それは人の姿をしている。この時代、この言葉が指し示す存在は3つしかない。ナチュラル至上主義者がコーディネーターを指して使う場合。でなければコーディネーター至上主義者がナチュラルを示して使用する場合。そして、その人の立場に寄らず、モビル・スーツはそうと呼ばれる。人の姿をした兵器だと。
大型VTOL輸送機の格納庫から歩み出たのはモビル・スーツに他ならない。ザフト機とは異なるゴーグル・タイプのデュアル・センサー。右側頭部に直立するアンテナを備え、装甲にしてもストライクガンダムとGAT-X102デュエルガンダムの特徴を兼ね備え、簡略化したものが採用されている。それがガンダムを基に生産された量産機であることはようとして知れた。胸部は青く、腹部には赤。これはストライクと合致する。手足の大部分をくすんだ灰色が占めている。これはデュエルに近い形質である。武装は右手にライフルを、左手にシールドを構える。その姿はデュエルガンダムを彷彿とさせる。
それもそのはず。この機体はGAT-01デュエルダガー。ビーム兵器をはじめて基本装備として採用した、地球最初の主力モビル・スーツであるのだから。地球のモビル・スーツ、ガンダムの系譜を受け継ぐ機体である。
それが総数にして18。編隊飛行の左右を占める6機の大型VTOL輸送機から各3機が次々に砂漠へと跳び下りた。
アーク・エンジェルのブリッジでは誰もが輸送機から降下するモビル・スーツの群れを眺めていた。艦長であるマリュー・ラミアスであろうと、そのほかのクルーであろうとそのことに大差ない。ただ呆然と、その光景に目を奪われていた。こんなことはありえない。あってはならない。大西洋連邦が有するモビル・スーツ開発のノウハウは穏健派が独占しているはずである。そして、穏健派が量産を開始したならマリューの耳に入らないはずがない。
では、これは何だろうか。目の前のこの光景は。
「輸送機から入電です!」
ここで、マリューは珍しい声を聞いた。ダリダ・ローラハ・チャンドラⅡ世伍長は通信士である。単艦での活動が多いアーク・エンジェルが友軍と共闘することは極めて少なく、少なくとも実戦においてははじめてのことではないだろうか。マリューは一瞬何が起きたのか判断することが遅れてしまった。事態を把握するまで数秒必要とした。それから慌ててダリダ伍長の方を向くと、伍長は辛抱強くこちらを見ていた。
そろそろ、威厳ある艦長に戻らなければならない。
「ダリダ伍長、入電の内容は!?」
無意味に手を突き出して、伍長に報告を促す。時には、こんなパフォーマンスも必要だろう。
「はい! こちら、ニーレンベルギア・ノベンバー中尉。貴艦を援護する。早急にこの空域を離脱されたし。以上です!」
ダリダ伍長が告げた名前に聞き覚えはないが、違和感がある。中尉程度の階級で2個中隊もの戦力を指揮する権限が与えられるとは考えられない。それに、わざわざ通信ではなく、電報を用いたことも謎である。口元に手を当てて考え込もうとする。ところが、その手は、突然だらしなく開いてしまった口を隠すためにその用途を変更されてしまった。だが、見開かれた目は隠すことができない。
マリューが視線を向けるモニターには編隊の先頭を行く大型VTOL輸送機の後部ハッチが、正確にはそこから身を乗り出すモビル・スーツの姿を眺めていた。量産機などではない。ブレード・アンテナを鋭く伸ばし、顔を持つ。人がガンダムであると認識する、顔を持つ機体がハッチから身を乗り出していた。ガンダムが確かに、そこにいる。
大型VTOL輸送機のコクピットは戦艦のブリッジのように動きやすさを考慮した広さにはなっていない。操縦士と副操縦士が席を並べて無数の計器の前に座るとそれだけで手狭な印象を受ける。シートのすぐ後ろにはドアがあり、機体の大きさの割りにこじんまりとしている。それこそ、1人が余裕を持って立つことができる程度の広さが余っているだけである。そして、シートの後ろにはすでに人が立っている。
副操縦士は後ろを振り向くことなく、その人物へと声をかけた。
「各機降下を終えました。後はここのガンダムのみです。ノベンバー中尉」
操縦士と副操縦士席の間の隙間に手が割り込んだ。女性の、それも少女の手だとわかる。白衣に包まれた女性ものである。その指が通信のスイッチを押す段階に至ってようやく、2人の操縦士が振り向くことなく少女を目にすることができるようになる。白衣を身につけ、漆黒の瞳と髪を持つ。律儀に切りそろえられた前髪に覆われて見えるその顔は、操縦士には知る術もないが、ゼフィランサス・ズール、ヒメノカリス・ホテルと同じものであった。ヴァーリである。
通信スイッチに指を置きながら、声をかけてきた副操縦士を見る顔には微笑が浮かんでいる。
「私の階級なんて便宜上のものに過ぎませんのに。それとも、軍人さんは階級をつけた方が呼びやすいのかしら?」
副操縦士は答えない。まだ30に差し掛かった程度の若い男性でヘルメットから覗く顔は明らかに困惑している。若い女性のあしらい方を心得ていない様子が見て取れる。ノベンバー中尉と呼ばれた少女はあっさりと副操縦士から関心を通信機へと移した。
「カズイ、あなた病み上がりだから無理はしないこと。いいかしら?」
この通信は格納庫へと、正確には格納されている3機のガンダムへと繋がっている。この輸送機は本来モビル・スーツの運用を前提に設計されていない。よって通信は音声のみを通すだけである。少女の、ニーレンベルギア・ノベンバーの言葉に対して返事があった。それは少年の声で、しかしどこか幼い抑揚を帯びている。
