「先生、この事は一生忘れない」
たっぷりと恨みがこめられた視線に罪悪感でいっぱいになった律は「いやぁ、ハハ」と引きつった笑みを浮かべる。
少なくとも教え子に向けていい目つきではない。
猛暑のせいか、おそらく出掛けには完璧であったろう化粧は程よくはがれ落ちてしまっていた。
そのことが余計にぶすくれた表情に迫力をつけてしまっていることは本人も気づいていない。
「迎えにきてくれるって言ったじゃない! メールも電話も無視するし。ていうか途中から電波なくなるし! 虫いっぱいいるし、仕方ないから歩いたら迷うし!?」
バンバンとテーブルを叩くイイ大人の泣き言に対して、かけるべき正しい言葉など誰も持ち得ていなかった。何か悲運に打ち拉がれている風(?)の顧問に対して、これ以上の放置は収集がつかなくなると考えた夏音は、そっとさわ子の肩に手を置いた。
「まーまー。ご苦労様でした。夕飯はあらかた食べ尽くしてしまったけど、とりあえず風呂にでも入ってさっぱりしてくださいよ」
「・・・・・・お風呂? 広い?」
ぐずっとしゃくり上げたまま、夏音を見上げるさわ子。泣く子に対して慈くしむような微笑みを返した夏音は首肯する。
「ええ、泳げるくらいには広いかな」
「そう、そうね。いつまでもぐちぐち言ってられないわね。ええ、大人として」
今さらー、と無言の意見の一致が起こったが、それを無視して夏音は顧問を立たせる。
「なんか余り物で軽くお腹に入れられる物でも作っておくので、どうぞどうぞ」
基本的に切り替えが早いらしい。ぐずっていた子がぱぁっと良い笑顔を浮かべた。
「なら、お言葉に甘えようかしら~。みんなはもうお風呂はすませたの?」
「あ、お風呂なら夕食前に頂いてしまいました」
「そ。なら、一人で入ってくるとするわ。はぁ~汗だくで気持ち悪いったらないわー」
ぐるぐると肩をまわしながら去った顧問を見送ったところで、複数のため息が発生した。
「律、お前はどうしていつもそうなんだ?」
「今回はちょっとさわちゃんがかわいそーだよね」
「だいたい律先輩はズボラすぎるんですよ」
「お背中でも流してきた方がいいかしら?」
一部をのぞいてフルボッコである。自分が悪いという自覚がある以上、律は唇を噛みしめながら「ぐぬぬ」とうめくことしかできない。
夕食は外でバーベキューだったが、火の始末はとっくに終えてしまった。肉と野菜がまだ余っているので、軽食を作ろうと夏音は台所に立った。
茄子をニンニク、オリーブオイルで炒めて、塩コショウで味を調えたものを一品。また、冷凍の枝豆は小さめの鍋で塩ゆでにする。
生野菜はそのままサラダにまわすことにする。昨日のカレーで余っていたじゃがいもを利用してポテトサラダにしてしまった。
「後は・・・・・・ご飯は確か冷蔵庫に少しあったかな」
明日の朝にでも食べようと冷蔵庫にラップした状態で保冷していた白米。卵や調味料もあったので、炒飯にすることにした。
火力と腕の振りが命。パラパラの炒飯を作るために、立花夏音は腕を振るう。
「って、ぜんっぜん軽食やないがな!?」
台所を覗き込んだ律のツッコミが響いた。
「あら、あらあらあら。ずいぶんとしっかりしたのが出てきたわね。夏音くんが作ってくれたの?」
「残りものかき集めただけですよ」
「お風呂上がりで火照った体に涼しい海風。冷えたビールもあって、枝豆・・・・・・私の人生の意味はここにあるかも」
どんな人間でも、もう少しマシな人生があると思う、と夏音は心に浮かべたが口には出さない。
とりあえず顧問の機嫌は完全に回復したらしい。
功労者である夏音に感謝しつつ、ほっと胸をなで下ろした軽音部女子一同であった。
「おら、早う酌せんかい!」
「どうしてこうなったんや・・・・・・」
何の躊躇もなく三缶目のビールに手を出した顧問に、未成年達は何とも言えない表情を作って顔を見合わせた。
