月の戦いは着実にザフト軍優位のまま進んでいた。
エインセル・ハンターを倒しこの戦争を終わらせる、そう渇望するザフト軍の志気が地球軍を圧倒しているのだと信じる者も少なくない。しかし、違和感があることも事実だった。
地球軍ではすでに一部の部隊が離脱を始めている。ザフトはそれを敗走と見なしているが、その統制のとれた動きは当初から予定されていたことを窺わせる。また、中枢に残された部隊は決して残党という言葉では説明ができないほどの戦力が残されていた。
ザフト軍主力MSであるヅダがウィンダムと撃ち合っていた。決闘を思わせる一対一で、ビームを交差させて互いに旋回し、勝負は膠着状態に陥っているかのようにも思われた。意外にもすぐに動きはすぐに現れた。ウィンダムのビームが正確にヅダの肩を捉えたからだ。こうなれば後は一方的である。片腕を失い機体のバランスを崩したヅダにウィンダムは次々とビームを突き刺した。
ただの逃げ遅れではない。それとも高い練度を有する部隊だけがたまたま取り残されたのだろうか。
ザフトは確実にユグドラシルへと近づいていたが、その侵攻速度は急速に落ちていた。中枢に近づくほど地球軍の抵抗が苛烈になっていくからだ。地球軍はもはや脱走者が続出するほど統制がとれていないとするにはあまりに状況が不自然なのだ。
そのことに苛立ちを隠せないのはアスラン・ザラその人であった。
青いガンダム、ガンダムヤーデシュテルンのコクピットの中で、アスランは珍しく不快感を隠さず戦場を睨み付けていた。
「なぜだ!? なぜファントム・ペインがいない!」
「お父様はやっぱいねえですよ、アスラン」
アスランの周囲を飛び回る緑のドレスの妖精は、全天周囲モニターにめまぐるしく画像を映してはその混沌とし始めた戦況を把握しようとしている。
ライナールビーンが8本のウイングを輝かせ月の上空を飛ぶ。その背景ではいくつものビームの線条が重なり合い、いくつもの爆発が煌めいては散っていた。
「ファントム・ペインはエインセル・ハンターの私兵だろう……。なぜここにいない……!?」
これがエインセル・ハンターにとって乾坤一擲の作戦であったことは疑いがない。まさに決戦である。その戦いに魔王に従う戦士たちがただの1人も参列していないことなどあり得るのだろうか。
アスランの苛立ちは、急がなければプラントが焼かれてしまうことへの焦りばかりではない。エインセル・ハンターの意図がまるで読めないことへの不快感も混ざり合っていた。
そんなアスランを現実へと引き戻したのは翠星石の声だった。
「アスラン! 来るですよ!」
急速に迫り来るのはウィンダムだ。ビーム・サーベルを手にこのガンダムに挑もうとしていた。
迷いのない動きだ。アスランの反応が遅れた一瞬の隙をつく形でウィンダムは一気に距離を詰めた。回避している余裕はなく、アスランはビーム・ライフルを投げ捨てるとともにビーム・サーベルを抜く。ビームとビームとが剣の形でぶつかり合う。
この一撃はアスランのプライドをくすぐった。ヤーデシュテルンはゲルテンリッターである。量産機とは比べものにならないほどの性能を誇る。そうであるにも関わらずあっさりと間合いを詰められたことがアスランを思いの他、動揺させたのだ。
敵はガンダムを前にまるで恐れていない。ザフトに包囲され危機的状況にあるはずの地球軍は恐れを見せない。スパークするビームの向こう側で見えもしないウィンダムのパイロットが不敵に笑っているようにさえアスランは錯覚させられた。
動いたのはウィンダムだった。
器用に蹴りを放つとヤーデシュテルンの左腕に残されていたビーム・ライフルを蹴り飛ばす。同時に体を回転させながらヤーデシュテルンの顔面を蹴りつけたのである。コクピットを振るわす衝撃。だが、アスランが歯を食いしばっているのはこればかりが原因ではない。
「なめるな!」
逃がすまい。そう、ヤーデシュテルンの左腕は自身を蹴りつけたばかりの敵の足を掴んだ。そのまま、片腕にも関わらず強引に敵を反転させると、向けられたウィンダムの背中へとビーム・サーベルを力任せにたたき込む。ビームの熱に断ち切られたウィンダムが爆発し、後にはヤーデシュテルンだけが残された。
そして、アスランの苛立ちもまた、消えてはいない。
戦場の片隅で、ゲルテンリッターの初号機であるガンダムメルクールランペはただたたずんでいた。上空では激しい戦闘が繰り広げられているが、月の地表そのものは静かなものだった。戦いが苛烈であればあるほど、誰もが同じ高さの敵に気をとられ眼下のことを気にとめることなどできなくなる。
