「もっとさ。こう、川のせせらぎを感じるような……それでいて、下流に向けて流れてくの。時に強く、堅実に。細くなって、別れて……わかるかなぁ」
そんな無責任な言葉の羅列に夏音はげんなりとした。
お前の想像している川がどんなものかなど知ったことではない、と内心に思う。
よくもこんな男がプロデューサーを名乗れるものだと呆れたのはもうだいぶ前の話だ。今や諦めの境地である。
ふと視線をスタジオの袖の方にやると、自分の仕事をまるで盗られたディレクターの苛々がそろそろスタンドになって出てきかねない。夏音と目が合うと、申し訳なさそうな顔になるが、夏音は眉を上げて共感を示した。
ついでに夏音はちらりとコントロールルームの時計を見る。夏音がスタジオに入ってから二時間は経っていた。
「……All right.」
夏音は本音を呑み込み、ベースを構える。少しだけヘッドフォンから流れるオケの返しを大きくした。
今回の仕事を受けなければよかったと何度も後悔をした。こんなのは端仕事である。自分を起用しようと考えたことが不思議でならない。
現在の技術であれば打ち込みで済むのに、わざわざ生の音を選んだ理由すら見えてこないのである。
三曲録り終えて、思う。
ソロデビューしたアイドルの楽曲ということだが、プロデューサーのヴィジョンが甘い。ただのアイドル上がりではなく、実力派として売っていくつもりだというだが、だからといって楽曲製作への力のこめ方を間違えている気がする。
おまけにディレクターとの意思疎通も弱い。夏音はこれほど信頼できないチームを見たのは初めてであった。
費用にも限度があるだろう。夏音は自分のネーム・バリューを理解していたつもりだが、ネームの大きさに比べた時のギャラの価格なども含めて都合が良いと思われたのだろうかと考え、気落ちした。
それに今日のプロデューサーの態度を見ても、なめられている気がしてならなかった。所詮は十代の子供と侮られているのではないか。
親切価格とはいえ、安くはないはずだ。それでも自分が起用された理由とは何であろう。
自分を安売りする気はないが、そうも言っていられないのが現状。かつてのように放っておいても仕事が舞い込むような身分ではない。ある程度、営業に近いことを求められる瞬間もある。夏音をサポートしてくれるジョンやその関係者には頭が上がらない。
今回のような仕事は正直、夏音にとっては不本意なものであった。
等々、考えることは色々ある。ぐるぐると頭の中を回って、混乱に陥れようとする。
それでも一度受けた仕事で手を抜くわけにはいかない。
イメージがあるのならば「こういう音!」と具体的に示してもらいたいものだが。「こう……あのアルバムのあの曲のあいつの音、わかる? ちょっとシンセっぽい音」のように頼まれる方がよっぽど楽である。
やりづらい。
正直な感想だったが、そう言っていても仕方ない。
気持ちを切り替え、夏音は目の前の曲に向かった。
何にせよ、自分の音が欲しいと言われたのだ。相手がどうあれ、期待以上の仕事をするのがプロである。最終的には、文句のつけどころのないものを突きつけてやればいいだけのこと。
短く息を吐き、そっと弦に指が触れた。
「顔色悪いけど、大丈夫か? 吸血鬼みたいに真っ青だぞ」
夏音を心配するような声をかけてきたのはクラスの友人の一人である飯島裕也であった。一限目の体育ほどきついものはない、と夏音は思う。
眠たい体に鞭を打って走らされる準備運動の段階で夏音は足をふらつかせてしまったのだ。
「眠い」
「そうか。それはいつも通りだな……にしてはやっぱりヤバそうだけど」
「どれくらいヤバそうに見える?」
「そのまま棺桶に入っていても違和感ないレベル」
