夏音はふらふらとした足取りで早朝の道を歩いていた。肌に触れる空気はやや水気を孕んでひんやりとしている。ここ最近は気温が一気に高くなってきたので、このくらいが丁度良い。
鳥の鳴く声、車の音、清浄な空気の中でいっそう響く。夕空みたいな空の色が目に沁みる。
狭い世界にぎっしりと色んなものが詰まった見慣れた風景、それら全てが眠りに就いているような気がする。一日がまだ動いていない世界。皆、眠そうで口を噤んでいる。
早朝というのも悪くない、と大きな欠伸をしながら夏音は思った。
現在、夏音は夜通しかかった仕事明けであった。打ち合わせ半分、残り半分で都内夜遊びツアーに強制的に連れ回されていた夏音は酒こそ飲まなかったものの、既に身体はへとへと。体力は底をつきそうだった。慣れない街を周遊するほど疲れることはない。
夏音は車で行かなくてよかったとほっとしていた。この眠気を抱えたまま運転でもしていたら、確実に事故でも起こしていただろう。
それにしても、あと数時間で学校である。
歩いているうちに通学路に差し掛かったが、流石にこの時間から登校する生徒の姿はない。大通りを外れて歩けば、車の通りもまばらで、通行人も老人やサラリーマンだとか夏音と同じように徹夜明けの人ばかりだ。
そんな時、夏音は思いがけない人物に声をかけられた。
「オハヨー!」
「あ、おはよう姫子。朝早くから珍しいね、朝練?」
クラスメートの立花姫子。新しいクラスで仲が良くなった女の子である。垢抜けた雰囲気の彼女はいわゆるギャルと呼ばれる人種なのだろうが、話してみるとさっぱりとした性格で人懐っこい。
彼女とは名字が一緒ということもあって、妙に仲が良くなった。
「そ。昨日の夜ちょっと降ったからグラウンド心配だなー」
「水はけ悪いもんね」
「そうなんだ。ソフト部の使う側って特にね。ていうかそっちこそ珍しいじゃん。朝弱いって言ってたのに」
「あぁー。いや、ちょっとね」
「すっごい目、赤いよ? 青いけど」
姫子は自分が言ったことがツボに入ったのか、くすくすと肩を震わせる。夏音は力無くそれに愛想笑いを返した。
「うっすらクマもできてるし。もしかして夜遊び?」
「まあ……そんなところ?」
本当のことを言うよりいい、と思って適当に答えた。
「意外だねー。アメリカだったらわりと普通なのかな」
「そんなことないよ。むしろ日本の方がすごいよ。それに俺が住んでた所とか夜出歩くなんて考えられない」
「へぇー。でも、これからだったらあまり寝れないんじゃない?」
「そうだねー。あ、コンビニ寄りたいんだけど、姫子はどうする?」
「奇遇だねー。私も飲み物とパン買ってくつもりだったんだ」
二人揃ってコンビニに入り、各自の買い物を済ませて出てきた。缶コーヒーを買った夏音は、それを無言で開けると、舌打ちをした。
「俺、コーヒー飲めないんだった……よかったらあげる」
「え、じゃあ……」
夏音に色々と言いたいことがありげな顔をした姫子だったが、黙ってそれを受け取る。
「あの、さ。姫子」
「なに?」
「俺、帰るわ」
「あ、そう。また後でねー」
「それなんだけど、今日は寝るよ」
「え?」
「絶対に起きる自信がないんだ。むしろ、今日学校行く意味がわかんない」
「そ、そう」
「たぶん先生に『立花は休みー』とか言われるけど、気まずくならなくていいからね」
「な、なんないと思うわー」
「よし、なら何も問題ないね。おやすみなさい」
「お、おやすみ………ゆっくり休みなよー?」
「ありがとー」
そして、ふらふらと通学路とは真逆の方向へ去っていく夏音を見送った姫子であった。しばらくその後ろ姿を見送っていた彼女だったが、コーヒーを一気に飲み干すと、コンビニのゴミ箱にそれを捨ててから歩き出した。
「夏音、一年の最初から比べるとサボる回数が増えたよな」
「うーん……わりと真面目に来てたはずなんだけど」
律と澪。早朝に夏音からメールで堂々とサボるという内容を送られた二人は、少しだけ最近の夏音の学生生活に疑問を持った。
「ていうか今日、初めて立花さんと話したよ私」
「一年生の時、ムギと一緒だったよなあの人」
