シン・アスカは走っていた。その手にしたプロジェクターには赤いドレスの少女が映し出され、その光がそのままカンテラの明かりとしてシンの足下を照らしていた。
地下へと続く階段が伸び、その奥にまで光は届いていない。石造りの柱に支えられた地底への道は、流麗な屋敷の一角とはとても思えない。
「シン・アスカ、この先にエインセル・ハンターはいるわ」
魔王は深い闇の中にいる。シンは一瞬の躊躇を見せたものの、階段を降りる最初の1歩を踏み出した。
「あなたはエインセル・ハンターに会ってどうするつもりなのかしら?」
真紅の声を聞きながら階段を降りていく。
「プラントを攻撃しないよう、説得できると考えているのかしら? それとも力尽くで止めるつもりなのかしら?」
シンは答えなかった。自分でさえ何がしたいのか、何ができるのかわからなかったのだろう。すると、真紅の言葉はシンの自問の言葉と重なっているのかもしれない。
「あなたはエインセル・ハンターに母親を奪われた。でも、あなたも理解しているはず・あなたはスティング・オークレーを殺した。彼の友人だったアウル・ニーダはあなたを仇だと思ってる。あなたがお母様の仇とエインセル・ハンターを狙うのと同じように」
靴音が石段を叩く音だけが響く中、真紅の声が染み渡っていく。
「あなたが復讐を遂げたなら、あなたはヒメノカリスから父親を奪うことになる」
シンは無言のまま階段を降り続けていた。ここまでは走り続けていた。しかし今のシンの足取りは慎重ともためらっているようにも思えた。
「もう一度聞いてもいいかしら? あなたはエインセル・ハンターに会ってどうしたいのかしら?」
「わかるわけないだろ……。でも、俺はエインセル・ハンターに会わないといけないんだ……!」
シン・アスカがエインセルハンターと再び対峙すると決めた数日前に、すでに世界は動き始めていた。
月を間近に見下ろす月面上空、大西洋連邦軍の戦艦であるガーティ・ルーが停泊していた。眼下にはクレーターに巨大な蓋をしたかのような施設があった。その蓋がわずかずつ開いてくと、底知れない穴がゆっくりと顔を出していく。
ガーティ・ルーはその穴を見下ろす位置にあった。
その艦内には奇妙な設備があった。貴重なスペースを消費してまで造られた広い空間には、その中央にコクピット・シミュレーターを思わせる内部に座席を備えた球体があるのみである。その球体にはいくつものコードで床と繋がっていた。
単なるシミュレーターにしては大がかりに思えた。また、それを前にする3人もまたどこか違和感を覚えさせるだろう。少年と少女なのだから。
不安げなステラ・ルーシェのすぐ横で、白いドレス姿のヒメノカリス・ホテルが装置と相対していた。
「お姉ちゃん、ここに座ればいいの?」
「そう。お父様はあなたに託された。お父様のため、怖いものはみんな壊さないといけない。わかるでしょ、ステラ?」
「……うん。ステラが、みんな壊す」
不安を完全に払拭できたのではないのだろう。しかし、ステラは姉に導かれるまま座席につく。すると、周囲が淡い光に包まれ、装置が起動したのだとわかる。ステラがコンソールを叩き調整を行っているところを傍目に、最後の1人、アウル・ニーダはステラの代わりにヒメノカリスの横に立った。
「なあ姉ちゃん。姉ちゃんはいいのかよ、シン・アスカのこと? あいつ、おっさんの命狙ってんだろ?」
「お父様のご意志はすべてにおいて優先されるの。お父様がシンをお招きになるなら、私はそれを否定することはできない。でも、大丈夫かもしれない。お父様はシン・アスカに失望されたようだったから」
「てか、シン・アスカってただのザフトだろ? なんだって特別扱いなんだよ?」
「お父様はシン・アスカとご自身の生い立ちを重ねているように思える」
「それとどう関係あるんだ?」
「わからない」