「先生。ちょっとペース早くないですか?」
「ええー? いいじゃなーい。今日、一日汗だくだったんだもん。ごほーびもらってもいいじゃーん。それに大丈夫よ。私、そんなに弱くないから♪」
というやり取りがあってから、僅か一時間後の話であった。
「めんこいのう、めんこいのう。こんなにも愛くるしい教え子に囲まれてお酒を飲めるなんて幸せ~。ほーぅら梓ちゃーん。先生のコ・コ。あいてるよー?」
「ひ、ひぃっ。先生が壊れてらっしゃる!?」
据わった目を向けられ、小動物のように震えた梓は、自分の中で音を立てて崩れていく美人顧問へのイメージにガチの涙目だった。
人間、外面を一枚はがしただけで、こんなものである。それをこの若さで悟っていた悲しい少年少女達は、後輩の受けた衝撃に心から同情した。
既に経験済みだったものの、校内でも美人教師として名高いさわ子の醜態には、目をそらしたい程ぐっとクるものがあった。
『何とかせいよ』
すかさず無責任な軽音部部長から、夏音に送られる視線言語。敏感に感じ取った夏音は、責任の所在について考えを巡らせた。
酒を出したのは自分だが、そもそも飲み過ぎた顧問が悪いに決まっている。しかし、日頃から色々と溜めているからこそ、酒に溺れてしまったのかもしれない。
今日のストレスがとどめになったとみてもいい。
『律が責任を取りなさいよ』
「はあん? 何で私が?』
『律、いつも泥酔したお父さんの始末は自分の役目って言ってるだろう? ここは、いつも通りにちゃちゃっとやってよ』
『澪までも!? くそぅ、余計なこと話すんじゃなかった』
「ムギちゃんやらかくて、あったかーい。今夜の抱き枕けってーい」
この熱帯夜に迷惑な話である。
『あの、みんな。このままだと、先生が私から離れてくれないかも』
現在進行形で顧問の餌食と化していたムギからヘルプの視線が加わる。
そんな中、視線だけでやり取りを始めた先輩の様子に目を白黒させていた梓は、何だか置いてけぼりをくらったような心持ちになった。
ならば私も、と思い切った。
『・・・・・・・・・・・・』
『お、おい。梓、何でそんな目を私に向けるんだ? 私、そんな親の敵を見るような目つきを向けられる覚えはないんだけど』
『・・・・・・・・・・・・・・・』
『え、梓。ガチなの? そんなに私のこと、アレなのか。無言の圧力で押しつぶそうとしているのか?』
悲しきかな、まだ付き合って日の浅い梓には、軽音部の高度なコミュニケーションは早かった。
軽音部の独特な波長にチューニングするには、もう少し時間が必要なようである。
しばし睨み合っていた両者だったが、ここで思わぬ人物がすっと立ち上がったのである。
「ほらー、さわちゃん酔っ払いすぎだよー」
唯が、さわ子の肩に手を置いて諫めたのである。その上、手元に危なげに持っていた缶ビールをそっとテーブルに戻し、ムギを魔の手から解放してやるという離れ業までやってのけた。
「ん~。唯ひゃーん。あなたもやらかいねー」
「えへへー、憂にもよく言われるんだよねー。ほら、さわちゃん立って立って~」
「んっふふー。はーい立っちまっした~」
「さわちゃんえらいねー。じゃ、こっちだよー」
びったりと自分に張り付いてくる顧問を、そのまま部屋の外に連れ出した。おそらく、そのまま寝室に行くのであろう。
そのあまりの手並みの鮮やかさに一同は声を失った。もともと黙りこくっていたが、陸に揚がった魚のように口をパクパクとさせて呼吸を求める。
『あの、唯(先輩)が!?』
と心は一つ。
軽音部一、否、学校一ぼんやりとしていて、のろま娘の評価を一身に浴びる唯が。
酔っ払いをいなすという経験豊かな人間にしか成し得ないことを、さらりと。
後に唯は語った。温厚で優しい両親は、平和な家庭の象徴といってもいいくらい、普段からぽんやりしている。そんな二人の遺伝子を次ぐ娘がぽんやりしているのが至極真っ当であるくらい、両親もほんわかしているのだが、二人とも酒癖が異常に悪い。
