼は平民。ルイズは一国の王女さま。でも、だからといってこの胸の高鳴りは押さえられそうにないわけで。 ルイズはようやく「あなたが羨ましい」と言っていた、アンリエッタの真意が理解できたような気がした。身分が邪魔をして、恋する相手に告白されても素直に喜ぶことすらできないなんて。(でもでも、さ、サイトがほんとに貴族になれるなら……) 桃色の髪の姫君は相反する想いを制御するかの如く、身体をぷるぷる震わせながら才人の側へ歩み寄り、項垂れている彼に声をかけた。「ね、ねえ……わたしが好きって、ほんと?」「お、おう。ほんとだ」 蚊の鳴くような声で答える才人。「嘘だったら、ぶっ飛ばすわよ」「嘘じゃねえし」 普段通り、ぶっきらぼうに答える才人。けれど、ルイズはいつもの態度にすら不安を覚える。(好きって言ってくれたけど、本気? こいつ、魔法学院のメイドだのメイドだのメイドにモテるみたいだし……しょっちゅうキュルケとかメイドとかの、む、むむ、胸の、し、脂肪の塊を、じ、じろじろ見てるし! 大きいのがこ、好みなんじゃないの!?) 思い出したらなんだかイライラしてきた。 ルイズは無駄な脂肪が一切ついていない、若鹿のようなすらりとした体型だ。つまり、彼本来の好み(と、思われる)スタイルからはかけ離れている。それがまた、彼女が才人の告白をイマイチ信じ切れない理由だった。 あー、とか、うー、とか唸りつつ、どうにか考えをまとめたルイズは、全身に宿る気力という気力を全て声に変え、言葉を絞り出す。「な、なら……本当だってこと、証明して」 その言葉と共に、才人の両肩にルイズの手が乗せられた。(え? 何? どゆこと?) 混乱したまま才人が顔を上げると、目の前にルイズの顔があった。宗教画のように美しい少女の両瞼は閉じられており、静かに何かを待っている。 小鳥のくちばしのように控えめに突き出された、この口元は。(あ……俺、死ぬかもしんない) こんな夢みたいなことされたんだから、俺はきっともうだめなんだ。なら、せめてあの世へ行く前に、この可愛らしいご主人さまと……などとブツブツ呟きながら覚悟を決める。前にもしたことだが、あのときルイズは眠っていた。だけど、今回は――。 ……端から見ると、才人の挙動はかなり怪しい。 壊れ物を扱うよりも慎重にルイズの頬に片手を添えた才人は、静かに唇を重ねた。「ん……」 ルイズから甘い鼻声が漏れる。少女の唇は温かく、柔らかかった。 口内の奥まで貪りたいという欲望を決死の思いで抑えつつ、才人はそっと少女から顔を離した。それから、ようやく目を開けた少女をまっすぐ見つめて告げる。「好きだ。嘘じゃない」 その言葉が耳に入った途端、ルイズの全身からぐにゃりと力が抜けた。だが、彼女の奥底に根を張るプライドが、なけなしの気力を振り絞って崩れ落ちそうになるのを耐えた。「わ、わたしは……」 そこで口籠もってしまうルイズ。(好きじゃないって続ける? 何とも思ってないって? けど、それは……) プライドと本音の狭間を彷徨う少女の耳に、とどめの一撃が突き刺さる。「お前がどう思ってようと、俺はお前が好きだ」「あ、あう……」 真正面から投じられた直球。ど真ん中ストレート。バッター・ルイズ、アウト。ベタだが、彼女はこういうベタベタな展開に弱い女の子だった。「し……」「し?」「信じてあげる。あんたが、わ、わたしのこと、好きなんだってこと」 そう言葉にしただけで、ルイズの身体が熱くなる。本人は気付いていないが、顔も真っ赤だ。「ほんとか?」 ミルク皿をもらった子犬のように幸せそうな才人の笑顔を見て、またしてもルイズの全身がぐんにゃりとした。(なんなの、もう! なんでこんなに可愛い顔すんのよ、こいつ!) そのまま抱き寄せて頬ずりしたいのをすんでの所で我慢したルイズはそっと才人の手を取ると、白く細い指先を割り込ませ、きゅっと握った。それから、じっと少年の目を覗き込む。「あ、あのね、あんたは護衛。わたしの盾なの」「うん、知ってる」「危ないこととかさせたくないの。側から離すのも嫌。だ、だって、何かあったらわたしのこと、守れないでしょ?」「そうだな」「けど、あんたがどーしてもやりたい、って言うなら……もう一度最初から説明しなさい。それできちんと納得できたら、ゆ、許してあげてもいいわ」 言い終えたルイズは才人の手を引き、テーブルのほうへ誘導しようと軽く引っ張る。握られた手の指はしっかりと絡められたままだ。その上、時折ちらちらと才人の顔を伺っていた。 ぐはっと声にならない声を上げ、身悶えする才人。(なんなの、なんでご主人さまこんな可愛過ぎることすんの? やっぱり俺、死ぬのかな……) ぐいと力強く少女の身体を引き寄せ、思い切り抱き締めたいのをどうにか堪えた少年は、大人しく手を引かれていく。 ――翌日。 才人は隠された港から、改装済みの『フェニックス』号に乗って大空へ飛び立った。 見送ることはおろか、王宮から一歩も外に出られなかった第三王女・ルイズは考える。精一杯できることをして、自分の側にいようと努力してくれた少年に恥じぬように。 もう一度――彼と。いや、彼だけでなく、みんなと共に歩むための方策を――。