ヒメノカリスはおしゃべりを嫌うことはないが、必要なことしか話そうとしない。つまりわからないと言った以上、本当にわからないのだろう。それを理解するアウルは両手を頭の後ろに、ただ溜息をついた。
その時のことだ。規則正しい靴音が響いた。現れたのはイアン・リー艦長だった。固い表情は軍服姿と相まって如何にも生粋の軍人を思わせる、そんな男だ。
「お久しぶりです」
「おっさん誰だよ?」
「イアン・リーだ。君とはすでに地球降下前に会っているはずだが?」
「ああ、姉ちゃんに色目使ってた奴か」
小惑星フィンブルとともに地球に降りる前、アウルは確かにこの艦長と会っていたことを思い出していた。もっとも、この少年の目には姉のことをやらしい目で見ている見ている中年男性という印象でしかなかったが。
もっとも、リー艦長にしてもそのことを気にした様子はなかった。ただ職務に忠実な軍人を思わせる。
「アポロン・コロニーの設置が終わりました。これですべてのコロニーが所定位置についたことになります。ああ、お懐かしいのでは? アポロン・コロニーと言えば我々がザフトの襲撃を受けた場所でした」
ヒメノカリスは無言で頷くと、ふと弟の方を見る。
「アウル、知ってる? シンもその戦いには参加してたそう」
「そういえばソード・シルエット使ってたストライクもどきがいたな。あの時に殺してやりゃよかった」
「きっと、シンも同じことを考えることになると思う。リー艦長。お父様はユグドラシルの使用を決定された。プラントの盾を焼け、そう命じられた」
「心得ています」
ザフト軍、ナスカ級のブリッジでは奇妙なものを捉えていた。移送されるコロニーである。宇宙の暗闇の中、そのコロニーはまだ完成していなかった。
シリンダー型のコロニーはその内壁に人々が暮らすことになる。だがそのコロニーではまだ何ら建造物が設置されていない。両端が閉じられていないことからその様子は容易に把握できた。言うなればただの巨大な筒でコロニーとしての機能をまるで備えていない。
そんなものを、なぜか地球軍が護送していたのである。加えて、ラグランジュ・ポイントからも離れている。
あまりに非効率的だが、そんなものをなぜ地球軍が運んでいるのか、ザフトには理解できなかった。暗闇に浮かぶ巨大な筒に不気味さを覚えながらも、ザフトはこの出来損ないのコロニーを攻撃することに躊躇いを覚えていた。
少なくとも、ナスカ級のブリッジにおいてはコロニー攻撃に価値を見いだせない者が大半であった。
「艦長。確かに不気味ですが、単なる示威行動とみるべきでしょう」
副艦長はまだ若い男性であったが、艦長は白髪を生やした壮年の男性であった。その顔には深い皺が刻まれ、白い軍服に包まれた恰幅の良い体つきとも相まってこの老人に独特の雰囲気を与えていた。
「ふむ。お前はそう見るか。だが我々がここに言わせたのは単なる偶然。では彼らは誰に観劇してもらうつもりだったのかね?」
「ですが、未完成のコロニーに軍事的な価値があるとは思えません」
「よし、モビル・スーツを出すか」
「し、仕掛けるのですか?」
「パイロットたちは待機させているんだろう? なら早く出せ」
艦長からの命令である。副艦長はためらいがちながらも艦長の指示をクルーたちへと告げる。すでにコクピットにて待機していたパイロットたちが出撃するまでに要した時間はわずか数分。多数のヅダが、独特のシルエットを有するナスカ級の電磁カタパルトにより光の粒となって宇宙へと射出されていく。
まだ納得しきれていないのだろう。若い副艦長は釈然としない様子で艦長のすぐ傍に立っていた。しかし、艦長は暢気とさえ言えた。
「ああ、言い忘れとった。ひよっこどもにはあまり熱くならんように言っておけ。一波乱来そうな気がするでな。今から飛ばしていては最後までもたんぞ」