「うん、わかった」
ニーレンベルギアは続いて、隣りのスイッチへと指を移した。
「ロベリアはカズイの援護をしてもらえるかしら?」
返事は少女の声音。どこにでもいるような、そんな雰囲気が通信を通り伝わってくる。
「やってみる」
続くスイッチへ。
「ヒメノカリスお姉様、……本当にそんな格好でいいの?」
副艦長が見せたような困惑顔を今度はニーレンベルギアが見せた。ニーレンベルギアはNのヴァーリである。13女にあたり、11女のHのヴァーリであるヒメノカリスは出身の研究室が異なるとは言え姉に当たる。しかしここからではヒメノカリスの姿は見えない。ただ、ニーレンゲルギアの記憶が確かなら、ヒメノカリスはドレス姿のままで機体に乗り込んでいた。お父様からいただいた純白の衣装を纏い、お人形のような髪型をしてパイロット・シートに座っていた。
お姫様の恰好をした少女は、それこそ夢見る乙女のような返事をした。
「この方がお父様は似合うって言ってくれるから……」
ニーレンベルギアは微笑みながらもため息をつくほかない。何はともあれ、舞台は整った。ニーレンベルギアは出撃を命じた。
大型VTOL輸送機より、3機のガンダムが降下を順々に降下を開始する。
GAT-X1022ブルデュエルガンダム。
蒼を冠された、デュエルガンダムの追加装甲を扱う実験機である。その特徴は体の各所に施された沈んだ青をした追加装甲にある。脚、腕を守る装甲は武器コンテナを兼ねる洗練された形状をしたもので、決して鈍重な印象は与えない。胸部、肩部の装甲はまさに装甲といった重厚な堅牢性がデュエルを包む。右肩に取り付けられたシールドと、その盾に守られるように設置された小型レールガン。加えて、背部に増設されたウイング状のスラスター・カバーの下には、所狭しとスラスターがひしめいている。ブルデュエルガンダムが単なる防御力を強化された機体ではないことを強く主張して譲ることはない。
ブルデュエルは脚に備えられたスラスターを逆噴射し着地の衝撃を和らげたかと思うと、砂に脚をつけた途端に一気に前方へと加速した。前傾姿勢で滑空するブルデュエルが目指す先ではザフト軍のTMF/S-3ジンオーカーが2機バズーカを構えた。ガンダムを守るフェイズシフト・アーマー相手にも、バズーカなどの質量弾は有効である。ジンオーカーは同時にバズーカを発射する。
青のデュエルのコクピットの中では、少年は呆けていた。大西洋連邦軍のノーマル・スーツを着込んでいるがヘルメットはつけていない。その代わりとして、異様な数の包帯が顔、頭に巻きついていた。髪がわずかに包帯の隙間から覗くばかり。目の周りこそ包帯はどけられているがその目には生気が感じられず、まるで眠っているようでさえある。この少年を、ニーレンベルギアはカズイと呼んでいた。
バズーカの弾丸がデュエルを直撃する。爆発が生じ、煙が立ち上り、そして光がそれらにとって代わった。バズーカはまるでブルデュエルに損害を与えることができなかったのである。胸部、肩部に施された装甲は前傾姿勢で突撃を行うことを前提に、最も被弾率が高いであろう上半身にフェイズシフト・アーマーと内側にショック・アブソーバーを仕込んだ追加装備を施した。被弾箇所を限定し、その部位に集中して装甲を増設することで重量を抑え、スラスターを増設することで爆発的な突進力を得るに至った。
「うん、フェイズシフト・アーマーは正常。問題ないよ、ニーレンベルギア」
包帯の少年、カズイはやはり眠たげな目をしたままでその視線をモニターに表示される文字列へと向けた。
表示はビームガン。小手の追加装甲の内側からピストル型の銃器がせり出し、ブルデュエルの両手にそれぞれ装備された。ブルデュエルはビームガンを同時に発射する。ライフルに比べ、初速、出力、エネルギー効率ともに悪い。しかし、輝く玉として撃ち出されたビームはジンオーカーの装甲を破壊するに十分な攻撃力を有していた。一撃は近い位置にいたジンオーカーのモノアイを貫き、頭部を破裂させる。もう1撃はバズーカに吸い込まれたかと思うと、やはりそれを爆発させた。そして、ビームガンはライフルとは比べ物にならないほど連射性能を獲得していた。これだけでは飽き足らず、次々撃ち込まれる弾丸はたやすくジンオーカーを引きちぎると爆発の中へと放り込む。
残されたジンオーカーは距離をあけようと後ろへと跳ぶ。ブルデュエルは逃がさない。増設されたスラスターが生み出す爆発的な加速力であっさりとジンオーカーを射程内に収めると、右手のビームガンをすばやく装甲へと戻した。そして、脚の追加装甲に取り付けられたビーム・サーベルを膝関節の横から取り出した。
「敵は殺すんだよね、ニーレンベルギア」
カズイはそう言いながら、逃げるジンオーカーの背へとサーベルを叩きつけた。背中を斜めに深々と切り裂かれたジンオーカーは爆発し、跡形を残すことさえない。
GAT-X103APヴェルデバスターガンダム。
与えられた名は緑である。GAT-X103バスターガンダムよりもより光沢鮮やかな緑色が各所に配色されている。肩、胸を覆う追加装備は重厚よりは頑強。肩には後部に突き出る形のスラスターカバーが増設され、その上にレールガンが各1門設置されている。より大型化した赤褐色のバイザーが顔を覆い、両腰にはバスターガンダム同様、アームで連結されたライフルは健在である。