軽音部の部室に向かう前、ムギと合流したところで立花姫子がムギに話しかけてきたのだ。
『今朝、カノちゃんと会ったんだけど。眠いから寝ますだってさ』
そう笑いながら教えてきてくれたのだ。
「意外に良い人っぽかったな」
「澪。すぐ人を外見で判断する癖よー」
軽く咎めるような内容だが、間延びした律の声。
「だ、だって。すごいイケイケな感じだったもん」
「イケイケって。ギャルとかに弱いよなーお前は。少しでも化粧濃かったら怖いんだろ」
「そんなことない!」
「絶対、澪って渋谷とか一人じゃいけないなー」
「……行けるもん」
くく、と短く笑うと律は澪への追撃を止めた。まだ三人しかいない部室をぼうっと眺めていると、ふと澪が口を開いた。
「仕事、とか。忙しくなってるのかな」
「どうだかなー。むしろそれって喜ばしいことじゃないか? 今まであまり日本で仕事してなかったんだから、いい感じじゃん」
「でも、学校と両立できないなら本末転倒だろう」
「……むー。どうなんだろうな、そこんとこ」
律は頬杖をついて、目を伏せた。実は人より長い睫毛が影を作る。
「どっちが本業かって聞かれたら、やっぱりあいつは音楽をやる人だろ。学生って身分ではあるけどさ」
「でも、あいつのスタンスはもう私達も知ってる通りだと思うぞ」
「それも、どうなんだろう。すぐに周りの状況も変わるし、気持ちだけじゃどうにもならないことってあるのかもな」
「どうしたんだよ律? 珍しいな」
らしくない、と澪は冗談っぽく笑う。
「やっぱりさー。無理してんのかなー、とか考える時あるんだ」
真面目なトーンを崩さず、律は続ける。
「実際あいつの大変さとか、知らないし。よく分かんないんだけど、掛け持ちって楽じゃねーよなー」
「まあ、生半可なものじゃないだろうけど。夏音は中途半端なことにはしないだろうな」
一年間、仲間として見てきた上で澪は夏音をこう評価する。
「自分の限界を見極めるのもプロの仕事ってあいつが言ってた。その上でちょっと無茶するくらいが丁度良いって。だから、どっちつかずになる前にあいつは絶対に判断するよ」
何を、とまでは言わなかった。
二人とも無言のうちに、お互いが言葉に出したくないものの正体を理解していたから。
「おいーーっす!」
唯が元気よく部室に入ってきたことで、二人の会話は打ち切られた。
「おーっす。今日は夏音がいないからお菓子パーティーだ!」
「いいねー!」
夏音不在の軽音部はだいたいこんな感じであった。
★ ★
翌日、何にもなかったかのように登校してきた夏音だった。皆には風邪と伝えられたので、体の具合を心配してくれるクラスメートに罪悪感を感じながら無難に答えていった。
放課後になり、全員が集まったところで夏音はこんな話を持ちかけた。
「七海から頼みたいことがあるんだってさー」
「聞こうか」
「何でそんな偉そうなんだよ」
律は腕を組み、椅子にふんぞり返って話を促した。
「この近くにグループホームがあるらしいんだけど、生徒会のボランティア活動の一環として老人と触れあう催しをするみたいなんだ。そこで軽音部で何か演奏してみないかってさ」
「それっていつ?」
少しだけ興味が湧いたらしい唯が聞く。
「今週の土曜日」
「急だな」
律が難しい顔になる。
「まあ急だけど。何とかなるんじゃない」
「それで、まだ受けたわけじゃないんだろ?」
「うん。今日中には返事が欲しいって言うから、相談してみたの。みんな予定とかある?」
「私は澪と買い物する予定だったけど、別にその日じゃなくてもいいし……」
律はちらっと澪の方を窺ったが、澪も軽く頷く。
「だいじょうぶでーす!」
「おじいちゃんおばあちゃんの前で演奏かーわくわくするなー」
ムギと唯も問題はないようである。
「梓は?」
「私も大丈夫です! あの、もしかしてこれって初ライブですよね?」
「あー、そうだね。梓にとっては初めての……」
そこまで言ったところで気付いた。
初めてのライブが老人ホーム。悪いことではないが、どうにも申し訳なさが溢れてきた一同だった。
「え、何ですか?」
「初めてのライブがこんな特殊なのでいいのかなって」