パイロットをひよっこと呼ぶのはこの艦長くらいなものだろう。プラントでは若い軍人が多く、艦長のような年配の者は珍しい。そのこともあってか、クルーにとって少々ぼけ始めた父親か祖父の相手をしている気分の者も少なくないらしい。
「艦長殿のご命令だ。パイロット各位に伝えろ。その、熱くなりすぎないようにとな」
「はい、了解です」
管制がパイロットに連絡を繋ごうとした時のことだ。ブリッジに警報が流れた。巨大な熱源の接近を告げるものであり、クルーたちはまたたく間に浮き足立つ。敵の攻撃にさらされるのだと慌てるクルーたちに対して、艦長だけが何事も起きていない、そういった様子でこれから起きること、その一端を目撃していた。
どこからともなく飛来した巨大な光の柱、それがコロニーの筒の中を通り抜けたかと思うと、軌道を湾曲させ彼方へと飛び去っていった。
触れてもいない、ただ背景を通り過ぎていっただけにも関わらずブリッジにけたたましい熱源警報を鳴り響かせながら。
艦長が目撃した光。それは月から放たれたものだった。
月面に一つ増えたクレーターの蓋が重々しく開かれると、そこには深い穴が顔を見せる。暗く、底を見通すことはできない。しかし、それもわずかなことだった。穴からこぼれ落ちるかのように光の粒子が黒い空へと昇り始めると、やがて穴の底からも光があふれ出す。
膨大な光が穴の底に溜まり、限界を迎えた瞬間、一挙にあふれ出した光の柱となって宇宙の闇へと突き立てられた。
放たれた光はまず、第一の筒を通り抜けるとその軌道を大きく曲げた。そして次の筒へしては直進また筒を通り抜けたことを合図として軌道を変化させた。続く筒でもまた同じ現象が起きた。
そうして、両端が閉じられていないいくつものコロニーによって軌道を徐々に変更された光は、月から発射された時からではあり得ない方向に突き進んでいた。そして、目的地へと到達した。
そこはザフト軍の宇宙要塞、ヤキン・ドゥーエ防衛戦後に建築された五つの内の一つだった。小惑星の内部を削岩して造られたこの要塞では、出入りする戦艦の姿が見られる。出向したローラシア級がその進行方向に何か光るものがあることを発見した。
その瞬間、ローラシア級は光の中に呑み込まれた。膨大な熱量が艦体を蝋のように溶かすと、熱に耐えられるはずもない内部へと光が及んだ瞬間に光の濁流の中に溶けて消える。
光はそのまま要塞へと突き刺さった。
直撃を受けていない戦艦であっても表面は泡立ち、その内部では発火点を迎えた順番にあらゆる者が区別なく燃え出した。
要塞はもはや地獄そのものだった。小惑星としての原形こそ保っていたものの、開口部から侵入した光はすべてを焼き尽くす。停泊中の戦艦、投げ渡された給水ボトル、装甲を取り外された整備中のヅダ、またはデスクに飾られた家族写真、あるいは人体、そのすべてが溶け区別なく混ざり合う。
遺族は、もはや遺骨さえ受け取ることができない。
光の奔流が通り過ぎた後、そこには小惑星は大きく二つに割れていた。表面は異常な高熱にさらされたことを示してなめらかに溶けている。辛うじて艦種がわかる程度にまでとかされた戦艦は、その内部に侵入した熱量を考えれば不格好な棺桶以上の意味はなかった。
ここには様々な物が残されている。砕けた小惑星、溶けた破片、ちぎれたモビル・スーツ、破片をまき散らす戦艦、様々な物が。
しかし、命だけは残されてはいなかった。
攻撃を受け、ザフトの対応は早かった。ギルバート・デュランダル議長をゴンドワナ級1番艦ムスペル・ヘイムに乗艦させたのである。
ゴンドワナ級は師団相当戦力を積載可能な大型のモビル・スーツ搭載母艦であり、ザフト軍の擁する最大の軍艦、その1隻である。格納庫に推進器を取り付けたかのような無骨な姿からもわかるように軍艦としての機能は決して優れてはいないが、モビル・スーツを戦力の基本単位と数える現在においてそれは問題とならない。加え、移動できるためユグドラシルのような長距離砲撃に対処することは容易であった。
