ZGMF-1017Mジンハイマニューバ。この機体を知る者は少ない。その名称、型式番号の示す通り、ZGMF-1017ジン、かつてのザフト軍主力を担った機体の正当な後継機である。その姿はジンと大差ない。丸みを帯びた装甲は甲冑のようであり、モノアイも共通している。バック・パックは多少形状に変化が加えられているものの全体的には大差ないのだ。装甲が灰色から薄い緑に変えられている。これくらいではないだろうか。
それもそのはず。この機体は新型機と呼ぶに相応しい機構もなければ、構造そのものは大きく変更されていない。実戦で実用性が確認された技術をフィード・バックすることで全体的な性能の底上げを図ったにすぎない。しかし、すでに実用性が確認され技術のみで開発されたハイマニューバはそれだけ安定していた。ジンの座を引き継ぐにたる機体であると思われていた。
それも、ガンダムと呼ばれる兵器が、ビーム兵器が開発される以前の話であった。ジェネレーター出力の関係上、ビーム兵器を装備できないジンハイマニューバは本体性能に優れようとすでに型遅れ以外の何者でもなかったのである。
生まれながらの旧型機。
UMF-4Aグーン、UMF-5ゾノと同様、誰からもその誕生を喜ばれぬ機体なのである。ビーム開発に遅れたザフトにとってZGMF-600ゲイツの開発は国是であり、そのために予算、人員が惜しげもなく投入された。そのしわ寄せをくった本来の次世代機は開発が遅れ、いざ量産体制が整った際にはすべてが遅すぎた。すでに戦場の主役はビーム兵器に移り変わっており生産ラインはゲイツに回された。その結果、少数生産された地上機たちはジブラルタル基地の防衛戦において最後の初陣を飾った。
ジンハイマニューバとて例外ではない。49機を先行量産後ラインは停止。ゲイツの生産へと回されている。この最初で最後のジンハイマニューバたちもまた、たった一度だけの初陣に挑もうとしていた。
格納庫のハンガーに複数のジンハイマニューバが並べられている。見えているだけでさえ、全戦力を一割を数える。パイロットたちは姿勢を崩さぬまま、指揮官の言葉に耳を傾けていた。それは演説ではなかった。内容はともかく、雛壇から軍服を身につけた男は淡々とした口振りでパイロットたちに語りかけている。
「現在、プラントを取り巻く情勢は楽観視できるものではない。グラナダが落ち、地球軍は着々とプラント本国を目指している。しかしそれは絶望的であることは意味していない。ヤキン・ドゥーエではすでに新型機であるゲイツの配備を終えている。水面下の工作も引き続き行われている。しかし、まだ時間が足りていない。誰かが地球軍を足止めし時間を稼がなければならない」
事実が整然と並べられ、パイロットたちも静かに耳を傾けている。
ジブラルタルを失い、グラナダも陥落した。敵は確実にボアズに迫っている。ボアズが突破されたなら敵はプラント本国に到達する。そんなことは誰もが理解していた。理解しているからこそ、彼らパイロットはここにいるのだ。
「非常に危険な任務である。だがプラントを守るための誇り高き戦いであると私は考えている。この作戦に参加してくれる諸君らに私は感謝したい」
一斉に敬礼するパイロットたち。しかしその中には周囲とは異なる不格好な敬礼が点在していた。それを誰も見咎めることはない。指揮官は早々に後にすると、パイロットたちはばらばらに自機へと歩き始めた。戦前に声を掛け合うことはない。各部隊から寄せ集められたパイロットたちは、無言のままジンハイマニューバを目指した。
その中には、目元をバイザーで覆った少女の姿もあった。
格納庫はいつも賑やかでこの艦の特殊性を象徴している。ブーステッドマンと呼ばれる特殊な投薬を行われているパイロットをできる限り一括管理するため、格納庫には詰め込めるだけのモビル・スーツが並んでいる。宇宙であることをいいことに逆さまにつり下げられた機体から床、天井に寝かせられた機体の姿がある。
何より、年齢も性別もばらばら、せいぜい軍属であることくらいしか共通項のないパイロットたちが好き勝手な場所に集まって話をしている。これでやかましくならないはずがなかった。
ラウ・ル・クルーゼはモビル・スーツ部隊の責任者として、今日もまた格納庫を訪れては苦笑いに口元を歪ませた。つい自分の後ろを歩く艦長殿に同情したくなったのだ。
「君までここに来る必要はないように思えるのだがね」
「部隊の把握も艦長としての職務であると考えています」
マリュー・ラミアス少佐は手元のメモにペンを走らせていた。何とも熱心なことだ。キラ・ヤマトのような志願兵ばかりで構成された部隊を率いた艦長は部隊全体を考えて動くことができるものであるようだ。
とにかく格納庫が狭く感じる。GAT-01デュエルダガーのすぐ脇を通り抜けたかと思うとすぐ横には別の機体の寝かせられた頭が見えた。これでよく接触事故を起こさないものだ。正規の軍艦というよりは野戦基地、でなければテーマ・パークのアトラクションのようである。
こんな中から1人の少女を見つけることは骨かといつも考える。しかしたやすく解決することもいつもの通りである。人が集まっている場所がある。寝かせられた機体の上で、白衣の少女をブーステッドマンたちが取り囲んでいた。
「ニーレンベルギア」
一声かけるだけでよい。人垣は割れ、白衣、黒髪のヴァーリは無重力の中一跳びにラウの前に立つ。ブーステッドマンを総括管理するラウへとタブレット端末を差し出した。
「経過は良好です。ただ、副作用は抑えきれていません。疲労時、極度の緊張時に副作用が顕在化することが判明しています。一般の兵士と同様、休息が大切ということになります」
「十分だ。だが、より副作用が深刻と言える2人がそろってガンダムのパイロットとはな」
端末にはブーステッドマンそれぞれのデータが表示されている。その中でも際だって副作用が危惧されているのはカズイ、及びロベリア・リマの2名であった。どちらも貴重なガンダムを与えられているのだ。
ニーレンベルギアは穏やかに微笑む。
「それだけ投薬の効果がよくも悪くも現れているということです」
離れた壁際にガンダムは並んで置かれている。やはりガンダムは別格らしく他の機体とは離しておいてある。パイロットの姿を探したつもりだったが、見つけることはできなかった。
「お会いになりますか?」
「いや、君に任せよう」
端末を返す。今回はそこまで厳密な視察を目的としている訳ではない。このまま戻るつもりであったが、その前に上から声が降ってくる。
「ラウさん!」
ニーレンベルギアと似た声。同じ顔をしたノーマル・スーツ姿の少女が降り立った。赤い髪をしたヴァーリ。それ以上の説明のしようがないほど、素朴で純朴。ロベリア・リマは一度ラウの前で敬礼してみせる。なぜか言い出しにくそうに、言葉を途切れ途切れにさせていた。
「少し、お話できませんか? その……、あの夜のことで……」
固い砕ける音がした。マリュー少佐がペンを砕いた音だ。そんな音がはっきりと聞こえるほど、何故か音の空白地帯ができあがっていた。格納庫中が静まりかえるほどではなかったが、ロベリアの声が届いた範囲だけ人々の声がやむ。突然生じた無音地帯に気付き始めた周囲の人々も話をやめることで徐々に外側にさえ広がっていく。
