軽音部という部活は常に誰かが口を動かして会話が途絶えることはない。演奏が途絶えることがない、という点が実態を表しているようなものであるが。
ティータイムが始まると同時に律や唯といったお喋り好きの人間が会話の端緒をこじ開けるのである。
話題はその日に学校で起こったことや、昨晩のテレビ番組の話であることが多い。
例えば今日などは、律が友達の惚気話に色をつけて捻くれた解釈を述べ始めたことから、それに対して唯がとぼけたことを返し、勝手に盛り上がり始めた。
一方、そういった話に気軽に参加することができない澪は、梓や夏音と真面目な音楽な話をすることが多い。音楽雑誌から話題を見つけ、それに関して話を振ると、当然のように乗ってくれるのがこの二人だ。
意外にも日本の音楽シーンについても二人は博識である。梓は基本的に洋楽に傾倒しているが、日本の音楽事情についても情報吸収に余念がない。
勉強熱心な彼女は、インディーズシーンにも手を出しているというから恐れ入る。友人にバンドをやっている子がいるらしく、自分と無縁だと思われる音楽ジャンルに触れる機会が多いのだと言う。
「その子も結構色んな音楽聴いていて、もともとジャズとかそっちの話で盛り上がって仲良くなったんです」
ということらしい。その友達のバンドもそれなりに有名になってきており、梓は今週の土曜にあるライブに行ってくるのだそうだ。
澪は自ら進んでライブハウスに足を向けることはないので、その話に興味を抱いた。ライブハウスで演奏したこともある身だが、まだ澪にとってライブハウスという場所は一人で赴くには敷居が高いものであった。
自分で興味を持ったバンドのライブにふらりと行けるようになりたい。そんなことをぼんやりと考えていると、梓が「よかったら澪先輩も行きませんか?」と誘いかけてきた。
「いいのか?」
「全然いいです。むしろ、人が増えた方が向こうも喜びますし」
確かにチケットノルマを抱えるバンドとしては自分のところからチケットを買ってくれる人数が多いにこしたことはない。
「そうか。それなら私も行ってみようかな」
チケット代のことなど諸々気になる点はあったが、後輩と一緒にライブを観に行くという体験も悪くない。
「本当ですか!? なら、すぐに友達に連絡しておきますね! チケット代は1500円プラス1ドリンクです。初めての人なら安くしてくれると思うので、聞いてみます!」
梓は澪がこうもあっさりと首を縦に振るとは思っていなかったらしく、ぱっと顔を輝かせると、いそいそとメールを打ち始めた。
自分はそんなに付き合いが悪そうなイメージなのだろうかと澪は首をひねった。日頃から付き合いは良い方だと思っていただけに、その反応に驚いた。
しかし、話の流れとして自分が誘われたものの、他の者にも声をかけるべきだろうかと、とりあえず澪は真正面に座る夏音に目を向けた。
彼の姿が目に飛び込んできた瞬間、瞬間に固まってしまう。
目の前に絵画から飛び出してきたような美貌はいつでも心臓によくない。
美人は三日で慣れるとは言うものの、ふいにその姿を目に収めた時につい漏れるため息を抑えることはできない。
すっと通った鼻梁。彫りの深い顔は物憂げに俯いており、邪魔にならないように髪を耳にかける姿に目を奪われる。
最近、また色が抜けていたと言っていた髪は部室に射し込む陽光に透けて金色めいている。彼の髪の色は画面を通して知ってはいるが、実際に目にしたことはなかった。
彼と自分達の間にちょうど薄透明な膜があるような気がした。それは少しだけ黄金を溶かしたような色がある。
夏音と、その他を分け隔てる膜。その膜の向こうにいる彼は違う世界の人間みたいに見える。
ちょうど背後からの陽光が後光のように見え、空間そのものから浮いているような、それなのにどこか一体となっているような美の顕現。
とことん不思議な存在である。こんなにも見とれてしまう容貌なのに、澪は彼がその美貌を活かしたところをお目にかかったことがなかった。
せっかくの美人を無駄にしている。最近読んだ少女漫画に無駄美人という言葉があったが、この男にピッタリな形容だろう。
いつの間にかじっと観察しすぎていたのか、澪の視線に気付いた夏音がこちらに目を向けてくる。
「どうしたの?」
