指先に火が奔ったような感覚に梓は眉を顰めた。
「いっ!?」
「あ、あ、あずにゃんダイジョブ!?」
梓の音が途切れた瞬間に演奏が止まる。互いの音に敏感な少女達はすぐに互いの異変に気が付いてしまう。
梓は自分のせいで曲が止まったことに舌打ちしたい気分だった。
自分の指に目を凝らしてみると、何てことはない。
火など起こるはずもなく、実際には弦をスライドした時に薬指が摩擦でこすれただけで、ついでに指の皮が破けただけだった。
「そう、破けただけなんですよ」
「あずにゃん誰に向かって話してるの?」
「す、すみません。平気ですから! 唯先輩だって指の皮剥けたりするじゃないですか?」
梓はいまだに心配そうに自分の指を覗き込もうとする唯にどぎまぎした。正直、演奏の手を止めてしまってから、じんじんと痛みが訪れてきている。
やましいことはないが、心の底から心配そうな顔をする唯に指の現状を見られるのはいやだった。
「うわー、ちょっと血でてるよ!?」
こうやって余計に騒ぐからだ。唯はポケットからハンカチを出すと、それで梓の小さな手をそっと覆った。
「ど、どーもです」
そのハンカチは清潔なのかと頭をよぎったが、好意からの行動だと理解できるので、素直に礼を言う。
それでもずっと手を握られるのは居心地が悪いものだ。少し身動ぎする梓をじっと見詰める視線も原因だろう。
「み、みなさん。そんなに大したことじゃないですから! それより演奏止めてしまってすみません!」
皆、一様に心配気な顔なものだから、梓はかえって恐縮ものである。
楽器をやっている人間であれば手先の怪我や痛みはお馴染みのものだし、誰もが通る道だ。
あれだけ演奏できる彼女たちがその痛みを知らずにここまでやって来たとは思えないのだが、基本的にお人好しの集団だから、他人の痛みには過敏に反応してしまうのだろう。
「梓ちゃん。絆創膏とかあるよ?」
「いえ、絆創膏してたらかえって弾きづらいので」
せっかくムギがかけてくれた気遣いだが、丁重に断った。事実、絆創膏をしていれば最初こそ滑りがよくなったような気もするが、後々邪魔になる。
それこそ、演奏中に外れかけたりすると集中を遮ることにもなりかねないので、ここは我慢するしかないのだ。
「これくらい大丈夫ですよ! いつものことです!」
これ以上、心配させてはならない。そう思って気丈な振る舞いを見せた梓だったが―――、
「あ、あずにゃ~んっ!!」
飛びつかれた。犯人は言わずもがなである。
「な、なんですかぁ~っ!?」
認めたくないものの抱きつかれるのはもう慣れた。けど、唯はいつも人の死角から襲いかかってくるので、油断ならないのだ。
たった今まで側に姿を認めていたのに、意識の隙をつく攻撃に梓はパニックに陥ってしまう。
「痛みにじっと耐えるあずにゃん……ぷらいすれすっ!」
「じぇいしーびー♪」
「はぁ……」
唯のとぼけた発言に高らかな歌声で合わせる律。
梓はその暢気な様子に若干イラっとした。
「おい律」
そこですかさず物申すのは二人のストッパーを担う澪。前者の二人がやりすぎずに住んでいるのは、というより軽音部がまともに成り立っているのはこの人がいるおかげであると梓が常日頃から確信しているその人である。
梓はそんな澪に信頼をこめた視線を力一杯投げかけた。
「それ、マスターカードだろ?」
良い笑顔だ。何回かに一回の確率で澪も敵に回ることがある。梓はぎゅっと力強く抱き締められた腕の中でがっくりと肩を落とした。
「澪ちゃんっ。私っ、」
ああ、と。梓は項垂れてしまう。
この次に入ってくるのは確実にムギのとんでもない発言なのだ。組み合わせ方によっては薬にも毒にもなる琴吹紬という少女。
火力は最大級。お嬢様の一手は凡人の十歩先を行く。
「お腹すいちゃった」
きゅぅ、と可愛らしい音が響いた。ほんの少しほっこりした。
★ ★
ある意味救われた梓はせめて休憩の間だけでも、と貼られた可愛らしいキャラクターが描かれた絆創膏に目を落としていた。
それにしても、自由奔放は平沢唯という自由人の特許かと思ったが、ムギという伏兵がいたことには驚かされた。
最近、先輩の知らなかった一面を見る機会が徐々に増えてきている。
