「なんのバイトがいいかな~」
放課後。軽音部の一同は仲良く肩を寄せて何かの雑誌を熱心に眺めていた。溜め息とページをめくる音が先ほどから連続している。
「やっぱりフリーペーパーじゃあまり良い求人ないなー」
肘をついて肩を落とす律は「ネットも使うかー」と溜め息をついた。
彼女たちが真剣な眼差しを向けているのはアルバイト情報が載ったフリーペーパーである。変なところで金をけちったのが災いしてしまったと一同は肩を落とした。
何故こんな事をしているかというと、先日の話合いで唯のギターを買うために全員でアルバイトをすることになったのだ。
夏音は他人の楽器を買うのに働いてあげようだなんてどこまでもお人好しな子達なのだろうと呆れていた。しかし、それは自身にも言えることだ。夏音としても、アルバイトというのも初めての体験である。なかなか面白そうだと自身も興に乗っていた。
「ティッシュ配りとかはー?」
「あれも結構きついらしいぜー」
「ファーストフードなんかどうですか?」
(なるほど、アルバイトにも色々あるんだね)
夏音はそれらの会話を真剣な表情で何度も頷きながら聞いていた。アルバイト情報誌なんていうものがあること自体、初めて知ったくらいである。
意外にも働き先を決めることは難儀を極めた。良い条件を見つけたとして、どんな提案が出たとしても、接客を避けられないバイトなどは極度の恥ずかしがり屋の澪にとってハードルが高くなってしまう。無理をすると精神的に多大な苦痛をもたらして屍と化してしまうくらいに重症だということが判明した。
行く末を心配された澪だが、一同は彼女が屍となるのを防ぐため、遠回りでも他の線で探しているのであった。
「どっこも高校生不可だってさー」
「せちがれぇ世の中だねりっちゃん……」
そんな会話がしばしば挟まれる。その都度、澪が申し訳なさそうに体を揺するのをムギが慰めるということの繰り返し。エンドレスにループしそうな流れにしびれを切らした夏音が口を開いた。
「この際、少しくらいきつい仕事でも我慢しようよ。世の中きつくない仕事なんてあまりないでしょう?」
全員が押し黙って夏音の言葉に目を丸くした。
見るからに「箸より重いものは持ったことありませんわオホホ」な深窓のお嬢様然とした人間から飛び出た全うな言葉が意外だったのだ。
「まあ……夏音の言う通りだよな。私ら全員を雇ってくれるところなんて単発で力仕事ばかりだし……」
「そもそも全員で同じ場所で働く必要あるのかな?」
「それはそうなんだけど。ほら、うちの澪を単独働かせに出すのは心許ないっていうかさ……わかるだろ?」
「なっ! 余計なお世話だ!」
完全に保護者の視点から悩む律の言葉を聞いた澪が屈辱に赤く顔を染めた。
「それもそうだな」
夏音がさもありなん、と頷くのを見てとうとうショックを受けた彼女は気付かれないように隅でいじけた。
放課後をかけて各自で携帯サイトや情報誌とにらめっこしたおかげで、澪にもできる交通量の調査という名前からして楽そうなアルバイトを探す事に成功した。
ひたすら通りを走る車を数えるアルバイトだという。たったそれだけでお金が貰えるのか、と驚いた夏音は後に少しだけ後悔することになる。
アルバイト当日。
時刻は早朝の六時。一同が揃って集合場所に向かうと、帽子をかぶった中年の男女が一組待っていた。
「よろしくお願いします!」
高校生らしく、朝から精一杯のやる気をこめて威勢の良い挨拶をする少年少女に人好きのする笑みを浮かべて彼らは自己紹介をする。女性の方は有坂さん。男性の方は片平さんと名乗った。
「はい、今日は日中気温が上がるそうなので、水分補給だけは小まめにしてくださいねー。それでは、現場に向かいましょうか」
現場へ向かうにあたって二人一組に分けられ、ひたすら流れてくる車を数える業務につく。難しい業務ではないし、ずっと座っているだけなので尻のしびれとの戦いといっても過言ではないと思った。
「あの……他のみんなはどこに?」
夏音が任された地区は軽音部の仲間達とは別で、彼女達とは二つほど区画を挟んだ道路であった。
