コロニーを利用した大型屈折ビーム砲であるユグドラシルを巡る戦いは終始、ザフトが圧倒していた。しかし、同時に焦りを見せ始めているのもまたザフトであった。
本国を焼かれまいと奮闘するザフトの士気は高い。しかし、残された時間も少ないのだ。すでにザフトは準備不足から2度の攻撃に失敗している。後1時間も待たずにユグドラシルは発射されプラントに甚大な損害を与えることだろう。
ザフトの猛攻は続いているが、防衛戦は中心部に近づくほど密度を増し、戦況は次第に停滞し始めていた。そのこともザフトを焦らせている理由である。
ビーム・サーベルを両手に構えたインパルスガンダム、ルナマリアの機体が敵のイクシードガンダムを十字に切り裂いてその残骸を蹴り飛ばした。
「邪魔しないでよ!」
ルナマリアはすでに10機近い敵機を撃墜しているが、それでも敵の層は厚く、たやすく防衛戦を突破はさせてくれない。事実、ルナマリアもイクシード撃墜の直後、他の敵機からのビームを避ける形で後退せざるを得なかった。
無理に一点突破を図ったとしても周囲の敵機がその穴を埋める形で攻撃を仕掛けてくる。エインセル・ハンターのもとへは残骸一つたどり着かないことだろう。
時間が残り少ないにも関わらず、時間をかける必要があった。そのことがザフトを焦らせているのである。
ルナマリアにしても当然だろう。ここで敵の作戦成功を許せば、故郷と仲間たちを焼き払われてしまうのだから。ひたすらユグドラシルを目指そうとする。
その点、アスラン・ザラは冷静にさえ思われた。
「ルナマリア、あまり前ばかりでもだめだ。エインセル・ハンターがどんな抜け道を用意しているかわからない」
アスランのヤーデシュテルンはルナマリアとは違い敵陣に飛び込むようなことはしていない。ただ、飛び出して来た敵機を狙撃していた。
そのことは、ルナマリアには戦場の俯瞰に努める優秀な指揮官の行動に見えていた。
「あいつ逃がす訳にはいきませんもんね!」
そう、ルナマリアもまた前ばかりでなく周囲の警戒をし始める。エインセル・ハンターのことだ。いつ仲間を見捨てて逃げ出してもおかしくないのだから。
戦況はどこでも似たり寄ったりと言えた。シンたちミネルヴァの部隊もまた、敵の分厚い防衛に一進一退を余儀なくされていた。
シンのメルクールランペが月面のすれすれを高速で飛行する。翼様のスタビライザーを備えるメルクールランペの飛行する様子は、まさに月に飛ぶ鳥である。多数の地球軍機が猟師をまねて銃口を向けるも、速さが違った。通常のモビル・スーツを狙い撃つ感覚で放たれたビームは黒い鳥の飛び去った後を数瞬遅れで吹き飛ばすことしかできない。
次々と飛来するビームが月にいくつもの穴を開けていく。連射されたビームは銃身を熱し、冷却のための時間が必要となる。その好きにあわせ、シンは動いた。機体の手足、スタビライザーを駆使し、体の重心と角度を入れ替えると、ほぼ直角に機動を変えた。
感覚的に考えて接近されるまで間がある。そう、地球軍のパイロットは考えていた。だからこそ、またたく間に距離を詰めてきたメルクールランペの存在をすぐに受け入れることができず、メルクールランペの西洋剣が自機を真一文字に切り裂く瞬間まで状況を把握することができなかった。
この戦争はガンダムのための戦争である。誰かが言ったこの言葉を、メルクールランペはよく体現していた。白兵戦への攻撃力の依存度が増し、それを性能的に支えているのがガンダムと呼ばれる機体群であるからだ。
しかし、シン1人の活躍で戦場を動かすことはできていない。仲間がやられたとみると、地球軍はすぐにメルクールランペに攻撃を集中しようとする。すると、シンとてやむなく距離を開けざるを得ない。
先ほどからこの繰り返しなのである。シンが隙を見て敵機を撃墜し、敵機の注意が集中したところで距離を稼ぐ。この繰り返しである。
突破の糸口は、まだザフトの誰もが掴めないでいた。
このままではこの戦いに勝つのはザフト軍だろう。しかし、勝利を収めるのは地球軍である。
当然、不安を口にするのはヴィーノ・デュプレであった。この少年だけがプラント本国に家族がいるのだから。