考えられる最も安全な場所だと言えた。
しかし、安全が安心を保証するとは限らない。艦内へと備えられた会見場に向かうデュランダル議長のすぐ後ろをすがりつくように追っている秘書官は明らかに早口気味であった。
「デュランダル議長、市民達は不安がっています。発射をやめさせるよう交渉することはできないのですか?」
「交渉? ブルー・コスモスにまともな話し合いが通用すると本気で考えているのかね?」
「し、しかし……!」
「勘違いしてはいけない。これはもはや戦争ではない。種と種の存続を賭けた生存競争だ。どちらかが滅びるまで終わることはできないのだよ」
現在のプラントにおいて世界安全保証機構に対して降伏するという選択肢はあり得ないと考えられていた。少なくとも、デュランダル議長支持派にとっては。敗北するようなことになればコーディネーターへの徹底した弾圧と迫害が始まるに決まっているからだ。
どちらにせよ、コーディネーターには死しか待ち受けていない。
秘書官にはもはや議長に反論する理屈も時間も残されてはいなかった。
デュランダル議長は会見場につくなり、颯爽と、そんな形容が似つかわしいほどスムーズに会見台につくと国民へとカメラを通じて訴え始めた。
「プラント臣民の皆さん、現在、我が国は危機的状況に置かれています」
議長による演説の様子はプラント中のテレビに映し出され、多くの国民がそれを見ていた。
「すでに我々は地球軍の大量破壊兵器の所在をつかみ、軍勢を差し向けるための準備を進めています。今こそ我々は戦わなければなりません。思い出してください。再び始まったこの戦いはなぜ始まったのか。すべては小惑星フィンブルの落下が切っ掛けでした。彼らは言います。フィンブルが地球に落ちたのはザフトが妨害をしたからだと。しかし、本当にそうなのでしょうか?」
プラントから脱出しようとする人の車列が宇宙港から伸びている。まったく動いていないほどの大渋滞である。そんな人々は仕方なく車載カメラ、あるいは窓を開けて街灯モニターを見ていた。
彼らの若き指導者は手振りを交え、その力強い眼差しを真っ直ぐに国民へと向けていた。
「我々の切なる願いは自由でした。人類の歴史上、なしえなかった理想郷を創り出すため国家としての完全な独立を求めたのです。しかし、その願いを地球は各国は踏みにじりました。その結果が戦争でした。そう、我々は自由のために立ちあがったのです。それは正義です」
仕事中にも関わらず誰か1人が演説の様子をモニターに表示すると、同僚たちはつい足を止めその映像を後ろからのぞき込む。
現在のプラントにおいて自由と正義を語る議長の言葉に誰もが耳を傾けている。
「すべては我々の自由と正義を認めようとしなかった地球の責任ではありませんか。その結果として地球にどのような災害が起ころうとそれは仕方のない犠牲と言わざるを得ません」
街灯モニターに足を止めることもなく家路を急ぐ者もいる。しかし、そんな人であっても耳にスピーカーを挟み議長の言葉を聞いている。
誰もが知りたいのだ。自分たちがこれからどうなるのか。今、何が起きているのかを。
「皆さん、思い出して下さい。正義は我々にあるのだと。そして、今なお正義のために多くの戦士が戦いに出向こうとしているのだと。信じましょう。我々の正義が勝利するのだと。我々のために、戦士たちのためにも」
こうして、デュランダル議長の演説は締めくくられた。
この演説をどのように評価するのか、それは人によって様々である。プラントの、コーディネーターの正義を訴えかける言葉に奮起する者、あるいは、ザフトが事態の打開に動こうとしていることに勇気づけられる者もいたことだろう。
ただ、抽象論を重ねただけで具体性のない内容だったと冷めた見方もできることだろう。
