※免許に関しては、完全に嘘です。日本においては18歳以上でないと運転できません。したがって、どう足掻いても夏音は二輪しか乗れません。
一般にひきこもり生活というのは、文字通り自分の部屋に一日中こもって出てこない状態を指し示すはずだ。
引きこもった人間は、徹底的に他人と接触するのを拒み、それは家族とて例外ではない。
日中は家族と顔を合わせることを避け、食事は部屋の前に置いてもらう。家族と出会うリスクを回避するため、小用などはペットボトルに。
清潔な者は家族不在の間隙を縫うようにシャワーを浴びる。これらの行為には、殊更家族のスケジュールを把握している必要があるが、うっかり母親と鉢合わせしてしまうことも。
「○ちゃん……!」
「くっ!」
息子は母親を押しのけて自分の城へケツまくって逃げ帰る。
夜中に耳をすませば、ふとドアの向こうに聞こえる家族の嗚咽。
とにかく。これが引きこもりのステレオタイプだ。
しかし、立花夏音においてはその全てが当てはまらない。
彼の場合、ひきこもると言っても学校に行かないという点以外は、実にのびのびとしていた。まさに毎日が休日、という生活。
もっぱら楽器を触るか、作曲。もしくは引きこもり生活中盤からは漫画やアニメ作品を漁るように鑑賞するという循環で一日が過ぎていった。
彼は外に出るのが怖くなかったのだろうか。
もちろん、初めは外に出ることもままならなかった。初めはまさに自宅引きこもり状態だったのが、徐々に表に出るようになったのは、もともと夏音が通った高校が遠く離れていた事が大きい。学校から自宅まで、電車で言うと八区間ほどの距離があったのである。
彼を外に出す要因の一つとして、彼は自らの容姿を隠したことも大きい。
日本ではやたら目立つブロンド色に輝く髪。母親譲りの髪を彼は気に入っていたが、身の安全のために一時的に捨てることにした。どう足掻いても日本人には見えない顔だけはどうにもならないが、眉毛と睫毛の色も日本人にまぎれる黒色にしたのだ。ちなみに、彼が体のどこまでを染めたのかは明らかにされていない。
ぱっと見て元の彼を知る者が目撃しても、一瞬で彼とは分からないくらいに変化することに成功した。息子の変化をそっと見守っていた立花夫妻もその徹底ぶりに感心するくらいだった。
「黒いのも素敵よー」
と母のアルヴィは喜んだのも束の間。「ママとお揃いだったのに……」と悲しみに打ちひしがれた母親を慰めるのに息子は苦心したという。
一方、父である譲二は純正日本人として黒い頭髪を持っていたため、やっと息子が自分とお揃いになったと喜んだことは秘密であった。言葉にすると、妻の逆鱗に触れてしまうからだ。
このように外出することに徐々に躊躇いがなくなってからは、良くドライブなどに出かけることもあった。
というのも夏音はアメリカにいた頃、十五歳でパーミットを受け、日本に来る三ヶ月前に自動車運転免許を取得していた。
免許を取得して一年が経っていたので、日本の学科試験を受けて日本でも公式に車に乗ることを認められた訳である。
夏音の現在の年齢は十七歳。日本では十八歳からの取得になるのだが、驚きの国際ルールである。
ちなみに彼は、自分が軽音部の皆より年上だという事は打ち明けていない。
秘密ばかり抱えている、と夏音は悩む。
いつかこの肩に背負う荷物を下ろせる日を考えねばならないと思った。
両親が自宅に帰っていた時は、親子でよくセッションをして過ごした。
夏音の自宅、高級住宅街にそびえ立つ三階建ての家には広大な地下室が備わっている。あらゆる機材が揃っており、完全防音のスタジオである。夏音の部屋も所狭しと機材が置かれてあり、またこの部屋も防音仕様という充実。
ロハス一家、ここに極まる。
いつまで、この生活を終えようかと考えることもあった。それでも煮え切らない自分は考えを先延ばしにしてばかり。
