月明かりと星だけが辺りを照らし出している中、一人の女性が優雅に歩いていた。雪のように白い肌と絶世の美貌はどこか人間離れしている。だがそれは間違いではない。何故なら彼女は人間ではなかったのだから。
四天魔王 『絶望のジェロ』
それが彼女の名前。魔界を統治する四人の王の一人。その力はかつて闇の頂点とまで言われた先代キングすら超えるまさに怪物。
「…………」
それを示すようにジェロの周囲には二つの異変があった。一つがその足元。そこはサザンベルク大陸の海上。つまり水の上。にもかかわらずジェロは悠然とその上を歩いている。その魔力によって海を氷の道へと変えることによって。ジェロが歩いて行く先に向かって海は氷山へと姿を変えて行く。しかもそれはジェロが意識して行っていることではない。ジェロはただ歩いているだけ。つまり無意識で放っている魔力と冷気だけでこれだけの事態を引き起こしていると言うこと。四天魔王の名に相応しいデタラメぶりだった。そしてもう一つ、ジェロの他にその光景に目を奪われている存在がいた。
『へえー、やっぱり何度見ても面白いわね。勝手に海が凍りついて行くなんて。これなら船も必要ないわね!』
どこか興奮した、楽しげな声が響き渡るもその場にはジェロ以外には人影は見当たらない。声だけが辺りに木霊するもその声もジェロ以外には聞き取ることはできない。何故ならその声の主は人間でも亜人でもないのだから。
「……そんなに面白いものでもないと思うけれど。相変わらず騒がしいのは変わらないわね……」
『な、何よ、いいじゃないちょっとぐらいはしゃいだって! 他の子達と違ってあたしはずっと魔界にいたんだから!』
どこか冷たい視線と共にジェロは自らの首元にかけられている石に向かって話しかける。それに応えるように石は怪しく光を点滅させている。
母なる闇の使者シンクレアの一つ 『バルドル』
それがその魔石の正体。最後の五つ目のシンクレアであると同時に全てのシンクレアの頂点に位置する存在だった。
「……それがあなたの役目でしょう。本当なら私に着いてきていることも問題よ」
『うっ……それはそうだけどあなたに言われたくないわ! あなただって魔王としての役目を放棄して二万年も眠ってたじゃない!?』
「あれは大魔王の器が現れるまで待っていただけ。あなたの個人的な理由とは違う。一緒にされるのは心外だわ……」
『そ、そこはかとなく馬鹿にされてる気がするけどまあいいわ……そうよ! あたしはマザーに会いたいだけなんだから! ああ、早く会いたいわ、マザー……五十年ぶりになるのかしら? しゃべるようになってるらしいし、もうすぐ会えるのが待ち遠しい……ね、ジェロ、あたしの恰好どこかおかしくない? 埃はついてない?』
「…………」
『え? 何? ガン無視? ひょっとしてそういう遊び? ちょっと、何とか言ってよ……っていうかその真顔怖いから何とかした方がいいと思うわよ』
「……そう。そんなに魔界に帰りたいならすぐ送り返してあげる。しゃべるしか能がない石なんて必要ないわ……」
『っ!? ま、待ちなさいって!? ちょっとした冗談よ、本気にしないでよ! もう少しで目的地に着くわ!』
「……ならいいわ。役に立たないならすぐに送り返すから頭に入れておきなさい」
『はい! ……ってあれ? 何であたしこき使われてるの? あたし、一応シンクレアの頂点なんですけど。もしかしてジェロ、あたしのこと嫌い?』
「そんなことはないわ。好きでもないけれど……」
『そう……ってそれってどうでもいいってこと!?』
