「それで、誰かその後の連絡もらった人は?」
珍しく戯れも一切混じらないトーンで律がもの問うが、誰も首を縦に振れる者はいなかった。
時刻は深夜といっていい時間帯。ムギをのぞく全員が平沢家に集合していた。
全員が同時に夏音からのメールを受け取り、連絡を取り合って集まることになったのだ。顔を合わせた時、誰もが混乱を隠せない様子だった。重苦しい雰囲気ではなく、むしろショックのあまり興奮気味だったと言える。
こんな夜分に家に上がることを唯の良心は快く受け入れてくれた。人数分の夜食まで用意してくれたくらいで、とりあえず腹に物を収めたことで少しだけ落ち着くことができたようだ。
「あの、私ニュース見たんですけど」
「ニュース!?」
「夏音くんの!?」
梓が切り出した話に飛びつくような反応。梓は「いえ」と首を振って続けた。
「いえ。日本のニュースではあまり大きく報道されてなくて。ジャズ専門のニュースサイトっていうか、そこのデイリーニュースをチェックしてたら私も驚いちゃって……たぶんコレだろうっていうか。それしかないなって確信しました」
「おい、それじゃ何が何だかちっとも分かんないって」
梓の説明はどこかちぐはぐで、おそらく本人も冷静でいないのだろう。
「すみません。ジャニス・コット・スループというジャズの歌い手が亡くなったんです」
まだ彼女の説明は要領を得ない物だったが、それでもその場にいる人間はぴんときてしまった。
「スループって……あの?」
律が確認するような眼差しで梓を見る。梓はこくりと頷いた。
「夏音先輩とは旧知の仲、なんだと思います。詳しいことは知りませんが、何回もセッションしてますし、彼女のアルバムのベースを弾いたこともあります」
「じゃあ、その人が死んだからお葬式ってことか?」
「おそらくは」
固い表情の梓の答えに沈黙が降りる。そして、その沈黙を破ったのは律の深い安堵の溜め息だった。
「なんだぁ~。びっくりして死ぬかと思ったあー」
しかし、その様子に目を釣り上げた澪が厳しい口調で彼女を咎めた。
「なんだじゃないだろ。夏音の大切な人が亡くなったんだぞ」
「あ、いや。そういうわけじゃ」
体を起こして姿勢を正した律がいたたまれなさそうになる。
「今頃、てんやわんやになってるんじゃないか? 荷造りとか、飛行機のチケットも取らないといけないし」
澪が痛々しげに顔を歪めながら言う。
「確か彼女はメンフィスに在住していたので、夏音先輩も今頃はそちらに向かっていると思います」
「メンフィスってどこ?」
唯が訊ねると、
「テネシー州にある都市です。忌野清志郎が名誉市民だったり」
「わりとどうでもいい情報の類じゃないか、それ?」
「おい清志郎なめてんの?」
「き、清志郎を馬鹿にしたわけじゃないもん!」
どうして清志郎でそこまで熱くなるのか理解に苦しみながら、梓は先を続けた。
「夏音先輩が住んでたのはLAですから、今回は帰省って感じにはならないでしょうね」
「ていうか梓さ。どんだけ夏音のこと知ってんの」
「こ、これはいちファンとして! いや、ウィキペディアにも載ってるくらいで!」
何故か慌てふためいた梓だったが、こほんと咳払いをすると神妙に喋り始めた。
「先輩も色々と大変みたいですし、連絡があるまではあまりしつこくしないようにしませんか?」
「そうだな。そもそも携帯通じるのかもわかんないし」
「落ち着いたら追々かかってくるだろ」
梓の提案に反対する者はいなかった。現状を知ったことで、先行きの不安が解消された気がしたからだ。
「めっちゃテンパっちゃったな。夜中に唯の家まで押しかけてさ」
今度こそ脱力しきった律が笑いながら言うと、それに返すように皆の笑顔が取り戻されていった。
「そうだな。長居するのも失礼だから、そろそろお暇しようか」
澪が立ち上がると、唯が不満そうな顔をした。
「えー? 泊まってかないの?」
「そこまで迷惑かけられないし、明日も学校だろ」
「そんなあ~」
子供のように駄々をこねる唯に苦笑が漏れる三名だったが、何となく今夜は一人でいたくない気持ちは理解できた。
不安は全て去ったとは言えない。しかし、深く考えてしまえば余計に不安が押し出てくる。
