一学期の試験が終わり、軽音部の部室でも恒例のごとく悲鳴が巻き起こったりした。悲鳴の主は言わずもがなである。
夏音は今回の試験の結果は上々と踏んでいた。
日頃から真面目に授業を受けている彼は特にこれといって試験勉強をすることはなかったが、今まで好成績をおさめ続けてきた。数学や英語はもちろんのこと、国語も人並み以上の成績をキープしている。
しかし、例外もある。古典や日本史といった分野は、日本人以上に日本語を習得しているといってもいい夏音にとっても複雑怪奇な内容であった。
見たことも聞いたこともない漢字ばかりで、それをひたすら詰め込んでいくという作業は非常に苦しいものがあった。
「とか言ってんのにいっつも高得点じゃんか!」
「サギだサギー!」
「勉強を頑張ってる人にサギとは」
夏音は口を尖らせて野次を飛ばしてくる唯と律に肩をすくめてみせた。
すると、その会話を聞いていた澪がそんな二人を無視して、夏音に尋ねた。
「夏音はどの教科も良い成績だから、意外だな。私でも知らない言葉とか普段から使ってるし、そういう教育も受けてるのかと思った」
「そんなことはないよ澪。もともと数学は得意だし、化学とか物理も仕組みさえ分かってしまえば大丈夫なんだ。それに国語はたまに知らない言葉を覚えればすむんだけどさ。古典や漢語なんてさっぱりだったよ」
「それでも普通にできちゃうのがすごいよな」
「そうは言ってもテストの範囲のところしか出ないんだから、何とかなるよ」
「だってさ。お前たち夏音の爪の垢でも煎じて飲んだらどうだ?」
深く感じ入った様子で夏音の話を聞いていた澪がそう言って唯と律に視線を送る。二人は腕を組むと反抗的な態度で反論した。
「ふーんだ。どうせワタクシ達は夏音ちゃまとはデキが違いますもんねー」
「そうだそうだ。ちょっとは物事に手を抜かないとハゲると思いまーす!」
彼女達は素直さをどこに置き去りにしてきたのだろうか。夏音は果たして入学当初の二人はこんな感じだっただろうかと頭をひねった。
「梓ちゃんは今回のテストどうだったの?」
特に会話に参加する気もなくお茶を飲んでいたムギが同じようにしていた梓に話しかけた。
「最初のテストだったので大丈夫でした。でも次回からのテストは全然むずかしいって聞いたので、どうでしょうか……?」
「梓ちゃん真面目そうだから、きっと大丈夫よ」
「そうでしょうか。もし分からないところがあったら教えてもらってもいいですか?」
「もちろん! ふふ、私こういうふうに後輩に勉強を教えるって憧れだったのー」
「そうなんですか? でも、ムギ先輩ってすごく優秀そうだから頼もしいです!」
そんな穏やかな会話を交わす二人を見た唯は面白くなさそうに眉を寄せた。むむむと唸る唯に気付いた梓は不思議そうに唯にたずねた。
「あ、あの唯先輩どうかしましたか?」
「私もあずにゃんに勉強教えたいよ!」
「は、はあ……? じゃあ、その時がきたらお願いします」
ムギという心強い人間がいるので特にいらないはずなのだが、社交辞令としてそう答えた梓は非常にできた後輩だった。
「なんなら今からでもいいよ」
「いえ。今は特にこれといって困ってないので」
「そ、そう。なら、いいのさ」
「……はい」
会話が終了した。
梓は最後まで不可解といった様子だったが、気にすることを止めて目の前のお菓子へと意識を戻した。
「あれ、もうなくなってる……?」
つい今しがたまで存在していたクッキーが消えていたのだ。その声のトーンは少しばかり悲しそうに落ち込んでしまう。
傍目にも分かるくらいしゅんとなった梓に対し、目に見えて落ち着きを無くした人物がいた。
「みーおー。美味しいのは分かるけど、あんま食べ過ぎると―――」