黒い天使は翼をたたみ、そのコクピットの中に失意の少年を座らせていた。そして、天使の心は、黒いドレスの少女としてその姿を現した。
シンは力なく呟く。
「アリスなのか……?」
目の前に現れた手のひらに乗るほどの小さな少女。その赤い瞳が急に鋭さを増したかと思うと、次にシンの目に飛び込んできたのは少女の靴裏だった。
「このクズ!」
思わず手で顔をかばうシンだったが、しょせんは立体映像である。痛みなどあるはずもない。それでも、アリスは口汚くシンを罵ったまま足蹴にし続ける。
「私の体を使っておきながらなんなのこの様は!? 戦う気もないのに戦場にいるわけ?」
「何なんだよ、一体……?」
蹴りがやんだためシンが手を下ろすと、アリスは中空に腰掛けるような姿勢で自分のパイロットのことを見下ろしていた。
「私は誉れ高きアリスの初号機、ガンダムの名を与えられた最強の力なのよ。それをあなたは!」
ふがいない戦闘を責めているのだろうということは容易に見当がついた。しかし、だからと言ってシンは何も言い返すことができない。ゲルテンリッターの力を借りてもエインセル・ハンターには勝てないことを悟っていたからだ。
思わず目をそらすシンに対してアリスは容赦しない。
「あんたのこと、ずっと見てたわ。それで、あんたは何がしたいの? 母親の仇を討ちたいの?」
「わからない……、わからないんだ……。俺にとって母さんは何なのかって……」
だからこそ自分が何のために戦っているのかさえ曖昧になり、そんなおぼろげなもののために立ち向かうにはエインセル・ハンターはあまりに高い壁だった。だからシンはここにいる。戦うことも立ち向かうこともできずにここにいる。
アリスがしたことは、ある映像を映し出すことだった。宇宙空間に多数の残骸が浮かび、その奥では小惑星が砕けたように割れていた。
「これは……?」
「ユグドラシルが破壊した要塞、その一つよ。あんた言ってたでしょ? 人が人を焼いていいはずがないって。エインセルの前でそう啖呵切ったのはどうして?」
なんともおぞましい光景だった。映像を横切る形でモビル・スーツの残骸が通り過ぎた。それは表面を溶かされ辛うじて人のシルエットを留めているでしかない。機種など判別のしようもないほどに溶けていた。まるで、丸呑みにされた人が未消化のまま吐き出されたような姿、そんなものがいくつも漂っていた。パイロットがどうなったのかなど想像するまでもないことだろう。
シンが思わず映像に目を奪われていると、視線を強引に奪いとるようにアリスがその前を横切る。
「あんたがエインセルを止めないとプラントが焼かれることになるってわかってるでしょ? あんたにとってエインセルを止めることと母親の仇ってことはどう繋がるの? 凶行を止めるためってことは母の仇を討つための口実でしかないの? だから仇を討てないと思ったらこうして隅で震えていればいいってことになるの?」
「違う……!?」
思わず叫んだシンだったが、続く言葉はない。アリスはそんなシンの弱気を見透かすようにその小さな顔でシンをのぞき込む。
「それなら、あんた何してるの?」
「……あの人は、しちゃいけないことをしようとしてる……。だから止めないとけないんだ……」
「なら簡単ね。立ちなさい。エインセル・ハンターを倒しなさい」
シンは手に力を入れ、操縦桿を握りしめようとする。だがそんなものはパフォーマンスでしかなかった。戦えないことはシン自身が一番よく知っているのだから。
そして、そのことは端から見ても明らかなことだった。
「母親の仇なんて本当は討ちたくないんじゃないの? だからためらう、だからできない。なら簡単でしょ。ここで宣言なさい。これは母の仇を討つことにはならない、ただ倒すべき相手が母親をたまたま手にかけていただけなんだって」
シンは考えた。そんなことはできないと。しかし、なぜできないのか、シンは答えを持たない。だから何も言い返すこともできないまま、アリスの言葉を聞いていた。
「できるでしょう? 今までさんざん愛を疑った母親のこと、この期に及んで愛してるなんて言うつもり? 捨てなさい。母親への未練なんて。それで戦えなくなるならなおさら!」
「母さんは……」
「あなたにとって誰? あなたにとって何? 愛されてるって自信も持てないくせに捨てることもできないの? 未練? それとも願望? あなたの母親はあなたを愛してなんていなかった。でもあんたは愛されたかった。そんな未練にしがみついてるだけ、違うの?」