それは相当に悪い顔色なのだろう。今朝、夏音は鏡をあまり確認せずに学校へ登校してきたので、自身の顔色に気付くこともなかった。
「早退すれば? それか保健室とかさ」
本気で心配してくれる友人に夏音は感動した。感謝の気持ちでいっぱいになり、微笑んでそれを表す。
「ありがとう」
「………気持ち悪いこと言うけどすまん。いつもならドキッとしちまうような仕草なんだけどさ。今のお前に微笑まれてもなんか……逆にコワイ。いやー」
うっすらと引いている様子が分かる。夏音は久しぶりに容姿のことで傷ついた。
「あ、ごめん。悪い意味じゃなくてさ」
「じゃあどういう意味?」
「本当……顔が整ってるからマジで吸血鬼みたいってこと」
どんどん墓穴を掘っていく友人に夏音は溜め息をついた。走りながら会話することもダルイのだ。相手にするのをやめよう。そう思っていた時、
「あの……さ」
ふいに真面目なトーンで話し出す裕也に夏音はぴくりと耳を寄せた。
「ちょっとお前に相談したいことが」
「今?」
「いや、今じゃなくていい。後で、っていうか時間作ってくれたらありがたい」
「いいよ」
夏音はあまり相談事を持ちかけられるタイプではない。せいぜい英語の授業についての質問が押し寄せるくらいである。
あんな真剣な様子の裕也が自分に相談したいこととは一体なんであろうと夏音は首を傾げた。
何にせよ同級生が悩んでいるということだ。力を貸すことを惜しむつもりはない。
放課後、部活へ行く前に中庭に呼び出された夏音。そこには既に裕也の姿があった。
「お待たせー。掃除長引いた」
「あ、うん。全然、こちらこそ」
「それで相談ってなに?」
夏音はくだけた態度でぼすんと裕也の隣へ腰掛けた。
「あの、さ……」
「うん」
もごもごと口を動かす裕也に夏音は「おや?」とひっかかった。この雰囲気。自分が未だかつて味わったことのない空気に夏音はぞくりとした。
「そ、その……好きな人っている?」
「それは恋愛として?」
嫌な予感をひきずりながら夏音が確認すると、裕也はこくりと頷く。
「そうだね。今のところはいない」
「そ、そうか。いや、お前は軽音部入ってて女子に囲まれてるじゃん? だからそういう感じになってるのかなーって」
「そう? たしかに俺しか男がいないけど。だからといって必ずそうなるってのは安直すぎないかな」
夏音のこういう遠慮のない物言いは最初こそ面食らう者は多かったが、次第に慣れていった。裕也も特に気にした様子もなく「そうだよなー」と軽く反応した。
「それでさ……」
また口籠もる。はっきりとしない態度に夏音は少しだけ苛ついた。歯に物がはさまったような喋りを長く続けられることは好きではない。日本人には多いが、人を呼びつけておいてぐだぐだと要件をはっきりしないのは失礼だと夏音は思った。
「はっきり言って、何なの?」
「悪い。ちょっと勇気がいて……でも、言うよ。俺、秋山さんのこと好きなんだ」
世界が止まった。
ほっとしたような、それ以外にも複雑な感情が瞬時に夏音の頭をめぐった。実のところ、夏音は万が一にでも自分がそういった感情を向けられているのではないかと危惧していたのだ。
夏音の容姿は人並み外れている。これまでも同性にそういった視線を向けられることがあり、実際にその想いを伝えてくる者もいた。街中でのナンパも数え知れない。
全て同性から、というのが悲しくも残酷であったが。
夏音が安堵したというのは、その部分において。残りの、夏音の中で沸き上がった感情。夏音はそれを明確に自分の中で形づけることができなかった。
いずれにせよ、自分にとってハッピーなものだとは思えなかった。
「そ、そうなんだ~?」
とりあえずそう言い返すのが精一杯だった。その反応をどう受け取ったのか、裕也は暗い表情になる。
