キンバライド基地のブリーフィング・ルームはなかなかしゃれた作りになっていた。長方形の部屋に入り口は1つ。入るなり段差があった。床一面が一段高くなっているため、どうしても上がらざるを得ない。ナタル・バジルールは段差を踏み越えると、床にこの基地近傍の地図が大きく表示されていることに気づいた。床全体をディスプレイにしているとは、空間の限られる戦艦にはできない贅沢な仕掛けだ。
床に気を取られ気づくことが遅れたが、他の参加者はすでに集まっているらしい。軍服姿のモーガン・シュバリエ中佐が部屋の中央に陣取っている。癖なのか、顎髭に手をやっていじっている。すぐ横にはマリュー・ラミアス大尉がうつむいていた。無論、改悛ではなく状況を把握するためだ。
床を眺めながら、岩山とおぼしき場所に立つことにした。2人とは適度に距離が離れ、かつ今回の会議に邪魔になるような位置ではないだろう。
立ち止まり改めて薄暗い部屋を見回す。アイリス・インディアとフレイ・アルスターが並んでディスプレイの端に立っていた。この2人は少しでも戦況を理解してもらおうと会議にはできるだけ出席させることになっていた。
ただ、暗がりの中にキラ・ヤマト軍曹の姿が浮かんでいることには違和感を禁じ得ない。この少年はいつの間にか明確な発言権を行使するようになった。呼んでいなくとも会議に顔を見せるようになったのである。単なる難民の少年とは考えていなかったが、あまりに戦場慣れしすぎている。
会議が始まった。モーガン中佐が足でディスプレイを叩いた。そこには街と、その名前が表示されている。
「バナディーヤ。ここが虎の根城だ」
では、ザフト軍の最重要拠点であるということらしい。砂漠の虎、アンドリュー・バルトフェルドはどちらかと言えば現場主義の将軍であると聞かされている。ジブラルタル基地南部の守りを任されながら、しかしその姿勢は攻撃的。バナディーヤのような出城から反対勢力に攻撃を続けている。
続いてモーガンが指さしたのはナタルだった。正確にはナタルの足下の岩山である。
「そこが俺たちのいる場所だ」
見下ろすと、確かにキンバライド基地と表示があった。ついつい慌てて、跳ねるように退いてしまった。アイリスが息をもらして笑っている。フレイは顔をそらしていたが、こちらも笑っているようだ。
冷静なのは軍人としての経歴の長いモーガン中佐やマリュー・ラミアス大尉。それになぜかキラ軍曹もである。ただ正確には、艦長は別のことに気をとられていた。
「まさかこんな近くにあったなんて……」
バナディーヤとキンバライド基地の間には等高線の間隔がとにかく広い、要するになだらかな砂漠が広がっていた。問題はその距離である。正確な縮尺はわからないが、せいぜい数百kmの隔たりしかない。車でさえ数時間でたどり着ける場所である。それに対しても、モーガン中佐は平然と笑っていた。
「そうだな、いつ見つかっても不思議じゃない」
笑い事ではない。ようやく笑いをこらえることができるようになったのか、フレイが視線を正面に戻した。口元に手を当て不機嫌そうな顔を装っているが、表情を崩さないよう必死になっていることは明らかだ。
フレイがわざわざ前を向いたのは、単純にわからないことがあったからのようだ。
「ねえ、虎って何のこと?」
つい体の動きがとまった。すぐに、こんな基礎的な知識さえ知らないからこそ会議に参加させることにしたのだと、自分を奮い立たせた。
その頃には、キラが口を開いていた。
「アンドリュー・バルトフェルド。この地域一帯の総指揮官のことだよ。その勇猛な戦いぶりから、砂漠の虎なんて呼ばれてる」
その口振りは、さも自分は新兵ではなくこちら側の人間だと言わんばかりである。確かにその知識に間違いはなく、年不相応に落ち着いた態度は場慣れしている。纏う空気はモーガン中佐のものと近い。
「しばらくは大丈夫だろうな。北じゃ本隊が頑張ってくれている。東でも大西洋連邦とユーラシア連邦の合同軍の動きが活発なようだ。奴らも気がそれて仕方がないだろうからな」
モーガン中佐のこの言葉に、マリュー大尉は視線を厳しくした。薄暗い部屋でそんな些細なことに気づくことができたのは、急進派の不穏な動きを予備知識として与えられていたからだろう。
ただ、アイリスまで難しい顔をしていることには、当人が手を上げて関心を引きつけてくるまでわからなかった。
「すいません、どうしてもわからないんですけど……」
床には近辺の地図、砂漠と岩山しかない地形が映し出されていた。アイリスの真剣な眼差しはそんな世界を見下ろしていた。
「この近くにお買い物できる場所はありませんか? そろそろ着替えが欲しくて」
優秀な指揮官2人はあくまでも冷静だった。キラ軍曹は物静かな様子を崩さない。フレイはアイリスに近い感覚をしている。その結果、ある意味では冷静に事態に対応したのはナタルだけだった。
「この状況で何を言っている!?」
妙な強さを持っている子だと思っていたが、こんな時に遺憾なく発揮させなくてもよいのではないか。アイリスはナタルの怒声もどこ吹く風である。
「でも、ナタルさんもアーク・エンジェルにいきなり乗ることになったのは私たちと同じですよね? そろそろ足りなくなってませんか? ……その、衣類とか……」