バルドルが悲鳴に似た声を上げるも全く意に介すことなくジェロはそのまま歩みを進めて行く。全くかみ合っていない、バルドルだけが空回っているような光景。それがここ半年のジェロとバルドルの日常。始まりはジェロが一人、大魔王の器であるアキを迎えに行くと言いだしたこと。それを耳にしたバルドルは半ば強引にジェロに同行していた。無論アキが持っているシンクレアであるマザーに会いに行くために。だがその道のりは容易な物ではなかった。すぐ会えると思っていたもののジェロはすぐにアキを迎えに行くことはなく魔界と人間界を特に目的もなくぶらぶらするだけ。しかもジェロは性格上話しかけない限り口を開くことがないためひたすらバルドルがしゃべり続けなければならないという状況。そしてジェロ自身は氷の女王とでも言うべき女王気質に加え冷酷な性格。シンクレアであるバルドルへの忠誠も配慮もあったものではない。今では完全に力関係はジェロが上でバルドルが下。どうしてこうなってしまったのかバルドルは後悔するも持ち前の天然さで何とか乗り越えて(現実逃避ともいう)いるのだった。
『はあ……ま、まあいいわ。あんまりよくはないけど……で、何でそのドリューとかいうのからわざわざシンクレアを手に入れなきゃいけないの?』
「単なる手土産よ。ただアキを迎えに行くだけでは能がないしね……」
『手土産ねー。でも四天魔王のあなたがそんなことするなんてルール違反じゃない? 一応あたし調停者だしそういうのを見過ごすわけには』
「そういえばどこかのシンクレアに肩入れしているシンクレアがいた筈なのだけれど、それは構わないのかしら……?」
『ま、それはそれ、これはこれよね! 人生あきらめが肝心よねー!』
どこかやけくそ気味のテンションでバルドルは全てを聞かなかったことにする。職務放棄、使命を投げ出すに等しい行為だがバルドルに迷いはない。後ろめたさもあるがそれ以上にこの絶望さんに逆らえばどうなるかの方が問題。最悪本気でその辺に投げ捨てられかねない。ドリューが持っているシンクレアに同情しながらも数秒でそれを切り捨てバルドルは気を取り直しながらジェロへと問いかける。
『ごほんっ! まあそれは置いておくとして何でさっさと担い手の所に行かないわけ? 別に会いに行くだけならすぐにそのゲートで行けるでしょう?』
「マザーとの約束よ。迎えに行くのは一年後だったしね」
『ふーん、まあその律義さはあなたらしいと言えばらしいけど……それで、その担い手ってのはどんな奴なの? 会ったことあるんでしょ?』
バルドルはどこか納得いかないといった雰囲気を纏いながらも担い手であるアキの話題へと移る。ある意味マザーが選んだ相手でもあるのだから。そして最終的には自分達全て、エンドレスを統べる可能性もある存在。その情報をバルドルは得ようとするもそれは
「髪は金髪。顔には切傷。性格はヘタレであり基本的にはいじられ役。言動は粗暴だが極まれに見せる優しさもある。DBに愛される才能もあるがある意味DBを愛する才能であると言える。戦うことを避ける傾向があるが追い詰められれば力を発揮するタイプであり実戦でこそ成長する傾向がある」
『…………え?』
ジェロのどこか機械的な言葉の羅列によってバルドルは呆気にとられてしまう。だがそんなバルドルの様子に気づくことなくジェロはまるで何かのレポートを呼んでいるかのような流れでしゃべり続ける。
「服装は黒が似合うのでそれを強要している。女性の容姿は年上が好みであり巨乳好き。性格はお淑やかな性格が好みのようだが本当は女王気質の女性が好きであるに違いない。最近は扱いがぞんざいになっているが愛情の裏返し。何だかんだ言いながら自分のことを気にしてくれるのが伝わってくる。それに合わせて素直になりたいもののやはり告白はアキの方からしてほしいのだが……」
『ちょ、ちょっと待って!? ストップ、ストッ―――プ!?』
バルドルはしばらく呆然としながらジェロの言葉を聞いていたもののふと我に返り悲鳴にも似た声でジェロを制止する。もはや体裁も何もあったものではない。それ以上はとても聞いていられないような凄まじい内容。
「……何かしら。まだ内容の半分も話していないのだけれど……」
『まだ半分!? いや、そうじゃなくて! 一体それは何なの!? っていうか最後の辺はもはや個人的な願望になってるんだけどどういうこと!? あなた担い手とは一度しか会ったことなかったんじゃ……』