くだを巻いたり、乱暴になるといったことはない。だが、しかし二人とも共通して幼児退行する。
駄々をこねたり、必要以上に人にひっつこうとする。
べつに誰にひっつかれても、何も構うところのない大らかな長女も、限度を超えたひっつきには手を焼いていたのだという。
数をこなしていく内に、両親を寝室に放り込む技術が上がるのは当然のことだった。
「唯は意外に介護士とか向いてるかもなー」
酒の匂いがひどい居間の換気のため、窓を開け放つ。涼しい潮風が室内にふわり。滑りこんできては、肌を撫でていく心地よさに窓辺に立つ少女たちの目が細くなる。
「今日寝て、明日が過ぎたら終わりだね」
夜は人をセンチメンタルにするのだろうか。唯が神妙な雰囲気で言うだけで、共感したような息づかいが広まる。
十代の少女達にとっては、こうして仲間達と過ごすしんみりとした空気は、どこかこそばゆい。ただ、言葉にせずとも感じ合う時間は嫌なものではない。
それぞれが異なる思いをこの静寂に託していても、きっと明日からも歩く道のりは一緒なのだと、ただそれだけが確信的なことであると、誰に教わるでもなく皆信じているのだ。
「うぅ~」
と、そんな沈黙を破ったのは梓だ。ふらふらとしたかと思えば、隣にいた澪に倒れかかったのだ。
「どうした梓? 眠くなっちゃったの?」
小さな後輩の体を支えながら問うが、どうにも様子がおかしい。うぅー、と低い呻き続ける後輩は、ひょっとして体調を壊してしまったのではないかと心配になった時、澪は「うわっ」と顔をしかめた。
「なんか、梓が・・・・・・酔っ払ってる?」
「はぁ!? 誰も飲ませてないだろ」
ふにゃんと軟体生物みたいに力の抜けた梓は、気がつけば顔が真っ赤になっており、澪の支えがなければ今にも床に突っ伏しかねない有様だ。
「もしかして、お酒の匂いだけでやられちゃったのかしら?」
拘束されていたムギも被害者であったが、その隣に座っていた梓もまた被害者であったということだ。
顧問が吐く息の酒臭さたるや、アルコール耐性のない未成年には毒であった。
「ったく、あの顧問はまったくもって、ろくなもんじゃないな」
「先輩が二人いるー。ぐるぐるしてるー。えへへへ」
相当キマってる梓にはすぐに水を差しだして飲ませる。夏音は率先して梓を背負うと、寝室まで運んだ。
「まったく。いくら多めに日程をとったからといって、気がゆるみすぎじゃないか?」
澪がぷんぷん怒りだすのは、いつものこと。対して夏音はあくびを噛みしめながら、返した。
「まあまあ、いいじゃない。合宿っていっても、練習浸けじゃあ気が滅入るよ。俺は今回の合宿では、こう思うようにしたんだ。遊びのついでに練習でいいじゃあない」
「いつの間にか夏音がアチラ側にいってる!?」
唯、律を筆頭に常に遊びたいグループと、澪、梓、夏音を中心とした練習を求める真面目ちゃんグループは程よいバランスの上に成り立っていた。ムギはその時々で態度を変えるので、彼女こそが鍵だったのかもしれない。
そのバランスが崩れてしまった今、この部活はどうなってしまうのか!? と澪が恐怖に震えだしたところ、律が夏音の発言に対して息を呑んで固まっていたことに気がついた。
「あのさ、夏音。もしかして・・・・・・」
だが、言いかけてやめる。夏音は、何か重大な感情を必死に口の中で噛みつぶすように出すまいとしている律の気持ちを察した様子で、一瞬だけ苦い顔を作ったが、取り繕うような笑顔ですぐにかき消した。
「来年は、山かな」
「え?」
「来年の合宿は山もいいな、って思っただけだよ。いっつも海が近いからね。たまには山でもいいかなって思うよね」
「・・・・・・そ、そうだな。あ、でも山だと虫がすごそう」
澪が合わせるようにぎこちない笑顔で返した。
