構築されたナノシステムにより脳内電気信号に介入し、視覚聴覚等の五感に現実と変わらない体験をさせるのかヴァーチャルリアリティー技術である。 その中でもヴァーチャルリアリティーフルダイブ。通称【VRFD】は仮想現実の1つの完成形であり、全感覚を仮想世界と完全リンクさせる事が可能となる。 VRFD時には、現実の肉体は脳内ナノシステムによる疑似信号で睡眠状態と同レベルまで生体活動を低下させ維持されるが、その際には無防備となる肉体を保護するために、いくつか気をつけるべき諸注意がある。 注意と言ってもさほど専門的なことでは無く、戸締まりや防犯、防災といった世間一般的な代物だが。1 施錠及び戸締まりの確認2 火元の確認及び空調関係の確認3 外部通信機器回線接続4 災害通知機能確認5 生体通知機能確認6 室内動体センサー起動及びVR内映像チェックシステム稼働7 身体の保持及び周辺の危険物の確認 等々。 「玄関、リビングは良いよ。水回りとかもみるから設定関連はお願い、後敷き布団持ってくるね」 美月と麻紀の二人は初めてのプライベートフルダイブの前に、昼前の授業で習ったいくつもの注意点を思い出しながら、確認準備をしていた。 色々と細かい注意があるのは、無防備になってしまう肉体保護への考慮という意味合いが強い。 外部侵入や、家庭内での事故、事件など、非常事態を想定し準備しろが三崎の弁で、VRFD中の事件事故をいくつもあげている。 注意を怠った事で起きた強盗事件。 火の掛けっぱなしによる火事。 暖房の温度調整ミスによる脱水症例。 ダイブ中に起きた地震による家具の転倒など、具体例には事欠かず、初期には社会問題となったのは有名な話だ。 無論それだけ問題視された事例に対して、メーカー側も対応策も無く手をこまねいている訳でも無く、今では対策グッズや対応サイトは充実している。 完全密閉型の最高級VR筐体などその最たる物で、防火防災完備で外部電源喪失状態でも最大72時間までの完全循環機能付きとなるが、お値段の方も8桁に及ぶので、庶民には高嶺の花。 ましてや学生身分の美月達では、廉価品であるダイブデスクも高すぎるので、20万くらいで手に入るフルダイブ可能な簡易端末が精々。 麻紀のマント型端末は、VR性能その物は筐体型と比べても遜色の無いハイエンドクラスだが、防犯防災面からみれば簡易端末とは変わらず、身の回りの防災防犯は自分で気をつけるしかない。「オッケー。災害通知サイトとリンク確保。来客システム及び警備システムもリンクと……顔に落書きされるのはもう嫌だから、室内動体感知機能はフルセンサーモードで。ついでにあの性悪お兄さんのデータのウィルスチェックも」 その辺りの説明や対策を適当に聞き逃していたり、軽く考えていると酷い目に遭うと、昼の授業で身をもって思い知らされた麻紀は、その忘れたい記憶を思い返して実に嫌そうな顔を浮かべる。 仮想ウィンドウを呼び出して、マンションの防犯防災システムや外部の災害情報サイト等を巡り次々に通知設定をしながら、先ほど三崎から送られてきたパッチファイルにも念入りにウィルスチェックを何重にも掛けて確認。 詫びと称した物なのだから、特に変な仕掛けは無いと思いたいが相手が相手。警戒して損は無い。 外部接続機能無し。 上書き書き換え機能一部限定。 怪しい機能は表面上にはみられない。 念には念を入れるなら、細部まで展開して中身をつぶさにしたいのだが、 「プロテクト堅すぎ。民間用レベルじゃないでしょこれ……うっ。消去プログラム?」 浅い階層はともかくとして、中枢データプログラム部分には強固な壁が築かれていて真っ当な手段では中身を覗き見ることは出来無い。 その上ツールで無理にこじ開けようとすれば、完全消去プログラムの存在を臭わす英文の警告ポップがご丁寧にも立ち上がる。 この警告がフェイクなのか、それとも本当かさえ判らない。 今の麻紀の技術力、知識力では刃が立ちそうも無かった。 ポップの右下にはUNIC(国連広報センター)のマークが入っている。 