アリとキリギリスという童話がある。この物語は実に教訓めいており、誰もが一度はこの物語に触れ、日頃から努力を惜しまない事の必要性を説かれたことだろう。
軽音部におけるキリギリスは友人の前で膝を折って咽び泣いていた。
「という訳で澪ちゃん助けでーー!!!」
「えー、勉強してきたんじゃなかったの!?」
足下にしがみついてくる唯に愕然とする澪。
それを横目で眺めていた夏音は大きな溜め息をついた。
ことは唯が赤点をとった事が発端である。
誰もが顎を落としそうになるような無惨な成績を叩き出した唯が追試を間逃れるはずもなかった。
部活動をやる上で生徒は、部員である前に一人の高校生であることを求められる。
当然のことながら、学業を疎かにした生徒が部活動に励むことなど許されない。
文武両道を目指し、学を修める者として本末転倒とならないように、厳しいペナルティが用意されているのだ。
追試で合格しなかった場合、部活動は停止。
一人でも抜けてしまえば廃部へとまっしぐらの軽音部としては、何としてでも唯に追試を乗り切ってもらう必要があった。
まさに唯の双肩に部の命運がかかっていると言っても過言ではないのであった。
『だーいじょうぶ! 今度はちゃんと勉強するもん』
と余裕風を吹かせていた唯に根拠不明の不安を抱きながら、この一週間を過ごしていた一同であったが、あろう事か前言を撤回するように唯が泣きついてきた。追試の前日であった。
今さら切羽詰まった唯は涙を浮かべながら土下座した。
この年にして、見事な土下座っぷりであった。
誰もが暗澹たる表情で顔を見合わせた。
このどうしようもない少女をどうしようかと視線を交わすが、誰もが首を横に振る。
困ったように眉を落とす澪であったが、仮にも泣きつかれた立場として、仲間のために救いの手を差し伸べることにした。
「よし。今晩特訓だ!」
そう言い放った澪を救世主のごとく見上げる唯。彼女から見る澪には後光がさしていた。
律曰く、澪は一夜漬けを教えこむエキスパートらしい。
非常に頼れる澪を筆頭に学校が終わってから、時間が許す限り唯に勉強を叩き込むという力押しの作戦がたてられ、唯の家に集まって勉強会が催されることになった。
「今日はお父さんが出張でね、お母さんも付添いでいないから気兼ねしなくていーよ」
「あれ、妹がいるって言ってなかった?」
妹が一人いる。律はそんな話が前に出ていたような気がして尋ねた。
「うん! 妹は帰ってきていると思うー」
「それだとお邪魔にならないかしら?」
「え、気にしなくていいよ!」
黙々と前を歩く夏音は、背後の三人の会話を聞きながら、じっと思案に耽っていた。
「(思えば、日本で友人の家に呼ばれるなんて初めてだ)」
一年以上も日本に滞在しているくせに、一度たりともない。
経験がないので、些か緊張していた。
日本では他人の家にあがる時に変わった作法があるかもしれない。
少なくとも自分の観てきた作品にそんな描写はなかったが。
日本人としては当たり前すぎて、丁寧に描かれていなかったのか。
もしくは自分が見落としてしまったのか。
謎が深まるばかりだったので、その横を歩いていた澪に声をかけた。
「ねえ。日本では友達の家にあがる時に何かしなくちゃだめなの?」
あまり大っぴらに聞かれるのも恥ずかしかったので、夏音は隣を歩く澪に声を潜めて尋ねた。
「ねえ」
「ん?」
「俺、友達の家に招かれるのなんて初めてなんだけど」
「ええっ?」
驚きの声を上げた澪はまじまじと夏音の顔を見詰めた。夏音はどうして澪がそんなに驚くのか理解できずに、首を傾げた。
「友達、いなかったの?」
「え?」
「やっぱりプロで活動してると時間とかないものなんだなー」
ぶつぶつと呟き、勝手に納得する様子の澪に夏音は慌てて訂正を求めた。
「違うよ! 日本で、だよ! 向こうになら友達くらい……」
いただろうか、と夏音は途中まで口にして頭を抑えた。友人、と呼んでいい存在はいたが、それは仕事上でつながった年上の者達ばかり。
学校生活において家に招き招かれ、といった関係を結んだ人間はいなかった。
「い、いたけど全然?」
「そうか、勘違いしちゃったよ」
強がりを口にして繕った夏音に気付かず、澪は素直に謝った。彼女は夏音がひょんなことから傷口を抉られたことに気落ちしたことに気付かず、話題を変えてしまう。
「電話で話した件なんだけど」
「ああ、はい」
「今度時間作れるかな。私から頼んでおいて悪いんだけど、みんなのいる前では話しづらいんだ」
さりげなく視線をこちらに向ける澪。その表情が硬いことに気が付いた夏音は何かを察知して、快く承諾した。
「かまわないよ。大事な話なんでしょ」
「うん……ごめん」
そして会話が途切れる。その後も特に交わす言葉もないまま、唯の家に到着してしまった。
「さーさー。あがってあがって」
自分の家だからか、外にいるより随分と溌剌とする唯が皆に声をかける。
「お邪魔しまーーす」
澪、ムギ、律の声が重なる。
はっとなった夏音も「おじゃましまーーす!!!」と従う。声がひっくり返るのを皆に笑われてしまった。
すると、すぐに奥から可愛らしい声が聞こえてきた。
「お姉ちゃんおかえりー」
ぱたぱたと奥手から現れたのは、唯に瓜二つの少女であった。
少女と唯の相違点といえば髪型くらいで、後は見分けがつかないくらいそっくりである。
「あら、お友達? はじめまして! 妹の憂です。姉がお世話になってます!」
軽音部の一行に気付いた彼女はしっかりと頭を下げて挨拶すると、人数分のスリッパを用意する。
