アスファルトを焼く日射し、乾いた車のタイヤの音。遠くの風景が霞む陽炎に目を奪われる。外では、気だるそうだったり、気合い十分だったりする運動部のかけ声。
効果は乏しいが密かに頑張っている空調の音、働き者の室外機が立てる音。一服の涼をもたらす葉擦れ、蝉しぐれ。
ああ、夏の音がする。夏音は自分の名前の由来を、日本に来て初めて知った。父親が日本を飛び出すまでに聞いて育った日本の音、いま自分が聴いているこの音こそが、父にとっての夏の音なのだと思う。
湿気がひどくて、うだるような暑さ。暑いのには耐性があるが、湿気がプラスされると少し厳しい。日本の夏。
窓際でじっと耳に入ってくる音に感じ入っていた。
「そこの窓際でたそがれてる男! 会議にちゃんと出欠しなちゃい!」
「はーい」
部室で行われているのは、最終ミーティング(それも三回目の)だ。最後の最後、と言いつつも何だかんだと時間を持て余す連中がこの部室に集まってしまうからである。
「まあ、もう話すことなんて何もないんだけどなー」
そんなこと、誰もがわかりきっていたことなので、真面目に会議などしているはずもなかった。ホワイトボードはネタというネタで埋め尽くされ、良い感じに梓と澪のツッコミが響くのどかな空間を作り上げていた。
合宿の場所、日程。持ち物、各自の役割分担。夏休みのライブの日程と練習の日程。その他のお遊びの予定などは一学期のうちに決まってしまった。
夏休みに入った途端、先生方の顔色は余計に悪くなったように見えた。気むずかしい教師は、普段より倍ほど険しい皺を眉間に貼り付け、いまだに我が校では新米ポジションなさわ子などは、そうした周囲の同僚達が放つ居心地の悪い空気に堪え忍びながら、ひたすら自らの外面をキープしているのだろう。
暑さで汗と一緒に厚化粧もろとも剥がれ落ちる日がくればいいのに、と夏音は祈っている。
「ごめん。俺、ちょっとヤボヨウを思い出した」
あまり使い慣れていない単語を出した夏音に視線が飛ぶ。確かに既にぐだぐだ空間だったので、誰かが帰ると言い出してもおかしくはなかった。
「野暮用って、なに?」
「おっと。プライベートなことだよ澪」
誤魔化し笑いで澪に返すと、荷物を持って部室を出た。まさか、これからクラスの男子達と格ゲー大会だなんて言えるわけがない。
★ ★
「飯島くんの~、下心ばくはツア~」
「ばかやろうっ! 人聞き悪いことのたまってんじゃないよ!」
顔を真っ赤にして夏音の口をふさいだ裕也は、きょろきょろと辺りをうかがって人の目を気にする。
「だから、純粋にバンドとしてのお願いだって言ってんだろう。ほら、琴吹さんもこころよく許可してくれたんだしさ!」
「そうだね。厚かましいよね」
「へん、素直じゃないなあ。なんだかんだいって快諾してくれたくせに」
「むぅ」
今回の合宿にいたっては、去年とは異なる面子が混ざることになった。
その面子というのが裕也のバンド「Broken Aegis」のメンバーだ。
この夏、初のツアーに意気込む彼らは、一日単位で区切られたスケジュールでひたすらライブをこなすことになる。
合間にスタジオリハを挟む予定だった彼らだが、とある地方でのステージに至ってはライブハウスの演奏ではなく、お祭りのステージに出演することになるそうなのだが、その街には練習スタジオというものがないそうだ。
そこで渡りに船。今年の軽音部が訪れる合宿場所、つまり琴吹家の別荘がライブ会場がある町へと向かう途中に位置するそうだ。
練習環境完備、風光明媚な海の別荘で、夢のバカンスを過ごす(裕也のイメージ)軽音部の存在を知っていた裕也は、一時間でいいからスタジオを貸してくれと頭を下げてきたのであった。
別にそれくらい何でもない、と二つ返事で引き受けるにも、他の同意が必要だったので訊いてみたところ、全員一致で了承された。
一、二時間程度なら他の用事で時間を潰せるし、困っているのであれば助けるべき、というのが彼女たちの意見だった。
これからライブハウスで対バンする可能性が大いにあるバンドなので、ここで恩を売って、仲良くしておくことはマイナスではない。それ以前にお人好しの人間しかいない。断る理由は端からないのだ。
「しっかし、最近あいつとよく関わるよな~」
律がぽつりと口にした疑問に澪がぴくりと反応していたが、それはさておき、決定事項は揺るがない。
こうして、あっという間に合宿の当日を迎えた。
「あー今年は唯がトラブル起こさなくてよかったな~」
「うぅ、やっぱり言われると思った」
律の棒読みに対してバツの悪い表情になる唯。
全開にした窓から入る爽やかな風を浴びる律はそれでもご機嫌な様子だ。昨年の合宿開始時を思い出して少し憂鬱になったのは夏音も一緒である。半端なく、辛い所行であったのだアレは。
誰もが認める軽音部のトラブルメーカーは、一年間で起こしたトラブルは数知れず。それも致命的なものが多いのが救えない。最近は、それでも最終的にはどこか憎めないキャラで綱渡りするギリギリの人として認識されつつある。
もうあんな思いはしたくないと決心し、いっそのこと最初から車移動を選んだのである。
アメリカではもっと長距離を運転することもある。島国日本がなんぼのもの、と高速道路を軽快にぶっ飛ばしている。
ちなみに、軽音部で夏音が運転する車の速度云々について、とやかく言った者はいない。ハンドルを握る男の感覚が常人とはズレていることを知っているからか、もしくは彼女たちの神経も人とは違うからかは謎だ。
「やっぱり。先輩、どこかしらでトラブル起こしてるんですね」
後輩からの冷たいツッコミに心を抉られた唯は、誤魔化すように梓にしなだれかかる。
「あずにゃん~うひひ~」
「やめてくださいっ! ただでさえ暑いのに!」
梓が本気で苛立ちをにじませた声で体をよじる。クーラーを入れているのに「気分だ!」と窓を全開にしている輩のせいで、車内はやや蒸している。涼しいのは窓際の人間だけ。
「それにしても、サングラス率が高い車内だね」
