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No.26404の一覧
[0] 【けいおん!】放課後の仲間たち[流雨](2012/06/28 20:31)
[1] プロローグ[流雨](2011/06/27 17:44)
[2] 第一話[流雨](2012/12/25 01:14)
[3] 第二話[流雨](2012/12/25 01:24)
[4] 第三話[流雨](2011/03/09 03:14)
[5] 第四話[流雨](2011/03/10 02:08)
[6] 幕間1[流雨](2012/06/28 20:30)
[7] 第五話[流雨](2011/03/26 21:25)
[8] 第六話[流雨](2013/01/01 01:42)
[9] 第七話[流雨](2011/03/18 17:24)
[10] 幕間2[流雨](2011/03/18 17:29)
[11] 幕間3[流雨](2011/03/19 03:04)
[12] 幕間4[流雨](2011/03/20 04:09)
[13] 第八話[流雨](2011/03/26 21:07)
[14] 第九話[流雨](2011/03/28 18:01)
[15] 第十話[流雨](2011/04/05 15:24)
[16] 第十一話[流雨](2011/04/07 03:12)
[17] 第十二話[流雨](2011/04/21 21:16)
[18] 第十三話[流雨](2011/05/03 00:48)
[19] 第十四話[流雨](2011/05/13 00:17)
[20] 番外編 『山田七海の生徒会生活』[流雨](2011/05/14 01:56)
[21] 第十五話[流雨](2011/05/15 04:36)
[22] 第十六話[流雨](2011/05/30 01:41)
[23] 番外編2『マークと夏音』[流雨](2011/05/20 01:37)
[24] 第十七話[流雨](2011/05/22 21:00)
[25] 番外編ともいえない掌編[流雨](2011/05/25 23:07)
[26] 第十八話(前)[流雨](2011/06/27 17:52)
[27] 第十八話(後)[流雨](2011/06/27 18:05)
[28] 第十九話[流雨](2011/06/30 20:36)
[29] 第二十話[流雨](2011/08/22 14:54)
[30] 第二十一話[流雨](2011/08/29 21:03)
[31] 第二十二話[流雨](2011/09/11 19:11)
[32] 第二十三話[流雨](2011/10/28 02:20)
[33] 第二十四話[流雨](2011/10/30 04:14)
[34] 第二十五話[流雨](2011/11/10 02:20)
[35] 「男と女」[流雨](2011/12/07 00:27)
[37] これより二年目~第一話「私たち二年生!!」[流雨](2011/12/08 03:56)
[38] 第二話「ドンマイ!」[流雨](2011/12/08 23:48)
[39] 第三話『新歓ライブ!』[流雨](2011/12/09 20:51)
[40] 第四話『新入部員!』[流雨](2011/12/15 18:03)
[41] 第五話『可愛い後輩』[流雨](2012/03/16 16:55)
[42] 第六話『振り出し!』[流雨](2012/02/01 01:21)
[43] 第七話『勘違い』[流雨](2012/02/01 15:32)
[44] 第八話『カノン・ロボット』[流雨](2012/02/25 15:31)
[45] 第九話『パープル・セッション』[流雨](2012/02/29 12:36)
[46] 第十話『澪の秘密』[流雨](2012/03/02 22:34)
[47] 第十一話『ライブ at グループホーム』[流雨](2012/03/11 23:02)
[48] 第十二話『恋に落ちた少年』[流雨](2012/03/12 23:21)
[49] 第十三話『恋に落ちた少年・Ⅱ』[流雨](2012/03/15 20:49)
[50] 第十四話『ライブハウス』[流雨](2012/05/09 00:36)
[51] 第十五話『新たな舞台』[流雨](2012/06/16 00:34)
[52] 第十六話『練習風景』[流雨](2012/06/23 13:01)
[53] 第十七話『五人の軽音部』[流雨](2012/07/08 18:31)
[54] 第十八話『ズバッと』[流雨](2012/08/05 17:24)
[55] 第十九話『ユーガッタメール』[流雨](2012/08/13 23:47)
[56] 第二十話『Cry For......(前)』[流雨](2012/08/26 23:44)
[57] 第二十一話『Cry For...(中)』[流雨](2012/12/03 00:10)
[58] 第二十二話『Cry For...後』[流雨](2012/12/24 17:39)
[59] 第二十三話『進むことが大事』[流雨](2013/01/01 02:21)
[60] 第二十四話『迂闊にフラグを立ててはならぬ』[流雨](2013/01/06 00:09)
[61] 第二十五『イメチェンぱーとつー』[流雨](2013/03/03 23:29)
[62] 第二十六話『また合宿(前編)』[流雨](2013/04/16 23:15)
[63] 第二十七話『また合宿(後編)』[流雨](2014/08/05 01:53)
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[26404] 第二十二話『Cry For...後』
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11 前を表示する / 次を表示する
Date: 2012/12/24 17:39
 ※注意~長いです~


 夏音がアメリカを離れる前の話だ。夏音にとって思いがけぬ人間の醜さを知る忌まわしい出来事が起こったばかりのこと。
 周囲の人間は、その時ばかりは陽気でなどいられなかった。胸が張り裂けそうになるくらいの悲しみと、世界が真っ赤に染まったかのような怒り。
 多くの人間が同じ気持ちを抱き、夏音を想った。
 夏音は自分の身に起きたことがよく理解できていなかった。人間の中に備わる防衛機能が働いていたのかもしれない。
 周囲の人間が怖い顔をして、自分をそっと抱きしめてくる日々が続く。ずっと曇り空の中にいるような気分だった。
 彼らの表情が再び輝くのを待っていた気もする。ただ、ずっと目の前を通り過ぎる事象がどこか他人事のようであり、疼くような胸の痛みを抱えて過ごしていた。
 自分の見えない所で、忙しなく動く両親の姿。一切の余裕もない両親が時たまに夏音に向ける笑顔はぎこちなく、初めて両親との間に距離を感じた。
 誰も彼もが戸惑っていたのだ。愛すべき存在が穢されたことへの怒りを、やり場のない感情を持て余していたのである。
 傍目から見た夏音は、きっと簡単に壊れてしまいそうなほど繊細に見えたに違いない。
 そんな時、音楽は救ってくれなかった。自分と、世界と、彼らをつなぐ絶対の存在はこの問題に介在していなかった。
 まるで世界が停滞したように感じていた最中、きっかけを作ってくれたのは、人の心であった。
 誰もが協定を結んだかのように同じ接し方をしてくる中、ジャニスは違った。
 彼女は彼女の中で沸き立った感情を包み隠すことなく、爆発させた。事件があってからしばらくしてから姿を現したジャニスは、夏音の目の前で泣いた。
 なかなかお目にかかれないくらいの大号泣であった。目の前で彼女に泣かれた夏音がぽかんとしていると、華奢な夏音の体をこれでもかと抱きしめたのである。

『ケニー! ああ、カノン! よく顔を見せてちょうだい。好きよ・・・・・・ずっと愛してるわ』

 片耳の聴力を失っていた夏音だったが、彼女の声はすっと体の中に入ってきた。

『ジャン・・・・・・久しぶり。いったいどうしたっていうの、ジャン?』
『あなたに不幸なことが起こらないように。毎日祈ってるの。神様はいつもご覧になっているはずよ・・・・・・こんなにも、天使のような子に不幸が訪れていいはずがないもの!』

 彼女はかなり興奮しているようだった。彼女が唸るように放った言葉はほとんど頭に入らなかった。
 それより、天使みたいと言われて気恥ずかしくなってしまった夏音は、彼女の腕の中でもじもじとした
 ややあって夏音を腕の中から解放した彼女は、はっとしたような表情をした後に、にっこりと笑った。

『あら、やっぱり天使みたいな男の子がいるわ。ほら、キスはどうしたの?』

 おかしげに片眉を上げて見せたジャニスに、いつもなら夏音は無邪気に彼女にキスを送っていただろう。
 しかし、夏音はその時は自分の心に迷いを持っていた。

『最近、お母さんとお父さんはあんまりキスをしてくれなくなったよ』
『そう。あの二人が、そんなひどいことするの?』
『ううん。ひどくなんかないよ。でも、どうしてかな? 俺、すっごく気持ち悪いオッサンにべたべた触られたんだ。たぶん、汚れが移ったんだと思うんだ。みんなには分かるのかな? 俺は汚い大人にはなりたくないな。だから毎日きちんと体を洗うし、シャンプーだってしてるんだ』
『あなたが汚い訳ないじゃない。大人になるとね、瞳の方に汚れが出ちゃうの。だから、汚く見えちゃう人もいるのよ』
『そうなの? みんなの目も汚れてるのかな』
『いいえ? みんな綺麗よ。ただ言わせたもらうけど、問題があるのは心の方ね。そろいもそろって腰抜けばかり。専門家とかいうアホの戯言をまじめに受け取っちゃって。
 わかる? これはゆゆしき事態ってやつよ。スループの名が泣くじゃない。アイダホのじゃがいも畑にでも埋まってればいいのに』

 彼女はよく夏音の前でもスラング混じりの言葉を躊躇なく使った。おかげで語彙が広がったのは確かだが、教育にはよろしくない単語ばかりである。

『みんな怖いの。あなたが傷つくんじゃないかって、びくびくしてるの』
『なんで? そんなヤワじゃないよ』
『男の子だからね。それがみんなわかんないみたい』
『ふーん。そうなんだ』
『さあ、ケニー。時間がないから手短に言うけど』

 彼女はそう宣言してから、本当に手短に言い切った。

『私は今からある男のキ○タマをアメリカンクラッカーみたいにしてから、すり潰してくるんだけど、これだけは覚えておいて。
 どんな手段を使っても、あなたは穢れないわ。誰よりも強い心を持っていて、誇り高く、純粋であってちょうだい』
『それから、カラテを習うの。知り合いにロシアでブラックベルトを取得した奴がいるの。ドウジョーをロスで開いているから、紹介しておくわ』
『いつでも電話するのよ。いいわね』

 番号が書いたメモを夏音に握らせて、もう一度夏音を抱きしめた彼女に圧倒されながら、言われたことを反芻しようとしていた時、

『ジャン! 何でいるの!? 絶対に来ないでって言ったじゃない!』
『Shit...!! ねえ、アル。何か問題でもある?』
『暴走機関車注意報がスコットからきたの。あなた今はメキシコにいるはずじゃなかったの!?』
『私がどこにいたって勝手じゃないさ』
『もう・・・・・・! 今のこの子にはもっと慎重に・・・・・・』
『お黙りよ! あんたがそんなんでどうするの!? あなたはもっと賢いと思ってたわ』

 ジャニスは怒りをあらわにアルヴィを睨み付けた。

『前から言いたかったことだけどね。あなた方はすべきことを放棄している。夫婦そろって二人とも、ずっとこの子と離れないでいるべきよ。確かに特殊な環境だと思うわ。でも、どんなに恐ろしいことがあっても、あなたとジョージがそばにいるだけでいいのよ。それがどうして分からないの?』
『そばにいるじゃない。最近はずっと一緒にいる時間をとってる』
『同じ空間にいればいいってわけじゃないの。過保護にしていればどうにかなると思ってるのならおめでたい頭だわ。少し考えてみなさい』

