日本国内のアナログ放送終了の年の四月頭、足立透は片田舎に左遷された。
――世の中、クソだな。
足立は、鏡の中の淀んだ眼をした人物に向かって、声に出さず吐き捨てる。
つい先日までは自信と希望に満ち溢れていたはずの顔は見る影もなく荒み、いつもきちんと整えてられていた髪も、やる気なく、好き放題に撥ねていた。
身に纏ったスーツも、目立った皺こそないが、糊はまるで利いていない。こまめにクリーニングに出し、糊の利いたものしか着なかった本庁時代には考えられない有様だった。ネクタイも、自身のひねた心理状況を具現化するように曲がっているが、それを直す気にもなれない。
安定した将来のために――呪文のようにそう繰り返す親や教師の言葉の通りに、脇目も振らずに勉強して、国家試験に受かって、約束された道筋に乗れたはずだったのに。
『安定』なんてどこにもなかった。激しい受験戦争を終えた先に待っていたのは、更に激しい出世争いだけだった。
警察のキャリア組は、ある程度まではほとんど自動的に昇格できる仕組みだが、同じ階級でもそれまで積み上げてきた評価によって、得られる役職と権限には当然開きが出てくる。
つまりは――競争。
どこまで行っても付きまとう、反吐が出るような汚い争い。
切磋琢磨して互いを高めあうなんていいもんじゃない。他者を押しのけ、蹴り落とし、踏みつけなければ、上へ上がることなどできやしない。
法と秩序を預かる『正義の味方』のはずの組織内でこれなのだ。だとすれば、この世の『正義』とはどんな醜い代物なのか。
――まあ、別に『正義』とやらを信じて警察に入ったわけじゃないけどさ。
鏡面に映った男の顔が、皮肉な笑みに歪む。
『安定した生活』を求めて公務員を目指し、その中で一番面白そうだと思った職種に就いただけの話。
銃刀を持つことに制限のあるこの国で、銃を持つ権限を得られるというのは、わかりやすく特別に思えたから。
脇目も振らず積み重ねてきた勉学。それで得たものを人の役に立つ形で発揮したい――そういう殊勝な心がけもないわけではなかったが、そんな心は、冷たく非情な競争社会の中で、あっという間に擦り切れた。
愛とか友情とか、そういったものに費やす時間すら惜しんで、ひたすら『安定』を求めて努力を積み重ねた末――競争の中で理想すら失い、あげく追い落とされた自分に残ったものは、世の中に対する呪詛だけというわけだ。
キィッ、と耳障りな音が鼓膜に刺さる。知らず俯いていた顔を上げて見れば、鏡についた手が、無意識に爪を立てていた。
爪を立てた鏡面の中には、酷く虚ろな顔でこちらを見つめ返す男の顔。
「……馬鹿みてぇ」
誰に向けたものか、自身でもわからぬまま、唇からこぼれた呟き。
その小さな声をかき消すように、つけっ放しだったリビングのテレビから、現在時刻を告げるアナウンサーの声が響いた。
――ああ、もうそろそろ出なきゃな。
今日から勤める新しい職場。さすがに初日から遅刻すれば面倒なことになるだろう。
どれだけ不本意だろうと、やる気がなかろうと、生きていく以上、糧を得るために働かなくてはいけない。
社会問題になりつつあるというニートとか呼ばれる連中が心底羨ましい。どれだけ出来損ないだろうと面倒を見てくれる親兄弟がいるのだ。自分の親は、自身の左遷の報せを聞いて『帰ってくるな』と絶縁状を叩きつけてきたというのに。
そう、自分には頼れる人間などいないのだ。ならば、自分の糧は自分で得なければ。
「……面倒くせぇ」
吐き捨てる、というには力なく、そんな呟きが零れた。
――そう、生きていくことはこの上もなく面倒なのだ。
さりとて、自ら命を絶つほどの踏ん切りもつかない以上、生きていくしかない。
ため息を一つ吐いて、洗面所を後にした。
鏡面に映る、どこか悲しい猫背の後ろ姿に、背を向けて。
* * *
「あー……疲れた」
帰宅するなり、足立は電気もつけずにそのままベッドに倒れこんだ。
狭いワンルームの部屋だ。越してから日が浅い上に視界が利かなくったって、迷う余地もない。