唯を諫める言葉を吐きながら、誰もがそれを自分に言い聞かせるようだった。
各々が帰宅して、唯は一人部屋の中でベッドに寝転がりながら天井を見詰めていた。
初めて耳にした名前の女性。唯の知らない音楽を歌っていただろうその人は、もうこの世にはいないらしい。
その女の人がいなくなって、夏音はどう感じたのだろうか。
きっとすごく悲しんでいるに違いない。
日本に来て以来、ずっとアメリカに帰っていなかった夏音。久しぶりの帰国がこんなきっかけというのが不憫すぎた。
夏音の心境を予測することしかできない自分は、彼と連絡を取ることもできずにこの小さな部屋にいる。
唯は、いてもたってもいられないという気持ちを切実に覚えた。もどかしい気持ちは何も行動につなげることはできず、ぶつけられるものもない。
試しにギターを手に取っても、何のコードを押さえてよいかすら分からなかった。
もやもやとした気持ちが晴れることはなく、この感情の処理の仕方を唯は知らない。
顔も知らないミュージシャンを悼む気持ちと、大切な友人がひどく落ち込みすぎていなければいい。
ただ、そう祈ることしかできなかった。
★ ★
離陸してしばらくしてから、夏音は飛行機に乗るのがだいぶ久しいことに気が付いた。すぐに両親や向こうにいる知人。他にも多くの関係者に連絡を入れ、急いで荷造りを済ませた。何を持っていけばいいのか、冷静に考える暇もなく、適当に詰め込んだキャリーケースを抱えて家を飛び出した。
何とか座席を確保してもらい、搭乗口をくぐるまでの記憶は朧気だ。
周りの乗客がシートベルトを外して席を立ち、機内サービスが始まったあたりにようやく心が落ち着きを取り戻したらしい。
携帯の電源はオフにしており、今さらながら日本にいる友人達に詳しい報告をするのを忘れていたことを思い出す。
あまりに突然すぎてびっくりしているだろう。もしかして、自分が日本から出て行ってしまったと考えるかもしれない。
実際に日本からは出た訳だが。
アメリカに戻るということに今さらながら驚いてしまう。実はとんでもないことをしているような気がした。
壮大なドッキリでも仕掛けられているような、何故か騙されているのではないかと疑ってしまう気持ちもどこかにあった。
何と言っても、あれほどアメリカに帰ることに悩んでいたのに、こうもあっさりと日本を離れてしまったのだ。葬儀が終わり、少し落ち着いてから戻るつもりだが、どこか腑に落ちない。
これから向かう先がハッキリと認識できているのに、その先を想像できない。
自分はひとまずシカゴに降り立ち、そこからメンフィス行きのフライトへと乗り換える予定である。
長旅といっていい旅程だが、一刻も早く目的地に辿り着くことが命題なのだ。
夏音は仕事柄、葬儀に参加したことは幾度もある。人間は必ず死ぬものだし、関わる人間が多ければ多いほどそういった場に出席する機会も増える。
そういえば日本にいる間に冠婚葬祭の場に顔を出したことはなかった。それは喜ばしいことのようで、それだけ自分が日本の中で人との関わりをもてなかったということでもある。
日本ではたまに見かける喪服の集団。風俗もまるで違う土地の葬式をまったく他人事として見送っていたが、たまに街中で見かける彼らは揃って黒い服を着ていた。
日本のマナーなのかもしれないが、ふと自分に置き換えて考える。
「(喪服は……レンタルでいいか)」
急ぐあまり礼服の類が頭からすっぽ抜けていた。そもそも、どういった服装で参列すればよいのかも決めていない。
一般的に黒やダーク系のスーツで出るのが間違いないが、夏音の知り合いの葬式は必ずもそうとは限らない。
基本的に変わり者の音楽家たちは、やっかいな遺言などを遺していったりする。
例えば、自分の葬式には全員が赤い服を着てくれというものだったり。
頼むからあいつだけは参列させてくれるな、というものや。他にも式の細かい部分に対する注文だったり、やれこの曲をかけろだの、その度に付き合う参列者達も大概だったが。
「(さて、ジャン。君はどんな風に送られるんだろうね)」
夏音の頭の中で彼女が笑う。豪快にまとめあげたドレッドヘアーの下で白い歯を見せ、陽気に「私を埋める時はマイケルのスリラーを爆音かけてもらうわ!」と言う。