「そんなことないです! すっごく楽しみです!」
その純粋な瞳に覗き込まれた夏音は眩しそうに目を細めた。
「じゃ、じゃあ出るって返事するよ」
「おっけー」
急遽決まったライブ。ライブと分類してよいのか分からないが、早速一同は準備に取りかかることにした。
『まあ枠とかも特に決まってないらしいんだけど、あんまり長いと疲れちゃうから二十分くらいを目処に頼むよ』
「機材とかはどうしようか」
『歩いてもすぐだから台車で運べるとは思うんだけど。でも、うちの顧問の先生が車出せるみたい』
「そう。他には何かないの?」
『あんまりうるさいのは、ちょっと……』
「了解」
通話を終了した夏音は自分をじっと見詰めていた面々に言った。
「やっぱりアンプは小さいので十分みたい。そういえば、いっそのことお年寄りに受けそうな曲をコピーしていくってのも手だと思ったんだけど」
「お年寄りに受けそうな曲?」
「津軽海峡・冬景色とか?」
「お前、何でそんな曲知ってるんだよ」
「演歌とか……それってカラオケでいいんじゃないか」
「まあ若い人とお話できたら何でも嬉しいと思うよ!」
「一番腹黒い発言が唯から出てくるとは思わなかった」
律の引き気味な意見に「?」を浮かべる唯。無意識とは時に恐ろしい。
「確かに聞く相手によって構成を変えるのも大事ですよね」
梓は夏音の意見に真面目に耳を傾けていた。
「この際、知ってる曲にとらわれる必要もないのではないでしょうか」
「そうかな。それなら少し落ち着いた曲を中心に考えようか。自分達の曲をアレンジしてもいいんだし」
「といってもあまり時間もないだろ」
悩ましげに返した律に頷いた夏音は良い笑顔で言い放った。
「何とかする」
梓はそれを受けて頼もしいと感じ、それ以外はその笑顔が恐ろしいと感じたという。
二十分という枠組みの中で五曲もやれば十分だろうということで、セットリストを考えた結果、
滝廉太郎の花。美空ひばりの川の流れのように、東京キッド。ふわふわタイム。キャンディウォーズ。
「異色のセットリストだな、おい」
改めて書き出したタイトルを見た律の感想である。
「実際、ほぼアレンジだね。ムギには一番がんばってもらわないと」
「わ! が、がんばるね!」
「思ったんだけど、これって軽音部じゃなくて合唱部とかのほうがよかったんじゃないか?」
確かに、と思わないでもなかった。ピアノ伴奏だけでお年寄りにも一緒に歌ってもらえるような曲を選べばいいのだ。むしろ、そちらの方が手軽である。
「それでも俺達が選ばれたんだから」
「まあ、それは嬉しいけどさ」
その真相は七海が手始めに日頃から親しくしている夏音に声をかけようと思っただけのことだったが、最後までその真実が明るみに出ることはなかった。
こうして人前で演奏する機会が訪れたことで皆のやる気に火がついた。
「唯、もっとピッチ安定させるように」
「梓、ここはもっと柔らかいピッキングを心懸けてやってみて」
「律はどうしてそううるさくなるのかな」
「澪、ニュアンスがとち狂ってるよ」
「ムギはもたつきすぎ」
「あと俺もミスったごめんなさい!」
指摘の嵐が吹き荒れていた。
慣れた者は「久々だなぁ」と顔をしかめていたが、免疫のない梓は目に見えて落ち込んでしまった。
「梓。音ちゃんと聞いて!」
「は、はい!」
何とか持ち直そうとするのは分かるのだが、すぐに違うところで簡単なミスをおかしてしまう。一つのことに集中するあまり、他が疎かになる。失敗しないようにと強く構えることが裏目に出てしまうのだ。
曲が終わった瞬間、梓はうなだれた。
「梓はもっと肩の力を抜いて弾くべきだなあ」
軽い気持ちで言った夏音だったが、言われた張本人はびくりと肩を揺らすとぐっとネックを強く握った。
「あ、あずにゃん大丈夫?」
それを見て心配になった唯が梓に声をかける。
「す、すいません……」
そう答える声は震えており、次第に様子がおかしいと思った唯が顔を覗き込むと、梓はぽろぽろと涙を零していた。
「ご、ごめんなさい! 私が足引っ張っちゃって……」
嗚咽混じりに謝る梓に対して、夏音はばつが悪そうに頭を掻いた。