足が重い。寝返りを打って横向きになると、寝転がったまま身体を丸めるような姿勢になって、靴下を脱いだ。ふくらはぎにくっきりとゴムの跡。
「……どんだけむくんでんだよ……」
思わずぐったりとした声が零れる。
――まさか、初日に町内全域連れ回されるとか……
予想外だったと、重いため息が漏れた。
彼を予想外に連れ回してくれた直属の上司兼相棒となった男は、初対面の時の反応から予想外だった。
この田舎には競い合う相手もいなければ、その意義もない。やる気なく、しかし今後の居心地だけは考慮して、へらへらとした愛想笑いを浮かべて赴任の挨拶を述べた自分に対し、新たな同僚たちの反応はおおむね予想通りのものだった。
すなわち、取るに足りないものに対する無関心、もしくは、見下せる相手を見つけた嗜虐的な笑み。
片田舎で出世コースには縁遠い稲羽署。構成員はノンキャリア中心で、有事の際にだけ出張って手柄をさらっていくキャリアに対する感情は良いものではない。そこに、見るからにちょろそうな若いキャリアが落っこちてきたのだ。溜まった鬱憤を向けるにはもってこいの相手に見えたことだろう。
そんなくだらないことに興味のない手合いは、ただただ使えなさそうな相手に対する無関心な眼差しだけを向けてきた。こんなだから左遷されてきたんだろ、と言わんばかりの色をちらつかせて。
この二種類の反応は、予想内だった。
だが、一つだけそのどちらにも属さない反応を見せた男がいた。それが、バディとなった堂島遼太郎だった。
四十過ぎの、無精ひげが似合う苦み走った面立ち。眼光は鋭く、暗い色のスーツを着込んだ体躯は無駄なく引き締まっている。
絵に描いたような現場叩き上げの刑事。
その彼は、へらりとした足立の笑みを見て、酷く訝しげな眼差しを向けてきたのだ。
まるで、張り付けられた笑みの下を、見透かすかのように。
しかし、口に出しては何も言わず、訝しむ様子もその時だけで、あとはごく普通に接してきた。
そう、普通過ぎるくらい、普通に。
愛想よく笑いながら言動に蔑みの棘を含めてくる他の同僚とは違い、彼はただ足立を新任の若手としてだけ扱った。
それどころか、遠回しに足立をいびる同僚達を呆れたように一瞥すると、彼らから引き離すかのように足立を町内の見回りへ引っ張り出した。
足立としては嫌味や皮肉など本庁時代から競争相手からさんざん浴びてきているので、笑って流すくらいわけはない。正直散々連れ回される方がきつかったくらいで、ありがた迷惑この上なかったが――堂島に対する心証は、不思議と悪いものにはならなかった。
『味方など誰もいない』と思っていたところに、不意打ちのように現れた『庇ってくれる人間』に対し、無意識に心を寄せているのだと、足立自身は自覚していない。
出世に繋がるでもない地味で退屈な見回りにも不平一つもらさず、平穏な街の姿を眺めては、引き締まった口元を微かに緩めるその姿に、親にも抱いたことのない敬意を抱いていることも。
「……しっかし、明日から毎日これかよ……」
ごろりと寝返りを打って、仰向けになってぼやく。
歩き回ることが辛いのもあるが、それ以上にきついのが田舎独特の距離感だ。
堂島と行動を共にすること自体は意外なほどストレスを感じないのだが、町内を見回っていると、ひっきりなしに町の人間が声をかけてくるのだ。
ああ、堂島さん、今日も精が出ますね。あれ、一緒にいる人、見ない顔だけど新人?ああ、堂島さんの新しい相棒。都会から来たの?まあ、凄い。でも、こんな田舎じゃ不慣れなことも多いでしょう、困ったらことがあったら気軽に言ってねぇ。
そんな具合に、マシンガンのようにひっきりなしに掛けられる言葉の数々。
おせっかいな中高年層だけならまだわからないでもないが、足立より若く見える青年までもが「この町にようこそ!」と握手を求めてきたことにカルチャーショックを覚えたものだ。都会では考えられない距離感に、足立は内心ドン引きながらも愛想笑いを浮かべて付き合った。
行動を共にする堂島が、無駄口を叩かない――というか、不器用で口下手なタイプだったことだけが、救いだった。彼にまでマシンガントークを向けられていたら、足立はおそらくキレていただろう。
