本来あり得なかった悪魔の札と蒼き守護者の争い。互いの最高戦力である六祈将軍と六つの盾。闇の覇権とシンクレアを賭けた、そして魔導精霊力を持つエリーがきっかけとなって始まった長い戦い。それが今、終わりを迎えようとしていた―――――
(なんだ……あれは……?)
BG船長であり不死身の処刑人の二つ名を持つ王、ハードナーはただその光景に目を奪われていた。先程まで見せていた余裕も笑みも消え去ってしまっている。あるのはただ目の前の理解できない光景、金髪の悪魔であるルシア・レアグローブに起きた異変が何なのかという疑問だけ。
ハードナーはつい先ほどまで目の前のルシアと戦闘を行っていた。互いの組織、シンクレアを賭けた最終戦。これに勝利した方が闇の覇権を握る決戦。それはハードナーの圧倒的優位で進められた。彼が持つシンクレア『アナスタシス』の力。その極みである『巻き戻し』によってルシアは全ての力を封じられ剣のみでの戦いを強いられた。そしてハードナーにはアナスタシスによる再生と処刑剣という凶悪な武器がある。力の差は歴然。その証拠にルシアの身体は既に満身創痍。いつ倒れてもおかしくない状態。ハードナーは自らの勝利を確信する。無敵とまで言われた百万の兵の頂点に立つに相応しい力を示しながら。後は処刑剣によってルシアの首を落とし、その胸にあるシンクレアを奪うだけ。ただそれだけ。
だがその瞬間、ルシアが叫びを上げながらもその手にシンクレアを持ち、自らの剣に向かって埋め込んだ。十個のDBが埋め込まれているネオ・デカログス。だがその刀身にはもう一つ、窪みがあった。まるで十字架のような小さな、確かな窪み。それが何を意味するのかをハードナーは知らなかった。だが知る者が見れば気づいただろう。まさにそれがレイヴマスターが持つというTCMでいうレイヴを埋め込む場所であったことを。そしてルシアの手によってマザーがデカログスに埋め込まれた瞬間、それは起こった。
「何っ!?」
ハードナーはただ声を上げることしかできない。それは二つの驚きによるもの。一つがルシアの剣に起こった異変。ルシアがマザーをデカログスに埋め込んだ瞬間、凄まじい見えない力が巻き起こる。いや、それは正しくない。次第にその力が見えてくる。蜃気楼。まるで景色が歪んでいるかのような光景がルシアが持つ剣から生まれて行く。同時に不吉を孕んだかのような邪悪な力が溢れだす。見ているだけでめまいを起こしてしまうような規模の力。だが徐々にそれが収まり歪みが形を為していく。まばゆい光がルシアの剣から生まれて行く。それは光の剣。それを手にしながら一歩、また一歩とルシアがハードナーに向かって近づいて行く。だがハードナーはそんなルシアを見ながらもただ驚愕していた。それこそが
(ど、どうなってやがる!? なんで奴の力を巻き戻せねェんだ!?)