シンにはアリスの言っていることのすべてが正しいことのように聞こえていた。同時にすべてが間違っているようにも思えているのだろう。反論などできるはずもない。しかしアリスの言葉をそのまま受け入れているようでも決してなかった。
アリスは苛立ちをつのらせているらしかった。
「答えなさい。どうして母への迷いがあるとエインセルと戦えないの? 死ぬべきでない人を守ることができないの? それとも理屈をこねてエインセルから逃げてるだけ?」
「俺は……、俺は……」
「いい加減になさい! あんたがエインセル・ハンターを倒しに来たのは母の仇を討つため? それとも凶行を止めるため? そんなことさえわからないの?」
エインセル・ハンターを止めなければならない。そう確信したからこそ、シンはここにるはずだった。その決意は揺るいでいない。そうでなければ戦場からとっくに逃げ出していたことだろう。
「母さんの仇で、俺が止めなきゃならない人なんだ……」
「それなら単に凶行を止めるって理由だけで戦えるはずでしょ? なのにどうして立てないの?」
アリスの言葉通り不可解なことだった。母への愛を疑うとなぜエインセル・ハンターを止めるためにも戦うことができなくなってしまうのか、シン自身説明できないでいた。
「あなたの母親は、あんたに一度でも成果を出さなければ息子とは認めないって言ったの?」
アリスがその赤い瞳でシンをのぞき込む。その顔はシンのことを哀れんでいるようにも、呆れているようにも見えた。
「言われたことなんてない……。でも……」
「でも?」
「俺はコーディネーターだから……」
母は優れた子どもが生まれることを期待していたことは間違いない。では、優れてさえいればシンでなくてもよかったのではないか、優れていなければ子どもと認めてもらえないのではないか、そんなことをシンは幼少の頃からずっと考え、そして続け結論を出せずにいた。
しかし、シンがここにいるのはエインセル・ハンターを止めるため、そのはずだ。ではなぜ母への迷いがそのまま戦う理由を揺るがせてしまうのか、この繋がりをシン自身説明することができない。人々を救うために倒した相手がたまたま母の仇だっただけと割り切ってもよいはずだ。
答えはどこを探しても見つかることはない。
そんなシンに、アリスは手を差し出した。慰めではない。ただ見せたのだ。その白い腕が形を崩し、光る幾何学模様に分解されては再び元の手に戻る姿を。
「私はアリス。あなたたち人と違って肉の衣を持たない。心も無数のプログラムの集合でしかないわ。だから何? それでもお母様のご意志に従うことは私の意志よ。それは私がお母様のためになりたいと願うから。それ以上でも、それ以外でもないわ。コーディネーターだから? そんなこと、言い訳にもならない!」
なにがこのアリスを苛立たせてるのか、シンにはわからなかった。しかし、ここ人工知能がむき出しの感情を向けていることだけは理解できていた。まるでその怒りを示すかのようにモニターが一面、炎に染まったからだ。
「これがお望みの光景?」
激しい光の中、まぶしさのあまりアリスの姿も見えなくなる。ただの映像だけでもシンのことを焼き尽くすことができるかのような、それほどの炎が渦巻いている。それはシンにあの日の光景を思い出させるのに十分なものだった。
左頬の痣が激しく痛み、シンは目を見開いたままかすれた声を喉からこぼした。
「こんなこと、人がしちゃいけないんだ……。母さんは火で焼かれて死んだんだ……。他の人だって……。だから、ザラ大佐のしたことも……、エインセルさんのしようとしてることも許せなかった……」
単に炎が燃えている、それだけの映像である。しかし、シンにはその奥に燃やされ死んでいく人たちの姿があるように思えてならなかったのだろう。だからこそ、今、こうして苦しんでいる。だからこそ、アスラン・ザラが街への被害も構わずに攻撃を仕掛けたことを許せなかったエインセル・ハンターがしようとしていることを止めるためにここまで来たはずだった。
「たくさんの人が死んで……、人の焼ける匂いが充満してて、俺だけが助かったんだ。母さんは黒焦げになって……。他の人だって、大勢の人が…… 」
シンだけが助かった。焼け野原に転がる焼死体の中で、全身に火傷を負いながらも。そして見上げた空には黄金に輝くガンダムが鎮座していた。手を伸ばすには遠すぎた。そして目の前にまで近づいた時、相手が剣を向けるには強大すぎる存在だと思い知らされた。