とはいえ、あんな行動の末にも一切の可愛らしさを損なわないムギに梓は脱帽である。
「ケーキどれだけ持ってきたんだ~?」
と言いつつ、膝を組んだ格好でチーズケーキを突っつく律。呆れたような声を出す彼女だったが、幸せそうに緩んだ頬はまんざらでもないことを物語っている。
「今日はたくさん練習すると思ったから、甘いものが必要だと思ったの。たくさん練習して、たくさんお茶できるように」
「たくさんお茶すれば、ただのいつもと変わらないだろ」
ムギの言葉にまともに返す澪。冷静なツッコミができるのはこの先輩の美点である、と梓は思う。
時と場合によるが。
梓とて理解しているのだ。自分が唯に抱きつかれるという光景がもう既に彼女達の中では日常風景と化してしまっていることを。
こんなはずじゃなかったと心の中で呟いたことは数え知れない。
「それにしてもあずにゃんは頑張り屋さんだなあ~」
つい今しがた、梓の精神をかき乱した人物が発した言葉にその場にいた人間が揃って頷き始めた。
「たしかに。もうすでに指の皮が硬いはずの人間がすりむくなんて相当だもんなー」
律が感心をこめて梓を見る。梓は滅多にそんな視線を向けられない人物からの賛辞に頬を赤らめてしまう。
「ギターの弦って細いから切れやすそうね。あ、ギターを使えばゆで卵とか簡単に切れそう!」
真面目くさった表情の割にぶっ飛んだことをさらりと言いのけたムギに梓は言葉を失った
ギターを、ゆで卵に? よりにもよって神聖な楽器をキッチン周りにあったら便利だな、くらいの道具と同列に扱われ、梓の中の大事なものがヒビ割れそうになった。
「それなら百均行った方が早いって」
苦笑を浮かべた律がまともな発言で、どこか他人とずれたお嬢様の荒唐無稽な発想をおさえてくれた。
直後にすっと真顔に戻り、かすかに心配の色を浮かべた表情で梓の顔を覗き込んだ。
「でも、そんな指で大丈夫か?」
「痛いですけど、平気です!」
ぐっと小さな握り拳を作ると、梓は溌剌と言い切った。本当はじんじんと指先に血が通る度に痛むのだが、そんなことは言っていられない状況なのだ。
やせ我慢でも、押し通すべき場所だと梓は考えている。自分が足を引っ張るつもりがないのもあるし、普段やる気のない先輩方がせっかく練習に向かっているのを中断したくなかったからだ。
「なら、今日は軽めに合わせてやめるか」
律がそう言うと、周りから「さんせ~」と気の抜けた声が上がった。
食器を片付け始めたムギを手伝い終えると、それぞれの楽器の場所へ戻っていく。
どこか力が抜けているような少女達が、楽器を持った時にふと印象が変わる。大きく変わることはないが、微細な変化だ。
彼女達が持っているのは、武器だ。そして、自分が握るこのギターも。
さっきまで握っていたのに、メイプルのネックに触れる感触が何とも待ち遠しかったような気がする。
何で一時でも離れていたのだろうと思ってしまうくらいに、先程までの自分とギターは一体だったのだ。
「じゃあ、通しで一回ね」
全員のチューニングが終わったタイミングを見計らって、律が声をかける。全員が無言で頷くと、律がすっと息を吐く。
この瞬間、梓は律のことが好きだ。
吸うのではなく、吐く。普通、何事かをする前やかしこまった時は息を吸い込むのだが、彼女は吐くのだ。
カウントに入る前の、わずか一秒弱の出来事。ほんの一瞬、短く吸い込まれた息。
次に乾いたスティックの音が鳴る。普段はおちゃらけた先輩が格好良く見える。
既にビートに乗っているカウント。
驚くべきことに、軽音部の演奏では基本的に曲に入るタイミングがずれることはない。それは当たり前のことなのかもしれないが、わずかにでも呼吸がズレてしまうと曲がしまらない。
集中している時の律は、そのカウントで皆の呼吸をまとめてしまうのだ。
梓は自身のリフから始まるような曲が苦手である。自分のビートに自信がなく、心細くなってしまうのだ。
だから、平然と曲を始めてしまう彼女は、それがドラマーにとってごく当たり前のことだとしても、素直にすごいと思う。
一度曲が滑り出した後もテンポのコントロールが絶妙かと問われると、大いに首を傾げてしまうのだが。