周囲を見ればなぜかみな目をそらす。これと似たような事態に友も遭遇したことがあるそうだ。神にさえ不遜な態度を崩さないと思われるあの男が背筋の凍る思いだとうめいていた。あながち嘘ではないようだ。
「なるほど、エインセルの言うとおり、これは芯が冷える。だがロベリア、夜ではわからない」
「その……、血のバレンタイン事件のことです」
確かに襲撃は夜、日付が変わってから行われた。しかし、すでに話の質は変化している。沈黙はそのまま引き継がれ、緊張さえ持続する。唯一変化したと認められることは、ラウがロベリアから目をそらす資格を逸したことである。
「恨み辛みならば聞こう」
「そうじゃありません。こんなこと言うの、おかしなことだと思いますけど、私、感謝してるんです」
話が本題に入る前に耳打ちしたのはマリュー少佐である。
「場所を変えた方がよろしいのではないでしょうか?」
「ユニウス・セブンをブルー・コスモスが襲撃したなど公然の秘密だろう。取り立てて隠すべきことともない」
そうは言いながらも、視界の隅には飲み物のチューブに口をつけたまま固まり、目を見開いている男の姿もある。ロベリアにしたところで今になって話を持ちかけてきた以上、見知ったのは最近のことなのだろう。
「襲われてありがとうございますって、変な話だと思いますけど、私、プラントが好きじゃありませんでした……」
ロベリアは両手を振って見せる。まったく不自然のない動きで、知らなければロベリアが先天的に腕を持たなかったことを気づくことはできないだろう。
「私、障がい者じゃないですか。プラントじゃ差別が激しくて、それにどうせダムゼルになんてなれませんでした。もしもあのままプラントに残っていたらきっとひどいことされてたと思います。……べ、別に変なことじゃありませんよ! 無理矢理、男の人の相手をさせられると、とか、そんなことじゃなくて……、その……!」
勝手に慌て始めた。夜を情交の隠語と察することができず、こちらは誰に言われるまでもなく慌て始める。その基準はどこにあるのかはわからないが、妙な誤解を招く言動が多いようだ。これが年頃の娘であるということなのか、あるいはロベリアのことを特徴のないヴァーリであるという認識を改めるべきか。
「君はすぐにはプラントに戻らなかったそうだな」
「ユニウス・セブンが崩壊した時、結構安全に脱出できました。でも、姉さんたちとは離れてしまって、私だけ普通のレスキュー隊に拾われたんです。プラントには帰りたくなくて記憶喪失のふりをして3年くらい隠れてました。プラントに戻されそうになった時、ニーレンベルギア姉さんに拾ってもらったんです」
それほどプラントには戻りたくなかったということなのだろう。ニーレンベルギアはと言うと、しれっとしたものである。無重力を漂いながら多端末を操作しているだけでわざわざロベリアのことを見ようとはしない。
「私は実験体が欲しかっただけですけれど」
ニーレンベルギアがただの研究者であったのなら、ムルタ・アズラエルはブーステッドマンの研究を任せようとはしなかったことだろう。ロベリアも不必要に気をつかわせようとはしない姉に小さく微笑むだけであった。
「だから私は大丈夫でした。でも、ジャスミン姉さんは……」
「私がジャスミンに出会ったのは4年前のことだ。彼女は施設に入れられていた」
「私、ジャスミン姉さんを助けたいです。プラントっていう国は、私たちに冷たいですから」
ヴァーリが新薬の実験体になってまで祖国であるプラントと敵対する訳を聞かされたのは初めてのことになる。
「ようやく戦う理由を聞かせてもらえたようだ」
「私、ラウさんのこと、別にひどい人だなんて思ったことなんてありません……。ニーレンベルギア姉さんにも感謝してますし、もちろんラウさんにも……、そのとても感謝してます……!」
落ち着きこそないが、まくし立てられた言葉の端々には誠意が見て取れた。こうも自分の気持ちに正直になれることはロベリアの美徳であろう。ムルタ・アズラエルなど幼少のみぎりよりこうも素直ではなかったものだが。
何かロベリアのために言い加えることなど何もない。これで十分とこの場を離れようとした時、誉めるべきか貶すべきか、絶妙のタイミングでブリッジよりの放送が格納庫に響きわたった。
「ラミアス艦長、クルーゼ大佐、至急ブリッジにお戻りください!」
さて、お茶の時間を告げるにしては少々声が上擦っている。
「攻撃開始!」
一度だけ顔を合わせた隊長の合図とともに、ジンハイマニューバの部隊が一斉にデブリの影から飛び出した。部隊全体としては50機にも満たない。隠すこともできるし、少なく見積もっても2個師団の戦力相手に2個大隊相当戦力で攻撃を仕掛けること自体、誰も想定していなかったのだろう。
ザフト軍は奇襲に成功していた。
推進剤の燐光を瞬かせてジンハイマニューバは曳光弾の間を縫うように敵戦艦の間をすり抜けていく。中には高射砲の直撃を受けて爆発してしまった機体もあった。まだ顔さえ覚えていない同じ部隊の仲間が1人死んだことに、ジャスミンは何の感慨も抱くことはできなかった。
スラスターを吹かせ、ただ砲火の間をくぐり抜けようとする。
敵艦からは徐々にモビル・スーツが出撃を開始していた。思えば、ガンダム以外のモビル・スーツと本格的に戦うことは初めてではないだろうか。ジブラルタルでは居残り組で、アフリカの砂漠ではニコル・アマルフィが命がけで逃がしてくれたのだから。
もう、ここにはニコルはいない。素顔を見せる、そんな他愛ない約束を果たせなかったことを思い出した。
たった一度だけ顔を合わせた隊長の声がする。
「雑魚に目をくれるな! 目標は旗艦だ。奴さえ落とせばこの部隊は足を止める!」
GAT-01ストライクダガーへとアサルト・ライフルを向ける。放たれた弾丸は、しかし敵の持つシールドを破壊する十分な攻撃力はなかった。表面に傷はついても本体は無事。反撃として放たれたビームは危うくジャスミン機の肩を撃ち抜くところであった。まさに水鉄砲と拳銃の戦いである。
回避のために軌道を大きく曲げざるを得なかった。隊列から離れてしまったが、それが何か問題にはならなかった。突撃していたみんながみんな、その足を止められていた。部隊は離散。敵戦艦の密集する中、両軍の入り乱れる完全な混戦状態ができあがる。
狙いなんてつけない。でたらめな方向に銃を向けて弾を放つ。敵機の接近を少しでも妨害できればそれでよかった。味方の中にはそれでも必死に敵旗艦を目指そうとして強引な突撃を繰り出す人もいた。
「ここで引けば死ななくていい人が死ぬことになる! 焼かれてはならない人が死ぬことになる!」
それはとても悲しいこと。操縦桿を握る手が自然と動き、アクセル・ペダルを踏み込む。敵のビームが左肩の装甲をただの一撃で吹き飛ばして、直撃したビームは簡単に右足をも引きちぎった。それでも右腕もアサルト・ライフルも無事。ライフルを撃ち続ける。敵がひるんだその隙に、少しでも前に進みたいから。