唯が梓の必死の抵抗を受けながら、ひょいと顔をあげて言った。運転手の夏音だけでなく、ツバ付きの帽子をしてきた律も、おろしたての淡いブルーのサマードレスに身を包んだムギも、助手席で車内の喧噪にノータッチを決め込んだ澪も含めてサングラス常備である。
一種異様な光景である。それぞれが似合っているところが、また人目を引くであろう。
夏音は白人特有のフィット感があり、澪や律はカジュアルな装いが芸能人のお忍びのような雰囲気であるし、ムギはどう見ても避暑中のお嬢様である。
「いいなー。サングラスいいなー。私もしよっかな、サングラス。あまってないの?」
「あまらんだろーふつー」
「いや、あるよ」
「あるんかい!」
夏音はごそごそと片手でアームレストの小物入れを探ると、後ろ手に目当てのものを唯に渡す。
「わあー、ありがとー!」
ミッシェル・エノーのサングラスは、譲二が車内に忘れたままずっと放置されていたものである。
「別に使わないし、なんならあげるよ」
サングラスなら、売るほどある。コレクションしているわけでないのに、出かける先々で父がなくすからだ。たいていは後日、カバンから発見される。
「え、いいの!? わーい! へへへー、どうあずにゃん!? 似合ってる!?」
さっそく装着してみせた唯が梓に顔を向けるが、梓は微妙な表情で顔を逸らして「……お似合いです」とさえずった。
明らかに後輩になめられているのに、唯は気づかずに満面の笑みだ。
「ほぉ~……私、けっこうイケてるかも」
手鏡で確認して自画自賛する唯に向けられた生温かい視線はしばらく続いたが、ムギだけは「唯ちゃん格好いい! 面白い!」と褒めちぎっていた。
そんな微笑ましい車内風景を繰り広げながら、幾つもの峠を越えて三時間半。途中のスーパーで大量の買い出しを済ませ、正味四時間で目的地に到着した。
「腰、いって」
「いつも、大変ご苦労様です」
軽音部一同に拝まれたところで、別荘のお披露目であった。
毎度のことながら、広大な敷地にたたずむ広壮とした建物。そのスケールのでかさに呆然とする軽音部の面々に対し、ムギが申し訳なさそうに一言。
「ごめんね……今年も一番大きいところは借りられなかったの」
どっひぇー。声なき声が揃った。
車を建物の横に置き、トランクも開けて荷物を全て建物内に運んだ。ムギの案内を受けながら、はたして一つの空間が何畳あるのか数えるのも馬鹿らしいくらいに広い屋内に一同は圧倒された。おそらく一行が訪れる前に清掃が入ったのだろう。今年に入って利用するのが自分たちが初めてだと聞かされていたが、内装の至る所までもがぴかぴかに輝いていた。
機材が勢揃いのスタジオに直行すると、そこは完全に演奏目的で作られた防音仕様で、まさに音楽合宿にふさわしい充実っぷりである。
荷物を置いてから、まずはお茶を淹れて落ち着いたところで何をするかという話になった。
「れ、れ、練習しましょうよ! ほら! あんなに立派なスタジオがあるんですから! 私、さっきのぞいてみて、すぐに練習したくなっちゃいました! ね、いますぐに!」
いつもの調子、というには中毒症状が出ているみたいに瞳を輝かせた梓が提案すると、「やれやれ」とため息まじりに声を出した律。
彼女は、素早く唯を視線を交わすと、無駄に色っぽい仕草で「するり」といきなり肌着を脱いだ。
夏音は思わず固まった。梓も同様で、突然ストリップを始めた二名の先輩に目を白黒させている。
べつに彼女たちは裸族になったわけではない。しっかりと中に水着を着込んでいた。いつ仕込んだのだろうか。四時間ほどのドライブ中、ずっと下に着込んでいたなら相当に蒸れたはずだ。
つまり、最初から彼女たちの心はすでに海にあるということだ。
何故かどや顔で梓に笑いかけた二人は、豪快に鼻で笑ってみせると、颯爽と表へ飛び出していった。
「まずは大海原で心を洗い流そうぜー!」
「お待ちになってェー! アハハハハ!」
馬鹿笑いの二人が止める間もなく海へ繰り出していったのを、梓は愕然と見送るしかなかった。
一方、他の者はあまりに予想の範疇で、驚くこともなかった。
「まあ、まずは遊ぶ以外の選択があるはずないよね」
「どこがロックな合宿ですか・・・・・・なんだかとっても嫌な予感がするのですが」
「うーん。まあ、おおむねその勘は鋭いと思うよ」
「や、やっぱりィーっ!?」
梓の叫びもむなしく、とっとと水着に着替えた一同は二人の後を追ってビーチで一日を費やすはめになるのであった。
始めこそゴネていた梓だったが、遊びにつきあっているうちに誰よりも夢中になって楽しんでいた。年相応の無邪気さで戯れる梓に癒されたり、地面に埋められたりしながら、時間は過ぎていった。
「夕日が沈んでいく・・・・・・今日が、終わっていくんだね」
「ああ、今日が終わって明日がくる。おお、過ぎ去りゆく太陽の国よ。明日の私たちは、笑えて生きてるのだろうか」
死ぬほどくさい台詞を吐いた律と唯に、全員が吹き出してしまう。二人の三文芝居はともかく、完全に貸し切りのプライベートビーチで、ぼんやりと沈む太陽を眺めていると、心が穏やかになる。
ここにある、すべて自分たちがつけた足跡。波際の跡は波にさらわれ、形もない。先ほど一時間かけて作成した砂の城も、潮が高くなってきたのか、ぼろぼろの崩れていた。
不思議と感傷的にはならないのは、おそらくこの面子だからだ。この軽音部では、あまり陳腐な感動が起こりづらい。
空気が緩んでしまうからだろうか。少女たちの胸にあるのは、めいっぱい遊んだことへの充足感。皆、それぞれ幸せの余韻を感じているのだ。
こんな時間になるまで、全力で遊んでしまった。夏音はこうなることをあらかじめ予測していたし、三泊四日の合宿はまだまだ続いていく。
一日目の夕日でこんなセンチメンタルな空気に浸ってよいはずがない、と思った。
つまり、現実逃避の時間もそろそろ終わりだった。そろそろ現実に戻すための言葉を誰かが掲げなくてはならない。その役目を担うはずの部長が、自分の世界に入り込んでいる以上、誰かがやらねば。