「……まあ……思ったよりはマシかもね……」
容赦なくこき使いながらも、不器用に、ぽつぽつとこちらを気遣う言葉を投げてきた堂島の姿を思い返しながら、呟く。
初日に、とりあえずは味方にカウントしていいだろう人間と知り合えた。
ささやかだが、得難い収穫に満足しながら――気が付けば、足立はそのまま寝入っていた。
ふと、意識が浮上するように目が覚めた。
奇妙な夢を見ていた気がするが、思い出せない。思わず首を捻ったが、それ以上に無視できない空腹感が襲ってきて、夢に関する思考はそこでぶった切れた。そういえば、食事もとらずに眠ってしまったのだ。
明かりもつけずに倒れこんでしまったので、部屋の中は真っ暗だった。いつから降り出したのか、窓の外から雨音が響いてくる。
とりあえず何か腹に入れようとベッドの上で身を起こした時、ざ、という雨音とも違う掠れた音とともに、不意に室内が仄明るくなった。
「――え?」
思わず光源を求めて見回した足立の目に留まったのは、部屋の片隅に置かれた小さなテレビ。
確かに消えていたはずのテレビがいつの間にか点灯し、砂嵐を映し出している。
「……タイマーなんてつけてないのに……」
訝しげに眉を寄せつつ、耳障りな砂嵐の音を切ろうとテレビに近づいて気付く。――電源ランプが点灯していない。
――電源が付いていないのに、砂嵐を映し出すテレビ。
「……何それ?」
事態が理解できず、思わず呆けた声が漏れた――その時。
――我は汝、汝は我――
ずくん、と疼くような頭痛と共に、“声”がした。
聞き覚えのある、男の声――
――汝、扉を開くものなり――
それが、紛れもなく自分自身の声であると気付くより先に、強烈な眩暈を覚え、足立は思わず傾いだ体を支えようと咄嗟に手を伸ばし――
テレビの画面に着いたはずの右手は、水の中へと沈み込む様に、そのまま画面の中へと飲み込まれた。
「――どぅわッ!?」
支えを失い、そのまま前へとつんのめる。
勢いよく画面へ右腕と頭を突っ込んで――テレビの縁に左肩を強打する形で転倒は止まった。
「――~~~ッ!」
声にならない痛みに涙目になった目に映ったのは、白くぼやけた景色。
浮かんだ涙のせいではない。辺り一面が、白い霧のようなものに霞んでいるのだ。
しかし、利かない視界でも、相当広い空間が広がっているのだと空気でわかる。
「……っ!」
得体の知れない恐怖を覚え、慌てて身を引いて、白い空間から身体を引き抜いた。
己の身体を飲み込んでいた画面は、しばし波紋のように表面を波立たせていたが、それもすぐに収まり――あとに残ったのは、電源の切れたテレビと、呆けてへたり込む自分だけ。
「……なんだったんだ?」
画面には砂嵐も映っていない。もはや寝ぼけて夢でも似たのかと思って呟きつつ、確かめるように画面に触れれば――抵抗なく、指先は中へと沈み込んだ。
ぎょっとして目を剥くも、指先が自由に出し入れできることがわかると、足立の胸から恐怖は消え、かわりに、ふつふつと形容しがたい感情が湧きあがった。
「……ははっ……」
にぃ、と吊り上った唇から、声が零れる。
「ははは……あはははははッ!」
喉から溢れ出る、哄笑。
「スゲェ……なんだこれ!あはは、凄い凄い!」
子供のようにはしゃぐ声。しかし、その笑みは、無邪気な子供のものと見るにはあまりに歪だった。
「クソつまんねぇ日常の中で頑張ってる俺へのご褒美?ははっ、神様も捨てたもんじゃないね!」
この奇妙な“力”を使って、どんな“遊び”が出来るのか。
思考を巡らせる彼の顔は――玩具を貰った子供の笑みではなく、凶器を手に入れた犯罪者のそれだった。
あともう一押し、何か“きっかけ”さえあれば、彼はその力に溺れ、道を踏み外していただろう。
けれど、その“きっかけ”は、一人の少女の存在により回避された。
「――足立、明日、家に飯食いに来ないか?」
四月も十日目を迎えたその日、小さな悩みに頭を悩ませていた堂島が告げた、何気ない一言。
それが、足立透の運命を大きく変える分岐だったのだと――この世界の神すらも、知る由はなかった。