二つ目の、そして最も理解できない驚き。ルシアが何らかのDBの力を使っているということ。だがそれはあり得ない。何故なら今この一帯は全てアナスタシスの力によって支配されている。いかなる力も巻き戻し無かったことにする能力。全てを封殺するアナスタシスの極み。その証拠にルシアは先程まで全てのDBを封じられていた。だが今、それが通用しない。力が発動していないわけではない。今も間違いなくアナスタシスの力はルシアに、そしてマザーに及んでいる。シンクレアであったとしても例外ではない。
「て、てめえ……一体何をしやがった!? その力は何だ!?」
ハードナーは知らず全力で処刑剣を握りしめながらルシアへと恫喝する。それはこれまで見せたことのないよう焦りを含んだもの。まだ何かをされたわけではない。依然戦況は自分に優位。歴然たる力の差、覆しようのない状況。ただ一つ、相手が能力を使えるようになってしまっただけ。その理由は分からない。あり得ないようなことだが目の前のルシアが持っている光の剣がその証拠。だがそれだけ。例え何かの能力が使えたところで自分の勝利は揺るがない。処刑剣が、再生の力を持つ自分にはどんな攻撃も通用しない。不死身の処刑人としての自分の力は本物。だがハードナーは知らなかった。
今、ルシアが手にしている、使おうとしている力が何なのかを。
シンクレアの全てが辿り着くべき到達点。その頂きに今、ルシアが踏み入っていることを。
ハードナーはようやく気づく。それはルシアが持つ光の剣。その輝きが何を意味しているかを。紫。それがネオ・デカログスを覆っている光の色。それがDBを意味するものであることを悟った瞬間、戦いが始まった。
先に動いたのはルシアだった。ルシアはその手に光の剣を持ちながらハードナーに向かって疾走する。先程までとなんら変わらないもの。ハードナーはルシアがその剣によって自分を攻撃しようとしていることを瞬時に見抜くもそこに恐れは無い。何故ならそれは今までの攻防の焼き回しにすぎない。
「カハハ! 何を見せてくれるかと思ったら馬鹿の一つ覚えかよ! 忘れちまったのか、剣じゃオレは殺せねェってな!」
嘲笑いながらハードナーはその手にある処刑剣を以てルシアを迎え撃たんとする。剣を合わせるだけで相手と自分に傷を与える魔剣。再生の力を持つハードナーにそれは通じず相手だけを一方的に追い詰めることができる呪われた剣。それがある限り剣の戦いにおいてハードナーは無敵。ハードナーはルシアの剣に向かって己が剣を振るう。既にルシアは処刑剣によって深刻なダメージを受けている。後一撃でも攻撃を通せば動きも鈍り、首を落とすことも容易い。ハードナーは邪悪な笑みを浮かべながらも最期になるであろう処刑剣を振るう。
だがそれはネオ・デカログスに触れることなく空を切ってしまった。
「――――っ!?」
ハードナーは一瞬何が起こったのか分からず声を上げることすらできない。そんな隙がない程の刹那、凄まじい激痛がハードナーを襲う。同時にその視界が鮮血に染まる。だがそれはルシアのものではない。間違いなくハードナーから生まれたもの。その証拠にルシアの剣がハードナーの胸を切り裂いている。混乱しながらもハードナーは視界に収める。自らが持つ処刑剣。だがそれを見た瞬間、ハードナーの表情が驚愕に染まる。そこには刀身が全て消え去ってしまっている処刑剣だったものがあるだけだった。
「小僧……てめえ何をしやがった!?」
ハードナーの叫びなど聞こえていないといわんばかりにルシアがそのままハードナーに向かって剣を振るう。その瞳には全く恐れも迷いもない。ただ目の前の相手を倒すことだけを目的にした戦士の姿。だが今までとは明らかにその威圧感が段違い。本当に先程までと同一人物とは思えないような豹変。それを前にしながらもハードナーはアナスタシスの再生の力によって処刑剣を再生し、再びルシアを迎え撃つ。その力によってルシアに傷を与えるために。だがその瞬間、ハードナーは確かに見た。処刑剣がルシアの剣に触れた瞬間に消え去ってしまった光景を。
しかしそれだけでは終わらなかった。ルシアがそのまま剣を振るったと同時に何かがハードナーの左腕を通過する。それが何なのか理解するよりも早くハードナーは戦慄する。そこには肘から先が失くなってしまっている自らの左腕があった。
(な、何だこれは……!? 斬られたのか!? いや、違う……これはそんな生易しいもんじゃねェ……!)