「やっぱり俺なんかじゃ無理だとは分かってるさ。でも、気になってしょうがなくて。夜も眠れないんだ!」
どうやら裕也は澪に対する熱い想いを日夜持て余しているようだ。熱のこもった口調に夏音はかえって冷静になった。
「本気なんだね」
「ああマジさ!」
「それで、俺に相談ってことは裕也は俺にどうにかして欲しいってことかな?」
「いや。別に夏音に具体的にどうこうしてもらうってことじゃないんだ。自分の色恋のことまで他人に世話焼いてもらうのも違うだろ?」
立派な言葉だが、ではどういう意図があって自分に打ち明けてきたのだろうと夏音は疑問を持った。
「まあ、俺って秋山さんと関わりなんてないだろ? 一年の時にクラスが一緒だったって言ってもほとんど話したこともないし」
「そもそも澪はほとんど男子と話さないしなあ」
澪は生来の引っ込み思案に加えて、人見知りである。初対面の人間には固い態度を崩さないし、それが男が相手ともなると終始俯いて終わりだ。
「そうなんだよ。秋山さんって男が苦手だったりするのかな?」
「んー…………そんなことないと思うけど。ほら、俺だって男だし」
「例外に言われてもなあ」
渋い顔で言う裕也。夏音はカチンときた。
「じゃ、部活行くね」
「待て待て! ごめん言葉のあやだから! 待ってごめん!」
その場を去ろうとした夏音の腕をつかみ、そのまま土下座しかねない勢いである。必死すぎる裕也を夏音は憐れに思った。向き直って裕也の顔をじっと見詰める。
「分かればいいのだよ。それで、単刀直入に言ってもらいたいな。俺に何を相談したいの」
実は覚えたての難しい言葉を使ってみた夏音。だが裕也はそこに引っ掛かることもなくもじもじと腕をもむ。
「あ、秋山さん好きな人っているのかな~? なんて……」
「乙女か!」
もじもじ。赤面しながら俯きがちの一言。これが美少女だったら何と健気で初々しいのかと悶えるところだが、男子高校生がやっても些かさむいだけだ。
「だ、だって中学は共学だったんだろ? 彼氏の一人くらいいたり……ていうか付き合ってる人とかいないよな?」
「落ち着きなよ。澪が彼氏持ちのはずないだろ」
クラスの男子との接し方を見ても、男慣れしていないのは丸わかりだ。そんな過去を聞いたこともないし、澪が普通に男と恋愛するような光景は想像できない。
「そっかぁ……とりあえず安心した」
その言葉を聞いて小心者、と感想を抱いた夏音であった。例え澪に彼氏がいたとして、それで諦めるくらいの想いなのか、と完全に自分棚上げの他人事として考えていたりした。
「なあ夏音。俺、どうやってアタックしたらいいだろう」
盛大な沈黙が二人の間に落ちる。しばらくしてゆっくりと口を開いた夏音がゆっくりと諭すように言った。
「俺に、聞かないでくれ」
切実な響きに流石に裕也も何かまずいことを言ったのだろうかと気付いたらしい。顔色を変え、慌てるように腕を振った。
「ご、ごめん。なんか……ごめん」
マジなトーンで謝られる方がこたえるものだ。恋愛経験のない夏音にとってその手の話題自体が自分のジャンル外なのだ。その上で恋の駆け引きのアドバイスなどできるはずがない。そもそも始まってもいない恋である。
「すぐにどうこうするつもりはないんだ。けど、気持ちが抑えられなくて……ちょっと本気で軽音部に入ろう、とか考えたりもした」
ぴくりと夏音の目が引き攣る。これは夏音にとって聞き捨てならない台詞であった。
「裕也は楽器を弾くの?」
「俺? まあ一応、小学校の頃からドラムやってるよ。中学まで吹奏楽部だったし」
意外な新事実に夏音は「へぇ」と純粋に驚いた。裕也の外見はどちらかというと今風、悪く言うならチャラい。顔は悪くないが、むしろしまりのない感じが誠実さを削いでしまっている。