「えー? 海沿いだって変わんなくねー? もう五カ所くらい刺されてるんだけど」
「ふふー。りっちゃんのお肌ってあふれんばかりの健康美だからー、ついつい吸い付きたくなっちゃうんだよねー」
「うひゃぁっ!? マジで吸い付くなアホウ!?」
じゃれついてきた唯から、わりと本気で逃げる律。「いけずー」と唇を尖らせる唯に、緊張しかけていた場の空気が緩んでいく。
「それにしても、今年もこんがりと日焼けしちゃったなー」
「でも、りっちゃんキレイに焼けてると思うよ?」
「そういうムギは・・・・・・全くもって純白もち肌ですねうらやましい」
「唯もあんまり焼けないよね。俺、肌が弱いから赤くなっちゃうんだよなあ」
暑さには強いが、太陽の日射しに対して、純白の肌はガードが弱い。ほぼ同じお肌条件のはずのムギは、パラソルの下にいることが多かったためか、あまり日焼けはしていないようだ。
全力で日光の下で遊んでいた夏音は、首筋から両手まで赤くなった肌をさすった。
「あえて梓に触れないあたり、おんしらもなかなか意地が悪いよのう」
律がいたずらっ子の表情で言うと、皆が梓の姿を思い浮かべる。
梓は既に誰よりもこんがりと仕上がっていた。
「全てギンギラギンな太陽が悪いんだよ」
「おぉ、太陽は罪なやつってやつだね」
律の発言にどっと笑いが起こった。そんな会話が行われていることなど知らず、寝室で酔いつぶれていた梓が「うぅー、こんな部活・・・・・・」とうめいたことは誰も知らない。
皆が寝静まった夜は、いつも一人で起き出してしまう。立花夏音は基本的に夜型の人間なので、ふと目が冴え渡ってしまうことが多いのである。
時計の針は、深い夜のちょうど真ん中を指し示している。ちょうどテラスからは、浜辺へと続く道が見える。月明かりの道や、先にある頼りない光が揺らぐ海は、何だかこちらを誘っているような気がしてならない。
ギターを片手に月明かりの下、つま弾くのも悪くないが、夏音はぼうっとしていることを選んだ。
自然の音しかない世界が、最高に居心地がよいのだ。夏音は自然から、多大なる感性の源となる何かを受け取っていると自覚していた。
表現が音楽を通して世界に繋がる手段であるならば、表現を生み出すのが自然である。ふとメロディが浮かび上がる時に感じる匂い、光の感触が、一つの匙となって、自分の中へと入り込んでくる。
そして、優しくかき混ぜるのである。自分でも気づかなかった、あるいは忘れてしまうくらいに奥にしまい込んでいたものを表面に浮かび上がらせる。
「夏音先輩ですか?」
遠慮がちに後ろから声をかけてきた人物のことは、そろりと近づいてくる音から察していた。
「こんばんは梓。気分はどう?」
「うぅ、少しふらふらします。汗いっぱいかいちゃったみたいで、ちょっと起きてしまって・・・・・・お水を飲みに」
やや口ごもったが、夏音はそこに気づかないふりをする。自分の質問が少し気が利かなかったと反省した。
「俺たちの住んでるとこも、都会とは言えないけどさ。ほんとに自然しかないところだと、全くもってちがうよね」
「ちがう、ですか?」
首を傾げた彼女は迂闊に同意しない。後輩だからといって相手の顔を窺い、多くの日本人と違って、適当にやり過ごそうとしないところは夏音が好きな彼女の美徳の一つだ。
「うん、ちがう。こう自然の濃さっていうのかな・・・・・・あれ、何か言いたいことが上手く出てこないな。気配っていうか」
「気配・・・・・・私、夏音先輩みたいにすごい感性とかもってない身で、こういうのもなんですけど、分かる気がします。田舎のおばあちゃんのお家に行った時って、すごくこう・・・・・・お腹のあたりがきゅんってするんです。どうしてでしょうかね」
「ああ、それはノスタルジーだね。そうか、それかも」
こんな時間に、良い曲が浮かぶんだよ、と夏音が言うと梓は感心して頷く。