「泣かせるつもりはなかったんだけど。きつく言い過ぎちゃったかな」
それでも夏音を責めるような視線は一切なかった。どちらかというと梓に対して同情的な眼差しである。
「あのなー梓。できることからやっていけばいいんだから。夏音は無理なこと言ってるか?」
涙を両手で拭いながら、いつになく柔らかな口調で聞いてきた律に首を振る。
「梓ならできるだろ? 言われたこと、あまり頭に入れすぎないでやってみろよ」
「頭に入れすぎない、ですか?」
ぐずりと鼻をすすり、梓が聞き返す。
「そんなに頭で考えて演奏するんじゃなくてさ。こう……曲にノるんだよ」
「そうだな。周りの音を聞きながらそれに合わせるようにするんだ。梓、自分にばかり意識がいって今とかちゃんと聞いてなかっただろ? 今の演奏で律がとんでもないミスをしたこと分かった?」
澪の指摘に梓ははっとした。ドラムのビートに沿って演奏していたというのに、律がそんなミスをしたことにさえ気が付かなかった。
「澪が『あ、ヤバイ!』って顔したところとか気付いた?」
お返しとばかりに律が言う。
「いえ……私、なんにも」
「みんなミスとかはしてんだからさ。梓がどこを気をつけようとしてるのかくらいはドラムの私でも分かるよ。ちゃんと梓の音、聞いてるんだからよ」
そう言って笑う律に梓の心は不思議と落ち着いた。
「律先輩……!」
「それにね梓ちゃん。夏音くんはあまり同じこと言わないのよ? 一度言ったことを私達がどうにかしようとしてるって分かってるからなの」
ムギが付け加えるように言った。本人が指摘されたことを何とかしようとして頑張っているのに、同じ指摘を繰り返せば水を差すような形になる。
すぐに改善されなくても。夏音はしっかりとそれを見ているのだ。
「まあ、たしかにそんな感じでやらせてもらってるけどもはい」
おどけたように彼女達の言葉を認める夏音。
「すいません。私、全然演奏に溶け込めてませんでした」
皆からの指摘はまさに青天の霹靂であった。いかに自分が必死だったか、バンドで演奏しているという自覚がなかったかを思い知らされる。
「じゃ、とりあえず頭からもう一回」
夏音の言葉に律のカウントが始まる。今度こそ、と梓は目を見開いてバンドの調和に入ろうとした。
★ ★
グループホーム・涼花は桜高の近隣にある。昭和中期に建てられた公共団地が建物の老朽化によって建て壊された後に出来た施設である。都会から程よく離れた上で交通機関へのアクセスもばっちり、という物件にすぐに入居の申し込みが舞い込んだそうだ。
軽音部一行は九時に学校に集まり、そこで部室から機材をさわ子の車に運び入れる作業をした。本来なら生徒会顧問が車を出して監督に務めるはずであったが、軽音部の活動だからとさわ子がその任を担うことになった。
そこにどんな裏事情があったのかは定かではないが、不機嫌な態度で「明日、私が行くから」と連絡してきたあたり、想像に難くない。
バラしたドラムセットと各アンプをさわ子の軽自動車に詰め込むと、一同は歩きで施設へと向かう。
「ここがグループホームかあ」
普段、あまり足を踏み入れることのない場所だけに、誰もが物珍しそうに建物を眺める。一見、普通のアパートのような造りである。
スロープを上がり、中へ入ると入り口に差し掛かる。小さな入り口は施設というより、やはり一般家庭を彷彿とさせるこじんまりとした玄関であった。
「なんか……普通の家、みたいな感じだな」
「ねー」
律が正直な感想を漏らすと、周りで頷く者が多い。引き戸になっている玄関を覗き込んでいた一同が勝手に入っていいものか迷っていると、後ろから声をかけられた。
「一応、ここのコンセプトが“暖かい我が家”らしいのよ」
「あ、さわちゃん」
「できるだけ『施設』って感じないようにデザインしてあるみたいよ。やっぱり認知症の方だと色々あるみたい。警戒したり、自分が何かの病気で入院したと思って不安になったりね」
「へぇ~。先生くわしいね」
「ここの方に聞いたのよ」
夏音が素直に感心して言うと、さわ子は衒うことなくあっさり返した。