元々ルナプラントは、国際連合主導で月面資源活用を目指していた世界的プロジェクト。 当たり障りの無いデータは一般公開もされていたが、サンクエイクで連絡途絶したあとも 関係者の家族である美月にさえ伏せられたままの情報は多いとのこと。 その関連でmこれだけ厳重なプロテクトが施されているのだろうか。 だが大元のソフト開発販売は、もう潰れているが日本の一中堅ソフトウェア会社。 そんな所にこんなセキュリティレベルの高い資料を、しかも商用目的なのに貸し与えたりするだろうか……? その会社にでも連絡が繋がれば確認しようもあるが、VRHPには閉鎖のお知らせのみで跡をたどれない。 三崎に連絡して確認するのも負けたようで癪だが、何より相手が善意から贈ってくれた場合は失礼だ。 「ぅぅぅぅん……特定回線以外の外部接続物理切断と強制停止プログラムでカバー」 中身が見えないのは実に不安だが、下手に触って中身を消してしまっては楽しみにしている美月に会わせる顔が無い。 しかし三崎には昼間に良いようにやられたので、不安をそのままにしているのも落ち着かない。 悩んだ末に麻紀は、身につけたマント型VR端末の外部通信機能の接続先を防犯防災サイトに絞り、ついでに指定サイト以外に接続された場合に即時発動する最上位権限を与えた強制停止プログラムと、連動して発動するマントの物理切断セキュリティも立ち上げる。 「こっちの確認は終わったよ……どうしたの?」 敷き布団を抱えリビングに戻ってきた美月が、眉をしかめたままの麻紀をみて不思議そうに尋ねる。 美月の住むマンションは、いわゆるファミリー層向けなので専門的な知識を持たなくても防犯、防災機能の設定が可能なようにシステム簡略化がされている。 麻紀ならさほど迷うことも無くできるはずだと思っていたようだ。「あーうん。ソフトセキュリティが頑丈すぎて、中まで確認出来なかったら、妥協案で何とかしたから」「そっか。でも授業での注意点はちゃんと確認したから大丈夫じゃない?」 授業では全てのトラップを回避した優等生な美月はあまり心配していないのか、二人分の敷き布団をテーブルどかしたリビングの中央に広げていく。 ここなら不意の地震などが起きても、棚から小物が落ちてくることは無い。 美月の部屋のベットでも良いが、さすがにシングルベットでは狭すぎるし、コードも邪魔になるので、リビングをダイブポイントして選んでいた。 「……悩んでても結果で無いか。よし。有線設定も完了と設定オールクリア。美月何時でもオッケ」 麻紀は敷いた布団にころんと座り込み、マントから伸ばした別コードを美月へと差し出す。「ありがと。リンク承諾と…………これだけ展開してよく見分けつくね。問題無さそう?」 情報共有した美月の網膜ディスプレイに、麻紀が展開していた10を超えるいくつもの仮想ウィンドウが立ち上がる。 接続回線監視。各種防犯プログラム稼働の状況。複数の外部情報リンクにナノシステムが計測したリアル肉体のパフォーマンスステータスもリアルタイムで表示し続けている。 ぱっと見では詳細までは判らないが、普段はおおざっぱなところがある麻紀がどれだけ厳重に警戒しているのかが判る数だ。「オートで規定設定を超えたら警戒モード移行! 即時遮断で復帰モードに切り替え! これでどれだけ罠が設置されていても対処オッケー! 仕掛けられるもんなら仕掛けてみろってな感じ! このあたしが二度も同じ轍を踏むとは思わない事ね!」 やけくそ気味に高笑いする麻紀の目は、ある意味通常運航でぐるぐる廻っている。 麻紀のハイテンションはある意味で精神的な弱さの裏返し。 逃げの一種。 口では罠でも何でも来いと言ってはいるが、不安が強いのだろう。 親友が見た目や普段の行動とは違い、精神的には脆い所があるのを知る美月は一抹の危惧を覚える。「……麻紀ちゃんでも確認が出来ないんじゃ、安全性が確保できるまでプレイは待ってみる?」 どうにも臨時講師を名乗った三崎が信用できないというか、漠然とした不安を覚えていた美月は、次の機会にしないかと一応麻紀に尋ねてみる。 