「私は・・・・・・自分で良いフレーズが浮かぶ時。インスピレーションが降ってくる時って、時も場所も選ばないかもしれないです」
「そうだね。確かに、とんでもない時に降ってくるものだね。バスに乗ってる時、ゴミだらけの裏路地を抜ける瞬間、学校の授業中、なんてものもある」
「先輩は、そうしたインスピレーションをどうやって処理してるんですか?」
「できれば、すぐ曲に起こしたいけど。そうも言ってられない時は、そうだな。簡単なメロディをメモったり、携帯のボイスメモに吹き込んだりかな。後で聴いてみると、なんだこのださいフレーズは!? ってなることも多いけどね」
あまり聞くことのない、プロの曲作りの秘話を明かされ、感動した様子の梓はそれから矢継ぎ早に夏音に曲作りについて問いかけた。
夏音も面倒くさがることなく、それらの質問に一つ一つ答えていく。
「とまあ、俺の場合はこんな感じだけど」
「すごく勉強になりました。ありがとうございます」
小さな頭を下げる梓に夏音はそっと笑みを含める。お互い話に夢中になってしまったせいか、ずいぶんと時間が経ってしまった。
「もうすぐ朝ってくらいの時間かあ。今日で合宿も大詰めってところだね。ねえ、梓は軽音部に入ってよかった?」
「ええ、最初はやっぱり少し不真面目なところがあってどうしようかと思いもしたんですけど、こうして先輩達と音楽をできるのが楽しいです。不真面目なところは相変わらずですけど」
付け足した一言に夏音は吹き出す。
「そうだね。でもねえ、音楽ってとことん真面目になればいいってものじゃないんだよね」
「不真面目なほうがいいってことじゃないですよね?」
突然、夏音が繰り出した内容に訝しげに返す梓。その言葉には真意があるのだと探るような眼差しを受ける夏音は変わらぬ口調で続ける。
「そう、不真面目がいいってことでもない。真面目でいいってわけでもない。つまりは、正解なんてないってことだよ」
ナチュラルなトーンで夏音は背を預けるソファの上で伸びをした。流石に身体は疲労を溜めているのか、ついあくびも出てしまう。
「俺は、こういう性格だから。どっちの血を受け継いだのかわかんないけど、きまじめな性格になっちゃったじゃない?」
じゃない? と確認されて、一瞬考えこんだ梓だったが、すぐに頷く。軽音部内ではトップレベルで真面目な人間である。
細かい気配りや、物事を進める上での手順など。
確実に同年代の人間よりも、大人な人格も有している。
「正解なんてわかんないけど、自分たちが形にしたものを誰かが受け入れてくれて、そういう受け入れてくれる人が沢山増えたら、それは一つの答えなんじゃないかな。それが正解か不正解かなんてどうでもいいでしょ。そうやって全てのミュージシャンが栄光を手に入れたり、その後に転落してったりもした。
両手で数えられるくらいの人数しかお客さんがいないストリートミュージシャンの方がテレビに出ているドラマーの何十倍も良い音を鳴らしていることだってある」
梓は次第に熱を帯びていく夏音の言葉をじっと身じろぎもせずに聞いている。おそらく、夏音の話す事が意味あるかないかは関係ない。
饒舌に話す夏音の一言一言を逃したくないのだ。
「軽音部は、これでいいんだ。深く、そう思うよ。彼女たちはプロの音楽をやらなくてもいい。楽しんで、音楽をやっていればいいんだと思う」
「でも・・・・・・先輩達は、いつか武道館って言ってますけど」
「それは、その時さ。まだまだ先の話だよ。本当に武道館でライブできるようになったとしたら、その時は彼女たちは今の彼女たちとは全く別の音を奏でるようになっているんだろうねー」
ほんのりと、かすめるように感じてしまった夏音の寂しさに梓は目を伏せた。
「先輩は、まるで他人事みたいに言うんですね」
思わず、詰問するような内容に、梓は自分ではっと驚くように顔を上げたが、発言を撤回することはなかった。