ニコル・アマルフィが死んだ時悲しかった。とても優しい人だった。死んだら駄目な人だった。死ななくてもいい人が死んでしまうこと、それはすごく悲しいことだから。
ビーム・サーベルを抜きはなったストライクダガーが迫ってくる。かわせるような速度で飛行はしていない。左腰から左手で、重斬刀--ただの金属の塊--を抜く。サーベルを防ぐためにかざされた刀は簡単に切断されてそのまま左腕を切り裂かれた。
(問題ありませんよね。左手は、失ってもいいんですから……)
はじめから斬られることはわかっていた。だからすぐに反撃できて、ジンハイマニューバの頭の鶏冠状の構造を、敵の顔面に押しつけるように頭突きを食らわせる。うまくデュアル・センサーを破壊できたらしい。大きくのけぞった敵へと乗り上がるように接近してから、その首にライフルの銃口を突きつけた。装甲を一撃で破壊しきる攻撃力はなくとも内部構造を破壊することくらいできる。至近距離から放たれた弾丸は首から胸へと火花を上げて吸い込まれ、敵機は大きな爆発を起こした。
爆煙を抜けて、ジャスミン機は加速を再開する。
左腕と右足はなくしてしまった。それでも問題ない。なぜなら、どちらも失ってもいい存在だったから。生きるべき人たちを救うために必要な犠牲だから。
「私たちは、死んでもいい存在だから……」
どうしてこんなことを思い出してしまったのだろう。7歳の頃だろうか。まだ自分が女性であるという知識はあっても自覚に乏しかった頃。とても清潔な部屋であったことを覚えてる。でも、どんな部屋だったかはわからない。まだ視力供与バイザーは与えてもらっていなかった。匂いとか埃っぽさがないことからそうだと考えてた。
「手術、ですか……?」
だから相手の医師の顔もわからない。声は、少し冷たい感じがした。
「そうだ。君は重篤な遺伝子疾患を抱えている。仮に君が子どもを持てば君の子孫の間に障がいという欠陥は引き継がれ続ける。まさに負の遺産を子々孫々に押しつけてしまうことになる。わかるね」
「はい……」
理屈としてなら。
「だからプラントでは重篤な遺伝子障害を持つ者が子どもを持つことを法律で禁じている。堕胎についても健常者に比べより広範な処理が認められている。それは未来の子どもたちを守るために必要不可欠であって最適な手段であるからだ」
紙のすれるような音が聞こえた。何かの資料でもめくっているのだろうか。ほかの音は何も聞こえなくて、否応なく男性医師の言葉だけが耳に入り続ける。
「でも……。手術って、義務じゃないんですよね……?」
どうしてこんなことを言い出したのか、自分でもわからない。誰か将来を誓った恋人なんていなかった。母になる自覚だってなければ、7歳で子どもを持つ自分を想像するなんて早すぎた。でも、なんだか妙な焦りが芽生えて、嫌だと感覚的に思ったことを、ジャスミンは覚えている。
「しかし補償されるのは手術を受けた人に限られる。君はヴァーリとは言えフリークだ。ダムゼルと同じようには扱ってもらえない。手術を受けた方が君のためだと思うがね。現代社会は医療技術、社会福祉の充実から一つの新たな悲劇を招いてしまった。自然界ならば淘汰されてしかるべき障がい者でさえ生き残り、劣等遺伝子が次世代に引き継がれるという危険が具現化してしまった。将来の子どもたちのために少しでも明るい未来を残すことは、今を生きる我々の義務だと私は考える」
答えようなんてなかった。どんなことを言っても、結論なんてすでに出ているのだから。
「何、簡単な手術だ。手術器具も発達している。傷も目立たず手術時間も1時間とかからない。何ら危険はない」
ジャスミンは、自分がどう答えたのか覚えていない。それはきっと、覚える必要がなかったからだろう。だって、結論ははじめから、ジャスミンが生まれた時から決まっているのだから。
手術を終えて、それから何かが変わった訳でもなかった。1年経っても、2年経っても、3年経っても、4年経っても。ただ喪失感があって、少し気持ちが沈むとすぐ自分のお腹を撫でていた。ほとんど目立たない傷は、触ってもわかるものではなくて、何も変わってないようにも思えた。
せっかくもらったバイザーは部屋の棚においていた。機械だから水分は厳禁。必要最低限のものしか置かれていない施設の部屋。そのベッドの上に腰掛けて、ジャスミンはお腹に手を置いていた。
「別に子どもが欲しかった訳じゃないでしょ、ジャスミン。結婚したい人がいる訳でもないでしょ、ねえ……」
自分に言い聞かせる。当たり前の理屈を何回も。それでも頭はなかなか理解してくれない。失ったものの代わりに頭の中にこびりついた染みはどうしても消すことができないでいた。
「だから悲しまないで……、お願いだから。悲しみたくなんてないよ……。こんなの辛いだけだよ……」
何を考えても失ったものは戻ってこない。それなら全部忘れていきたいたかった。失ったものは、別に必要のないものだったから。そんなもののために悲しみたくなんてなかった。
「誰か……」
その誰かに心当たりなんてない。
「誰か……」
何を望んでいるのかさえわからないのに。
「お願いだから……」
言いたい言葉があった訳じゃなくて、それでも何か言いたいことがあるということだけがわかる。こんな空白の欲求が、ジャスミンを苦しめ続けた。
扉の開く前に聞こえてくる電子音に、誰かがこの部屋に入ろうとしているとわかる。目元を袖で無理矢理拭って、バイザーを再び装着した。この重さはまだ慣れない。バイザーが起動してゆっくりと光景が見えてくる。
見えてきたのは、白い男性だった。白いシルエットがぼんやりと浮かんで、徐々に輪郭が整えられていく。それは白い軍服で、男性は仮面をつけていた。目元は見えてなくても自信に満ちたその顔は、ジャスミンのことを真っ直ぐに見ていた。
「見えているかね?」
「はい……」
「私はラウ・ル・クルーゼ。ザフトで部隊長を任せられている者だ」
それが、クルーゼ隊長との出会いだった。
隊長はジャスミンの疑問に答えてくれることはなかった。ただ障がい者収容施設からジャスミンを連れ出してくれた。部屋や生活のためのお金をくれて、一緒に住むようなことはなかったけれど、よく訪ねて来てくれた。
ジャスミンが軍属になろうと決めのたのもあの人への憧れがあったのかもしれない。隊長はきっと内心では反対していたのだろう。それでも、ジャスミンが自分で決めたことだと受け入れてくれた。プラント最高評議会議員の子息や赤服の優秀な人たちだけで構成された自分の部隊に入れてくれたことも感謝している。
そこでは、いろいろな人と出会えたから。
第一印象は柔らかそう。これが人に抱く印象じゃないことくらいわかってる。でも、緩いウェーブのかかった髪のせいか、その少年はとても柔軟な人に思えた。
「ニコル・アマルフィです」
差し出された手。つい警戒して手を出せなかった。それでも握手に応じないことの方が失礼だと思い直しておそるおそる手を掴んだ。やっぱり、ニコルの手は柔らかかった。
「ジャスミン……、ジュリエッタです」
少し緊張が緩んで、ニコルがバイザーを見ていることに気づいてすぐに体が固くなるのがわかった。
「ジャスミンさん、もしかして目が……」
「ご、ごめんなさい……!」