では、そもそもどうして剣を突き立てようとしたのだろう。結局、シンの疑問はすべてがそこに行き着いてしまう。シン・アスカにとって母親とはどんな存在であったのか。そんな出せない答えがいつまでも絡みつきシンの足を止めてきた。
しかし、それは詮無いことなのかもしれない。
「でも……、母さんはもういないんだ……。俺のすぐ隣で黒焦げになって……!」
「あんたをかばって死んだわけね」
一瞬、シンの体が不自然な硬直を見せた。それは自分が聞き間違いをしたのではないかと確認するために要した時間だったのだろう。言葉を理解してなお、シンは自分の耳を信じていない様子だった。
「……何のことだよ……?」
アリスの方を見るシンの目はどこか苛立っているようにさえ見えた。この人形の少女が知るはずもない母のことを語ったことが気に触ったのかもしれない。とうのアリスはどこか蠱惑的とさえ思える冷淡な笑みを浮かべているだけだったが。
「おかしいと思わなかったのぉ? 人を焼き殺すほどの炎がすぐ隣まで来てて自分だけが都合良く助かったことを」
「俺だって体中に火傷してた。それに……」
「あの日の状況からシミュレートしてみたけれど、母親がかばってくれなかったら死んでたか、そうでなくとも重傷」
全天周囲モニターの映像がめまぐるしく変わる。それはすべて炎の映像であの日のことを繰り返ししているのだろう。炎が明滅を繰り返し、その様は眼球の奥に痛みを与えるほどだ。シンが思わず声を荒らげたのはその苦痛もあってのことかもしれない。
「なんで君があの日のこと知ってるんだ!?」
「私は元々はフォイエリヒのアリスよぉ。空からいろんなもの、見てたわぁ」
それはシン自身が一番よく知っている。フォイエリヒガンダムは、間違いなくオーブの上空にいたのだから。
では、もしかしたらアリスは本当のことを言っているのかもしれないと、そんな考えがシンにも過ぎっていたのだろう。
「でも……、たまたま俺だけが助かる可能性だってあったはずだろ!?」
「かばわれた場合の千分の一にも満たない確率だけど?」
「でも、そんな……」
「あんた何? そんな偶然に頼ってまで母親にかばわれたって認めたくないのぉ?」
思わず押し黙るシン。自分が何をしようとしたのか気付かされたからだろう。まるで、母親にかばわれたことを受け止められないかのような振る舞いなのだから。
「本当なんだな……? 母さんが俺をかばって……」
しかし、ようやく受け入れることができたのだろう。ヘルメットが脱ぎ去られると、シンの額には涙が伝っていた。
「母さんは命を賭けてくれたのに……、俺は……、俺はぁ……!?」
思わずシンの手を離れたヘルメットが月の低重力の中、足下へと漂うように落ちていく。頬を離れた涙もまた、ひどくゆったりとシンの足へと雫となって落ちていく。そのためだろうか。地球に比べると間延びしたようにも思える光景の中、うつむいたシンの嗚咽はひどく長いようにも感じられた。事実、短くはなかったのだろう。母を失った少年は懺悔の涙を出し尽くすまで顔を上げることはなかった。
「母さんのこと、愛していたかったのに……、愛されてないかもって怯えて……! あの人の献身を! あの人がしてくれたことを裏切ってたんだ……!」
アリスはただ、シンのことを見ているだけだった。何かを待つように、しかし、何かを期待している風ではない。目の前の少年が次に何をするのか、冷静に見極めようとしているかのようである。
そして、その時は訪れた。
シンの手が足下に転がるヘルメットを掴んだ。そしてかぶり直すと、そのフェイズ・ガード越しに見えた顔にはまだ涙が這った跡が残されていた。
「アリス、俺に力を貸してくれ。俺は戦わないといけないんだ。あの人を止めるために!」
「それは母親の仇を討つため?」
「母さんを助けるためにだ!」
アリスがその赤い瞳を見開かせて見せた一瞬の表情。それは戸惑いというよりも弱い驚きのそれだったのだろう。すぐにこれまでに見せていた不遜な笑みに戻る。
「お母様の言われた通りね」
そしてどこか楽しげに笑い声を小さく漏らした。
「水銀燈。それが私の名前。いいわ、あなたをマスターと認めてあげる。名乗りなさい、そしてこう続けなさい。光の翼の主と」
「俺はシン・アスカ……。光の翼の主……」
シンはただ言われた通りの言葉を、抑揚もなく、ましてや魔法の言葉であろうはずもなく呟いた。それが、どれほどの力の意味を持つかも知らないままで。