左腕が失われたことによる激痛と出血に襲われながらも瞬時に再生することでハードナーは無傷の状態へと戻るもその顔は既に強張り、歪んでしまっている。二つの信じられないような事態によって。
一つが処刑剣の能力が発動しなかったこと。剣を合わせることで強制的に傷を負わせることできる力。だが剣を合わせた筈にも関わらずルシアにはダメージは無い。それはつまり剣が触れ合っていないということ。だがそれを証明する事態が自らの身に襲いかかっている。
『削り取られている』
ハードナーはようやくその事実に辿り着く。自分が受けた先程の攻撃。それは今までハードナーが受けてきたどんな攻撃よりも異質なもの。剣でも、銃弾でも。魔法でもない未知の力。まるで光の剣によって斬られた部分だけが削り取られてしまったかのような感覚。ハードナーは気づく。それがルシアの持つ光の剣の力なのだと。触れたものを全て削り取ってしまう力があの光にはあるのだと。だがハードナーは知らなかった。ルシアの剣の力がそんな生易しいものではないことを。
『時空の剣』
それがルシアが持つ光の剣の名前。シンクレアであるマザーとネオ・デカログスを組み合わせることで可能な存在しないはずの十一番目の剣。番外形態。
マザーの能力である空間消滅を形態変化によって剣に纏わせ、触れた対象を空間ごと消滅させる対人戦に特化した能力。範囲を限定させることで扱いやすく、そして密度を高めることができる応用技。相手を殺さずにできる限り扱いやすくするために生まれた形態。
だがそれはやはりマザーの空間消滅の延長線上でしかない。その形態を変化させただけの物。剣という自らの武器であるネオ・デカログスの形を持たせただけ。今のアナスタシスの極みである巻き戻しの前には通用しない。だが今、ルシアはその力を振るうことができている。それはつまりルシアもまたその領域に到達した証。
アナスタシスの再生の本質が時間逆行であったように、マザーの空間消滅にもまた本質となるものが存在する。
「…………」
ルシアがその手にある時空の剣を振るう。それはハードナーを狙ったものではない。ただ剣を構え直すためだけの動き。だがその瞬間、世界が崩壊した。
「―――――」
それは二人の声にもならない声。ハードナーともう一人、その胸に存在するシンクレア、アナスタシス。二人はその光景にただ言葉を失っていた。そこにはまるで世界が崩壊するかのような理解できない事象が巻き起こっていた。
それは世界の悲鳴だった。凄まじい不協和音が辺りから生まれてくると同時に周囲の景色が歪んでいく。先程まではルシアがもつ剣のまわりだけであったそれが際限なく周囲を、山脈を包み不協和音と共にどこかで聞いたことのあるような音も混じり始める。それはまるでガラスが割れてしまったかのような音。甲高い反響音に共鳴するかのようにハードナーの視界にある世界がひび割れて行く。地面だけではない。空気も、山も、空も、世界の法則さえもパズルが崩れて行くかのように崩壊し始める。紫の光が点滅するかのように光を放つもその光さえも屈折し、万華鏡のように乱反射する。大地は崩壊し、重力が無くなってしまったかのように砂や岩がひび割れた空間に吸い込まれていく。
ハードナーは目の前のまるで異次元に迷い込んでしまったかのような光景を前にしてただ目を見開くことしかできない。既にその力に巻き込まれつつある。その証拠にハードナーは平衡感覚を失われるかのような感覚に囚われていた。今、自分が立っているのか、逆さになっているのか、上か下なのか、まるで抜け出せない迷路に迷い込んでしまったかのよう。そんな中、ある光景が垣間見える。ひび割れしている空間の間からハードナーは確かに見た。
何もない、誰ひとり生きていない死の世界。ただ地平線の彼方まで何もない荒野が続く世界の終わり。
ハードナーにはそれが何なのか分からない。だが知らずハードナーは息を飲み、身体を震わせていた。それはその世界が自分の望むものの姿だと悟ったから。それを目の当たりにすることでハードナーは初めて恐怖する。自分の望み、その形がどんなものであるかを知ることで。アナスタシスだけは理解していた。ひび割れから垣間見える世界が何であるかを。
『現行世界』