もう手を握っていない方がいい。慌てて手を離すと、後は怖かった。こんな手に触れさせてしまったのだから。やっぱり握手なんて失礼でも受けない方がよかった。
ニコルは、でも不思議な顔をしていた。よくわかっていない顔ではなくて、どうしたらいいかわからない。そんな顔。手振りも不規則で、困惑している様子がよくわかった。
「ああ、いや、すいません。ただ確認したかっただけで他意はないんです。ご、ごめんなさい」
ニコルが謝っている時だったと思う。褐色の肌をした少年がふらりと現れた。第一印象は、少し怖い人。
「何同じ謝り方してるんだよ、2人して」
「彼はディアッカ・エルスマン。ちょっと見た目は怖いですけどいい人ですよ」
「もっとましな紹介の仕方はないのか?」
そうは言いながらもディアッカは少しも不機嫌そうじゃなくて、ニコルも安心して笑っていた。
「まあ、よろしくな」
そう言いながらディアッカは手を差し出しきた。それでもすぐに打ち解けることはできなくて動けないでいた。
「嫌ならいい」
そう手を戻すディアッカの顔は、不機嫌というよりは寂しそうに見えたことを覚えている。強面--最初はそんな風に見えていた--の少年がそんな一面を覗かせたことに、ジャスミンはつい口元を緩めた。
これが、クルーゼ隊のパイロットたちとの出会いだった。
もうニコル・アマルフィもいない。撤退する味方のために、押し寄せる敵に1人で立ち向かい時間を稼いだ。とても立派なことだと思った。その思いだけは変わらない。それどころかより強いものへと変わっている。圧倒的な数の敵戦力に、それでも挑み続けることの怖さとそれに打ち勝ったニコルの強さに。
ジャスミン機が一度ライフルを放つと、敵は3倍も撃ち返してくる。仲間たちはどんどん数を減らしていた。無事な人も無傷の機体なんてなかった。
それでもジャスミンたちは旗艦を目指す。スラスターを全開に、ビームと高射砲にひるむこともなく。少しでも気を抜けば、その瞬間体中を高速弾に食い破られてしまうのだから。
ジャスミンは歯をかみしめ、震える唇から声を絞り出す。
「ニコルさんも怖かったのかな……?」
減ることのない敵の中に飛び込んで、絶えることのない攻撃にさらされ続けることが。
アーク・エンジェルの格納庫へキャット・ウォークから飛び出す。ディアッカは自機であるGAT-X207SRネロブリッツガンダムへと向かおうとしていた。無重力の中、体は慣性に任せてゆっくりと漂っていく。このまま黙っていれば機体にたどり着くはずだが、ディアッカは突然行き先を変更することにした。
ケーブル・ガンを取り出す。先端に吸盤を持つケーブルが音もなく射出され、無事に深紅の装甲に命中する。ぴんと張ったケーブルに引っ張られながらディアッカは当初の予定を変え、GAT-X303AAロッソイージスガンダムの肩の上にいた。コクピット・ハッチの脇にアイリス・インディアの姿が見えたからだ。
ロッソイージスは胸部にコクピットがある。肩の上からだと少し高い位置から見下ろしているようにアイリスの姿はよく見えた。コクピットからコードが伸び、アイリスの手元の端末と繋がっている。機体の調整でもしているのだろう。
「アイリス、もういいのか?」
「もうって、丸一日寝てたんですよ。目が冴えて仕方ないくらいです」
ディアッカに気づいて手を振るアイリスの様子は普段と遜色ない。核の光に気を失って以来不安だったが、とりあえず深刻な状況ではないようだ。もっとも、血のバレンタイン事件のことを聞かされている以上、どうしてもある種の不安は拭えない。
「あまり無理するなよ。なんだ、キラから聞いたんだが、ユニウス・セブンじゃ大変だったんだろ?」
案の定、アイリスは手を止め表情を曇らせた。聞けば記憶は封印されていたらしいが、近頃の様子をみる限りもうほとんど思い出しているのだろう。
「たくさんの人を殺してしまって、私も殺されそうになりました……。あの日のこと思い出した時、辛かったです」
キラから聞くことができた情報は断片的なものだったが、アイリスがテロリストと死闘を繰り広げたことくらいわかる。今度はディアッカが渋い顔にさせられた。アイリスは無理にでも笑顔を作ろうとしているのに。
「ねえ、ディアッカさん。ディアッカさんは大切な人が亡くなった時って、やっぱり悲しいですか?」
「ああ。お袋がいなくなったり、戦友が死んだ時はやっぱりな」
「私、あまり感じないんです……」
感情の伴わない空っぽの笑顔はどこか寂しくて、アイリスはすぐに表情を暗くする。単に無表情と言ってしまってもいいかもしれない。ただ、こんな顔は、アイリスには似合わない。
「ヘリオポリスの時もそうでした。街が襲撃されて、みんなが怖がってる時も変に冷静で、あまり怖いって感じませんでした。モビル・スーツに乗った時もそうでした。あまり怖くなくて、……人の乗ったモビル・スーツを撃墜した時だって別に罪悪感とかなかったんです。だからフレイさんがお父さんとお母さんを亡くして悲しんでる時も、サイさんやカズイさんがいなくなった時も悲しいっていうより、悲しいはずなんだから必死に悲しもうって考えてました……」
友人のためとは言え、そんなことも軍隊に入ると決めた理由でもあるのだろうか。
無理に微笑もうとするアイリス。まだ出会って半年と経っていない。それでこんな感覚はおこがましいのかもしれないが、やはり、らしくない。無理に作ろうとしたアイリスの微笑みが自嘲に見えて仕方がなかった。
「私って、おかしいんでしょうか……?」
「フィアレスって奴かもな。九死に一生の大事故から生還した人に時々あるそうだ。死の恐怖なんて誰でも気持ちのいいものじゃない。だから、脳の方でシャット・アウトしようとするんだそうだ。死の恐怖を麻痺させて、ストレスに心がやられてしまうことを防ぐ。そんなことじゃないか?」
「じゃあ、私、怖いって感覚が麻痺してるってことですか?」
「カウンセラーじゃないからはっきりとしたことは言ってやれないが、そうじゃないか? モビル・スーツの操縦はまったく危なげなかったしな。人が訓練するのは萎縮しないように戦いの感覚に体をならすためでもある。そう言う意味じゃ、アイリスが昔乗ってたとしてもすぐに戦えるようになった説明になる」
その感覚が、アイリスをモビル・スーツのパイロットとして高い段階から戦場に出られるようにしてくれたのだろう。これまでの戦闘を生き延びてこられたのも、そのためであるかもしれない。
そのことに安堵を覚えないわけじゃない。それでも、ディアッカは頭をかきながらイージスの肩に腰掛ける羽目になった。
「ただ、怖い状況でもあるんだよな~……」
「どうしてですか?」
アイリスは末端--無重力の中、コードに吊され漂っている--を投げ捨ててディアッカの横にまで来た。胸から肩に飛び乗る程度何のことはなく、アイリスはディアッカの隣に座るなり興味ありげに顔を覗き込んでくる。
どうにも無防備だが、それは別の話だ。
「怖いって感情がないってことはどんな危険な状況になってもそのまま突っ込むってことだろ。普通なら怖い、逃げようって時にでもだ」
「やっぱり私って異常なんでしょうか……?」
心に病を抱えていることは間違いないだろうが、病気だとか障がいがあることと異常であることは意味が違う。