「スリッパをどうぞ」
挨拶からその所作や気配りに至るまでの洗練されたものに対して「できる!」と心に浮かべた一行であった。
夏音は靴を脱いで家にあがる少女たちの一挙一動を見逃すまいと真似たが、誰も夏音の様子に目をやる者などいなかった。
そのまま二階にある唯の部屋へ案内され、やおら腰を下ろしいく。
夏音はきょろきょろと唯の部屋を見回した。
「(これが、日本の女の子の部屋、か)」
良い匂いが充満しており、誰にも気付かれないようにひくひく鼻を動かす。
普段からずぼらな一面を見せる唯であったが、思いがけず部屋の中は整理されている。
部屋の内装やインテリアに関しても女の子らしい彩りを感じさせられた。
「何をそんなにキョロキョロしてるんだよ。下着なら、たぶんそこだよ」
そわそわと落ち着かない夏音の内心を看破した律が茶化してきたが、笑顔の澪に沈められた。
思わず律の指し示す先へとじっと視線を向けた夏音に批難の目が向けられたことは言うまでもない。
ここへ集まった本来の目的は唯の勉強である。澪が唯の横につき、ムギもそれに付き合う形で勉強が進められていった
一方、何もすることがなく放置された夏音は気まずさに身動ぎした。ただでさえ「女子の部屋」というものに緊張しているのだ。
自分がすることに再び批難の視線が突き刺さらないか。また、いちいち緊張している自分に気付かれないか不安を覚えるのであった。
思春期の少年らしい葛藤を抱えながら、夏音はじっと銅像のように部屋の片隅で固まっていた。
すると、退屈に身を持てあますあまり先程から落ち着かない律が夏音へと目を向けてきた。手持ち無沙汰なのか、じいっと夏音から視線を外さない。
「さっきから、なんだい」
視線の圧力に耐えかねた夏音がたまらず聞くと、彼女はぐいっと身を乗り出してきた。
「ねーえー? 夏音くんってば緊張してるよねー。女の子の部屋はじめてー?」
長い睫毛をわざとらしくパチパチさせる律。からかう気が満々なのは目に見えており、夏音はぶすっと答えた。
「そんなことないけど」
もちろん、これも強がりである。夏音の回答に邪悪な笑みを浮かべた律は、わざとらしく高笑った。
「まーまー、まるで借りてきた猫のようですわよん。あ、一度借りてきた猫のようだって言ってみたかったんだよなー」
「知らないよっ!」
好き勝手言ってくる律にたまらず声を荒げた夏音であったが、バタンと参考書を机にたたきつけた澪に睨まれた。
「お前ら……今、勉強中してるんだ。ちょっと静かにしてくれないか」
「……ごめん」
明らかに巻き添えを食らっただけなのだが、夏音は素直に謝罪する。その後、律を睨みつけたが、力が抜けたように夏音は唯のベッドに頭を乗っけた。
まともに相手をしても仕方がない。何より彼女は年下である。
ここは大人としての余裕を見せるべきだと自分を納得させた。
今まで自分より年が下の者と関わる機会などなかった。スクールバスは同い年の者同士で固まっていたし、その中でも夏音はあまり同級生と会話することはなかった。
常に年が離れた者があふれる環境に身を置いていた夏音はどう対応すればよいのか分からない。
特に気にすることなく接するようにはしているが、頭に置いておくにこしたことはない。例えば、こういうシチュエーションにおいて自分を納得させるためにも。
そんなことを考えているうちに、思考がだんだんと白く溶けていった。
次に夏音はぼんやりと意識を取り戻した時、まず首の筋が軋む感覚に顔をしかめた。
「首、いたぁ」
寝ぼけ眼のまま体を起こすと、そこには見覚えのない少女が加わっていた。
「Oops。寝ちゃったよ」
唯は夏音が起きたことに気付くと、声をあげた。
「あ、夏音くん起きた! ごめんね、あんまり気持ち良さそうに寝ていたから起こさなかったんだー」
「いや、俺こそ寝ちゃってごめんよ」
頭をかいて姿勢を正した夏音は、先程まで勉強道具が広げられていたテーブルに美味そうなサンドイッチが広げられているのを見た。
「立花くんね。お噂はかねがね。はじめまして、真鍋和です」
アンダーリムの眼鏡をかけた理知的な雰囲気の少女が夏音に話しかけてきた。
「夏音でいいよ。こちらこそ、よろしく……ちなみに噂ってところを詳しく聞きたいんだけど」
「噂ってほどでもないんだけど。二組に外人がいるみたい、って。日本語が不自由だって聞いてたけど、そうでもないみたいね。あ、外人って言い方は失礼ね」
「いや、別に外人でも気にしないけど」
律儀に訂正する和に手を振りながら夏音は安堵した。他クラスでの噂と聞いたので、よくないものかと身構えたが、そこまで悪いものでもない。
「サンドイッチ作ってきたから、よかったらどうぞ」
目の前のサンドイッチを視界に入れるとぐぅと小さく腹が鳴った。
「いただきます」
それから、ひとときの間サンドイッチをつまみながら和が語る唯の小学校時代のエピソードなどを聞いて過ごした。
彼女と唯は幼稚園以来の幼馴染らしい。
幼馴染といえば澪と律も小学校から一緒で、掘ってみればいろんなエピソードがあるもので、澪の恥ずかしい話で盛り上がった。
しばらくすると和はあまり邪魔したら悪いから、と平沢家をあとにした。
唯の勉強はその後すぐに再開された。
仲間を巻き込んでいるという自覚があるのだろう。
集中を増した唯は次々と問題を解きこなしていき、夜が更けて数時間が経ったところで澪の及第点が出た。
「よし! これだけ解けたら大丈夫だろー!」