パイロットであるロベリア・リマはコクピット側壁からスコープを引き出して左目に当てていた。ノーマル・スーツを着込み、スコープとヘルメットに顔が遮られている。そのため、ロベリアがヴァーリと同じ顔をしていることを知ることしかできない。付け加えるなら、ロベリアはスコープを通して、遠く離れた場所にいるレセップス級へと狙いを定めていた。
「大気中でのビームの使用はビームの拡散に加え、熱量の減衰率を鑑みて長距離射撃には適さない。この距離でレセップス級に十分な損害を与えるためには、弱点を正確に狙い撃つ必要がある」
さもマニュアルでも読み返すような口調でロベリアは言った。操縦桿を掴む指は他の機体には見られないボタンを1つ押し込んだ。すると、覗くスコープの中でヴェルデバスターが両肩に背負う2門のレールガンに特殊弾丸が装填されたことが表示された。
装弾筒付翼安定徹甲弾。貫く。ただその目的に特化した弾丸である。弾丸の威力は運動エネルギーに、貫通力は断面席面積に依存する。限りなく細い弾体を、限りなく速く撃ち出すことができれば、万物、森羅万象、有象無象、この世に存在するものをあまねく貫く射撃が可能となる。現実はそこにまで達していない。細くし過ぎれば弾体は強度を失なってしまう。物質を理論上の最高速である光速にまで加速させることは現実的ではない。貫く。その理想を求めるための弾丸である。弾体はタングステン合金製であり、細く長い。まるで矢のように。レールガンは口径が比較的大型に限定される。タングステンの矢を撃ち出すために装弾筒で弾体を包む。口径に合わせるためにケースで包むのである。
スコープにはカズイのブルデュエルを狙おうとしているレセップス級の格納庫がある部位へと標準を合わせていた。接近戦に特化したブルデュエルにはレセップス級は射程外にある。しかし、ブルデュエルの後方にいるヴェルデバスターには十分に射程内である。
「カズイをやらせたりなんかするもんか」
両手に握られた操縦桿。トリガーを同時に引く。レールガンが装弾筒付翼安定徹甲弾を発射する。銃口から飛び出すや否や、役目を終えた装弾筒が砕けて剥離する。それは知識として知っているだけのことで、肉眼で確認することは不可能である。それほどの速度で、矢はレセップス級を目指した。着弾。派手な爆発など起きない。レセップス級の分厚い鉄板を貫通して、丸い穴がスコープに映し出される。ヴェルデバスターは両腰のライフルを構えた。ヴェルデバスターに装備されたライフルはバスターの物とは異なりスケールダウンが施されている。これに伴い有効射程は減少したが、その代わりに得たものもある。命中精度の劇的な向上である。
ライフルから放たれたビームは輝きを纏いながら、装弾筒付翼安定徹甲弾が先ほど開けた穴へとそれぞれが入り込んだ。ライフルが小型化されたことで取り回しがよくなり、命中精度は格段に上昇している。だから、こんな芸当も可能だ。レセップス級は一見変化がないようであったが、すぐに影響は現れた。スケール・モーターが停止した。砂を滑るように疾走していたはずが、砂を掘り進むようになる。すぐに砂が艦体の周りに盛り上がり、レセップス級は動きを完全に静止した。
GAT-X105Eストライクノワールガンダム。
禍々しい機体であった。ストライクガンダムとは異なり、胸部などの主だった装甲が漆黒、手足は灰色が薄く被っている。肩からはスラスターが角か棘のように増設されており、機体を鋭角にまとめようとしている。何より、背負うストライカーは不気味な印象を与えている。単にウイングが取り付けられているだけである。しかし、そのウイングさえ黒い。そして縦に折りたたまれた様は、悪魔が翼をたたんでいるようとも、柩を担いでいるとも思わせる。
何をするでもなく砂漠にたたずむ姿は、怯えた獲物が跳び出してくる時を待つ大鷲であろうか。
コクピットの中には白薔薇の姫君が腰掛ける。波立つ桃色の髪を指で弄びながら、肘掛部分にしなだれかかる。シートは玉座であり、ヒメノカリスは退屈な謁見者を迎えた姫君に他ならない。
父である王に命じられ、息を吹きたくなるような時を過ごす姫であった。
この援軍は完全な奇襲であった。無理もない。ザフトは大洋州連合を、月下の狂犬の相手に手一杯であった。何よりナチュラルがモビル・スーツを、それもビーム兵器を搭載した量産機を有しているなど知らなかったのだ。デュエルダガーは盾を並べ、ライフルを突き出し前進していた。夜の砂漠を巨人の群れが壁となって進んでいる。
TMF/S-3ジンオーカーはライフルで迎撃する。これまで太平洋連邦のどの機動兵器相手にも十分な威力を発揮したアサルトライフルは、しかしデュエルダガーのシールドを貫くことはできない。開戦から4年にわたって使用され続けたアサルト・ライフルの性能を地球軍は知り尽くしている。仮にシールドを製造するとすれば、それは必ずアアルト・ライフルを仮想敵として開発されるが道理である。そうしてデュエルダガーを守るシールドが確かにザフトの攻撃を無効とした。
意外なことかもしれないが、ザフト軍のモビル・スーツは対モビル・スーツを想定されてはいない。想定される敵は要塞、戦艦、あるいはメビウスなどの重戦闘機。何にせよ自分たちよりも機動力の低い敵機と戦ってきたのである。だから誰にとっても未経験のことであった。自分たちと同等の機動力を誇り、モビル・スーツと戦うことを前提に作られた機体と戦うことなど。