第一印象ではウケないタイプなのだ。内面はこの通り正々堂々とした純情青年であるのだが。
真面目に吹奏楽部、というイメージとはかけ離れている。
「そうか……本当に音楽をやりたいなら俺は歓迎するよ」
夏音はそう言った後、続けざまにこうも言った。
「本当に、音楽をやりたいならね。けど……このタイミングで君に言われても、俺は戸惑ってしまう。もしかして音楽を恋愛の道具にするんじゃないかってね」
「そ、そんなことは」「ないの?」
否定の言葉を紡ごうとした裕也にかぶせるように言った。
「そうではない、と言われても俺にはどうとも言えないよ。純粋に裕也が澪にアタックするなら、応援する気もある。けれど、音楽に絡められるとだめだ……俺は、そう来られたら素直にうんと言えない」
真剣な夏音の瞳に裕也はたじろいだ。こんなにも意志をこめる瞳に、そうそう出会うことはない。
青い瞳は静かな感情を宿している。その言いしれぬ感情の奥を覗き込むことが躊躇われるほどに。軽はずみに触れてはいけない領域に手を出したのだと裕也は息を呑んだ。
「ごめん。俺、学校の部活で本気で音楽やりたいって気持ちはない。ドラム叩くのは好きだけど、軽音部に入ってやるってのは違う……自分でそう決めたから、入学した時に軽音部に入らなかったんだ」
神妙に語る裕也。根が真面目で素直な彼は、すぐに自分の過ちを認めることができた。そんな彼の態度に夏音もすぐに態度を軟化させる。
「いや、こっちこそ熱くなっちゃったね。裕也が音楽をやりたいなら、全然かまわないんだよ」
「うんや。それは俺も割り切ってるからさ。うん……ていうか自分でも決めてることなのについ変なこと口走っちまった。要するに俺が言いたいのは、秋山さんと関われるナニカが欲しいってことなんだ」
「ナニカ?」
「きっかけって言うのかな。メアドでもゲットできればいいんだが……」
「澪のアドレスなら本人が良いって言ったら教えてあげるけど」
「それじゃだめなんだ! だって……いきなり普段話さないやつがメアド知りたいなんて下心あるって思われるだろ?」
面倒くさい、と思い始めた夏音だった。
「じゃあ、どうすんの?」
「それを思いつかないから相談したいんだよ! なあ秋山さんの趣味ってなに? 普段、どんな音楽聴くのかな?」
「それ、全部自分で聴きなよ」
教えた記憶がないのに、相手が自分の趣味を把握していたらコワイ。
「くっそー。どうすんだよー……あっ」
「そういうのは自分で悩むのがいいんじゃないか。そもそも澪のどこを好きに……ん、どうしたの?」
「あ、秋山さんだ」
わなわなと戦く裕也の視線の先にはベースを背負った澪の姿がいた。学校の鞄も携えた上で一人で歩いていた澪はこちらに気付いたようだ。夏音が手を振ると、そろそろと近づいてきた。
「どうしたの澪。帰るの?」
そんな話は聞いていなかった夏音が尋ねると、
「ああ。ちょっと具合悪くて、ってメールしただろ?」
「あ、本当? 話に夢中で見てなかったよ」
慌てて携帯を確認して、受信メールを見た夏音が頭を掻いて笑った。
「あ、どうも」
隣で固まっている裕也に目を向けた澪は小さく頭を下げた。澪は相手が誰であれ、このように最低限の社交性は持ち合わせているのだ。
話しかけられるとは思っていなかったのか、裕也はぴしりと音を立てて直立不動の姿勢を取ると、そのまま九十度の角度で腰を曲げた。
「お疲れしゃーーっす!!!」
どこの体育会系だ、と夏音は目を眇めた。
「あ、ああ。飯島くんだよ、ね?」
勢いに気圧された澪だったが、奇跡的に会話は続いた。
「お、覚えていてくれたの!?」
猿のように喜ぶ裕也は今にも澪の腕を握りしめかねない気迫をまとう。
「そ、それは同じクラスだったし」