月の戦場で、ひどく現実離れした光景が展開されていた。
光の翼を持つ人の形をした何かが羽ばたいていたのだ。それは大気を持たない月の空であることも構わず翼を広げ、光を振りまきながら円を描く。それは輪となって月面上空に大きな大きな光の輪を描く。
人は誰もがこの何かの正体を知っている。子どもにだってわかることだ。この激戦の最中とはいえ、誰もがその何かを一瞥し、誰もがその正体を察した。しかし、多くの人々は馬鹿らしい、まさか、そんなことはあり得ないと答えを口にすることさえはばかっていた。
ただ、少なくともルナマリア・ホークは自分感じたことを素直に口にしたらしかった。
「何よあれ……、天使?」
搭乗するインパルスのコクピットには輝く翼持つ天使が天使の輪を描いているとしか思えない様が映し出されていたのだから。
しかし、この素直な少女は気付いていなかった。天使の輪の大きさと、そして、それを天使が一週するまでにかける時間があまりに短いことを。
目にしているものが同じであっても、それをどのように受け止めるのかは人それぞれだ。
戦場の中心地からは離れた場所で、アスラン・ザラもまた天使の姿を確認し、それが天使などではないことを理解していた。
あの天使はゲルテンリッターの初号機、ガンダムメルクールランペでしかないのだから。
コクピットの中では、神妙な面持ちをしたアスランのすぐ横を翠星石が飛んでいる。普段から落ち着きがないと思えるほどに快活な翠星石であるが、今はただ光で描かれる天使の輪を見つめている。
「水銀燈、シンをマスターと認めるですか?」
「翠星石、一体なにが起きたんだ? あれはゲルテンリッターの初号機だろう!?」
「メルクールランペがお母様から授かった力を解放したですぅ」
「あの光の翼は何なんだ……?」
「アスランならわかってるはずですよ。どうしてミノフスキー・クラフトと搭載した軍艦がないのか」
「ああ。効率が悪いからだ。物体を2倍の大きさにすると表面積は4倍になるが体積は8倍になる。つまり、表面積に依存するミノフスキー・クラフトの推進力は4倍になるが重さは8倍になってしまう。大きくすればするだけ、効率がそれに反比例して落ちてくからだ」
仮に18mの大きさのモビル・スーツの表面積と体積の割合を1対1だとする。とすると、その10倍の大きさの軍艦ではその割合は1対10にまで悪化する。そしてミノフスキー・クラフトの推進力は表面積に依存するのだ。その物体が大きくなればなるだけ、推進効率は悪化することになる。
それがモビル・スーツに広く普及したミノフスキー・クラフトが、しかし軍艦や船舶に採用されていない理由である。
そう説明するアスランに、翠星石は頷いていた。
「そうですぅ。だからお母様はこう考えたです。もしも重さがなくて表面積が大きなものを作れたならそれはミノフスキー・クラフトに最適な素材になるってことですぅ。ミノフスキー粒子を力場で封じ込めて、それをそっくりミノフスキー・クラフトにできたとしたら……」
モビル・スーツには有り余るほどの推進力を得ることができる。
アスランはその力に理解した。あの翼が光を放っているのはミノフスキー・クラフトと同じこと。推進力に変換しきれなかった一部のエネルギーが光として放出されているのだ。それが、翼を光の翼に見せていた。
「あの翼は、ゲルテンリッター初号機は推進力の化け物ということか……」
そして、アスランはようやく理解した。光の翼持つ天使が描く天使の輪、それは直径が1kmにも達し、それをわずか数秒で一回りしているのだと。
光の翼の天使は、誰よりも速く羽ばたいていた。
その猛烈な速度の中、シンは完全に振り回されていた。モニターに映る光景がまるで万華鏡のようにめまぐるしく変わっていく。高速で機動しているため、風景が人の認識できる速度の限界に近づき次から次へと入れ替わっていく状況なのだ。何が起きているのか、とてもではないが把握しきれていない。
「なんて速さなんだよ……!?」
真の力を解放したメルクールランペに新たなマスターはただ振り回されているでしかない。それも仕方のないことだろう。モビル・スーツでここまでの速度を体験した者などこれまでにいなかったのだから。
何をどうしてよいかもわからないシンに対して、主を迎えたアリスは対称的でさえあった。
「落ち着きなさい。これまでと同じことをなさい。思考ではなく感覚で、意識を加速させなさい」