「なあ、シンにならエインセル・ハンターを止められるのか……?」
たとえ、ザフトによる攻撃が失敗したとしても。
「……無理だと思う。俺の言うこと、あの人が聞く理由ないからな……」
自分の考えが甘いものだとはヴィーノ自身、理解しているのだろう。シンに否定的な意見を聞かされても最初からわかっていたように振る舞った。何も様子が変わらなかったのである。ただ、搭乗するインパルスのビーム・ライフルを放ち続けていた。
まだ話をする余裕があるのはシンとレイの2人だけだった。
「……でも、あの人を止めなきゃいけないことは間違いないんだ」
「ならば急ぐことだ。計算ではユグドラシル発射とザフトが防衛戦を突破するのとは微妙なところだ」
しかし、地球軍の攻撃もまた激しい。
レイのローゼンクリスタルのすぐ脇をビームが素通りしていった。
「今は話をしている場合ではないな!」
3機のガンダム・タイプがそれぞれ、敵の攻撃に反応して拡散する。
このままでは間に合わない。そんな焦りがシンを始め、多くのザフト兵の間で共有されつつあった。すると、焦りが失敗を招き、失敗がさらに時間を出血させていくという悪循環に陥っていく。
実際、シンが見えている範囲でさえ、無謀な突撃の結果、集中砲火を浴びて撃墜されたヅダがあった。地球にくらべ遙かに弱い重力のせいで、火の塊となったヅダの残骸はスローモーションでもかけられたかのように間延びした印象で墜落していった。その様は趣味の悪い余韻を残す。
だが、目で追うことでシンには見えたものがあった。
「隊長……!」
「何か道が見つかったなら行け。お前とエインセル・ハンターとの間にどのような因縁があるのか知らんが、今のザフトには糸口を必要としている」
「はい!」
レイ・ザ・バレル隊長は詳細を聞こうとせず、ヴィーノには聞いている余裕などなかった。そのため、シンが実行に移した時、ヴィーノはためらいなく驚きの声を上げた。
「シン! 無茶だろ!」
「引き留めても無駄だ」
メルクールランペはその加速力のまま、急降下を開始していた。そこに敵はいない。だからこそ、シンはそこを目指した。
月面に走るクレバスである。それが天然のものなのか、それとも人為的に作られたものなのかシンにはわからない。しかし、上空から見たその深い谷は、敵の防衛網を突き抜けるようにその真下を通っているように見えた。
ここを通り抜ければ戦闘を行うことなくユグドラシルへと、エインセル・ハンターのもとへと至ることができるとシンは考えたのである。
そう、シンだけが考えた。
クレバスは直線ではなく不規則にねじ曲がっている。壁に激突すればよくて大破は免れない。しかし安全に通り抜けられるよう速度を落とせば上空から狙い撃ちにされる。つまり、シンの壁に衝突するか上空から撃墜されるか、その二つに一つしかないと誰もが考えていた。
そして、シンはクレバスへと進入した。
メルクールランペの発するミノフスキー・クラフトの斥力が月の塵を吹き上げる。それほど谷は狭く、ここを飛行することは自殺行為と言っていいだろう。正面の崖をかわそうと動けば、すぐ次の崖が人間の反応速度では間に合わないほどすぐに現れる。その繰り返しである。
しかしシンは速度を一切落とすことなく谷の中を飛行し続けた。崖をかわすさい、スタビライザーの切っ先が崖の表面をかすめた。即座に迫り来る次の崖は機体を回転させ身をひねるようにして回避した。そうして、シンはほとんど速度を落とすことなく谷の中を飛び続けている。
上空では誰もがシンのことを無視しようと努めていた。どうせ崖に衝突して終わりだろう。わざわざ限られた手数を回す必要もない。そう、地球軍の誰もが確信し、やがて揺らいでいった。
メルクールランペは速度を落とすこともなく、崖に激突することもなく、その翼を広げ飛び続けている。
ぶつかるに決まっている。激突するはずだ。なぜ、崖に衝突しない。地球軍の中には思わず眼下のメルクールランペへと銃口を向けようとした者もいる。だが、そんなことをすれば目の前のザフト軍に対して無防備になってしまう。結局、もとの結論、どうせ抜け出せるはずがないと自身を納得させる以外に方法はなかった。
