友人・知人からの鬼電鬼メール(とくに堂島めぐみによる熱い文面)に、色んな意味で少しだけ涙した夏音は、夢を見ていたような感覚を早々に脱ぎ捨てなくてはならなかった。
成田空港の国際線ターミナルの中を歩いていても、まだそこが日本だと実感できなかったが、やがて見慣れた街並みを目にした瞬間、日本に帰ってきたのだと理解した。
「蒸し蒸ししてるし、蝉がやかましい。まちがいなく日本である」
別に蝉しぐれを嫌うわけではないが、この独特な大合唱はここが日本だという何よりの証拠に他ならない。
自宅についてまもなく、ようやく決心がついた夏音は軽音部全員に順繰り電話をかけた。帰国の報告と、大雑把な事情をかいつまんで話したが、驚くことに誰一人として夏音の事情を知らぬ者はいなかった。
それどころか、中継を皆で見ていたというのだから、まるでみぞおちにカウンターを食らったみたいに息が止まってしまった。
律いわく、『おー。見てた見てた。テレビで見てた。やっぱりテレビに映るとちょっとだけ太く映るってほんとなんだなー』であり、澪は『マーク・スループと共演してたよな。あの時の音があそこで流れてるんだと思うと不思議だったよ』とのんびりした口調で言い放った。
他も同様。唯やムギにはテレビ出演に対する感動を言い表すコメントを集中的に浴びせられた。
同級生がテレビに出た、というのは事実としては正しいが。友人がバラエティ番組にたまたま出演した時のような反応に何とも言い難い気分にさせられてしまった。
とはいえ、何の連絡も入れずに放置していた非礼が夏音にはあった。
この件についての謝罪だけはきっちりしておかねばならない。
幸いにも夏音の詫びの言葉に対しては、これといって咎めるようなリアクションはなく、ようやく夏音は人心地がついたのである。
後はお詫びの印として、何かスイーツでもたんと見舞ってしまえばよい。
★ ★
「夏音くんさ。僕の勘違いでなければの話だけど、ニュースに出ていなかったかな」
七海はおそるおそる訊ねてきた。
帰国した次の日、午後から登校した夏音を発見した彼は、誰よりも先に声をかけてきた。
前回あんな事があったのに、長らく休む夏音を心から思いやる長文メールを送ってきた友人をないがしろになどできなかった。
帰国の知らせはしたが、具体的な話はまだ何一つしていない。
「そうかな? こっちのニュースはチェックできなかったから。もしかしたら、そうかも」
「かもって・・・・・・お葬式って言ってたけど」
「うん、そうだよ。ジャニスは俺の古くからの知人なんだ。学校の先生は俺がアメリカにとんだことは話したんでしょ?」
「うん。向こうの親戚が亡くなったから、一時的にって話。クラスの中でちょっと話題になったよ」
「突然だったから、持つものも持たずに飛び出たよ。それでメンフィスまで行ったんだ。すると、そこで集まったミュージシャン達で世にも盛大な音楽葬をやろうって話になっていてね。気がついたら車の上でベース弾いてた」
簡潔的に話したつもりだが、七海は明らかについてきていない。ぽかんと口を開き、埴輪のような表情で固まっていた。
「度肝が抜かれたよ」
「どういう意味だい、それ」
「びっくりしたってこと。じゃあ、やっぱりアレは見間違いなんかじゃなかったんだね。ニュース自体は三十秒くらいだったし、君の姿も一瞬しか映らなかったけど。やっぱり普段見慣れた人の姿っていうのは、見逃さないものだね」
何故か感心したような口調で言った七海だった。日本での彼女の扱いがどんなものかは知らない。遠い土地で行われた葬式が日本のニュースに流れるのは、どこか不思議な気もした。
「でも、もしかしたら他にも気づいた人がいるかもしれない。君はできるだけそういうの広まって欲しくないんだろ?」
気遣うような視線に夏音は少しだけ頬を上げる。こういう心遣いが純粋に嬉しい。