見えたものをいちいち確認していたは間に合わない。ただおおざっぱに捉え、感覚的に把握すること。そして、わずかずつ先を読み、その予想にあわせて動く。シンがかつて翠星石に言われたこと、意識を加速させる術。
あとは簡単なことだった。意識を加速させ、飛び抜けた速度を飼い慣らしていく。これまでにもしていたことを、同じように実行するだけでいいのだから。
「世界が、遅く見える……」
周囲で繰り広げられている戦いは一瞬のうちに通り過ぎていく。するとそれはまるで止まっているかのようにしかシンには感じられなかった。もしもその気になれば、メルクールランペが降り立ち、切り裂き、飛び立つ、それら一連の動作を一瞬で行うこともできるのではないだろうか。事実、それは不可能なことではないだろう。メルクールランペの速さとシンの力があれば。
「シン・アスカ、そろそろ王とまみえるを準備なさい」
王とは何者か。水銀燈と名乗ったアリスにことの真意を問いただす必要はなかった。
すべてが止まってしまったかのようにさえ錯覚させられる世界の中にメルクールランペ以外の何かが侵入を果たしたからだ。
その威容は見紛うはずもなかった。黄金の目映さを纏う八の剣持つ炎。
「フォイエリヒガンダム……」
シンが呟くとともに、炎の名を持つガンダムはその八本ものビーム・サーベルを一斉に瞬かせた。振るうという言葉では表現しきれないほどに苛烈で瞬間的。シンに与えられた時間はあまりにも短い。
メルクールランペを瞬間的に飛び上がらせると、それはシンの予想を超えて遙か上空にまで跳躍してしまった。機動力がインパルスガンダムはおろか、光の翼を解放する以前のメルクールランペさえ遙かに凌駕していたためだ。
しかし、それでもフォイエリヒはまたたく間に距離を詰めてくる。
「水銀燈、彼を主と認めるのですね」
「それがあなたの望みでしょ?」
アリスがかつての主と言葉をかわしたわずかな間にもフォイエリヒガンダムから光が瀑布のように押し寄せていた。ただでさえ黄金の体をミノフスキー・クラフトによる輝きも相まってもはや光そのもののようにさえ見えていた。
しかし、シンは戦っていた。戦えていた。
「エインセル……さん」
機動力がこれまでとはまるで違うのだ。インパルスガンダムではたとえ反応できても逃げ切れなかった攻撃でさえ、メルクールランペであれば逃れることができた。振り回されながらも、シンはゲルテンリッター初号機の力を頼りにかわし続けることができた。
「もうやめてください。あなただって、本当は撃ちたくなんてないんでしょう!?」
「プラントの崩壊はブルー・コスモスの悲願、違いますか?」
「それなら俺にガンダムを与えたりなんてしません。それに、要塞を先に破壊するなんて面倒なことしないで、直接アプリリウス市を攻撃すればすんだはずです!」
振り下ろされる、叩きつけられる、横薙ぎの斬撃、三つの攻撃をメルクールランペは一度にその剣で受け止めた。鍔迫り合いに移行することは、無論なかった。
剣で防いだとほぼ同時にメルクールランペは飛び出していた。
その直後、シンがいた場所を光が切り刻んだ。フォイエリヒにはまだ5つの剣があったのだ。
「俺にはわかるんです! 何となく……、ですけど……」
そう、シンが続けている間にも2人は戦いの手を緩めようとはしなかった。
「あなたはあなたのことが嫌いなんだ。自分のことが嫌なんだ。俺にはわかります。だって、俺もそうだから……」
フォイエリヒが暴力的な光をまき散らし、メルクールランペが飛翔し逃れる。この繰り返し。しかし、変化は生じていた。
「俺、母さんのこと、疑ってました。この人は俺を愛してなんかいないんじゃないかって。でも、そんな風に人を疑って、人を憎んで生きるってことは辛いんです! 母さんが俺のこと愛してくれてるって確信できた時、俺、素直に解放された気持ちでした! 同時に母さんのこと疑ってた自分が嫌になりました!」
メルクールランペが装備する西洋剣を模した大剣をフォイエリヒへと叩きつけた。それはビーム・サーベルによってたやすく受け止められてしまうものの、シンが一度とはいえ攻撃に転じたことは初めてのことだった。
そして、再び黒い天使は黄金の魔王の猛攻から逃れるために羽ばたいた。
「エインセルさんも俺と同じだったって、キラさんとゼフィランサスさんから聞きました」
同じくコーディネーターとして生まれ、親の愛を疑った。
2機はミノフスキー・クラフトの強烈な輝きを放ちながら戦闘を繰り広げていた。それは二つの流星が衝突と離脱を繰り返しているように見えたことだろう。量産型ではガンダム・タイプといえどもバック・パックなどの一部にしかミノフスキー・クラフトを搭載していない機体ではついていくことさえできない、そんな次元の異なる戦いなのだから。