「わかってるけれど!」
顔を真っ赤にした澪がぷるぷると震えていた。それでも先輩としての威厳を保とうとしているのが悲しい。
「ご、ごめんな梓」
澪の搾り出すような声に梓はどもりながら答えた。
「い、い、いえ! 全然私はもう! お腹いっぱいですから!」
「そ、そうか。いや、梓はもっといっぱい食べて大きくなるんだぞ」
滅多に見ることのできない澪の様子に、取り繕いようがないくらい震え上がる梓であった。
梓にとって引き攣った笑顔の澪はなかなかプレッシャーのようだ。夏音はそんな二人の空間に何気ない笑顔で一石を投じた。
「夏も近づいてきたから、澪も頑張らないとね!」
ぴしり、と空間が歪むような音がした。
梓を除く誰もが「あちゃ~」という表情を浮かべる。
「それは、どういう意味だ?」
夏音は言ってしまってからまずかったと気付いたが、後悔は先に立たず。
「それは……どういう意味なんだ夏音?」
「ごめんなさい」
素直に頭を下げた夏音だったが、これで終わるとは思っていなかった。自分に襲ってくる圧迫感が全く消えないのだから。
「ごめんって何が? 私はどういう意味か訊いただけだよな?」
「特に、意味はないよ」
「頑張れって言ったよな。何をどう頑張ればいいのか皆目検討もつかないんだ。教えてくれたら嬉しいな」
「わー良い笑顔。澪はすでに色々頑張ってるから、あんまり頑張らなくてもいいかも……ね?」
「私がいつもそういうの気にしてるってわかってたよな?」
最早、夏音の言い訳は耳に入っていない様子だった。笑顔を張り付けた澪の顔は今や般若のような様相を呈している。
それを目にした瞬間、夏音はばっと立ち上がり、素早く―――、
「おっと! 土下座なんてさせない!」
腕を掴まれ、阻止された。夏音は土下座阻止という新たなパターンに顔を真っ青にさせた。
「ど、どうすれば助かるのかな俺は?」
顔を背けて助けを求めるが、さっと目をそらされてしまう。
「確かに私は人よりちょっとだけ太りやすいよ」
「ちょっと?」
「ん、なにか言った?」
「いいえ」
「自分でも分かってるからこそ! 日頃から頑張ってるの! わかるよな」
「もちおん。澪さんが常日頃から弛まぬ努力を継続なさっていることは承知しております」
「夏音はやっぱり敬語使いが上手いなー」
「そ、それはどうもー」
「それで、だ。ちょっとこっちに来てもらおうか―――?」
夏音の腕を掴んだまま、澪は部室の隅の方まで夏音を引っ張っていく。全てを諦めた様子で夏音は大人しくそれに従った。ちらりと唯達の方を振り返るその姿はまさにドナドナ。
取り残された者は耳をダンボにして、隅でぼそぼそと何かを話す二人の会話を聞き取ろうとした。
「ええっ!? だって、こないだはブフォッ―――」
「声が大きい! はい、そうですなんて言えないだろ!」
「すっごく気になる……」
律の呟きに全員が無意識のうちに頷いていた。見ている限りだと、特に澪が夏音をシメているようには思えない。
一体、何を話しているのか。一同は気になって耳をそばだてていた。
そのままこれといって荒事もなく、二人は無言のまま席に戻ってきた。何を話していたの、と訊ける雰囲気でもなかったので、他四人は気にしないフリをして他愛無い話をしていた。
夏音が挙動不審で目をそらし続けていたあたり、一体どんな会話がなされたのか。四人は事実を知ることがないまま、数日を過ごすことになる。
「こ、こんなことやめましょうよ!」
「嫌なら梓だけ帰ってもいいんだぞ?」
「わ、私は別に―――」
「こういうのなんかドキドキするね! 探偵さんみたい」
「やっぱり二人並んで見ると、澪ちゃんって……」
「しっ! 唯、その先は言うな!」