それが今、ハードナーが目にしている光景の正体。世界規模の砂漠化、気温上昇、疫病、出生率の低下。そこはまさに終わりゆく世界。かつて世界が滅亡し、たった一人の人間しか生き残りがいなくなってしまった世界。だが今、ハードナーがいる世界はそれとは異なる。
『並行世界』
人類最後の一人が星の記憶に辿り着き、時空操作によって生まれたもう一つの世界。人類滅亡の歴史をなかったことにした結果。そこはかつての現行世界での過ちを正した人類が滅亡しなかった世界。だがそれ故に一つの恐怖と隣り合わせに生きて行かなければならない宿命を負っている。『エンドレス』という終わりなき怪物によって。そしてその力を受け継ぐ者たちがここにいる。再生を司るアナスタシスを持つハードナー。そして破壊を司るマザーを持つルシア。そして今、ルシアはその極みを発現させている。
『次元崩壊』
それこそがマザーの力の本質。最もエンドレスに近いシンクレアであるマザーの真の力。それはまさに世界を、次元を崩壊させる禁忌の力。正確には崩壊させるだけではない。その正体は並行世界を現行世界によって塗りつぶすこと。偽りの世界であるこの世界を正しい世界に戻すための力。ルシアは剣によってハードナーを削り取っているのではない。ただ斬った部分を別の世界、現行世界に送っているだけ。それこそが時空の剣の本来の役割。エリーが持つ時空の杖と対を為す存在。時空の杖は世界と世界を繋ぐ鍵でありエンドレスを呼びだすためのもの。だが時空の剣はただ世界を壊すための剣。
アナスタシスは悟る。自らの力がルシアに通用しなかった理由を。それはルシアとマザーが次元崩壊というシンクレアにとっての到達点に辿り着いたからこそ。バルドルを除く四つのシンクレア。
『マザー』 『アナスタシス』 『ヴァンパイア』 『ラストフィジックス』
それぞれが能力も全く異なる四つの闇の使者。
だがその目指すべき場所、その根源は全て同じ。次元崩壊。並行世界を消滅させ現行世界へと至ること。アナスタシスの時間逆行もそのためのもの。時間を時空操作が行われる前まで巻き戻し現行世界へと至るためのもの。だがハードナーの力ではそこまでは至れない。だが目の前の少年、ルシアは違う。ルシアは今、その域に到達している。並行世界を現行世界で塗りつぶすという破壊の力を持つマザーを極めることによって。故に巻き戻しは通用しない。当たり前だ。巻き戻す先に既にルシアとマザーはその身を置いているのだから。
「どうした……マザーを奪うんだろ。さっさとかかってこいよ」
感情を感じさせない声でルシアは呟きながらハードナーに向かって近づいて行く。ハードナーは知らず後ずさりをしてしまう。崩壊しかけた世界の中心にいるルシアの姿に恐れをなすかのように。次元崩壊はルシアの剣からのみ。世界から見れば砂の一粒に及ばない程小さな穴のようなもの。だがその穴によって時空が歪み始めている。このままではこの一帯が現行世界に塗りつぶされてしまいかねない。故にルシアはその力を使うことを禁じていた。実際に使ったことは無いがDBマスターとしての本能で時空の剣を使えばどうなるかを知っていたからこそ。だが今、ルシアはそれを破っていた。自分が負けそうだったからではなく、ただマザーのために。単純な、それでもこれ以上ない理由。
「小僧が……粋がってんじゃねェぞ―――!!」
鬼気迫る表情を見せ、迷いを振り切るかのようにハードナーが処刑剣を手にしながらルシアへと迫る。それを見ながらもルシアは慌てることなく時空の剣を振るう。どんな物でも斬ることができる次元崩壊の力を纏った剣。それを防ぐことなどできない。ルシアは処刑剣ごと再びハードナーを切り裂かんとする。だが間違いがあったとするならばハードナーには自らの身を守る気が一切なかったこと。
「っ!」
「ぐっ……ああああああ!!」
ハードナーが咆哮を上げながらもルシアの目の前にまで迫る。自らの左腕を失いながら。捨て身による攻撃。自らが傷つくことを恐れることなく戦うことができるアナスタシスを持つ、そして強靭な精神を持つハードナーだからこそできる戦法。ハードナーはそのまま時空の剣を左腕を犠牲にすることで防ぎながら処刑剣によってルシアを切り裂かんとする。例え自分の体が切り裂かれたとしても再生の力がある。そして処刑剣で直接斬りつければ満身創痍であるルシアは耐えられない。持久戦に持って行けば勝機がある。それは正しい。ハードナーを殺すことができないルシア相手ならばその戦法は通用しただろう。そう、相手がルシアだけであったなら。