「ごめんねー。お友達と一緒の所にしてあげたかったんだけど、人数の都合でしょうがないんだ」
と派遣員の片平さんは言う。人が善さそうだが、気弱そうな人である。遙かに年配の者が自分に頭を下げてくるのもバツが悪い。
「そうなんですか。わがまま言ってすいません」
軽く頭を下げると、夏音は支給されていたくっと帽子をかぶった。自分はここに仕事に来ているのであって遊びではないのだ。気を引き締めていかないとならない、という覚悟の表れである。
(しかし立花夏音、なかなかどうして寂しいものだ)
実は寂しがり屋さんの夏音も時間が経つにつれ、仕事に慣れた。というか孤独に慣れた。作業は本当に車を数えているだけで、もう一生分の車を見ているのではないかと思われた。
むしろ睡魔をやっつける方がよっぽど難儀したくらいである。
このバイトは一区域につき派遣員を含めて三人体制でまわっている。実際に調査するのは二人なので、交替で一人が休憩といったシステムである。ところが、休憩といっても軽音部のメンバーとかぶる時は少ない。用意されたワゴンの中に見知った顔を見つけた瞬間の夏音は尻尾をぶんぶんと振っていたように見えただろう。
夏音は隣に座る相方の方に目を向けた。自分とペアを組んでいるのは都内にある某大学院で数学を研究しているという寡黙な青年だった。
ぼさぼさの長髪にメガネ。洗いざらしのブルージーンズにシャツ、という地味な格好。一昔前の日本のフォークシンガーさながらという出で立ちである。彼とは初めの挨拶以来、口をきいた記憶がない。
向こうが話す気がないのだろうか。それとも体調が優れないようにも見える。この青年、風が吹けば倒れそうというか、夏音が一発はたいただけでKOできそうなくらいゲッソリしている。そう思って見ると、だんだん顔色が青ざめているような気もする。この人ヤバいんじゃ……と不安にかられた夏音はたまらず口を開いた。 あまりに暇だったのもある。
「暑いですね」
「そうだね」
「あれも車に含めていいんですか」
「あれはヤクルトのおばちゃんだから……どうだろう」
「ヤクルト………好きですか?」
「毎日のおやつがジョアさ」
「僕も好きですよ、ジョア」
夏音は奇妙な高揚感を得ていた。意外にも、会話がつながっている。夏音が思わず手元のカウンターをすごい勢いで回していると、今度は青年の方から話しかけてきた。
「君はどうしてこのバイトに?」
「お金を稼ぐためです。そう言うあなたは?」
「数字が好きなんだ……ひたすら数を数えていられる最高のバイトだから」
ああ、変態なんですねという言葉をかろうじて飲み込んだ夏音はそれらしく「なるほど」と頷いて曖昧に濁した。
「君、どこの子?」
「桜高です」
「あぁ。あの女子校か……女子校って憧れだったなあ」
「いや、今年から共学になったんですよ? そういう僕は桜高共学化初年度の男子生徒なんです」
夏音がそう言った途端、青年は一分くらい押し黙る。心配になって青年の顔をのぞき込むと、半分くらい前髪に覆われた顔は限界まで驚愕に固まっていた。まるでサンタクロースの衣装をクローゼットから発見した少年みたいな表情だった。意外に表情豊かだ。
フリーズから解けた彼はくいっとメガネを押し上げて、怖々と口を開いた。
「そいつは君……実に驚愕の事実だよ……君のこと僕っ娘だとばかり……」
「………僕っ娘は女の子限定の属性ですよ?」
性別を誤解されることなど、今さらである。しかし、夏音は彼と口をきくのをやめた。
「ところで、君のことどこかで見た気がするんだけどなあ……」
「気のせいです」
その後、やたらと饒舌になった青年が数学的セックスについて語り出した時も、うんざりと道路の車に意識を集中させていた。
時間はじっとりと過ぎていく。
太陽も昇りきったところで、休憩の時間になった。
向こうの配慮により、お昼の時間を合わせてもらったので、夏音は急いで他の皆の場所へ向かった。
一刻も早くムギのお茶が飲みたかったのである。
夏音が厳かに瞳をとじて、茶の一滴までも渋い顔で味わうのを不思議な顔つきで見守る軽音部一同の姿があった。それから休憩時間が終わると共に、哀愁を漂わせて帰る夏音の背中をそろって見送った。