確かに、衣服、特に下着の替えや化粧品の類が心許ない。これはこれで状況の適切な判断と言えなくもないのだろうか。そう、つい考え込んでしまった。追求の勢いが衰えた隙にモーガン中佐が床を叩く音がした。
「日用雑貨が欲しいなら、やはりここだな」
音の発信源はバナディーヤ。モーガン中佐自ら虎の根城と評したその場所である。あまりのことに、声にさえならなかった。
「大きな街だ。1人2人紛れ込んだってわかりはしない。それに、ジープなら2、3時間飛ばすだけで着く」
まだ声が出ない。その間に、話は動いていく。キラ軍曹が引き継いだ。
「運転なら僕がしようか?」
モーガンがポケットから取り出した何かをキラに投げ渡した。流れからして、ジープのキーだろう。
一度息を大きく吸い込んだ。こうすれば声は出せるようになると経験から知っている。だが、この時大切なことを忘れていた。忘れたまま、声を肺から吐き出される勢いのまま声を出した。
「な、何を勝手に話を進めている!?」
こう怒鳴り散らした相手の中には、国籍こそ違うが自分よりも4階級も上のモーガン・シュバリエ中佐が含まれていたのである。
砂漠の生活は思いの外快適だった。ここバナディーヤは近傍で最大の都市であるばかりでなく、指揮官であるアンドリュー・バルトフェルドがこの街一番の屋敷を徴用していたためである。
高い天井が厳しい日差しを遮り、大きな両開きの窓からは乾いた風が心地よい。座るソファーは柔らかい。
アスラン・ザラはここが最前線を担うザフト軍の中枢であることをふと忘れそうになる。目の前ではニコル・アマルフィがテーブルごしに座っていた。穏やかにティー・カップを傾ける様を眺めていると、プラント本国のアマルフィ宅に招かれた時のことを思い出してしまう。ユーリ・アマルフィ議員はご健在だろうか。ここで父であるパトリック・ザラ副議長のことが思い浮かばなかったことは、自分なりに衝撃を覚えた。
ニコルを眺めていた。すると、あどけない少年はふと顔を上げてこちらを見た。視線に気づかれたからではなく、アスランの後ろ側から誰かが入ってきたかららしい。
首だけで振り向いて誰かを確認するなり、立ち上がって敬礼をした。相手は砂漠の虎その人であった。その後ろではカルミア・キロがにこやかに手を振っていた。妙に砕けた服装と同じく、アンドリュー指揮官は威厳とはほど遠い軽い話し方をする。
「砂漠の暮らしには慣れたかね?」
ニコルも同様に立ち上がっている気配はあった。ただ、ここではアスランの方が日が浅い。尋ねられているのは自分の方だろう。
「はい。ご用命とあればいつでも出撃できます」
アスランとニコルが座っていたソファーとは別に1人掛けのソファーがテーブルの先に置かれていた。アンドリュー指揮官が座ったのはそのソファーだった。
「君たちは優秀だが堅苦しいのがいかんね」
ラウ・ル・クルーゼ隊長も形式主義に固執する人ではなかったが、ここまで気さくにされると戸惑いの方が大きい。手振りで座るよう促されると、つい対応が遅れた。その間にニコルはあっさりと席についた。こんなところにも同僚の方に一日の長があるようだ。
座るタイミングを逃したアスランを楽しげに眺めているのはカルミア・キロである。
「アンディ、そう意地悪しないで。アスランは昔から堅物なんだから」
そう言うカルミアはまるで従者であるかのようにアンドリュー指揮官の後ろに立っていた。同い年相手に大人びた態度を見せるところは10年前から変わらない。
「君も昔と変わらないな、カルミア」
その明け透けな態度は、確かにカルミアを大人の女性のように見せていた。同じ顔をしていても、反対にゼフィランサスは幼く見えるのだが。彼女たちの雰囲気は1人1人まるで違う。
布を巻き付けたような服のどこから取り出したのか、さも楽しげに、カルミアは記憶媒体を取り出した。
「昔と言えば、懐かしい人からラブレターが届いたわ。デンドロビウムお姉さまが届けてくれたものよ」
デンドルビウム・デルタは昔からたぐいまれな行動力の持ち主だった。それは今も変わらず、データを渡すとすぐに立ち去ったようだ。今は地球の第三勢力の間を飛び回っていると聞かされている。ヴァーリというのはどこにでもいて、そしてどこにもいないものであるらしい。
「デンドロビウムの方も相変わらずか……。それで、恋文の送り主は?」
カルミアの冗談に乗ることにした。するとこのことに気をよくしたのか、一際明るい声で返事があった。
「私たちのかわいい妹、ゼフィランサスからよ」
そのことには少なくない驚きを覚えた。アスランはそのことを顔に出したが、意外にもニコルは態度に見せた。
「ゼフィランサスさん、ですか……?」
ニコルもゼフィランサスの顔は見たことがある。ヴァーリのことを聞かされて、意識していても不思議はない。
記憶媒体のケースにはZ・Zと、ゼファランサスのイニシャルが流れるような筆跡で書かれていた。
「そう。長く行方不明だった妹から。テットくんが生きていたら喜んだでしょうにね……」
飄々とした様子は努めて崩さないにしても、カルミアは目を閉じた。首の角度も伏せがちで、彼女なりの悲しみが伝わってくる。落ち着いた雰囲気の彼女はアスランたちにとって姉のような存在だった。沈んだ姿を見たくはない。幸い、そのための材料は手の内にある。
「カルミア、テットは生きてる」
急に顔をあげたッカルミアは激しい瞬きをした。どのような人であれ、驚いた時に見せる反応は大差ないらしい。