「これで追試もばっちりね!」
長い時間、勉強に付き合ってくれた澪とムギに唯は深々と頭を下げた。
「本当に言葉もありません……うぅ」
「今度きちんと返してもらうからな!」
流石に何時間も勉強につき合っていた澪の顔に疲れが浮かぶ。
「あれ、そういえば律はどこに行ったんだ?」
「いないわね」
「夏音は?」
「ふふ、そこにいるじゃない」
ムギが忍び笑いを浮かべてある一点を指を指す。
「…………………」
「気持ちよさそうに寝てるねー夏音くん」
「他人の家でよくこれだけ眠れるな」
唯のベッドを占領どころか布団にくるまって安らかに寝息を立てている夏音を見て、澪は呆れるどころか逆に感心する。
澪はおもむろにカメラを取り出すと、
「後でからかってやろう」
楽しげに笑い、写真に収めようとする。
彼女にとってはいつもからかわれる側なので、やる側へまわった事への妙な高揚感を得た澪は「ふふふ」と不気味な笑みを漏らした。
ファインダー越しに夏音を撮ろうとしたら、やはりその造りモノめいた顔の造形に集中してしまう。
澪の中のスイッチがオンになってしまった。
だんだんとこのままの角度でよいのだろうかと不満が出てくる。いっそ勝手にポーズでもとらせてみようかと思考する。
気軽に撮ることのできない被写体なのだ。
こうしてじっくりと写真に収めようとすると半端な形でシャッターを押す訳にはいかない。
澪はプロのカメラマンになったような気分で、様々な角度を試し続ける。あどけない寝顔でさえ、レンズを通してみればそれだけで美術品の額縁を覗き込んでいるような気になるのだ。
「澪ちゃん、ここをこうした方がいいんじゃない?」
急に雰囲気が変わった澪の思惑を察知したムギがそっと夏音の手を動かした。
すると、誰もが「この寝姿!」と唸りそうな優雅な形になる。
「おおっ。これで画面の対比もばっちりだ!」
いつの間にか高度な部分にまで気を回していた澪は満足そうに頷いた。
「髪はこんな感じでどう?」
「あー、いいな。そう、そんな感じ……あ、まさにそれ! ムギ天才!」
「ここで顎をあとちょっとだけ……くいっと」
「くいっと! そう!」
「唯ちゃん、これ点けるね?」
「うん! あ、これ白い画用紙だけど役に立つかな?」
「ああ、頼む」
ムギは目に止まったベッド上の照明を点け、唯がレフ板代わりに画用紙を支えた。
職人達の仕事っぷりにムギが満足そうに頷き、絶え間なくシャッター音が響いた。
「お前ら……何やってんの?」
友人の妹に遊んでもらっていた律は部屋に戻ってきて早々目に飛び込んできた理解不能な光景に呆然と呟いた。
★ ★
勉強会から数日。あの日、夏音を収めた写真がどうなったかは不明であるが、とっくに唯の勉強の成果が問われる日は過ぎていた。
今日、唯が受けた追試の答案が返却されてくる予定である。
部室ではいつものように茶菓子とお茶が振る舞われていたが、ふわふわとした雰囲気はない。
むしろ全員が同様にそわそわとしている。
そんな中、夏音は部室のソファに横になりながら持ち込んだ漫画を次々と積み上げていた。
「今日返却だよね……合格点とれてるかなー唯は」
重たい空気に耐えきれなくなったのか、澪はあえて明るいトーンでそう切り出した。
「あ、あれだけ勉強したから大丈夫なはず!」
ムギもはっとして、ひきつった笑顔で返す。
夏音は何を大袈裟な、と楽観していたのだが、彼女たちの不安が伝染したのか、少し落ち着かなくなった。
夏音とて、入ったばかりの部活がなくなるのは避けたいところである。
そうこうしていると、唯がふらふらと部室に入ってきた。
その足取りはどこか覚束ない。本試験のテスト返却日の様子を彷彿させる雰囲気である。誰もが息を呑んで唯の答案をのぞき込んだ。
「ま、満点!?」
皆、平沢唯の底力を見誤っていた。
とはいえ、あれだけ面倒を見た唯が上々すぎる結果を持って帰ってきたことに大いに喝采を上げた。
彼女がその満点を取るために犠牲にした代償を知らずに。
「ねえ……嘘だよね。あれだけ覚えたのに、もう全て忘れたっていうの!?」
夏音は自分は滅多に声を荒げることはない、と自負していたがこの時ばかりは混乱のあまり自分を抑えてなどいられなかった。
唯は完全に今までのギター経験すべてを忘却の彼方にぶっ飛ばしていたのだ。
まるで供物とばかりに数学の神にコードを捧げてしまったかのようである。
「コード覚えるところからやり直し……だな」
先が思い遣られ過ぎて、唯をのぞく軽音部一同はがっくりと肩を落とした。
「だ、大丈夫だよ! 一度覚えたんだしすぐに覚えるから! 私、できるから!」
全員から諦念の目線を送られた少女も大概不遜だった。
★ ★
夏音は、生まれて初めてカラオケボックスという所に足を踏み入れていた。
ただでさえ不安定な軽音部の先行きをますます不安にさせた唯であるが、それでも追試を頑張ったということでお祝いと打ち上げを兼ねてカラオケに行こうと律が提案したのであった。
これからやっと音楽に打ち込めると信じていた澪はもちろん反対したが、よくよく考えれば彼女こそ最大の功労者であり、その苦労がこうして報われたお祝いと考えようと律に諭されたらしい。
一つの苦労が報われたが、また別の苦労が待ち受けている事はあえて考えないようにした。
「俺、カラオケって行ったことないよ!」
うきうきと弾む気持ちでカラオケについていった夏音は興奮しきりで、同じように初カラオケというムギと共に浮かれていた。
「おっしゃー、トップバッターいきゃーす!」