このまま、アメリカの親友が自分をぶん殴りにくるまでのんびりしていようか。それとも、とっとと元いた場所へ帰ってしまうのもいい。
夏音は考えるばかりで、引きこもり生活を続けていた。
今、夏音はひきこもり生活をやめた。
新しい世界に飛び込むことにしたのだ。
新しい仲間。
軽音部。
「一人で作業はしんどいなあ」
夏音は汗をぬぐってガレージにしまってある大型ワゴン車にせっせと機材を積んでいた。
ギターアンプにベースアンプ。見るからに重そうな機材を車に運び入れる作業は骨が折れる。この場にあるのは小型アンプではない。ヘッドとキャビネットに分かれた高出力アンプである。さらに、500Wのモニターを二つ。小型のチャンネル数の少ないアナログミキサー。その他もろもろ。
結論から言うと、軽音部には最低限のまともな設備が整っていなかった。先々代、いや先々々々々々代くらいの先輩方が遺していった過去の遺物が物置に放置されてあったものの、その機材設備のあまりの悪さに耐えきれなくなった夏音は、自宅から機材を運び入れようと奮起したのである。
唯も澪も、あんな小さなアンプでやるより出力が大きいアンプでやった方が楽しいに違いない。夏音としても、自分が慣れたアンプの方がいい。
ちなみに今運びこんでいるものだけで、総額百万を超える。
こんな高いものを揃えて盗難の心配がないのだろうか。そんな心配も無用であった。
それらのアンプは本命が壊れた時に使用するサブとんでサブであったのだから。
夏音はたっぷり一時間半を費やして積み込みが終わると、へとへとになりながら車を走らせた。
日本の住宅街の狭い道をゆっくり走り、大きな通りに出てからはものの十分ほどで学校に着いた。桜ヶ丘高等学校では、生徒が免許を取得すること、ましてや生徒が学校に車で来ることは原則的に禁じられているので、車は近くの路上に止めた。そもそも、向こうで取ったものは仕方がない。
夏音は併せて持ってきていた業務用の台車を下ろすろと、苦労してそこに機材を乗せた。動いて落ちたら困るので、紐で固定することも忘れなく。
今日は日曜日なので、学校には部活動に来る生徒しかいなかったが、それでもすれ違う生徒から注目を浴びてしまう。
傍目には、重量級の機材を載せた戦車のような台車を押す美少女。なかなかシュールな光景である。
「しまった……階段、ムリ」
うっかり夏音。今さら頭を抱えても遅い。自らの浅慮な行動を悔いたところで、フォースを使えるようになる訳でもないのだ。
夏音ががっくり膝をついて途方にくれていると、ぶっとい胴間声を響かせて走ってくる集団が廊下の向こうに現れた。胴着を着た少女達の気合いがこちらまで伝わってくる。
(柔道部、かな)
柔道部という事は、それなりに力があるはずだ。少なくとも、自分なんかよりは。
「ま、待って! そこ行くお嬢さん!!!」
凄いスピードで通り過ぎようとする集団に、声をかける。
良く抜ける声は、無視する事を許さない。真っ直ぐに鼓膜を揺らして、相手に届く。
すると、先頭の主将らしき少女(二の腕だけで夏音の腹より二回り大きい)がその顔面に大量の汗と戸惑いを浮かべて立ち止まった。ぐったりした様子で床に女の子座りしている美少女が突然声をかけてきたのだ。困惑するのも無理はない。
ほとんどのエネルギーここまで来るのに使い果たした疲労紺倍の夏音はまるで薄倖の美女のように映り、物語に出てきそうな少女の様子に顔を赤らめる者もいた。
しかし、視線をずらせばとんでもねー量の重量機材。果たして、この組み合わせは何だろうと首を傾げるのも無理はなかった。
「なんだっ! この柔道部主将・範馬魔亜娑にいかなる用向きだというのだ……む……ウハッかわええ子」
黒帯をぐいっと締めて主将らしき少女が夏音を見下ろした。言葉の最後に危険な単語が潜んでいた気がした。