 冷たく言い放ったジャニスは再び夏音をぎゅっと抱きしめ、頬にキスをした。

『また一緒に歌いましょう。私はここを離れるけど、来週にはまた戻ってくるから。そういえば、ニューヨークでランディーの舞台が千秋楽を迎えるわね。よかったら一緒に行こうと思うんだけど、どうかしら?』

 彼女は保護者であるアルヴィにではなく、夏音に向かって誘いをかけてきた。夏音は彼女と出かけることが大好きなので、一も二もなく頷いた。

『と、そういうことなので悪しからず。じゃあまた来週に』

 腕を組み、黙ってジャニスを睨むアルヴィに手をひらひらと振ってジャニスは帰って行った。まるで嵐のような人である。
 怖い顔でしばらく俯いていたアルヴィは、ふいに夏音を抱き上げて、「ごめんなさい」と呟いて離してくれなかった。
 その日から、アルヴィと譲二は多くの予定をキャンセルして夏音といる時間を増やすようになった。
 後から聞いた話だが、ジャニスは夏音と別れた後、その足で夏音に迫った男のもとに殴り込みにいったそうだ。
 もちろん、事前に気がついた関係者の全力の阻止に阻まれたそうだが。
 言うまでもなく有言実行の人だった。彼女がもう少し冷静な人物だったら、きちんとした計画を立ててその男に復讐を果たしてしまっていたかもしれない。
 誰よりも烈しく怒った彼女の劇場を諫めるのに、ずいぶんと多くの人間が精神を削られたそうである。
 夏音はアメリカを離れるまで、十回ほどジャニスと過ごした。宣言通りにニューヨークに芝居を見にいき、モンタナまで行っては湖の湖畔でキャンプをした。
 周囲の反対など気にせず、夏音をさらっていくジャニスに両親は相当まいっていたようだが、それでもあの頃の夏音にとって彼女と過ごすことが救いになっていたのは間違いない。
 今になって自覚できることが多すぎて、幼かった自分を恨めしく思うこともある。
 与えられていたものに、気づかないで後悔することがたくさん増えた。
 人の視線の意味に、言葉にして伝えない空白にどんなメッセージがあるのか。
 彼女は数年間、音信不通だった自分をどう想っていたのか。
 何故もっと早く帰らなかったのか。遊びに来いと言われていたのに。
 どれも、もう過ぎてしまったことだが。取り返しのつかないことを、呑み込むことがこれほどにも痛みを共にすることなど知らなかった。
 今日という日で、自分の中で渦巻く色々な問題に一つの区切りがつく気がする。
 夏音は、そう感じていた。




 ホテルの前に止まっていたのは、いつぞやのド派手なハマーではなかった。幸いにも、と言い切るにも微妙なリムジンではあるが。黒塗りの「いかにも」な雰囲気を醸し出す車に夏音は微妙な心持ちであった。

「まあ、貫禄ってのも必要なんだ。近頃じゃハイブリッドカーでアカデミー賞に現れる俳優もいるみたいだが、何と言っても民衆が有名人に期待するのはこういうのだってことは間違いない」

 居心地が悪そうにシートに収まる息子を見て、悠々と足を組んで構える譲二が言う。

「俺はどうしたって分からないよ。何だってこんなに長くする必要があるんだ」
「さあ。長ければ長いほど良いのかしらね?」

 そんな他愛のない会話をしながら、車はすぐに目的地へと到着する。

「さて、さて」

 譲二が胸元から取り出したサングラスを装着すると、アルヴィもそれにならう。そんな二人をじっと見つめていた夏音に譲二が豪快に笑った。

「何だい息子よ。俺が007にでも見えたのか?」
「あら、それなら私がボンドガールね?」

 脳天気な両親である。どう見ても真っ赤なスーツを着込んだ譲二は、カンフー映画のやられ役の方がお似合いである。
 そんな息子の残念そうな視線に気づかず、窓の外の風景に目をやる譲二。優しい息子は何も言わず、両親と同じようにサングラスをかけた。
 車を降りた瞬間に浴びせられたフラッシュの嵐。あの音は、非常にうるさい。一つ一つなら大したことはないが、ああも数多くのカメラが連写してきたら、それは喧しいのだ。
 懐かしい感覚である。けれども、懐かしいと感じるのは一瞬で、こうやって撮られることも、五感が捕まえてくる情報にも慣れてしまうのだ。

 人、人、人である。あまりの人の多さに酔いそうになるくらいの人だかりだ。報道陣だけでなく、教会の前に集まったのはジャニスのファンだ。
 ぱっと見ただけでも三千人くらいはいるだろう。
 流石というべきか。夏音もこの光景の中で、なんとか堂々と振る舞うことに成功していた。
 内心が揺らいでいても、外面を取り繕って有名人の殻を作り出す。
 譲二やアルヴィも同じだ。実に怖めず臆せず、彼らの存在感を周囲に解き放っている。
 幾つかの取材陣に対し、軽く応答しながら、三人は教会の入り口まで進んでいった。途中には、友人たちが取材を受けている姿も確認できた。
 そこらでレポーターやジャーナリストといった人種が群がって好き勝手話しているものだから、もはやノイズにしか聞こえない。

 夏音はとっとと教会内部に入ろうとした。しかし、思わぬ邪魔が入ってしまった。

「やあ、カノン。カノン・マクレーン? Courtyard TVよ。元気そうで何より!」
「・・・・・・ハイ、ありがとう」

 気さくに話しかけてきたのは、マイクを持った女性である。彼女の後ろに控えるカメラはまだ回っていないことを確認する。
 彼女の名前は夏音も知っていた。彼女は年中どこぞのお城みたいな豪邸の中庭でミュージシャンを出演させる番組の司会のメアリー。夏音は過去に二回、出演したことがある。
 一度は一人で、最初に出た時はクリスのおまけみたいな扱いだった記憶がある。

「ここで会えるとは思ってもみなかったから、驚いたわ。よかったら少しだけ時間をくれないかしら?」

 取材の申し込み。といっても、五分ほどだという。夏音は両親の顔をちらりと窺ったが、二人とも別の取材陣に囲まれていた。
 夏音もいっぱしの芸能人の一人で、親に決めてもらう年でもない。受けるも受けないも自由なので、少し考えた後に了承した。この映像が夕方のニュースに流れるかもしれない、と思いなが気さくな青年の皮をかぶった。
 カメラが回り、メアリーの雰囲気が一変する。誰にでもフレンドリーな陽気なお姉さんになった彼女は、夏音の全身に大げさに視線を巡らせてみせた。

「・・・・・・赤い! わね」
「そうだろう? 今日はみんな真っ赤さ。世界一赤が似合わないマーク・スループだって仏頂面して着込んでるよ」
「さっきここを通り過ぎたわ。あんまり早く通り過ぎるものだから、誰も彼を捕まえることができなかったの。次の就職先はシカゴ・ベアーズという噂を?」
「彼なら優秀なタイトエンドになれるだろうね」

 マークは、カメラの前でもいじれる存在として夏音の中で位置づけられている。ファンであれば、夏音とマークの仲を知っているから、遠慮もいらない。

「ジャニスの死は、我々にとって途方もないくらいの喪失です。もちろんあなたにとってもそうでしょう」
「そうだね。彼女を失う者は、あまりに多くを失うことになると思う」

 頷くメアリーの目を見て、夏音は続けた。

「けれど、それ以上に彼女が置いていったものは大きいと思うよ。彼女がいってしまい、悲しいし、ぽっかりと穴が開いたようだ。けれど、ジャンからもらったものは言葉じゃ言い表せないくらい、たくさんなんだ」
「分かるわ。あんなに偉大な女性はいないと思う」
「そういう表現は彼女は好まないだろうけど、偉大というのには同意だね。けど、彼女の何をもって偉大というのかは人それぞれだよ。みんな彼女に色んな形でもらったものがある。
 だから、ここに集まっているんだ。見える? こんなにばらばらな職業の人間が集まったよ。平日だっていうのに、こんなに人がいる。彼女を送るためにみんな集まったんだ。これが全てだと思わない?」

 インタビューというのも忘れ、一方的に話してしまった。夏音は余計な相づちを打たれなくなかった。
 テレビの前でいちいち反論することはしたくなかったからだ。様々な解釈があってもいいだろうが、自分に同意を求めることはされたくない。
 ジャニスのことをすでに美化してまとめないで欲しかった。しかし、夏音が言ったことは真実をついていた。
 この場所で見えるものこそが、答えの一つであった。
 参列する者たちの表情。
 泣きじゃくる者もいるが、多くの人間は非常に穏やかな顔をしていた。ファンの多くはメッセージを書いたボードを掲げている。
『SIP! Sing In Peace』『Thank you Jan!!』『Love You』
 でかでかと。
 感謝の言葉が書き殴られている。
 彼女の曲を歌い始める者たちもいた。献花台はすでに花で溢れ、彼女の写真にキスを送る者。笑顔で。
 ジャン、と叫ぶ者。嗚咽まじりに歌い続ける人。何でこの場所にいるのか、よく分からない人。

「今日はあなたのプレイがまた聴けると思っていても?」
「それは後で分かるよ」

 インタビューが終わると、夏音はさっさと教会の中へ入った。そこで思いがけない人物の顔を見つけた。

「ポール!」

 彼の、ポール・アクロイドの全身真っ赤なスーツ姿というのはなかなか衝撃的だった。いざ声をかけたはいいが、絶句したまま気の利いた台詞が浮かばないでいた夏音に、彼は苦笑いを作る。

「何も言わなくていい、カノン。君も立派な共犯者さ」
「さあ、何のことかな?」

 そう言って笑い合って、彼の隣に並ぶ。教会内部は非常に広く、大聖堂と言われても遜色ない程、立派な建物だ。
 荘厳な建築、あらゆる所に浮かびゆらめくキャンドルの火に、巨大なステンドグラス。
 久しぶりに教会に訪れた夏音は、また一つ自分の中から抜け落ちていた物が戻ってきた気がした。

「教会なんていつ以来だろう」
「おや? 君は日本ではミサには行かなかったのかい?」
「何でだろう。思いつきもしなかったよ。もともと足繁く通っていたわけじゃないけどさ」

 そもそも熱心なクリスチャンでもない。
 そこらに著名人がいる光景をふらふらとした足取りで進んでいく。この空間に潜んでいる不思議なパワーは、教会の壁に刻まれ、染みこんでいる歴史の息づかいに感じた。
 なるべく人工的な光がないようにされているのだろう。しかし、だからこそ目につく。
 数カ所に置かれたカメラ。集音マイク。
 この葬儀には、莫大なお金が関わっている。
 用意された警備員の数は250人。パレードのための交通規制や、演奏に必要なスタッフ。その他、諸々。