デュエルダガーのライフルから放たれたビームはザフト軍モビル・スーツの装甲をたやすく貫通する。ガンダム・タイプほどの火力はなくとも、バイタル・エリアに撃ち込まれたビームはザフト軍モビル・スーツをいとも簡単に戦闘不能にするのだ。コクピットを撃ち抜かれたジンオーカーが力なくその骸を、かまわず突き進むデュエルダガーの足元に横たえていた。その厚い装甲ごと胸部ジェネレーターを破壊されたザウートは下半身しか原型を留めていない。
戦闘はあまりに一方的に行われた。レセップス級大型陸上艦でさえ3機、1個小隊程度のデュエルダガーがビームを浴びせかけるだけでものの数分を経て残骸と化す。
危機は必ず好機につながり、好機は危機を孕んでいる。モビル・スーツ技術を独占していたザフトに、対モビル・スーツのノウハウはない。モビル・スーツとの戦闘を想定していない地球軍を相手に、開戦当初ザフト軍は快進撃を続けていた。それがたやすく入れ替わってしまったのである。皮肉なことにザフト軍には対モビル・スーツへの備えはなく、ジンを倒すことを至上命題として性能開発されたデュエルダガーがジンオーカーを圧倒しない理由はなかった。
ザフト軍がガンダムを執拗に付け狙った理由がこれである。単なる技術の問題ではないのだ。新機軸の兵器を敵が手に入れるということは、ザフト軍が有していた軍事的優位のすべてを奪い去ることを意味していた。ザフト軍は混乱のきわみにあった。どんな戦術マニュアルにもモビル・スーツとの戦闘を想定したものは記載されていない。誰も経験などしていなかった。自身と同程度の性能を有する機体との交戦など。
開戦以来保ち続けたザフトの優位性は、あまりに脆く瓦解したのである。
ザフトは撤退を決めた。もっとも、わざわざ逃がすほどの戦力が果たして残されているだろうか。8隻あったレセップス級はすでに半数以上が失われている。モビル・スーツにも甚大な被害が生じていた。レセップス級ペトロはエンジンが焼け付くほど出力を上げ戦線離脱を試みていた。その格納庫は、皮肉な表現だがまさに戦場である。撃沈された艦から乗り移った負傷者が床にシート1枚の上に並べられている。格納されたモビル・スーツは無傷のものなどなく、その足元を白衣を着た衛生兵が走り回っている。
「動けないモビル・スーツなど捨てておけ! 回収している余裕などない!」
アンドリュー・バルトフェルド亡き後、陣頭指揮をとるのはマーチン・ダコスタの仕事である。自らも頭に包帯を巻きつけながらも部下に対して的確な指示を飛ばすその様子を、格納庫の片隅で眺める2人がいた。そこは資材が放置された一角である。1人は立ちながら、その顔には仮面がつけられている。もう1人は資材の上に座りながら、頬に張られた絆創膏の上から傷を掻いている。
「もっと優しい撃墜の仕方はなかったのか、ラウ?」
声を発したのは傷を触る男の方である。長身で捲り上げられた袖口からは鍛え上げられた腕が伸びている。軽い調子で笑いながらそれさえも男の自信を強調しているかのよう。だが何より、男はこの場にはそぐわない、大西洋連邦のノーマル・スーツを着ていた。
仮面の男は、目元を隠したまま口元を歪ませた。
「私の機体を痛めつけてくれたことを棚にあげて、ずいぶんと贅沢を言うものだな、ムウ」
仮面の男の名はラウ・ル・クルーゼ。傷をもつ男はムウ・ラ・フラガ。2人の纏う空気は明らかに異質なものであった。誰もが焦燥している環境にありながら、それを楽しんででもいるかのように会話を嗜んでいる。いつ、撃沈されるかもわからない環境であるにもかかわらず、その程度の状況が彼らを慌てふためかすことはなかった。轟音が響くと、負傷者さえ跳ねるように首を上げ、あたりの様子を少しでもうかがおうとする。格納庫からではいくら目を凝らしても見えるはずもないが、そう割り切れるほど、コーディネーターとは合理的に作られてはいない。だが、ムウとラウは互いを見るだけで死の恐怖など意に介しはしない。その顔には笑みさえ浮かべていた。
「派手にやってるな、ムルタ・アズラエルはな」
ムウの言葉は、戦禍に紛れて消えた。
現在、GAT-X103バスターガンダムはレセップス級ペトロの甲板に立っていた。空母ではないペトロは平たい甲板などないが、そこはモビル・スーツの汎用性を生かし、残された右手をブリッジを有する構造に掴まらせることで機体を支えている。反対側ではニコル・アマルフィのGAT-X207ブリッツガンダムが左手をバスターと同じように支えとしていた。
アスランはモニターにブリッツの姿が映っていることは理解していたが、敢えて見ないようにしていた。ニコルが暴走したことに、モーガン中佐を殺害されたことに怒りを覚えているわけではない。戦場で敵兵を倒すことは当然であり、時には味方に被害を出してでも任務を遂行しなければならない場合もある。ただ、今、ニコルにどんな言葉をかけるべきか、何も浮かばなかった。
そうして目をそらしていると、ペトロを追いかけるように走行していたレセップス級がビームの雨に晒された。スケール・モーターに損傷が出たのか、急減速して見る間に後方へと投げ出される。高速で走行しているペトロの上からではそう見えたが、実際はレセップス級が止まっただけだ。そして、レセップス級は間もなく追いつかれてしまうだろう。
今のバスターでは振り落とされないようにすることが精一杯だ。だが、このままではこのペトロさえ追いつかれてしまいかねない。同時に打つ手もない。フェイズシフト・アーマーだとて、量産機のビームは貫通するだろう。