「なっ――――!?」
ハードナーはただ驚愕するしかない。間違いなくルシアの首を跳ねてあまりある一閃。だがそれがルシアの首に触れた瞬間に消え去ってしまった。まるで先の剣での攻防のように。ハードナーは気づく。ルシアの身体から光が放たれていることに。まるでオーラのように紫の光が、次元崩壊の力がルシアを包み込んでいる。
『絶対領域』
それがその力の名。ルシアではなくそのシンクレアであるマザーの意志によって発現する絶対防御。自分以外の何者にもアキには触れさせない。そんな願いが形になったもの。時空の剣が最強の矛だとするならば絶対領域は最強の盾。決して犯すことができない矛盾の力。
「――――」
マザーは声を出すことなく、ただその感覚に身を任せていた。まるで自分とルシアが一つになっているかのような感覚。
『一心同体』
DBを極める上で絶対不可欠の要素。今まで一度も成し遂げることができなった域にルシアとマザーは到達していた。その至高の感覚にマザーはただ身をゆだねるだけ。言葉を発する必要もない。既に心も身体もマザーはルシアと一つになっているのだから。もっとも言葉を発することができない程興奮してしまっているだけでもあったのだが。
何者も触れることができない絶対の力。それが今のルシアの真の力。超えるべき壁を超えた、四天魔王の領域に到達した証だった。
その力に、姿にハードナーの身体は震え、汗が吹き出し、歯の根がかみ合わない。絶対的強者によってのみ与えられる恐怖。それがハードナーを包み込む。今まで生きてきた中で一度も感じたことのない戦う相手への畏怖。自分よりも遥か格上の力を持つ存在。今の自分とルシアの間には子供と大人ほどの力の差がある。例え無限の再生の力があったとしても目の前のルシアには敵わない。そう悟らざるを得ない程の絶望。だがそんな中、ハードナーの中には在りし日の記憶が蘇っていた。
忘れることができない、忘れることが許されない地獄の記憶。愛する妻と生まれてくるはずの娘を同時に失ってしまった事故。それからの一人きりの日々。喉の渇きを癒すことができない苦痛の日々。
「忘れてェんだ……全てを……」
知らずハードナーは呟いていた。まるで呪詛のように。全てを忘れたい。それがハードナーの行動理念であり目的。忘却の王であるエンドレスと一つになることで全てを無に帰す。そんな狂気の思考。
「全てを失くしてェんだ……そうすればオレはもう苦しまねェ……!」
全てを奪いたい、自分の物にしたい。無限の欲望とでも言うべきものがハードナーにはあった。BGを作ったのも、シンクレアを、エンドレスを求めたのも全てはそのため。自分の中にある虚無を埋めるため。だがどんなに奪ってもハードナーは満たされることはなかった。失った妻と娘。それを取り戻さない限りその乾きは、苦痛は癒されることは無い。再生を司るアナスタシスでさえ心の傷は癒せない。ハードナーは気づかない。失った物を追い求めるあまりに気づけない。自分の求めたものが既に自分のすぐ傍にあったことに。
「邪魔するんじゃねえええええ!!」
絶叫を上げながらハードナーは狂気と共にルシアに向かって特攻していく。まるでケモノのように。王の威光も、船長としての誇りもそこにはない。ただ自分の望みをかなえようとする愚かな一人の人間。ハードナーはただ駆ける。ルシアはそんなハードナーを迎え撃つために剣を構えんとするもその動きを止めてしまう。それは違和感。自分に向かってくるハードナーが今までとは何かが違う。刹那にも近い思考。そしてルシアはその答えに至る。それは
ハードナーが処刑剣を捨て去り、己の左腕だけで襲いかかってきたということ。
「…………!!」
「ああああああああああああああ!!」