「これは、彼女が望んだことなんだけどさ。やっぱり、見たくないものも見えてしまうんだよね。俺の我が儘なんだけど」

 夏音が小声で言うと、ポールはぽんと肩を叩いてきた。

「よく分かるさ。君の気持ちも、みんなの気持ちも分かる。彼女のことをよく知り、愛した僕たちにとっては、こんな風に送り出すのは本望ではない。違うかい?」
「だいたい、あってる」
「彼女らしい。彼女らしすぎて、納得してしまうんだけどね。もっと親しい人だけで、集まりたかったと思ってる?」
「それについては仕方がないとあきらめてる」
「その通りだ。仕方がない。僕たちは、きっとそうすることが許されないんだろう。式に関しては、親族の自由だからもっとこぢんまりとすることもできたろうけど。ジャンはちゃんと自分というものを理解して、受け入れていたんだろう。自分の存在が意味することを。
 自分以外に自分という存在を占めている存在たちを無視することができなかったのさ」

 ポールの言わんとしていることは、ほとんど理解できた。心のどこかが納得していないだけである。自分ではどうしようともできない部分で、それはほんの少しだけ表に出てきている。
 彼女を愛する人間はあまりに多い。ファンとの付き合いは、彼女の半生そのものであった。
 きっと、自分の葬式の時にはこんなことにはならない。夏音はそれだけは確信をもって言える。

「彼女が選んだことだ。そして、これが間違いかどうかはこれから決まる。そして、これもわかりきっていることだが」

 ポールは片頬をあげ、クールな笑顔を向けてきた。

「最高な時間になる、僕たちがそうするんだ。そうだろう?」

 この人は、本当にどこからどこまでも格好良すぎる。彼の言う通りである。見守るだけではない。自分たちが証明するのだ。ジャンの生きた証を。
 夏音はわかりきっていたことを再確認させられ、屈託ない笑顔を返した。

「そういえば、そうだったね」

 最高な時間に。人生に一度だけの、今後は二度と起こりえない今だけの出来事。これから始まるのは、非現実的で、まるでファンタジーのような気さえしてきた。
 根本的なことを忘れかけていた。

「ジャンが寂しくならないように。ちょっとがんばらないとね」
「その意気だ」

 ポールは嬉しそうに手を叩いた。満足そうな表情の彼と拳を合わせると、間に割ってはいる人物が現れた。

「ヘーイ! ハレルヤ! どうだい調子は? ケニー。久しぶりすぎて誰だか忘れてたぜ」
「ねえ、ポール。このハゲは誰だっけ」

 つい今までご機嫌だった夏音の声は冷気を帯びていた。そんな夏音に乗っかったポールが肩をすくめる。

「さあ。僕も海兵隊の知り合いはいないんだが、どちら様だろう?」
「おい、ふざけんなよ! お前はともかく、俺はこの美少女ちゃんに冷たくされる覚えはないぜ」

 大袈裟に手を広げて抗議してくるこの男こそ、「Silent Sisters」のドラマーであるレヴィ・ストリンガーである。
 メンバーの入れ替えが多いバンドの中で、初期の頃からポールの相棒として長年連れ添っている男だが、夏音も実力は認めている。
 しばらく無表情を向けていた夏音だったが、耐えきれずに吹き出した。レヴィも破顔一笑して、夏音の顔をじっとのぞき込んでいた。

「どれ、少し背が伸びたな。元気そうで本当に安心したぞ」

 おふざけの雰囲気を消し、真摯な言葉を送ってきたレヴィとがっしりと抱き合った。夏音としても、懐かしさで胸がいっぱいだった。
 最初のやり取りは、夏音とレヴィの中では割と定番のものである。

「俺はてっきり、お前はもっとガリガリにやせっぽっちになると思ってたんだ。今でも十分にやせてはいるが、まあその顔にはちょうど良い感じだな」
「相変わらず失礼なお口だね。レヴィはちょっとお腹出てきたんじゃない?」
「なんだと? この場でそんなことはないと証明してみせようか?」
「ハハハッ! 遠慮しとく」

 自分の発言が引き金になって公衆猥褻物をさらすのは忍びない。ひとしきり笑い合った後、ポールが場所を移動しようと言った。
 立ち話をしている間に続々と人が入ってくる。三人は前列の方に向かった。
 最前列はスコットを並びとするジャニスの家族が座るが、その他の親族や関係者があまりにも多すぎる。
 前列付近のどこかその辺、といった認識でいた夏音だったが見慣れた顔が座っているあたりに腰を落ち着けた。
 ポールとレヴィは何故か遠慮したのか、夏音のちょうど後ろの列に着席した。なので、自然と夏音は後ろを向いて二人と話すことになった。

「こんなに異色な葬式は久々だな」

 しっかりと赤いジャケットを羽織ったレヴィがおかしげに言う。がっしりとした彼はジャケットが似合うのだが、どうにも首から上とマッチしない。
 隣に座るポールは曲がりなりにも、色男である。キャラクターにはそぐわなくとも、しっかりと着こなしている風なのは流石であった。
 そんな夏音の内心を見抜いたのか、レヴィが眉をひそめて鋭く言ってきた。

「俺の頭はな、剃っているんだ。昔からな」
「なんで今それを言うの?」
「いや、何となくだが」
「彼は昔、ライブの最中に髪が燃え尽きてしまったんだ」

 マジか、と夏音が目をむくとレヴィが盛大に舌打ちをする。

「その話は半分は正解だ」
「え、嘘。ホントなの?」

 彼の頭に関する真実が明かされた瞬間であった。大して興味があった訳ではない上、そこまで大した情報ではないので、今まで知らなかっただけであるが。

「火が吹き出る装置に突っ込んだのが原因だが、一部が燃えすぎたみたいでな。毛根の幾つかが悲劇的な死を迎えたそうだ。以降、俺の頭皮の一部は息を止めたのさ」
「不毛の大地になったわけだ」
「不毛だけに、と? くくっ」

 もう無理だった。腹がよじれるほど笑ってしまった夏音であった。声を立てて笑う夏音を何事かと見てくる者がいたが、そんなことはお構いなしに、レヴィは夏音の首を締め上げてきた。

「また生意気な口が育った、な! このやろう!」
「アハハ! やめてよレヴィ! それに言ったのはポールだよ!」

 ポールは素知らぬ顔で締め上げられる夏音を見守っていた。夏音がやっと解放されたと思いきや、またもや彼は爆弾発言を落とす。

「そういえば、君の毛根の葬式がまだだったな。ついでにやるかい?」

 夏音は、どうしてポールがレヴィからぶん殴られないかが不思議で仕方がなかった。


 それからすぐにアルヴィと譲二がやってきた。少し離れた場所で、さっきからずっと夏音たちのやり取りを無視していたマークの隣に座り、なにやら楽しげに話している。
 後ろを振り向くと、席がほとんど埋まっている。
 来場者の波が落ち着いた所で、式が始まる予定だ。二時間半以上の長いスケジュールに沿って行われる予定だが、どこか浮ついた気分だった。
 ざわめきは収まることはない。
 そこら中で再会を喜ぶ姿があり、抱きしめ合う人々。
 前方の真ん中に置かれた棺に目を向ける者の表情は、筆舌に尽くしがたかった。彼らがどんな想いを抱いているのかは分からない。
 親しげな笑顔と、寂しさが入り混じった表情は、何とも言えない気分にさせられる。
 棺には白い花が添えられていた。
 会場が真っ赤なだけに、その白さは際立つ。あの花も、彼女の希望なのだろうか。何の花か分からないが、その花の白さも彼女を表すものの一つだと感じた。
 腕時計を確認したら、予定の時間があと僅かにせまっていた。
 合唱隊が入場してから、牧師が壇上に現れる。
 気がつけば静けさが広がっていた。
 誰かの息づかいさえ聞こえてきそうな静寂の中、長い長いサヨナラの儀式が始まった。


 ★     ★

 合唱隊のゴスペルから式が始まった。それからの流れはこうだ。
 牧師によって聖書の中の言葉が読まれ、祈りの言葉が唱えられる。ジャニスと関係のあった者のスピーチ、選ばれたミュージシャンによる歌が終わると、また別の者が壇上に立つ。
 音楽レーベルの会長、ジャニスと親交が深かったプロデューサー、かつての恋人、友達。
 様々な人が彼女を語った。
 それは面白おかしく、腰がくだけるほど笑わされるものであったり、思い出を語るうちに涙を誘うものもあった。
 誰もが彼女との関わりの中で得たものを惜しげもなく口にした。彼女が与えたものに感謝をした。
 破天荒なジャニスのエピソードは知っているものから、ここに来るまで誰にも話されることはなかったものまで。彼女と一緒に働いた数々の悪事を暴露する者もいた。
 自分たちが知る彼女がどんな人間だったのかを確かめ合うように、尽きることがない話で溢れていた。
 そうして次々に壇上へ立つ人の中に、アルヴィ・マクレーンがいた。
 いつもより濃いめの化粧をした母は、眼下にある棺にそっと視線を落とした。
 しばらく何も言わないでいるアルヴィに、激励するような言葉や拍手が投げかけられた。
アルヴィの姿を見ていると、名付けようのない感情が押し寄せた。あそこに立つアルヴィの姿があまりにも心細くて、心がしくりと痛んだ。

「Twenty one Years」

 透き通った声が響く。一瞬でしん、となった教会の中で彼女の言葉は続く。

「21年よ。私は、あなたと21年前に出会った。そうね、場所はラスベガスだった。私は赤いロングドレスを着ていて、あなたの服と思いっきりかぶったの。初対面の人間の前で、それも会った瞬間に自分のドレスを引き裂いてみせた女は後にも先にもあなただけよ、ジャン」

 簡単に想像できるエピソードに会場が笑いに包まれる。

「信じられる? そのドレスのデザイナーがちょうど彼女の隣で卒倒しかけているのに、私に向かって歩いてこう言ったのよ。『こっちのがイカすでしょ。ご心配なく。脚には自信があるの』ですって! その後の展開は知ってるかもね。丈が短くて、裾がまばらなシャギーになったドレスが流行ったのよ」

 拍手が割れんばかりに大きくなる。立ち上がる者まで出てきた。

「その時の私の印象は『変な女。関わらないようにしよう』だった。けれども不思議。私の人生には欠かせない親友になったわ」

 アルヴィの声が少しだけ震える。だが、すぐに持ち直した彼女は言葉を止めなかった。

「それからはいつだってあなたは私の親友で、私の姉妹だった。時には私を叱ってくれて、導いてくれた。あなたがいなかったら、ここにいなかったって思うの。
 それほどあなたは、私の人生でかけがえのないものだった。
 私は、あなたと、生きた。そうでしょう? 私はあなたの中で生きたし、あなたは私の中で生きて、これからも生き続ける」

 愛しているわ。そう呟いた。
 繰り返し、確かめるように。「Love you」と。

 アルヴィは十分ほどで弔辞を終えた。そして、徐ろにマイクを手にする。
 壇下に用意されたピアノにはスコットが座っていた。今回、彼は全ての伴奏を担うという。
 弔辞を行わない、という彼の頑なな意志は皆に渋々ながら受け入れられた。