考え込む。それは、ニコルへと話しかけないですむ言い訳になる。考えなければならないことがあるから話さないのだ。そう、自分に言い訳していると、唐突に通信が入った。それは、普段仲間内で使用しているチャンネルのもので、ニコルか、ジャスミン・ジュリエッタからのものということになる。ジャスミンである理由は思いつかない。ニコルとも考えにくい。すると、通信機から聞こえた声は、ニコルのものだった。
「生きてください、アスラン」
「ニコル?」
意識が追いついてなんかいなかった。ニコルの言葉の意味を理解などしていなかった。声をかけられた。すると生じる自然な反応として、アスランは右を向いた。モニターの中で、ブリッツガンダムが、ニコルがペトロの上から跳び下りた。
誰が悪いわけでもない。ザフト軍のキンバライド基地攻略作戦はアンドリュー・バルトフェルド指揮官が戦死しつつも成功した。敵にガンダムがいた以上、この程度の被害はやむをえない。たとえ敵の援軍に奇襲されたとしても、大西洋連合が新型モビル・スーツを開発していたなんて情報をそう簡単に入手できるはずがない。作戦に無理はない。敵の新型に圧倒されていたとしても、現場の誰かが悪いわけではない。誰が悪いわけでは決してない。それなのに、責任をただの1人でとろうとしている人がいる。そのことに、ジャスミン・ジュリエッタは我慢することができなかった。
ザフト軍大型陸上戦艦レセップス級ペトロの格納庫。そこに格納されているTMF/S-3ジンオーカーの中で、ジャスミンは叫んだ。
「どいて下さい! 出撃します!」
声はモビル・スーツの拡声器を通じて格納庫中に響く。ここには負傷兵が床に寝かせられていたが、そんな身動きさえとれない人でさえジャスミンのジンオーカーを見上げている。その中で頭に包帯を巻きつけた若者が1人立ち上がりジンオーカーを睨み上げた。負傷者は寝ている。看護の人は跪いて治療にあたっていた。よって、この人はそのどちらでもない。
マーチン・ダコスタ。アンドリュー指揮官亡き後の代理司令官である。
「無茶を言うな! 今そんな余裕はない!」
状況をよく見ろ。そうとでも言わんばかりにマーチンは手を大きく振った。その手が届く範囲にさえ、腹部に巻かれた包帯に血をにじませた負傷者が痛々しい姿を見つけることができる。 モビル・スーツを出撃させるにはこんな負傷者も動いてもらわなければならない。ジャスミンとて、それがわからないわけではない。無意味なことではありながら、バイザーの中でまぶたを強く閉じた。それでも、映像は視神経を経由しないため、マーチン代理の横に仮面の男性が歩いてきたことも見えてはいた。
ジャスミンたちの隊長である、ラウ・ル・クルーゼである。いつも冷静な人で、しかし、今はそれが冷たいとしか思えない。
「ジャスミン、ダコスタ指令代理の言葉は正しい」
レセップス級が逃げおおせているのは、ニコル・アマルフィが戦場に残っているからに、囮を買って出たからに他ならない。そして、アスラン・ザラもそんなニコルを助けようと戦場に戻ってしまった。そのことを、隊長は知っているはずなのだ。
「クルーゼ隊長、でも! アスランさんとニコルさんが!」
どれだけガンダムが高性能だろうと、敵機は20機を超える2個中隊もの戦力である。さらにビームまで装備している。たった2機で覆る戦力差ではない。そのことだとて、隊長は、隊長なら理解しているはずなのだ。ジャスミンがどれほど激昂して見せても、クルーゼ隊長は冷徹だった。
「ジンオーカーの機動力ではたとえ2人を援護できたとしてもレセップス級に戻ることはできない。私としては部下をみすみす死地に出向かせるわけにはいかんのだがね」
澱みない戦況分析をモビル・スーツが拾い上げ、コクピット内に再生される。
「でも……!」
何か隊長を説得できる手札を用意していたわけではない。結局言葉は途切れて、繋げることができない。仮面に右指を当てて、その位置を修正する。隊長は、あくまでも冷酷だった。
「アスランなら心配する必要はない」
どうしてニコルの名前が出てこないのだろう。怖くて、とてもそのことを聞くつもりにはなれなかった。
光の鎧を脱ぎ捨て、闇の衣を纏う。
1対18。絶望的な戦力差がある、しかし絶望の戦いではない。ブリッツガンダムはデュエルダガーの群れの中に単機で飛び込んでみせた。複数の敵を相手にする際、決してしてはならないことは敵に取り囲まれてしまうことである。しかしブリッツは敢えてセオリーを崩した。発生したビーム・サーベルがデュエルダガーを切り裂いた。周囲をとりか囲むデュエルダガーは、しかし攻撃を仕掛けることができない。うろたえたように攻撃をためらい、その隙にブリッツは動いた。
ビームが幾度も使用され、還元されることでこの付近一帯のミノフスキー粒子濃度が上昇している。レーダーが不鮮明になりがちではあるが、GAT-01デュエルダガーの姿はレーダーに映し出されている。だが、あるべき影が存在していなかった。レーダーには、デュエルダガーの姿のみが映し出されていた。
デュエルダガーたちはビーム・サーベルを抜き放ち、盾を前に身構える。ライフルは砂漠に投げ捨てられている。ライフルではだめなのだ。
ブリッツには味方が1人もいない。ブリッツの選んだ戦法は無謀で無茶で、そして英断。意図的に混戦に持ち込んだのである。デュエルダガーは味方への誤射を恐れてライフルを放棄せざるをえなかった。殺陣を演じるならOSに優れるガンダムに分がある。
