夕暮れ。黄昏時。逢魔が時。 呼び名は様々あれど、太陽がほぼ沈み、暗闇があちらこちらで産声を上げる町並みの中、おっかなびっくりという言葉を、まさに体現したたどたどしい足取りで、街中を進むウサミミ少女が1人。 ここに隔離されてから初めて玄関扉を開けて、外に出たエリスティア・ディケライアは恐怖で半泣きになり、黒髪からひょっこりと顔を覗かせるメタリックウサミミをぶるぶると震わせながらも、何とか自分が感じ取るサクラのいる方向に向かって、歩みを続ける。 先ほどからエリスティアのすぐ背後では、なにか得体の知れない、明らかに足が10本以上はあるだろうカサカサという這いずる足音が消え、やけに生臭い匂いが漂ってくる。 恐怖に耐えきれず振り向いて確認したい本能と、振り向いたら驚きのあまり1歩も動けなく確かな予感がせめぎ合うが、何とか本能を抑えて震える足で1歩1歩進んでいく。「ないもん……絶対いないもん……い、悪戯だもん」 人気のない周囲の住宅街からは、生活音らしき音は一切無し。 人の営みに変わって気配をただよせるのは怪異の影だ。時折ガラスが割れる甲高い音が響き、けたたましい泣き声を放つ怪鳥の大きな影が頭上を飛ぶ。 少し先の排水溝の隙間から顔を覗かせるやけに長い爪を持つ指が、エリスティアを招き寄せるようにカリカリとアスファルトをひっかく。 電線の上を何かが走り抜けたかと思えば、ドロリと腐った目玉が飛び出た生首がぼとりと落ちる。 これでもかというホラー演出は、某ゲームで夏休み限定で登場したホラー風味ID用モンスター群からの規格流用。数多のプレイヤーにしばらく外出が恐くなったと言わしめた恐怖度は、宇宙育ちのエリスティアにも効果は抜群だ。 それでも何とか耐えられているのは、エリスティアの時空耳が感じる感覚が鮮明だからだ。 サクラはPCOに参加するために、日本に来ているといっていたが、実際にエリスティアが感じるサクラは、90万キロ以上彼方の先。 地球人を勝手に外に、宇宙側に連れ出すことは出来ない。父親達がそれで苦労しているのを小さな頃から見ているので、絶対にあり得ない。 そうなれば、罰で地球に閉じ込められているはずの自分が、実際には宇宙に、正確には開発中の火星にいると考えた方が無難だ。 恐怖を忘れるため、無視するため、とにかく外の情報は無視して、自分の思考に没頭する。 いつからだろう? いつから自分は地球にいると勘違いしたのだろう。地球にいると騙されたのだろう。 少なくともPCOオープン日が当日までは確実にディケライア本社であり生まれ故郷である人工天体創天にいたのは確実。 その後、リンクした送天の跳躍機能を使い密かに地球に降りたって、美月達にちょっかいを仕掛けた。 そして見事にはめて、意気揚々と戻ろうしたときに転送エラーが起きて、一緒にいたカルラは戻れたが、エリスだけが非常時の緊急時現界ポイントに設定されていた地球の父親の部屋に跳躍してしまった。 その所為で星連に未開惑星への無断跳躍がばれて、その罰として地球人ハーフであるエリスティアは地球から宇宙へと帰れなくなった。そのはず。そのはずだ。 だから宇宙へと戻るには、PCOの参加者達と同じく宇宙側へと関われるだけの能力を持つことを証明するために、PCOのオープニングイベントに参加して入賞が必要。 だから家に戻るために、やったことも、興味もなかった、むしろ父親が取られている気がして嫌だった地球のゲームで頑張ってきたのに、来たというのに、それが全部嘘だったのか。騙されていたのか。 これはあんまりだ。酷すぎる。悪意が強すぎる。 文字通りのお嬢様育ちであるエリスティアは、その特殊な生い立ちも会って、産まれてからこの方、周囲からは可愛がられ、優しくしてもらっていた経験しかない。 周囲に同年代の者などほぼいなくて、唯一の幼馴染みカルラーヴァ・グラフッテンは、先祖代々ディケライアに仕えるために産まれてきた従者種族。 喧嘩らしい喧嘩など、母親のアリシティアと揉めたときくらいだが、それだって母親が悪意で怒っていたのでは無いことくらいは判っている。 だから初めて向けられた本格的な悪意に戸惑い、そして不安を覚える。 誰がこの罠にエリスティアを嵌めたのか? その疑問の答えは頭では判っている。だけど心が認められない。 地球に閉じ込められ数週間。その間、エリスティアはみんなに会いたくて寂しくは思ったが、それでも耐えて来られた。 