「(まあ、俺しかいないんだよな)」
基本的にものぐさ集団なのだから。
「さてと。ご飯食べたら、練習しなくちゃね」
「唯! 明日に向かって走りだそう!」
「ういっす! りっちゃん!」
二名、逃亡。三十分の放置の後、すごすごと浜からあがってくるツーショットの写真は、なぜか無駄に格好良い奇跡の写りで、長らく部室に飾られることになる。
★ ★
合宿初日の風呂。少女達は一日の疲れをほぐしながら、まったりとした時間を過ごしていた。
「体にしみるね~」
「風呂は~い~い~」
体を伸ばそうと、泳いでみようとも、いっこうにかまわない。商業施設ばりの広さを誇る風呂ひとつとっても、以前の別荘より明らかにグレードが上であった。
やはり風呂好きの琴吹家当主の意向だろうか、建物の中でも最もこだわりが感じられる。
自慢の風呂では、各々が一日で溜まった疲労をほぐすように憩いの時間を楽しんでいた。
濡れた髪をそのままに肩まで浸かる律は、ジェットバスに身をゆだねて完全に単独リラックスモード。唯は目を閉じて鼻歌を口ずさんで、憩いの時間を楽しんでいる。
ムギと澪は洗い場で、今日一日でたっぷりと海水と紫外線を浴びた自慢の髪をケアするのに余念がない。ただでさえダメージに気を遣っている乙女にとっては、少しの油断が敵となるのだ。
一方。そんな先輩方の様子を湯船の真ん中で立ち尽くして眺める梓の様子に目を留めた唯が、そんな彼女に近づく。
「あずにゃん、お湯が熱いのかな? こーいうのはね、いっそひと思いに入っちゃったほうがいいんだよ!」
先輩らしさを見せようとでも思ったのか、なかなかお湯に体を浸けない後輩の行動の意図を探る間もなく、その小さい肩をひっつかんだ唯は、そのまま梓をお湯に引きずり込んだ。
「イッッッッッ!!!」
しばらく、声にならない悲鳴を上げた梓はじんわりと沁みるお湯に涙を浮かべた。決して愉悦のあまり出た反応ではない。
「し、しみます~!!」
お湯の中でジタバタと足を動かして悶える梓に、
「おっ! 梓もそう思うか! しみるだろー」
梓の言葉の意味をはき違えた律が嬉しそうに良い笑顔を向ける。何より、奔放な本能のままに苦痛を与えた張本人は、相も変わらぬ暢気な笑顔で納得していたようだ。
「お湯がヒリヒリしますぅ~!!」
「あ、日焼けが痛かったのね。ごめんね」
梓は、半日の間にこんがりとウェルダン梓へと変貌した。人間が一日でこんなに日に焼けてよいのだろうかと目を疑ってしまうくらいにこんがりと小麦色の肌ができあがっている。
まるで日焼けサロンに通ったかのように綺麗な仕上がりに思わず拍手が起こったくらいで、昔から紫外線に弱く、日焼けしやすいことがコンプレックスだった梓にとっては、まさに泣きたいくらいの醜態をさらしているのだ。
「それにしても、いーっぱい遊んだよね~あずにゃん♪」
「わ、私はちゃんと練習しますもんっ! 先輩こそ、練習しに合宿にきたってわかってますよね!」
「わかってるよぉ~。あずにゃんマジメ~」
不真面目の塊に言われるとしゃくに触るものである。しかし、いちいち取り合っていても徒労に終わることを学んだ梓は話題を切り替えた。
「ところで、夏音先輩はお風呂どうしてるんでしょうか」
「ん~? たしか風呂はここだけだから、この後に入るんじゃないか?」
「それなら、あまり長湯するわけにはいかないですよね。私、そろそろ出ます。練習の準備もありますし」
「梓はほんっとに真面目だなー」
もはやオッサン化している律の戯言だと思い、梓は聞き流す。もともと熱いお湯は苦手で、どうしたことか軽音部全員がちゃきちゃきの江戸っ子肌で、お湯の温度は高めに保たれていた。
いわく「お湯は熱くないとね! 草津はこんなものじゃなかったよ!」だそうだが、同じ部活動で過ごしていれば嗜好も似通ってくるのだろうかと首を傾げる部分である。
「ずっと運転でしたし。ほんとは一番にお風呂に入りたいはずですよ」
梓がもっともなことを口にすると、髪を洗い終わった二人も湯船に入ってきた。梓は二人の発育のよろしい肢体に目を奪われる。
「そうだな。今日みたいな日に長湯するのもよくないと思うし、私もすぐ出るよ」
「何回でも入れるしね」
いろいろと実り豊かな二人がいっせいに視界におさまったことで、梓の脳みそは沸騰しそうになった。
「あ、お、お二人は何を食べたらそんなに・・・・・・」
「ん? どうしたんだ梓?」
湯に浸かった解放感からか、普段より浮き浮きとした弾んだ声で澪が笑いかけてくる。
「あ、いや何でもないです。なんか、ありがとうございます」
ごにょごにょと口ごもって澪から体ごと背ける。梓は、心技体そろった先輩をもって幸せなのである。邪念を払いながら、お湯に顔半分をつけてぶくぶくする。
「みーおーっちゃんっ!」
助平親父が現れた。声からして、エロいことしか考えてないような人間の顔が目に浮かぶ。
「な、なんだよ律。気色悪い声だすなっ!」
「げへへ、おっぱい触らせて~!」
「おお、りっちゃん。ストレートだ」
包み隠さない欲求のまま、下衆な笑いを浮かべた律が澪に襲いかかった。水しぶきが盛大に飛んで、さらに澪が暴れるものだから、風呂場中に反響する悲鳴も相まって大騒動になった。
じゃれつきあう先輩の姿を横目に、梓はそっとお湯から上がった。
「澪先輩はどうして律先輩とうまくやってこれたんだろう」
スウェットにTシャツという軽装で、梓は脱衣所を後にした。まだ風呂場では騒がしい声が響いている。
こういう時、梓は少しだけ気まずい。先輩方のああいった絡みや、やり取りはおもしろいし決して不快にはならない。
自分も時たまに巻き込まれて、それはそれで居心地の良い空間だ。しかし、自分がその中で調子を崩してずっといるのは、あまりよくないことなのだと思うのだ。
やはり根が真面目すぎるからだろうか。自分には物事を四角四面に捉えようとばかりして、変に悩む性質があるらしいことは知っている。