「ううん、もう大丈夫。そんなに気にしてないんだ。今の俺がどこから来ていようが、何をやっていようが、変わりないだろうさ。ねえ、考えてみてよ。ビリー・シーンの名前にぴんと来る人がこの高校にどれだけいると思う? それより遙かに知名度が低い俺なんか、って感じだよね考えたら。
そりゃあ、ちょっとは話題の人になれるかもしれないけど、それもすぐにおさまるだろ。だから、大丈夫! 気にしていないよ。ありがとう七海。そのことが気がかりで話してくれたんだろ?」
「・・・・・・・・・何か、あれだね」
「なに」
「ちょっと変わった気が・・・・・・うーん、それもおかしいか。吹っ切れた感じがするね」
七海の目はごまかせないらしい。夏音は、面白くなって聞き返した。
「へえ、見ただけでわかる? どれくらい?」
「ううーん。こう、ひしひしと感じるよ。吹っ切れたオーラが」
どんなオーラだ、と突っ込みたくなったが、彼はいたって真面目である。茶化すのも憚られて、大人しく首肯した。
「おっしゃるとおりだよ。ちょっと前までうじうじと悩んでたけど、全部吹っ切れた。こないだは悪かったね、七海」
「僕の方こそごめん。ずけずけと君の事情に突っ込んだこと言っちゃって」
「そういう所が七海らしいんじゃない。気にしないでよ」
「ううん。やっぱり僕は口だけな部分が多いし、正しいこと言った気で人のこと傷つけちゃうような子供だと思う。あの時の君は確かにうじうじとウザかったし、じめじめしてた」
「じ、じめじめ?」
「もうキノコ生えるんじゃないかってくらい。なんか耐えられなくなって、ちょっと怒ってたかも」
確かに物言いはきつかった。やっぱりあの時は怒っていたのかと納得する。
「他人のために怒れる人ってそういないよ。ましてや本人に対してね。やっぱり君はすごいよ」
「そう言う君も相変わらずこっぱずかしいことを平然と口にするなあ。こっちはシャイな日本人代表みたいなものなんだから」
「ふふっ。だから、だよ」
「君、やっぱり僕のことからかうの楽しくてたまらないんだろ?」
「わかった?」
「このやろう・・・・・・」
こうしてささやかな諍いは終着した。
一つ抱えていたものが肩からおりて、夏音は気が楽になった。だから、このままの勢いで残りの方を片付けることにした。
「俺、みんなと一緒に卒業できない」
大事な話がある、と放課後に集められた軽音部の面々は出し抜けに放たれた言葉に愕然とした。
夏音は一人だけ席につかずに、机の前に立っている。誰もその内容に対して口を開けないでいる内に、彼は続けた。
「結論からはっきり言うべきだと思って。びっくりさせたと思うけど、たぶん俺はこの学校を卒業できないと思うんだ」
「た、たぶんってどういうことだ?」
驚愕を顔に貼り付けたまま、澪がようやく質問をした。
「それを今から説明するね。俺はこの先、学生っていう身分になることはないと思う。絶対、と言い切ることはできないけど、つまりはそういう道に進むってこと。実は、ずっと前からポール・・・・・・Silent Sitersというバンドのヴォーカルをやっている人にバンドに誘われているんだ。前に俺が加入していたバンドなんだけど、それは決して悪い話じゃない。
彼とは一昨日の夜に電話で話して、俺の意志を伝えたよ。もちろん入りたいといってすぐに加入できるわけじゃない。彼も俺の事情を最大限考慮してくれるつもりだし、まだ確定ではないけど正式に加入するのは再来年くらいかな」
「そんな先の話・・・・・・」
律の呟くように漏らした一言を夏音は拾う。
「そんな先の話、なんだ。バンドは今も活動中で、今のベーシストだっている。アルバムを制作する時期、ツアー。そういう予定を考えた上で、その時期がベストなんだってさ」
あまりに現実味のない話に、皆一様にぼんやりとした表情をしていた。アメリカから帰ってきたばかりの友人が、突然デビューの話を持って帰ってきた。
つい先日まで、軽音部のライブの話や、これからの合宿の話などをしていたこの場所で。
彼の語る全てが何かのイレギュラーとすら感じるのであった。