「今はキラ・ヤマトと名乗ってガンダムのパイロットとして地球連合にいる」
この言葉に反応を示したのは、意外にもアンドリュー指揮官だった。
「その話、くわしく聞かせてもらいたいね」
砂を巻き上げてジープが砂漠を疾走する。キラがハンドルを握り、助手席にはナタル。後部座席にアイリスはフレイと並んで座っていた。最初に出会った時と同じ私服姿のキラは、やはり初対面の印象通りに寡黙な少年に戻っていた。ナタルとフレイはそろって難しい顔で、無言を貫いていた。この空気の悪さに耐えられないのはアイリスだけであるようだ。
「キラさん、運転が上手なんですね。ね、ナタルさん」
ナタルが座るシートを掴んでその脇から顔をのぞかせた。ナタルは大きなため息をつくと、横目でキラを見やる。
「状況認識は不得手なようだがな」
ナタルの機嫌と悪化してしまった空気は直らない。
「キラ・ヤマト軍曹。貴殿は己がアーク・エンジェルの貴重な戦力であることを理解しているのか? それがこのように無防備に外出するなど!」
運転手は前を向いたままで答えた。大きな声では決してないのにその声は妙にはっきりとしている。
「ナタルさん、僕がここにいるのはゼフィランサスに言われたからです。軍記に背くつもりなんてありません。でも、単なる部下として扱われても、正直困ります」
火に油が少しずつ注がれている。運転席と助手席の間に張り詰める空気が怖くて、つい逃げるように体を座席に戻した。ただし、すぐ横には同じように何かを考え込んでいるようなフレイがいる。とても気の休まる環境にない。
フレイが体を前に傾け、キラに話しかけようとしたとき、つい体が緊張してしまうほどである。
「ねえ、キラ……、あんたにどんな過去があるかなんて知らないけど、あたしたちとは同い年でしょ?」
キラは答えようとしない。構わず、フレイは言葉を続ける。
「15で免許なんてとれたっけ……?」
淀んだ空気が、固まった。
ナタルがゆっくりとキラの方を向いた。それに習い、アイリスも運転席の少年を見る。決して18を越えているようには見えない少年はしばらく無言でいたかと思うと、ズボンのポケットから何かを取り出そうとした。ハンドルから片手が離れたことで、不必要に緊張が走る。しかし思いの外揺れは少なく、キラは簡単に取り出したものをナタルに手渡した。それがカードであることは後ろからでも見えた。
「免許なら持ってます」
もう一度座席から乗り出してナタルの手元をのぞき込む。カードにはキラの顔写真が貼られていた。見終わったナタルはアイリスにカードを手渡しながら、素直に感嘆した様子だった。
「国際ライセンスか……。よくこんなものを持っている」
国際ライセンスどころか、普通の免許さえ見ることは初めてだった。まじまじと眺めていると、おかしなことに気がついた。生年月日が、C.E.53になっていた。
現在71年。キラは年齢が15であることを否定してはいない。つい、キラの方へ全力で振り向いた。
「よく、できてると思いませんか?」
再び空気が凍り付く。こんな状況でも声をだす気丈さを保っていたのはフレイだけだった。
「よくできてるって……」
その声さえ、不安を象徴するように震えていた。
バナディーヤはこの辺りで最大規模の街であるだけあってずいぶんと人通りが多い。ビルとビルの間を抜ける道を人々が行き交っていた。舗装されていない路面と、テーブルをうっすら覆う砂埃さえなければ、ここが砂漠の真ん中であることを忘れるほどだ。
この街には来たことがない。
キラはカフェテラスに1人で腰掛けていた。時計を見ると、女性3人が買い物に行ってからずいぶん時間が経つ。だがそろそろ戻ってくる頃だろう。しばらくして、アイリスたちが袋を抱えて戻ってきた。
「おかえりなさい。ずいぶんたくさん買ったね」
テーブルに積まれた紙袋を見ながら、それが正直な感想だった。
フレイはキラと目を合わせることもなく紙袋を崩れないよう位置に気を配っていた。その顔はずいぶん不機嫌に見える。
「女は男と違って食べるものと着るものさえあれば生きていけるわけじゃないのよ」
そう言うと、フレイは振り向き、また歩きだそうとした。ナタルはすでに少し先を歩いていた。アイリスだけはキラに手を振ってくれた。
「荷物おいていきますから、見ておいてください」
もっとも、笑顔だろうと何だろうと、扱いがぞんざいであることに変わりはなかった。また待たされることになる。ただ、ちょうどいい頃合いだろう。時間ができた。
「女連れとはいい身分だな、坊主」
「僕が連れられてるんです、荷物持ちとして」
声をかけてきたのはキラの後ろに背中合わせに座る男性だ。いくつものテーブルが並べられていてそれぞれの席で話に花を咲かせている。誰も気にとめる者などいないことだろう。キラも男も、まるで何も起きていない、そう装って振り向こうとさえしなかった。
キラにはかつてこの大地で戦いを共にした髭を生やした熊のような男を思い浮かべていた。
「今の名前は知らんが、久しぶりだな。今は大西洋連邦のパイロットをしているそうだが、どうだ、久しぶりの空気は?」
「あなたもこそアフリカ共同体軍に未練はないんですか?」
顔をつきあわせての会話ではないため聞き取りにくいが、男--こちらも今名乗っている名前は聞いていない--は鼻をならしたようだ。キラの皮肉に苦笑いを浮かべたのだろう。