この世の物とは思えないような絶叫が全てを支配する。ハードナーの断末魔とでも言うべき悲鳴。その光景に時空の剣を持ってから今まで表情を変えることがなかったルシアに初めて驚愕が浮かぶ。それは目の前の光景。ハードナーが自らの左手を自分の顔に向かって差しだしてきている光景。だがそれはあり得ない。何故なら今、ルシアの身体はマザーの『絶対領域』によって守られている。それを超えることはできない。触れる物は全て消し去ってしまう。その証拠にハードナーの左手は既にルシアに触れようとした時点で削り取られてしまっている。凄まじい出血が宙に舞いハードナーの左手が失くなる。当然の摂理。次元崩壊の力を纏っているルシアにはどんな攻撃も通用しない。処刑剣はもちろん、ただの生身では覆すことはできない事実。だが
「う……ぐっ……がああああああああ!!」
ハードナーは左手を失ったにも関わらず退くどころかさらに自らの手を伸ばす。ルシアの顔面に向かって。同時にアナスタシスの力がハードナーの失われた身体を再生せんとする。だが再生すると同時に絶対領域によって再び左手は削り取られていく。だがそんなことなどどうでもいいとばかりにハードナーは咆哮を上げながらなおもルシアに向かって手を伸ばす。ルシアはその姿にただ圧倒されるだけ。
今のハードナーは文字通り身体が磨り潰される痛みを感じているはず。いくら再生できるとはその痛みまでは消え去ることはできない。常人ならばとうの昔に痛みによって気を失ってしまっているであろう状況。にも関わらずハードナーは気を失うことなく、それ以上の気迫を、執念を以てその手を伸ばす。まるで届かない自らの願いに縋りつくように。精神が肉体を凌駕するほどの狂気。それが一瞬の隙をルシアに生み出す。
瞬間、アナスタシスは己が全ての力を解放する。巻き戻しはおろか再生すら使えなくなってしまうほどの力、残された力の全てをハードナーの左腕に集中させる。時間逆行の極み。その先にまで至る力を手に入れるために。今のハードナーならば、アナスタシスならばそれができる。
凄まじい光が、紫の二つの光がぶつかり合い、そしてハードナーの手がついに絶対領域を突破しルシアの顔面を掴む。まさにハードナーの執念、そしてアナスタシスの譲れない意地とでも言える力。この並行世界が生まれる前、現行世界に到達するまでの時間逆行が今、この瞬間、刹那だけ成し遂げられた。
『っ!! アキ――――!?』
マザーの悲鳴が上がる。だがそれよりも早く、逃れようのない死の一撃がルシアに向かって放たれる。
「極限の痛み――――!!」
それがハードナーの切り札。巻き戻しとは違う相手を殺すための奥義。直接相手に触れなければ使用できない技。触れた相手の生まれてから印した全ての傷を『再生』する力。どんな強者であっても一撃で勝負を決する攻撃。いや、強者であればあるほど効果が上がるもの。何故なら強い相手である程それまでの戦い、修行によって数えきれないほどの傷を身体に負っているのだから。
鮮血がルシアから舞う。傷を開かれたことによって。その光景にハードナーは己の勝利を確信する。まさに無限ともいえる欲望が、執念が辿り着いた決着。だがそれは
「悪いな……その技は俺には通用しねえ……」
ルシアの宣言とも言える言葉によって覆される。あり得ない光景にハードナーは声を上げることすらできない。自分の渾身の一撃を受けたにも関わらずルシアがまだその場に立っているのだから。ハードナーは確かに見る。それはルシアの顔にある傷痕。それが開きルシアは血によって片目を閉じている。間違いなく極限の痛みが決まった証拠。だがそれだけだった。体中にあるのは先の自分の攻撃によって与えた傷だけ。新たな傷は顔の傷以外に見当たらない。信じられないような事態。だがハードナーは知らなかった。ルシアが自分の常識の外にいる存在であったことを。
それは皮肉にもマザーの過保護とでもいえる行動の結果。幻との修行というルシアが直接傷つくことない方法。そして戦闘においても決して主を傷つけることを許さなかったこと。そして何よりも
「俺は……ヘタレなんだよ――――!!」
戦うことを嫌い、逃げ回っていた、ヘタレであるルシアだからこそ。傷を負わず戦ってきた臆病者。それがハードナーの誤算。四天魔王に匹敵する強さを手に入れながらもこれまで一度も傷を負ったことのなかった温室育ちの魔王。その一閃がハードナーの身体を切り裂く。
それがこの戦いの決着。そして真の『魔石使い』が誕生した瞬間だった―――――