それに対する夏音は「くくくっ」と悪役のような笑みを漏らした。
「だって、その時の俺は、彼女たちの中にいることはないもの」
でもさ、と夏音は続ける。
「それって、悪いことじゃないでしょう?」
以前、アメリカから帰ってきた夏音は、軽音部とは途中で別れることになると宣言した。夏音がプロとして再び舞台に上がる頃、おそらく互いの人生はまるで別のものになるだろう。
それでも、つながりがなくなるワケじゃない。
友達として、かつての仲間として会うこともあるだろう。
万が一の事態が、それこそ奇跡のような確率で、いずれ有名になった彼女たちと一緒に音楽を再びやることができるかもしれない。
その時は、ミュージシャン同士として。そんな未来が訪れることがあれば、それは夏音にとって幸福なことである。
そんな夢のような話を、夏音は半分程度の希望を、胸に秘めていた。
「梓。勘違いしないで欲しい。俺は軽音部が好きだよ」
何も言えなくなってしまった後輩に、夏音は身を前に寄せながら、ゆっくりと聞かせる。
「いずれ、梓にも分かると思うよ。人生で、決断しなくてはいけない時がくる。遅かれ早かれ、誰にでも訪れるんだ。そうだね。日本で学生をしていても、あるだろう?
たとえば、進路はどうするか、とかね。自分は将来、どうなりたいのか。そのために、遠い土地にいかなくてはいけない。友達と離れるけど、夢とどっちを取るのか、とかね?
俺は比較的早い段階で、決断をしなくてはいけない人生を送ってきた。それは、これからも変わりない。常に天秤にかけるような人生さ」
波の音が先ほどより激しく聞こえてくる。月の光は弱々しくなり、東の空から白く輝いていく光が空を変化させていた。
「でも、後悔だけはしないよ。梓も、後悔だけはしないようにね」
そう言われた時に梓はこみ上げた感情を何とかフラットに抑えるように、拳をぐっと握りしめてから、口を開いた。
「先輩、ありがとうございます。短い間でも、先輩みたいな人と一緒にいられること、本当に嬉しいんです。口にするのは恥ずかしいけど・・・・・・それこそ、この時間が、これからの私の人生の中で本当に重要な時間になる気がします」
それから夏音の目を見据えて、少し赤くなった瞳をぶつけた。
「先輩がいる間は、できるだけ色んなことをぬす・・・・・・教えてもらいたいと思ってますから、これからもバンバンとご指導お願いします!」
下ろした長髪が翻るくらいの勢いで頭を下げてきた後輩に、夏音は苦笑して頭をかいた。
「わーお。梓ったら、ほんとにノリが体育会系・・・・・・」
それでも、悪い気はしないものだ。ぽん、と梓の頭に手をのせて軽く撫でた。
「君の役に立てるように、頑張るよ。先輩は後輩を助けるもの、なんだろ?」
三泊四日の合宿はあっという間に終わった。適度に練習をまじえて遊び尽くしたといってもいい。
夏といえば、というお題目の中に書かれるほとんどを済ませてしまったのではないかというくらいの濃度であった。
肝試しは、毎度のごとく絶叫と共に意識を失う人間が現れたり、花火やカードゲームに興じながら、話すことはいつもと一緒だった。
「いやー、今年も満喫したなー。合宿」
「そだねー。もう、今年は海はいいかなー。あ、でもプールってまた別腹な感じだと思わない!?」
帰りの車内、室内に吹き込む涼やかな風に髪を遊ばせながら、お気楽コンビが笑う。背もたれを緩やかな角度に倒し、足を組む姿は良いご身分といったところか。
「先生、運転代わってくれて、ありがとうございます」
「ううん。私ができることなんて、少ないもの。これくらい、なんてことないわよ」
夏音は帰りの運転は、と申し出る顧問の言葉に甘えることにしたのだ。正直、炎天下で遊び尽くした上に、長距離の運転は厳しかった。
「あ、でも先生も疲れたらすぐに言ってくださいね」