そんな淡い期待をシンは裏切り続けた。
シンは上空からクレバスの状態を確認していた。後は、意識の加速である。あらかじめクレバス内部の飛行の仕方を考えておいて、後はそれにあわせて体を動かすだけである。認識、あるいは確認の手間を省くことができるため、シンは外からは人間の反応速度を上回った動きをしているかのように見える。
つまり、人間では突破不可能な峡谷を、シンは飛び続けた。
もはや限界と地球軍の中からメルクールランペを狙う者も現れ始めた。
だが、モビル・スーツの優れた射撃管制システムはメルクールランペを捉えることはできない。モビル・スーツの挙動を予測し正確な射撃を助けるシステムが、あり得ない動き、あり得ない速度のモビル・スーツがいることを前提とした予測などするはずがないからである。ただ無駄に崖を破壊し、無為に自身を危険にさらすだけである。
そして、メルクールーランペは、シンはついに谷を通り過ぎた。
その時、シンは何かが煌めくのを目にし、ほとんど無意識にメルクールランペの剣を振るわせていた。
大気がない、つまり音を伝播することのない月で刃と刃とが無音のまま激しく衝突した。
身を翻し後ろ向きに着地するメルクールランペ。谷を飛び抜けた勢いを月面に轍を刻み相殺する。
すでに防衛線は突破している。ここに敵の主力が控えているはずもなく、シンと対峙するのはたった1機のモビル・スーツだった。
緑を基調とした機体だった。インテンセティガンダム・タイプの機体であり、背負ったバック・パックが甲殻類を思わせるのが特徴的である。バック・パックにそれぞれアームで連結された一対のシールドを持つことからもわかるようにビームを屈折させる特殊機構を有する防御力に優れた機体である。
この鎌を構える緑の死神を、シンはこれまでに目にしたことがあった。
「この機体……」
間違いなかった。シンがまだミネルヴァに乗る前のこと、建造途中の怪しげなコロニーを襲撃した際に遭遇した3機のガンダム、その内の1機なのだから。あの時、シンは為す術もなく逃げ出すしかなかった。
シンが否応なく緊張感を高めている中、しかし敵のガンダムは跳びかかってくる気配を見せなかった。
通信から少年の声が聞こえてきた。
「聞こえてんだろ、シン・アスカ?」
「君は……?」
「アウル・ニーダ。お前にはダチが世話になった!」
いきなりのことだインテンセティは鎌を叩きつけんばかりの勢いでシンへと襲いかかった。とっさに西洋剣で防ぐと、両者の刃は火の粉を散らし弾き合う。ともに高周波で振動する刃なのだろう。だから切断されることなく触れあうだけでも火花を散らす。
一撃で終わるはずはなく、鎌による攻撃は次々に繰り出される。シンはすべて西洋剣で受け止める。
「お前もあのコロニーにお前もいたんだろ? どっちだ? スティングに追い払われた方か? それとも俺に切り刻まれた方かよ!?」
「それじゃあ、お前も……。答えろ! あのコロニーはこの兵器の一部だったんだな!?」
「ああ? 屈折コロニーを建造途中に偽造してたの知らねえってことはまぐれかよ? どうりで弱っちい奴らだと思ったぜ!」
インテンセティガンダムが突如放ってきた蹴りがメルクールランペを捉え弾き飛ばす。月面を軽やかに浮き上がった漆黒のガンダムの体は月面を滑り、しかしそのコクピットの中でシンはかすかな笑みを浮かべていた。
「エイブス隊長、あなたの言ってたこと、間違ってませんでしたよ……」
家族のもとに帰ることのできなかったかつての隊長は、建造途中のコロニーを疑い威力偵察を敢行したのだから。
だがそんなことはアウルにはどうでもいいことと言えた。ミノフスキー・クラフトをまばゆいばかりに輝かせ、シンを追って飛び出した。迎え撃つシンの横薙ぎをインテンセティは浮き上がるようにかわすと、メルクールランペの頭上で逆さまのまま鎌を振り下ろした。
シンはすんでのところでかわしたものの、低重力とは言え上下逆さまにも関わらずアウルは直立するシンよりも安定した感覚を見せていた。無理な姿勢をしていたにも関わらず完全な着地をきめ、戸惑うシンをよそに追撃に移ろうとする。