何でもないように聞いてくる声を聞いた瞬間、はっとなった澪は何か取り繕うべき言葉を探し、つい話していた話題を持ちかけた。
「今週の土曜日に梓とライブを観に行くんだ。夏音も忙しくなかったらどうだ?」
土日は基本的に忙しいという夏音が誘いを受ける可能性は非常に低かった。言うだけ言ってみただけだったのが、
「ごめん。その日はやっぱり打ち合わせで……」
極めて申し訳なさそうに手を合わせる夏音に澪も気が咎めた。
「いや、そうだろうと思ったよ。こっちこそ悪いな」
「ううん。それで、どのバンドを観に行くの?」
「梓の友達のバンド」
「へえ」
澪の回答に感心したような視線を梓に向ける夏音。特に梓に感心したわけではないだろうが、そんな視線を向けられた梓は気恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「あ、いえ。友達が中学からやってるやつで……せっかくなので」
ちぐはぐな言葉を紡ぐ梓だったが、予想以上に夏音は興味を持ったらしい。
「そうかー。どんなバンドなの」
「基本的にメロコアで……ちょっとずつ色んな音楽の要素を混ぜてまして。クロスオーバーって言われると、そこまで大したものじゃないですけど」
「へえー。俺、そこらのライブハウスとか絶対に行くことないから、ちょっと興味湧いてきたかも」
発言に他意はないだろうが、妙に説得力があった。そこらのハコにふらっと立ち寄るカノン・マクレーンの姿は確かに想像ができない。
「どうしようかな……何時から?」
「え?」
「そのバンド、何時から出番なの?」
「確かチケットには、7バンド出演のスタートが18:00で……出番はトリなので、九時前後でしょうか」
「へえ! トリなんだ」
「はい。というより、友達のバンドが企画してるんで」
梓の言葉に澪は軽く目を丸くした。企画ライブ。夏音はその単語を聞いてもぱっとこないようで首を傾げているが、これは駆け出しのバンドではなかなかできないものだ。
まさにバンドが企画するイベントを指すが、対バンを集めるのも自分達なので、それまでに対バンで知り合ったバンドとの信頼関係が築けておらねばならない。何のコネもないバンドにとっては無謀な試みなのだ。
他の出演バンドを聞いても澪はピンとこないが、梓曰くこの近辺のライブハウス界隈では有名なバンドもいるらしい。
「そのくらいの時間なら俺もいけるかな。チケット俺の分もお願いしてもいいかな?」
夏音の口からその言葉が出た時、耳を疑った。興味を抱いている素振りは見せたが、まさか仕事終わりに時間を割いてまで行くとは思わなかったのだ。
そんなに興味があるのだろうかと首を傾げていると、そんな澪の疑問を察知したのか、夏音はこう述懐した。
「やってるバンドにすごく興味があるわけじゃないけど、そこらのライブハウスってやつに興味があってさ。せっかくだから友達と行きたいでしょ」
その回答に澪は軽く目を見開いた。まるっきり考えていたことが一緒だったのだから。
「えー。ライブ行くの~? 私もいきたーい」
耳ざとくこちらの内容に食いついてきたのは唯だった。いつの間にかお喋りを止めた三人がそろってこちらに目を向けていた。
「ライブハウスかー。久しぶりに行きたいな」
と親しげな笑みを浮かべる律。彼女の友人もバンドをやっている。そちらは共通の知り合いではあるが、澪はさほど交流があるわけではない。律は中学の頃はよく誘われてライブに行っていたらしいが。
「じゃあ、みんなで行くか?」
この際、人数が多い方が心強い。あまり女の子が少数で行きたい所ではない。
すると、一人だけしょんぼりと俯くムギの姿が目に入った。
「どうしたムギ?」
「ごめんなさい。その日、用事があって行けないの」
「あ~、そっか。まあ、別にその日限りってわけでもないんだし、また誘うから一緒にいこうぜ?」
すぐに律のフォローが入るが、ムギは皆が参加するようなイベント事を誰よりも強く楽しみにしている。一人だけその輪から外れるのは心苦しいことこの上ないのだろう。
「じゃあムギちゃんのためになにかお土産でも買ってくるね」
「ライブハウスに土産物売ってるかい。あっても物販だろ」
続く唯の発言に律が冷静に突っ込む。
「えっと。じゃあムギ先輩以外は行くということでよろしいでしょうか?」
「うん。俺は遅れるけど、先に楽しんどいてよ」