もはや真性ガンダムでなければ立ち入ることさえできない戦いの最中、シンはわずかずつではあるが飛び方を会得していた。直線的な動きだけでなく、光の翼の方向を変えることで推進力の方向を加速力一辺倒にすることなく機体を自在に動かすことができると気付いたからだ。
そうして、シンは劣勢を強いられながらも攻撃に転じることができた。防がれてしまうとは言え、シンは剣をフォイエリヒに向けて振るうことができた。
しかし、そうはならなかった。防がれることはなかったのだ。捉えたはずのフォイエリヒの姿が一瞬にして視界から消え、シンはエインセルの声を聞いた。
「果たしてそうでしょうか?」
後ろ。そう、シンは直感の示すまま振り向く勢いのまま剣を構え、すると、そこへと光の剣が幾本も叩きつけられた。どうして防ぐことができたのか、シン自身理解しきれていなかった。だが考えている暇もない。
「私が父と呼んだ男は私のことを単なる道具としかみていませんでした。あなたとは違うのです」
より苛烈さを増したフォイエリヒの攻撃。機体を逃そうと飛び上がろうともフォイエリヒは追従する。もはや反撃に転じている余裕などないほどだ。
「私の過去があなたなのではありません。あなたの未来が私なのでもありません。私のありえなかった未来こそがあなたなのです。私は、あなたが憎んだ過去そのものなのです」
「あなたは、死にたいんですか……!?」
限界へとむけて突き落とされていく。それが現状だった。8本もの光の剣は防ぎきることもかわしきることも難しい。だからこそ防げるものは防ぎ、かわせるものはかわす。その組み合わせに徹するしかなかった。
「シン・アスカ。あなたが私を倒そうとするのはなぜですか?」
「母さんのためです。俺は、母さんを助けることができませんでした。それは母さんを助けられるだけの力がなかったからです。それに……、俺、母さんのこと、疑ってもいました!」
どれほど押されようとも、シンは生きていた。決して生かされているのではない。光の力をかわすことができる、防ぐことができる。フォイエリヒを見失うことがあっても、光の翼であれば反応することができた。
「だから俺は証明しなきゃいけないんです! あの時、力さえあったなら母さんのことを助けられたと、助けたんだってことを!」
シンは限界に挑戦していた。己の限り、そして、メルクールランペの力のすべてを引き出そうとしていた。
シンは試されていた。一つ限界を乗り越える度、フォイエリヒはさらに過酷な攻撃を繰り広げてきた。
そしてシンはガンダムを己の力にしようとしていた。フォイエリヒがその光でシンには防げない攻撃を繰り出して来た際、シンは戦士の本能として機体を動かした。通常のモビル・スーツでは不可能な方向に不可能な速度で機動したことで、回避したことで、シンはメルクールランペがこのように動けることを知った。攻撃に転じようとした時、逃れるフォイエリヒに追いつき剣を振るうことができたことでメルクールランペの間合いの広さを覚えた。
「もう、ここに母さんはいません」
そうして限界だと思えた力を乗り越えた先、新たな世界が広がっていた。
あまりに苛烈で、あまりに洗練されたフォイエリヒの光、それは光そのものが殺意と力を持っているかのようにこれまでは見えていた。しかし、光が剣へと変わった。光にしか見えなかったものが、太刀筋のあるビーム・サーベルとして認識できるものへと変わった。
「でも! できるはずなんだ! 母さんと同じ人を助けることで、俺は母さんを助けるんだってことを証明することは!」
綺麗な一撃だった。迷いなく振り下ろされた剣は一直線の太刀筋を描き、それは滑らかな斬撃となってフォイエリヒのアーム、その1本を斬り飛ばした。ビーム・サーベルを発振したままアームが放り出される。アームが減ったことでただでさえバランスの悪いフォイエリヒは目に見えて体勢を崩した。この速度でひとたび不安定になればよくて墜落、最悪、空中分解も起こりうる。
だが、シンはエインセル・ハンターがそのような終わり方をするとは考えていない。
「死ななくてもいい人のために戦い続けることで! 母さんに証明することが! それが俺の弔いなんだ!」
一瞬たりとも途切れぬ戦意のまま、シンはメルクールランペを加速させる。