残りの時間、夏音はずっと憮然とした表情で過ごした。隣の青年の変態性が自分に感染らないかと不安になった。
二日目は中だるみが激しく、大分いい加減なカウントになってしまった。天気だけは良く、爽やかな風が時折吹くのに気分は暗鬱。
隣で数学の深遠な世界について語る青年の声もお経のように聞き流すことができるようになった。これも仲間のためと思い、今すぐにでも帰りたい欲求を我慢して夏音は乗り切った。
とはいうものの、我慢もしてみるものだ。過ぎたる毒は、案外気持ちよくなることもある。
夏音は隣の青年とうっかり会話が弾んでしまったのだ。
どんな会話が切り口だったかは定かではないが、とにかく音楽の話になった。すると後は超自然的に音楽談義に花を咲かせることになり、実は彼がインディーズシーンにおけるマスメタルバンドの先駆的存在として羨望を集めているらしい事が判明したのだ。
「マスロックじゃなくて?」
「マスメタル、だよ。これでも割と名が知られていると思うのだけどね」
正直、かなりアングラじゃないかと思ったが、彼が日本においてお馴染みの野外フェスに出場した話もあって、それなりに認められているのだと理解した。
その後はヘビーすぎる音楽の話を堪能して、「いつか観にきてよ」とライブに誘われるくらい仲が良くなってしまった。
まったく人は見かけによらない。
重々承知していたのに、改めて思い知らされた。今回、アルバイトをして良かったと夏音は熱く噛みしめた。
こうして二日間のアルバイトは終了した。
「二日間、お疲れ様―」
ねぎらいの言葉と一緒に給料袋が手渡される。初めての肉体労働。その報酬に感極まった夏音が思わず涙をこぼし、それにつられたムギと涙をふきあう微笑ましい場面も見られた。
本来の目的は唯のギター代を稼ぐことだったので、皆が一斉に受け取ったばかりの給料袋を全額まるごと唯に渡したのだ。
全員分の袋を受け取った唯の表情が曇っていることに夏音は気がついた。だが、律たちはそれに気付かず他のバイトをやることを検討し始めていた。
そんな唯の様子を何となく観察していた夏音であったが、唯が吹っ切れたような表情で顔をあげたのを見てなんだろうと首をかしげた。
「やっぱりこれいーよ!」
バイト代は自分のために使って――そう言って、唯は給料袋を全員の手に返す。
「私、自分で買えるギターを買う。一日でも早く練習して、皆と一緒に演奏したいもん! また楽器屋さんに付き合ってもらっていい?」
全員が唯の決断に呆気にとられていたが、ふと顔がほころんだ。
首を横に振る者などいなかった。
夏音は小さくなっていく唯の姿を再度振り返って眺めた。
「いい子だな、唯は」
ぽつりと呟いた夏音は、そんなに欲しいのならレスポールくらい手に入れてあげようかと考えた。
(すぐにでも……)
思考が段取りを踏もうとしたところで、首を横に振った。
「やっぱりやめた。唯が決めたことだもんね」
「おーい、夏音! 置いてくぞー!」
「あぁ、ごめん今いく!」
もう一度だけ唯の姿を視界におさめ、夏音は足踏みして待っている律たちの方へ駆けだした。
そして、ついに唯のギターを決める日がやってきた。
実のところ、夏音は内緒でまたあの楽器屋へ通ってちょうど良い価格で良さげなギターを見繕っていたりした。けれども、結局選ぶのは唯なので意味がない。そこは巧みな話術で唯を操って……と思い、ふらふらーと浮き足立つ唯に話しかける。
「あ、あのさー唯ちゃんや? ここらへんのギターのー……このへんの……これとかいいと思うんだけどなー……って唯?」
さりげない態度で誘導商法を試みた夏音であったが、じっとしゃがみ込んだ唯の視線の先を追って眉を落とした。
言うまでもなく熱い視線の先にはレスポールが光沢めいた光を放っている。同じように唯の様子に気付いた律と澪も仕方ないなー、といった表情で苦笑する。
「唯? よかったら買わなくても、弾くだけ弾いてみる?」
「うーん……それはいいや。あとちょっとだけ見させてー」