そして、ブリッツガンダムはフェイズシフト・アーマーを解除した。エネルギーを吸収するIフィールドが電波を捉えることで、ブリッツガンダムはレーダーに映らない。見えているのに見えていない。デュエルダガーのパイロットたちは白兵戦に神経を尖らせていることだろう。モニターにしかブリッツの姿は映らない。混戦状態であり、正確に位置を把握すべき状況でありながらブリッツの姿はレーダーに映らないのである。
それがどれだけデュエルダガーのパイロットを苦しめることか、想像に難くない。
ブリッツが跳ぶ。正面にいたデュエルダガーがシールドを突き出す。すると、盾を避けるようにえぐり込まれたサーベルが、デュエルダガーの左胸に突き刺さった。ダガーの右肩からビームが生える。爆発と爆煙。視界からもブリッツの姿が消えた。デュエルダガーたちが不意打ちはさせまいと一斉に煙へとビーム・サーベルを振るう。しかし、同士討ちを恐れて、その動きは鈍い。レーダーがきかず、正確な距離を判断できない。
煙が晴れた頃には、ブリッツはサーベルの届かない場所に退避を終えていた。これで、すでに5機のデュエルダガーが撃墜されている。たった1機のモビル・スーツが見せたにしては偉大な戦果である。デュエルダガーたちはサーベルを構えたまま、ブリッツから距離をおいて取り囲む。ブリッツがいつでも跳び出せるよう中腰の姿勢のまま首を動かすと、その視線に晒されたデュエルダガーの一団が後ずさる。
まだデュエルダガーは10機を超える数が残されている。戦力では絶対優位に立つ彼らを黒い死神はただの1人で恫喝している。
爆発に晒されたブリッツの装甲は劣化の兆しをすでに見せていた。フェイズシフト・アーマーの守られていない今のGAT-X207では通常のモビル・スーツと同程度の防御力しかない。装甲の端々が欠け落ち、装甲が剥げるほど深い傷が小さいながらも多数刻まれていた。それはそれこそ、幾星霜の時を経た骸布を纏うように、痛々しく、擦り切れた、傷だらけの姿であった。
夜の砂漠に気の短い禿鷲が舞う。鷲は黒い姿をしている。ゆえに、それは黒と名づけられた。死を商う父から、その父を盲信する娘に送られた。
GAT-X105Eストライクノワールガンダムが高い空の上からブリッツの前へ、死を待つ戦士の御前へと降り立った。
戦いは終わった。大西洋連邦軍は5機の損失を出しながらも、敵部隊に甚大な被害を与えることに成功した。白衣を慣れた様子で着こなして、ニーレンベルギア・ノベンバーはキャットウォークの手すりに体を預けていた。両肘を突いて、両手があごを包むように顔を支えている。首を回す必要はない。今見える範囲の中に、見たいものはすべて存在している。広大な空間である。このキャットウォーク自体、4階ほどの高さがあるというのに、天井はまだ高い。まるで樹のように分枝する空中回廊の各先端にはハンガーが備えられ、中にはすでにモビル・スーツ、デュエルダガーが鎮座しているものもある。
ニーレンベルギアは樹の根元。艦内へと通じる通路のすぐ脇にいた。そう、ここは格納庫なのである。大西洋連邦軍ハンニバル級陸上戦艦ベルフェゴールの大きな格納庫である。
ハンニバル級はザフト軍のレセップス級に対抗する形で建造された陸上戦艦であり、レセップス級との違いはスケイルモーターではなく旧来のキャタピラーが採用されていることにある。機動力では大きく溝を開けられているが、その代わりにハンニバル級はより大きな重量に耐えることができる。モビル・スーツ搭載数が20を超え、まさに移動要塞といった大型艦である。VTOR大型輸送機より降下したモビル・スーツ部隊の回収を行うためにはせ参じたのである。
格納庫に現れたモビル・スーツが次々とハンガーに固定されていく。
ニーレンベルギアはキャットウォークを歩き出した。幹に当たる部分で、両脇にはモビル・スーツのすぐ傍にまで伸びる横道が規則正しく並んでいる。分枝部分に当たる度、ニーレンベルギアは降りてくるパイロットたちの様子を確認すべく首を右に、左に回す。パイロットたちは様々だ。若者もいれば老人もいる。男性も女性もいる。ただ、皆が揃ってニーレンベルギアに気づくなり手を振って自分の健在振りを示してくれる。
そんな中、モビル・スーツのないハンガーを見ることは、決して気分のいいものではない。
そうしたことを繰り返して、ニーレンベルギアは次第に樹上へと近づいていく。そこにはすでに3機のガンダムが戻っていた。黒いストライクノワールに、緑色のヴェルデバスター、青いブルデュエル。真っ先にストライクノワールのコクピットが開く。白いドレスを着た桃色の髪のお人形が姿を現す。ニーレンベルギアの姉であるヒメノカリス・ホテルである。ヒメノカリスはコクピットからすぐ脇のキャットウォークに跳び下りると、無表情ながら慌てた様子で走り出そうとした。まるで夜会を離れるシンデレラのようにスカートを摘みあげてニーレンベルギアのすぐ横を通り抜けた。
目が合うことさえなかった。両方が両方とも、それだけの関心を向けることができなかったのである。ただ、気にならないことはない。ふと振り向いて見ると、走り去るヒメノカリスの後姿と、眼鏡をかけた女性がこちらに歩いていることが見えた。姉がこちらに少しでも関心を払ってくれるのではないかと期待して振り向いたつもりが、見えたのは少々苦手意識を持つ相手が近寄ってくることだった。
ちなみに、ヒメノカリスは眼鏡の女性、メリオル・ピスティス相手にも目を合わせた様子はなかった。メリオルがここに到着するまでまだ時間がある。ニーレンベルギアは首を元の向きに直す。正面にはストライクノワール。その両脇にヴェルデバスターとブルデュエルが並んでいる。ほぼ同時にコクピットが開く。ヴェルデバスターから少女がヘルメットを脱ぎながら、ブルデュエルから少年がどこか寝ぼけたような足取りでキャットウォークに降りた。