ザフトの軍艦内で、パイロット・スーツを身につけた男性がテーブルに乗り上がると高らかにデュランダル議長への忠誠を誓い、仲間たちが次々と手を振り上げそれに応えた。
街頭モニターの前に集まっていた人々は互いに曖昧な笑みを浮かべたまま、別れていく。お互いに不安を感じてなどいないのだと言い聞かせるように。
あるいは、安全なはずの自宅で、不安げに子が母にすがりついている。つい先ほどまでデュランダル議長の演説を映していたテレビの前で、一つのソファーの上でアイリスに抱きつくリリーのように。
「ねえ、アイリス。ここも攻撃されちゃうの……?」
「大丈夫ですよ、リリー」
リリーを抱きしめるアイリスだったが、これ以上ここにいてもリリーを不安にさせるだけだと考えたのだろう。リリーを連れて部屋を離れた。
そうして、このシアター・ルームには難しい顔をした面々だけが残されることになった。ナタル・バジルールが特にそのような渋い顔をしている。
「地球軍の大量破壊兵器のようだが……、月面から要塞を狙ったらしい。しかし、それなら射角は限られるはずだが……」
それこそ破壊された宇宙要塞以外の場所は狙うことができないことになる。
フレイ・アルスターは素直にそう考えたらしかった。
「ナタルさん、それならもうこれ以上の攻撃はないってことですか?」
「それならデュランダル議長はそう発表するはずだ。それに、この作戦指揮をとったのはおそらくエインセル・ハンターだろう。彼がその程度のこと、考えていないとは思えない」
ギルバート・デュランダル議長はどのような兵器でプラントが狙われたのか説明していなかった。そのため想像に頼らなければならない点が多く、ナタル自身、考えあぐねいているらしかった。
しかし、確かなこともあった。それはフレイの口から語られた。
「でも、こんな大規模の兵器ならプレア・ニコルが必要でしょ。完全に条約違反ってことよ。エインセルさんがそんなこと許すなんて……」
フレイにとってエインセル・ハンターは恩人に当たる。信じたい気持ちがあるのだろうが、腰掛けたままのディアッカはその点を鋭く指摘した。
「兵器そのものに搭載することは禁止されていても、プレア・ニコルを使って発電した電力を兵器に使っても条約違反にはならない。フレイ、お前がエインセル・ハンターをかばいたい気持ちはわかるけどな、あの人がそんなに甘い相手じゃないってことも一番よく知ってるだろ?」
「でもそんな……」
「それが戦争、ってやつだ」
さも当然のことのように語る2人の横でかえって頭を混乱させているのはジェス・リブルだった。
「ナタルさん、どうしてフレイがエインセル・ハンターと面識あるみたいな話になってるんですか……?」
「面識があるからだ。フレイやアイリスなら、会おうと思えば会えるのではないだろうか」
大きく口を開いたまま固まってしまったジェスだが、ナタルはそんな部下の様子を特に気にした様子もなくさらにとんでもない事実をその開いた口に放り込んだ。
「言っておくがアーク・エンジェルのクルーだったのは私だけじゃない。アイリスとディアッカはパイロット、フレイは操舵手だった」
「初耳なんですけど……」
「アーク・エンジェルは有名だが、喧伝されている訳ではないからな。大西洋連邦にしてみれば国を裏切った裏切り者、プラントにしても最終的には敵対関係になった。プロパガンダに使おうにも使えない以上、知名度ほどの利用価値のない艦なのだろうな」
「いっそアーク・エンジェルの元艦長として本でも出したらどうです? きっと売れますよ」
「悪くない話だが、まだ公にすることができない事柄が多すぎてまともに形にできないだろう」
とんでもない事務所に入ってしまった。そう、ジェスが今さらながら後悔している横で、世界の中心に近い位置にいることに慣れてしまったフレイたちはそんなジェスを置いてけぼりにしていた。