「俺たちには特別な力がある。空間を三次元的に把握するって奴がな。ユグドラシルを制御するためには必要な力だ! 俺たちは調整してたんだよ! これで満足かぁ!」
叫ばんばかりの言葉とともに叩きつけられる鎌の一撃はメルクールランペの体勢を崩す。だが、シンも負けることはできない。
「邪魔を、するな! 俺はこの先にいかなきゃいけないんだ!」
強引に引き戻す勢いのままに叩き降ろされた一撃は鎌に受け止められつばぜり合いの体勢のまま、膠着する。振動する刃はただ触れあっているだけで火花を散らす。
黒い天使と鎌持つ死神とがにらみ合う。
「エインセルのおっさんに仕返しするためだろ? だったら付き合えよ、俺の復讐にもな。知ってんだぞ、お前の母さん、エインセルのおっさんに殺されたんだろ」
アウルの言葉に、シンは自分でも驚くほど動揺を見せた。
「俺は復讐のため……、いや……」
「何言ってんだよ!?」
「わからないんだよ! 何をしたいのかなんて!」
何が切っ掛けだったのか。両機はお互いを弾き飛ばすように飛び退くと、月の荒野で対峙する。
「俺にとって母さんが何だったのかわからないんだ。だから、何をしていいかもわからないし、復讐なんて言えるのかどうかもわからないんだよ!」
「はあ? 馬鹿か!? 母さんなんだぞ。子どもにとって母親は世界一馬鹿なお人好しだろ。どんな時だって味方してくれる人だろうが!」
「わからないんだ!」
再び激突する2機。両者は徐々に意識を加速し始めていた。激突する剣と鎌とが人の反応速度を超えだした。シンもアウルもいちいち攻撃が当たったこと、回避したことの成否を確認などしない。ただ自分で予測した通りに操縦し、その通りに現実の戦いは展開していった。
意識下での認識作業を省くため、天使と死神、2機のモビル・スーツの動きは人の認識を自然と超えることとなる。
そして、両者は再び離れた。
まだ意識の加速が完璧でない2人は加速させられる時間にも限界がある。2人が同時に離れたということは、シンとアウルの実力が互角であることを意味する。
まるで息を止めて殴り合っているかのようなものだろう。アウルは深呼吸でもしたかのような間を置いて再び機体を突撃させる。
「あ~、訳わかんねんよ! てめえ、何考えて生きてんだ?」
シンもまたメルクールランペを動かした。
「君の母さんと君がどんな関係だったかなんて知らない! だけど、俺とは違うってことくらいわかる!」
メルクールランペの剣とインテンセティの鎌、それはでたらめに振り回されているかのように衝突し続ける。
「お前がコーディネーターだからか?」
「そうだよ!」
「馬鹿じゃねえの?」
「何だと!?」
思わず意識の連続が途絶えたのだろう。インテンセティの膝蹴りがメルクールランペを蹴り上げた。70tもの機体が浮き上がるほどの衝撃にはシンの体を突き抜けた。それでもアウルは攻撃の手を緩めない。不自然に浮き上がるメルクールランペへと、正確な一撃を見舞う。
剣で受け止める。それがシンにできたせいぜいのことだった。アウルはすぐさま攻撃に転じ、後ろ回し蹴りが再びメルクールランペを弾き飛ばす。
「俺、さっきから聞いてるよな? お前と母さんの関係はどうなんだってよ? なのになんだ? お前が生まれる前のことばっかじゃねえか!?」
突き出された鎌の先で、シンは何も言い返すことさえできず、何もできないでいた。未だに答えを持たず、その戸惑いだけが心を支配しているからだ。
そんなシンを、アウルはただ吐き捨てた。
「けっ!」
アウルには今のシンがただの馬鹿にしか見えないのだろう。わかりきったことを前にいつまでも悩み答えを出すことのできないのだから。
「終わらせてやるよ、親不孝者がよぉ!」
インテンセティガンダムのバック・パックが輝きを放つ。ミノフスキー・クラフトの強度を高めたことで余剰推進力が光に転換されそれだけまばゆく輝くことになる。
これで勝負を決めるつもりなのだ。
鎌を振り上げた死神をかたる鋼鉄の塊が急激な勢いでメルクールランペへと接近する。