忙しいはずなのに何とか仕事を終わらせて、毎日帰ってきてくれて、ご飯を作ってくれたり、一緒にお風呂に入って頭を洗ってくれて、眠くなるまで添い寝してくれた。 ずっと仕事、仕事で忙しくて遊んでくれなく、少し前までは星系連合の中枢星域に出張してしまい何年も直接に会えない日が続いていた父親が、地球に隔離されてからは、できる限りずっと一緒にいてくれたからだ。 だから我慢できた。むしろ嬉しく思うときさえ有った。 だけどそれが嘘だったら。父親が騙していたのなら。 エリスティアの父。三崎伸太によくない二つ名が付いていることはエリスティアも知っている。 地球では、プレイヤー時代には罠師、ナンパ師。ゲームマスターになってからも外道GMが代名詞となっている。 宇宙側でも星系連合議会で暗躍していたときに、やり込められた敵対者からは、希代の悪党やら、宇宙最悪のペテン師などと呼ばれはじめていると、大人達が呆れ交じりで談笑しているのを洩れ聞いたりもした。 だけど信じていなかった。エリスティアが知る父は、大好きな父は優しくて、直接会えなくても、いつだってエリスティアが話したいときには何とか通信に出てくれようとして、気にしていてくれた。 母だって、そんな父を、昔から少し意地悪だが困っている人を放っておけないと評していた。 だから父親がそんな事を、娘を、エリスティアを騙すようなことは、その努力をあざ笑うようなことはしないと、信じている。信じたい。信じていたい。 いつからか周囲のホラー表現への恐怖より、自分の抱く予感への恐怖が勝りはじめる。 予感を否定するために、あり得ないと証明するために、エリスティアは足を速める。 部屋を出る前に、簡易版メルに確認した距離から予測して、エリスティアが今いるのは火星都市の東側に広がる火星大海に浮かぶ群島地域。 群島地域は島一つ一つに、火星の基本調整と異なる生存環境を本来の環境とする種族向けに、細やかな環境調整を可能とする仕掛けが施してある。 その島の一つが、今の偽りの地球だとすれば、一定方向に向けて歩いて海岸線まで行けば環境フィールド外に出られるはずだ。 素の火星は都市部を除いて、まだ太陽再生産計画の途上のため極寒の過酷環境であるが、エリスティアのウサ耳を覆う機械部分には、衛星軌道間くらいの距離ならば移動可能な簡易ユニット機能も併せ持つ。 フィールド外までいけば、火星都市は目と鼻の先だ。すぐに帰れるはずだ。 そうすれば判る本当の事が。 父親は騙していない。 もし……もしも。もしもだ。騙していたとしても、誰かの、そう、星系連合に言われて無理矢理に荷担させられたのだと。 その希望を胸に駆け足気味になったエリスティアの目の前で、今までのホラー風味とは違う変化が起きた。 路上のアスファルト路面の一部が盛り上がり、ディケライアのトレードマークであるウサミミを模したデザインの、エリスティアも見慣れた警備ロボットが成形された。 どうやら道路の一部がナノセルで形成された偽装道路だったようだ。 これこそが地球ではない何よりの証明に、エリスティアはほっと胸をなで下ろすが、その心の底の不安が表れたウサミミはまだぴんと立ったままだ。 地球の科学技術レベルでは逆立ちしたって出来ない技術の塊である赤色の警備ロボットは、そのウサミミを模した両碗を左右に広げて、行く手を塞ぎながら警告メッセージを出現させる。『危険。この先10メートルから環境再現エリア外となります。個人用生体保護システムの確認をさせていただきます。保護機構をお持ちで無いお客様はお戻り頂いております』「外耳保護機能情報リンク! いいから早く外に」 確認する暇を待つのもじれったくて、エリスティアが急かそうとしたときに、不意に拍手が聞こえてくる。 次いで警備ロボットの後ろ側の空間が不自然に歪み、二人の男女が、エリスティアがよく知る、そして会いたいが、ここでは現れて欲しくなかった二人が姿を現した。「お見事お見事。さすが俺とアリスの娘様だな。いやーまさかオープンイベント終了前に仕掛けに気づくとは。おとーさんしてやられたな。えらいぞエリス」 それは今まで娘のエリスティアでさえ見たことの無い、いい笑顔で笑って褒めてくれる父親。三崎伸太。 そしてその父が右手で握るリードの先には、禍々しい棘付きの首輪をきつく絞めつけさせられ、青ざめた顔を浮かべる幼馴染みで大切な妹であるカルラーヴァ・グラフッテンの姿があった。