「しかし、今更S&Wでいいのか? リボルバーなんぞ今じゃ数社しか作ってない骨董品だぞ」
「銃はリボルバーと決めてますから」
「まあ、俺が気にすることもでねえか」
キラは椅子の右手側に紙袋を置いていた。男も同じデザインの紙袋を同じく右手側においている。なんともまぎわらしい位置で取り違えが怖い。キラは中に金を、男は銃と弾薬一式を袋には入れている。
「確認はいいんですか?」
「こんなところで確認なんぞできん。それに、お前との仲だ。一度くらい鴨にされても見逃してやる」
実際、キラも銃の確認は後ですることになる。あくまでも女性陣の予定にあわせての行動だ。多少の不便は仕方がない。
「それとこれはサービスだ。お前さん、虎に目をつけられたな」
「後ろから3番目の人ですね」
「かわいげのないガキだ」
街に入った時から、キラたちのことを尾行している男がいた。特に危害を加えてくる様子はなかったが、カフェテラスの一角で新聞を読みながら絶えずキラの動向を観察している様子であった。
その少年は、特に際だった存在ではなかった。言ってしまうなら平凡だ。ただし、この世界で平凡ほど恐ろしいものはない。誰にも記憶されず、疑われず、しかし現実に存在している。これがスパイなら適任だと言える。この少年が、すでにジンを10機以上撃墜しているエース・パイロットだとここで吹聴しても、一体どれだけの者が信じるだろうか。だが、子犬とて牙もあれば爪もある。
アンドリューは1人座る少年へと歩み寄った。無論、虎の牙も爪も隠して。
「やれやれ、女のショッピングは男には永遠の謎だね」
少年は戸惑ったような顔をした。ただ、首筋に見える筋肉の緊張は、アンドリューを前に警戒態勢に入ったから故の反応であるようだ。相席を求めると、テーブルから荷物をどかしてまで応じてくれた。その間でもアンドリューから目を外すことはない。
「君は見ない格好だが、旅行者かね?」
サングラスを外してテーブルにおく。普通なら手の動きに視線が釣られるはずだが、少年はサングラスを適度に無視した。
「はい、そうです……」
「こんなご時世に暢気なものだね」
意図的に目を細めた。これは、そちらの素性はすでに見抜いているという意味の恫喝のつもりだ。ここで取り乱してでもしてくれればそれはそれだの楽しめただろうに。ところが少年も目を細め返した。いや、鋭くしたという方が正解だ。
「こんなときだから旅券も安いですし、それに今しか見られない動物もいますから」
指を組んで両肘をつく。テーブルに前のめりに少年へと顔を近づける。
「こんな砂漠にかね?」
少年はそんなこと意に介すまでもないのか、姿勢を変えようとはしない。
「ええ、砂漠にしか棲まない珍しい虎がいるって聞いてます」
突然、少年は立ち上がった。攻撃に転じたにしてはあまりに遅く、そして礼儀正しい。手が差し出された。それは攻撃ではなく、親愛を表現する。早い話が握手を求められたのである。
「砂漠の虎、アンドリュー・バルトフェルド。お会いできて光栄です」
座ったままでは非礼。こちらも立ち上がり、手を握る。まるで、こちらの実力を測るような握り方をしてくる。握手が終わると、力を抜いて背もたれに寄りかかるように座る。
「何だ、知ってたのか。つまらんね」
虎を前にこの度量。外見で人を判断することは実生活で有効な方法だが、思いも寄らない取りこぼしを生むものだ。狼はどれだけ猫をかぶろうと狼以外の何者でもない。
何者かが肩に手を置いた。振り向くまでもない。どうせ、カルミアの得意気な顔があるだけだ。
「だから言ったでしょ、キラくんはウサギの皮を被った狼なんだから」
見なくてよかった。案の定、カルミアは実に楽しげで、何故か少年は怯えたように椅子を後ろに押し退けてていた。
「カ、カルミア……」
少年の力なく上がる左手がカルミアとの間に差し出される。心許ない抵抗が精一杯。今の彼なら狼に出くわしたウサギだと言われても納得できる。非力な手はあっさりと払いのけられ、カルミアは驚くほどの早さで少年の胸に抱きついた。
「お久しぶり、キラくん。名前変えたんだって」
2人の様子から若い男女というよりは姉と弟のような印象を受ける。カルミアなど少年の胸に顔を擦りつけてる。とても恋人同士には見えまい。何とか抱擁を解きたいが、女性に手荒な真似もできない。そんな矛盾する事態に挟まれた少年はあたふたと有効な打開策を打てずにいた。
「ごめん、僕には心に決めた人がいるから……!」
大胆な告白だが、ほとんど悲鳴にしか聞こえない。カルミアは抱きついたままで首を大きく回した。すると、2人の顔が間近で向かい合うようになる。
「またゼフィランサスのこと~?」
顔を真っ赤にした。必死に上体をそらすが、抱きつかれたままでは顔の距離はあまり変わっていない。それが少年ができたせいぜいの抵抗なのだ。
おもしろ半分に若い2人を眺めていた。すると、何か、紙袋が潰れるような音がした。首を回すと、桃色の髪と青い瞳をしたカルミアと同じ顔の少女が愕然とした顔をしていた。足下には手から落とした紙袋が転がっていた。
「キラさん、その人は……?」
反応を見せたのは呼ばれた当人ではなくカルミアの方だった。抱きついたまま顔を擦りあわせて桃色の髪の少女へ顔を向ける。カルミアの頬に胸を撫でられた少年は妙な悲鳴をあげて身悶えた。