アウルには見えていた。自分がどのように動き、相手がどのように動くのかを。そして、シンをスティング・オークレーの仇として終わらせるつもりでいた。
シンにも見えていた。これまでの戦いで培った知識と経験から。しかし、目標を設定できる段階にはなかった。
「てめえはスティングの仇だ!」
「わからないんだよ!」
天使と死神の戦いは一瞬で終わった。常人には単に両者がすれ違ったようにしか見えなかったが、その一瞬で交わった刃が腕を斬り飛ばしていた。宙を回転しながら浮遊する鎌と、その柄を掴んだまま切断された両腕。そう、インテンセティの腕だった。
微重力の中を鎌が落ち、インテンセティガンダムは大きく体勢を崩したまま月面に突っ込んでいた。その両腕は肘の先から切断され、墜落の衝撃もあるのだろう。辛うじて起き上がろうとする機体の動きは鈍い。
「何で俺が負けるんだよ……?」
メルクールランペは機体に損傷はない。ただ、コクピットの中でシンは息を切らせていた。緊張が思いの外、シンを疲労させていたらしかった。
「焦りすぎだ……。お前、自分の予想と違うことしたな……? わかってたんだろ、ここで倒せないってことくらい……」
「てめえは仇だ! 俺がやらなきゃならねえんだよ!」
「そうやって復讐を優先して、予想と違うことをしたんだろ……」
それではどれほど正確に予測ができていたとしても意味がない。そんなことを、かつてアウルは聞かされていた。真紅にそう諭され、復讐に囚われることを戒められていた。
「真紅の言ってたの、このことかよ……」
自分に負けた。これほどこの言葉が相応しい状況もないだろう。
アウルは機体の状況を確認する。全天周囲モニターには稼働こそ可能なものの、両腕を失い、墜落の衝撃でフェイズシフト・アーマーに損傷も生じていた。戦えることはできる状況だが、万全にはほど遠い。
何より、アウルは自身の不手際を嘆いている、いや、苛立っているらしかった。コンソールを叩きつける手、その瞳には涙さえ浮かべている。
「……殺せよ」
悪足掻きをすることなく討たれるつもりでいたアウルを、しかしシンは背中を向けた。
「おい、どこ行くつもりだ?」
「俺の目的はエインセル・ハンターに会うことだ。君を殺す意味なんてない」
「戦争だろうが!」
「だから命を失わなきゃいけない人は最低限にしなきゃいけないんだ……!」
メルクールランペは背中のフィン・スタビライザーを翼のように広げ、本当に飛び立とうとしていた。
アウルの声には焦りさえ含まれていた。
「俺を生かしとけばまたお前を狙うぞ!」
「君の仇をとろうと他の誰かが来るだけだろ」
「お前だって同じだろ! エインセルのおっさんを殺せばヒメノカリス姉ちゃんがお前を殺すぞ、絶対にな! あの人にとってエインセル・ハンターがすべてなんだよ!」
「わからないんだ……。どうしたらいいのか……?」
シンとアウルの関係は、最初から何も変わっていなかった。自分の考えを確かに持っているはずのアウルと、自分が何も考えを持っていないことを確信しているシン。
しかし、勝利を収めたのは迷いを持つ者の方だった。この事実はアウルを揺るがせるには十分なものだと言えた。
「何なんだよ、お前……。じゃあ、何のためにエインセル・ハンターに会いに行くんだよ……?」
「それを知るためだと思う。それに、人が人を焼いちゃいけないってことだけは、わかるんだ……」
黒い天使葉は翼を広げ飛び立った。魔王と呼ばれた男のもとへと。
ゼフィランサス・ナンバーズ。
ガンダムを創り上げたゼフィランサス・ズールが最初に手がけた3機のガンダムの総称である。大西洋連邦はこの機体を参考にGAT-X105ストライクガンダムをはじめとしたGATシリーズを完成させ、このGATシリーズが量産型のモビル・スーツの基となった。つまり、すべての地球のモビル・スーツの基となった機体軍であると言える。
しかし、この兵器は兵器としては完全な失敗作と言える。
生産性を一切考慮されていない。まったく未知の技術、確立されていない理論を用いることを前提としたものであり、そもそも常識的に考えたなら完成さえおぼつかない机上の空論でしかない。