夏音は、皆がついてきていないと分かっていても、なおも話を続けた。
「ギリギリまで学校に残っていたとしても、卒業できるか怪しい。学年末のテストも受けられないだろうし、出席日数だってどうだか。まだ本気で検討したわけじゃないけど、それならいっそ潔くって考えもある。だから、たぶんって言ったんだ。
それで、俺はカノン・マクレーンとしての活動も再開するつもり。こんな俺でも待ってくれている人が確かにいて、いきなり別のバンドのベーシストとして復活っていうのはおさまりが悪い。だから、順序としてはこちらが先だろうね」
「でも! そんな二つ同時に活動なんてできるんですか?」
「そうだね、梓。とても難しいだろう。無茶に違いない。けれど、俺はやらなきゃ。俺は休みすぎたから、どんな手でも俺が復帰したことを大々的に知らせるには、これが一番なんだよ」
夏音が言っているのは、こういうことだ。カノン・マクレーンという単体で復活するより、話題性のある出来事と一緒に活動を再開した方がよい。極端に受け取ると、バンド加入をえさにすると言っているようなものである。
「汚いって思う? でもね、これはポールがくれたチャンスなんだ。俺以外にも彼のお目に叶うベーシストなんて山ほど・・・・・・はいないかもだけど、いるんだ。俺が特別飛び抜けているってわけじゃない。それでも、彼は俺を選びたいと言ってくれた。
俺は、その気持ちに応えたい。生半可な覚悟じゃできないけど、俺は、やりたい。やれることなら、何でも」
その声に、逆らえるものはいなかった。すでに覚悟を決めた人の意志を、覆すだけの言葉を少女達は持っていない。
唇を噛みしめて、どうしようもない感情を横にやることもできずに、黙っていることしかできないのだ。
「ちょっとくらい忙殺されるだけで不可能ってことじゃないよ。実際にバンドとソロを幾つも掛け持ちしている人は少なくないしね」
何のフォローにもなっていないが、それを聞いた一同は「そうなのか」とほんの少しだけ納得してしまった。
頭が混乱していて、彼女たちには彼の話が何も具体的ではない。たたみかけるように押し寄せる情報に対して、それぞれの感情が出入りして、それどころではないのだ。
「ちょ、ちょいターイム!!」
「はい」
大声でしんとした空気を打ち破った律に、ぎょっとした夏音だったが、かろうじて頷くことはできた。
律は立ったままの夏音に複雑な目つきを投げかける。
「ま、まあさ。色々と、さ。とりあえず座って話さない?」
ムギが淹れてくれたお茶を飲んだところで、誰かがほっと一息ついた。
「ふう」
そのため息が、ある意味その場の人間の気持ちを見事に表していた。探るような気配に少しだけ疲れていた時分、律は絶妙なタイミングで場の空気を変えたといえよう。
「それで? 夏音は再来年からプロ活動に戻る。そして、卒業はできない(未定)ってことか」
「あってます」
「永遠の中卒ってこと?」
「そう言うと聞こえが悪いけど・・・・・・あれ、俺って中卒になるの?」
「「「「「いま気づいたんかい)」」」」」
驚いてつい立ち上がった夏音だったが、わなわなと震えた後、座り直した。額に手をあて、瞠目している。
「マジか・・・・・・中卒・・・・・・考えてなかった。流石になー、中卒は・・・・・・いや、別に学歴が関係ある世界じゃないんだけど、それでもやっぱり」
「おーい、そろそろ自分の世界から帰ってきてくれー」
律が呆れまじりの笑いを浮かべて夏音を肘で小突く。
「やっぱりどーこか抜けてるなー」
「夏音くんらしいよね」
「唯に言われたくないよ!」
「なんで私に!?」
それについては、さもありなんと思った一同だったが、先ほどまで揺るがない意志のオーラを放っていた人物の姿が立ち消えてしまったことに少しだけ気が緩んだ。
「ねえ。夏音くん来年いっぱいはここにいるってことなの?」
「おお、そうだムギ! そこらへんきっちり吐いてもらわないと」
「別に隠すつもりもないし、しばらく吐きたくはないよ。それも説明するつもりだったけど、ていうかここからが本当に伝えたかったこと」