「All right. 私はスピーチは昔から苦手なの。こっちがいいわ」

 流れるメロディーは聞き覚えがありすぎた。アルヴィの曲で、彼女がデビューした時によく歌っていたカヴァーソングである。

「Today is your day. I`ll song for you darling.」

 どうしてアルヴィがその曲を選んだのかは分からない。歌詞の中身も、何の変哲もない恋歌である。
 別れを連想させる要素など、何一つないのに。しかし、彼女こそは本物の中の本物であると確信させられる。
 それだけの力を振る舞える彼女は、世に認められるシンガーであり、今はただ一人の人物のためだけに歌っている。
 そこには口で語るよりも何倍もの感情が詰まっていた。最初こそ聞き惚れていた人々は、途中から一緒に口ずさみ始めた。
 有名な曲である。合唱隊が即興でコーラスに入り、いつの間にか教会が揺れるほどの大音声にまで脹れあがっていた。
 アルヴィの声は巧妙に、ほんの少しだけ調和を避けて浮遊していた。どんな音の中にも埋もれず、貫くように響き渡った声が、やがて最後の音を手放すのを見届けた聴衆は、温かい拍手を彼女に送った。
 涙を堪えきれなかったアルヴィが席に戻る。途中、多くの友人達に抱きしめられ、肩に優しく手を置かれながら、彼女は譲二に抱きしめられる。肩を震わせ泣くアルヴィを譲二は優しく包み込んでいた。
 それから引き続いて壇上には代わる代わる知り合いが立った。ヴィクター、クリストファー、ジュリア、ウェイトン、カウント、マーク、ソフィア、コーディ、ナターシャ。その内、何人かが彼女の曲や、自分の曲を披露した。
 そして。
 夏音は立ち上がり、壇上に上った。あまりに多くの視線が自分を貫いてくる。ライトが当たり、そして真下には彼女が眠る棺があった。閉じられた棺の中に彼女がいるなんて信じられなかった。
 けれど、これが現実であることをそろそろ夏音は受け入れなくてはならなかった。

「ハイ、カノン・マクレーンです。お久しぶり」

 まずは、出だしはこれだろうと決めていた。夏音の姿を長らく見ていない人も多い。それは夏音も同じことで、予想以上に大きな拍手が返ってきたことに目を大きくしてしまった。
 もっとがちがちに緊張するかと思ったが、何のことはなかった。まるで夏音の体を覆っていた薄い衣が滑り落ちるように消えてしまった。
 ありったけの慈悲と、寛容と、親身な視線を感じるのである。夏音はちょっとだけ微笑むと、滑らかな口調でしゃべり始めた。

「僕と彼女の付き合いは、それこそ生まれた瞬間からだ。この世で三番目に僕を目撃したのが彼女という話だからね。出産の時にそばにいたのは父さんじゃなくて、ジャニスだったんだ。さらに言うなら、僕をこの世で一番最初に抱きしめたのは彼女らしい。むちゃくちゃだよね」

 生まれたての赤子を、細心の注意をもって産湯に浸からせる役目を負った看護士は急に飛び出てきた黒人女性にその役目を奪われ、呆然としていたらしい。
 破天荒もいいところだろう。
 会場にいる多くの人間は、夏音がジャニスやスループ達とどんな関係なのかを知っている。だから、今さら自分と彼女の関係性を説明する気はなかった。

「ジャン。君はいつだって子供の僕を温かく慈悲深い目で見守ってくれた。お茶目な君に振り回されることも多かったけど、そういうのが楽しくてしょうがなかったよ」

 語りかけるように、夏音は思い出を、大切に綴るように披露した。夏音が関わると、特に彼女はクレイジーになったらしい。
 この場に座る者は皆、夏音の言葉に耳を傾けた。一人の少年が関わってきた彼女の姿を思い浮かべようとしていた。
 今日、壇上に立った人の語る彼女の姿はまるで脳裏に浮かぶようなほどリアルで、また新たな発見の連続であった。
 十五分ほど夏音は語った。語り尽くすことができないほどの思い出があり、どこかで打ち切らなくてはならないことは理解していた。用意された時間もある。
 先ほど、母がどうして途中で照れた笑いを浮かべて歌に入ったのか、その理由が分かった気がした。

「このパターンが続いて申し訳ない。今日はスコットの伴奏がつくって聞いたんだ。滅多にないからね。
 ジャン。君がよく僕に歌ってくれた歌があるだろう? たくさんあるけど。その中の一つが昨日の夜、ふと頭に浮かんだんだ。その歌詞の中の言葉が好きなんだ。スコット頼むよ」

 夏音がマイクを持つ。遺族なのに、一番働いているだろうスコット。彼と目を合わせると、温かくも頼もしい視線が返ってきた。

「You and I must make a pact....」

 夏音の大好きな曲でもあった。ジャニスはたくさんの歌のレパートリーを持っていて、惜しげなく夏音に聴かせてくれた。
 この歌のメロディーはとても繊細で、幼い頃にこの曲と出逢った時の衝撃はすごかった。
 人前でこの歌を歌うことになるとは思ってもいなかった。

 「「「I`ll be there」」」

 幾つも跳ね返ってくる。そのことに少しだけ不意を突かれた。
 はっきりと聞こえてくる親しい人々の歌声が、夏音と寄り添って曲を浮かべてくれている。
 マークがギターを弾き、ドラムをフィリーが。ベースはヴィクターが担当してくれている。
 今回、伴奏につく人は自由である。この曲をやると言って、昨日の話し合いの中で「これ、やってよ」と選んだのだ。
 四人の息はぴったりで、それぞれの表現が優しくダンスしている。

 
 私の夢であなたを包みましょう
 あなたに会えてよかった
 
 どんな事にでも力になろう
 私はあなたの味方だから


 歌っている内に感情がこみ上げてくる。背後から体を震わせてくる合唱隊のコーラス。プロのシンガー達の個性豊かな歌声と共鳴する自分の声。
 感動せずにはいられなかった。
 このやり取りに鳥肌が立たない者がいるだろうか。伸びやかな声を持つ夏音も負けてはいない。
 本来、歌の方は本分ではないと思っている夏音であったが、彼の歌を耳にした者であれば、彼もまたシンガーと名乗ることを許されると評価するだろう。

「I`ll be there.」

 そこにいる。私はそこにいる。

 これから生きていく中で、彼女を感じ取れるだろうか。世界に散らばった彼女の意志は、人々の中で生きていくだろう。
 そして、思い出は自分たちの胸の中に。彼女と過ごした場所では、そこで彼女の息遣いを。視線のきらめきを思い出すのだろう。
 きっと、彼女を感じて生きていける。希望はまだ残っている。そのどれもが、いつかは必ず薄れていってしまうものかもしれないけれど、夏音はまだ目の前で輝いている希望の方をずっと見ていたいと思った。
 そんなことを考えながら、夏音は心に染み入るものを、ただ受け入れながら歌った。

 曲が終わり、拍手の中にいると、何とも言えない見覚えのある高揚感が満ちていた。マイクを置き、壇上を去る。
 席の戻る途中で前列のほとんどの人が夏音に駆け寄ってきて、代わる代わるに抱きしめてきた。
 最後に両親の元へ向かうと、譲二はぽんと夏音の頭に手を乗せてきた。アルヴィは涙でぐしゃぐしゃに顔を濡らしながら、夏音を胸の中にぎゅっと抱き寄せて離してくれなかった。
 家族なのだ。自分は、大きな大きな家族の中にあるのだということを思い出した。
 元の席に何とか戻った時にはポールとレヴィが迎えてくれた。二人とも実にご満悦な表情で夏音を讃えた。
 この二人に褒められるのは、どこか恥ずかしい。それと同時に誇らしかった。
 それから多くの人間が語り、時間はあっという間に過ぎていった。別れの時は近づき、最後の大役を果たすため、夏音は大きく息を吐いて気合いを入れた。



 やがて、出棺の時がきた。全員が立ち上がり、棺の運び手が彼女の棺の横に並び立つ。

「お願いがある。ちょっとだけ静かにしてくれ」

 その時、クリスが壇上に立って喋ると、会場がしんと静まりかえって彼を見つめた。

「その時がきたのだ。皆はもう分かっているだろう。彼女の鮮烈な人生をそばで見てきた我々は、その最期までもを見届けなくてはならないだろう。彼女が描いてきた軌跡はいまだ途切れることなく、ここまで続いている。生前、彼女はこの時のために我々を頼ると言った。
 任されたのだ。
 その最期の軌跡を描くべく、集った家族たちよ。
 準備はいいか?」

 そこで動き出した者がいた。
 ウェイトンである。
 愛用のヴィンセント・バック社製のトランペットを手に持った彼は、ゆったりとした動作で棺の前に立つ。入り口の方を向き、棺を先導するかのように。

「ありがとう、ウェイトン」

 クリスは続けて、高らかに宣言する。

「さあ、ジャニス。お別れの旅路に出発するよ。我々は、決して最期まで君を一人にはしない」

 王者の音色が爆誕した。

 空間を丸ごと揺さぶるかのような音圧である。

 子供の頃、いつでも彼の吹くトランペットに圧倒されていた。夏音はつい笑ってしまう。

「(いつだって最高だよ、ウェイトン。変わらず、あなたの音は王者の風格だ)」

 彼に追いつこうとする若者達に幸あれ。この揺るぎない第一線の音に並び立てる者など、そうはいない。
 普通ならば、だ。
 その稀少な例が、この場所にはいる。怪物みたいな実力を持つ人間がこれでもかと集っているのだ。
 ウェイトンの隣にすっと並び立ったジョナサン、トミー、ローランド。四人のロングトーンが途切れた時、教会の扉が開け放たれた。
 先頭を切る四人に続いて、棺が運ばれる。行進が始まった途端、会場に手拍子が起こった。
 しめやかな雰囲気など、四人の音が簡単に消し飛ばしてしまった。重厚なのに、どこか軽やかな音を放つ四人に先導されて、棺は表へ向かう。
 夏音たちも棺が完全に教会の外に出るのを、ただぼうっと見ているわけではない。決められた順番通りに整列して、棺の後を着いていく。

 稀代のパレードの始まりである。


★       ★


 世界中がそのパレードを見つめていた。ネットやテレビの前の人間は、カメラが捉える映像を見て、自分の胸が躍り始めるのを感じていた。

 教会の扉が開き、悲鳴混じりの歓声が飛び交う。それらを打ち消すほどの音量が、先頭に立つ四人から発される。
 そこには、ありとあらゆる感情が嵐のように渦巻いていた。悲しみも、その反対に喜びや興奮も等しく吹き荒れている。
 ジャニスの棺を挟むように黄金に輝く管楽器を手にした奏者たちが歩みを進める。周囲に爆発する感情と呼応するように、上へ下へと振り回す音の指揮がそこに集まる人々を先導した。
 棺が車に納められるその一瞬まで、音は鳴り止まなかった。
 霊柩車のドアが閉ざされ、ファンの感情は爆発した。
 幾つもの別れの言葉が彼女へ向けて叫ばれる。これで、終わりなのだ。彼らファンにとっては、すでに死んだとはいえ、自分たちの愛する彼女がこの世の姿をとどめているこの瞬間こそが、別れなのである。
 理屈を並べても、それは取り返しのつかないことを意味する。感情の整理が追いつくはずがない。
 彼女はもうすぐ埋められ、もう笑顔を振りまくこともない。
 それがこの瞬間になって、本格的に理解せざるを得なくなる。

 しかし、これではいけない。

 関係者達は、理解していた。彼女を涙涙で送らせないために、自分たちが何をすべきか。それをよく分かっているから、自分たちは立ち上がったのだ。

 いよいよもって、動き出した音楽家たちに歓声が沸き起こった。道路に並ぶ、トラックやオープンカーが異様な佇まいのまま、用意されていたことに誰もが気づいていた。
 これらの車の用途も、誰がそこで何をするのかも。