「ええ。だからこれはマザーの話していた内容よ。儀式で力は確認したのだけれど人となりは把握しきれなかったの。マザーに聞いたら快く聞かせてくれたわ」
『そ、そう……ちなみにそれはどのくらい?』
「一晩中よ。まだ話し足りなかったみたいだけれど途中でアキが目覚めたのでそれ以上は聞けていないわ」
『……まさかとは思うけどそれを全部鵜呑みにしているわけ?』
「……ええ。マザーが嘘を言っているようには見えなかったしね。何か気になることでも?」
『いえ、もういいわ……十分分かったから……』
げんなりしながらバルドルはジェロの話を何とか中断させる。まるで他人の恋人自慢を永遠と聞かされたかのような有様。マザーもまさかそれがジェロの口から他人に漏らされるとは想像だにしていなかっただろう。黒歴史ノートを他人に読まれてしまったに等しい醜態。しかもその内容をジェロは一字一句逃さず記憶している。まさに絶望の二つ名に相応しい所業。加えてジェロはそのマザーの主観まみれの惚気の内容を全て真に受けてしまっているらしい。ある意味子供のような純粋さ。氷の女王とは矛盾した要素。だがそこでようやくバルドルは悟る。それはこれまでのジェロの行動。いくら大魔王の器に近い者が現れたとしてここまでジェロが入れ込んでいるのにバルドルは疑問を感じていた。わざわざ半年前にもかかわらず出迎えに動き、手土産にはシンクレアを持っていくという待遇。ゲートを使わず自分の足で向かうという非効率さ。それは
『そう、そうだったのね! 『愛』! 『愛』なのね!?』
「……愛? 何を言っているの……?」
『もう、とぼけたって無駄なんだから! そのアキって担い手にラブってことなんでしょ!? まったく、そうならそうと言えばいいのに。あ、心配しなくてもあたしは『愛』には平等よ♪ マザーも加えた三角関係も面白そうね。ここはあたしも混ざって四角関係もいいかも……』
「…………」
『そうと決まればさっさとマザーの所に行きましょう! さあ、ゲート早く用意を……あら?』
まるで恋する乙女を見つけた女子高生のようなノリでバルドルは興奮しながらジェロが持つゲートに命令し移動せんとする。本当ならこのままドリューの元に向かうべきなのだがそんなことなどどうでもいいとばかりにバルドルは騒ぎたてる。その名の由来通り愛に関してはバルドルの右に出るものはいない。しかもそれがあのジェロの話なのだから。だがそんな中、音もなくバルドルは胸元から外されジェロの手によって掴まれる。その意味を問うよりも早く
「そう……いつからあなたは色欲を司るようになったのかしら。このまま海に落とされるか氷漬けにされるか好きな方を選びなさい」
絶望の声と共にバルドルはそのまま海に向かって晒される。バルドルはジェロの表情によって凍りつく。そこには全く感情が見られない。だがそれが何よりも物語っていた。自分が調子に乗りすぎてしまったのだと。同時に戦慄する。それはジェロの言葉が冗談でも何でもなく本気であったことに。ジェロなら間違いなくそれをやりかねない。
『あ、あはは……じょ、冗談よ……っていうかそれって選択肢じゃなくない……?』
「海に落とした上で氷漬けにする選択肢もあるけれど……」
『何それ!? 助からないこと前提なの!?』
あんまりにもあんまりな選択に絶叫しながらも何とか頭を下げる(気持ちの上で)ことでバルドルは九死に一生を得る。無論シンクレアであるバルドルであれば海に落とされても氷漬けにされても壊れることはないのだがそれでも精神衛生上は宜しくない。シンクレアの土下座というあり得ない行動によって何とかその場は収まる。もはやシンクレアの威厳も何もあったものではない。ある意味アキとマザーとは真逆の関係。
『まったく……からかうのも命賭けなんてやめてよね……ま、それはともかくとしてあなたの男性の好みって何なの? メギドたちからも聞いたことないんだけど……』