「えー、りっちゃん最初に歌うのは私だよー?」
一部では早速、マイクの奪い合いが始まっていた。
夏音は小さい部屋に案内されてから、そわそわと室内を観察していた。
小さい部屋にディスプレイ画面とマイクがあり、歌本から歌いたい曲を選んで記載されているコードを機械に転送すると曲が流れるという仕組みらしい。画面に歌詞が表示されて、曲中の詩の進行などもわかるようになっている。
結局、二人で歌うことにしたらしい唯と律が夏音の知らないJ-POPの曲を歌い始めた。
「え、と。なんかアレだね」
夏音は流れてくる安っぽいオケに対して苦笑いを浮かべた。
「考えたら負け、か」
どうせ素人が作っている音源である。
こういう場合は気にしていたら楽しめないだろうと思い、何故かテレビの下にあったタンバリンやマラカスを打ち鳴らした。
楽しんだ者が勝ちである。
「最近のカラオケはずいぶん曲も増えて、マイナーなのも結構あるんだぞ」
と夏音に語る澪だったが、なかなか曲を入れる様子が見られない。
一歩引いた様子で二人の歌を聴いているといった塩梅である。
「ふーん。ところで澪は歌わないの?」
夏音は慣れない機械に苦戦しながらも曲を選んで、やっと機械に転送した後で澪に訊ねた。
「い、いや! 私はあとでいいよ」
急に歯切れが悪くなった澪であるが、事情は言わずもがなであった。 ここには友人しかいないのだが。彼女のシャイな部分は知っていたが、ここまで筋金入りだとは思ってもいなかった夏音は認識を改めた。
「あ、澪ー。さっき澪がいつも歌うやつ入れといたからー」
エコーがかかったマイクを持った律がしてやったりと顔に浮かべて言った。
「え、えー!? 何を勝手に!」
目に見えて狼狽えた澪であったが、曲のイントロが流れだした瞬間、びくりと固まった。
にやにや笑いの律がさっとマイクを手渡すと、「がーんば!」とウィンクを投げる。
そんな幼なじみを殺しそうな勢いで睨んだ澪であったが、歌いだしの部分まで曲が進むと観念したように立った。
澪は、ふっと息を吸い込み、目を閉じた。
彼女の声が狭い個室を埋めた。
「Wow!」
夏音はイントロが始まった瞬間からそれが何の曲か分かっていた。あまりに有名な曲だ。
Time after Time.
これを歌うのは、夏音が最も尊敬する女性シンガーの一人である。
夏音のテンションは最高潮に達した。
マイクの当て方が悪いのか、声の調子が悪いのかわからないが、声量が大きいとは言えない。
だが、発音はいささか怪しい部分はあるものの、歌い方のニュアンスは本家に近いものがあって歌い慣れているといった印象を受ける。
夏音がゆらゆら揺れながら聴いていると、律が夏音にマイクを手渡した。顎で何かを促される。
歌え、ということなのだろうか。たしかに一緒に歌える歌であるが、夏音は他人の歌に割り込んで良いものか迷った。
サビに近づくあたりで、マイクをもった夏音に気がついた澪は夏音を見て恥ずかしそうにうなずいた。
OKということらしい。夏音は頷き返すと、緊張しながら澪に声を重ねた。
「If you`re lost, you can look. And you will find me Time after time...」
夏音の歌声は、澪の声にかっちりとはまった。二つの伸びやかな歌声が混ざり合い、心地よいハーモニーを奏でる。
澪はこの歌詞の内容を理解しているのだろうか。この年頃の少女が歌うにはやや早熟な内容であるが、澪はたっぷり情感をこめて歌いこなしていた。
「Time after time...Time after time...」
最後に澪が囁くように、詩の尾をそっと撫でるように、曲が終わった。
二人がマイクを置くと、拍手が起こった。
「二人とも、すごく素敵でした!」
ムギが顔を暗がりにも分かるほど顔を上気させ、タンバリンを叩いた。唯も「二人とも上手だねー」と手を叩いて喜んだ。
夏音は初めて歌ったカラオケに達成感があったが、一方の澪は完全に力尽きた様子だ。
続けて、夏音が入れた曲が流れる。
「お、次は俺だ」
本家には程遠いストリングスの音を伴奏に夏音が歌い始めると、肩を落としていた澪をはじめ俯いて曲を選んでいた律までもが顔をあげた。
先ほどの控えめのコーラスとは違い、ソロで歌う夏音は別次元だった。
日本人離れした声質、発声。また声量がとんでもなく力強く、そしてどこまでも伸びていくのではないかと感じさせる高音域まで出せる喉。かと思いきや、中音域に独特の粘りがあり、聴くものをとらえて魅せる。
当然である。
夏音は自らの呼称をベーシスト、と限定するつもりはない。必要なことは何でもやる。歌が必要であれば、歌う。
自分のアルバム内で歌うこともあり、友人ミュージシャンの楽曲の中でコーラス参加することもあった。
自分の歌声を金を払って聴く人がいる。そう考えると、やるからには手を抜かない彼は、ヴォーカルトレーニングの経験も積んだ。
一度でも歌えばシンガーである。ならば畑違いだからと疎かにせず、シンガーとして恥じないように、と学んだのだ。
歌に感情がこもる。
耳にそっと入る歌声は聴く者の感性を刺激して、うっとり惹き付ける。ダイナミクスが、アーティキュレーションが、一般人とは違う。
夏音の歌がこの小さな部屋に響き、空間を震わせ、埋めていた。
やがて曲が終わると、ぼーっとしたメンバーに自分の歌はおかしかったかと訊くと、急いで首を横に振るのであった。
「上手いというか、凄まじいというか……」