「あら、アイリスと一緒なの? そんなにヴァーリ顔が好きなら私でもいいでしょ~?」
カルミアは突然手を離した。体をそらしすぎていたためか、それとも足から力が抜けたのか。少年は危うく転びそうになるところを踏みとどまる。
乱れた髪に手櫛を入れながら、カルミアはアイリスと呼んだ少女へと向き直った。髪を梳く仕草は反対の意味で年甲斐もなく艶を帯びている。自分を美しく見せる方法を心得ている。
対して、アイリスはなんとも飾り気がない。このことは感情についても言えるらしく、瞳を大きく見開いたまま驚きを隠そうとしない。
「あなたもヴァーリなんですか!? ヴァーリって、私とゼフィランサスさん……、それに、ラクスさんて人だけじゃ……」
ゆっくりとした動作でカルミアはアイリスに近寄ると、その頬を優しく撫でた。
「もっと大勢いるわ。でも、あなたは覚えていない。それならそれでいいじゃない。無理に知る必要なんてないもの」
そう言って、カルミアは微笑んだ。その様は、まさに砂漠に咲いた花のようだ。だが、そう考えているのはアンドリューだけらしい。
アイリスは納得などしていないらしく、表情に驚愕が張り付いたままにしている。すぐ後ろの女性2人はそれぞれ別々の反応を見せてはいるが、少なくとも花を愛でている様子はない。
手を叩く。このことで注目を集めてから、話を進める切っ掛けを作ってみることにしよう。
「まあ、立ち話もなんだ」
テーブルにはアンドリューしか座っていない。椅子は3つも余っていた。全員分はないが、カルミアは我慢してくれるだろう。
座ったのはまず少年。そしてアイリスの連れである、ずいぶんと気難しそうな少女だけだった。いかにも堅物といった髪の短い女性はアンドリューのことをあからさまに睨みつけて警戒をあらわにさえする。おそらく、この中で唯一の正規軍人なのだろう。
アスランたちにしろ、軍人というものはどうしてこうも堅苦しい連中が多いのだろう。ついからかいたくなってしまう。
「自己紹介は、一応まだだったね。僕はアンドリュー・バルトフェルド」
思ったとおり、女性は手振りを使ってまで大げさに驚いて見せてくれた。ただ、驚かせすぎるのも悪い。まるで降参でもするように、おどけて両手を上げて見せた。
「今は非番でね。ザフトとして来たわけじゃないよ」
これで女性が緊張を解いたというわけではない。それどころか、アイリスを近くに招きよせ、その手を握り締めた。少々脅かしすぎてしまったらしいが、たいした問題ではない。本命はなんと言っても、キラ・ヤマト。目の前の少年であるからだ。こちらからの視線を外そうともせず、口を開けばこちらの期待以上のことを仕出かしてくれる。
「非番という割に、監視はつけてるんですね。3つ隣の彼、肩に力が入りすぎてます」
少年が首を向けた方向には、テーブルにつき、新聞を広げる男性が1人。帽子をかぶり視線を隠しているようで、素人目にもこのテーブルの様子を監視していることがわかる。少年の言葉につられてこの場の全員が見ているというのに、諦め悪く素知らぬ振りを続けていた。
「聞いていたかね、ダコスタくん?」
もはや完全にばれているにも関わらず、性懲りもなくダコスタは居座り続けた。優秀だが融通がきかない。そんな男だ。テーブルについた赤髪の少女も呆れたような、それでいて感心したかのようなため息をついた。
「アーノルド曹長みたいな男って、どこにでもいるのね……」
誰のことか興味がないではないが、聞いてはエチケットに反するだろう。
そろそろ本題に入ってもいい頃ではないだろうか。キラ・ヤマトに視線を戻す。すると、待ち構えていたように目があった。カルミアに弄ばれていたときとはまるで違う。プラントに大型の肉食獣はいないが、想像してみるに、捕食者はこんな目をしているのではないだろうか。
虎を捕食する生物など存在していないというのに。
「ちょっと聞いてみたくなってね? 君が同胞を裏切ってまで戦う理由が」
軍人であるはずの女性が何かを言い出そうとして身を乗り出した。それを制止したのは意外なことにキラだった。勢いよく片手を上げただけで、女性は身動きを止めた。
続きを話すことにしよう。
「この戦争は、どちらかが滅びるまで終わらんよ。ナチュラルにつくということは、コーディネーターそのものを否定することになる」
大西洋連邦は幾度となく和平交渉を拒んできた。地球の反コーディネーター勢力は年々影響力を増している。同様のことはプラント最高評議会にも当てはまる。銃を向け合い、互いに降ろす気配がない。
少年の眼光に負けるつもりなどなかった。負けじと視線を返す。
「それを君はどう考えるかね?」
街の喧騒が止むことはない。その雑音から切り取られたように、静寂と沈黙がテーブルとその近傍を浸していた。不敵な眼差しを向け合う2人の男と、事態を見守るカルミア、そして、見守るしかない女性が3人。
こんな緊迫した空気はずいぶんと心地よい。戦場であってもなかなか味わえるものではない。だが、どんな楽しみにも終わりは必ずあるものだ。
少年が表情を崩し、小さく笑って見せた。それだけのことで、張り詰めた空気が、まるで泡が弾けるように瓦解した。
「男が命をかける理由なんて、せいぜい3つしかありません。金か、名誉か、でなければ女です」