「さっ。あまり時間が無いからさっさと荷物を運ぶわよ」
大荷物というほどでもないので、セッティングは十分もすれば終了した。セッティングを進めていた際、この不思議な空間に一同はそわそわしていた。
この大型のテレビが置かれた広いスペースは談話室のようなものだろう。陽の光が射し込む室内は静謐に包まれている。ソファに座り、テキパキと準備をする若者をぼうっと眺める入居者の姿もある。
この空間は時間がゆったりと流れており、一同はその中で細々と動く自分達は不自然の塊であると感じていた。
そんな中、
「ミヒロかえ?」
「は?」
「ミヒロもよー育ったね」
「い、いや。私、ミヒロじゃないです」
「あ~? 何だって?」
ふらりと現れた老婦に梓が絡まれていた。
「もー。高橋さんっ! ミヒロちゃん来てないよ! きょうここでお歌うたってくれる学生さん!」
さわ子と共にやって来た施設の関係者らしき女性が老婦に言い聞かせる。
「学生さん?」
小首を傾げて聞き返す姿は無邪気そのものであった。
「そ! 学生さん! 演奏してくれるんですって!」
「ほ~。立派なもんだね」
「ほんとねー。ほら、もうすぐ歌ってくれるからここで聞きましょうね!」
「ぷろふぇっしょなるかい?」
「そうそう。プロの人たち!」
耳が遠いことへの配慮からか大声なのはいいが、堂々と嘘をつかないでもらいたいものである。
そのやり取りを苦笑しながら眺めていた律だったが、ふいに悪戯めいた笑いを浮かべ、梓へと顔を向けた。
「ミヒロちゃん。緊張してな~い?」
「もう! からかわないでください!」
即座にからかう律に梓はむっとして答えた。
「しっかし梓は真面目だよなあー。あんなんテキトーに答えとけばいいのに」
「だ、だって勘違いしてるんですもん!」
「うわー。お・こ・ちゃ・まー」
「何でですか!」
緊張はしていないようだと夏音はほっとした。
それにしても、と辺りを窺う。ちらほらと広間に人が集まってくるのだが、見事なほどに高齢者である。そんなもの最初から分かっていたことだが、こういう場での演奏は夏音にとっても初体験である。
いったいどんな反応が返ってくるのか、分かったものではない。
耳が遠いものは楽しめるだろうか。バンドとしての音の輪郭が甘い軽音部のサウンドでどれだけこの場の人達へと届くのだろうか。
ちらりと唯の様子を窺う。軽く発声練習をしており、緊張した素振りは欠片も見当たらない。
歌う際の滑舌の悪さが唯の短所なので、その辺りを意識するように練習させたつもりである。最後まで直りきらなかったのは仕方がないとして、ただでさえ音を聞き取りづらいであろう高齢者に歌詞が届くか。
律は生音の強弱が甘い。ドラムだけ浮いてしまわないだろうか。
そんな心配事を幾つも抱えながら、幕は上がった。
三曲があっという間に過ぎた。
弱々しい、それでも心のこもった拍手がまばらに響く。演奏者を讃える気持ちがしわくちゃな笑顔に、輝く瞳に宿っているのが分かる。
やはり、昭和の歌姫・美空ひばりと日本人なら誰もが知るところの滝廉太郎は大いにウケた。
ムギは音源通りの音で挑もうと随分と手こずっていたようだが、エレキの音が混じる時点でモダンな音になってしまうのは仕方がなかった。
じんわりと汗をかいた唯が弾けるような笑顔でそれに頭を下げた。
「ありがと~!」
夏音はここまでホンワカとした雰囲気のライブは味わったことがなかった。
内輪のノリで行うライブはいくらか経験したが、それとはまた違う空気に自然と笑みが漏れてしまう。
今にも眠ってしまいそうな者もいれば、孫を見るような温かい眼差しで軽音部を見守る者。一緒に口ずさんでくれる者もいる。
始める前まで不安だったことが、いつの間にか全て吹き飛んでいた。
「今やった曲は私達より皆さんの方が詳しいと思いますが! 全然聞いたことなかったんだけど、ひばりさんってすごい人だったんですね~」
「ひばりちゃ~ん!」「ヨッ! 御嬢ーー!」
飛んでくる声援に唯もにこにこと満面の笑みで返す。年寄りを前にした唯のMCは無敵だった。
計り知れない孫オーラを放つ唯が何を喋っても老人の笑みを誘うのだ。皆、ご満悦の予ご様子である。