「ねえ、ナタルさん。……エインセルさん、プラントを撃つと思いますか……?」
「エインセル・ハンターについては私よりも君の方が詳しいはずだ。君はどう思う?」
フレイはすぐに答えを出すことはできなかった。しかし、しばらく悩んだ後、ナタルを迷いのない目で見た。
「撃ちません。エインセルさんは絶対に撃ちません」
その決意は、ジェスに疑問を投げかけられたとしても揺らぐことはなかった。
「でも、撃つつもりもないものをハンター氏は造ったのかい?」
「わからない。でも、エインセルさんは撃たない。絶対に」
シンの足下から光の道が真っ直ぐに伸びていた。何のことはない。暗い地下の空間で、ライトが照らしているのは細い部分だけであったため、光の道かのように見えているだけだ。
ここは風の流れや音の反響具合から広い空間だとわかる。この深い闇の中、光に導かれ魔王と呼ばれた男のもとを目指す。
エインセル・ハンターはつくづく演出家であった。
シンは光を踏みしめ歩き出す。この光から1歩でも足を踏み外せばそのまま奈落の底に転落してしまうのではないか、そんなことを錯覚させる雰囲気がこの場所にはあった。
鼓動が否応なしに高まっていることをシンは自覚していた。その手には魔王の力を封じる神々の宝珠もなければ魔王を倒す聖剣もない。しかし、相手はお伽話に出てくるような魔王そのものではない。そんなものなくとも、会う目的、理由、話したいこと、そのうちのどれか一つでも持ち合わせているのなら事足りるはずだった。
だがシンはそのどれ一つ持ち合わせてはいなかった。
自分にできることは何もない、そう知りながらシンは歩き続けていた。
やがて、光の橋が途絶えた場所に、魔王と呼ばれた男は立っていた。白いスーツの後ろ姿がシンの目に映った。
「存分に話なさい、シン・アスカ」
真紅が姿を消すと、シンの前には道は一つしか残されていなかった。光の橋はただエインセル・ハンターのもとへと伸び、脇道などなかった。
シンがゆっくりと近づいても、エインセル・ハンターに気付いた様子はなかった。しかし、そんなことがあり得るのだろうか。見られてはいない。それでも視線を感じているかのような錯覚がシンの足取りを重くする。
「ハンターさん……」
当初は怒鳴りつけるつもりもあったのだろう。しかし、いざエインセル・ハンターを前にしたシンにできることはあまりに限られていた。
エインセル・ハンターは振りむくことなく、シンのことを確認さえしようとはしなかった。
「エインセルで結構です」
その後ろ姿は暗闇の中の何かを見上げているように見えた。シンがどれほど目をこらしてもそこに何があるのかうかがうことはできない。
しかし、エインセルにはシンには見えていない何かが見えているかのようだった。
「プラントを撃つつもりですか……?」
エインセルは答えない。そもそも意味ない質問であったのかもしれない。ブルー・コスモスの代表を務めた男にとって、プラントの体制崩壊は悲願なのだろうから。
シンのことを、エインセルは見ていない。この男が何を見ているのか、そんなことさえシンにはわからない。
「俺の母さんのこと、聞いて下さい」
やはり返事はなかった。シンには最初から自分が何を話すべきか、そんなこと、理解してなどいなかった。そういう意味ではすべてを想定していないという意味で何が起きても想定内だと言えた。
どうせ説得などできない。そんな諦観と、それでも何かをしなければならないという焦燥感、それだけがシンを突き動かしていた。
「ほとんど知ってますよね? 母さんがどんな人で、どうして俺みたいな息子持つことになったのかとか……」
理由は知らない。ただエインセルがシンのことを調べていたことは知っている。
「でも、どうやって死んだのかは、知らないと思います……」
すでに亡くなっているという事実を知っていたとしても。