ニーレンベルギアはおどけた調子で手を振り、2人を出迎える。
「お帰りなさい、カズイ、ロベリア」
顔中に包帯を巻きつけた少年、カズイは本当に子どものようにニーレンベルギアの傍に駆け寄ってきた。傷が開いてやしないかと頭に手を当てて優しく触ってみると、それこそ子どもを撫でている気分になる。
「うん、ただいま、ニーレンベルギア」
思春期を迎えた少年ならうら若き乙女に触られたら照れるか妙な気持ちになるものだと勝手に想像してみる。カズイは、そのどちらでもなく嬉しそうにニーレンベルギアの触診を受けていた。これに気恥ずかしさを覚えたのはどちらかといえばロベリア・リマの方であるらしい。カズイの後ろで、ヘルメットを両手で抱えて手すりにもたれている。第4研究所特有の赤い髪を適度な短さでまとめた妹はこちらを直視しようとしない。それでも困ったように、時折視線がこちらを向いては、すぐに目をそらしてしまう。
ロベリアはヴァーリである。そのためニーレンベルギアと同じ顔をしているのだが、その表情は俯きがちで態度は気弱に見えてしまう。ヴァーリの全員が全員、特別な力を持っているわけでもなければ精力的に活動しているわけでもないが、それでもロベリアはいつも人の顔色をうかがう態度は怯えているとさえ見えてしまう。Lのヴァーリはいつもこう。
「え~と、今回の戦闘の報告書だけど、すぐ書こうか?」
傷は開いていないらしい。安心して手を離す。ロベリアを顔を向けると、メリオル女史の足音が近づいていた。
「そんなもの後でもいいわ。いいかしら、メリオルさん?」
振り向くことなく聞いてみる。これですぐ後ろにメリオルが来ていなければいい赤っ恥になると内心戦々恐々としていると、幸いにも返事はすぐ後ろから来た。
「問題ありません」
ひどく事務的な声である。世界最大手の軍需産業ラタトクス社代表の秘書を務めるには感情的であってはならないのだろうか。メリオルはニーレンベルギアの横に立つと、感情の機微を見せることなくカズイとロベリアのことを眺めた。黒いスーツに合わせるような色をしたクリップボードに何かを書き込む様子は、本当に有能な秘書を思わせる。
「許可も出たことだし、どうだったかしら、機体のご感想は?」
2人のパイロットは示し合わせたかのように同じタイミングでそれぞれの愛機の顔を見上げた。ただし、視線をニーレンベルギアに戻したのはカズイの方が先である。顔を覆う包帯が動いたのは、彼が笑っているからに他ならない。
「ブルデュエルはいいよ。動きもいいし、何となく腕に馴染むんだ」
続いてロベリアが赤い髪をふるってこちらを向いた。
「ヴェルデバスターは、ちょっと使える武器が多くて、面倒かな」
なんとも頼りない手つきでヴェルデバスターの武装を指差している。ロベリアは改めてその多さにあきれ果てたようにため息をついた。
「ロベリアが頑張ってX103の有用性を証明できればバスターダガーなんて機体も量産されるかもしれないわ」
ニーレンベルギアとしては励ましたつもりだった。しかし、ロベリアはどう返事していいものかわからないと言った顔をして、首だけ回してNの姉へと視線を送っていた。
「う~ん、頑張ってみる」
格好いい男の子でも紹介してあげるとした方が効果的だっただろうか。この年頃の娘は難しい。ニーレンベルギアも同い年であることは、ややこしくなるのでここでは考えないことにする。それに、いちいち悩んでいる余裕はない。無視される形になったカズイがニーレンベルギアの両肩をいきなり掴んだからである。
「ねえ、僕は?」
本当に、子どもと変わらない。それなのになまじっか力があるものだから、ニーレンベルギアの体はたやすくゆすられる。落ち着いて、そう声をかけることで揺さぶられることこそなくなったが、まだ手は離してくれない。ぐずる子どもをなだめるように、これは比喩でない。まったく、しょうがない子どもである。
「ブルデュエルは追加装甲の試験のための機体らしいから、デュエルダガーの性能底上げに貢献できるかも」
女の子には通じなくとも、男の子にはこんな話題も受け入れてもらえるかもしれない。そんな軽い気持ちで、カズイに話しかける。すると、カズイは思いも寄らないことを言い出した。
「そうなったら、ニーレンベルギアは嬉しい?」
思わず笑顔をつくることを忘れて、目を大きく見開いてしまった。広がった視界に映るのはカズイのあどけない瞳である。カズイはいい子である。そのことを再認識すると、自然と笑顔を取り戻すことができる。
「ええ」
手がようやく離され、カズイは落ち着いた様子で包帯を動かした。
「じゃあ、頑張るよ」
はじめ、ブルデュエルに乗せる時は不安がなかなか取れることがなかった。投与した薬物が精神にどのような影響を与えるかまだ人体のデータが不足している。戦場という極度の緊張を強いられる状況ではどのような行動を起こすか判断できなかったためだ。だが、それも杞憂であったらしい。そう、この女史は報告書に記すのだろうか。ニーレンベルギアの横で、メリオル女史がカズイを見ていた。視線を隠そうとなんてしていない。露骨にカズイのことを見ていた。それこそ、ニーレンベルギアに尋ねる時でさえ目を離そうとしない。
「カズイ軍曹は傷病兵出身とお聞きしました。カズイとは本名でしょうか?」