「まあ、性格だからしょうがないケド」
髪はまだ濡れているが、少し自然乾燥させる。ただでさえ長い髪を本腰入れて乾かそうと思ったら、平気で十五分や二十分はかかってしまう。
気温は高いし、風邪をひく心配もないので、もう少しそのままで。
テラスの方へ出ると、ちょうど心地よい風が吹いた。潮の匂いがまじった、海の風だ。潮騒の音と、蝉の声。
火照った体を冷ますのに、ちょうど良い。
「おや、梓。もう上がったのかい?」
そこには、先客がいた。テラスに並べられた籐椅子に腰かけて、飲み物を片手に涼んでいたのは夏音だった。
「あ、夏音先輩。ほかの皆さんはもう少し浸かっていかれるそうです。私、あんまり長湯できないので、先にあがっちゃいました」
「そうかそうか。梓はあまりお風呂とか好きじゃないのかな」
「そういうわけではないんですけど。昔、のぼせてから長湯はあまり得意じゃなくて」
言いながら、夏音の隣に座る。これまた籐の小さなテーブルには、南国風な色鮮やかなドリンクが置かれていた。
「先輩、これどうしたんですか?」
ねだるつもりはないが、非常に気になったので尋ねてみる。
「自分で作った。綺麗でしょ。この家、ムギのお父さんがお酒好きなのかな。カクテルの材料とかもたくさんあってね。パイナップルジュースとグレープフルーツジュースとココナッツミルクをてきとーにシェイカーで混ぜてね、砕いた氷をたっぷり入れたグラスに注いだんだ。飾りとか、あった方が雰囲気でるし。うまそうだろ?」
「へえー。器用ですね」
やはり、凝り性なのだろう。自分で楽しむだけのドリンクなのに、グラスにパイナップルやらお花やらが刺さって、無駄に豪華な見た目だ。
その見た目は、風呂上がりの人間にとっては大変に魅力的であった。
「すっごく欲しそうにみるね。いいよ、すぐ作れるし待ってて」
声を立てて夏音は豪快に笑うと、立ち上がってキッチンへと向かった。
「あ、先輩。そんな物欲しそうになんかみてません!」
梓がはっとなって言い訳する時には、夏音はすでに中に入ってしまっていた。何かキッチンでごそごそとやってた夏音は、本人の言ったとおりにほんの数分で戻ってきた。
「はいよ。特性のトロピカルなんとかジュース」
「せめて最後までネーミングしてください」
さっと手渡されたグラスはよく冷えていた。二本も突き出たストローに口をつけ、先輩直々のジュースを味わう。
「お、おいしいですっ!」
口にして、本当に驚いた。パインとグレープフルーツの酸っぱさの裏に、ココナッツの甘みがすぐに寄り添って、溶けている。
あまり味わったことのない味である。しかし、文句なしに美味い。早く風呂はあがってみるものだと気分が良くなった。
それから二人してチューチューとドリンクをちびちびすすりながら、静かな時間を過ごした。
梓は自分からあまり話すほうでなく、夏音もわりと物静かな時間が多いので、会話が起こらなかったのだ。
それでも居心地が悪いということはなく、ただ波の音を聴いて過ごすだけの時間があってもいい。そう思えるような時間だった。
風呂上がりの女子数名がやってくるその瞬間までは。
★ ★
「うん。律、良い感じに力が抜けてるね。キックの歯切れもなくなってるけど。なんか、そろそろ死にそうだな」
ふにゃん、と力尽きた軟体生物と化した律がスティックをスネアの上に置く。虫の息の彼女はそのまま幽体離脱してしまいそうなほど弱々しく声を震わせた。
「もーだめだー。オラ、もう力がでないだ」
「あれだけ全力で遊んでたらな」
呆れてため息をつく澪も、疲労が声に滲んでいる。長時間、車に揺られながら潮風をいっぱいに浴びて海水浴。夕食の準備やらでへとへとになっていたのは、律だけではなかった。
皆、まぶたが半分に落ちかけており、唯などは実際に演奏中に寝ていた。
「一日目だしね」
この中で一番疲れている自信がある夏音だった。今の気持ちとしてはそこまで練習を優先させる理由も見当たらないので、寝たい。
練習終わりにとってある風呂にも早く入りたいし、やっぱり寝たい。
「もう、今日は終わり。もうベースとか持ちたくない。重いし」
「仮にも世界的ベーシストが、こんなこと言ってしまうくらい疲れてるってことか」
しゃきっとしているように見えて、体がボロボロなのだろう。リズムを取っているかと思えば、ぶっ倒れる寸前だったりする。
「よし、風呂はいってくるわ!」
ついに限界が訪れた夏音は周りの意見などはなから聞く気もないといった態度で、強制的に練習を終わらせた。とくに反対意見もあがらず、一同は楽器を置いてふらふらとスタジオを後にしたのであった。
★ ★
夏音が風呂に行っている間、女子五人はアイスを食べながらテラスで涼んでいた。緩やかな女子トークに華やいでいたところ、ふと顧問の存在を思い出したらしい梓が澪に尋ねてくる。
「今回の合宿は山中先生はいらっしゃらないんですか?」
「一応は誘ったんだけど、どうかな。場所は伝えてあるし、暇だったら来るんじゃないか」
「そ、そんな投げやりにされるのもどうなんでしょう」
仮にも顧問が。責任者としているべきなのでは、と普通なら考えるのだが、この集団にはそんな常識も当てはまらないのかもしれない。
「明日は飯島先輩・・・・・・でしたっけ? そのバンドの方々が来られるんですよね」
「そうだな。お昼過ぎに一時間ほど、ってことらしいけど」
「ツアーってすごいですよね。たくさんお金もかかりますし、ぜんぶ車で移動するのだって過酷でしょう」
「ずいぶん思い切ったことだよな。ある意味、修行みたいになるんじゃないかな」
梓が感心したような口調で言うのを澪はおとなしく聞いていた。各地で多くのバンドや客と関わり、飛び回る生活。それは大変だろうけど、きっと楽しくてしょうがない。そんな時間になるはずだ。
同い年の少年が、バンドに全力で打ち込んでいる姿は、妙に生々しい。夏音という存在は、次元が違うので比較にならない。