なにしろ数少ない男子生徒である。むしろ一年間も同じクラスで名前と顔を覚えられない人間とはいかなものか。
「そ、そうだよな。ハハハッ! 俺、何言ってんだろ……あっ! ていうか、秋山さんさ。前に教室で誰かと会話してる時にunkie好きって言ってたの聞こえたんだけど」
「う、うん。律と、かな? 飯島くんも好きなの?」
「す、好きだよ!」
二人の会話を聞いていて「こいつら一発で日本語を話し出すことができないのか」と思った夏音である。裕也は力が入りすぎ、澪はその裕也の勢いにあてられてやや萎縮して見える。しかし、裕也が出したunkieなる単語に澪が食いついたのが見てとれた。
「俺、城戸さんって大好きなドラマーなんだよ」
「へえー。私はベースの人が好きで、ていうかもしかして飯島くんってドラムやってる?」
「やってるやってる!」
おや、とこのあたりから夏音は首を傾げた。
会話が弾んでいるではないか。その後、バンドの話で少しだけ盛り上がった二人であったが、裕也は体調が悪いと言っていた澪のことを気遣う発言をして、最後にこんなことを言い放った。
「あのさ。もしよかったらでいいんだけど、メアド交換しない? こういうマニアックな話できる人って周りにいなくてさ」
「え? ああ、うん。私も邦楽だとあまり趣味が合う人っていないからな」
こんな会話を交わして、二人は赤外線を使って連絡先を交換し合う。澪は二人に別れを告げ、去っていった。
それを見送りながら、夏音はぽつりと隣にいる裕也に呟く。
「う、うまいこと……やるやんけ」
「なんで関西弁!?」
しかも、割とイントネーションも完璧である。
「何だろう。さっきまで裕也のことヘタレなのかなーとかしょうがないなーとか思って他のに。いざとなると、まんまとアドレスを受け取ったりして……これが持てる者と持たざる者との違い?」
「後半何言ってるかわかんねーけど、前半オイッ!」
突っ込むワリには気にした様子がない裕也。今なら幾らでもののしっても寛容な心で許してくれそうである。
「まあ……よかったじゃないか」
「ああ、ありがとうな。夏音!」
「俺は別に何もしてないけど」
「いや! お前がいなかったらきっかけなかったし! 本当にありがとう! 感謝してる!」
夏音の両手をぶんぶんと振る裕也。しかし、夏音は彼に実に重大な事実を伝えなくてはならなかった。
「でも、まだ付き合うって決まったわけじゃないよね」
予想外のダメージだったらしい。今まで天に昇る勢いではしゃいでいた裕也は地面に倒れ伏してぶつぶつと何事かを呟く。
「そうだよなあ……何調子に乗ってたんだろ。あ、もしかして内心ではウザイって思われてたのかも。終始なんかヒキ気味だったし……俺、痛い子?」
痛い子というより、その状態を見たら可哀想な子だ、とは夏音は口に出すことはできなかった。
「でも、澪の連絡先知ってる男子って俺と七海以外は聞いたことないなあ。結構、珍しいんじゃないかな」
澪の口から学校の男子の話題を聞いた記憶は皆無である。アドレス帳の中身もそこまで多いわけでもないことも知っている。そんな彼女のアドレス帳に載っている男の連絡先は稀少といってもいいくらいなのだ。
「ほ、本当?」
「うん。そのはずだけど」
夏音の言葉に希望の光が裕也の瞳に宿る。立ち直りが早い、というより感情の起伏が激しすぎる。夏音は友人の意外な一面に驚いてばかりであった。
飯島裕也といえば、これといって目立つものもないが、比較的物静かな性格だったはずだ。騒ぐ時は騒ぐが、放っておくと静かに携帯をいじっているような人間。
しかし、目の前の人間は恋に燃える情熱の男であった。
「俺、頑張ってみる」
「おおー、がんばれー」
ぐっと拳を上げて意気込む裕也に夏音は応援の言葉をかけたのであった。