律はぽかんと放心したような顔をしていた。
「私、少し泣きそうになっちゃった」
「わ、わだしも……」
「唯、すでに泣いてる……」
涙ぐむムギに、すでにいろいろ漏れている唯。身近な聴衆の反応に、夏音は顔を赤くした。
「いや、なんというか恥ずかしいな……」
まんざらでもない様子で頭をかいた。こんな近くで聴衆の反応を見る機会はそうそうない。
しかしカラオケも悪くない、と夏音は考えを改めた。
曲は次々と予約されているので、湿っぽい空気はすぐに流れていった。
夏音に感化されたのか、はっちゃけたように「The Who」を歌いきった澪、「Hail Holy Queen」を器用にも一人で歌いのけてしまったムギ、「レティクル座行超特急」でぶっ壊れた律、「日曜日よりの使者」で涙を浮かべて喉を枯らした唯。
それに対抗して夏音も「スリラー」を踊りつきで熱唱して、軽音部一同は大いに沸いた。
軽音部のメンバーは全員歌がうまかったことが判明したのであった。
その日は皆喉を枯らすほど歌って解散した。
★ ★
カラオケボックスで解散してから、律と共に帰って一度は帰宅までした澪だったが、再び外に出ていた。ベースのケースを背負って。
澪にとっては重大な用事がこの後に控えているのだ。足取りはやや重たく、心は期待に弾む一方でやはり今からでも取り消すべきかと及び腰になっている。
考え事をしているうちに、約束の場所まで辿り着いてしまった。
「やあ、こんばんは」
そこに待ち構えていた夏音は緊張した面持ちの澪に両手を広げて歓待の意を示した。
澪が向かっていたのは、夏音の自宅。教わった道順を辿っているうちに視界に入る住宅の豪華さに覚悟はしていたのだが、
「で、でか!」
つい声に出してしまった。
澪は夏音の家の規模に目を瞠る。家に対して規模というのもおかしな言い回しだが、これを目にしたらやはり広さ、大きさというより規模と表すのが妥当であった。
開いた口が塞がらないままの澪は、夏音が自分を笑っているような気がしてむっと口を閉ざした。小市民としてのささやかなプライドに傷がつく。
「そうかな?」
あろうことか、簡単に一言で返されてしまった。その一言に自分と彼の間に存在する距離を教えられてしまった。
いつまでも外で立ち話というわけにもいかない。澪は夏音に招かれて、家へと案内された。
「お、おじゃまします」
広い玄関で靴を脱ぎ、リビングへと通される。
「お茶淹れるね。座っててよ」
「あ、うん」
そう言い置いて夏音は台所へ消えていった。澪は身を強張らせながらリビングを見回し、中央にでんと置かれているソファに腰を落とした。何とも言い難い感触で腰に反発してくるソファは革張りで、おそらくこれも馬鹿高い値段だろうなと思った。
再びきょろきょろと室内を見渡してみる。白を基調としたモダンな雰囲気。けれども、フローリングの木肌が温かみをもたらす。
二階と吹き抜けになっている部分があり、開放感がある作りだ。
静かな家。まずその広さにも驚かされたが、次第にこの家に満ちる静けさが気になった。彼の両親もまた業界屈指のミュージシャンである。
忙しく飛び回っているとは聞いていたが、一体どれだけの頻度で家に帰ってくるのだろうか。
物は充実しているのに、人が住んでいるにしては生活の匂いが微かにしか漂ってこない。
気になることは幾つも出てきたが、澪は特に意識していなかった事実に気が付いてしまった。
「(私、男の子の家にいるんだ)」
あんな外見だろうと男である。女友達の付き添いで複数で男子の家に上がりこんだことはあるが、二人きりという状況においては初めてである。
何もやましいことはないのに、どこか恥ずかしいという気持ちが沸き上がってきた。
澪がうっすら頬を染めて借りてきた猫のようになっていると、クッキーと紅茶を淹れてきた夏音が向かい合って座った。
「さぁさぁどうぞ。買い置きのお菓子なんですがー」
先日、平沢家にお邪魔した時に憂が言っていた台詞と一緒である。
そのことをしっかり覚えていた澪は思わず噴き出してしまった。
「いやー、あれだよね。買い置きのお菓子で申し訳ないって……謙虚な日本人らしい言葉だね」
本人としては真面目に言ったつもりだろうが、夏音は誤魔化すように一口クッキーを頬張ってから気恥ずかしそうに笑った。
「ところで、もう周りを気にする必要もないでしょ?」
どかっとソファの背もたれに寄りかかりながらリラックスした様子で澪に話を促した。
澪はその言葉に深く頷き、重々しく口を開いた。
「私は既に夏音の正体……カノン・マクレーンだって知ってる」
口火の切り方として、これはどうかと思ったが、夏音は澪の言葉に静かに耳を傾けていた。
「そうだね。澪がどこまで俺の事を知っているのかまでは存じないけど」
「もちろん私だって全部は知らないけど。もともと聞いたことがあった名前だったし、音楽雑誌とかでも名前が出ているのを見た事があったから」
早口で喋った澪はそこで言葉を止める。
「今まで忘れていたんだけどね」
言ってしまってから澪は「しまった!」と焦った。事実とはいえ、忘れていたなど失礼にも程がある。
実際にカノン・マクレーンの存在が澪の頭からすっかり抜けていたのは真実である。その名前を目にする機会はいくらかあったのだが、食指を動かせなかった。カノン・マクレーンという名前の先を知ろうとしなかったのだ。
「あ、そうなの」
澪の言葉に彼はとくに気にした様子もなかった。あっさり反応してみせたが、紅茶をすすろうと顔に近づけたカップがカタカタと震えていた。