一度切り、紅茶を飲み干した夏音はすっと背筋を伸ばした。
「俺は、必ずいなくなる。少なくとも、みんなが卒業してから後・・・・・・梓は在学してるだろうけど、その時はカノン・マクレーンとしてどこかのステージの上にいると思う。だけど・・・・・・それまでの間、ずっとここから離れたくない」
真っ直ぐな瞳が順番に少女達の顔を捉えていく。
「もう、後悔したくないから。今、手元にあるものをもっと大事にしたい。本当にここが大事なんだ。できれば、ずっとこのままでなんて考えたこともある。それくらい、この場所が好きだ」
そのストレートな表現に、動揺が波のように広がっていく。全員が固まっているのにもお構いなしに夏音は口を閉じない。
「自分に酔って言ってるわけじゃないんだ。心の底から、ここへの愛着が抑えきれない。俺は途中でいなくなる。それは今までみたいに、いつ起こってもおかしくないことじゃなくて、ここを去る時を決めたから……しょうがない我が儘だってことくらい理解してる。でも、図々しいかもしれないけど、それまで俺をここにいさせてくれないかな」
そう言って夏音は頭を下げる。
「できるだけ、軽音部の立花夏音でいたいんだ」
こんな風に頭を下げることではないのかもしれない。夏音は、こうして彼女たちに自分が去ることを告げる瞬間を何度も、それこそ数え切れないくらい想像したことがある。いつしか癖になってしまうくらいに。
その、ほとんどのイメージは最悪なものだった。想像の中の自分は、常にやましい心を内に持っていて、こんな風にすがすがしい気持ちで打ち明ける瞬間など来ないと思っていた。
自分の言葉で語れる。信念のもとに偽ることなく、自分の決断を彼女たちに告白することができるその瞬間が、目の前にある。
「は、は、はずかしいやつ・・・・・・」
澪が顔を真っ赤にして震えていた。その半分は怒りの色とも取れたが、口をぱくぱく動かすだけでどうやら続きが出ないらしい。
澪の反応をどう受け取っていいやら夏音が戸惑っていると、律が夏音の頭にチョップを入れてきた。全く痛くない、ただ触れるような勢い。
「と、澪閣下はお怒りだ」
「怒ってたの!?」
若干、涙目である。そういえば怒ったら少し泣くタイプだったか、と夏音が暢気に思っていると、次の手に意識を奪われる。
「夏音くん考えすぎよ」
ムギがにっこり目を細めて笑いかけてくる。その笑顔にどこかうすら寒くなるようなものを感じた。
「だめよー、もう? 夏音くんっていっつも独走っぷりがすごいんだもの。そっちの意味で、ついて行けなくなりそう」
「そ、それはどういう意味かな」
「独断プレイで先突っ走ったあげく、自爆するタイプってこったろ」
「りっちゃんそれは言い過ぎ、かも?」
「言い過ぎってことはニュアンス的には合ってるってことだろー?」
女子二人の会話が恐ろしかった。そんな風に思われていたのかとショックなのと、先ほどから律のチョップが激しさを増してきていることに耐えられなくなった。
「痛いってば!」
夏音が強めに言うと、ぴたりと止んだ。
「でも、私もムギの言う通りだと思うし。いつも勝手に盛り上がって落ち込んでたりするし。進歩なし!」
「り、律先輩が辛口だとすごく新鮮です」
「なあ、梓もそう思うだろ!?」
「わ、私ですかぁ!? いや、私としては・・・・・・先輩の復帰は喜ばしいことだと思いますし、一緒にいられる時間が増えるのは良いことではないかと・・・・・・」
「はぁーあー」
「あ、あからさまなため息を!? 私、何かいけないこと言っちゃいましたか!?」
狼狽する梓に律は苦笑して手を振った。
「いやいや。まずくないし、合ってるよ。私らだっておんなし意見なんだけど、さ」
ちらりと夏音に視線をやってから、面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「懲りない男をもう少しいじめないと、腹がおさまんねーって感じ?」