 様々なフォーメーションが用意されている。ブラスセクションで固められた車や、歌い手とギターが二人だけの車。ドラマー達は二台のトラックに別れている。
 皆、耳にはワイヤレスのモニターイヤホンを装着している。さらに、それらの音響をコントロールするための音響スタッフが乗り込むトラックもある。
 常に移動しながらの演奏は、彼らの腕が何よりの生命線である。普通なら経験することのない舞台に、超一流の技術者達が集ってくれた。道を歩きながら、音を聴き、ミキサーに指示を出す者とのコンビネーションは必須で、本番中の微調整がかなり重要だった。
 しかし、彼らに不安はなかった。
 ロケーションは最高で、風もなく、泣きそうなくらいの青空だ。

 演者たちが、表に出てきた時。彼らは知らず、涙がこぼれそうになった。これからなそうとしていることが、あまりに尊く、偉大なことであり、この計画を成り立たせる人の心があまりに美しいと感じたからだ。

『Everybody. Check one two...』

 無線にノイズ混じりの声が入る。それは、スタッフ側としてリーダーの立場にいる男の声だった。

『こんな時、なんて言えばいいのかな。今、この場で打ち震えていない者はいないだろう。これから一つの歴史が生まれるのを間近にしているんだから当然だ。
 だが、あえて言っておこう。僕たちは裏方で、表で輝く彼らを全力でサポートすることが僕たちのベストだ。ああ、ごめんよ。これは口にするのも馬鹿らしかったかもしれない。
 やっぱり、こう言おう。誇りに思うよ。ここにいること、全てを。やってやろう。
 あのスーパーヒーロー達の音をまともに鳴り響かせるのは、至難の業だ。でも、僕たちはできる。やってやろう。ジャンのために』
「ジャンのために」「ジャンへ」「ジャンのために」

 心は一つに向かっていた。近づいてくるラッパの音が、最高のエンジンになる。


★      ★


 ベースを受け取った夏音はトラックの振動を感じながら、若干不安になっていた。

「転ばないか不安だなあ」

 のろのろと牛のような速度での行進だというのは分かっているが、足下が不安定なのは気になってしまう。
 イヤホンの感度をチェックして、アンプから出る音を確かめる。
 同じトラックには、クリスとディレクの二人のベーシスト。ドラムは譲二とフィリー。トロンボーンのデイジー。トランペットのジョナサン、トミー。サックスのエディ、アルバート、チャールズ。オルガンのカウント。
 歌い手はアルヴィとソフィア、クリフの三人である。
 一番巨大なトラックは、通常はアーティストのツアー機材を運搬するような規模のものであり、それを宛がわれた自分たちは一番注目を浴びるだろうと確信していた。

「どうだい、壮観だろう?」

 話しかけてきたのは、エディだった。この後、序盤から長いソロをとる予定の彼には緊張の気配は微塵も感じられない。
 どこまでも気楽な様子で、数千人分の視線を楽しげに浴びている。

「久しぶりで緊張してるだろ?」
「まさか」
「ジャンが棺の中で頭を抱えてしまうようなミスはしないでくれよ」
「それこそまさか、だよ。彼女は俺がミスする度に最高に楽しそうだった」
「そういえば、そうだったか? 性格悪いな」
「違うよ。俺がステージから帰った後に悔しくて泣くだろ。それを慰めるのが好きだったんだって」
「ひねくれてやがる」

 ハッ! と笑い飛ばしたエディに夏音も「同感だね」と声を立てて笑った。

 群衆のざわめきは、マイクを通したヴィクターの声によって止んだ。

「準備はいいかい」

 喝采が飛ぶ。手を大きく天に振りかざし、オーディエンスとなった人々の気配が変化する。
 こうした感覚には覚えがあった。
 そして、これからさらに懐かしい世界に身をゆだねることになる。

「世界で最も騒々しい葬儀だ! 一緒に来るかい?」
 
「イェーー!!」合わさった意志が彼らの瞳にはっきりと見える。

「オーライ、マーク」

 マークを名指す。前に出てきた彼はじっくりと聴衆を端から端まで見渡した。

 それは唐突だった。教会の前に歪んだギターの音が鳴り響くのはあまりに違和感がある。
 そのような感覚すら追い抜いて、マーク・スループのギターは音楽の世界の扉を一瞬のうちに大きく開け放った。
 その扉の奥から大洪水のように押し寄せた音の波に、聴衆は慌てた。

 自分たちは何を突っ立っているのだ。離される訳にはいかない、と。

 最初は小さな揺れが、すぐに伝播していき、巨大なグルーヴの波打つダンスの群れをつくった。
 DULFERのStreet Beats。原曲の原型もないほどアレンジされ、一瞬でアクセルを踏みきるのにふさわしい疾走感を持っていた。
 すぐに始まるエディ、アルヴァート、チャールズのソロの掛け合い、もとい奪い合い。ルールなどない。彼らが競い合う姿は、あまりに激しく、魅力的だった。
 アグレッシヴなサックスの荒々しい歌声が熱狂を生み出していった。
 夏音のベースは譲二のキックとタッグを組み、グルーヴの根底を完璧に支配していた。単調なリフの繰り返しなのに、中毒性のあるループ感を生み出している。
 やがてソロをとる人間は移り変わっていく。音の中心を独占していた五人が一瞬で影に潜むと、別の車の上で立ち上がるボニーとルーシーがクラリネットとフルートで仕掛ける。
 音の質感ががらりと変わり、暴れ回るクラリネットとフルートが力強く絡み合う。
 やがて二人が一礼して楽器から口を離すと、割れるような拍手が送られた。

「ルーシー・フェイザー! ボニー・ミッチェル!」

 ヴィクターがマイクの前で二人の名を叫ぶ。それからは楽器隊のイントロデュース・ソロに続き、やっと全員分のソロが終わったところで曲が終わった。
 鳴り止まない拍手というのも、実に圧倒されるものである。誰もがこの演出を認めてくれた証拠だ。

「さあ、出発だ」

 いよいよ車が動き始めた。先頭には警察が先導し、この列が途切れたり止まってしまうことはない。
 町中にはファンや見物人が歩道を埋めつくした。それだけでなく、教会からずっとついて来る人々を引き連れ、音楽隊は止まることを知らなかった。


★      ★


 世界一騒がしい葬儀の最中。その現場から十五時間ほどの時差がある日本では、少女達が深夜にも関わらず、パソコン画面に釘付けになっていた。
 軽音部の面々が互いの家に集まることは稀である。夏音の家か、唯の家以外に気軽に遊びにいくといったこともないのだが、今回ばかりは珍しい場所にいた。
 梓の自宅である。軽音部一同が中野家に集まったのには理由がある。ジャニス・コット・スループの葬儀を見ようと唯が言い出したことがきっかけだった。
 話が進むと、すぐに日本のテレビ局では流れないことが判明した。
 そこで、中野家がアカウントを持っているサイトだと、生中継の様子が見れることを知った一同は、これを利用しない手はないと梓の力に頼ることにしたのだ。
 梓の自室には高品質なオーディオが揃っており、PCと接続されている外部スピーカーもハイエンドなものであった。
 インターネット回線も速く、ディスプレイの解像度もばっちり。まさにうってつけの環境だったのだ。
 滅多にない娘の懇願に梓の両親は彼女たちを泊めることを快諾してくれた。

「ごめんな、梓。急に押しかけることになっちゃって」
「いいえ! いいんです。私も気になってましたし、どうせなら皆さんと一緒に見た方がいいです」
「ごめんねあずにゃん・・・・・・成長期なのに」
「どういう意味ですか唯先輩」
「夜更かしさんは大きくなれないんだよ」
「一日くらいでそんなに変わりません!」

 中継が始まると、騒がしさもなりを潜めた。
 教会内部の様子が固定カメラに映り、自分たちの知り合いらしき人物の姿を確認できた時は誰も声を発さずに吸い込まれるようにその様子に見入っていた。
 当然ながら夏音は英語で語り、その場にいる人々と空気を共有している。自分たちには何が何だか分からないが、感動的な場面であることだけは察した。

「あ、これ。ジャクソン5です!」

 スピーチの後に夏音が歌い始めた歌に梓が反応する。他の者でその曲を知る者はいなかったが、友人の歌声に感じるものがあった。

「素敵な曲ね。私、この歌好き」

 ムギが素直に感想を述べると、澪も頷く。

「マイケルの曲は知ってるけど、昔のはあまり知らなかったからな。今度聴いてみようかな」
「でも、なんだか哀しくなってくるね」

 唯が別の感想を口にする。

「夏音くん、あんなに良い表情で歌ってるのに、どうしてこんなに哀しくなるんだろ」

 唯の疑問は純粋に心に浮かんだものだったかもしれない。その疑問すぐに応えられるものはいなかった。

「抑えているんだろうな。あいつは」

 少し経ってから澪がぽつりと零す。誰も反応しなかったが、澪は続けた。

「昔、あいつが言ってたんだ。ステージの上でスポットライトを浴び、歌う者は決してそこで泣いてはいけないんだって」

 夏音は、かつて澪に語ってみせたことがある。

『幾人もの聴衆を涙させる曲を歌う人は、いつも泣きじゃくりながら歌うのかな? 悲しい曲、切ない曲だ。その歌詞には悲哀がある。涙がある。その詩はたんと儚くて、主人公は泣いちゃうほどの想いを募らせていているんだろうね。
 でも、歌い手は泣かない。音楽は抑制しなければならない。本当の意味で、真に剥きだしのものを芸術と呼べるのは稀だよ。涙をこらえて、あふれる一歩手前。そこから悲しみは伝わるんだと想う。泣きながら歌う歌手を見て涙腺を緩める人は歌の力に酔っているわけじゃない。ただの同情とか、それに近いものだろう』

 長々と夏音が語る内容は彼の持論の一つだったのだろう。彼は自分が暴れたり、鬼気迫るベースプレイの際には、観客には彼の野生が本能のままに暴れていると思わせ、その実はとても冷静なのだという。

「感情とか、想いを純粋に音楽に乗せて伝えられるってすごいよな」

 どのラインからなのだろう。どこまでいけば、その境界線を越えるのだろうか。格好良いと思わせるのは存外、難しいことではない。
 だが、人の感情を揺さぶる力は理屈ではない。

「画面越しなのに、ってか・・・・・・」

 両膝を抱きしめた律が言った一言に沈黙が流れる。じっと画面に視線が集まり、歌う夏音の姿に見とれる。
 それからは誰も喋らなかったが、それも式が終わるまでだ。
 カメラの映像は教会の内部から外に移り、そこで唐突に始まったパレードを映し出した。

 それは少女達の知らない世界だった。数多くのミュージシャンが車の上で演奏を繰り広げ、その場にいる者たちは彼らの音楽に応えている。まるで、祭りのような光景は葬儀の最中だとは思えなかった。
 惜しげもなく披露される超人的なソロばかりではない。バンドが一つの生き物のように交わし合う音の扱いが桁違いなのだ。
 彼らの間には、明確な繋がりがあって、同じ呼吸をしているかのように変化する。変幻自在に広がっては返り、上へ行っては急降下。
 誰かが抑えると、そこには次の展開の完成形が用意されている。