こうして軽音部一同はムギをのぞいて土曜日はライブ鑑賞をすることに決まった。
「ちょっと疲れちゃったかも」
四バンド目が終わったところで唯がすっかりくたびれた様子でへたり込んだ。どこかで聞いたようなメロスピバンドのSEが会場を満たす中、弱々しい唯の言葉を聞き取った澪はちょうど空いていた長椅子へと唯を連れて行った。
「大丈夫か? いったん外にでも行く?」
「ううん、大丈夫。なんでかなーいつもより疲れるね」
そう言って弱々しく笑う唯の言葉に澪も共感を覚えた。確かに、狭い空間の中で絶えず爆音に身を委ねているのは気力がいることだ。基本的に立ちっぱなしで、もはや音というより身体中を震わす振動を味わっているようなものである。それだけでなく、煙草の煙が充満していて、あまり気分の良いものではない。
かつて軽音部でライブをしたペニー・マーラーほどのキャパシティとは違い、このライブハウス「リリース」は規模的にも半分以下である。
これは純粋に慣れの問題もあるだろう。共にやって来た梓や律は平然としている。
「そういえば、まだドリンク貰ってなかったな。何か持ってくるけど、何がいい?」
「あぁー。水とかあったら嬉しいな」
1ドリンクというのはいわゆるチャージのようなものだ。チケットとは別にライブハウスに入場する際にドリンク券と引き替えに払う。
もちろん未成年なのでアルコールは頼めない。ソフトドリンクのメニューの中から選ばなくてはならない。
中には明らかに未成年といった若者もいるが、彼らは素知らぬ顔でビールを呷っている。澪はそれに倣う気もないので、とりあえず唯の分もあわせてミネラルウォーターを頼んだ。
ペットボトルを二本受け取り、唯のもとに戻る。その内の一本を手渡すと、唯は少量だけ口に含ませてから澪に礼を言った。
「それにしても音、すっごいねー」
「そうだな。前のライブハウスもすごかったけど、これだけ狭いとやっぱり音の圧力が違うよ」
ドラムのキックが波動のように体を貫き、ベースの重低音が床を揺らす。澪はお腹のあたりをぶるぶると震わせる音に、改めてベースの魅力に心を奪われた。
「そういえば夏音くんどうしたの?」
「仕事が長引いて来られないってさ」
先程メールが届いて、急遽入った別件の打ち合わせに赴かねばならないという内容であった。急にチケットをキャンセルしたお詫びに、物販のCDを買っておいてと頼まれた。もちろんお金は立て替えである。
「あ、物販みておこう」
売り切れになるということはないだろうが、早々に用事は済ませておきたい。澪は唯に物販を買いに行くことを伝えて、物販スペースに足を運んだ。
物販スペースでは売り子の人間が煙草を吸いながら何やら談笑している。基本的に店番は暇らしい。
澪は怖々と物販が並べられた机の前に立ち、目的のバンドの品に目を落とした。CDの他にもバッジやTシャツといった小物まであり、どれもロックテイストなデザインとなっている。
興味深く手に取って見ていると、背後から声をかけられた。
「澪ちゃん?」
振り向いて現れた人物に澪は目を丸くした。
「キョウちゃん!」
驚いた。目の前で澪と同じくぽかんとした表情を浮かべているのは、同じ中学の同級生である菊池京子であった。
「久しぶり~! ナニ! 何で澪ちゃんがこんなとこいんの!?」
「私は後輩の友達がやってるバンドを観に来たの。それよりキョウちゃんこそ、だよ!」
澪の記憶にある彼女はライブハウスに足を運ぶような少女ではなかった。どちらかというと流行のJポップやらアイドルに熱中するような、悪い言い方をすればミーハー女子の代表のような子だった。
「ていうか、今日あたし出るもの!」
笑い混じりに答えた京子に再び目を丸くした澪。つい声に出して驚くと、彼女はヘヘヘと照れ笑いをする。
「意外でしょー? 高校入ってすぐにバンド誘われてさ。あたしって無駄に歌だけはいけてた方だったから、引き抜かれたんだ」
「どのバンド? まだ出番じゃないだろ?」
「トリ前のCTVっていうバンド。正式名称はクリエイト・ザ・ヴァイオレンス!!」
「そ、そのバンド名は……」
若干引いてしまうネーミングセンスである。澪の反応に心当たりがバッチリあるのか、自嘲の笑いを漏らす京子がぼそぼそと呟く。