律の言うことをいまいち理解できなかった梓だったが、他の先輩達が揃ってうんうんと頷くのを見て、首を傾げた。
「どういうことですか?」
無理もなかった。梓は、夏音との関わりも他の者に比べて薄い。たかが一年かと思えば、そうではない。軽音部は、彼女たちは非常に濃い一年を過ごしてきた。
何度も衝突もあった。その度、彼女たちは学んだのだった。
夏音は、以前から一人で抱え込むタイプの人間だった。抱え込むことで、他者との問題が発生することを学んだはずだったのに、またしても同じことを繰り返している。
そのことに彼女たちは腹が立っているのだ。
「何かあるなら最初から話してよねー夏音くんってやっぱり秘密主義だなんだもん」
唯にまで批難される始末。夏音は、どんな言葉が返ってきてもよいと覚悟していた身でありながら、だいぶ打ちのめされていた。
どこかで、彼女たちは受け入れてくれるという甘え考えが微塵もなかったとは言えない。
しかし、自分の想像以上に彼女たちは物事を深く考えていたらしい。
「夏音くん、私にヴォーカルやらせようとしたよね。何で私? って思ったし、褒められたから何となく続けてたんだけど。やっぱり、どこかおかしいなーって思ってたんだ。あずにゃんが入ってきて、ギターが増えて、澪ちゃんは相変わらずベースで。夏音くんはギターやったりベースやったりで忙しくて・・・・・・えっと、つまりね」
言葉に詰まる唯に助け船を出したのは澪だった。
「気づかれてないとでも思ってたのか? お前がいつ軽音部を抜けてもいいように、私と唯にヴォーカルやらせようとしたこと。それで、梓にはリードのポジションをやってもらって完璧だ! とでも考えてたんじゃないのか?」
図星をつかれた時のショックは大きい。その発想が思い浮かんだ時の自分の喜びの声すら言い当てられ、言葉を失ってしまった。
「私も、アレンジに無理があるかなーって思うことがあったんだけど。やっぱりそういうことだったのね」
「確かにムギの音数減らしたりしてたもんな」
「ここはアコギの方が、とか無茶言ってたよな」
「あ、それは私も思いました。それでもきちんと良い曲になるから凄いんですけど、やっぱり私が入ったから構成が難しいのかなって・・・・・・」
夏音は観念したように、天を仰いだ。自分はどうやら想像以上に甘かったと気づいた。
「ま、まさかそこまでバレてるなんて」
「ばれるもなにも」
「隠しちゃアカンぜよ」
唯と律に重ねて言われ、夏音は静かに「はい」と返事した。
「四方から攻撃がくるとは・・・・・・」
少しだけいじけたくなった夏音だったが、立場を思い出してぐっと堪える。
「でも、ま。これまで通りによろしく」
「え?」
律がさらりと言った言葉に思わず間抜けな声が出る。
「だから! これまで通りにって言ったの!」
「お、おおう」
「微妙な反応だなー。何を気張ってきたのか知らないけど、本当に私らがそれでお前を追い出すって思ったんじゃないだろーなー? もしそうなら、田井中指点心流秘奥義の餌となってもらうが・・・・・・」
パキパキと腕を鳴らす律。何の漫画の影響かは知らないが、どこか不吉な響きである。
「いや、何だかんだで受け入れてもらって終わりかと・・・・・・」
「あっまーい。夏音くんあまーい!」「唯に言われるとむかつくなあ」「え、今なんて?」
そんなやり取りをする三人を温かい目で見守っていた澪、ムギ、梓は大人しく紅茶をすする。
「男ってそういうとこあるよな」
「ああ、何となくわかるかもしれません」
「そうなの?」
「あるある。もう、いらん所で突っ張って結局まわりに迷惑かけるし」
最早、夏音というより男という生き物への文句である。年相応な意見かどうかは怪しいが、彼女たちなりに男に苦労をかけさせられた覚えがあるらしい。
「でも、すごく楽になった。そっちもだろうけど」
律がくだけた笑顔でそう言ってくれた。その通りである。