「(澪に恋愛するキャパシティーがあるとは思えないんだけどなー)」
決して口には出さず、彼の恋の行く先は果たしてどうなるものやらと考えながら夏音は部室へ向かった。
★ ★
「あ、夏音くん! 聞いて聞いて! あのね! 今日、男の子から告白されちゃった!!」
部室に入りざまに飛んできた唯の台詞に夏音は顔面からこけた。痛みに呻き、それから鼻をおさえながらふらふらと立ち上がった夏音は搾るような声で唯に尋ねた。
「そ、それで……唯はどうしたの?」
「え? ごめんね! って」
それを明るく楽しそうに話すあたり、恐ろしい子だと夏音は思った。どうせ、あっさりと今と変わらないようなテンションで答えたのだろう。その男子生徒に若干の同情を禁じ得なかった。
「テンション高いよなー。そんなに嬉しいのかね?」
部室の奥に座る律が呆れたように声を出す。その斜向かいでは何故かムギはやや不満気にお茶を啜っていた。
「あ、でもね。実はムギちゃんもこないだ告白されたんだって」
「What!?」
思わずムギを見る。夏音の視線に気付いたムギは、にっこりと笑った。
その笑顔を見た夏音は背筋をぞくりと冷たいものが走った気がした。笑顔なのに、般若のように見える不思議。
「で、律はそういうのないの?」
こうなれば取り残された律にも聞かねばなるまい、と夏音は律に問うた。
「あー私? 私はそういうの告られる前に止めてるから。めんどい」
「りっちゃん悪女だね!」
「………………マジか」
夏音はついに膝から崩れ落ちた。
頼みの綱だと梓に顔を向ける。気まずそうに眉を落とした梓に顔をそらされる。
「嘘だろ……」
夏音の衝撃は計り知れなかった。軽音部の女子全員が、告白されるという事態。その内三人は夏音のあずかり知らぬところで行われたという。
何をいきなりサカりだしているのだろうか男子共。
しかし、一体この感情をどう表現すればよいのだ。
夏音はたまらず叫ぶ。ある一点において、言っておかねばならなかった。
「そんな……梓は犯罪だろう!!」
「何がだ?」
「あれ?」
奇妙なことだ。目の前に見えるのは天井である。
「こ、これは……何事!?」
「いやお前が何事だよ」
先程から冷静に切り返してくる律の声に夏音は息が止まる。そして自分の状態に驚いた。部室のソファに体を預けて横になっていたのだ。
「夢……か」
「おいおいどんな夢見たんだよ。梓が犯罪だーとかなんとか?」
「いや、忘れた」
身体を起こした夏音は嫌な汗をかいたと顔をしかめた。夢から醒めたばかりの混乱はいつになっても慣れないものだ。
しかし、すぐに眠る前の記憶が戻ってくる。部室でお茶とお菓子を楽しんだ後、先程まで忘れていた疲労が一気に押し寄せたのである。
少し横になろうとソファに頭を横たえた瞬間から記憶がない。
「夏音くんいびきかいてたよ」
「でも可愛いいびきだったね~」
くすりと笑って言った唯とムギの言葉に顔を赤らめる。いびきなど、人には聞かれたくないものだ。
「相当疲れてんじゃないか? 超熟睡って感じだったぞ」
律が夏音を気遣うような言葉をかけてくる。時々こういう風に優しい律にも慣れた。夏音は額の汗をぬぐい、気丈に振る舞った。
「ううん、平気。ちょっと眠ったらすごく身体が軽いんだ」
それをアピールするようにぐるぐると肩を回してみせる夏音だった。
「あれ、梓はどうしたんだっけ」
「用事だってー」
「そっか」
汗をかいて喉が渇いた夏音はムギにお茶の余りはあるかと尋ねた。
「あ、ごめんね。もう温くなっちゃってると思うから淹れるね」
「いや、それでかまわないよ。すぐ飲める方がいいよ」
温くなったお茶が旨いはずがないが、余計にムギの手を患わせたくない。ティーポットに残るわずかな紅茶を飲み干した夏音は、少しだるい寝起きの体をこきりと鳴らした。