「じゃあ次からは私達のバンドが作ったオリジナルです! あれ、オリジナルってわかるかな……おり…じなる……?」
「そのままで伝わるだろ」
すっとぼけた唯の発言に夏音が思わず突っ込む。
「外人さんかい~。可愛らしいお嬢ちゃんだこと」
「はは、thanks!!」
最早、訂正する気も起きない夏音だった。
「じゃあ聞いてください! ふわふわタイム!」
唯がタイトルを言い終わる瞬間にかぶせて、夏音のストラトが歯切れ良く鳴り出す。現在の構成は唯がピンヴォーカルなので、普段リードを担当していた夏音が唯のパートを弾くことになっている。
夏音が整えたリズムに全員が乗っかることはいとも容易く、一斉に同じタイミングで入った瞬間、それぞれの楽器は一つのまとまりになった。
夏音のブリッジミュートが爽やかな疾走感を醸し出し、興に乗ったムギが跳ねるようなアドリブを入れる。
一方、澪はこの曲で自身も歌わなければいけないからか、肩の力が入りっぱなしであった。
次の小節が終われば澪が歌う。
次の瞬間、
そこで。
一発目の音を外さなかったことで安堵したのか、徐々に歌に力が籠もっていく。
会場は手拍子をする人でいっぱいである。車いすに座るお婆さんまで軽快なリズムに頭を揺らしている。
観客がこうも温かいと、演者ものびのびとやれるものである。緊張しがいもなく、心配の種であった梓も気負うことなく、むしろ余裕さえ見て取れた。
ある意味、最初のライブがここでよかったかもしれないと夏音は感じていた。これだけアットホームな会場も珍しい。
何より、この場所には歓びがある。自分達の演奏を聴いて、素直に歓びを表してくれるオーディエンスの反応ほど嬉しいものはない。
「次で最後です! キャンディウォーズ!」
ふわふわタイムのエンディングからドラムだけ取り残される。裏に入るオルガンに重ねるようにギター二本がユニゾンを醸し出す。
この曲のテーマはバカ騒ぎ。お菓子をめぐる女子高生の破天荒な争いを描くような曲だが、言ってしまえば軽音部の日常風景でもある。曲自体が、各パートが最初から最後まで自分で考えたフレーズで成り立つ。
いわば、皆のアイデアが存分に散りばめられた曲なのだ。
どの拍ともズレてるような、それでいて絶妙な位置で鳴らされるギターのバッキングは唯そのものみたいであり、時折噛み合う時に超絶的に格好良いフレーズへと変貌する。
ドラムはひたすらパワフルで停滞することはない。やたら手数を意識したドラミングはその実、律の手癖が満載であるが、それに対して合わせることで一つ一つの表情を違った形で魅せる澪のベース。
夏音は夏音でそれらを全体から俯瞰した上でメロディを組み立てていく。歌を邪魔することなく、曲の雰囲気を壊すことなく、確実に自分の音色をねじ込んでいく。全てをつなぎ合わせて、曲の世界を魅せつける力。
不思議と耳に残るフレーズを生み出すのは難しい。CDなどでふと口ずさんでしまうメロディは大抵ヴォーカルの歌だが、時に印象的なギターのフレーズだったりする。楽器を嗜まない一般人の耳にもくっきりと残るくらいの強烈な印象。
Cメロに突入すると突然ハーフテンポへと落ち着き、マイナーキーへと変調する。夏音のリバーブがかかったギターのスラップによる味付けに物悲しい歌詞が重なる。
私のねいちばん大事な とっておき あのこだけはだめ なのに
あーとられちゃ だまってらんない よろしい戦争ね
ドラムのロールが高まっていく。おどろおどろしい恨みをこめて唯の歌声が爆発する。お菓子を取られた女子の怒りに塗り固められた攻撃的なリフが刻まれていく中、ベースでスライドチョーキングを連発する澪と律のクラッシュがぶつかり合う。傍らではキーボードがソロばりのフレーズで暴れ回り、それらの喧噪を梓の高速カッティングのリズムが引き締める。
お年寄りの和やかな手拍子をぶっちぎって加速する曲。演者は一瞬の躊躇いもなく、最後まで突っ走っていった。
曲のエンディング、律がシンバルを力の限り打ち鳴らしていく。夏音のチョーキングが頂点まで駆け上がると最後に振り下ろされる律の腕がピリオドを打った。