このエース・パイロットがもっとも力を入れて発音したのは、やはり女の部分だった。聞けば、1人の女性を10年以上も思い続けているのだそうだ。カルミアに言わせれば、相手は絶世の美女なのだそうだ。なんと言っても、カルミアと同じ顔をしているのだから。
思わず笑い出してしまった。おかしいというよりは愉快で、滑稽と呼ぶにはあまりに気高い。ひとしきり笑い終わっても、上機嫌に高揚した気分は維持される。なんとも面白い少年に会えたものだ。
テーブルからサングラスを取り上げながら立ち上がる。
「なるほど。できれば君を仲間に引き入れたかったが、まあ、それなら仕方がない」
サングラスをかける前、最後に見た少年の顔は静かな自信に満ちていた。すでに進むべき道を知っている。その道の正しさを確信している。横槍を入れたところでこの少年には意味がない。
振り向いて歩き出すことにした。少し歩いたところで、急に言い残しておきたいことができた。振り向き、サングラスを下にずらした。
「今度会うときは戦場だぞ、少年」
ナタルは機嫌が悪かった。運転席の少年に怒り心頭であったのである。
「今日のことは、いくら何でも不用意ではないか? 仮に砂漠の虎が私たちから基地の場所を聞き出そうと企んでいたらどうするつもりだ?」
すでに帰路についている。ジープを運転できるのはキラだけなので、結局運転手は少年兵が務めていた。キラは憎悪を平然と受け止める。その口元にはかすかな笑みさえあった。
「僕がそんなこと、考えていなかったとでも思いますか?」
屋敷に戻るなり、カルミアはアンドリューに尋ねたいことを聞くことにした。あの場で聞くことはあまりに無粋な内容なのだ。
アンドリューは趣味のコーヒーの調合に入っていた。コーヒー豆のブレンドをいろいろ試しているだけなのだが、机にいくつも並べられたフラスコ、ビーカー、薬さじ、アルコール・ランプを見せられると、ちょっとした実験ならできそうな気配である。
こんなとき、アンドリューはずいぶん楽しそうな顔をする。それに、キラに出会ったことで機嫌をよくしていた。だから、こんなことを聞くのは無粋以外の何者でもない。せめて壁に背をつけてアンドリューの作業の邪魔はしていないと自分に言い訳しておく。
「ねえ、アンディ? あの子たちから基地の場所、聞き出さなくてもよかったの?」
作業の手を止めて、アンドリューはいつものような余裕と自信に満ちた顔を向けてくる。
「僕がそんな大切なことを失念していたと思うかい?」
考えてみれば簡単なことだ。何も当人から聞き出す必要はない。尾行をつけるなり、基地の所在を知る方法などいくらでもある。
「さすがね、アンディ」
この基地に来て依頼、アンドリュー・バルトフェルドはいつも期待した以上のことをしてくれた。今回も例外ではなかった。アンドリューは精悍な顔立ちのままで、事も無げに言ってのけた。
「実はその通りなんだ。思いつきもしなかったよ」
本当に、期待した以上のことをしでかしてくれる。こらえきれないため息がどうしても漏れた。
「さすがね、アンディ……」
「実はその通りです。考えもしませんでした」
何ら悪びれる様子なく、キラはそう言った。
すでにキンバライド基地に帰還を果たし、シャワーを浴びて軍服に着替えるほどの時間が経っていた。長袖の上着にタイト・スカート。白で染められた軍服。こんな軍服も、そろそろ着慣れつつある。軍人になったという実感ととも染み渡ってくるのである。
格納庫を通り抜ける夜風を浴びながら、アイリスは歩いた。格納庫を抜けて、普段訓練で使用している広間に出た。周囲を囲む岩盤を避けるように見上げた空は、満天の星空であった。基地の場所を特定されないため、灯火は最低限。外に光が漏れることがないから見られる絶景であった。こんなところにも、戦争をしているのだという現実を突きつけられる。
目を凝らすようにして、自分の掌を眺めてみた。別に何ともない。フレイ・アルスターやミリアリア・ハウと何も異なった様子のない、普通の手のように思える。
それでも、自分は人と何かが違う。ヴァーリとは何なのだろう。
ヘリオポリスが襲撃された時は既視感に襲われた。まるで、以前にもどこかで同じ光景を見たことがあるような。自分と同じ顔をした少女たち。その人たちはみんなヴァーリという言葉を唱えた。
ここには誰もいない。だから、これは独り言以外の何者でもない。
「私は……、一体誰ですか……?」
この独り言に答えるようにして、空が突然鳴き出した。突風が舞い降りる。思わず体を小さくして、乱れた髪を手で押さえながら見た漆黒の空には、ゆっくりと降下するヘリコプターがあった。
前後にローターが備えられ、無音で風を切っている。細長い胴体をした大型で、黒い色調でまとめられた色合いは軍事用の機体であることを物語る。
この広場に着陸しようと次第に大きくなるヘリコプターを眺めていると、側面のスライド式の扉が開け放たれていることに気づいた。そこから上品そうな白いスーツを着こなした男性が身を乗り出してアイリスの方を見ていた。
月明かりの弱い光の中でも、男性の秀麗さがよくわかる。上質の絹を光にすかしたような髪に、服の上からでもわかる均整のとれた体つきは大理石の彫り物のよう。まるで絵本の中の王子さまみたいな人だった。
夜の闇の中、ヘリコプターは地面をこする音をたてて着陸した。
男性はヘリコプターから降りると、アイリスのことをまっすぐに見つめながら歩み寄ってきた。ちょうど握手ができるくらいの距離で立ち止まると、優しく微笑みかけてくれた。