とにかく、梓は出だしに関してはこのドラマーを信用している。テンションがぐっと上がって走り出せるような気分にしてくれるのだ。
パワフルなドラマーには頼りになるベーシストがついている。律のドラムの勢いを殺さず、時には抑えて曲全体をコントロールする影の立役者がリズム隊の片割れがいて、この演奏が成り立っている。
上物の自分は曲を煌びやかに彩り、跳ね回る。自分に与えられた役目や、自分にしかできないことを梓は探す。
キレのあるリフさばきには自信があるが、どうにも音の迫力が弱いと言われる。キレだけではない、ピッキングの速さだけでは片付かない何かがそこにはあるはずなのだ。
ピッキングの速さが音の大きさに関わると言われるが、隣でヴォーカルをしながら手元でゴリゴリと図太いバッキングで刻んでいる少女はどう説明すればいいのか。
力業で強引に出しているにしても、難解な力強さだ。
楽器の底力というのも信じやすいが、それ以上に存在感がある。一番音がずれるのも彼女なわけなので、より目立つ。悪い意味でも。
仮歌だけのはずだった曲だが、Aメロが終わった時点で唯がハッキリと歌詞を、日本語として紡ぎ始めた。
この道を駆け出していく
先が見えすぎるよ つまんない音楽はドブに捨てて
見たくないものばかりあるから
共感しなくていいから きけ
命の終わりへ! こんな自分じゃいられない
がつがつ生きていたい マジこんなシートベルト外して
異常な事態 現実自体辞退
口内炎痛い 故意に恋したい
「ストーップ!!!」
サビの途中で突然止んだドラムに誰もが楽器を弾く手を止めた。
「唯、その歌詞はボツだ!」
椅子から立ち上がった律がスティックを向けて言い放った一言に、唯の口から喉から息がひゅぅ、と漏れた。その表情は真の驚愕に満ちていた。
「な、なんで!? 今まで仮歌だったから歌詞つけてって言ったから考えてきたのに!」
「さっきまで仮歌だったのに、急に歌い始めやがって! 何だその途轍もない厨二臭ただよう感じ。最近、何聴いた唯?」
「何って。こないだ裕也くんに借りたやつだけど」
「あ、『ほくろギャルズ』!? めっちゃアングラなやつじゃん! ていうか思いっきし影響されまくってんじゃねーか!」
そうでなくては、唯にあんな歌詞が書けるはずがない。梓も演奏の途中で入ってくる言葉の数々に耳を疑ったくらいだ。
「よくわかんねー。以上」
律の辛辣な感想に唯は抗議の姿勢で臨んだ。
「待ってよりっちゃん! 私、この歌詞じゃないと心こめて歌えないよ!」
「お前はどんな人間やねん! 唯一ホントっぽいのは甘い物食べ過ぎで実際に口内炎になってるとこだけだろ!」
「うぅ~。いつも痛くて辛いんだよ~? 好きな物食べても嬉しさが半減するんだよ!?」
「そうだ。唯の歌詞には美学が足りない」
「いきなり入ってきた澪ちゃーん。今日のお前が言うな……ヲホンッ! あー、梓はどうだ?」
「へ? 私ですか?」
いきなり振られるとは思わなかったので、素っ頓狂な声を上げてしまった。急に意見を求められた梓は言葉に詰まりそうになりながらも、正直に意見を述べた。
「私は嫌いじゃないですけど、なんていうか……あまり私達にしっくりこないと思います。雰囲気のあるバンドとかが歌うなら許せる気もするんですけど、唯先輩の声でコレは……」
「うぅっ。後輩なのに遠慮がないのねあずにゃん」
ずばりと言われたことで怯んだ唯が泣きそうな目で梓を見る。その表情に罪悪感が芽生えた梓は、すっと顔を逸らした。
「ムギちゃんはどう思うの?」
最後の救いをムギに求めた唯。大抵のことには肯定で返してくれるムギだったが、今回ばかりはそうはいかなかった。
「んー、私もあんまり……ごめんね」
「そ、そんな! ムギちゃんまで!」
「私達らしいってことにそこまでこだわる必要があるかは分からないけど、確かにこれは違うなって思うの。何て言うか……ちょっと背伸びしてしまっている感じかしら?」
ムギが口にした言葉はその実、的を射ていると梓は思った。自分ではその言葉にまとめることができなかったが、「背伸び」という表現がぴったりである。
あの平沢唯が社会や人生に対して斜に構えてみたり、反骨精神を出すなんて考えられない話である。