思い切り動揺している。実はショックだったらしい。
悪いことを言ったと気に病んだ澪だったが、続けた。
「クリストファー・スループの弟子みたいなものなんだっていう認識かな。その名前が目につきすぎて、カノンの名前が弱く映ったのかも。それでも、私と変わらない年の男の子がすでにプロの世界で売れているって知った時は衝撃だったよ」
本当のことを言うと、年の変わらない『女の子』だと思っていたなどとは口が裂けても言えなかった。
雑誌で確認したヴィジュアルだけ見たら、そう勘違いしてしまっても悪くないと心の中で弁護する澪だった。
「ずっと考えてたんだ。どうして夏音のことを深く知ろうとしなかったのかなって。たぶん嫉妬するから、だと思う」
「そうか」
「嫉妬する、っていうか。ちょっとだけ嫉妬してたんだと思う。それで、この人のベースを聴いたらもっと嫉妬しちゃうんだろうって予感がしたから」
澪は醜い感情だと改めて自分が抱いたもの醜悪さを知って嫌気がさした。
「ただ、それだけで。いつか別の場所で聴いて、それこそ私が大人になってひょっこり耳にしたら純粋にすごいなって思っちゃうんだよ。私がベースをやってるから。ただ、それだけの理由で意味わからない嫉妬心が出てきちゃったんだよ。馬鹿みたいだろ? 自分でも馬鹿って思う。だから、夏音の曲を聴いてみたりした」
流石にすぐにCDを手に入れることはできず、夏音には悪いと思いながら動画サイトを利用した。
そこには、たくさんの動画があった。
リンクが次から次へと貼られてあり、リンク先にひょっこり現れる有名なバンドの名前だったり、共演した演奏動画を目にする度に、現実を突きつけられる気分であった。
不思議と、かつて抱いた感情はなかった。
彼の作った作品、音を素直な心で受け止めることができた。
かつての感情を振り切って、澪が掴んだのは「尊敬」という感情だった。
心から、彼の全てを平等な気持ちで評価することができたのだ。
まだ全てを見たわけではなく、それも彼の一部だったのかもしれない。それでも、澪は彼のすごさを認め、一つの感情を抱いた上で、また自身の欲に出くわした。
この人がそばにいる。
このチャンスを、活かしたい。
自分のことだけを考えたお願いだということは重々承知している。これが彼にとってメリットとなることはない。
純粋に、これは澪の願いからくる懇願。
それを彼に突きつけるために、澪は夏音のもとに出向いたのだ。
「ということで……私は、夏音に今の私のベースを聴いてもらいたいんだ。そして評価してほしい。本物の意見で」
途中から一言も口を挟まず、話を聞き終えた夏音は、薄く微笑んできた。
嫉妬。保身、排他。
澪は、ごく当たり前に人間に起こりうる感情を何段階も経た後にこうして玉砕覚悟で夏音に向かい合っていた。
夏音はそのことをきちんと見透かしていた。
「いいよ」
あっさり、答えられた。その瞬間、澪はかっとお腹のあたりが熱くなったのを感じた。
「い、いいの?」
「いいよ。だって自分より上手い人がいるんだもん。ベース見てもらいたいって思うのは当たり前だし。俺だって隙あらば他の人に意見を聞いてもらうよ」
「夏音が!?」
「当たり前じゃないか。自分の意見が全て正しいはずない。俺なんてまだまだひよっこだし、自信をもって作った曲をこき下ろされたりすることもあるよ」
それを知った澪はぶるりと身を震わせた。初めて、音楽に対して身震いするほどの思いを抱いた。
深すぎる。音楽、そして音楽業界。目の前にいる男がまだまだならば、自分はどの位置にいるのだろうかと考えただけで立ち眩みを起こしてしまいそうだ。
では早速とばかりに、澪は立花家ご自慢のスタジオに案内されることになった。
防音のドアをあけて中に入った澪はしばらく言葉も出なかった。
レコーディングスタジオといっても過言ではないほど、充実した機材の数々。さらに機材の保管庫はまだ他にもあると言う。
「さ、さすが……というか、もうお前に関わることで驚いていられないな」
心臓がいくつあっても足りない。
それを聞いた夏音は肩をすくめて、椅子を二つ用意した。
澪は自前のベースを取り出して、調律をすませてからスタジオのアンプにつなぐ。
「見たことないつまみとかあるんだが」
普段、自分が触れる機会のない高級なベースアンプ。澪はヘッドアンプに存在する幾つものつまみを前に戸惑ってしまった。
「ゲインとマスターがコレ。エンハンサーは使わないで。コンプもいらない。イコライザーはこれがベース、この二つがハイミッド、ロウミッド。それでトレブル、プリゼンスね。とりあえず今はフラットにして」
初めて見るアンプに戸惑っている澪に、夏音はアンプのつまみを一つずつ説明した。
セッティングが整うと、用意された椅子に互いが向き合う形で座る。
澪はしきりに髪をいじる。聴いてくれと頼んだのは自分だったが、いざこうして夏音の目の前で弾くのは緊張してしまう。
「あ、あの……」
「ん?」
頬に血が集まるのを感じながら、澪は恥ずかしさを誤魔化すつもりで言った。
「笑わないで、ね」
その瞬間、夏音がのけぞった。見た事のない味のある表情が見物だった。
彼の不思議な反応に澪は首を傾げたが、覚悟を決める。
澪の手がネックに触れる。
★ ★
澪の手がネックに触れる。
左手が弦を撫でるように動き、ベースの低音が鳴り響いた。
フェンダージャパンのパッシヴベース。澪が初めて買ったというベース。
パッシヴ特有の温かいふくよかな音。澪が選んだのはクリームの曲だった。