「アイリス・インディアさんですね?」
この距離に止まった理由は、やはり握手のためであったらしい。はい、と返事をしながら差し出された手を握る。男性は大きな手で包み込むように握り返してくれた。
「私はエインセル・ハンターと申します」
その名前に聞き覚えがないはずがなかった。アイリスの支援者であり、軍需企業ラタトクス社の代表であり、反コーディネーター思想団体の代表と目される人物。
「あなたがエインセルさん……」
優しく思えた微笑みが、今は違うもののように思える。
「はい。エインセル・ハンターと申します」
握手が相手の方から解かれると、エインセルはこんな小娘相手に恭しく一礼した。
「ようやく、お会いできました」
きらきらと輝いていて綺麗だった。だからつい拾い上げてみた。するとそれがナイフであることに気づいて、慌てて投げ落とす。そんな心地で、心ならずもお辞儀することを忘れてしまった。エインセルはそんな非礼を責めることなく、微笑みを絶やさない。
気まずさがまとわりつく中で遠くから声がした。聞き慣れたナタル・バジルールがアイリスのことを呼んでいた。格納庫の方からナタルを先頭に数名の基地のスタッフが走ってきた。ナタルはエインセルの姿を認めるなり、露骨に驚きの表情を見せた。
「ガンダムは確かに御社の技術者によって造られました。しかし所有権はこちらにあります。あなた方は何ら権利を行使できないはず!」
エインセルは静かな表情を崩さない。
「今日は物資運搬の任に同行させていただいたまで。アイリスさんとお話がしたいだけなのです」
ヘリコプターからは確かにコンテナが降ろされていた。アイリスが聞かされていないだけで、補給の予定はあったのだろう。基地からフォークリフトが動員され、効率のよい作業に取りかかっていた。
まだエインセルに食ってかかろうとするナタルを遮るように、女性が割って入る。黒いスーツを着て眼鏡をかけて、その雰囲気は如何にも秘書を思わせる。確かメリオル・ピスティスという人で、アルテミリスたちにヘリオポリスの被害を報告してくれた人だ。メリオルはナタルに書類を差し出した。
「補給物資のリストです。ご確認を」
書類を、ナタルはこともあろうに基地のスタッフに文字通り丸投げした。受け取り損ねたスタッフが慌てて書類を受け止めようとした。
「アイリスも現在は我が軍のパイロットです。機密保持の観点からも、お話はお控え願いたい」
かまわずエインセルに近寄ろうとしたナタルは、メリオルに制止される。ナタルは足を止めると、女性を睨みつけた。メリオル。そう、エインセルは女性を呼んだ。それだけのことなのに、女性は一目エインセルと目を合わせると、あっさりとナタルに道を譲った。
これで何の遠慮をすることもなく、ナタルはエインセルに近づいた。白い紳士は突然、ナタルの手を取るとその手に口を寄せた。映画の中でしか見たこともないような挨拶に、ナタルは完全に虚を突かれたようだ。話のペースはエインセル主導で進む。
「あなたも同席ください」
エインセルが手を叩いた。これを合図にヘリコプターから白くて丸いテーブルとデザインの凝った椅子が運び出され、エインセルのすぐ脇に並べられた。椅子は2脚。それぞれアイリス、ナタルを招き入れるようにエインセルが椅子を引く。まず、アイリスが座ると、ナタル渋々席についた。
その間、夜会の主催者はランタンを手に取ると、マッチで火を灯した。淡い光が添えられ、お話が始まる。
「私の元に来ませんか? 私があなたを支援していた理由は戦争をさせるためではありません」
ランタンを手に提げたエインセルは不思議な雰囲気を醸していた。どこか現実離れして、自分の意識を保つことが難しくなるような、そんな気分にさせられる。
それでも、言うことは決まっている。
「……すいません。私には、置いてなんかいけない人がいて……」
フレイはきっと軍に残るというだろう。するとエインセルは、まるで光に溶けだした心を読み説くようにアイリスのことを理解していた。
「彼女は両親を失い、友人を失い、自暴自棄になってしまった哀れな子どもです。あなたが友人としてしてあげられることは一時の激情に付き合うことではありません」
テーブルの上にランタンが静かに置かれた。ほのかな明かりの中にナタルの顔がおぼろげに見える。その顔はすっかり困惑している様子だった。
「癒えぬ傷の痛みが和らぐまで側にいてあげることだとあなたもご理解されているはず。無論、休息の場はこのような戦場ではありません」
エインセルは手を大きく広げた。それから腕をたたみ、閉じた右手をアイリスの前でさらすように開いた。まるで、そこに今掴んだばかりの世界が入っているとでも言うように。
「お望みでしたらお2人の軍籍を解き、安全な住居を提供いたしましょう。私にはそれだけの力がございます」
灯された炎が揺らめく。ナタルがテーブルを叩いたからだ。
「民間人が何を!」
軍籍があって、少尉なんて階級をもっているナタルにさえできないことをエインセルはできると言ってのけた。その顔は涼しいもので、気取ってもいなければ謙遜とも違う。息ができることを自慢する人なんていないように、できて当然と考えているのだろう。
「私には気の置けない友人が多いのです」