「あ~、らしくないこと言うぞ。アイリスは、本当に優しい奴なんだと思う。なんだその……、元々のアイリスが人を殺すことや仲間を亡くすことを何とも思わないような奴ならそもそも脳が感覚を麻痺させる必要なんてないわけだろ。アイリスは優しい奴だから、脳は仕方なくそうしてるんだろうさ」
こんな歯が浮くようなことも言おうと決めれば言えないこともない。もっとも、アイリスはというと丸い瞳を大きくして瞬きしていた。アイリスもらしくない言葉だと考えているのだろう。
やはりこんなこと言うべきではなかったろうか。少なくとも、アイリスの表情が柔らかくなった分だけよかったということにしよう。アイリスは小さく笑って取り出したハンカチをディアッカの額に当ててきた。
「汗かいてますよディアッカさん」
「慣れないことには緊張するもんなんだよ!」
まさか汗までかいているとは思わなかったが。とりあえず、アイリスの調子を崩したくないので拭かせるままにしておく。本当ならこんな子どもみたいなことはごめんなのだが。アイリスの気分が少しでも上向いただけよしとしておく。
どうせだ。後一言くらい、似合わない台詞を言っても許されるだろう。
「なあ、アイリス」
GAT-X103APヴェルデバスターガンダムはその射撃力のすべてでもって敵の進行を押しとどめていた。旗艦であるメネラオス級の甲板の上。濃緑に包まれた巨人が両手にビーム・ライフル、両肩にレールガンを背負い、迫る敵機を狙撃する。
2筋のビームの輝きが矢となって伸び、緑色のジンに突き刺さる。すでに満身創痍であったジンはたやすく爆発して消えた。
昔一度だけ連れて行ってもらったゲーム・センターを、ロベリアは思い出していた。シューテング・ゲームで迫り来るゾンビを撃つゲームがあった。ちょうど、そんな感じだから。
ジンたちはどれほど傷ついても構わず旗艦に迫っていた。撤退がどうして許可されないのだろう。中には両腕を失って--攻撃力をほぼ失っている--も向かってくる機体さえあった。
「こんな攻撃……、絶対におかしいよ……」
何がおかしいのか具体的に言うことはできない。ただ敵の攻撃は無謀を通り越して執念だとか怨念だとか、もう自暴自棄になっているとしか思えないほど常軌を逸していた。
楽な敵であるはずなのに。煙を吹きながら流れてくるジンがいる。すでに撃墜されているも同然なのにまだ旗艦を目指している。母艦の対空砲火は健在。敵の動きは単調。操縦桿の引き金を引くと、レールガンから飛び出した高速弾が簡単にジンを捉えた。頭部を消し飛ばされたジン。今度こそ撃墜されたジンは吹き出す煙の塊となって今度こそあらぬ方向へと流されていく。きっと、偶然拾った声はこのジンのものだろう。
「死にたくない……、死にたく……」
ジンが膨れ上がる爆発に呑み込まれること。通信が途絶すること。どちらも同時だった。
「死にたくないならどうして逃げないの……?」
こんな特攻紛いの攻撃までして。危険な攻撃ばかり繰り返して。
次に入った通信は正規のものだった。母艦から、ニーレンベルギアの
声である。ブーステッドマンであるロベリアはノーマル・スーツに取り付けられた器機を通じて体調がモニタリングされている。
「ロベリア。血圧があがってます。気を落ち着けて!」
「できないよ、そんな器用なことなんて……」
戦闘なのだ。見上げれば曳光弾の輝きが縦横無尽に走り、物の大きさを判別しにくい宇宙にあって飛び交うジンの姿は遠近法の狂った絵画のように見えていた。
せめて、狂っているのが光景だけであればよかったのに。
敵は明らかにおかしな動きをしていた。常軌を逸した特攻もさることながら各機の癖が強すぎる。正規の軍隊らしからなぬ個性的な動きをするモビル・スーツがあまりに多く見受けられた。
それは、ラウ・ル・クルーゼを困惑させるに十分であった。宇宙に漂う白銀のガンダム、ZZ-X200DAガンダムトロイメントは積極的に攻撃に打って出ないでいる。
「ジンハイマニューバか……。生産は中断されたと聞かされていたが、まさかこのような機体を持ち出すとはな」
自ずとこの攻撃部隊の性質が見えてくると言うものだ。
ラウは一抹の不安を禁じ得なかった。そのことが、攻撃の手を緩めている。仮にラウの仮説が正しいのだとすればこの部隊にはジャスミン・ジュリエッタが参加してるはずなのだ。右足と左腕を失ったジンの動きを見た時、ラウは行動を起こさない訳にはいかなかった。
この半壊したジンにはある特徴が見られた。反応が極端に前方に偏っている。ジャスミンはバイザーをつけている。バイザーのカメラ自体は先端に取り付けられているため、言ってしまうならば目が頭蓋骨の先に飛び出ているかのようなものの見方をする。そのため、一般人に比べて前に意識が集中しやすい反面、自分の体を含む後方への警戒が疎かになりがちである。
ビームの網を買いくぐりふらふらと現れたジンからは同様の傾向が見て取れた。
「ジャスミン、君か?」
トロイメントをジンの前に移動させる・フェイズシフト・アーマーに包まれた輝く体はたやすく前をとる。ジンハイマニューバは驚いたように右腕のアサルト・ライフルを向け、しかし撃ってくることはない。ジャスミンならばトロイメントのパイロットがラウであることを知っている。
クルーゼ隊当時のチャンネルをまだ設定しているのだとすれば通信は通じるはずだ。
「ジャスミン、聞こえているか?」
「隊長……?」
「やはり君か。まさかこのような無謀な作戦に参加させられていたとはな。ジャスミン。私とともに来い。君がプラントに組みする理由などないだろう」
少なくともこんなところで犬死にすることが望みではあるまい。
トロイメントの右腕に持つライフルを後ろへと引き、幸い無手である左腕を差し出す。本来ならば戦場の真ん中で動きを止めるなど正気の沙汰ではないが、周囲の友軍は援護してくれているようであった。敵機の接近はなくあわただしい混戦から切り取られていた。
「隊長……」
その声調には迷いが見て取れた。ただそれが、逡巡ではないと、猜疑心や疑惑に突き動かされた怒りであると気づくには、ラウにはあとわずかな時間を必要とした。
「どうしてですか……?」
「何……?」
「どうしてニコルさんを殺したんですか!」
アサルト・ライフルが発射される。瞬間的な機体の挙動。トロイメントは放たれた弾丸を避け大きく飛び上がった。ハウンズ・オブ・ティンダロスで回避してもよかったが、あれは反撃用の技だ。すなわち、ラウにジャスミンを攻撃する意志はなかった。
ジャスミンは容赦なく追すがってくる。ライフルを向けながら。
「あんなにいい人だったのに!」
フェイズシフト・アーマーに包まれたトロイメントがアサルト・ライフル程度で損傷するとは考えにくい。しかし反撃できないことのもどかしさ、ジャスミンから放たれる怒りがラウに防戦を強いた。このままではたとえラウが攻撃しなかったところで友軍は敵機として躊躇なく撃墜してしまうだろう。この艦隊の司令官として敵を撃墜することをとめることもできないのだ。
「隊長のこと信じたかった。信じていたかった!」
(泣いているのか、ジャスミン……?)