もっと近い。そう、たとえば自分と同じ位置にいるような人間が先に進んでいく姿をまざまざと見送るような、そんな感覚だ。
今の軽音部・・・・・・澪は、そこまで明確な目標がない。しかし、突き動かされるような気持ちは確かに胸の中にあるらしいのだ。競争心とか、そういった感情が芽生えているのだと自覚はないが、澪の中には「このままではいられない」と焦りがあった。
それは、後ろから何かが迫っているからか。前にあるものを追いかけなくてはならないからなのか、よく分からない。
ただ一つだけ言えることがある。ずっと同じ歩幅ではいられないということだ。どこへ進んでいるのかも分からないのに、ずんずんと進むことは怖い。
けれど、のたのたとしていてはいけない。何故なら、自分たちには既に確定してしまっている期限がある。
最近、胸の奥でうずくように奔る感情は、少しずつ大きくなっている。
梓を見つめる。彼女は、とことん音楽に対して真摯で、誰よりもひたむきで、まっすぐだ。
「梓は、将来はプロになりたかったりするのか?」
唐突な質問だったが、ふと訊いてしまう。こんな時だからこそ、だ。いつもと違う空間、違う時間が流れるこの瞬間だからこそ、普段なら恥ずかしいと思ってしまうような話をできる。
梓は澪からふられた話題に少し驚いたみたいだったが、少しうなってからよどみなく答えた。
「とくに考えていないです。将来やりたいことって訊かれても漠然としてます。両親が二人とも音楽にどっぷりな人ですから、大人になってもあんな風に音楽に関われたらいいな、とは思うんですが、お金をもらって、仕事って感じは想像できないです」
「そうかー。梓なら、そういうの狙ってるのかと思ったよ。けっこう自分のスキルアップとかに熱心だしさ」
「それは、うまくなりたいですから。演奏を磨いて、たくさんの人の前でギターを弾いても恥ずかしくない。そんなギタリストになりたいんです。けど、そうですね。澪先輩の質問のように、プロになりたいかどうかって訊かれたら、よく分からないって思うんですけど。プロとかプロじゃないとか関係なしに、いつでも自分の音楽を誰かに聴いていてもらいたいとは思います」
澪は目の前の小さな後輩の言葉に、正直なところ圧倒されていた。一年下の後輩、数ヶ月前まで中学生だった少女の中には、これだけ明確で太い芯がきちんとあった。
自分はこんな風にすらすらと、音楽に対する関わり方を言い表せるだろうか。自分にとって音楽とは、などと殻にこもって考えるようなテーマに挑んで、恥ずかしくない答えは出てくるのだろうか。
澪がぼうっとそんなことを考えていると、梓は当然のように聞き返してきた。
「澪先輩はどうですか? プロを考えてたりするんですか?」
「私? いや、私は・・・・・・」
とっさのことすぎて、言葉につまずく。そして、澪は一度知ってしまった目標との彼我の距離について思い出す。
「ちょっと、遠すぎるよな」
見据えた先には、一つの到着点でしかない答えがあった。澪にとって、これだけのことができるのがプロ、というラインである。
それは、一つの例でしかないのだが。実例、というものを味わったら、それはいつの間にか基準となってしまう。
澪にとっての基準は、とある男のせいで高く設定されてしまっている。
「夏音先輩ですか? 先輩は、また特殊な方ですし」
澪の考えをさらっと読み取ってしまったのか、梓が遠い目でうなずく。澪もうなずく。よくわかる、と。
「だって考えてみてくださいよ。その辺でプロって、メジャーバンドって名乗ってる人たちだってど下手くそな人がいるんですよ。わりとゴロゴロと。純粋な技術だけじゃはかれないものがあるんですよ、きっと」
言いたいことは分かる。澪もその考えにおおむね賛成である。さすがに「自分のほうが上手い!」と口にすることはないが、素人の耳にも「下手だよね」と評価されるプレイヤーもいる。
バンドとしてデビューしたなら、全員がプロとして名乗れるだけの実力を伴っているとは限らない。
だからといって、自分たちがプロになれるわけではないのだが。
「ねー、さっきから何の話してるのーお二人さーん?」
長い籐椅子に横になって微動だにしない死体と化していた律は、ぼんやりと二人の会話を聞いていたらしい。
基本さびしがりやなので、会話に混じりたがるのだ。澪はそんな幼なじみに苦笑して、「真面目な話だよ」と返した。
「澪はよー。武道館いくって言ったの忘れたんかーこらー」
覇気のこもらない口調で言う律に、澪はその瑞々しい唇を寂しげに上げた、
「武道館、か。十年後とかは、どうだろうな」
「遅い! うちらは高校卒業と共にデビュー。なんやかんやで三年以内には異例の武道館公演って決まってんだ!」
「てきとーだなあ。なんやかんやってなんだよ」
しつこいくらいに武道館、と口にする律だが、本人は言うほどこだわってはいない気がする。景気づけ、というか。お約束みたいに。自分たちを奮起させるような魔法の言葉なのだ。
「そういえば夏音くん遅いねー」
ムギと先ほどから楽しげに話していた唯が言うので澪は時計を確かめた。気がつけば一時間ほど経っている。
「夏音先輩、お風呂で寝てたりしてないでしょうか?」
梓が心配そうに眉を落とすが、そんな後輩の発言を笑い飛ばす律だった。
「ありえる! あいつ長風呂しそうだしなー。まず日本に来て、温泉に激ハマリしたらしいよ」
一人、温泉宿で悠々と暮らしていた時期があると話していたことがある。あの西洋人形みたいな容姿から「ああぁ~」とオッサンみたいな声が出ている姿が目に浮かぶようだ。
とことん自分の姿形を裏切る中身だ。
風にあたりすぎるのもよくないとムギが言い出し、一同は中に入った。何となく夏音を待つように駄弁っていたが、どちらにせよ寝るだけだったので、そのまま寝室に向かってしまった。
皆、疲労の限界がきていて、布団に入ってからのお話もなし。波の音を聞きながら、熟睡するまで何か考えていた気がするが、忘れてしまった。
★ ★
翌日の朝は、こなかった。