唯、律、ムギ、梓の四人は誰がどう見ても怪しい集団と化していた。端的に言ってしまえば、彼女達が行っているのはストーキングである。
隠れられる場所を移り歩き、ターゲットの様子を窺う。息を潜め、決してバレないようにする。
前方のターゲットに集中するあまりか、自分達の様子を周りがどう見ているかということまでは気が回っていない様子だ。
ターゲットというのは、言わずもがな夏音と澪である。先日の件から、どうにも澪の様子がおかしかった。時折、腰やら腕をさすって「いたっ」と口にするのだ。
どうかしたのかと問えば、しまったと顔に出て誤魔化し、怪しさは増すばかりであった。
律が「これは有罪だな」とよく分からない決めつけをしたので、こうして二人の後を尾行しているわけである。
「律先輩、唯先輩が何言おうとしたかわかったんですか?」
その無垢な質問に律は苦しそうに答える。
「二人の後ろ姿を見たら、どう考えても夏音の方が……ってやつだ」
「ああ……先輩、細すぎですよね」
何となく、思わぬところで軽音部におけるタブーを知った梓であった。
「それにしても、これってやっぱり……そういうことかな?」
「え、なになに? どういうこと?」
何故か声を顰めるムギと唯は心なしかうきうきとしている。そんな二人の様子とは裏腹に、律は眉間に皺を寄せて真剣に二人を見詰めている。梓は対照的な反応にこちらも一体どういうことだろうと首をかしげた。
「あれ。これって夏音くんの家に向かう道だよね?」
と唯の発見に、
「や、やっぱり!?」
途端に声が弾むムギ。年頃の彼女達はやはりこの手の話題が大好物らしい。
「澪のやつ……夏音め……」
脇でぶつぶつと呟く律のあまりの余裕のなさに若干たじろいだ梓だった。
四人が見守る中、案の定二人は夏音の自宅の前まで来た。躊躇うことなく一緒に家へと上がる澪に四人は息を呑んだ。
「…………あれじゃない? いっつも夏音くんの家でベース教わってるって澪ちゃんが言ってたし」
「そういえば、そうね」
太い眉をきりっとしたまま、顎に手を当てるムギ。探偵のまねごとなのか、その眼光に鋭いものが奔る。
「…………思えば、それが一番怪しくないか?」
それに加わった律がいっそう張り詰めた口調で疑問をあげた。
「年頃の男女が誰もいない家で二人きり……これって……」
「ま、ま、まさか! まだ私たち高校生だよ!?」
顔を赤らめた唯が慌てて言うと、律は舌打ちで返す。
「バカヤロー唯ッ! むしろ高校生だからこそだろ! 欲望を持て余したヤツがどんなことを考えてるかなんか血を見るより明らか!」
「先輩、火です」
「夏音くんってそんな感じじゃないと思うけどなー」
「唯! 甘い! お前は! 夏音は実はなぁ!」
「勝手に先輩をねつ造しないでくださいね律先輩」
冷静な口調で梓に釘を刺される律。ねつ造する気満々だったため、思わず言葉を失って黙り込む。
「まあ、ここはさ」
「うん」
「突入しようぜ」
「え……?」
落ち着いたように思われた律から出てきた提案にマジに驚く他三名。若干、引いている。
「なんか女子高生という時期の私達ってさ。最終的に何やっても謝ればOKな気がする」
「りっちゃん、それ人としてかなりダメな領域にいってると思う」
意外なことにこの中でも、友人の将来を憂いて忠告した人間は唯だったりした。唯のマジトーンにここ最近で一番落ち込んだ律だった。
「り、りっちゃん押してよ~」
「ええぇ~っ? 唯が押せよ~」
「言い出しっぺが押すべきだよ!」
「こういうのは後輩がやるべきだろう。梓、押せっ!」
「な、卑怯です!」
玄関前でぐだぐだと誰がチャイムを押すかでもめていた。