美月本人としては、父の映像が見られるなら、すぐにでもやりたいのが紛れもない本心だが、麻紀が嫌な気分になる可能性があるなら、それを避けたいのもまた本心。「大丈夫だって。あたしを信じなさい! ほら美月も寝る!」 美月の気づかいに気づかぬのか。 それとも気づいた上に本心を見抜いたからこそか、麻紀が左手で美月の手を取り重心を崩しつつ右手で足元を払って、ふわっと投げるようにして布団の上に落とした。「わっ!? ……痛くないって判っていても怖いんだから止めてよ……ほんと麻紀ちゃんは強引なんだから。うん。私の方も準備良いよ」 座ったままで対峙した相手を投げる事が出来る合気道の技の一種とのことだが、相変わらず無駄に器用かつ強引な親友を美月は軽く睨んでいたが、すぐにしょうが無いなと笑いだし、横の布団に仰向けに寝転ぶ。 この強引さのおかげで唯一の肉親だった父を亡くし、沈み込んでいた美月は救われた。 麻紀が大丈夫というなら大丈夫。 もし何かあっても今度は自分が麻紀の手助けをすれば良い。 自分達ならなんとでもなると根拠は無いが確かな確信を抱いて美月は、仮想コンソールを起動させフルダイブシステムを立ち上げる。「じゃぁいこ。監視システム起動。ソフト起ち上げ」 同じように横になった麻紀が頭上に浮かんだコンソールに指を這わせ待機状態だったソフトを起動させる。 目の前に新しい仮想ディスプレイが展開し、高高度衛星から映された地球の画像が表示される。 そこから視点が引いて月が現れ、さらに勢いを増して一気に画面が引いて太陽系全図、無数の星々を高速で映しながら棒渦巻銀河へとOP映像が目まぐるしく切り替わる。 麻紀はさらに指を走らせ、初回特典機能であるルナプラント再現シナリオを選択していった。 すると視界の隅にVR規制条例によって課せられた制限時間が2:00と表示されていて、このソフトが条例で規制される娯楽目的ソフトに分類されていることを主張し、使用確認を問いかける警告ポップが出現する。 美月と麻紀は示し合わせたわけでは無いが、同時に互いの方向へと顔を向け視線を合わせると頷き合ってから、承諾キーをタップして、 「「フルダイブ開始」」 キーワードを同時に口にした瞬間、視界がブラックアウトし二人の意識は眠りにつくように急速に仮想世界へと落ちていった。 美月がゆっくりと目を開けると、その眼に映る景色は一変していた。 淡いクリーム色の壁紙とフローリングの床の自宅から、周囲を緩衝材で覆われたカプセルベットのような場所で横たわっている自分に美月は気づく。 身につけていた室内着は、オプション装備で変更可能な船内船外マルチタイプの最新型与圧服へと変わったようで、酸素残量や水素燃料電池パック残量などのステータスが脳内ナノシステムに寄って表示される仮想ディスプレイに表示されている。 ステータス表示の隅には与圧服の設計がJAXAたと示すマーク。 父の地上訓練の際に家族見学でみた物と同じ物のようだ。 しかし今いるカプセルには見覚えが無い。 ふわっと浮き上がるような緩い降下感を感じるが、バケットシートに仰向け状態でベルトで固定されていて、ほとんど身動きが取れず、外部の様子を見ることも出来無い。 一般向け映像や父からのメールでみたルナプラント内部の気密ルームのカプセル内だろうか?「どこ……ここ?」『ようこそお客様。本日はVR体験型アトラクション『ルナプラント』をご利用頂きまことにありがとうございます』 美月の呟きを拾って、シミュレートプログラムが起動したのだろうか。 視界に新たに小さな仮想ウィンドウが立ち上がり、そこに映った美人ではあるが無表情な、一目でAIと判る女性がぺこりと頭を下げた。 どうやら彼女がこのソフトのナビゲーターのようだ。『現在お客様がご搭乗中の月面着陸船アルタイルⅢは、自動月面降下最終シーケンスを実行中です。2分後に嵐の大洋上ルナポートへと着陸致します』 アルタイルⅢは今世紀前半にアメリカが行った有人宇宙機計画であるコンステレーション計画で誕生した着陸機アルタイルの純血後継機になる。 