正確には、朝と呼べる時間帯は等しく全員に訪れなかった。
「んん、いま何時ー?」
「うふふ、十二時」
全員、寝坊。
「いやいや。まさか全員が寝坊するとか思わなかったね!」
夏音が食パンにジャムを塗りたくりながらのんきに笑った。この中で、最も怒りそうな人物が朗らかに笑っているのだ。もう、誰もが笑うしかなかった。
「すっごく損した気分・・・・・・」
暗い表情でうなだれる梓は、早起きしそうなキャラの割に、誰よりも遅くに起床した。それは可愛い寝顔で、よだれで枕をぐしょぐしょにしながら爆睡していた。本人を除く全員の携帯で撮られた写真に証拠として保存されている。
「旅行とか行って寝過ごした感じ?」
律が梓の心境を例えてみたが、梓は返事すらしない。ふがいなさに落ち込むところは、彼女の真面目さを表しているのだが、他が脳天気すぎてやや浮いている。
「もう飯島くんたちが到着するかしら?」
「お昼過ぎって言ってたから、そろそろかもね。迷ってなかったら」
この別荘への道は、国道を外れた道からさらに二、三度曲がるのだが、少し分かりにくい。
もしも道に迷ったら連絡がくるだろう。
「どうせ、あと二泊あるんだから。今回は遊びも考えた日程なんだから、気楽にいこうよ」
「そうだよな! こんなの、ぜんっぜん問題ない」
「だねー。明日のお昼は冷やし中華にしようよ」
どんな事態でも、まるでへっちゃらな先輩達の姿に梓も少しは持ち直したようだ。あまりに楽天的な思考に引きずられただけだろうが、「あ、それでもよい気がしてきた」となってしまうのが、集団の恐ろしいところだ。
「じゃー、あいつが来るのをお迎えしてから、遊ぶかなー。個人的には山の方にも行ってみたい気分」
「せっかくだし山もいいなー」
「私、そう思って虫取り網もってきたよ」
こうして、軽音部合宿二日目が始まった。
いつまで待っても一向に現れない裕也たちにしびれを切らした夏音が裕也の携帯に電話をした。
『あ、もしもし!?』
電話越しに聞こえる気の抜けた声に少しいらっとしてしまった。
「ずいぶんと遅いから電話したんだよ。今、どのへん?」
『いやー。すまんすまん! ていうか、もう着いてる!』
「は?」
『海! ごめん、海だわ! もう辛抱たまらんくて! 海にいんの!』
海! アハハハハー! と言い残して通話を切った相手に、夏音は苛立ちが殺意に変わる瞬間を知ったという。
浜辺の方へ行くと、そこではパン1で海と戯れる集団の姿があった。とりあえず夏音は買い込んであった花火の中から『三十連発!』と書かれた細い筒状のものを選んで、着火した。
「うわちゃちゃちゃ! あぶっ! あぶっ!?」
真夏のビーチ! な光景は阿鼻叫喚の間抜けな地獄絵図に変貌した。
「いやー、グラサンかけたお前が両手に手持ち抱えてる姿みた瞬間はターミネーターに見えたぜ」
「どうして目的地をスルーしてビーチで遊んでるのかな。こっちは時間あけて待ってたっていうのに」
「すまん。それには、抗えない理由があった」
「一応、きいてあげる」
「海がさ。もうさ。呼んでんの。逆に訊くけど、いつ入るの? 今でしょ」
「どうして裕也は裕也なの?」
「すごい。直接馬鹿にされてないのに、何よりも否定されてる気分だ」
こんな馬鹿な会話をしている間、祐也のバンドメンバーは軽音部と打ち解けていた。
「へー。これ全部プライベートビーチなんだね。こんなお嬢様って漫画の世界だけかと思ってた」
「こないだはギター貸してくれてありがとうね」
「ううん。指紋ひとつ残さずに拭いて返してくれたから、大丈夫です」
「あれ、やっぱり嫌われてるのかな。覚えがないけど」
和気藹々といっていい。夏音の説教を受ける祐也はそちらをうらやましそうに眺めていて、その表情は待てをくらった犬のようで、夏音はいっそ哀れに思えてしまった。
「まあ、いいや。俺らもダラダラ遊んでただけだし。スタジオに案内するよ」
彼らBroken Aegisは、男女四人組の編成である。祐也は最年少で、唯一の高校生。ヴォーカルの朱音は十九歳のフリーターで、あとの二人はともに成人している。
リーダーをつとめるベースの女性――砂子貴子――は、高校生といってもおかしくないほど瑞々しい容姿なのに、社会人経験もある年齢らしい。
自然と彼らのお目付役となっているようだが、暑さと長距離の運転でぐったりとしていて、三人の暴走を抑える元気がなかったらしい。
面目ない、と年下の少女たちに頭を下げる彼女は、常識人なのだろう。夏音は「気にしないでください」と笑顔で返した。
「あの・・・・・・もし、勘違いでなければいいんだけど。カノン・・・・・・マクレーンさん、ですか?」
「え」
こちらを窺うような視線に、夏音は驚いて相手を見つめ返した。対峙する瞳は、自信と不安がおりまじった色をしている。
「俺のこと、知ってる・・・・・・?」
「ていうことは! 本物なんですね!?」
ぱぁっと花咲く笑みで、彼女は夏音との距離を縮めた。きらきらと眩しい笑顔に、興奮を隠さずに手を差し出してきた。
「とりあえず握手してください!」
ぽやーっとしてしまった夏音は、すっとその手にこたえる。力強く握り返してくるその手が伝えてくる意志に、夏音はようやく意識を取り戻した。
心がつーっと一筋の涙をこぼした。
「や、やっと! 俺のこと、こんな風に! 最近、自信なくて・・・・・・そりゃあ、日本だったらそんなかもしれないけど。たまに気づいてくれる人もいて! でも、俺にだってファンがたくさんいたもの! 本当だもん!」
いきなり泣き言を繰り出してくる有名人に、普通の人間だったら戸惑ってしまうだろう。しかし、懐が深かった砂子貴子という人間は、おおらかな包容力をもってして夏音を抱き寄せた。
「大丈夫、大丈夫」
おそらく夏音が何を言ってるかよく理解はしていなかったのだろうが、とりあえず軽音部の少女達が持ち得ない母性的な何かで夏音をなだめることに成功した彼女の手腕に、遠巻きに様子を見ていた者達は温かい拍手を送った。