「あれ、何か前にもこんなのなかったっけ?」
「あ、デジャビュってやつ!」
「それを言うならデジャヴュじゃないですか」
「いや、すごい身に覚えがある感じ……この後、ムギが―――」
ピンポーン。
「何の躊躇いもなく!?」
「そうだ! ムギがそうだった!」
にこにこと満面の笑みを浮かべるムギがさっとチャイムを押していた。
「それで、あの時はたしか―――」
ムギが嫌な予感と共に記憶を探っていると、
「ハァーイ。あら、久しぶりね~。今日はいっぱいお友達来る日ね!」
夏音の母、アルヴィが華やかに登場した。
「お、お久しぶりです」
経験者三人の背筋がぞっとなった。
リビングに通された一同。既に律、ムギ、唯の三人は全てを思い出していた。
「ま、まさかアレがまた出てくるのか?」
「どうしよう~」
「………」
「ムギちゃんも何かしゃべって!」
三人の先輩が顔色を悪くしている様子を不思議そうに見ていた梓だったが、その彼女も若干顔色が優れない。
「あずにゃんどしたの?」
「ほ、ほ、本物だ……どうしよう」
彼女の中で、夏音の母であるアルヴィはプロのヴォーカリストとしてのアルヴィとして捉えられている。思わぬ大物の出現に梓は度肝を抜かれていた。
「そういえば夏音先輩の家なんだからいてもおかしくないのに!」
「だ、大丈夫か梓?」
「全然大丈夫じゃないですよもう! よく先輩方は平静でいられますね!?」
「いや、私達が平静に見えるなら眼科にいってもらおうか」
どういうことか怒っている後輩に冷たく返した律であった。
きっちり四人とも顔色が悪くなったところで、お茶を携えてアルヴィが現れた。
「ごめんなさい。私達もさっき帰ってきたばかりで何も用意してないの」
トレイには紅茶が注がれてある小洒落たティーカップしか載せていなかった。
梓は三人が分かりやすいくらいに心の底からほっとしているのが理解できた。対する自分は、アルヴィに緊張を解くことはできない。
「あなたは初めて会うわね? もしかしてあなたが梓ちゃん?」
「ど、どうしてご存じで!?」
「あの子からよく話を聞いてるの。可愛い子が後輩になったってね」
「あ、あぅああ~」
梓は顔を真っ赤にして俯いた。
「頭から湯気が出てるね、あずにゃん」
「梓からしてみればすごい人なんだろうさ」
アルヴィはガチガチに固まった梓に近づくと、ぽんと肩に手を置き、
「ごめんねー」
一言ことわると、ぎゅっと梓を抱き締めた。
「くぁwせdrftgyふじこlp;@:!!!!????????」
「カノンから聞いてたのよ。目の前にしたらぎゅっと抱き締めたくなるような子だって。会ってみたら本当でびっくりしちゃった! あらがえない~」
誰よりもびっくりしているのは抱き締められている本人だと思ったものの、口にはしなかった三人だった。
「や、やわ、やわ……ふたちゅ……でかくて……やらかくて……」
「梓、大丈夫か?」
その後、梓を解放したアルヴィは『あの子たちならダーリンと一緒にスタジオにいるから行ってみなさい』と教えてくれた。
意識が朦朧としている梓を引っ張ってスタジオまで来た一同だったが、相当なダメージを喰らったらしい梓は傍目にやばそうだった。
「それにしても夏音が梓を抱き締めたいと考えてたなんて思わぬ収穫だな」
それを元にからかう予定である律はにやりとした。例のごとくスタジオ前にやって来た一同ははめ込み窓から中の様子を窺った。
『そうそう! そんな感じだ! ビリビリきてるぜ嬢ちゃん!』
そこから見えた光景に一同は目を疑った。
現役のプロドラマーである立花譲二がいる。それだけではない。
聞こえてくるドラムの音、そのドラムを叩いていたのは。
「澪(ちゃん)がドラムを叩いてる!?」