そんな馬鹿な、と呻きそうになったが、彼女のことだから本気で言いそうだ。もしかして、本当にそのまま棺から出てきて踊り出すかもしれない。
いつの間にか口許が笑みの形を作っていた。彼女を思い出す時はいつも笑い出しそうになってしまう。
そんな想い出ばかりよぎる。
すぐ目の前に現実があるのに、やはりどこか夢のような感覚から抜け出すことはできなかった。
自分は彼女の葬儀に出るためにメンフィスまで何百キロもの距離を移動している。けれど、飛行機から降りた先で、陽気な彼女が自分を笑いながら抱き締めるような気がしてならない。
頭の芯が麻痺している。
できれば、この感覚から抜けない方がいい。そう感じた。
長いフライトになる。夏音は少しでも寝ておこうと、アイマスクをつけて座席を全開に倒した。
ビジネスクラスの最後部。最高の席に滑り込めたと言えよう。
耳に挿し込んだままのイヤホンからは彼女の歌声が流れ続けている。自分とやったあの空間が、脳裏に蘇った。
彼女はよく自分とルーシー・アン・ポークの曲を演奏したり、エルヴィスのモノマネをすることが大好きで、心の底から楽しい音楽の時間を生み出す天才だった。
夏音も彼女の陽気さにあてられ、ふざけたアレンジなどをして笑い合ったものだ。スループ一族は基本的に陽気な人間しかいないが、とりわけ彼女は親戚一同が集まれば中心にいた気がする。
一回り以上も年の離れた姉のような存在。彼女が持つ温度はその場にいる者を温め、幸せにしていたのだ。
もう、彼女はいないらしい。
これ以上、考えてはならない。そう思った。
しかし、イヤホンを耳から取ることもできず。遠い昔から響いてくる彼女の歌声と、自分のベースの音が離してくれなかった。
「Jan……」
嗚咽が漏れる。毛布を頭から被って誰にも顔を見られないようにした。
夏音は人一倍よく泣く人間であった。しかし、できることならば人前で涙を見せることが恥ずかしいという気持ちは人並みにある。
けれど「ジャニスの前ではよく泣いていたっけ」と思い返す。それも可愛らしい泣き方ではなかった。泣いた理由は思い出せないが、ぎゃんぎゃん吠えるように泣いていたように思う。
そんな時、彼女はルイ・アームストロングの「What a wonderful world」を歌ってくれた。その度に、優しく囁くように歌う味わい深い歌声に夏音は安心して眠ってしまっていた。
耳をぎゅっと押さえつける。
ただ、もう自分より先に眠ってしまった彼女が恋しくて、胸が痛かった。
シカゴに着いた時は、日本とはまるで暑さの質が違うと感じた。アメリカの大地を踏みしめ、夏音が第一に抱いた感想がそれだった。
約二年半ぶりの母国だが、どうも帰ってきたという気にはなれない。周りに日本人の姿が少ないという点では、「ああ、ここは日本ではないな」と感じる程度であった。
空港というのはある意味どの国においても異国のようなものであって、懐かしさを感じることなどないのだ。
むしろ、久しぶりのシカゴという印象でしかなかった。いつ来てもこの空港は広すぎて、人も多い。あまり長居したい場所ではない。
乗り換えまで時間に余裕があったが、まだ連絡を取る先が山ほどある。それ以前に諸々の面倒臭い手続きやら、国内線のターミナルまでの移動が待ち受けている。
国を移動することの煩わしさを改めて思い出した夏音であった。
「What!?」
夏音は思わず叫んだ。しっかりと英語で叫べたあたり、血肉に沁みているのは英語なのだとしみじみ思ってしまった。
しかし、そんな暢気にしている場合ではない。
とっとと荷物を受け取って移動をしようとした矢先、預けていた荷物がロストバゲージした。
少しの間だけ途方に暮れていると、隣にいた親切そうな老婦人が夏音に話しかけてきた。
「どうしたのかしら?」
「ちょっと俺の荷物が迷子になっちゃったみたい」
「あらまあ」
それから夏音はきょろきょろとあたりを窺った。それからある物を視界に入れると、気の毒そうに目を垂らす老婦人に優しく微笑み、一つの方向を指さした。
「見つかったみたい」
その指し示す先には、ビニールや緩衝材でぐるぐる巻きになったハードケースがあった。老婦人はそれを確認すると、にっこりと笑い、「Have a nice day」と言い残して去っていった。