「だってあたしが入った時にはもうバンドとして長かったんだもん。本当はこういう高校生企画とかに出ないんだけど。ていうかうちのベースなんて29のオッサンだから」
29でオッサン扱いされる男性が気の毒になったが、そう言って朗らかに笑う彼女を見て、やはり澪は変わったなと思う。
中学までの彼女はこんなに垢抜けた笑顔を浮かべることはなかった。たった一年バンドをやっただけで、こうまで人が変わるのだろうか。
「キョウちゃんのバンドは物販出してないの?」
「んー。前の人の時に作ったCDとかはあるんだけどね。あたし的には、ちょっとオススメしたくはないっていうか。どうせなら、澪ちゃんにはこれを持ってって欲しいかな! はい!」
ガサゴソと手持ちのバッグを漁った京子が手渡してきたのは、むき出しのCD-Rだった。
おそるおそる受け取ると、彼女はにっこりと笑って言った。
「それ。あたし歌ってるやつ。まあプレスじゃないし、本当こんなんでーすって紹介程度。今度ちゃんとレコーディングするから、そっちの方は買って欲しいな。よろしくぅ!」
「え、これ貰えるの?」
「もちろん! 無料デモだもん! むしろ、こんなのに金出せってほうが恥ずかしいシロモノだし」
その言葉に手元のCDに目を落とす。それにしても、むき出しのままというのはいかがなものか。
「最後まで観てくの?」
「うん。トリのバンドが目当てなんだ」
「へー! すごいつながりもあったもんだね。じゃあ、あたしご飯食べてくる。また今度ね!」
澪が言い返す前に京子はだだっとライブハウスの出口に向かって歩み去ってしまった。
嵐のような女の子だ。
もう澪が知る彼女とは随分と変わってしまったのだろう。澪はむき出しのCDをハンカチで包み、慎重な手つきでバッグにしまった。
SEが止まり、次の爆音が澪の身体を震わす。早速、律に報告しようと思っていたのだが、後回しになりそうだった。
★ ★
「キョウちゃん超よかった~!!」
「ほんと~? ありがとう! りっちゃんステージの上から見てもソッコー分かったよ! あのおでこはりっちゃんしかいない!」
ライブが終わり、律と京子が熱い抱擁を交わし合いながらじゃれている。澪は彼女達との温度差にそっと距離を置き、辺りを窺った。
ライブ終わりのライブハウス前というのは何とも言えない雰囲気がある。
先程までステージの上に立っていた人達が、至る所で立ち話をして笑っている。ファンらしき人間と気軽に言葉を交わし合う姿を見て、客と演者の距離の近さに驚いてしまった。
そういえば演奏中も普通に演者がその辺にいた。
澪は、拍子抜けに近い感情を抱いた。澪の中では、ステージに立つ者とそれ以外、という関係はもっと遠いイメージだったのだ。
もちろん、彼らはいずれにしろアマチュアである。ファンはいたとしても、個人で関わりを持つことを忌避しなければならないような存在ではない。
しかし、逆に言えばこういう関わり方ができるのが今のうち、ということでもある。
もしもこの中のバンドのどれかがメジャーデビューを果たし、全国規模で人気が出た場合、こんな光景はお目にかかれなくなるだろう。
びっくりしたが、考える内にこういうものかと受け入れる気持ちになった。
「澪先輩。私の友達のアミです」
ぼーっと立っていると、梓の声が澪の注意をひいた。振り向くと、梓の隣には先程のトリバンドでベースを弾いていた少女が立っていた。
少しだけ色が抜けた髪にTシャツにパンツという出で立ちはいかにもラフなメロコア少女といった感じがする。
「今日はどーもです。CDまで買ってもらったみたいで。ほんと良い人!」
ぺこりと頭を下げて少しハスキーがかった声で礼を言うアミ。すると梓が目を釣り上げて彼女の肩を叩いた。
「失礼な言い方しないでよ!」
「え~!?」
急にどつかれたアミは顔をしかめて梓を睨む。
「ま、まあまあ」
根っからの生真面目さは等しく友人にも発揮されるようだった。
「澪先輩もベースですっごく上手いんだから!」
梓が少し鼻を膨らませて言うものだから、澪はもう限界だった。顔を真っ赤にして、まごついてしまう。
その後、ライブの感想を二言ほど話したところで彼女はファンらしき男性に話しかけられ、そちらにかかりきりになってしまった。
見知らぬ男性との会話に割って入ることもできず、梓と一緒にそこらでうろうろしていた唯と律と合流した。