一度たりとも涙を見せたことなぞなかった。バイザーは水分に弱い。そんなことを言いながら、ラウに涙を見せたことなどなかった。それが単なる言い訳でしかないと、信頼を勝ち得た訳ではないと知りながら、ラウは隊長であることよりもムルタ・アズラエルであることを優先した。
ニコル・アマルフィを見殺しにしたのだ。自身の素性が露見することを恐れジブラルタルからは単身脱出した。
まったく防御のことなど考えられていない。ジャスミンのジンは性急な接近を試みると、その銃口はトロイメントを捉えた。
「ラウさん!」
ロベリアの声だ。ヴェルデバスターが2機の間に割り込み、ジャスミン機の突進を受け止める形で衝突する。ぶつかりあった2機のモビル・スーツは絡みついたまま旗艦であるメネラオス級の方向へと流されていく。
2機が離れたのは甲板の真上であった。ともに緑を基調とした2機が互いのライフルを向け合う。ロベリアの攻撃が遅れたのは、通信の内容を聞かれていたということなのだろう。ジャスミン機のライフルが先に火を噴き、フェイズシフト・アーマーに包まれていないビーム・ライフルが爆発を起こした。ヴェルデバスターは甲板に叩きつけられるように落ちる。
「ムウ、エインセル……。私は、誓いを破らねばならんようだ」
ここまで焦りを覚えたことなどついぞなかった。ラウはトロイメントを突き動かす。背部に12機搭載されるナイトゴーント、それを4機放つ。
ジャスミンは泣いていた。施設から連れだし、与えられるものはすべて与えるつもりでいた。だがその結果がこの有様だ。ジャスミンが何を望んでいるのか捉えきれず、奪ってはならないものを与えた挙げ句取り上げたのだ。
「なんたる間抜けか……!」
ヴェルデバスターはまだ動く。右のライフルを失っただけ。
旗艦の甲板に立っている。落とされた衝撃で甲板は少しへこんでいた。今まで書いたことなんてないけど、きっとこんな時に始末書を書くんだと思う。それよりも今は姉であるジャスミンを止めなければならなかった。
ジャスミンの乗るジンはジグザグの軌道を描きながらヴェルデバスターに接近してくる。正確には、バスターの後ろにあるブリッジを狙っているのだろう。
「ジャスミン姉さん!」
オープン・チャンネルなら繋がるかもしれない。そう思って回線を開いても、飛び込んでくるのはノイズばかり。敵味方が完全に入り乱れてしまった状況では回線まで混雑しているようだった。
一度姉を止めなければならないことを、ロベリアは頭の奥から響いてくる頭痛の中で理解した。バスターのライフル--まだ左腕は健在である--を慎重に向かってくるジンに向ける。ジンはアサルト・ライフルを連射していたが、ガンダムなら装甲が少し輝くだけで全部防いでしまうことができる。
後はバイタル・エリアを外してジンの動きを止める。狙いは頭部。正確に撃ち抜くことができればビームの熱がジェネレーターを適度に焼いて燃料や推進剤に引火することなく動きをとめることができる。ただし、胸部をかすめてしまうと最悪大爆発を引き起こしてしまう。
ジンは軌道を不規則に変えながら接近してくる。ぎりぎりまで引きつけて撃つ。集中力を高めて、ロックオン・カーソルが徐々に狭まっていく。自分の鼓動さえ聞こえてくるほど高ぶった意識は、不規則な脈動を感じ取った。
胸が直接叩かれたように痛んだ。息の詰まるような息苦しさが一気に頭にまで駆け上がってくる。
「こんな、時に……」
こんな時だからこそ起こる意識障害。極度の緊張が迫るジンの姿を静止写真のように見せつけて、ロベリアの意識を途絶えさせた。
資料が雑多に投げ出された床を踏み分けて、埃立つようなソファーに体を沈める。暗い部屋だ。外から差し込む街灯の明かりがかろうじて部屋の光景を照らし出している。
部屋の主は明かりを点ける必要を覚えてはいなかった。どうせ1人の家であり、誰かとぶつかってしまうこともない。壊してしまってもよいものばかりでだから。
ただ一つ、まだ壊したくないものがあった。それはいつもの棚におかれている。ソファーのすぐ脇。部屋の主はそっと手を伸ばし、それを掴んだ。それは写真立てであった。わずかな光に家族写真が浮かび上がる。
プラント最高評議会議員であるユーリ・アマルフィとその家族である。正確には、家族であった者たちの写真であった。
息子であるニコル・アマルフィは戦死。妻は家を出て行った。この家には、すべてを失った男の抜け殻だけが残された。
「ニコル……」
特にすることがなかった。現在、アスラン・ザラを乗せた戦艦はボアズへと向かっている。
特にすることがないのだ。ボアズが襲撃されるのは今日明日の話ではない。時間はまだあるのだ。アスランは与えられた個室--本来ならば部隊長が使用するべき部屋--の中、ただ椅子に腰掛け無為な時間をすごしていた。その顔は虚ろであり、はっきりと見開かれた目は何かを見ているようで何も見てはいなかった。
何もする必要がなかった。戦いはまだ始まらない。何もせずとも、時間は勝手に稼がれる。
だから何もしない。何もせず、空虚な心で椅子に座り続けていた。
モビル・スーツの肩。そんな物騒な場所に並んで腰掛けていた。アイリスの顔は特に何のことはなかった。見つめられただけで覇気に体が震えてくることもない。巨大な一枚岩のように強靱な意志を感じさせる訳でもなかった。ごく普通の娘のように、ディアッカには思えていた。ヴァーリだとかラクス・クラインの妹だとか、そんな重責があまりに似合っていない。
「アイリス、絶対に1人で無茶するなよ。バジルール艦長だって心配してる。フレイだってお前に何かあったら悲しむ」
動悸が早くなり、顔が熱っぽくなることがわかる。それでも、これだけはしっかりと伝えておきたい。ディアッカはアイリスから目をそらすことなく、その青い瞳を見つめた。
「それに、俺だっている。頼りない隊長で悪いけどな、俺だっているんだ。少しくらい頼ってくれていいんだからな」
ジャスミンはバイザーをつけていなかった。それでも、なぜか光景ははっきりとわかる。白い部屋だ。そこはユニウス・セブンの部屋みたいで、同時に収容されていた施設のことも思い出させた。