「え、立花が!? プロのベーシストだって!?」
「驚き方が凡庸だね」
「この俺に対して何が気にくわないのかわかんないけど、毒ばっか吐く男が!? Silent Sistersのベース!? もう世界は俺の斜め上だよ!」
頭を抱えて大げさに天を仰いだ祐也。「空が、青い」と訳の分からないことを言っている。
「へー。やっぱり、どっかでみたことあると思ってたんだよね」
朱音が興味深そうに夏音を見ながら言った。企画ライブの控え室で、たしかに彼女は「どこかで会ったか」と尋ねてきた。
「まさかこんなトコロでフツーに高校生やってるなんて思いもせんよ。ていうか、さっきから何で涙ぐんでんの?」
それから場所を移して、彼らの機材をスタジオに運ぶのを手伝う。セッティングをしながら、やっぱり話題は夏音のことから離れなかった。
「へー。そっかー。あんまり想像できないけど、すごい奴だったんだな」
祐也は何様のつもりか知らないが、それでも素直に受け止めている。夏音はクラスメートである彼に打ち明けることができて、少しだけほっとしていた。
こんな風に、驚きながらも何一つ変わることのない態度に救われるような、大げさでなくそんな気分であった。
祐也は自分のスネアをチューニングしながら、他の機材をセッティングしていく。律がその側で珍しそうに見守っている。時折、「これ、どう使うの?」などと質問して、それに祐也が答える。
ライドシンバルと、スプラッシュにチャイナ。基本的にシンプルセッティングの律に比べて、ドラムセットが豪華に見える。
他のメンバーも、各々のセッティングを軽音部の人間に見守られながら進めている。
「で、これからリハーサルさせてもらうわけなんだけど」
準備が整い、いつでも始められる状態になったところでベースを構えた貴子が夏音たちに意味ありげな視線を向ける。
それに気づいた夏音は、「ああ」と頷いた。
「お邪魔かな? 外に出ていようか」
「いや、別にいいんだ。貴重な時間を私たちに恵んでもらってるわけだし。よかったら、見ていかない?」
「え、いいのかい」
「うん。お客さんがいた方が張りも出るし。ね、いいよね?」
貴子がメンバーに問いかけると、あっさりと全員が了承したので、そのままリハーサルを見学することになった。
Broken Aegisというバンドを評価するなら、世界観をしっかり持っていることが最も印象的である。
ヴォーカルの朱音はハスキーな地声が歌うとなると、多彩な色を纏うのだ。クリーンパートでは、清涼感を与えるような歌い方と、艶を出すような歌い分けをやってのける。特別に広い声域を持っている訳ではないが、無理をせず、自分の一番おいしい部分を把握しているのだ。
夏音がひっそりと評価している祐也のドラムは、粗もあるが安定した演奏が根幹にあり、何よりフレーズやたたき方も含めて、魅せるドラマーだ。律にはない部分がたくさんあり、演奏が始まってから、ずっと律は祐也のドラムに釘付けだった。
ベースの貴子は職人気質である。基本的に出過ぎず、支えるベースに徹している。しかし、バンドマスターは確実に彼女だ。バンドの指揮棒を彼女が振っているといってもいいくらい、優秀なベーシストであることは疑いようもなかった。
最後に、ギターの男。
「(彼は、ちょっと違うのかな)」
夏音はじっと演奏を聴いていて、考えていた。ギターの男は、おそらくこのバンドには合わない。
技術や音作り、フレーズともに良いギタリストと言えるのだが、バンドの中でみるとやはり浮いている。
夏音はこう考える。彼は、もっと別の音楽を求めている。
別々の畑から出てきた者達が集い、バンドとなる。そこには可能性があって、ぶつかり合って起こる化学反応がより良いものへと変わることもある。
しかし、いつもそうとは限らない。
水が合わない、といえばいいのだろうか。自分の培ってきた音楽が出せない、または単純に好みではないような時。
一つだけ、どうしても混ざりきれない色は、傍目にすぐに分かってしまう。
手癖をみると、彼がどんな音楽に影響されてきたのか予想できる。それが、現在のバンドの音楽に浸透していないことも。
曲が終わるたび、拍手が起こる。やがて六曲の演奏が終わり、軽音部の面々は興奮気味に次々に感想をまくし立てた。
「すごかったです! やっぱり近くで聴くと迫力ですね!」
梓がぎゅっと拳をにぎりしめて感想を口にする。上気した頬は薄紅色に染まっており、今の演奏に心から感動したのだと分かる。
他の者も爛々と瞳を輝かせていた。確実に彼女たちには良い影響を与えてくれたのだろう。
少なくとも、夏音は演奏中の祐也が格好良く見えてしまったことが釈然としなかった。だが、音楽と人間性は全く持って比例しない事実をよく知っていたので、受け入れることにするのであった。
「せっかくだから、あなた方の演奏も聴けたらって思ったんだけど」
「あ、そうそう。もう一度聴きたいってずっと話してたんだよ!」
断る理由もなかった。合宿にきて二回目の演奏が、他のバンドの前とは思わなかったが。手早く準備を終えて、四人の客を前に遠慮なしの音圧を叩きつける。
とはいっても、ドラムの音量に合わせる必要があるので、ライブハウスで感じるような迫力はない。
しかし、同じ目線、間近の距離。ライブハウスでもフロアライブでもないと味わえない感覚が得られる。
軽音部の音楽を例えることは難しい。様々な思想や価値観が入り交じって曲ができて、それぞれの個性がこれでもかと反映している。その上で上手い具合にまとまっているという、危なげなバランスの上で成り立っているような印象を与えるのだ。
調和、というものを良く使いこなしているといってもいい。時に前に前に出る音があれば、溶け合うように一体となることも。
こんな音楽をやってのけるのが、まだ高校生だということに改めて驚愕していたのが貴子だった。
彼女は表情を変えずに腕を組みながら間近に迫る音の衝動を感じていた。時折、口をにやつかせたりとめまぐるしく展開する曲を楽しんでいるように見える。