夏音は、楽になりたかった。ずっと秘密を抱えたり、隠し事をするのは負担になる。自分でもなかなか気づかないうちに積み上がっていった不安が、最近では目に見えていた気がする。
隠し事をするにも、自然と態度に出してしまう未熟さが悔しくて仕方がなかった。
いっそ全て話してしまいたい。夏音は、この生活の中で、自分が抱えていた最も重たい荷物を肩から下ろしてしまいたかったのだ。
打ち明けると決めた時は、不安はなかった。何か大きなものに背中を押されているような安心が心に満ちており、もやがかかった未来へ踏み出すのに躊躇いはなかった。
「まだ先の話っぽいけど、これからも今まで通りによろしく!」
気取らない笑顔で言う律に夏音は少しだけ涙腺が緩むのを感じた。やはり、何の心配も必要はなかったと知る。
こうやって自分に向けてくれる笑顔が、待っていると信じていた。
その人の顔を頭に思い浮かべた時の表情を、実際のその目で眼に入れた時の喜びは何物のにも代え難い安堵をもたらす。
短い付き合いの中で、夏音は彼女たちの様々な表情を見てきた。その中で、思ったことがある。
この笑顔でずっと付き合えるような、そんな時間を過ごしていきたい。そう遠くない先に終わってしまう時間でも。
「お、おいおいおい! な、なんで!? 私、なんか悪いこと言っちゃった?」
律が急に慌てるので、不思議であった。よく見ると、他の者も何故か泡を食ったように立ち上がっては、夏音に詰め寄らん勢いで凝視している。
「ど、どうしたのさみんな?」
「どうしたって……夏音、ないてゆ」
動転のあまりか、律が噛んだ。
「泣いてる?」
その言葉の意味が少し遅れて届き、手を頬に当ててみる。
「あれ……ほんとだ」
目頭が熱くなったとは思ったが、まさか泣いているとは思わなかった。気づかない自分も大概だが、周りの慌てようにもどうかと思う夏音であった。
「ごめんごめん。そんなつもりは一切なかったんだけど、勝手に出ちゃったみたい」
「勝手に出るものかよー? ほら、ティッシュ」
「ありがとう」
律に差し出されたティッシュを受け取り、鼻をかむ。
「いや、お恥ずかしい」
「夏音くん泣き虫ー」
唯の言葉に笑いがあちこちで漏れる。もう面目など、夏音には残っていなかった。これだけ恥ずかしい所を見られているのだから、何も取り繕うべきものはない。
「あの、それでまだお願いしたいことがあるんだけど。俺、もっとみんなとライブやりたい。俺も外のライブハウスでやりたいんだけど、どうでしょう?」
虫が良すぎる気もした。つい、こないだ「俺は元プロだからね。お金払ってまでやりたくないよ。君たたちだけでやったらどうなんだい?」と言ったも同然なのだから。
おどおどしながら、彼女たちの回答を待つ夏音に対して、少女達は互いに顔を見合わせた。
それから、誰ともなく小さく吹き出す。
「夏音くん、おかしーい」
ムギが笑い混じりの声を出した。きょとんと目を瞬かせる夏音に今度は澪が、こちらは少し呆れたように夏音にきつい眼差しを向けた。
「やっぱり分かってないじゃないか」
「ほんとーあずにゃんもなんかガツンと言ってやりなよ」
「え、私がですか!? あ、えと……夏音先輩、僭越ながら言わせて頂くと……先輩少し頭がおかしいです!」
「え」
「あ、じゃなくて! 私、そんなこと言うつもりじゃ! 先輩がそんなこと頼むなんて、逆で! こっちこそお願いするくらいなのに、なんておかしいことを言うんだろうって、あれ? 私、やっぱり失礼なことを!?」
「さ、流石に落ち着け梓ー!」
律が笑いをこらえながら梓を宥める。こういった反応が面白くて仕方がないという本音が丸見えだが、テンパって目を回す梓に場が一気に和んだ。
これが後輩パワーか、と梓をのぞく全員がちょっとだけ感心してしまった。
「ほーら、梓でも分かることなのに、鈍いやつめ。何でもかんでもさー私らがいつ『だめ!』って言ったんだよ? もう、なんかやりづらくてしょーがないわ! 我が儘で、隠れ俺様で、永遠の末っ子気質のお前がいちいち下から窺うように接してくるのとか、何の冗談って感じだよなー」