ジャスミンは幼い姿をしていた。まだ手術を受ける前の姿。それなのに、お腹の中にこびりついて離れない喪失感はよりいっそう強く感じられた。両手でお腹を抱えるように抱いて、すると涙を留めることも拭うこともできない。
誰もいない部屋。すべてを拒絶された白い色の壁には、四方八方どこも出入り口なんて見えない。
「誰か……」
かすれて消えてしまいそうな声。誰かに聞いて欲しい。
もうクルーゼ隊の人はみんないないのに。みんないなくなってしまったのに。優しかったニコルは優しすぎて、その優しさを独占なんてとてもさせてくれなかった。
「誰か……」
頼れるディアッカはいつの間にか、手をすり抜けて離れていってしまった。ミゲル・アイマン、オロール、マシュー、みんなみんなもういない。
手を差し出せばよかったのだろうか。握ってくださいってお願いできていればよかったのだろうか。誰かに触れることも触れられることも怖かった。触れたら不愉快な思いをさせてしまうかもしれないから。触れられたら、理解してもらえないかもしれないから。
怖くても、怖さから逃げ出す勇気なんてなかった。
溢れた涙が結局視界を塗りつぶしてしまう。何も見えない。そんな世界こそがユニウス・セブンでジャスミンに与えられた世界そのものだった。もう嫌ななのに、こんな世界なんて。
「誰か私を助けてよ!」
何も見えない瞳に浮かんだのは、仮面をつけた男性が差し出してくれた手のこと。
もう戦闘は集結しているようだった。ロベリアが暗いコクピットの中で目を覚ました時、うるさいほどに飛び交っていた通信が途絶えていた。宇宙の静けさがフェイズシフト・アーマーを通じてさえ伝わってくるようだった。
ロベリアは生きていた。敵機の目前で気を失ったはずなのに、ロベリアは生きていた。突進してきていたジンはヴェルデバスターにのしかかるようにして止まっていた。突っ立っていたであろうバスターに激突してそのまま一緒に旗艦の甲板に倒れたのだろう。
ジンは動きを完全に止めていた。
コクピット・ハッチを開く。すると、ちょうどジンの腹部が目の前にあった。ジンのわき腹をビームが貫通していったであろう痕跡があった。そのことの意味なんて考えない。ただ無重力を飛び出してジンのコクピット・ハッチにとりついた。
どうやって開けるんだろう。ザフトの機体のことなんてわからない。とりあえずハッチに手をかけて力を込めてみる。すると思ったよりも簡単にハッチは開いてしまった。それどころか、機体から完全に外れて漂い始めたほどたった。
ハッチの中を覗き込んだ時、コクピットがなかった。一瞬そう考えてしまったのは、それがコクピットなんだって気づかなかったから。まるで洞窟みたいだ。プラント生まれで天然の洞窟なんてみたことない。でも、壁がごつごつしていて狭い感じ。それは今ロベリアが見ている光景と重なっていた。
考えてはならない。認識してはならない。そう自分に必死に言い聞かせてもわかってしまう、見えてしまう。
わき腹を直撃したビームはその熱をコクピット内部にまで伝えたのだ。その結果、融点の低いものから順に溶けだし、混ざり合ってはまた冷えて固まった。機材もシートも、モニターもコンソールもアビオニクスもすべてが溶けて固まって、コクピットの光景を様変わりさせていた。
もちろん、パイロットさえも。溶けた壁から突き出たようにヘルメットがかろうじて原型を保っていた。
見ても仕方がない。確認してもどうしようもない。理性はそんな冷静な意見を頭に響かせていた。それでも、ロベリアはヘルメットへと手を伸ばさずにはいられなかった。
「嘘だよね……? こんなこと、ないよね……?」
コクピットの中はまだ熱がこもっている。ノーマル・スーツ越しにも暑さがわかるくらいで、溶けた床には怖くてなかなか触ることができなかった。自分も溶けてしまいそうで、姉の体を踏んでしまいそうで。
「こんなのって……」
ヘルメットを無理やり引きはがす。見えても炭化してしまった人の遺体くらいしか見えないはずだったのに、ヘルメットをひき外すと漂い出たものがあった。表面が溶けた表面。それなのにカメラのレンズはロベリアの顔を映す。視力のないジャスミンが使用していたはずのバイザーが、ロベリアのことを見ていた。
「あ……、あああああぁぁぁぁぁー!」
叫ぶロベリアを見下ろすような位置にトロイメントが浮かんでいる。ラウ・ル・クルーゼは静かにかつての部下の死を見つめていた。
両腕が綺麗に破壊され、全身が溶け、あるいは焦げ付いている。もはや元々の色を確かめることさえ難しい状態のジンハイマニューバは地球軍の格納庫に横たわっていた。
コクピットから緑の一般兵がゆっくりと姿を現す。銃を構える地球軍兵士たちが取り囲んでいた。ザフト兵は腕を上げ、降伏の意志を示す。
「よし動くな。逆らわなければ捕虜にしてやる」
ザフト兵に反抗の意志は見られない。しかし地球軍兵士は不満げに言い放つ。
「おい、左腕を……」
しかしその声は途中でとぎれた。気づかされたからだ。このザフト兵は左腕を上げていないのではなく、元から有していなかったのだと。
この時、地球軍は初めて理解した。このあまりに無謀な奇襲を仕掛けてきた敵の正体と性質を。
戦闘を終えた格納庫はかえって慌ただしさを増していた。少数精鋭による奇襲。文字通りの全滅を覚悟した敵の攻撃は戦術論に当てはまらぬ猛攻を見せた。艦隊全体としては軽微な損害であるとは言え、旗艦を守るブーステッドマンを中心に被害が生じていた。
格納庫では担架で運ばれる人の他、損壊したモビル・スーツ。帰還しなかった機体の開けた隙間が、妙にもの悲しく感じられる。
らしくない。それがラウが自分自身に感じた率直な感想である。このように不必要な感傷に囚われることなどムルタ・アズラエルにとってあってはならないことなのだ。ムルタ・アズラエルはそれほど罪深い。
「あああぁ!」
この声を聞いた時、ラウは自分の頬に鈍い痛みを覚えた。首が揺り動かされるほどの衝撃ではあったが、怯むことはできない。受け止めなければならなかった。泣きはらした目をラウへと向けるヴァーリの少女の拳を。