あえて突っ込むのはよそう、と本来の要件を思い出した。
「すいません……助けてください」
「な……っ!」
かろうじて細腕で体を支える夏音。もはや女の子座りから浜辺の人魚のような姿勢になっていたが、その実、乳酸がたまった腕が痙攣を起こし始めていた。立ち上がろうとして手を使ったのはいいものの、全然体を支えられない。
すると、生まれたての仔牛のようにプルプルと立ち上がろうとする夏音をがっしりつかむ腕があった。
「む?」
ふいに自分の腕を支えるように手を伸ばしてきた魔亜娑の顔を不思議そうに見詰める。
「私達にできることがあるのならば……何でも言うがいい」
彼女の瞳には熱く濡れるものがきらめいていた。それだけでなく、鼻から二筋垂れる赤い線が目に付く。鼻血だ。彼女は自分をじっと見詰めて何度もうなずいている。
「何か顔から色々噴き出てますよ」
「今にも折れてしまいそうな美少女が震える体に鞭打って何かを訴える……これで心動かされずにいられるだろうか!」
「はぁ、そう……」
変態である。最近、変態によく遭遇するなと思った。
気にくわない単語が幾つか飛び出たが、その前に魔亜娑が掴んでくる腕の力が気になった。それ以上力をこめられたら折れそう。
「何でも言ってくれ美少女!」
「そ、そう。ならお言葉に甘えて……えーと、この機材を音楽準備室に運ばなければいけないんだけど、頼めますか? あと美少女じゃなくて……」
「おう一年コラ!」
「押忍!!!!!」
とんでもない音圧ある声が響く。思わず、夏音の肩がびくっと跳ね上がった。
「これも練習の内と心得よ! この今にも根本から折れそうな美少女を手伝ってさしあげるのだ!」
「押忍!!!!!」
「いや、根本から折れるって……だから俺は女じゃなくて……」
「可愛いあの娘は」「えんやこら!」「美女のためなら」「えんやーこら!」
生まれてくる性別を間違えているのではないか、と夏音はゲンナリと機材を運び出す彼女たちを見て思った。
「あの……ありがたいけど、慎重に扱ってください……」
夏音は音楽室に全ての機材を運んでくれた柔道部の面々に礼を言った。深々と頭を下げると、そんな礼とかはいいから連絡先を書いて寄越せと言われた。完全に下心じゃねーかと、丁重にお断りした。
機材を配置する。懸念していた電源の位置や数の関係も、特殊なケーブル、トランスをもちこんだので問題なかった。
しばらく作業をして、楽器を演奏する部活らしい部屋になったと夏音は満足気に部室を見渡した。
「明日、みんな驚くかなー」
うくくっと笑みをこぼして部室に施錠をして帰宅したのであった。
後日。
週明け。
放課後。
軽音部の部室にて。
「ぎゃ、ギャーーっ! な、な、何じゃこりゃー!?」
わくわくしながら一番乗りで部室にスタンバイしていた夏音は最初に訪れた律の反応を見て、悪戯が成功した少年みたいに笑った。
「昨日、持ってきたんだ!」
「これを、一人でか!?」
「そのとおり!」
開いた口が塞がらないといった様子でわななく律を見て、ますます夏音は踏ん反りがえった。
「軽音部の設備があまりにひどいもんでね。家から持ってきちゃったんだよ」
「これ、これだけでいくらだよ……」
律はふらふらと椅子にへたりこんだ。
「他の皆が来るのが楽しみだなー」
その後、ムギは一人でこれだけ揃えた夏音を手放しにねぎらい、澪はあまりの光景に気絶しかけ、唯はよく分からなかった様子で「すごいすごーい」とはしゃいだ。
機材投資は、夏音にお任せ。
※幕間は、割と毛色の違った感じになります。これから度々、たぶん四つくらい幕間が差し挟まれますが、本編に重要な事も書いてますので。
それと、フォレストの方のと同じ流れにするつもりですが、文章などを修正してこちらに投稿するので、こちらの方が完成版に近いつもりです。