「すっご・・・・・・ここにいられたらどんなにいいか」

 羨ましいと視線が訴えている梓がぎゅっと手を組んで震えている。梓にとって、彼らの音楽はルーツそのものであり、その光景は喉から手が出るほど羨ましいものなのだろう。
 ブラック・ミュージックに傾倒している梓以外の人間は、曲名すら知らないものばかりだったが、本物の演奏に心を打たれているのは間違いなかった。

「この曲、なんか聴いたことあるな」

 律が首をひねって新たに始まった曲に反応する。

「sing sing singです。うわぁー。このメンバーでやっちゃうんだあ」
「なんか目が怖いぞ梓」

 深夜の時間帯にテンションがおかしくなっているのだろうか。梓の興奮はもはや隠しようのないほどだだ漏れであった。

「だって、もう二度と聴けないですよこんなの! うわぁこの構成でやるんだー!」

 聞き覚えのある曲に図らずもテンションが上がった一同だったが、梓の温度との差があるのは確かである。

「吹奏楽とかでやってるイメージだよねー」
「ああ、映画でも使われてたんじゃなかったか?」
「この曲は私も知ってる!」

 聴くだけでノリノリにさせられてしまう魅力があった。画面の中の演奏者達は心から楽しそうに踊りながら演奏している。

「うわ、このドラムソロやばっ!」

 クレイジー・ジョーこと立花譲二のドラムソロは圧巻であった。彼本来の要塞のようなドラムセットではなく、非常にシンプルなドラムセットに収まる彼は幾つ手足があるのだろうと耳を疑ってしまうほど多彩な音を鳴らす。
 一つ一つが的確で、自在。律は言葉を失い、一分にものぼるソロに吸い込まれていた。

「この人にドラム教わったのか、澪」
「・・・・・・・・・・・・そうみたい」

 何とも気まずそうに小さくなる澪。不純な動機から譲二にドラムの教えを受けた澪は、非常に身の置き場がなかった。幼なじみからさりげなく突き刺さる視線に耐えきれなくなったのか、誤魔化すように画面を指し示した。

「あ、夏音が映った!」
「さっきからちらほら映ってんじゃん」

 夏音の乗るトラックが中心に映るので、先ほどから夏音の姿は画面に入る。メインはヴォーカルの女性達だが、その中には夏音の実母であるアルヴィ・マクレーンもいる。

「ところで、このパレードはいつまで続くんだ?」
「たぶんお墓に着くまでじゃないでしょうか? ファン達がどこまでついて行けるのかは分からないですが」

 パレードが開始されてから三十分は経っている。これは墓地に彼女を埋葬するまでの道なのだが、このペースで進むのであれば、いつたどり着くのか分からない。
 少女達が持ち寄ったお菓子や、梓の母親が差し入れてくれた夜食はとうに腹に入れてしまった。育ち盛りの少女達が夜中まで起きているとなると、小腹が空いてくるのは当然だ。
 ついに誰かの腹の音が鳴る。

「みおちゃん・・・・・・」

 唯がしたりげな声で澪を見る。

「今のは私じゃないからな!」
「うんうん。お腹すいちゃったよね。もう持ってきたのは全部食べちゃったし」
「あ、下から何か持ってきましょうか?」

 澪が「私じゃないのに・・・・・・」とぶつくさ言っているのは華麗にスルーして、皆はぐっと体を伸ばす。
 ずいぶんと集中して中継を視聴していたので、すっかり体が固まってしまったらしい。

「いや、それは悪いな。近くにコンビニあったよな?」

 律が提案すると、梓が不安な目つきで律を見つめ返した。

「でも、こんな時間ですし」
「だーいじょうぶだって! みんなで行けば怖くない! 私だってたまに夜中にコンビニ行くし」
「律先輩は大丈夫かもしれないですけど・・・・・・」
「んだとコラ」

 しかし、時刻はすでに三時半にせまっていた。この時期ならば、もう少しで日が昇ってくる時間である。
 歩いて五分ほどの距離なので心配ないと律が言い張るので、一同はコンビニに買い物に出かけることにした。
 中継に関しては、少しくらい外していても終わったりはしないだろうと意見が一致した。


 すでに就寝している梓の両親を起こさないように、こっそりと音を立てずに玄関を出た。セミの音がやけに響き、熱気が襲いかかってきた。
 気温は高いが、湿気は意外と低い。薄着の少女達は梓の両親に見とがめられることなく家を出られたことでほっとして、目的のコンビニまで歩き出す。

「私、こんな風に夜中のコンビニに行くのって初めて」

 ムギが途端に言い出したことに、この少女の特異性をすでに認めている軽音部一同は「なるほどな」と思った。
 お嬢様であろう彼女が夜中に家を抜け出すことは難しいだろう。きっと、セキュリティが張り巡らされた邸宅では、夜中に庭に下りた瞬間に警報が鳴るのかもしれない。
 勝手な想像が巡ったところで、うきうきとはしゃぐムギの姿は癒しになった。


「それにしても、肩いたー」
「そういえば、ずっと同じ姿勢で見つめっぱなしだったもんねー」

 じっと何時間も画面を見ていたら肩や首が凝る。しかし、夜中のナチュラルハイにかかっている少女達は、それでも足取りは軽かった。

「はぁーあー」
「どうした梓。乙女の身空でそんな重苦しいため息」

 梓が漏らしたため息に律が反応する。

「あそこにいれたら、どんなに幸せなんでしょうか」
「ああ、そういうこと。ああいうの、お前にとってはど真ん中なんだよなー」
「もちろん! 夢のような曲目でした!」

 拳をぐっと握り、力が入る梓に律は苦笑した。

「でもよかったのか? こんな風に外出ちゃって。ずっと見てたかったんじゃないのか?」
「ああ、いえ。それなら大丈夫です。実は、あの番組って有料会員は録画できるんですよ。色々と縛りはありますが」
「は・・・・・・?」

 ぴしりと固まった律に、梓は気づかずに続ける。

「何でもアリでしたね。モータウンに、スィング・ジャズ。西海岸だろうが東海岸だろうが、バップだろうがフュージョンだろうが、関係なしにぽんぽんやっちゃうんだもんなあ。流石ソウルミュージックゆかりの土地・・・・・・ロックが生まれた土地。やっぱりエルヴィスの曲もやったし・・・・・・」

 彼女の心は今、アメリカ南部にトリップしているらしい。完全に独り言の域にある言葉は止まらない。梓にとっては、それほど感動的な内容だったということだ。
 およそブラック・ミュージックとカテゴライズされる音楽。また、そこから派生した音楽が好きな梓にとって、思わず涎が垂れてしまいそうなセットリストだったらしい。

「あーずーさー。楽しかったんだねよかったね、って言いたいところだが! 録画できるんなら、わざわざ夜中に集まらなくてもよかったじゃねーかー!!」
「・・・・・・・・・あっ」
「『あっ』じゃねー」

 がしっと梓の首に腕を回し、しめ落とそうする律を澪が宥める。

「コラ。後輩をいじめるな」

 そして、律を梓から引っぺがすと腰に手をあてて、言った。

「それに、唯が見ようとか言い出して、『そうだなー。生中継だっておもしろそー。みんなでみようぜー!?』とか強引にまとめたのはお前だろうが!」
「いや、ほんとにみれるなんて思わなかったし~?」
「ずっと夏音くんから連絡なくてハラハラしてたのが丸わかりだったよね!」

 唯から発された言葉に律が「うっ」と怯んだ。天然娘がついてくる図星は、時折こうして律の痛いところを平気で貫く。

「いや、心配とかっつーか? 友達の晴れ舞台だし、みとこーって。普通だろうが、ああん!?」
「うわ。今までみたことないキレ方してる」

 律のキャラにそぐわない反応に、澪が珍しそうな表情をする。そんな律をみて、くすくすと笑いを零すムギ。
 律は少しだけ赤らめた頬を隠すように、ずんずんと前に進んで歩いていってしまった。

「先輩って、意外にかわいいんですね」

 梓が目を丸くして、ぽつりと呟くと澪もそれに同意した。

「基本がまじめで良い奴なんだ。かなり心配性だし、面倒見もいいからな。けど、ああやって本音が出ることを嫌うんだ。なかなかヒネくれてるだろ」
「はあー。複雑ですね」

 それこそ、乙女心と呼ぶのだろうが。梓にしてみれば、律の意外な一面を目の当たりにして予期せぬ発見であった。

「アイス~アイス~きみを愛す~」

 ムギに負けないくらいウキウキと、遠足に行く小学生のように小躍りする唯に澪は眉をひそめた。

「こんな夜中にそんなもの食べたら大変だぞ」
「え、なんでー?」
「なんでって、そりゃあ」
「私よく夜にアイス食べるよ。それに夜に食べても太ったりしないんだー」
「・・・・・・・・・」

 梓は近くの二人から静かに立ち上る殺気に身を震わせた。

「で、でも! もう皆さん夜中にお菓子とか食べちゃってますから! この際、いいのではないでしょうか?」

 必死に口から出た言葉に澪は「それもそうか」とあっさりと怒気を収めた。

 それから十分ほどですぐにコンビニから出てきた少女達は、ビニール袋に軽食を詰め込んだ袋を手にしていた。

「あ、空! 明るい!」
「おー、ほんとだ」

 唯が声を上げて指さした空に目がいく。東の空が微妙に白み始めていた。

「朝だねー」
「朝ねー」

 嬉しそうに笑い合う唯とムギは、何がそんなに嬉しいのか。手を取り合ってはしゃいでいる。

「おっそるべき徹夜のテンション」

 律が半笑いで彼女たちの様子を言い表した。体はへとへとで疲れているのに、頭と目が冴えている。
 どこか非日常にずれてしまったような感覚に気分が高揚してしまうのである。

「どうせだから、ここで食べちゃうか?」
「え、でもそういうのはマナーが悪いだろ」

 律の提案に澪が難色を示す。店の前でたむろされたら、コンビニの店員にも迷惑になる。あくまで良識に従う澪の意見に律は「じゃあ、どこかそのへん」と言った。

「すぐそこに公園がありますけど」

 何故か外で食べる方向に話が進んでいるが、このままコンビニ前で地面に座ることになるよりはましだろうと考え、申し出た。

「うん。じゃあ、そこにするか」



「警察に見つかったりしたら、補導されますよね。まちがいなく」
「そん時はそん時だって」

 女子高生がこんな時間に外出しているのは世間的に問題だ。警察だけでなく、近隣住民から通報される可能性もないとは言い切れない。となれば、学校側に連絡がいってしまうことになる。
 しかし、ほとんど彼女たちはそんなことに気を回していなかった。梓も口では心配してみたものの、正直どうでもよいとさえ思っていた。
 何とでもなれ、というべきか。大袈裟にいえば、無敵感が今の彼女たちにはついていたのであった。