「大丈夫よー。こう見えてドライブは好きなんだから」
そう言われて夏音は、顧問がドライブする姿をうっすらと想像する。隣の席に座る人影が浮かぶか浮かばないか、はたして居るのか居ないのか、と考えたあたりでやめた。
あまりに不憫すぎるし、失礼な妄想である。
「もー、先輩たちはほんとに遊んでしかいなかったじゃないですか」
そんなお気楽コンビにしっかりと釘を刺すのは、毎度お約束のごとく梓だった。苦言を呈してきた後輩に対して、律と唯はお互いの顔を合わせて、眉を落とす。
「あーずさー。お前、もうほんっとに可愛いやつだなー」
前のシートから身を乗り出してきた律が梓の頭をがしっと掴むと、「ひゅあっ!?」と小さい悲鳴が上がる。
「お前がー、いちばんー、楽しんでたやないかーーーい」
しゅるりと後部座席に移った律は手加減しながらのチョークスリーパーで梓を抱え込んだ。
「りっちゃんずるいー。あずにゃん抱っこ、次ね」
さらりと恐ろしい事を言い放った唯に、梓は冗談抜きにびくりと身を強ばらせた。
「なんか・・・・・・唯先輩がだんだん怖くなってきました」
「あーん? あんなん、いつものでしょうが」
「というより、あのスキンシップになれ始めてきた自分が一番おそろしいというか・・・・・・」
「人間、あきらめが肝心よん」
先輩と後輩の穏やかな会話に、隣で眠ろうとしていた澪が不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「律、梓も疲れてるんだからちょっかいかけるな」
「へーい」
「律ってドラム叩いてる時へばるくせに、こういう時に体力あまりまくるよねえ」
「うるせー金髪」
合間に誰かが寝落ちしては、起きる気配。車内に小さく流れていた持ち込んだCDによるBGMはいつの間にか、ラジオに切り替わっていた。
「ん・・・・・・」
夏音はうつらうつらと舟をこいでいたが、ふいにパチリと意識がはっきりとした。今、どの辺を走っているのだろうとさわ子に確認しようとした時、
『じゃあ、宵越しゼニガッツさんからのリクエストで、Silent Sistersのカウントダウン』
ラジオのDJが口にしたバンドと曲名に「あっ」と声を出して驚いてしまった。
「あら、この曲懐かしいわね」
ハンドルを握るさわ子の方を見る。
「たしか・・・・・・かなり昔の曲だったと思うな」
「・・・・・・私の学生時代の曲ね」
「・・・・・・そ、そんな昔の曲じゃなかったなあ。ハハハ」
失言というのは、予期していないからこそ、失言というのだ。夏音は乾いた笑みで誤魔化し、スピーカーから流れる軽快なリフに静かに耳を寄せた。
「この頃は、もうこういうPOPな曲もやり始めてたんだよね」
「そうねえ。昔はもっとゴリゴリのメタルって感じがしたかもね」
「この前のアルバムがハードロック感がすごかったんだよねえ。というか、ポールは節操がなさ過ぎるんだよね。色んなものを取り入れすぎてるから、ジャンルがあっちこっち行くんだよ」
「あら、けっこう辛辣な意見ね」
「そこが良いって人もいるしね。といっても、曲の表面は色んな表情を出すけど、根っこの部分だけは変わらないから。本当に昔からのファンほど、離れていかないんだ。上っ面しかさらわない人ほど『大衆に媚びたなポール・アクロイドめ!』って罵倒するんですよ」
数多くいるミュージシャン。その中で尊敬する人間は少なくないが、中でもとびきり夏音がリスペクトしているのがポールだ。
そんな彼のバンドへと身を置くことに。以前とは、全く違うものになるだろう。想像もできないのに、近い将来に迫る出来事に、改めて身が震えてしまった。
「ねえ、夏音くん」
「なんです?」
「きっとこれからの教師生活の中でもあなたみたいな有名人が生徒になるなんて経験、ないんだと思うわ。元々有名で、これからもっと有名になる夏音くんは、すごく大人びてるし、言い方は悪いけど、その辺の子たちよりよっぽど頑強な精神を持ってるんだと思う」