メリオル女史の考えていることがいまいち掴めない。多少長く言葉を繋ぎながら、出方を見ることにした。
「いいえ。カズイは私が見つけた時には瀕死の重傷で、酸素不足から脳に損傷を受けてました。カズイという名前も、覚えていたことの中で唯一名前らしい単語だったからそう呼んでいるに過ぎません」
特に反応らしいものを見せないで、メリオルはカズイの包帯を眺めている。予測されることとして、以前のカズイを知っているのではないかと期待させてくれる。カズイは戦場から瀕死の状態で引き戻された。体の傷もさることながら、脳が追ったダメージは大きく、ほとんどの記憶を消失していた。身元を確認することはどうしてもできなかった。ニーレンベルギアもロベリアも、そしてカズイ自身でさえカズイが何者であるかわからない。
そう、ロベリアもニーレンベルギアと同じ懸念を抱えていた。
「カズイは顔の火傷もひどかったから、顔見てもわからないと思うよ。ところで、誰か心当たりがあるの?」
そのための包帯である。5回にも及ぶ整形手術を終えてまだ日が浅いため、包帯を外すことはできない。もっとも、外したところで顔は変わってしまっているだろう。メリオル女史がカズイを特定できるとは考えていなかった。そうだとしても、悔しさも残る。メリオル女史は素っ気無いと思えるほどあっさりと身を翻した。
「いえ、恐らく思い違いでしょう。失礼します」
規則正しいヒールの音を響かせて、メリオルはキャットウォークを歩いていく。そんな私設秘書の背中に悪態をついたのはロベリアである。
「感じ悪~」
もっとも、抱いた感想はニーレンベルギアも同様である。2人のヴァーリは必ずしもメリオルにいい印象を抱いてはいない。ロベリアの方がその程度が少々強いだけである。そのためか、ロベリアはすぐに話を変えようと画策した。ストライクノワールの開きっぱなしのコクピットを覗き込もうと、ロベリアは首を体ごと傾けていた。もうHのヴァーリの姿はないというのに。
「ヒメノカリス姉さんは?」
振り向いて聞いてくるロベリアに対して、ニーレンベルギアはどんな顔を見せたらわからず片手で顔の半分を覆った。その上で視線を泳がせた。
「……お父様のところよ」
そこまでしても、ロベリアが露骨に不機嫌になったことはわかる。手振りまで交えて不満を示したからである。横目でも見えてしまう。
手は何の役にも立たない。諦めて手を外すと、自然と口からため息がこぼれた。
「仕方がないでしょう。ヒメノカリスお姉さまは私たちとは違うんですもの」
耳障りな駆動音と鼻につく機会油の匂いが漂う格納庫を抜けると殺風景な通路が続いている。こんなものを見る必要はない。覚える必要もない。事実、ヒメノカリスは周囲に満足な関心を払うことなく格納庫を、通路を通り抜けた。目的地はお父様のところ。その過程に意味などない。ハンニバル級の構造はすでに把握している。お父様がいる部屋の前まで走り抜けることに問題などあるはずもなかった。たとえあったとしても、そのすべてを排除してしまおう。
お父様との出会いを邪魔するならそのすべてを。
部屋の扉は軍艦らしく何の飾り気もない。それでも、ここにお父様がいると考えただけでそれが神殿に繋がるように荘厳に、庭園に通じるようにすがすがしく、開くまでの時間がずいぶんと長く感じられる。扉は開いた。士官用の広い部屋に絨毯が轢かれ、赴きのある調度品が持ち込まれている。お父様はいつだって気高い。花の香りが甘い花園であっても、血なまぐさい戦場であっても。戦艦であっても屋敷に住まう貴族のように、お父様は流麗なお姿で部屋の真ん中に立っていた。1点の曇りもないスーツはお父様に着られる資格を有してその純白を際立たせている。
「お父様!」
ヒメノカリスはお父様の、エインセル・ハンターの胸に勢いよく跳びこんだ。エインセルはヒメノカリスと比べて頭1つ分は優に高い。ヒメノカリスは愛しいお父様の胸にその顔を埋めた。お父様の前でなら、ヒメノカリスは微笑を見せることができた。笑うだけの胸の高まりを得ることができた。大きくとも威圧感も圧迫感もないその手は、安心感のみを与えながらヒメノカリスを抱きしめ返した。決して力強くはないのに、ヒメノカリスは抱き寄せられたまま顔を上げることができなかった。
ただ天から降ってくる声に心地よく身を委ねていた。
「戦果は聞いています、ヒメノカリス。よく、頑張りましたね」
首なんて上げられなくてもいい。真っ赤に火照った顔をお父様に見られなくてすむから。
「はい。私、お父様のために頑張りました。お父様のために戦いました!」
話す内に熱を帯びて、つい見上げてしまった。お父様はヒメノカリスの頬を優しく撫でて、その青い瞳はとても綺麗。赤面した顔を見られてしまったことが気になるよりも見惚れてしまう。この人のために戦えたことが、この人のために手を血で染めたことがとても嬉しい。
「だから、私を愛して下さいますか、お父様?」
お父様は小さく笑って、それから微笑んでくれる。
「愚かな問いですね、ヒメノカリス」
手が頭の後ろに回され、包み込むようにお父様はヒメノカリスを抱きしめる。とても暖かい。でもその代わりにお父様のお顔を見ることができなくなってしまった。どうして、そのお顔を見せてくださらないのだろう。お父様のぬくもりの中にいると、そんな些細なことは忘れてしまえる。お父様は愛してくださる。
「子を愛さぬ親など、はたしていますでしょうか?」
ヒメノカリスはその手をゆっくりと、お父様の背へと回した。少しでも多く、この人に触れていたいから。