まだ反抗期にすら到達していなさそうなのだ。ありえたとしても、半世紀後くらいだろう。
「唯の声にはなんか似合わないよ」
「むぅー。そんなに言うなら澪ちゃんが歌いなよ」
膨れた顔で澪に投げ遣りな態度をふっかける唯だったが、梓はそれもよいかもしれないと密かに考えていた。
ツインヴォーカルなのだが、実際によく分からない役割分担の二人だが、それぞれの特徴はハッキリと分かれている。
唯は高音に優れた歌い手であり、hiFの音域に達するパートは彼女くらいしか出来ないだろう。逆に澪は唯ほど高音が出ない代わりに低音域に優れている。普段大人しい彼女の姿からは意外なほどにロックを歌わせるとハマるのだ。
今回、唯が勝手に歌詞をつけた曲は、本当は澪が歌うべき曲であったはずなのだ。
梓は以前その意見を口に出そうとしたところで、やめた。それが本番直前で問題になるとは知らずに。
「まあまだ歌詞すらできてない曲だし、それもアリか?」
唯の意見も一理ある、と腕を組んでうなる律だった。このように真剣に悩む姿は最近になって板についてきた。
近頃の律は頼もしいという評価が梓の中で芽生えつつあった。
原因はそれまでバンドを取り仕切っていた人物の不在であることは間違いなかった。
本来であれば部長が担うべきポジションに収まっていた人間がいないことで、思いの外リーダーシップを発揮し始めたのだった。
「実は私、この曲は澪ちゃんじゃないかしらって思ってたの」
ここぞという時に場を動かす意見を出すのがムギである。色んな意見を聞いた上で紡がれるのは大抵が根拠のある主張だ。
ムギは澪の音域や声質などに対して幾つか言及した。実際に彼女の言葉が決め手となり、澪をヴォーカルに据えて再びやってみることとなった。
演奏を終えて感じたことは、一つ。
これでよかった。
一つの正解を見つけた時の歓びは格別である。唯の時にはしっくりと来なかったものが、噛み合ったような感覚。パズルのピースがカチリカチリとはまっていき、全体像が見え始めたような気がした。
この曲は音域的にも澪のおいしい部分が満遍なく出る構成であり、それに合わせて少しばかりのアレンジは必要になるが、唯ヴォーカルというのは既に意見として埋没していた。
ヴォーカルを外された唯も特に気分を害したということもなく、受け入れている様子である。
「じゃあ澪ちゃん頑張って! あ、歌詞は使ってくれてもいいよ?」
「また作詞しないとな」
「さらっとひどいよ!」
★ ★
『やっぱり澪でいくことにしたんだ?』
「まーな。ていうか最初からそのつもりで作っただろ?」
『そうだね。コレは澪が歌うって意識して作ったかも』
律は帰宅後、まだ仕事中であろう夏音に練習の報告を行っていた。特に報告する義務も筋合いもないのだが、何となく知りたいだろうと思ったからだ。
『みんな思ったよりしっかりやってるみたいで安心したよ」
その言葉通りに、電話越しに聞こえる夏音の声から安堵感が伝わる。
律はベッドに寝そべりながらその反応に微笑んだ。
「いくら私らだって本番直前はこんなもんだろ」
『そういえばそうだね』
「おっかない誰かさんがいるからな」
『ハハハッ! 誰のことだろうか』
そうやって、お互いに笑い合ったところで律は声の調子を落として言った。
「ライブはもちろん行くよな?」
『もちろんだよ。金曜日だろ? その日は大丈夫』
夏音の回答に律はほっと息をついた。そのまま枕元の時計に目を移すと、既に今日が終わるまで三時間を切っていた。
電話の向こうはやけに騒がしい。外にでもいるのかもしれない。少なくとも律に分かることは、まだ彼が帰宅していないということだ。
網戸もせずに開け放された窓から少しだけ涼しい風が吹き込んできた。
高い湿度の中に充満する青い草木の匂いが部屋に入ってくる。律が感じる、夏の匂いだ。
「あの、さ。夏音?」
『なに?』
直に聴けば、耳にすっと入り込む彼のクリアヴォイス。電波に乗ってやってくるその声はふと聴けば彼のものだと分からないかもしれない。
目の前にいなくても、彼とこの瞬間つながっていることを思い出す。
この後、自分が切りだそうとしている話題が彼にどんな影響を及ぼすのか。同じ空間にいないから、麻痺しそうになる。