他の者も興味深そうに軽音部もとい放課後ティータイムの演奏に釘付けになっていた。特に同級生達の演奏に祐也は真剣な表情で、とりわけ同じドラマーである律に視線が固定されていた。
公平な評価をするならば、祐也の方がドラマーとして優れている点は多い。しかし、確実に祐也にはないものを田井中律という少女は有している。
勢いのあるドラムは前に前に倒れるだけでなく、しっかりと周りの音を拾いながら曲の原動力としての役割を果たす。特にベースに対する集中力が並々ならぬものであることは、分かるものには分かる。
やや力に頼っている感は否めないが、いわゆる曲のツボを抑えたダイナミクスのつけ方は秀逸としか言いようがない。
さらにリズム隊のベース。ツインベースという特殊な形態にも関わらず、曲の土台を確固たるものにしている。澪の安定感は目を瞠るものがあるし、プロである夏音がこなす仕事は次元が異なる。
バンドすべてを見回してみても、驚きの連続であるのに、これが個としてではなく、群れとなって完成されている様はバンドとしての完成度を物語っていた。
終始、目と耳を奪われながら、Broken Aegisの面々は演奏が終わるや否や歓声と拍手を惜しむことはなかった。
「やっぱ、すげぇや」
祐也が率直な意見を漏らすと、それに同調するように貴子が頷いた。
「やっぱり、洗練されてる感じがすごいわ。やっぱりカノンさんが曲を作るの?」
「ううん。曲の骨子は俺がやることは多いけど、みんなで固めていくね。半分以上は共同作業で完成させる感じかな? ムギとか梓が持ってくる曲もあるし」
曲の元があっても、結局は各々の個性が出る形となる。夏音はプロデューサーのような役割を果たしている面もあって、最終的に夏音の色が加わることはあるが、それが曲全体に根本的な色を変えるわけではない。
現在の軽音部が揃える楽曲は、まさに「みんなの曲」といっていい状態だ。以前のように夏音の意見ばかりが押しつけられたようなものではない。
だから、曲をほめられると純粋にそれが全員の評価につながるといってもいい。
「今度、レコーディングもする予定なんで。できたらすぐに渡すよ」
律が照れくさそうな顔を引っ込めようとしながらも、祐也に言った。祐也はそれを聞くと、「うおお!」と雄叫びをあげた。
「買うわ。買う買う! 何曲入りにするの? 今やったやつとか全部入る?」
「い、いやあ。まだその辺はちゃんと話してないんだけどさ」
「あ、俺たちもCDとか出してるんで。よかったら、もらってってよ」
物販はバンドの重要な収入源であると同時にライブに次いで、名を売るためのアイテムだ。バンドの結晶と言ってもいい。
「それなら、こっちも買わせてもらうよ。お互い様だしさ」
「え、マジ? 全部で四枚あってさ。一番目玉なのが、これ。7曲入りで2000円ね。マジ高くついたけど、個人的には超良い出来。次にこれが五曲で1000円。そんで残り二つが三曲入りで500円。この三枚は残念ながら流通されてないんだ」
「「「「「・・・・・・・・・・・・」」」」
数人分の沈黙は、「た、たけえ」である。CDショップの相場しか馴染みがない少女達にとっては、言葉は悪いが「アマチュアバンド」のCDに対する価値としては、高く捉えられてしまうのだ。
しかし、少女達の沈黙をさらりと脇によけた二名の富裕層は平然と、
「あ、安いね。全部ちょーだい」
「私もくださいな」
「毎度あり!」
「毎度あり、じゃない! スタジオ貸して頂いてる分際でお金とるな!」
リーダーにぶん殴られる祐也であった。
穏やかな(?)やり取りが終わったところで、彼らはもう出発しなくては間に合わない時間となっていたので、大急ぎで機材をしまって車に積み込んだ。
ここから車で一時間半と、さほど遠い場所ではないらしい。
しかし、名残惜しむように貴子が夏音を離さなかった。
「あ、あの! それで、あの曲の時に使ってたエフェクトなんですけど! いや、それより『Field of white idiot』の展開なんですけど、アレってどんな音楽聴いたらああなるんですか!?」
勉強熱心なことは良いことだ。しかし、欲のあまり外面をぶん投げてしまうのはやや問題だ。
「はいはい。ほら、いくよ。夏音に迷惑でしょうが」
「つーかー。タカちゃん運転なんだからさ。亀みたいな速度しか出せないんだから、早くしてよ」
他の面子が羽交い締めにして彼女を運転席に押し込むまで、夏音は律儀に質問に答えていたのだが、勢いに押され始めていたところだったので、このときばかりは祐也に心から感謝したという。
「じゃーなー! ほんとにありがとう! 今夜はぶっかましてやっからよォ!」
ハコ乗り状態で調子に乗る祐也の姿に、思わず皆で笑ってしまった。嵐のように過ぎ去った彼らだったが、確実に良い刺激を運んでくれたと誰もが確信していた。
「よっし。練習でもするか!」
律が率先して言い出すくらいだ。モチベーションは上がっていた。この熱が冷めてしまわないように。
のそのそと揃ってスタジオへと足を向ける一同。歩く最中、ふと立ち止まってぼんやりと空を見つめた律に夏音が声をかける。
「どうしたの?」
「ん? いや、なんっっか忘れてる気がするんだけど・・・・・・忘れちゃった」
「そりゃー忘れてるんだもの。なんか律がそう言うと怖いんだけど」
「いや、それもそれで聞き捨てならないんだが。私の勘だと、そこまで大したことではなかったと思うんだけど・・・・・・うーむ。でも、何かを忘れているってことが分かっているのに思い出せないって気持ち悪いなあ」
「そういう時は気にしないことが一番だよ。律は頭に余計なもの詰まってないほうが良いドラムたたけるんだから」
「やっぱり失礼だよな、お前って」
しかし、彼らは知らなかった。この時、律が引っかかった事柄を忘却の彼方に吹っ飛ばしたことで、二日目から合流予定だった彼らの女顧問をガチ泣きさせることになるとは。