量産を前提としていない。機体のコストは量産機の数十倍にも及び、大西洋連邦でさえゼフィランサス・ナンバーズによる大隊を構成するだけで軍事費の枯渇を招きかねない。
操縦性があまりに稚拙である。人というものをまるで理解していないのだから。大西洋連邦軍のどのようなパイロットでさえ満足に動かすことができなかった。人の限界を超えた者にしか操縦できないことは、人が扱うことが前提であるはずの兵器の根幹が充足されていないことを意味する。
完全な欠陥兵器、それこそがゼフィランサス・ナンバーズと言えた。
まさに子どものおもちゃだ。子どもがスケッチ・ブックに殴り書きにしたスペックを、子どもが口にしそうな天文学的なコストで生み出された存在だと言えるのだから。
本来であればこのような兵器が存在するはずがなかった。
しかし、C.E.61年2月14日、この運命の日こそがすべての始まりだった。Zのヴァーリであるゼフィランサス・ズールと、3人のムルタ・アズラエルが出会ったその時、すべてが動き始めた。
想像外の構想の持ち主と、それを実現させる力を持つ財団との出会いがすべての始まりだった。
ゼフィランサス・ナンバーズの内、すでに1機はヤキン・ドゥーエ攻略戦において消失している。残るは2機、ZZ-X300AAフォイエリヒガンダム、ZZ-X200DAガンダムトロイメントである。
そして現在、月面にはフォイエリヒガンダムが運び込まれていた。
通常のモビル・スーツの半倍にも近い25mもの巨体に黄金に輝く装甲。それが鬼才ゼフィランサス・ズールによって生み出された最強のモビル・スーツ、その1機なのだと知らない者であっても思わず目を奪われることだろう。
フォイエリヒガンダムは現在、月面基地の地下に収容されていた。ドーム状の大空間に立ち並ぶ柱。まるで神殿を思わせるその中に安置された神像そのものと言える。
それを見下ろす形でもうけられたモニター・ルームには2人の影があった。軍事施設でありながら、その2人は軍人というよりも実業家とその秘書にしか見えない。白いスーツを身につけた男子と、そのすぐ後ろに仕える眼鏡姿の女性、エインセル・ハンターとその妻であるメリオル・ピスティスである。
エインセルはガラス越しにフォイエリヒガンダムを見ていた。
「メリオル、ここはまもなく戦場になります。離れるよう、言っておいたはずですね?」
「嫌です!」
エインセルの背中へとメリオルはすがりついた。これまでメリオルが見せることのなかった狼狽ぶりであった。
「私には世界のことなんてどうでもいい! この戦争の責任を誰かがとらなければならないというなら! それは、あなただけの責任ではないはずです……!」
メリオルの涙はエインセルの背中に染みこみ消えていく。
「お願いです……! 私と一緒にいてください」
エインセルは大窓に手をつきフォイエリヒを見下ろしたままであった。
「メリオル、わかってください。これは償いなどではありません。ただ必要なことをする、それだけのことなのです」
「では、どうしてシン・アスカに興味を持つのですか? あの子の母親を殺めてしまったことの償いをされるおつもりなのでしょう?」
「違います。シン・アスカ、この少年は自身の生い立ちに悩んでいます。父を持たず、母の思いを疑わざるを得ない身の上であるからです。私には母がいません。父はいましたが、彼は私を愛してはいなかったことでしょう」
アル・ダ・フラガ、そのクローンにドミナントの技術を使用することで生まれた存在、それが、今はエインセル・ハンターと名乗る存在であった。ただ高性能な人間たれ、それだけを望まれ、しかし、その父の歪んだ願いをエインセルが叶えた時、彼はエインセル・ハンターを愛することはなかった。
シン・アスカ、その母であるマユ・アスカは夫をもつことなく子を望み、その子をコーディネーターとして産んだ。シン・アスカは優秀な学生であり、ザフトでは赤服を受領するほどのパイロットとなった。しかし、すでに母は命を落としている。
では、答えはどこにある。子を愛さなかった父はいた。では、母もまた子を愛さなかったのだろうか。