その時、ちょうど各々の会話が止んで静けさに包まれていた。夏音はふと頭に浮かんだことを皆に尋ねてみることにした。
「みんなは恋バナとかってするの」
「えー、なんだ急に? そりゃあ女子だったら普通にするけど」
すぐに反応を返した律は夏音の口から登場する話題にしては珍しいと目を大きくする。
「いや、何となく。ちらほらとこの学校でも恋人がいるみたいじゃないか。みんなにはそういう話がないのかなってね」
「残念といえばいいのか、まあ今のところは無いかな。特に彼氏欲しいーとか正直ないし」
あっさりと言ってのけた律にムギがぴくりと眉を動かした。
「えーりっちゃんモテそうなのに。中学の時だって告白されたんでしょ?」
「いつの話だよー。そりゃあ欲しくないかって聞かれたら欲しいけどー……今はなんかいーやって感じ」
「彼氏、かあ」
ぽつりと呟き、遠くを見詰める瞳になる唯。
「え、なになに。唯も彼氏とか欲しいの!?」
その反応に食いつかない花の女子高生・律ではなかった。
「んー。ラブラブってしてみたいよねー」
その一言にキャッと短い悲鳴を漏らすムギ。夏音は何故だかこのテンションについていくことが憚られた。
「誰か気になるヤツとかいないのかよ?」
こちらも面白いものを見つけたと好奇の視線を送る律が水を向ける。
「そんなのいないよ~。あ、夏音くんは?」
「そこで俺に飛ぶ!? いないよ! 律は!?」
「た、たらい回しにすんじゃねえやい! ムギ!」
「え? 何が~? 何を~?」
堂々と聞こえないふりをするムギ。純粋な瞳で小首を傾げてみせるその女子スキルに一同は思わず口を閉ざした。
勢いが削がれ、何となく沈黙が落ちてしまう。
「まあ、この手の話題って澪とかがいないとなー」
「落とし所がねー」
決して本人には聞かせられない言葉であった。
「正直に言うけど。みんな可愛いのに、びっくりするくらい男っ気なさすぎだよね。少しも浮いた話がないって逆にすごい」
夏音が盛大にぶっちゃけた。
「か、可愛いなんて……それほどでも~」
デレデレに照れる唯以外は沈黙していた。律とムギの反応にもの問いたげな様子の夏音。両者の間にぴしりと歪みが生じる。
「お前に言われると嫌味に感じる」
「否めません」
「ええっ!?」
「自分より綺麗な男に何言われてもなあ」
「夏音くんってそういうところありますよね」
どうして責められなければならないのか。夏音は理不尽に対して声を高らかに宣言した。
「もう絶対に褒めねー」
※ いや、モテたいから音楽やるって人もそりゃあいるんですけど。全然それでいいんですけど、自分が本気で音楽やりたいって思ってる時にモテたいんだ! ってヤツとやる気にはならないですよね。
そいつが間違いない腕をもっていても、モチベーションが合わなさそうだし。
夏音もそういう理由を根っから嫌っているわけではないです。
え、それはそうとして、澪はどうしたと?
今回は恋愛を絡めたお話でした。普通に考えて高校生ってアレコレあるでしょう。むしろ、粒ぞろいの軽音部の子たちが誰一人としてそういうアプローチをかけられないなんてありえないです。
たぶん女子校とは雰囲気がガラリと変わるんでしょうね、共学って。
というわけで澪はどうなるのでしょうか。裕也のアプローチは彼女に届くのか!
コテ入れみたいに登場したキャラですが、書いてるうちにあまり嫌いじゃないなコイツ……と思いました笑
噛ませ犬臭もちょっとだけにおう彼はどうなるんでしょうかね。もともと幕間的に淹れようと思っていたエピソードなので、穏やかな気持ちでごらんになってください。
仕事に関して。夏音は日本のスタジオ・ミュージシャンみたいな仕事をすることを好んでやっている訳ではありません。