うっかり口に出してしまうことだけは、避けねばならない。
「あ、いや。何でもないわ」
ギリギリで口を噤んだ。すぐに話題を変えようとしても咄嗟には思いつかない。
左耳に入り込む蝉の鳴き声と、片方の耳に残る静寂が自分をどうにかしてしまいそうだった。
『あ、ごめん。ちょっと電話切る。何か話あるんだったら後でかけ直すよ』
「いや! そんな大した話じゃないから大丈夫だよーん。つーか今日は早く寝たいから。それに夜の十時以降は乙女に電話をかけてはいけません」
『何言ってんだよ。電話かけるどころか俺の家に泊まったこともあるくせに』
「それとこれとは別の話だよ、ボーヤ」
『はいはい。じゃーね。また明日』
本当に急いでいたのだろう。律の返答も聞かずに通話終了の音が響いた。
ツーツーと人を突き放すような音をしばらく聞きながら、律はそっと通話終了のボタンを押した。
考えがぐるぐるとまわる。下ろした髪が目に入ってきて、前髪が伸びたことや、どのタイミングで網戸を閉めようかとか。
下らなくて、いま考えなくていいことばかりが前面に出てくる。
「どーしよっ」
腹筋の力を使ってベッドの上に起き上がり、あぐらをかく。
「、かなー」
窓の外にはすぐに隣の家がある。オレンジ色の電気が漏れる窓の奥で人影が横切った。律はすっかり暗くなった外に目をやり、溜め息をついた。
何とも言い難い気分だった。
いてもたってもいられない、という気分。今、自分は何をしているのか。自分が何者なのか。
どうしようもない問題を頭のどこかに抱えているのに、その正体を具体的に形にしたくない。
だから、深く考えたくない。
どうあってもまとまってくれそうもない思考に苛立ちを覚える。
こんな時は、今すぐカーテンを閉めるべきだった。カーテンを乱暴に閉めた律は外の世界をシャットアウトして、その辺に放置してあるスティックに手を伸ばした。
ドラムセットを部室に置いてきているから、自宅で本格的なドラムの練習をすることはできない。
そもそも、住宅街で生ドラムを打ち響かせるのは現実的に厳しい。消音パッドをつけても、バスドラのキック一つで家族から苦情がくる。
アメリカみたいにガレージで練習、なんていうのも憧れだが、田井中家にあるのはホンダのセダンが一台入るだけで精一杯の車庫だけだ。
だから、練習用のパッドやら雑誌を積み上げてドラムセットを模した物にスティックを打ち付けるのが限界なのだ。
パッドの上にリズミカルにスティックを叩きつける。メトロノームのクリックを感じながら拍を変えながら、三連などもまじえる。
ふとしてから、律はメトロノームの電源を切った。こんなムシャクシャした時は正確なリズムなんて必要ない。
加熱していくビートに歯止めをかける存在はいらない。
ブラストビート。徐々に速度を増す。限界まで打ち付けていく。
いつの間にか呼吸が止まっていたことにも気付かず、ギリギリまで律は二本の棒を動かす。
スティックが滑って壁まで飛んだことで、集中が途切れた。
汗だくになった頬に長い前髪が張りついている。乱れた呼吸を整えようともせず、律はそのままベッドに寝転がった。
「ドラム叩きたい」
全身を使ってドラムを鳴らしたい。静かなものなど一片も入る余地のない空間に身を寄せていたい。
そのまま、ぼーっと天井を見ていたが、濡れたシャツがベッドを湿らせていることに気が付き、慌てて体を起こした。
「うーん」
うなりながら、何かを探るように。立ち上がり、部屋を何となく一回りしてから律は「あっ!」と声を漏らすと、慌てて携帯を手に取った。
「あ、澪? 今から遊びにいっていい? え、やだ? そんなこと言わないでさ~。う~ん。そうそう! 大丈夫だって! 澪の好きなアレ買ってくからさ! そう、アレだよアレ! 駅前の! ちがう駅前じゃない? 店舗によって味が違う? わーかったから! はいはい。ほいじゃ、あと三十分くらいしたら行くから! ばいちゃー!」
田井中律。色々と感じ入ることを持て余している少女は、とりあえず明日が締め切りの宿題の存在を思い出した。
悩み事は多いが、一つ明確に立ち向かうべき敵を見つけた少女は実に晴れやかな表情だった。