「あの少年はあなたとは違います! どんな思い入れがあると言うのですか? 彼には精子提供者の父親がいます。あなたとは違うのです……」
メリオルの声は非常に不安定なものであった。怒鳴るほどの勢いがあったかと思うと、すぐにしぼみ聞き取れないほどになってしまう。
しかし、エインセル・ハンターだけは普段と何ら変わる様子を見せない。
「遺伝子を提供しただけでは父親にはなれません」
「・・・・・・誰なのかご存じなのですか?」
「いいえ。確かにシン・アスカについては調べましたが、単なる遺伝子提供者には興味が持てません」
「では……、なぜですか? どうして彼でなければ、今でなければならないのですか……?」
「私は、敵であって敵でない者に、復讐者にして復讐者でない者に、何より愛を知る者に倒されなければならないのです」
エインセルがポケットからハンカチを取り出すと、振り向くなり妻の涙を拭う。しかし、メリオルは涙で汚れた顔を夫に見てもらいたくなかったのだろう。つい顔を伏せてしまう。そんなメリオルのことを、エインセルはそっと抱き寄せた。
「メリオル、私たちが夫婦になって14年になります。プロポーズの言葉を覚えていますか?」
「もちろんです。家族になりましょう、ただこれだけでした」
「ええ。後にムウとラウからは叱られました。愛を囁くにしてはあまりに味気ないと。ですが、これが私の正直な気持ちでした。私は家族が欲しかったのです。あなたとなら作り出せる、あなたと作りたいと考えていたからです」
そう微笑むエインセルの表情は柔らかい。普段見せる作られた笑みとは違うものだ。
「母はなく父に認められなかった私は、家族が欲しかったのです。ですが、ことは簡単ではありませんでした。私は現代の女性と子どもをもうけることができません。我々は子どもに恵まれず、精子バンクに登録したことも私の若さ故の過ちなのでしょう。それでも、私は家族を得ることができました。あなたとヒメノカリスが私の家族です」
魔王と呼ばれ恐れられるとともに憎まれる。しかし、そんな男を慕う者も決して少なくはない。自分自身を狩る者、そう自ら名乗る男をどう評価すべきか、後の歴史家たちは頭を悩ませることだろう。そんな彼らは魔王と呼ばれる男が何を求めていたのか、そして、家族にどのような表情を見せていたのかを彼らは知ることができないのであればなおさらだ。
「14年前、ユニウス・セブンでのゼフィランサスとの出会いがすべてを変えました彼女は我々に目的と手段を与えてくれました。その時、私はいつかあなたを置き去りにする日が来ることを理解しました。この残酷な無責任を責めますか? あなたにはその資格があります」
メリオルはエインセルの腕の中でまず目を見開いた。驚愕か、あるいは絶望か。夫の覚悟を曲げることなどできないことは、とうに理解していたはずだった。たとえどれほど泣いて見せたところで、エインセルはメリオルから離れてしまう。そのことを理解しているはずのメリオルだったが、涙は自然とこぼれ落ちた。
「……いいえ、そんなこと……できません……」
これが、愛する男に送る精一杯の言葉なのだろう。理解はしていても納得はしていない。本当ならば自分と一緒に逃げてもらいたい。それでも、夫の足手まといになることもまた望んでいない。
そんなせめぎ合いの中でメリオルは辛うじてエインセルを立てることを選んだ、それだけのことだった。
「ありがとう、メリオル。あなたは私にはもったいない女性でした。これ以上、私はあなたの傍にはいられません。しかし、私とあなたが夫婦であるという事実はたとえ世界が終わっても変わることはありません。わかりますね」
エインセルは抱き寄せた時と同様、優しく妻への抱擁をといた。歩き出すその姿は普段と変わらないようにさえ見える。すべての支えを失ったメリオルは腰から座り込むと、もはや夫を見送ることもできずに涙を流すしかない。
時が近づいていた。
「メリオルを頼みます」
そう、扉の脇に待機していた兵士に声をかけると、兵士は頷いた。
「この命に代えましても」
「ありがとう」
この日、過去と未来とが邂逅する。