怒濤の褒め殺しにたじたじになった夏音だったが、さわ子の話の続きを待った。
「でもね。そんな私の目から見たら、やっぱりあなたは、ちゃーんとした子供よ。自覚してないだろうし、そう見せないようにしてるみたいだけど」
「子供・・・・・・ですか?」
夏音は自分のことを子供だと思っていない。年齢や身分といった部分を度外視すれば、既に収入や考え方も大人のソレだと自負していた。
だからこそ、こう正面から子供だと言われて間の抜けたような表情を作ってしまった。
「べつに馬鹿にする意味じゃないのよ。どこか危なっかしいというか、たぶんあなたよりずっと多くのことを経験してきた人にしか見えない部分だと思うんだけど。
つまりね。あんまり一人で抱え込んじゃだめよ。適度に荷物を預けることが上手な人が大人なの。自分で抱えた荷物に押しつぶされるようじゃ、まだまだ子供ってこと」
「・・・・・・さわ子先生は、やっぱり大人だ」
さわ子の話を聞いて浮かんだ率直な感想を口にした。さわ子の言ったことに特に気を悪くすることはなく、何となく納得してしまう部分が多かったのである。
「どんなに荷物を抱える力が強くても、ね。いつかダメになるの。私はそういう経験はないけど、こういう年になると一人や二人、そういう風になっちゃう人を見てきたしね。
そうそう、日本には下駄を預けるって言葉があってね。それこそ、丸投げしちゃうことだって許されるのよー時にはねー」
「じゃあ先生は下駄を預けられまくってるってことですか?」
「言うじゃない・・・・・・ふふ。そうよ、あのクソッタレの学年主任は年中裸足なのよ。頭もね」
黒いことを生徒の前で言うさわ子は、だいぶ素の状態なのではないかと夏音は感じた。後ろの席の少女達は皆、寝静まっている。
子供じみた言動や態度が多いさわ子も、ある程度は生徒との間に一線を引いているのは分かる。
こうやって、親身に助言をくれようという気になってくれたということは、夏音なりに嬉しいことであった。
「ありがとう、さわちゃん先生」
「いーえ。年長の小言とでも思って」
それから会話はなくなった。窓を開けるとちょうど良い風である。あまり風に当たりすぎるのも良くないが、少しだけ風が欲しかった。
窓の枠に身をもたれかからせて、肘をついた。
(やっぱり大人はすごいや)
さわ子のような人間は、やっぱり教育者であり、立派な大人の一員なのだろう。夏音の本質を見抜いて、助言をくれたのだろう。
ふと気を抜けば、重大なことを一人で抱え込もうとするのが夏音の悪い癖だった。肉親に対してでさえ、そうしてきたのだ。
隠し事ができない人間、というのが世の中には必ずいる。
夏音にとって、その内の一人は今は亡きジャニス。彼女の前で隠し事は不可能であった。最近では、そんな風に自分のことを分かってくれる人間が増えたかもしれない。
「噛めるかあー、こんなん・・・・・・噛めるかあ」
ふと律が漏らした意味不明な寝言に、おセンチな気分は吹き飛んだ。
※後書きお知らせ
お久しぶりでございます。
全くもってエターナルしておりました作者です。
自信の詳細を語る場ではないので、あえて割愛します。
やっと小説を書けるモチベーションと環境が整ってきた、といったところです。
本当はオリジナルもバンバンやりたい身ではあります。
ただ、未完のこの作品は完成させてから先に進みたいと思います。
予告ですが、本編自体は間もなく完結です。
残りは短編や、番外編として出すことが多いでしょう。
もともと短編が集ったようなものが原作ではありますが、それを成長物として長編にしておりました。
いったん、完結すべき点が見つかりましたので、そのようにさせて頂きます。
詳しいことは、また次回以降に(完結時にでも)
では、今後もよろしくお願いします。