束の間の静寂に観客の溜め息と拍手が広がっていく。
誰もが演奏が終わった瞬間にどうしようもなく『ヤッテシマッタ』感を抱いたのだが、予想を裏切るように目の前一杯に広がる笑顔に面食らった。
「ありがとうございます! 桜高軽音部でした!」
唯が頭を下げるのに合わせ、全員が礼をする。一同は、より大きく膨らんだ拍手に包まれた。
乱れた呼吸を整えながら、少女達は顔を見合わせた。そして満ち足りた表情でお互いを見詰め、それは嬉しそうに笑い合うのだった。
「ではでは! ライブの成功を祝してかんぱ~い!」
律の音頭でコップを重ねる音が響く。機材をさわ子に全て託した一同はファミレスへ移動して、打ち上げをしていた。
打ち上げの飲み物がドリンクバーというあたり、高校生らしい。乾杯を終えると誰とも無く、全員が一斉に息をついた。
あまりに同じタイミングだったため、思わず笑いが起きる。
「普通のライブするより疲れたね」
だらんと机に寄りかかり頬杖をつく夏音が溜め息まじりに今日のライブの感想を言った。
「ああいう曲、今まで一回も手つけてこなかったからきつかったよ」
ストローを口にくわえながら律が同意と頷く。
僅か数日の間に三曲のコピーならぬアレンジをするはめになり、皆が悲鳴を上げていた。
美空ひばりや滝廉太郎などはほぼムギの独壇場だったが、バンドアレンジを加えるために慣れないことに挑戦したのだ。
特に律は最も苦労したといえる。ミディアムテンポの和製ジャズにドラムをつけるために彼女は当時の音楽を漁るように聴いて、それでも分からなかったために夏音と相談しながら、そして最終手段としてジャズドラムの神髄を知る夏音の父・譲二を頼った。
ちょうど家を空けていたために電話越しのアドバイスとなったが、そこで律が聞いたありがたいお言葉が「昔、バンドでやってたのあった気がするなあ。今だったら動画サイトとかにあんじゃないか?」だった。
頼みの綱だった譲二からの言葉に計り知れないショックを受けた律だったが、その言葉通りに某動画サイトで探した中に、あった。
「こ、こ~れだぁ~い!」
以上が律の苦労話である。練習の終わりに調子に乗った律が「これで私もジャズドラムを覚えたってことかなー」と漏らした折、それを聞いていた梓が一切の表情を変えずに「先輩がジャズの何を知ってるというんですか」と呟いて空気を凍らせたのは余談である。
澪は普段はあまり経験しない完全後ノリやウッドベースのニュアンスを出すことに四苦八苦していたが、こちらは流石というべきか短い期間である程度仕上げてきた。
夏音はクラシックギターを使い、梓はそれっぽいメロディを適当に入れるというギター陣の臨機応変さもうかがい知れるところとなった。
「梓、初めてのライブはどうだった?」
澪は先程からあまり喋らない梓に笑顔で質問した。はっとして顔を上げた梓はぱちくりと目を瞬かせ、申し訳なさそうに眉を下げた。
「す、すいません。ぼーっとしてて……もう一度言ってもらえますか?」
「初ライブはどうだったって聞いたんだよ」
「すごく楽しかったです。何て言うか……やっと皆さんと同じステージに立てたってこともそうなんですけど、誰かに楽しんでもらうような演奏って初めてで……すごく暖かくて……また、ライブやりたいって思いました」
その答えに皆の頬が緩む。特殊なライブに誰もが緊張していた中、初ライブの梓の心境は決して穏やかではなかっただろう。
こうして軽音部として初のライブを乗り越えられたことに改めて安堵する一同であった。
「ライブっていいだろ?」
目を細めて聞く律に、
「はい!」
満面の笑みで応えた梓。
この時、皆がライブの感想を言い合い、わいわいと談笑するなか、夏音のにこやかな笑顔に少しだけ寂しさがまぎれていることなど誰も気付かなかった。
※ 何かが足りない気がする……ひとえに私の力不足なのですが。
老人ホームで交流、っていうのは昔やったことがあるのですが。演奏は未知の領域。想像で描いた上に、配慮の足りない描写があるかもしれません。そういった部分を発見されたら、是非指摘していただけると助かります。