アレンジを加えながら、夏音のよく知る進行で曲が進んでいく。
よくコピーできているな、と夏音は素直に感心した。
楽曲をそのまま、という事ではなくて演奏者の手癖やニュアンスを表現しているという意味で。
もしかして、澪はジャック・ブルースに影響を受けているのではないだろうか。
時折入るオカズを聴く限り、ジャズやブルースといった音楽の要素がいくつか引き継がれているように思えた。
おそらく、そっち方面の音楽を学んだというより、コピーしているうちに身につけたのだろうと推測した。
夏音はしばらく彼女の演奏にじっと耳を傾けていた。
真剣な表情で音を紡ぐ彼女が全力で自分に訴えようとしているもの。彼女が築き上げてきた技術を感じとろうとする。
五分ほど弾いたところで、澪は演奏をやめた。
演奏を終え、澪は恥ずかしそうに俯く。
感想を待っているのだと気付いた夏音はゆっくり口を開く。
「何から言っていいやら」
そう口にした夏音に澪は背筋を伸ばしてごくりと生唾をのむ。
「まず、澪は上手いね! うん、十分上手いと思うよ!」
「え?」
澪は夏音から飛び出た言葉が想像していたのと違ったのか、素っ頓狂な声を出した。
「で、でもこんな実力でプロからすればへ、へた……なものじゃないのか?」
「プロだから、とかそういうのはよく分からないな。もちろん、そういう区別をするなら下手かもしれない。誰と比べてもいいなら、ね」
夏音はいくつか彼女の演奏を聴いて思ったことを挙げた。
「良い音楽を聴いてるなぁ、って思ったよ。音については仕方がないけど、ピッキングが弱くて輪郭がぼやぼやだったかな。それにリズムキープ怪しくて、ところどころ崩れそうになる瞬間があるのとか……他にもあるけど」
ぽんぽんと出た夏音の言葉に素直に頷いていたが、澪はまだ何か物足りないような表情を隠せないでいた。
「ちなみに、だけどジャコを聴いたことは?」
夏音がふと尋ねた人物に澪が反応した。
「名前は知ってるけど」
「ナルホド……」
残念そうな顔になった夏音だったが、気を取り直した様子で数回頷くと「それくらいかな」と言った。
「……他には?」
「他?」
「何かないのか? 私のベースの感想っていうか、感じたこととか!」
「感じたこと……そうだな……ない!」
ぐっさりどでかい言葉の杭を澪に突き立てた夏音であった。
もちろん、澪は心に相当な深傷を負った。瞬く間に真っ白な灰になってこれから消え飛びそうになった澪に、夏音は泡を食う。
「ご、ごめん! 言葉が悪かった! 何も感じなかったっていうのは言い過ぎだね! なんて言えばいいんだろう……澪がさっきからプロとしての意見を頼む、って言っていたのは自分がプロとして通用するかってことなんだろ? そういう意味では、あなたはプロになれませんよーって断言することなんてできないよ。技術をひたすら磨けばたいていプロと呼ばれる人種にはなれる。ただ、」
夏音が間を置いて澪と目を合わせる。澪は夏音の言葉の先を待った。
「ただ……?」
「上手いだけでは、通じないんだ……俺たちの世界ではね」
「…………」
「要するに、簡単に言ってしまえばワンアンドオンリーがない」
「個性ってこと?」
「そう。個性」
「プロにも何種類もの人間がいるのさ。言ってしまえば、その分野でお金をもらって食っていく人間はみんあがプロだ。ただ、俺が立っていた場所は……周りの人間は個性をもっていたよ。その人の音をもっていた……俺も、その内の一人だった」
自慢でも過信や思い上がりではない。夏音はそのことだけは自信を持っている。夏音は続けて言う。
「だから、澪が今すぐプロに通じるなんて到底ムリ……残酷に聞こえるかもしれないけど」
はっきりと言われ、澪はあからさまに落ち込んだ様子であった。それでも納得したようにうなずき、いっそ清々しいような笑顔を浮かべた。
「そうか……はっきり言ってくれてありがとう。別に、プロ願望が一番にあるわけではないんだ……ただ、今はベースが私の中で大きな部分を占めているから。どこまで通用するのか、って気になったんだ」
「なるほどね。ただ、勘違いしないでね」
夏音は大事なことである、と一度切ってから話し始めた。
「澪がこの先もプロになれないとは言っていない」
「え?」
「もちろん、必ずなれるとも言えないけどな。今聴いた限りでは、澪は伸び代が十二分に余っていると思うよ」
「と、いうことは?」
「ということはも何もない。要はこれからってことさ」
澪の顔は拍子抜け、といった感じがありありと出ている。夏音は彼女がどんな回答を求めていたか、容易に予想できた。
「澪。言っておくけど、単純な問題ではないんだよ。澪が期待するような答えなんて俺は持ってない。澪の将来のことなんて俺にわかるはずないじゃないか。これから澪がどんな努力をするかも分からない。オーディションを受けてるんじゃないんだ。今、この場で俺が君にジャッジを下せるはずないだろう」
遠慮のない言葉に澪の視線がだんだんと下がっていく。しかし、夏音は澪にとっての衝撃的発言を口にした。
「俺なんかでいいのなら、教えてあげられることはあるけど」
「ええっ?」
「どうする?」
顔を上げた澪は目を瞬かせて夏音の顔を覗き込んだ。
「そ、それって……」
「ていうか。最初からそういうつもりだったろ?」
「ち、違う! 最初からそんなつもりなんかじゃ! 私のベースが通用しないんだったら、それで諦めようって……」
「素直じゃないなー」