シンは光の先にいるエインセルの背中に一方的に語りかけていた。
「あの日、俺は母さんに連れられて逃げてました。避難がうまくいかなくて俺と母さんも、他の人たちも戦場を走らされました。テレビの中でしか見たことなかったモビル・スーツの地響きを感じました。頭の上をビームが飛ぶとこのまま死ぬんじゃないかってくらい熱くて……、俺の手を引く母さんの手、とにかく掴んでました」
もう3年、まだ3年。今よりも少しだけ幼かったシンの身に起きたのは、戦争では特別でも特殊でもない犠牲の一つにすぎない。
「その時の俺、ただ怖くて、怖いだけで他のこと何も考えられませんでした」
だから今になって考える。あの時、もしかしたらもっとうまい逃げ方ができたのではないか。母を守ることができたのではないかと。考える度に結論が異なる意味のない仮定を積み重ねた。
「だからよく覚えてません。ただ後から考えるとたぶんこうだったって考えるんです。ビームが落ちたか、モビル・スーツが爆発したんだろうって、その火が森から噴き出してきて俺たちを包んだんだろうって……。怖い、熱い、しか覚えてないんです、実際……」
夢で見た悪夢の光景はその度に姿を変えた。撃墜されたモビル・スーツの残骸が落ちてきて爆発したこともあれば、ビームが流れ弾となって避難民を直撃したこともあった。あるいは、火の化身となった黄金のガンダムが襲いかかってきた夢を見たこともあった。
「でも間違いないと思います。俺が気付いた時、辺りには焼けた死体がいくつも転がってましたから。そばに落ちてた手、最初は人形の手だって思ったんです。でもすぐ思い出しました、俺のすぐ後ろを女の子が走ってたって……」
人の腕がちぎれることなんてそれまで想像したこともなかった。だから腕だけが転がっていると言うことは、それは人形のものだとしか思えなかった。
「普通の子でした……。どこにでもいそうな子が泣きじゃくってました。一度、途中でこけたんで印象が強くて……。その時、思わず助けようとしたら母さんに手を引っ張られてできませんでした」
だから転倒した分、女の子は遅れたはずだった。ではどうして、その子の腕がシンの傍に落ちていたのだろう。女の子のその小さな体にどれほどの力が加わったのか、想像するだけでも残酷なことのように思える。
「すいません。母さんの話でしたよね。でも……、母さんも似たようなものでしたよ。俺の傍で焼けてました。嗅いだことあります? 肉親の焼ける匂いって……。今でも肉は苦手なんです。特に焼き肉は」
まるで母の死体を口にしているように思わされるから。
「その時でした。空に黄金のガンダムを見たのは……」
シンの声はひどく落ち着いていた。何の気ない世間話をしているかのような冷静さでただ事実を淡々と並べていく。
「この頬の痣、その時の火傷の跡なんです。あの時、思わず叫んでました。まあ、喉が火傷してたんでほとんど声になってなかったと思います。声が出てても届かなかったでしょうしね……」
遙かな高みにて黄金の玉座に座する魔王には。
「それから俺、プラントに渡りました。特に行きたかったわけじゃありません。オーブにいたくなくて、移住しやすい国がプラントだっただけです。ザフトに入ったのだって身寄りもない自分が簡単にありつける仕事が軍人だったってだけなんです」
それこそ、戦争に母を殺されたにも関わらず、今度は自分が軍人になるということを、シンは特に気にしなかった。それほど、軍というものに興味がなかったからだ。
「正直、楽な仕事じゃありませんでした。使い捨ての外人部隊で無茶な作戦ばかりさせらてましたから。でも、ザフトに入って一番後悔したのはその時じゃありませんでした」
多くの仲間を失い、自分自身も何度も死にかけた。仲間の死は悲しかった。使い捨てられたことには憤りを覚えた。守れなかったことは悔しかった。
それでも、シンは後悔こそしなかった。