まるで買って欲しい玩具をねだる子供そのものだ。
夏音は肩をすくめて「見るだけって言っても……」と戸惑った。他の者に困惑した視線を向けると、澪と律が苦笑まじりだが、確実に嬉しそうに笑っていた。
二人には唯の気持ちが十分に共感できるものだったし、仕方ないなと言った心持ちであった。
「ちょっと……ちょっと待っててください!」
突然声を荒げたムギに「おや?」とした顔を見合わせた一同だったが、ムギが敏捷な動きで店員の方へ駆けていく様子を見守った。
何やらムギが熱く語っている。しかし、相手をしている店員の顔が青ざめて見えるのは気のせいだろうか。
「ひ、ひぃっ」
という悲鳴らしき者が遠くに聞こえた気がした。
「あの店員やけに焦ってないか?」
律の指摘に、全員がうなずいた。そして、るんるんと上機嫌で戻ってきたムギが放った一言に度肝を抜かされた。
「このギター、五万円でいいって!」
「えぇーーー!!?」
「Jesus…!!!」
「な、なになに!? ムギちゃん何やったの!?」
どう考えても怪しすぎる展開に唯が青くなってムギに詰め寄った。するとムギは照れくさそうに説明する。
「このお店、実はうちの系列のお店で……」
「そうなんだぁー。ありがとう、ムギちゃん! 残りはちゃんと返すから!!」
唯は深く考える事をやめて、素直にムギへの感謝を述べた。そんな唯とは裏腹に、何という無茶苦茶な展開だろうと夏音は唖然としていた。琴吹家の財力や事業内容も気になるところだが、実家の権力を躊躇なく使ったムギも疑いなく二十万の値引きを受け入れた唯も思考回路が一般と画されている。
二十万といったら新卒の初任給に相当する。新卒の給料一ヶ月カットするのと同義であるのに。
「ま、使えるものは使えばいいかな」
幸福の絶頂かのように喜び跳ねる唯を見ていたら力が抜けてくる。やれやれ、と息をついた夏音は改めて彼女の表情を見やった。
瞬間、胸がズキンと痛んで何とも言えない切なさを覚えた。
(ギターが手に入るのがそんなに嬉しいんだ……)
夏音にもあっただろうか。
こんな感覚。
ずっと昔、初めて楽器を手にした時にもこんな風に打ち震えるような喜びを抱いただろうか。
彼女の純粋無垢な喜びに触れたせいか、胸がどきどきとする。
悲しいせいか、嬉しいせいか。どっちつかずの感情はすぐに皆の歓声に紛れた。
「おめでとう唯!!!」
数日後、メンテナンスや最終チェックを終えて、ついに唯の手元に渡ってきたギターのお披露目が行われた。繊細な硝子細工を扱うようにそっとハードケースの中からギターをとりだした彼女は、ぎこちない様子でストラップを肩に下げた。そして、じゃーんとギターを構える唯の姿に軽音部の一同から拍手が起こった。
「ギター持つとそれらしく見えるね!」
澪がいつになく興奮した口調で言った。
「なんか弾いてみて!!」
律も同じように唯に声をかけたのだが、そこで唯が弾いたのはなんとも間抜けなメロディー。
「チャルメラかよ……」
律がげんなりと言う。
(チャルメラってなんだろう)
日本ではお馴染みの曲だが、夏音にはよく分からずに曖昧に笑っていた。
すると話はギターのフィルムについての話題へと移行する。未だにギターのフィルムを剥がしていない事を律が目敏く発見したのだ。理由を尋ねると、唯がよくわからないギターの可愛がり方をして過ごしているということが判明した。
「添い寝はやめなさい。下手したら折れちゃうよ」
それだけは釘をさしておかねばならない。折れやすい、レスポールちゃんは弾く時は悪魔のように大胆に。触れる時は赤子に触れるように繊細に。
その後、律がフィルムを勝手に剥がして唯を泣かしたが、結果的に唯を練習へ向かわせたので結果オーライ、と夏音は満足だった。
「ライブみたいな音出すにはどうしたらいいのかな?」
と唯が言い出したので、部室の倉庫にあった古いマーシャルのギターアンプにつないでやった。
「よし、これで音が出るよ」
サムズアップをして、唯に弾くように指示する。
そして緊張した表情で唯がギターのネックを支える。
右手が振り上げられ、下ろされる。