ライブは全体的に三十分ほどおしていたので、既に時刻は夜の十時をまわっている。
駅まで歩いていると、唯がふわふわとした足取りで鼻歌をならした。先程のバンドの曲だろうか。澪は既にそのメロディが遠い記憶になっており、朧気にしか思い出せない。
「なんか耳遠いや」
「すごい迫力だったなー。あれだけ爆音でやれると気持ち良さそうだな」
澪も律の感想には同意だった。自分達の音が空間を占めている感覚は何よりも快感である。
「私達がライブハウスでやったらどんな感じなんだろうね」
「まあ、前にやったのとは別物って感じだろーな」
「でも皆さんの演奏も大迫力でしたよ!」
この中で唯一あの時のライブを客観的に見ていた梓が強く力を込めて言った。彼女が一度その演奏を聴いただけで惹かれたという軽音部の演奏。後輩からのストレートな評価に澪は密かににやけてしまった
「もうあんな大きなとこで演奏できないのかなー」
その時、唯がぽつりと呟いた内容に律が過剰に反応した。
「なーに言ってんだよ! 私ら、武道館で演奏するんだろ!? あんな
んまだまだ狭いわ!」
ペニー・マーラーほどの大きさのライブハウスを狭いと言い放つ傲岸不遜っぷりに澪は呆れるのを通り越しておかしくなってしまった。
「何笑ってるんだよ」
若干据わった目を向けられる。
「いや。そういえば、前にもそんなこと言ってたなって思い出しちゃってさ」
「こちとら本気なんですけどー!」
「え、律先輩。本気でそんな無謀な目標を……」
澪としては未だに律が冗談半分なものだと思っているが、梓にとっては初耳だったのだろう。
身近な人間がそんな大望を抱いているなどとは思いもしていなかったのだろう。とりわけ、それを掲げるのがあの律である。
ぽろりと本音が漏れたとしても仕方がない。
「無謀かどうかはやってみないとわかんねーだろー? 梓ちゃんよ」
「そ、そうかもしれないですけど」
絡まれる要因を作ってしまった梓は明らかに面倒くさそうな表情だが、それに気付かずに律は梓の首に腕を絡ませて言う。
「ほれ、うちの部にはそういうのがいるし。別に、私らができないってことはないって思っちゃうじゃん」
「夏音先輩は別物だと思います」
そういうの、が誰だかすぐに見当がついたらしい梓は冷静に切り返した。
「別物っちゃー別物だけど。同じ人間じゃん」
言葉の端に真剣なトーンが滲み出た。
「そういう世界の人間ってどこか違う人種なんだって思ってたけど。それこそ月にでも住んでんじゃねーの、って勢いでさ。けど、あいつ見てると音楽と無駄に恵まれてる容姿と多少の器用さ取ったらほとんどダメ人間なんだよな」
「そ、その言い草は……」
流石にひどくないかと澪が口を挟む。律は冗談めかした口調のまま、続けた。
「努力、してんだよなー」
溜め息を吐くように言った。
「私だってもっともっとやれば、いつか……」
「律先輩……」
澪はその台詞を口にする律の表情をあえて見なかった。既に前を見て、元の歩調に戻ってしまう。
何故だか今日の律はおかしい。酔っ払いが管を巻いているような。言っていることは理解できても、すぐに彼女に賛同することができない自分がいることに澪は驚いていた。
こと音楽に関しては、澪は律と似た視界を共有していると思っていただけに。
背後では、梓が「いい加減に放してください。歩きづらいです!」と叫ぶ声がする。すぐにおどけた幼なじみの声が続き、先程まで妙に張り詰めた空気は消えているに違いない。
「(私は、まだ考えてるだけだ)」
律みたいなことを。考えるだけで、行動に移していない。
律もそうなのかもしれない。
何故なら澪も律も、他の軽音部の皆は同時に見たから。そういう世界が、何かしらヴェールのようなもので覆われていた不思議な世界が、ふとした風によってその向こう側をこちらに見せてきたのだ。
誘うように。挑発するように。
それは罠かもしれないと頭の冷静な部分が判断している。だからこそ、澪は踏み出せない。小さな一歩すら。
彼女は、そんな自分が少し嫌だった。
それから駅につくまでの距離だけで、身体がじっとりと汗ばんでしまった。ねっとりとした風が頬を撫で回していき、不快になる。
そろそろ梅雨がくるな、と澪は心の隅で思った。
※死ぬほど投稿あいてしまいました。繁忙期って恐ろしいですね。
これからも頑張って投稿したいです。