「……ザラ大佐の部隊と合流して地球軍の基地を攻撃した時です。あの時、すぐ近くに街がありました。エインセル・ハンターを追うためには基地のデータが必要だ、そんな理由で街の被害なんてお構いなしに攻撃を仕掛けたんです。やっぱり撃墜されたモビル・スーツが街に落ちて火事になりました」
それでどれほどの被害が出たのか、確認することもなくミネルヴァはその地域を離れた。それはちょうど、フォイエリヒガンダムが遙か眼下のシンに目もくれずに飛び去っていったのと同じことなのかもしれない。
この頃には、シンの言葉は淡々としているというよりも乾いていると評した方が適切であるように思われた。
「お笑いですよね。母さんを殺された俺が、名前も知らない街の人たちにまったく同じことをしたんです」
しかし、シンは笑っていない。抑揚に乏しい、しかし徐々に話すリズムに狂いが生じ始めていた。
「ザラ大佐は言ってました……。目的のためには仕方のない犠牲なんだって……」
シンは思い出していた。アスラン・ザラの顔を、そして、聞かされた言葉を。
「じゃあ……、仕方のない犠牲って何なんですか?」
この時、シンはエインセルの背中を本来あるべき形で見ていた。つまり、母を殺された子が、母を殺した男に当然向けると考えられる眼差しで。エインセルの背中に、アスラン・ザラが冷たく言い放った言葉が重なった。
「だってそうでしょう!? 母さんだって、女の子だって、街の人だって! どうして関係もないところで始まった戦争で、どうして戦争しなくてもいい人が死ななきゃいけないんですか!?」
シンの態度は一貫していたのだろう。心が渇けば言葉も乾き、かつて抱いた怒りに心が支配されればそれは声にも現れた。ただ、心のままに口にしているのだから。
「勝手に戦争始めといて! それを理由に自分たちの人殺しを正当化するんですか! そんなの、あまりに理不尽で! 身勝手じゃないですか!」
シンのありったけの言葉を持ってしても、エインセルの背中は応えようとはしなかった。しかし、シンはそのことを何ら問題とはしなかった。
決めていたからだ。何かを期待してここに来たのではない。ただ来るしかなかった。胸の内からわき出る焦り、それは怒りにも似てシンを突き動かした。
「人が! 人を焼いていいはずなんてないんだ!」
言いたいことはすべて言い終えたのだろう。シンはただ極度の興奮から来る疲労感によって呼吸が深くなっていた。
しかし消えない。まだなくならない。このままではまた人が焼かれる。仕方のない犠牲だと一言に片付けられ人が殺される。怒りはまだそこにあった。シンを煽動する思いが求めるのはただ何らかの行動を起こせばよいという自己満足ではなかった。止めよと命じてくるのだ。たとえ、エインセル・ハンターを殺害してでも。
そう、シンが衝動のまま動き出そうとした時、エインセル・ハンターが振り返った。不自然なほどにすんだ青い瞳がシンを思わず押しとどめた。
「シン・アスカ。あなたには思いがあります。しかし、そのための力がありません」
その時のことだ。エインセルが何をしたわけでなく照明が灯った。光の橋が急速に拡大するかのように部屋に光りが満ちる。まぶしさに思わず目を背けたシンだが、目が慣れるにつれ見えてきたものがあった。
エインセル・ハンター、その後ろにたたずむ巨人の姿が。
それは、“ガンダム”だった。
「私はこれより月へと昇ります。ですがそのためのシャトルにあなたのための席はありません。止めたいのであれば追ってきなさい。招かれた客ではなく招かれざる敵として」
“ガンダム”に見下ろされるシンへと魔王は囁き続けていた。
「叶えたい願いがある。しかし無力を嘆くのなら、差し上げましょう。ゲルテンリッターの初号機、ZZ-X1Z300EH、いえ、ZZ-X1Z300SAガンダムメルクールランペ、これはあなたに与える力です」