「うん、それは何となくわかるな」
澪が大きく頷く。一人っ子の上に、実際に常に年下の扱いを受けて育ったのだから、仕方ない話ではあった。
自覚があっただけに、その指摘に胸に痛い夏音である。しかし、ただ言われるがままも納得できず。
「り、律に我が儘って言われたくないな」
「アラ口が減らないでちゅねー」
かすかな反論も、軽くいなされるだけであり、夏音は膨れた。
「何、じゃあやってもいいってこと!?」
「なんで半ギレなんだよ!?」
「もう夏音先輩のキャラがもう分かりません……」
めまぐるしい展開に梓の混乱もピークに達したようだ。「うきゅ~」と机にうつぶせになった梓の頭に澪の手がぽんと置かれる。数少ない良心とその優しさが染みいる瞬間であった。
夏音はどうやら自分がまどろっこしい選択をしていたことを、ようやく理解した。
「じゃあ、やるよ。やるからね」
「あいあい。じゃあ、もっかいヴォーカルたのむなー」
「いいえ。ベースをやります」
「はあ?」
「俺、ベース、やる」
「ま、待って! それはだめ!」
澪が猛然と抗議を入れる。当然である。彼女にとってベースという楽器への執着とこだわりは自他ともに認めるところだ。
「わ、私の立つ瀬がないじゃないかー!」
「大丈夫だよ。二人でやればいいじゃん」
「そんな簡単に言うけどな。ツインベースのバンドなんて探したって数えられるくらいだろう! 音楽性もどんな風になるか!」
「音楽性も何も、まだ方向性だってあやふやじゃないか。それに、せっかくやるんだし普通じゃつまらないよ」
こともなげに言ってのける夏音に、澪は言葉を詰まらせる。同時に周りの反応も似たようなものだった。
この自信過剰とも言える男は、どこからその自信が沸くのだろうか。どこまで物事を考えているのか、時折分からなくなる。
頭が悪いわけではない。実際にはきちんとした理由が裏に潜んでいるのが大概だが、本人の頭の中にしか浮かんでいないビジョンを、すぐに共有しろというのは無理である。
「俺がやれるって言うんだから、責任持つさ。もし、みんなが納得できないものにしかならないのなら、大人しくマラカスでも振ってるよ」
「な、なんでマラカスかわかんないけど、いつにも増してたいそうな自信を感じ取った! 責任取るっていうなら、とりあえずやってみよーぜ? って思うんだけど」
「りっちゃんに賛成~」
「私はみんなと一緒にステージに上がれるなら、何でもいいわ」
三名の同意を得て鷹揚に頷いた夏音は、残り二人に視線を配る。
「二人はどうなの」
硬直していた梓がはっと意識を取り戻し、首をぶんぶんと縦に振った。
「私はいいと思います! それはそれで面白いと思いますし……全然想像できないですけど」
その返事に頬を緩めかけた夏音だったが、残る澪を見て顔を引き締めた。周りが醸し出す賛成ムードの中、彼女だけが硬い表情で俯いていたからだ。
「澪は、あまり歓迎って感じじゃないみたいだね」
眉を寄せて黙っている彼女だが、どこか戸惑いも表れていた。気持ちが上手く片付かないような、そんな顔をしていた。
「いい、とは思うんだけど。やっぱり想像できないし、私の技量で夏音とベースをやるってのは……」
「だから、とりあえずやってみるって気にはなれないかな?」
「うん……」
どう聞いても色よい返事ではない。夏音も眉を落として、がしがしと頭をかいた。
「気にくわないなら、そう言ってよ。俺の思いつきなんだから、いくらでも調整できる。数ある選択肢の中から俺が面白そうだと思って出した案なんだからさ」
「わ、私は! ベースがごちゃごちゃしすぎてるのって、す、好きじゃない」
必死に言い切った澪の言葉に、夏音は嬉しそうな笑い声を立てる。澪の反論に対する夏音の反応に、周りは首を傾げたが、その中でも律だけは微妙な表情で澪を見つめていた。
律に視線をやった夏音は、その理由に心当たりがあった。自分が抱いている考えと、ほぼ同じ考えを律も持ったのだろう。