響くレスポール、ハムバッカーが拾う弦の振動。
ただの開放弦だ。音色とも言えない、微かなノイズまじりの音。
そしてサスティーンが伸びきって、じょじょに消えていく。
夏音は全身に鳥肌が立った。脳に電極をぶっさして雷でも落とされたかのようだ。
何の予兆もなく、襲いかかってきたこの震え。遅れて、自分がこんな感覚を全身に迸らせていることに震撼した。
(何だよ…こんな……ギターを鳴らしただけじゃないか)
夏音は唯の表情を見て、この間自分が覚えた感覚の正体が何か分かったような気がした。
これは産声である。自分が初めて出した音が彼女の胸を魂を深く震わせている。喜びの歌声だ。
―――これどうやっておとだすのー? ――
―――ハハ、ここをこうおさえて弦を弾いてごらん――
―――す、すごいっ! おとがでたよっ――
―――ほぅほぅ、大したもんじゃないか――
(俺は……こんな感覚、とうの昔になくしていた)
彼女を見ていて、脳裏をよぎる遠い記憶。
唯の向こう側に幼いころの自分の姿が見えたような気がした。
(うらやましいな)
「やっとスタートだな」
自分には、二度と取り戻せない感覚。夏音が深い思いに耽っていると、澪が神妙な口調で言った。万感の思いを織り込んだような声だった。
「私たちの軽音部」
律が続ける。
「ええ!」
ムギが静かに、力強くうなずいた。
「俺たちの、軽音部……俺たちの、軽音部か」
夏音の胸に目が覚めるような爽快な風が吹いた。ドクドク、と皮膚の裏を走るナニカが夏音を突き動かす。
自分もまた新しい音楽を。
改めてこの場所で、一から音楽に触れていき、育む。
(俺、ここに来て良かったのかも)
夏音は軽音部に入る事を決めた(やや強制だった)自分のフィーリングは間違っていなかった。
「目指すは武道館ライブーー!!」
律が声高らかに叫ぶ。あまりに大きく出た律の言葉に驚きの声があがるが、夏音はいっそ清々しかった。未来の事はわからない。もしかすると、このメンバーで武道館にあがる未来が来る日があるのかもしれない。現実的に考えると叶わない夢である。
けれども、それがただの夢物語だとしても、本当に実現できたら。夏音は自分は夢想家ではないと思っているが、そんな未来がやってきたら大層面白いことだなと笑った。
「卒業までに!!」
「それは無理だろ」
おまけにチャルメラとかいう謎のメロディーを加える唯に、盛り上がった空気が完全に抜けてしまった。
「ご、ごめん。まだこれしか弾けないやー。アンプで音を鳴らすのはもう少ししてからだねー」
すると唯はアンプに近づき、つまみに手をかけずそのままジャックに手をかけ――、
「って、唯っ! 危ないっ!!」
澪が叫ぶが、間に合わなかった。そして大抵の初心者が一度は聞くハメになる爆発音が部室に響いた。
もう、辛抱できなかった。それを見て、夏音は盛大に笑い転げた。
唯を注意していた澪だが、過呼吸気味に陥るほど腹を抱える夏音に若干顔をひきつらせせた。
「ひどい! そんなに笑わなくても~!」
唯は頬をふくらませる。
「い、今の……そんなにツボる所あったかー……?」
律は、儚げな美少女が床に転げるほど笑いまくる様子に目を背けたくなった。
「あー楽しいじゃないか軽音部!」
これから、もっと楽しいことが起こるに違いない。
その後。
「よし、唯にギターを叩きこむかー」
先ほどの醜態から一転して、俄然やる気の闘志を燃やす夏音であった。
「あ、そうそう夏音くんや」
「何かな?」
「私、夏音くんがこの間弾いたの聴いてすっごい感動した! 私も早くあれだけ弾けるようになりたいので、よろしくお願いします先生!」
(あ、せん……先生……先生……甘美な響き)
「俺の特訓はきびしいぜ? やれるかい嬢ちゃん」
「覚悟しております! サー!」
「その意気やよし。まずはコードをおさえてみようか」
「サー! コードってなんですサー?」
「あれ、どこから教えればいいんだ……」
思えば、夏音は一から楽器を教えるのは初めてであった。夏音が頭を抱えるのを見て、唯もつられて難しい顔をした。
むぅ、と二人がうなった。
※今回、少し文量が少なめです。