「もうほとんど明るいわね」
「そうねー」
「夕焼けみたいで綺麗!」
「おまえら朝焼けに謝れー」

 日が昇ってくるその遙か先で、自分たちの友人がベースを弾いて、聴く者を踊り狂わせている。
 もしかして、一緒に歌っているかもしれない。あんなにも音楽に溢れている空間があるのに、この場所にあるのは、セミの鳴き声と夜明けの静けさ。
 騒々しさとはかけ離れた空気の中、ゆっくりと明るくなっていく世界の中に自分たちはいる。
 変な時間に腹を満たし、誰が喋るわけでもなく、静寂に身を任せている。沈黙は苦痛にならない。不思議な時間だった。
 そばの道路を走るカブは、新聞配達の帰りだろうか。すっかり空になった籠には、数部の新聞が残ってる。
 犬の散歩をする老人には、訝しむような視線を投げかけられた。

「ふぁ~」

 大きなあくびが唯から漏れる。それが引き金になり、見事に連鎖していったあくびに思わず笑いが起きる。

「まあ、帰るか」

 律がそう言って立ち上がると、皆それに続いて立った。

「続きは録画で見るかな。あたしゃー、そろそろ寝たいよ」
「私も~」
「あずにゃんのベッド~うふふ~」
「唯先輩は床です」





★         ★



「もう笑いがとまらんよ!」

 相当できあがっているヴィクターが叫び、そんな彼の肩を叩く者が大勢いた。
 バシバシと叩きすぎて少しむせたが、それでも周りの笑いは止まらない。

「いや~傑作だ。こんな経験をしたのは初めてだ! これでジャンも浮かばれようよ!」
「ジャン! ジャーーン!」
「ハレルヤー!」「愛してる!」

 この人達の盛り上がりの頂点はいったいどこにあるのだろうかと本気で疑問を抱いた夏音であった。
 パレードが終わり、聴衆を置いて速度を上げたトラックは墓地にたどり着いた。それからは、特に語ることもない。
 彼女を埋葬して、終わりだ。
 やれ、終わったと全員が不思議な充足感を味わっていた。とてつもない大きな仕事をやり終えた時のような心地よさ。疲れはあれど、それを上回るものに酔いしれていた。
 しかし、本当の意味でジャニスを送る一日は終わっていなかった。夏音はすっかり頭から抜けていたのだが、ジャニスの家に戻った後にパーティーが待っていたのだ。
 昨日ぶりに訪れたジャニスの家は、夜半にかけてひっそりと組み立てられた小規模だが立派なステージ。そこら中にテーブルと椅子が並べられ、フェスティバルがやって来たかのようであった。これに観覧車やメリーゴーランドがあれば完璧だった。
 流石に目の前に広がる光景に夏音は唖然としてしまった。

 その会場には大勢の人間がいた。流石に近所付き合いのあった人間は例外として、一般客は入ることはできなかった。メディアもだ。
 ヴィクターいわく「このパーティーは、完全にジャンと私たちが楽しむためだけのものだ」そうだ。
 重役から解放されたヴィクターはいささか羽目を外しかけている気がする。よほど大変だったのだろう。
 皆、先ほどから代る代る彼を労り杯を交わしている。

 夏音はというと、何故か関係者の間をたらい回しにされていた。集まった音楽関係者はほとんど知り合いだったし、交流のある人もいた。皆、久々に現れた夏音の姿に揃って驚いては気をよくした。
 あちらこちらへと挨拶をしては、「ヘイ、ランディー! ちょっと来てみろよ! カノンがいるんだぜ!」といったように、次へ回される。
 見世物にでもなったような気分だったが、久々に再会した人々は皆温かい笑顔で夏音を見つめてくれた。それは決して悪い気分ではなかった。

「ポール。モテてるね」

 ようやく「カノン回し」が終わったところで、解放された夏音はたまたま目についたポール・アクロイドに話しかけた。
 彼は、子供たちに囲まれていた。両膝や脇を占領され、どうにも動けないでいる彼の様子は実にシュールであった。

「そうだな。僕の魅力に年齢制限はないらしい」
「流石だね。じゃあ、あとで」
「ま、待てよカノン。そろそろ君が弾くべきじゃないか? 僕も一回くらいはステージに上がれと言われているんだ。ちょうど良い」

 彼は子供たちを丁重に体からひっぺがすと、夏音の肩を組んできた。

「さあ、マークとレヴィはどこだろう。ついでにジャックも探そうか」
「ジャックはさっき酒瓶持ちながらブランコで遊んでたよ」

 ジャックは今年で三十八歳になるスコットランド人だ。スタジオ・ミュージシャンで鍵盤使いである。

「何をやろうかって言っても、決まってるよね」

 Silent Sistersのメンバー三人、プラス一人は元メンバーが集まっているのである。

「そのためのジャックさ。彼は幾つか僕たちの曲を覚えているから、誘うんだ」
「あのさ、ポール。例の話なんだけど・・・・・・」
「ヘイ、ジャック! お楽しみか!?」

 夏音が何かを切りだそうとした矢先、ポールはブランコに収まるオッサンの姿を見つけて声をかけてしまった。

「ああ、ポール。こうしていると、懐かしい気分になるんだ。おっと、気をつけてくれよ。その辺はさっき俺のションベンが通過したところだ」
「ファ×ク。子供たちには見せられないな、こんな大人の姿は」

 ポールに同感である。こんな男が凄腕のピアニストだと誰が思うだろうか。

「これからステージで何かやろうと思うんだが、どうだい?」
「おお、それはいい。さっきから俺は自分がただのションベン製造機なんじゃないかと思い始めてたんだ」

 もう色々とひどい。こんな大人にはなるまいと思える人間も周りにいると、彼らは実に良い教師になる。反面教師ともいうが。
 夏音は悪影響が及びそうな環境で自分がそれなりにまともに成長できた原因の一つをしげしげと見つめた。

「ちゃんと演奏できるの、この人」



★        ★


「パイはいらないの?」

 誰も聞いちゃくれない。アルヴィは先ほどから自分がパイをすすめた途端に全員が難聴になる現象にへそを曲げていた。
 いつの間にか、テーブルには誰も手をつけないパイが長時間放置されていた。よく見るとほんの一切れが欠けている。
 勇気ある者か、はたまた無知なる者が迂闊に手を出した結果が、家のトイレの中に現在も確認できるという。

「いつどのタイミングでしこんだというんだ」「何で他人の葬式で死人が出なければならないんだ」「ジョージが止めないから」「あいつはあっちで潰れかけてるよ。酒弱いくせに」

 ぼそぼそと囁かれる会話は、もちろんアルヴィの耳に入っていた。アルヴィは陰口が嫌いである。
 すぐに立ち上がると、こそこそと会話していた人物に近づいた。

「もう! 誰もとらないからなくならないじゃない。あなた達、どう?」
「い、いや。遠慮しておくよ・・・・・・もう腹がいっぱいでね」
「そうとも。それに酒に甘い物は無理なんだ私は」

 嘘おっしゃい、と内心で舌打ちしたアルヴィは短くため息をつくと、大人しく席についた。自分のパイを一切れかじる。

「なかなかの出来だと思うんだけど」

 パーティーが始まって一時間ほど。代る代るステージに上がり、演奏が繰り広げられる中、アルヴィは騒ぐような気分ではなかった。
 色々と思うところがあるが、それ以前に疲労がたまっている。普段から長距離の移動はライフワークの一つとなっているし、今回のような旅程も珍しくはない。
 しかし、どうにも体は正直だ。今日、自分は精魂こめて歌い尽くした。いつものステージの数倍もの気力が抜け落ちていた。
 こんな時は酒でも飲まずにはいられない。普段は極力アルコール度数の高いものは入れないようにしているが、今夜くらいはと思い、その辺にあった瓶をおもむろに取って開けた。
 そして、そのままラッパ飲みである。

「おおっ! アルヴィも良い飲みっぷりだ!」

 騒ぎ立てる者の声を無視して、アルヴィは瓶から口を離して吐息を漏らす。早くも酔いが回ってくるのを全身で感じる。もともと酒に強いわけでもない。
 足を組み、ぼうっとステージを見つめていた。
 彼女の思い出語りも、急遽クリエイターに頼んで制作したメモリアル・ビデオもすでに終わった。
 飛び入りのミュージシャンの演奏は真夏の夜に気持ちの良い風を呼んでいる。酒で火照った体に心地よい響きと共に、アルヴィは穏やかな夜を感じていた。

「おおっ。ケニーがやるみたいら!」

 エディが最早ろれつの回らない口調で叫んだ。ステージ視線が一瞬で集まった。
 アルヴィもこれには少し驚いて、とろんと落ちかけた目を押し広げた。
 夏音がステージに上がることはさして驚くことではないが、一緒にいるメンバーが意外だったのだ。
 ポール、マーク、レヴィ、ジャック。新旧のSilent Sistersが集まっているではないか。その内、一名はただの酔っ払いであるが。

 口笛の音が何カ所かで甲高く響いた。それは、明確な期待のサイン。

「ハイ、ジャンのために何曲かやらせてもらうよ」

 ポールはいつもステージでは手短に喋る。基本的にMCが少ないバンドとして有名だが、こんな所でもそれは変わらないらしい。
 果たしてどんな曲が飛び出してくるか。曲の幅広さには定評のあるバンドは、世のメタラーを唸らせるような激しい曲から、甘いバラードまで様々な顔を持つ。

 始まりは驚くことに、ポールの歌声のみだ。

 まるで明かりが何倍にも増えたような錯覚に陥る。それも目映い明かりではなく、隅々まで照らすが、それは淡い月光のような冴えた青色に見えた。
 穏やかに響き、聴衆を黙らせる歌声は見事としか言いようがない。
 アルヴィは、自分も同じように歌声を武器にしている者として、彼のような才能を持った人間を心の底から尊敬せざるをえない。
 アカペラで始まった曲は、聞き覚えのあるものだ。まさか、彼がジャニスのヒット曲のカヴァーをするとは誰も予想しなかっただろう。
 ワンコーラスまるまるを一人で歌いきったポールに楽器の音色が重なる。曲が生き物のようにしなやかに躍動し始めた。彼の世界に輪郭が伴った。
 形の次は色彩が。その先に見え始めた情景に息をのみ込むことすら忘れそうになった。

 彼らは、まるで一枚の巨大な鏡を作ってしまったかのようだった。彼らが発する全てが自分の中の何かを引っ張り出して、そこに映し出すのだ。
 ジャニスとふと交わした会話だったり、出逢った頃のこと。今日一日の中で何度も浮かんでは消えていた光景が胸の中にしっかりと留まっているのである。

 アルヴィは次の曲が進む中、また別の気持ちが胸の中に表れていた。
 ステージに立つ息子の姿を見たのはいつ以来だろうか。今日は一緒にステージに立ち、それもたまらなく懐かしさを覚えたが、傍目から見た夏音は彼女の知っている息子の姿とは少し違った。
 この数年を日本で夏音がどう過ごしていたのか。アルヴィは何も見ていなかったのだと思い知らされた。
 自分たち大人にとっての三年と、十代の少年の過ごす三年の違いを理解していなかったのだ。
 子供の成長を感じる瞬間は、いつでも親の元から離れていく瞬間と重なる。少しずつ自分の知る子供ではなくなってしまう夏音が、まるで別人のように思えて、切なくなった。