「こいつを何故か持ってこないではいられなかったんだよなあ」
日本を大急ぎで発つ時、何を持って行こうと考えた時に真っ先に思いついたのがこのベースだった。
まるでそうすることが当たり前かのように、夏音の背に背負われていたベース。持って行かないことが嘘のような気さえした。
普段、夏音が軽音部で弾くのとは違う。特別な一本だった。
「あぁ、そうだ。アルにも連絡しないと」
夏音のローディー、ギターテックと呼ばれる人物。また一人、要連絡者の顔を思い出して頭を抱えたくなった。夏音はターミナルを移動したら、真っ先に彼に電話を入れることを心に誓った。
「ご飯も食べてないし、トイレも行きたいし。ああもう! アメリカって何でこんなに広いんだよ」
久しぶりに自分の育った国の広さを痛感し始めた夏音。独り言にしては声が大きい美形の少年が、いつの間にかその場の注目を浴びていたことに本人は気付かない。
「みんなに会うのも何年ぶりだろう……胃が痛くなってきた」
★ ★
「夏音くん。連絡取れないような場所にいるのかなぁ?」
部室のソファの上で膝を組んだ唯が気の抜けた声を出した。普段はこのソファを持ち込んだ人物がでん! と寝転がっているが、ここ数日の間に唯が陣取っていた。
本人曰く、ふかふかで最高だそうだ。持ち主の居ぬ間に乗っ取ろうという魂胆が見え見えだった。
「電波悪いんじゃね? アメリカってなんか電波通じづらそうだし」
まるで見当外れの答えを出した律に呆れた顔を向けた澪だったが、特に何も口を挟むことはなかった。
電波に関しては日本が後進国だということは有名である。
おそらく、やんごとなき理由があるのだと澪は考えていた。理由なく、連絡を途絶えさせたまま放置されるほど自分達と夏音の絆は薄いものではないはずだ。
余裕ができた時に一通でもメールをくれればいい。そんな心持ちでいることにした澪は、他の者よりは事態を冷静に見ていた。
「ていうか! ここで心配してたってどうにもなんないって。あいつしっかりしてるし、年上だぜ? 何も心配することないだろ」
「でも大事な人がいなくなるってすっごく大変なことだよね。夏音くん泣いてるかも」
という風に唯に心配されていることを本人が知ったらどう思うだろうか、と若干気の毒になった澪であった。
余計なお世話だ、と眉を吊り上げるかもしれない。とはいえ、澪としても夏音が泣いている姿は用意に想像できた。
普段は大人ぶる場面も多いくせに、自分の感情にとことん素直な人間だから、悲しい時に我慢することはない。
大切な人が死んだら、誰だって泣くに決まっている。
厳しい言い方だが、澪にとってジャニスという女性歌手は何の思い入れもない人間である。あくまで、澪にとっては。
そこが何とも問題だというのに。
澪は、夏音の内心を慮ることもしたくない。何となく無粋な気がしたからだ。
長いとも言えない付き合いの中で、澪は色々と彼のことを学んだ。
おそらく、今回のことがあっても。日本に帰って来た時、何も表に出さずに自分達と変わらず接しようとするはずだ。
これだけ周りをかき乱すくせに、何も無かったかのように振る舞う夏音は勝手すぎる。澪はそう非難する心を持て余し、苛立ちさえ覚えている。
最近の態度も、周りに全く影響を及ぼしていないとでも考えているのだろうか。出会った頃から、その場に混ざるだけで誰かに与える影響を本人が自覚していない。
彼の態度や行動からうっすらと見える思惑に気付かないはずがない。一年半の付き合い。一年半という数字で表すと非常に微々たるものに見えるが、その濃度までは表せない。
澪なりに彼を理解してきたつもりであり、彼の行動心理なども朧気ながらも想定できる。
何故、彼が軽音部で急にヴォーカルをやめたのか。梓が入ったことでリードギターのポジションを譲り、そのための新曲にアコースティックギターをまじえた。
まるでお茶を濁すような突貫作業。それでも即席で煙に巻かれてしまう彼の力量にだまされてしまっていた。
ふと気付いてしまった。
今の軽音部をバンドとして考えるならば、いつ彼がいなくなっても、そのまま続けていける。
そんな風に仕組まれていることに。