アルタイルⅢは初代アルタイルをより大型化。 一回事の使い捨てだった初代と違い、月周回軌道を取る長期駐留ステーションとの間を行き来するアルタイルⅢは、ルナプラントでの整備により10回程度の再利用を可能とした改良機体になる。 VR技術の発展により、コンソールシステムは大きな革新を遂げている。 わずか1キロの重量減でさえ大幅なコストダウンへと繋がる宇宙開発分野において、アルタイルⅢはVR技術の恩恵にあずかったその集大成と言えるもので、リアルコンソールの類いを一切廃止し、乗員が持つVRシステム仮想コンソールによって機体制御コンピューターへと指示を出す形になっている。 過酷な環境下である宇宙空間においては堅実性が重要視される中で、全てをVR制御にゆだねるという設計プランには反対も多かったが、システム構造簡素化、メンテナンス簡略化、大幅な重量削減、収容空間拡大というメリットを得て建造されたアルタイルⅢは10名の搭乗員と、資材・機材40トンを一度に月面へと送り込むことが出来る、史上最大の月面着陸機で、美月の父である清吾もこれに乗って月へと降り立った。 将来的にはルナプラントでの部品生産も視野におかれ、地球側でのさらなる打ち上げペイロード削減を目指した意欲的な機体だった。『現実におきましてはポート着陸後に当機は地下ドックにおいて、数時間に及ぶ機体検査及びレゴリス除去が行われた後に、ルナプラントへの立入許可が下りますが、本シミュレーションにおきましては、着陸後すぐにルナプラント内ファクトリー1への移動が可能となります」 新たなウィンドウが立ち上がり、月面の断面簡易地図が表示される。 駐留ステーションから切り離されたアルタイルⅢが、低推力降下用ロケットエンジンを用いて下りエレベーターのようなゆったりとスピードで月面へと近づいていく簡易図には、地表部分に築かれたルナポートと呼ばれる月面着陸発射施設である地表施設と、その地下に広がる巨大な施設が描かれている。 月面は、昼と夜の平均で110度~-170℃と激しい温度変化に晒され、大気や磁場圏がほぼ喪失しているために有害な放射線や微細隕石がダイレクトに降り注ぐ。 ただ月面に制作しただけでは、恒久施設の維持は非常に困難な物となる。 そこで白羽の矢が立ったのは、古いお伽噺の姫の名を持つ探査船によって発見された、月最大の平原『嵐の大洋』に存在する巨大溶岩洞穴であるマリウスヒルズホールだ。 地下であれば外気温もある程度は安定し、放射線対策も容易となり、微細隕石による被害を大幅にカットできる。 将来的な基地予定地として有望視されていた溶岩窟は、無人、有人と幾度にも渡り内部調査が行われ、計画段階で既に精細な測量地図がほぼ出来上がっていた。 初期駐留施設として既に月面で作られていたアメリカ月面基地を、現在のルナポートに改築。 ルナポートを拠点に、第一期15年に及ぶ難工事により建築されたルナプラントが稼働したのはもう10年前のこと。 各種実験と平行してその後も小規模な改築、拡張工事は続けられ、恒久月面地下基地ルナプラントのメイン施設となる居住区及び実験施設であるファクトリー1は、サンクエイクと呼ばれる大規模太陽風が発生したあの日まで日々改良されていた。 『本シミュレーションはルナプラントの過去、現在、そして未来を体験して頂くVRプログラムとなっております』 画像が切り替わり、体験順路が表示されていく。 まずはドックで建造に使われた低重力下対応重機や工事の模様を紹介。 その後ファクトリー内部の居住施設に移動。 地球の1Gと比べ弱い月の1/6G重力下に対応した施設紹介を兼ねた職員達の日常を体験。 最後にルナプラントの主目的である次世代研究を見学というコースだ。 ルナプラントにおいて実行されていた計画でもっとも注目を浴びていたのは、熱核融合炉において核融合物として期待されるヘリウム3の大量採取研究。 