「そんなものはないわ。大体そんなことは考えたこともないしね……」
『確かにあなたはそんな感じね……でも何か一つぐらいあるでしょ?』
何とか気を取り直しながらバルドルはジェロに問いかける。いかに四天魔王とはいえジェロはその中でも紅一点。他の三人に比べればそういった話もできるのではという狙いもあったのだがある意味予想通りの答えにバルドルは呆れるしかない。だがあきらめきれないのかバルドルは粘り続ける。だがそれは
「そうね……とりあえず私より強くなければ話にならないわね」
ジェロのある意味当たり前と言えば当たり前の言葉によって粉々に打ち砕かれる。自分よりも強い相手。女性とすれば当然の考え。だがこと彼女に関してそれは超えられない絶望の壁となり得る。
『…………そう、でもそれっていないってことにならない? いや、なんていうか物理的に。あえて言えばウタぐらいなんじゃ』
「あれにそんな感情を抱く程私は耄碌していないわ。そんなことになるぐらいならまだ永遠に眠り続ける方がマシね」
『…………』
あんまりなジェロの言葉にバルドルはここにはいないウタに同情を禁じ得ない。無論、ウタに聞いたとしても全く同じ答えが返ってくるのは目に見えている。ウタにとっては戦い以外は全て意味のない些事なのだから。
「……無駄話はここまでね。あれがドリューがいる船ね」
『え、ええ……でもどうやらあそこには二つのシンクレアがいるみたい。これは……ヴァンパイアとラストフィジックスね』
「二つ……担い手が二人いるということ?」
『いえ、どちらも同じ担い手の物よ。ドリューという者が他の担い手を倒して手に入れたってところね。どうする? このままじゃ手土産が二つになっちゃうけど……』
バルドルはどこかあきらめにも似た空気を感じさせながらも一応ジェロに問う。シンクレア一つだけならまあ言い訳はつくものの二つとなれば明らかにマザーに、その担い手に加担することになる。一応調停者として公正な儀式を行わなければならないバルドルとしてはできれば避けたい事態。個人的にはヴァンパイアとラストフィジックスからどんな罵詈雑言を浴びせられるか分かったものではない。だがそれは
「いいえ、構わないわ……どちらにしろ全てのシンクレアはアキの元に集う。遅いか早いかの違いよ……」
氷の女王の無慈悲な決定によって無に帰す。同時にバルドルは心の中で合掌する。これから行われるであろう惨劇を目の当たりにする二人の同胞に。
『本当に入れ込んでるのね……やっぱり愛……じゃなくてそのアキってのが担い手に相応しくなかったらどうするわけ? あなたが見定めた時は大したことなかったんでしょ?』
「心配ないわ……器の大きさは十分感じ取れたし、あれからマザーが育てているはずよ。それに……」
『それに……?』
ジェロが一体何を言わんとしているのか分からなかったバルドルはその先を促さんとするもそれが間違いだったとすぐに悟る。瞬間、辺りの氷山がまるで天を目指すかのように巨大化し、上空に向かって伸びて行く。さながら氷の槍。それが空に浮かぶ要塞へと突き刺さる。そこは今まさに夜の支配者パンプキン・ドリューとレイヴの騎士たちが決戦を行っている場所。だがそんなことなどジェロにはどうでもよかった。ただあるのは
「もし魔界に連れて行くにも値しないようならその場で私が葬るだけよ……せめてもの慈悲としてね……」
来るべき大魔王の器であるアキのことだけ。その再会の時こそがジェロがこの一年間待ち続けた瞬間。一年前の模擬戦によって見出し、マザーの話によって興味を惹かれた存在。だがそれでももしその器が満たされていないのならその場で無慈悲に葬ることに一切の容赦もない。矛盾を孕んだ感情。
バルドルは未だ見ぬマザーの担い手に同情を禁じ得ない。ジェロに認められるにせよ、そうでないにせよ変わりはない。
絶望の名を冠する氷の女王に目をつけられてしまった時点でその運命は決まってしまったようなものなのだから――――