「分かってるよ、澪。俺だって馬鹿じゃない」
夏音はしたりげに言ってみせた。夏音は、プロである。初めて彼女のベースをしっかりと聴いた際、澪の好む音楽を手癖やベースラインの雰囲気から想像することは容易かった。
様々な音楽に触れ、技術やフィーリングを磨いた澪だが、やはりその根本に存在する好みというのは、なかなか離れるものではない。
彼女の根本にあるのは、支えるベースだ。静と動を併せ持ちながらも、バンドの屋台骨になる存在。時にアグレッシヴになることもあるが、ベースが主役になりすぎることを彼女は好まないのである。
そんなことは、とうに理解していた。澪が多種多様な音楽に対して貪欲でありながらも、派手な技法、魅せるベースを取得しようとする一方で、その根本の音楽的価値観を崩していないことも。
律は、澪と同時に音楽を始めた仲だ。一番、彼女と付き合いが長く、音楽の趣味趣向が一致している部分がある。ドラマーとして、最も近くに寄り添ってくれる存在であるベーシストの好みなど、とうに熟知しているはずだ。
澪は戸惑いの中に、恐れを抱いているのだろう。未知に対する懸念。躊躇いの感情を拭うことができず、それでも他を押しのけて主張するような性格ではない彼女が、その不安を主張した。
音楽のために、彼女は震えながら意見している。
「分かっている。よく分かっているよ、澪」
夏音は安心させるように、優しいトーンで語りかけた。ずいぶんと大事になったと自分でも思いながらも、目の前に立ちはだかった問題に全力で対処することに集中した。
「君のベースへの気持ちは知ってるさ。少ない音で、多くを語る。澪は、そんなベーシストだよね」
「そ、そんなことは……」
ベーシスト、と言い表して評価されたことに澪は慌てた様子である。しかし、事実に対する否定を夏音は許さなかった。
「それ。否定するのは謙遜とは違うよ。澪はそうやってハーモニーの中に身を置こうとしている人だ。俺はそういう音も好きだし、個性だと思う」
実に気の利いたフレーズばかりでなくてもいい。周りをよく見て、音の歩みを調整する澪の姿勢は一つの道を立派に進んでいる。
「澪は、そのままでいいよ。俺が入ることで君の音を変えることはない。だから、それだけは安心して。俺は、俺のやり方でやるけど、これだけは誓う。悪いものにはしない」
一呼吸置いて、夏音は言いきる。
「絶対に、すげーバンドにする」
息をのむ音と、目をぱちくりさせる人間。沈黙が十五秒。
「夏音って詐欺師になれそうだな」
「はあ~?」
言うに事欠いて、なんて失礼なと夏音は脱力してしまった。対する澪は完全に肩の力が抜けた様子で、朗らかに笑っていた。
「だって、夏音の言うことなら信じそうになっちゃうもんな。理由とかなしに、信頼を寄せてしまいそうになるから、危ない」
「あ~……なるほどなー。詐欺師ってよく知らんけど、こんな感じなのかも」
律がよく分からないままに澪に同意した。そこで納得されても困る、と思った夏音だったが、自信は少し揺らいだ。
しかし、詐欺師と言い表されたのは初めてかもしれなかった。
「はぁ~。もう、好きに言ってなよ。じゃあ、澪は了解ってことでいいの?」
「やってみる価値はあると思う」
「さっきまで言ってたこと、ちがくね?」
少しおざなりな口調になってきた夏音だったが、壁を越えられたことに安心した。
これで、形が見えた。これからの自分達の形が。
「ぃよーし! 珍しく澪が自分通したってことで、乾杯するかー!」
律がやや意味不明な宣言をして、すっかり冷め切ったお茶が入るティーカップを掲げた。葬式帰りの人間の前で乾杯はどうかと思ったが、夏音もそれに従い、カップを両手で持った。
「それじゃ、今後の軽音部の活動を祝してかんぱーい!!」
先は見えていて、それでも明るい未来なのだと信じて。少年と少女達は次の一歩を疑いなしに踏み出した。
※こんな詰めの甘いのが詐欺師になれるはずないですが、うっかり信じてしまいそうになる奴っていますよね。