「クルーゼ大佐!?」
周囲の整備士がカルミアを止めようと動き出したことで、ラウは手を上げ彼らを制止しなければならなかった。
「騒ぎ立てるな、子どものしたことだ」
ロベリアの攻撃は最初の一撃で終わっていた。後は拳を強く握りしめ、うつむきがちに声を絞り出すだけである。もしもラウが撃たなければロベリアが死んでいただろう。仮に撃たなかったとしても旗艦を守るためにはジャスミンを撃墜せざるを得ない。言い訳にしか聞こえないこの理屈は、しかし残念なことに事実であった。
事実であるが故、ロベリアの怒りは行き場をなくしているのだ。
「あ……、ありがとう……、ございます……、助けて、くれて……」
握りしめたままの拳で顔を拭うロベリア。拭えど拭えどとまらぬ涙を拭う手は次第に固い拳が解かれ、そのまま顔を覆い隠す。
「ごめんなさい……。でも……、私、でもぉ……」
もはや誰もロベリアのことを止めようとする者はいない。しかし何かしてやることができる者もいないのだ。少女は泣き続け、大人たちはただ見守ることしかできない。誰も慰めの言葉も、慰める資格も有していないのだ。
「ジャスミン姉さん……、カルミア姉さん……」
この光景はこの戦争の縮図のように思われた。
「私のことを見なさい!」
ニーレンベルギアは担架に乗せられたブーステッドマンへと声をかけた。できる限り大きな声で。意識を覚醒していてもらいたい。
本来ならば滅菌の行き届いた手術室で治療したいのだが、怪我人が多すぎた。担架はコンテナの上に置かれ、ここは格納庫である。殺菌された手袋にマスク。手術衣を身につけたスタッフがニーレンベルギアの周囲を囲っている。
「縫いますか?」
「この傷なら消毒して生体ボンド使った方が得策です。でも先に血管を縫います。生理食塩水とガーゼ。吸引急いで」
どれほど医療器具が発展してもいつも万全の環境が整うとは限らない戦場では医師の腕がものを言う。ニーレンベルギアはスタッフが傷口の周りを洗っている内に針と糸を取り出す。
「輸血は?」
「1パックで十分です。すぐに終わらせます」
幸いとして傷口は綺麗なものであった。幸か不幸か鋭い破片が突き刺さったため、血管の切断面は縫合に適していた。お人形でも縫っているような気分で血管を繋ぎ合わせる。止血のために血管を縛り付けていたひもをほどくと、血液は再び流れ出す。他に出血は見られない。これでこの患者は大丈夫だろう。皮膚は接着剤で繋ぎ合わせる。
何とか一息つけるようになる。改めて医務室に運ばれていくブーステッドマンを見送って、ジャスミンは血に汚れた手袋を外す。普段外科手術を行っている訳ではないニーレンベルギアにとって、マスクは息苦しい。外すことができて思わず強く息を吸い込んだ。
ニーレンベルギアに駆け寄ってきたのはカズイ。頬に絆創膏を張ってはいるが元気なようだ。手術の間は気を使って待っていてくれたらしい。本当に子どものようだと思う。
「すごいよ、ニーレンベルギア」
「外科は専門外なのですけど。カズイ、あなた、傷は?」
「僕は平気。でも、オルガもシャニも死んだ」
「そうですか……」
2人ともブーステッドマンである。ニーレンベルギアが施術した人数だけで5人を数える。局地的には激戦と言ってもよい戦いだったのだ。
ニーレンベルギアは唇を強くかみ合わせた。研究者としては実験台を失い、医師としては人の死が心地よいはずもない。何より、無邪気なカズイの言葉はジーレンベルギアの心をひっかいた。
「敵はみんな病気の人や怪我した人ばかりだったって。どうしてかな? ザフトって怪我した人の方が強いの?」
そんなはずはない。話では機体もすでに量産される予定のない新型であったとも耳にしている。すでに廃棄されることが決定している機体に、少なくとも終戦まで前線に立てない傷病兵や障がいを持つパイロットを中心に部隊を構成する。非常に合理的な判断だと言えなくもない。
倫理や人権を考慮しないのだとすれば。
「アブラムシのカーストね……」
ニーレンベルギアが見つめる格納庫は雑多な人々が動き回っていた。ニーベルンベルギアの言葉を聞いた者は誰もいなかった。
アブラムシの中には、ある特殊な生態で知られる種が存在している。
アブラムシは弱い種である。戦う牙もなく爪もない。捕食者に襲われることに怯えながら生きていく他ない。そんな弱い生物が生き抜くためにはいくつかの方法が考えられる。
味方を手に入れること。蟻と共生関係にあるアブラムシの存在はよく知られている。
自ら戦う術を手に入れること。この方法を選択したアブラムシも存在する。
そして、ここで語られるべきアブラムシは両者の方法を同時に選択した。アブラムシはある子を産む。それはすべて雌であり、母親とはまるで違う形へと成長する。体に強靱な足を生やし、敵に突き刺す堅い吻部を持つ。その逞しいまでの姿は、母親を襲う敵へと颯爽と襲いかかり、母を守る。
しかし娘たちは宿命づけられている。戦う少女たちは母になることは決してない。元より繁殖能力を持ってはいないのだ。短命であり、母を守るためにその生は燃やし尽くされる。
娘たちの守られた母はその間、娘たちとは別に、繁殖能力を持つごくありふれたアブラムシを産み、種の保存につとめる。
誰かが言っていた。生命の最大の使命は次世代を産み、その種を栄えさせることであるのだと。
ではこの少女たちはどう判断すべきであろうか。確かに母を守り、種の保存に協力しているという見方もできることであろう。だが、命を育むことを宿命として拒絶され、ただ戦い、傷つき、死ぬことを運命づけられている。
アブラムシにとってはそれが生態であり、そこに人間的、感傷的な判断を介在させる余地などない。ただそうして生きてきただけなのだから。
だが、人として考えることが許されるのであれば問いかけることを許されたい。戦うためだけに生み出され、その役割をまっとうすることしか許されない子どもは、一体何のために生まれてきたのだろう。そんな疑問を禁じ得ない。
生まれた意味も役目も明確である。ただしそれは、あくまでも生み出した側にとっての都合でしかないのだから。