もう部活動から心が離れてしまったのだろうか。趣味や遊びの域を超えなくても軽音部での音楽の日々は、澪にとってはかけがえのないものだ。
澪にとってはそうでも、彼はいつまでも遊びのままではいられない。いつか区切りをつけて彼の舞台へと戻る日が来てしまうのだ。
プロとして生きる彼の領域に澪を含め、軽音部の皆はなかなか踏み込めない。仕事のことに口出しすることもないし、しつこく質問することもない。
彼が小出しにしてくる話をただ受け入れているだけである。
それも巧妙な手口だったとさえ思えた。
詳細は分からなくても、彼が何らかの準備を進めていることくらいは分かる。
いつか、その準備が整ってしまった時。
彼との別れが来るのだと、確信していた。それが今じゃないとしても、こんなに大きく状況が動くのは心臓に悪い。
澪は、その心境をただ一人抱えていることにストレスを感じていた。自分と同じようなことに気が付き、悩む者が他にもいるかもしれないが、なかなか打ち明ける勇気が湧かない。
これは彼女の勘だが。皆、言葉に出さなくてもうすうすと勘づいている気がするのだ。
そもそもの前提として、卒業という区切りまでこの部活に在籍しているかも確かでない夏音が、ずっと共にいる保証などない。
何かが変わってしまいそうで、恐ろしかった。そして、それを止める力など自分には無いことを澪は知っていたのだ。
為す術もなくなるような出来事が、そっと近づいている。そんな予感が当たらなければいい。
そう思いながら、澪は今や遠い土地にいる友人の顔を思い浮かべていた。この場所に、彼の心はどれほどあるのだろうか。
★ ★
「狂ったように暑いわ」
夏音は母親がFワードを吐き捨てるように言うのを横で聞きながら、ミネラルウォーターをがぶ飲みしていた。
「日本よりましだよ」
ペットボトルから口を離し、一言。
この時期のテネシーは死ぬほど暑いが、日本の蒸し暑さに比べたらまだマシと言える。
夏音は奇跡的にメンフィス空港でアルヴィと合流することに成功していた。タクシーを拾おうかと思っていたところ、迎えが来てくれるらしいのでそれに便乗していくことになったのだ。
一週間と三日ぶりに再会した母は、再会の挨拶もそこそこに大荷物を乗せたカートを目の前の人々を轢き殺す勢いで爆走し始めた。
その後ろを彼女ほどではないが大荷物を抱えた夏音が追う。
「ねえ父さんは?」
「ジョージなら後から追ってくるから大丈夫よ。式の日取りは少し余裕を持たせたっていうもの。今ごろプランを練るのに必死じゃないかしら」
本来であればすぐに葬儀を執り行うべきなのだが、ジャニスの場合は集まるであろう人の数も多い。
全世界、またはアメリカ全土から三々五々と人が押し寄せるに違いない。生前よく彼女が口にしていた。
自分の葬式は盛大にやってもらわないと困る、だそうだ。
日本の場合は葬儀が終わり、納骨までの期間は短い。しかし、アメリカは必ずしもその限りではない。
防腐処理をしっかりと行い常温でも遺体が痛まないように処置を施し、遠くから集まる親類達が間に合うことも可能だ。
彼女は正式に遺言を遺していたらしく、詳しい話はしてもらえなかったが親族一同の中の一部は「我々は何がどうあっても最高の式にしなくてはならない」と意気込んでいるそうだ。
「さあケニー。いい? 視界に入る車の中で一番ぶっ飛んで趣味の悪い車を見つけ出すの」
「もしかして迎えに来るのはローリーおじさん?」
「大きい車が必要じゃない?」
その返事の意味は肯定ということらしい。ローリーおじさんというのは、夏音の実際の叔父ではない。
母の従姉妹の夫という、関係図にしてみれば他人のようなものだが、何故か彼は夏音に「uncle Laurie」と呼ばせるのだ。
アルヴィはそれを不気味がっていたが、夏音は何の疑問もなく彼をそう呼ぶ。今さら返るのも違和感があるので、変えることもない。
「おじさんって車何台持ってるんだったっけ」
「さあ~。あそこの家の子供の数より多いのは確かね」
おじさんの子供は五人だ。この不景気の中、随分と羽振りがよい。
アルヴィはああ言ったが、おじさんは車の趣味が悪い訳ではない。
まともな車に特殊な加工を施す才能が皆無というだけだ。
「見つけたわ」
「うん。俺にも見える」