「す、素直とかそういう話じゃない! 本当だ!」
「別に恥ずかしがることじゃないよ。澪もベーシストだから、そういう風に俺を見てしまうこともわかる」
澪は思わず、声を呑んだ。その声がわずかに震えていることに気付いたのだ。
「ただ……俺を遠ざけないで」
「と、遠ざけてなんかないよ!?」
澪は急いでそれを否定した。
「本当に? 俺を、ただの夏音だと見てる?」
「そ、それは……うん、夏音は夏音だよ。他の何者でもない……んじゃないの?」
「なら、いいんだ。ただ、本当の事を知っているのは澪だけだし。澪は何だか最近様子がおかしいし。やっぱり打ち明けたことが原因だったのかなって」
★ ★
澪はそれを聞いて、後悔した。自分の態度ははっきりと彼に伝わり、悩ませていたのだと今さら気付かされた。
ただ才能をうらやみ、さらにあわよくばと彼を頼っていた自分を恥じた。
「ごめん。夏音のことを見る眼が少し変わったのは事実だ。けど、私が最初に友達になったのはカノン・マクレーンじゃなくって。立花夏音だ」
澪にしては珍しい、かなり恥ずかしい発言である。澪も言ってしまった後に、それに気付き顔が真っ赤になった。
「あ、ありがとう……そう言ってくれると嬉しいよ」
「……ハイ」
お互い、少し気まずくなった。
二人はスタジオで様々な話をした。
濃い、音楽の話。夏音の生い立ちやスループ一家との出会いなど。
それに対し、澪は表情をころころと変えて驚き、笑い、共感した。それは澪の想像の向こうの話。知られざる世界の裏事情だったり、有名なギタリストが同性愛者だったといったような話まで。
そうやってしばらく話し込んでいるうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
時間も時間であり、お暇すると告げた澪。夏音もそれに賛成すると、送っていくと言った。
「別に送ってもらわなくて大丈夫だぞ?」
子供じゃないんだからと笑う澪だったが、夏音は外で待っていてと言って姿を消した。
言われた通り、玄関先で待っていた澪だったが、ふと大きなエンジン音が聞こえたと思ったら大型のワゴンがガレージから出てきた。
「……ん、んなっ!?」
運転していたのは夏音であった。
「Yeahhhh!!! huh!!! 乗んな!」
運転席から顔を出し、カウボーイみたいなかけ声をあげ、乗れという夏音。運転席の下まで詰め寄った澪は悲鳴に近い声で叫んだ。
「な、何で夏音が車を!?」
「うんー、まあまあとりあえず乗ってよ」
「いや、でも!」
「いいから乗れよ!」
大人しく乗ってしまう澪であった。
助手席に乗ってから、無免許運転、犯罪、警察といった恐ろしい単語が頭をめぐり激しく後悔した。
しかしながら遅かった。
やっぱ降ります、と言う前に車は発進してしまった。
「そんなに怯えないでいいよ。無免許じゃないから」
助手席でぶるぶる震えている小動物に夏音が苦笑しながらある物を差し出した。
「ん? これは……免許?」
「(何で夏音が免許を持っているんだ?)」
頭の上に疑問符が何個も出ている澪は、どうやら本物らしい運転免許証を目を凝らして見た。
その生年月日を。
「え…………夏音………お前……?」
澪がおそるおそる夏音の方を見る。すると、夏音は大口をあけて笑い出した。
「そうでーす!! 実は十七歳でーす! 向こうで免許とって一年経っていれば日本でもとれるんだよ。まぁ、オートマ限定だけど」
アハハハと笑う夏音であった。もうやけくそだった。この際、カミングアウトしてしまえーと思ったが、これでどんな反応がくるか不安である。
夏音は横でしんとなっている澪をそっとうかがった。
もしかして、なんとか―――、
「えーーーーーーーーーーっっ!!!!???」
―――ならなかった。澪の限界であった。つんざくような澪の悲鳴をBGMに大型ワゴンは夜の道を疾走する。
「あの、澪さん……何で僕はここまで怒られないといけなかったんでしょう」
夏音が実は年上だという事実を知らされ、度を失ったように錯乱して運転中の夏音の首を絞めて揺さぶった澪は現在、しゅんとなってうなだれている。
「ご、ごめん。つい弾みで……」
「別に年なんて大した問題じゃないでしょう」
「た、大したことなくない! 夏音は私たちより年上なんだぞ!?」
「うーん、そうだけど。俺の生年月日なんてwikipediaに載ってるんだけどなあ」
夏音が間延びした口調でそう言うので、澪は溜息をついた。
そして真剣な口調で――、
「夏音さん。それとも夏音先輩、の方がいいか?」
ハンドルを持つ手が滑り落ちそうになった。
「今、ゾワリと背中を何かが……頼むからやめてくれ……」
信号で止まったので、澪の方を向くとその信号機の照明にぼんやり照らされた横顔、頬が緩んでいるのがわかった。
「……からかっているな?」
「ばれたか」
夏音は少年のように笑う澪に肩の力が妙に抜けてしまった。
「そりゃびっくりしたけど。もう夏音のことでいちいち驚いていられないって思ったんだ」
落ち着いた声でそう言った澪に、澪はふぅと溜め息をついた。
「そうですか……でも、澪には何もかもバレてしまったな」
「なあ、みんなには言わないつもりなのか?」
澪は前から気になっていた、と夏音に訊ねた。だが、夏音は少し口をきかなくなり、やがてぽつぽつと喋りだした。
「そうだな……いずれ、必ず」
「まあ、夏音がそれでいいなら私は何も言わない」
「そうしてちょうだい」
それから無事に澪を送り届けた夏音は、早々に帰宅した。