もしサンクエイクが起き無ければ、遅くとも数年以内には研究用大型核融合炉が稼働していただろうと期待されていた物だ。 目玉であるヘリウム3採取計画に見学時間の大半は割り当てられているようだが、その下に第二期大規模拡張工事ファクトリー2建設と書かれた項目が美月の目を引く。 横に表示されたナビゲーター欄に美月が待望していた名前が小さく書かれていたからだ。「…………パパの名前だ」 父の名を見つけた美月は、昔の呼び名を我知らず口にしていた。 採取されたヘリウム3の実用採算性をあげるために計画されている第二施設建設工事こそが父高山清吾の仕事であり、夢への第一歩だった。 南極冠に太陽光発電施設であるファクトリー2の建設と、ファクトリー間を繋ぐマイクロウェーブ送電設備の開発実験がその主なプランだった。 幼かった美月に父が何度も語った壮大な夢の話。 分厚い大気と雲に覆われた地球よりも効率的に。 吹き荒れる宇宙線によって建設、整備が困難な宇宙空間よりも簡単に。 自分の世界に没入して一方的に喋り倒す父に困惑して目を丸くしている美月をみた母が、子供相手に難しい話をと浮かべていた呆れ顔を思い返す。 あの父のことだ。これから会える父もきっといつも通りなのだろう。『降下エンジン噴射終了……降下完了いたしました』 クスリと微笑を浮かべる美月の背中越しに、軽い衝撃が伝わってきた。 静かな着陸アプローチは拍子抜けがするほどで、父が月に行って最初のプライベート通信で車が止まるときと同じくらいだと話してくれた通りだ。『機体固定完了。当機は無事ルナポートへと着陸いたしました。第Ⅱカプセルオープン』 カプセル右側面の与圧シールドが上下へとスライドして、真っ暗な船内が首を傾けた美月の視界に見えてきた。 次いで真っ暗中でも問題が無く移動できるよう、船内レイアウトを表示するガイドライン機能が網膜ディスプレイに自動で立ち上がる。 アルタイルⅢの船内に漂うのは鼻を突く微かなオゾン臭。 隔離された密閉空間であるルナファクトリーに危険物や病細菌を持ち込まないために、アルタイルⅢには幾重にも防疫、防護処理が施されているが、これもその1つ。 『ミーコ。船の中ってのはあれだ。ほれ空気清浄機の臭い』 月に降り立つという稀少体験だというのにあまりに庶民的な父の言動に、他にもう少し言い方は無いのだろうかと美月は思った物だが、 「話してくれた通りだ…………」 ほんの短時間。 僅かな細かい事だが、父を思い出す丁寧で現実感のあるVR体験が次々と起こることに美月は小さな感慨に浸る。 自分が感傷的すぎるのだろうか。 それともこれが沙紀が言っていた三崎の、彼が所属するホワイトソフトウェアという会社の仕事なのだろうか。『下段シートスライド……ガイドラインに従い搭乗口へと移動してください』 身体を固定していたバケットシートごと美月の身体が通路側へと押し出される。 父が体験したことを今自分は追体験している。 その確かな感触を得た美月は、弾む心と同じように地上よりも軽く感じる身体を起き上がらせ、狭い船内通路へと降り立つ。 地球上と比べふわふわした1/6の軽い重力は幻のようで、確かな感触を返す足元は現実的。 夢現入り交じったような不思議な感覚は、ここが再現されたVRだということを忘れさせるようだ。『第Ⅳカプセルオープン。通路の乗員はおきをつけください』 三崎達の持つ高いVR技術力に美月が感心していると、美月の横の乗員保護カプセルが同じように開いて、小柄な人物が勢いよく起き上がる。「せま! くらっ!? 宇宙船の中ってこんななの!? うっそれにここなんかモルグみたい……」 体格ラインを表すガイドだけで顔の判別は出来無いが、その元気な声と賑やかな雰囲気、ころころと変わる感情は親友の麻紀で間違いない。 徹底した効率主義によって設計されるアルタイルⅢは極限まで内部空間容量を縮小させた構造になっていて、美月が寝ていたの同じ保護カプセルが上下二段で壁側に埋め込まれるように設置されている。 