そして、エインセルもまた戦いに応えた。回転を始めていた機体をそのまま回るに任せその勢いさえ利用して残された7本のビーム・サーベルを振るう。
「あなたに出会えてよかった。あなたに水銀燈を託してよかった」
「エインセルさん、もうやめてください! あなたはプラントを撃つつもりなんてないんだ!」
踊るように剣を舞うフォイエリヒの剣捌きは光であって死であり、そして壁ともなる。
「この世界の明日のため、事実が必要なのです。私がプラントを滅ぼそうとしたという事実が」
メルクールランペが攻撃を仕掛けようと、それは有効な一撃とはなり得ない。7本ものビーム・サーベルは攻防一体、死角はない。
「シン・アスカ。この世界をどう思いますか? かつて見上げた大地を足場としてもまだ争いを続け、終わりは果てが見えません」
「そんなこと、俺にはわかりません。でも、人に戦争は捨てられないだとか、戦争に犠牲は仕方がないだとか、そんな言葉がただの言い訳でしかないってことくらいわかります! そんなことをいつまでも言ってていいはずなんでないってことも!」
月を見上げることしかできなかった人々も、月を足場とすることができる人々でさえ戦いを続けている。今、ここに繰り広げられている光景が一つの証左である。
ユグドラシル、九つの世界に根を張る世界樹の名を与えられた大量破壊兵器を中心に地球とザフト、両軍が入り乱れている。ガンダム、同じ顔と名前を持つ兵器が向かい合い、光放つビームを互いに撃ち合う。
この戦場の最中を、天使と魔王は光の塊となって横断していた。まともな機体では追従することさえできない速度である。誰もこの戦いに参加することはできない。ただ見送る他ない。
そして、この2人からは、周囲の光景がまるで絵巻物のように見えていたことだろう。あまりの機体速度に背景は一瞬で通り過ぎていく。静止画を次々とコマ送りにしているかのような光景は、あまりに長く続いた戦いの歴史をスライド・ショーで眺めているかのように錯覚させられる。
それを眺める2人は、果たして何を感じているのだろうか。
「私も信じています。人の歩みは遅々として遅い。そうであるとしても、人は着実に前に進み続けているのだと。しかし、これまでに多くの命が失われたこともまた事実です。それは今ここでも起きている現実です」
メルクールランペは何度も剣を叩きつけた。そのすべてがフォイエリヒのビーム・サーベルによって防がれ、その度に光の粒子がまき散らされる。高速で移動する2機のガンダムから振り落ちた光は尾を引き戦場を流星が横切るようである。ミノフスキー・クラフトの出力を最大まで発揮したことで放たれる光は膨大であり、そんな2機が激突する様は光の塊にしか見えないのだ。
そして光の中で、一つの戦いが終わりを迎えようとしていた。
「エインセルさん! 俺は!」
シンがそのことに気付いていたのかは定かではない。しかし、立ち向かおうとする意志が、フォイエリヒガンダムを打ち破らんと振るわれ続けた剣は、当然の帰結のように一つの戦いへと帰着した。
フォイエリヒの防御はまさに鉄壁である。上下左右、あらゆる方向からの攻撃をすべて切り払うのだから。しかしどのような壁であっても防げないものがある。壁が完成する前に訪れた侵入者だ。
「俺は!」
シンはただがむしゃらだった。ただ前に、ただ敵へ、その刃を届かせようとしていた。その思いに、始まりの天使は応えた。光の翼はまばゆく輝き、ミノフスキー・クラフトの放つ光はついにはその漆黒の体を黄金の鎧にさえ見せた。
「私は信じたいのです。世界は正しい方向へと進み、だからこそ命失った人々の死は決して無意味ではないのだと」
天使の剣を魔王は自らの刃で防ごうとした。その試みは成功したことだろう。あとほんのわずかな時間があったのなら。魔王の結界が完成するよりも先に、メルクールランペはその内側へと入り込んだ。
それはまさに一瞬のことだった。
シンの裂帛の気合いとともに振り抜かれた剣はフォイエリヒをその一刀のもとに切り裂いた。
少年と魔王がすれ違ったのは一瞬と呼ぶことさえおこがましい刹那でしかなかった。しかし、少年は確かに魔王の最後の言葉を聞いた。
「そして私の死にも意味はあるはず……」
そして、時は終わりを告げた。
ユグドラシルの発射時刻を迎えたのである。月面に開けられた巨大な縦穴から一筋の光が立ち上る。それはザフトの要塞を焼き払ったものと比べるべくもなく頼りなげでか細い光でしかなかった。それは誰に触れることもなく、何を傷つけることもなく、空の闇へと消えていった。