「(知らないわ。こんなの。いつの間に、こんなに)」

 いつしかジャンにも言われた。自分たち夫婦は何も見えていない、と。彼女の言葉の多くは正しくて、その言葉もやはり的を射ていたのだ。
 アルヴィは、夏音が音楽から離れても構わなかった。息子が成長していく過程で、音楽は自然であり、必然だった。
 プロとしてのデビューも良い悪いなしに、それが当然だとすら考えていた。
 息子が犠牲にしていることにも気づかずに。自分のことばかり考えて生きてきた者が親になっても、こうしたボロが出てしまうのだろう。
 周りの人間も、特殊すぎる。アルヴィと譲二のそうしたスタンスに苦言を呈してきたのは、いつも少数の人間だけ。
 アルヴィは彼らの言葉がやっと胸に響いてきた時には、息子は思春期を迎えようとしていた。そんな矢先に起こった事件は一つのきっかけにもなった。
 夏音を音楽から離そうと考えたわけではない。しかし、息子が普通の男の子のように生活することで、結果的にかつての地位を失っても問題はないと考えていた。
 日本に行ってからも、夏音には辛いことが起こった。アルヴィは、普通の息子の育て方を知らなかったのだ。
 学校で起こる小規模で深い問題に対処する術も知らなかった。夫婦が取った対策は仕事を減らして、息子と共に過ごす時間を増やすことくらい。
 日々を自由に過ごす息子の様子が安定した気がして、新たな高校に送り出してみたりもした。結果的に、それが幸いしたのだろうか。
 顔を合わせる息子の瞳は輝いてみえた。ようやく安心したと思っていた。
 なのに、息子はやはり音楽に導かれていく。どうあっても離れることはできないのだ。
 最近は音楽の仕事を増やし始めていた。それがどう転がるかは分からない、だが息子が選んだことには反対はできない。
 結局、全てを夏音の手にゆだねることしかできないのだ。選択をさせることが何より大事だと考えていた。
 今、ステージの上に立つ夏音を見て思う。自分たちがしてきたことが間違いだったのかどうか。
 はっきりしているのは、今の夏音がここ数年でつかんだその姿に、自分たちは関与していないということ。
 あんな息子を、アルヴィは知らない。
 知らないことが、何よりも辛くて悲しかった。羞恥が平手を受けるような衝撃でアルヴィに襲ってきた。

「立派になったものだ」

 いつの間にか、クリスが隣に腰掛けていた。ステージの夏音を眩しそうに見つめる彼の言葉には、幾つもの感情が込められている気がした。

「どんな風になっているのか。それがずっと不安でならなかった」

 静かに一人語りのように話す彼の声は、不思議と耳に入ってくる。アルヴィは彼の顔に目を向け、黙って話を聞いた。

「私は君から聞く話や、マークが実際に見て感じたものだけを受け取ってあの子の姿を想像するしかなかった。おおむね安心していたが、やはりこの目で見ない限りはどうも、な」

 こうして語っている間も彼の視線は夏音の姿から外されることはない。その瞳に刻み込もうとしているかのように。
 それと同時に遠くのものを目を凝らすかのように見えた。

「あの子は、まっすぐなままだった。全て、これで良い」
「ほんとにそう思う?」

 とっさに口を挟んでしまった。常に賢明な光を讃えた真っ黒な瞳がアルヴィを映す。少しだけ言葉をなくしたアルヴィは瞳を伏せて、訴えかけるように話し始めた。

「これで良かったって思えないの。だって、私たち何もあの子にしてやれなかった。ジャンに顔向けできないわ」
「どうしてそう思うね?」
「反省して、それなりにやることはやろうと努力したけど。どうしても私たちには上手くできないの。あの子はいつでもたくましいし、一人ですっと立ち上がっている。私たちが手をさしのべる余地なんて、ほとんどないの。あの子が折れかけても、最近だって何かに悩んでた・・・・・・。苦しそうなのに、迂闊に手を出せないの。これって親失格にもほどがあるじゃない」
「私の周りで子育てが上手かった奴なんて数えるほどだがね。それに比べたらよくやってると思っていたが・・・・・・」
「どこが!? いや、そう言われればそうかもしれない」

 滅茶苦茶な人間ばかりだ。音楽の才はあっても、人間的に成熟した大人と言えるかと聞かれれば非常に首をかしげる者ばかり。
 アルヴィが目を白黒させて真剣に考え込むのをクリスは声を立てて笑い飛ばした。

「もうすぐひ孫まで生まれる私から言わせるとだね。子供なんて一人で勝手に成長するものさ。父親なんて特にそうだ。知らない間に追いついてくる子供に何度やきもきしたことか」
「そう言われると説得力があるけど」

 釈然としない。この人を例にして良いものかと悩むが、少しだけ得たものはある気がした。

「おごってはならないよ。自分の思い通りに育ってくれるはずないだろう。こっちが知っているなんてタカくくってるうちに、あっという間にいっぱしになってるんだよ。それが自然の摂理だ。見てご覧。あれが君の育てた息子だ」

 アルヴィは盛大なソロで客を沸かせている夏音の姿に目をとめる。自分によく似た息子は、大人びた表情でベースを握りしめている。
 かつて、多くの人の前で演奏をした息子の姿とは重ならない。

「私は、すべきことをちゃんとできていたのかしら」

 知れず漏れていた言葉にクリスは鷹揚に頷いた。

「そうに違いない。子は親の背を見ている。君に似て、あの子もまっすぐだ」

 少しだけ、背が伸びた。大人に混じって演奏していた子供は、その堂々たる姿で、彼の表現を世界に放つ。
 かつて、ポールとレヴィの音に埋もれそうになりながら必死に食らいついていた姿はもうない。
 彼らの音に匹敵する凄みを身につけた。それがどんなに途方もないことか、アルヴィは知っている。

「負けん気の強いところは譲二にそっくりよ」

 マークとの速弾きの応酬を始めた夏音を見てくすりと笑いが漏れてしまう。クリスは不敵な笑みを見せ、そんなステージを評価した。

「すぐに速さに頼るところは、まだまだ若いがな」

 この老練されたベーシストに言わせると、まだまだらしい。



 パーティーは日付が変わっても続いた。近所が物理的に遠くて助かったと思われる。
 音楽は途絶えることなく、彼女が関わった楽曲すべてが演奏された。これだけのミュージシャンが一堂に会すことなど滅多になく、珍しい組み合わせのセッションや、その場にいた映画俳優が思わぬ美声を震わせるといったシーンもあった。
 すっかり朝になり、東の空から日が昇る。群雲にかかるオレンジの光はただ美しく、流石にグロッキー状態の半死体となった多くの者はその光景に言葉を失っていた。
 誰かが帰ると、皆抱き合った。
 これから仕事に戻る者もいる。彼らはまた、遠い場所へ戻らなくてはならないのだ。一人、また一人とこの場を去る中、夏音はぼんやりと芝生の上に寝転がっていた。
 清浄な光を全身で浴びているのに、辺りは酒のにおいが充満している。汗をかいては乾き、ボロボロになった服。疲労の限界を超えて、どこか体が軽い気さえしてくる。
 なかなか抜けきらない。一日で身体に収まったとてつもない熱量が、まだ自分の中で暴れているようだった。

「夏音」

 目を閉じていてもその人物が誰か分かった。隣に寝転んできた譲二は何も言わずにじっと夏音の隣にいた。

「死ぬほど疲れたよ」

 喉から漏れるように出た言葉は弱々しく、そのまま地面に落ちてしまいそうだった。

「良い式だったな」

 譲二が確信に満ちた声で言う。それは言うまでもなかったことだ。夏音はとくに返事をしない。

「夏音」
「なに?」
「俺は、そろそろここに戻ろうと考えてる」

 唐突だった。あまりに唐突すぎたが、何故か驚きは少なかった。アメリカに戻ってからの数日の間で、何故かそうなる気がしていたのだ。

「そう」

 言葉短く答えただけだった。

「すぐに、ではない。どんなに早くても来年以降の話になる」
「うん」
「実は、昨日考えたんだって言ったらどう思う?」
「だって父さんはそういう人じゃない。今さらだよ」
「それもそうか。だが、これはただの報告みたいなものだ。相談とか、決断を迫るものじゃない」
「わかった」

 色々と面倒なことができてしまった。今は深くそのことについて考えたくはないし、父の言葉を額面通りに受け取るのも何か違ってならない。

「俺は、俺のやりたいようにやるからね」

 この宣言だけは横に置いておけなかった。アメリカを離れた時、自分は自分の意志で答えを出した。祖父からの手紙もあったし、ジャンの影響もあった。
 けれど、夏音にはアメリカに残るという選択もあった。この父は夏音に選択肢を残しているようで、その裏にある心を息子に読み取られていないと思っている。
 本当はついて来て欲しいと思っていることなんて、火を見るより明らかなのに。

「そうか」

 夏音の返答に譲二は軽く笑うだけだった。その声がどこか寂しげだったことに夏音は気づかないふりをした。

「さあ、まずは日本に帰ろうか」
「そうだね。日本に・・・・・・・・・・・・ジーザス」
「む? どうした」

 夏音は、がばりと体を起こして驚愕に目を見開いていた。わさびを初めて口に入れた時以来の狼狽を表している。

「連絡、忘れてた・・・・・・」

 何千キロも遠い地にいる友人たちの顔を思い浮かべて、体が震える。

「父さん。息子の相談に乗ってよ」
「なんだ? 嘘の付き方を知りたいなら、俺よりもっと相応しい奴らがさっきまでそこら辺にいたぞ」
「女性の機嫌をとる方法」

 きっぱりと言った夏音に譲二の目がにたにたと笑う。昨日から伸びっぱなしの無精ひげを撫でつけ、内心の喜びが漏れている。
 息子から思春期の子供らしい相談を持ちかけられたことを喜んでいるらしい。
 しかし、その問いは男ならば誰しもが悩み続ける問題である。譲二は少し悩むと、言った。

「最終奥義を授けてやろう」
「ほんと!?」

 夏音の瞳が輝く。父の持つ知恵袋に頼る機会は滅多にないが、この時は父親らしい譲二を頼もしく思った。

「日本人である俺、そしてその血を受け継ぐお前ならやれる。日本には古来から伝承されている由緒正しき謝罪の奥義があってな、その名をドゲ―――」
「もういいよ」

 息子は、それをすでに会得していた。瞳の輝きは失われ、父を見る目が冷えていく。

 苦し紛れに出した答えに息子の落胆を知った譲二は、誤魔化すように笑った。

「まあ、たいていは何か物をあげてれば勝手に機嫌がよくなってるんだが」
「あげるって何をさ」
「それは自分で考えるんだよ。年頃の女の子だろう?」
「んー・・・・・・お菓子、とか・・・・・・CDとか、かなあ・・・・・・うーん。現金?」
「それだけは、やめておけ」

 決して見えづらい部分で歪んでいる息子を心配になった父であった。


 ※これでお葬式編、終わりました。自分しか見えないあたり、夏音も大人にはほど遠いですねー。ちょっとアルヴィが卑屈っぽくうつりすぎないか不安です。
  クリスとの絡みは、もっと別のところで描きたいところです。今回はちょっとできませんでした。


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