車の前半分が真っ赤で残りがコバルトブルーという配色のハマー。さらにサイドには路地裏の落書きのような悪趣味なペイント。
さらに驚いたことに左側の側面には黄色いエルヴィスの肖像画が。メンフィス仕様ということだろうか。
窓を全開にしてこちらに手を振っている中年の男の白い歯がやけにまぶしい。
「さあ。あれに一時間以上閉じ込められる拷問を受ける覚悟はいい?」
アルヴィが心の底から嫌そうに呟くのを聞いて、夏音はそっと溜め息をついた。
「まさかケニーがこんなに大きくなるなんて。顔つきだってもう大人みたいじゃないか、なあ?」
ミラー越しにおじさんと目が合う。彼はあの後、車から降り立ってから夏音を目にすると悲鳴を上げた。それから「アーメン!」と天を仰ぐと、夏音を盛大に抱き締めた。
おじさんはハグの力加減を知らないようで、いつも夏音は抱き潰されそうになる。
「髪だって真っ黒だ。ジョーとおそろいだな!」
「黙ってよ! 夏音の髪は私と同じなの!」
助手席に乗るアルヴィが不機嫌そうに鼻を鳴らす。彼女は自分と同じ髪の色を持つ息子が髪を染めたのが気に入らないのだ。
それを特別に指摘することもないのだが、他人に言われるとしゃくに障るらしい。
「ハハハ! 髪が黒いくらいどうってことないさ! どこからどう見ても君たちは親子だからね」
豪快に笑いながらハンドルを叩いてみせるおじさんだったが、速度のメーターが70マイルを振り切りつつある。
夏音は久しぶりに視界に入るアメリカの風景をゆっくり眺めることもできずに、座席にしがみついた。
「エレンは元気?」
「ああ、そういえばご無沙汰だよね。最近はよく分かんないダンス教室に通ってるし、腰回りも健在さ。相変わらずセクシーだよ」
「そう言うあなたはどうなの。フットボールクラブは続けてるの?」
「いやー。最近は息子達とのドライブが楽しすぎてね。てんで顔を出せてないよ」
「やっぱり。見ない間にお腹のあたりがずいぶん立派になってるもの」
「そうなんだよ。だから最近始めたダイエットがある。君はコンニャクというものを知ってるか?」
「あら、何年日本にいると思ってるの」
そんな二人の会話を聞き流しながら、夏音は後部座席で隣にいる幼児の熱い視線と戦っていた。
見覚えのない女の子だった。青い瞳がこちらをじっと見詰めて離すことはない。
まだ紹介はないが、おそらくおじさんの娘である。
夏音はにっこりと微笑みかけて手を振った。すると、向こうもとろけるような笑顔になる。
「ヤバイ。超可愛いんですけど」
ついうっかり日本語が出てしまった。彼女は何を話しかけられたか理解できなかったようで、首をかしげている。
「ねえおじさん! このレディーの紹介はまだなの?」
「ああ、いけない。ごめんよ! ケニーの登場に驚きすぎて忘れてたよ。娘のリリーだ。先月四歳になったよ」
「あら、知らなかったの?」
聞いていない。おじさんに新たに娘が生まれていたことなど、知らされていなかった。
軽い疎外感を覚えつつ、それでも隣の生物の魅力に夏音はマイってしまった。
「ハイ、リリー」
「ハーイ」
「俺はカノン。君の親戚、いや……オジ、だよ」
「ノ~」
関係を説明するのが面倒くさくてオジということにしようと思ったら、ダメだしをくらった。彼女は得意げに夏音に言った。
「You are aunt!!」
「ハッハッハッハ!!」
リリーの衝撃の発言とおじさんの笑い声に夏音は固まった。こっそりと噴き出すアルヴィの姿もあって、夏音は当分立ち直れなかった。
「あれ、ここはどこかな?」
結局、おじさんが迷いに迷ったせいで到着予定の時間を一時間オーバーしての到着となった。
陽気な天気とは裏腹に、先行きが不安でならなかった。
※変なところで切ってすみません。
アメリカ編があと二話ほど続きます。
ちなみにメンフィスといえば、エルヴィス・プレスリーで有名。他にもキング牧師が死んだモーテルとかもありますね。他にも有名なものはありますが、何故か清志郎が名誉市民って言われた方が我々日本人にとってはびっくりな気がしますよね。
ケニー、カヌー。ニックネームって難しい。
ちなみにローリーおじさんは、ローレンス。
リリーはリリアンヌです。
難しいお話ですが、頑張ります。