それが軍上層部との繋がりを意味していることは、世事に疎いアイリスにでもわかる。相手はブルー・コスモスの代表と目される人物なのだから。
「エインセルさん、1ついいですか?」
霧のようにまとわりつく疑念を吸い込むように息を吸う。その間、アイリスに向けられたエインセルの眼差しは優しく、問いかけを待っているようである。
「エインセルさんがブルー・コスモスのメンバーだというのは、……本当ですか?」
ええ。そんな短い肯定の返事だけで、エインセルはあっさりと事実を認めた。ナタルが勢いよく立ち上がると、アイリスの手を引き、かばうように後ろに回した。
突き飛ばされて倒れた椅子を、エインセルは丁寧に並べなおした。並べ終わったらこちらを向くのだろう。そう待ち構えていても、目が向けられた時、ついナタルの背に隠れてしまった。
「誤解なさらないでいただきたい。我々はコーディネーターを滅ぼしたい訳ではありません。その在り方に異を唱えているだけなのです」
向けられた瞳は青く、怖いくらいに綺麗だった。
「足の遅い子は不必要ですか?」
ナタルは答えない。
「目が悪ければ人として不適当ですか?」
アイリスは答えない。
「愚かな子に生きる意味はないとでも?」
それでもエインセルの話は進んでいく。それは演劇と同じ。1人明かりの傍に立ち、語られるのは定まった言の葉。観劇する者の意図など解せずに進んでいく。
「優れているとは何か? それは所詮社会にとって好都合でありか否かであり、親の価値観の強制に他なりません」
エインセルの言っていることは、間違ってはいないと思う。問いかけられた3つの質問はどれも否定されるべきだと思うから。人の価値が遺伝子だけで決まってしまうなんて思いたくない。
「プラントのしていることは所詮、勝手に価値観を定め、それがさも素晴らしいかのように流布しているだけのこと」
ランタンをテーブルから持ち上げ、エインセルはガラス部分を展開した。小さな炎が大気に触れて震えていた。光の当たり方が変わったせいだろうか。エインセルの顔がかすかに歪んでいるようにも見えた。
「未来を担う民だという植え付けられた選民思想。兵器として優れているという強者絶対の構造。時に感情に流される人と何らか変わることのない未熟さ」
ほんの一息でエインセルはランタンから火を消し去る。急に闇が躍り出て、目がすぐには慣れてくれない。エインセルの姿が消えて、その声だけが響いてきた。
「安全装置のない拳銃は、不出来なそれに劣る」
やがて、目が暗闇に慣れてくると、エインセルの白い姿が浮かび上がってくる。もうその顔には怖いくらい素敵な笑顔になっていた。
「一握りの者が世界を変えようなど思い上がりもはなはだしい。そうは思われませんか?」
この頃にはメリオルと呼ばれた女性が引き渡し作業を終えてエインセルの傍に戻っていた。エインセルがランタンを手渡すと、2人は何も言わないでも互いを理解しているようだった。メリオルはヘリコプターの方へ行くと何かを受け取った。角度が悪くて、それを差し出した人の姿は見えない。白くて、かわいらしい手だった。エインセルの方へ戻ってくるときに、それが何であるのかはっきりとする。
それは、とても鮮やかな青い薔薇だった。メリオルの手からエインセルへと手渡される。聞いたことがあった。ブルー・コスモスは、3輪の青薔薇をあしらった紋章を掲げていることくらい知っている。
青い瞳がアイリスを映して、青い薔薇が差し出された。
ナタルはとめようとした。それでも、どうしても、もう1度エインセルの前に出たかった。選んだ距離は、やはり握手できるくらいの場所にした。
「私……、エインセルさんの言っていることは間違ってないと思います」
コーディネーターが万能であるはずもないし、ナチュラルを蔑視しているコーディネーターの人もいる。能力が劣っていても、それが人としての尊厳を奪われるべきものではないはずだ。
エインセルの目をまっすぐに見つめる。息を大きく吸った。手に力をこめ、握り締める。
「でも! 正しいとも思えません!」
血のバレンタインだけではない。大小さまざまなナテュラルとコーディネーターの軋轢はブルー・コスモスの扇動によるところも大きい。無用な争いを招いている。無用な死者を増やしている。
青い薔薇はあっさりと引き上げられた。エインセルは何も言わず、何も見せず、アイリスの拒絶を受け入れた。もう話は終わったと判断したのだろう。ナタルが再び、エインセルとアイリスの間に割って入った。
「若い女を口説き切れませんでしたな」
普段から固い口調のナタルの、精一杯の皮肉だったのだろう。まるで効果はなく、エインセルはメリオルの肩を抱いてヘリコプターへと戻っていった。どうしても、目を離すことができなくて、見送っていた。
その視線の先に、見覚えのある人形が、いつの間にか置かれていた。ヘリコプターの座席に座ってこちらを見ている。フリルだとか、レースだとか、装飾以外の用途のない衣装は、ゼフィランサスが着ていたものとよく似ている。ただ、その色は漆黒でなく純白。波立つ長い髪はゼフィランサスと意図的に似せているとしか思えない。ただ、その色は純白でなく淡桃。
青い瞳がアイリスを見て、アイリスの青い瞳がお人形を見る。鏡を見ているとしか思えないほどアイリスと同じ顔をしたお人形の頬を、ヘリコプターの乗り込んだエインセルはそっと撫でた。