省スペースかつそれ自体が非常用ポッドにもなる頑強なカプセルだが、その形や構造から発表段階で一部から、麻紀が感じたようにカタコンベやモルグのようだと不評も上がっていた。 それに対して設計主任が『えぇ、参考にしました』と臆面も無く即答したのは今でも語りぐさだ。「照明設備削減や貨物スペース確保の一環なんだって。西洋系男性の平均基本体格で設計しているから、あたし達日本人なら少しマシだよ麻紀ちゃん」 美月に気づいた麻紀がシートから降りて、美月に抱きつくように飛びつくと、「美月! ここすごくない!? 本当にVRってびっくりしてるんだけど!? 学校よりすごいよ!? 身体の感覚とかリアルすぎだって! 規制入っていてこれって! どういう設計かおにーさんに聞きたい!」 興奮したのか早口でまくし立てる。 昼間に授業で初体験したVRフルダイブとはレベルが1つや2つ違う。 これが今世間を席巻しつつある粒子通信を推し進める企業連合体の中核の1つを成すホワイトソフトウェアの地力なのだろう。 規制状態でもこれだけの感覚再現を作り上げる技能に、技術者肌の麻紀は感動を覚えたらしく、跳ね上がったテンションで弾んだ声で答える。 VR信奉というか、個人的な思考からVR技術に心酔している麻紀は、顔が見えなくても判るくらいに目を輝かせているのだろう。 自分は父と会うのが楽しみでしょうが無いが、麻紀も同じくらい楽しんでいる事に美月は嬉しさを覚える。 自分に付き合わせて麻紀が楽しめないのなら、申し訳なさを覚えてしまうが、これならその心配は無さそうだ。「すごいよね。表現レベルだけじゃ無くて、再現レベルも前にパ、……お父さんが話してくれた通りなんだよ」 自分の声もワクワクして弾んでいる。 目も同じように輝いていることだろう。 今は無いはずの心臓がどきどきする鼓動を胸に抱きつつ美月は笑う。 「もう。美月無理しないでパパって言えば良いじゃん。聞いてるのあたしだけなんだから……さぁ早く美月のパパの仕事場を見に行こ」 子供っぽいからと呼び方を気をつけているのだが、どうにも麻紀といると気を許して注意が抜けてしまう。 だが麻紀はそんなかっこつけは無用だと言い切り、何時もと同じように美月の手を取り、真っ暗な通路をガイドラインに従い搭乗口へと移動し始める。 「ちょっ! 危ないから! 頭打つってば!」 小さな割にパワフルな麻紀に手を引かれるのは日常茶飯事だが、ここは月面、何時もより軽い身体で引っ張られてはたまったものじゃ無い。 下手に走ればいくら白人男性に合わせて作られているから美月達には余裕があるとはいえ、勢い余って高く跳んで低い天井に頭をぶつけてしまうかもしれないと心配する美月に対して、「平気平気! 武道家ならすり足は基本だって!」 順応生の高いあらゆる分野で才を発揮するマルチな友人は、既に自分に最適な低重力下での移動方を見いだしたようで、滑るように狭い通路を通り抜け、あっという間に搭乗口へとたどり着いてしまう。 「それに時間は有限! 一瞬でも無駄しちゃダメでしょ! せっかく美月がパパに会えるんだったら一秒でも長い方が良いじゃん!」 娯楽目的でのVR利用制限時間は1日二時間まで。 無情なカウントダウンは視界の隅で、1秒ごと着実に減っている。「もう……ありがと麻紀ちゃん」 だからそれを言われたら美月は怒るに怒れない。 強く握った手から麻紀がどれだけ美月が会えることを待ち望んでくれているのか伝わってくるからだ。「さ、行こうよ。開閉ボタンそこだって」 弾んだ声の麻紀の指が指し示す場所で、大きなボタンが微かな明かりを点らしていた。 「うん。じゃあ開けるね」 一度大きく深呼吸をしてから美月はボタンへと手を伸ばして力を込めて強く押す。 僅かな気圧差から空気が抜ける音と共に、二重隔壁が開き、『隔壁ハッチオープンします』「「「「「「「ようこそ月へ! 新たなる開拓者達よ!」」」」」」」 まばゆい明かりと共に、ファンファーレが鳴り響き接続通路の両脇に並んだ数人の職員達の揃った声が2人を出迎える。 それはかつて美月が見た父が月へと降り立った日の映像そのままの光景だった。