汗だくになりながら、ドラムを叩いていたのは軽音部所属のベーシスト・秋山澪その人であった。
律はあまりの衝撃にスタジオの扉を勢いよく開けて中に突入した。
「り、律!?」
手を止めていきなり雪崩れ込んできた友人の姿に澪は目をまん丸にして驚いていた。
「あ、こ、こ、これは……!!」
澪は急いで顔を隠すが、何の意味もなかった。そんな友人に対して律は肩で息をしながら、ぎろりと睨み据え、叫んだ。
「軽音部のドラムは私だーーー!」
「何コレ。青春?」
一人だけ空気を読まない譲二が目をぱちくりして、誰に問うわけでもなく呟いた。
「みんな、いらっしゃ~い」
空気を読まない親子の片割れ、夏音がぎこちない笑顔で皆に声をかけた。
「夏音! これはどういうことか説明せんかいオンドリャァ!」
「まあ落ち着きなよ律。ていうか梓、どうしたの? 顔変わった?」
両手で律を制しながら、後ろでぽてりと座り込む梓を見た夏音の感想にムギが説明をした。
「梓ちゃんの許容量を超えることが起こり続けちゃったから」
「あぁー。これがデフォルメ顔ってやつかな?」
「それも、ちょっと違うと思うけど……」
いきなり話がそれたことで、律は夏音を頼りにすることを諦めた。すたすたと澪の前までいくと、腕を組んだまま、じっと見詰めた。
じぃっと見られた澪は居たたまれない様子で、俯く。
「そういうことか……」
「え、なになに!? りっちゃんすやって自己完結はよくないよ! 悪い癖だよ!?」
そこに割って入った唯も絶妙に空気が読めていなかったが、険悪なムードにはならなかったので、良い仕事をしたと言えよう。
「ち、違うんだよ律。これは、そう………………………………………………………」
「その沈黙の長さはもはや誤魔化す余地はないと思うよ澪ちゃん!」
二人の間を取り持つ唯はどこか必死になっていた。
「唯っていつの間にかツッコミ役になってること多いよなー」
「先輩は基本的にボケのはずなのですが」
何とか復活した梓と夏音がそんな会話を繰り広げる。それどころじゃないドラム周辺だったが、その中で浮きまくっていた一人がついに声を出した。
「あのよ」
その一声で、ぴたりと空気が止まった。気軽に声をかけただけなのに、低くどっしりとした声は耳によく響いた。
「ひとまず落ち着こうや。頭に血がのぼってちゃー話にならないだろう?」
律は、そこで初めて夏音の父がその場にいるのだということを思い出した。最初に視界に入っていたものの、優先すべきものに視線が向かったので今まで放置だったのだ。
「す、すいません! いきなり現れてから騒がしくしてしまって!」
あわあわと頭を下げた律。実は親しい人以外への礼儀はしっかりしている彼女は慌てて譲二へ対応した。
「いやーそんな気にしないで。騒がしい方が好きだし、青春って感じで大好物」
「は、はぁ……」
苦笑いの律は落ち着いた様子で澪に尋ねた。
「急に思い出したんだよ。前に唯とムギが部活休んだ時に話したのをさ」
「ま、待て律! お願いだから言わないで!」
澪が立ち上がり律に懇願するが、律は少し口許を上げると言い放った。
「ドラムやったらあんまり太らないってな!」
スタジオがしんとなった。静まりかえった空間の中で、唯一ドラムセットに崩れ落ちて顔を押さえる澪の呻き声だけが響く。
「え、どういうこと?」
ぽかんとしている唯が首をかしげて説明を求める。
「最近ちょっとお肉が気になり始めた澪は、何か良いダイエット法はないかなーと思ったに違いない。それで私の言葉を思い出して、こう目論んだ」
『ドラムを叩いてダイエットしよう』と。
特に否定することもなく、真っ赤に茹で上がった顔を押さえたままの澪。律は続ける。
「私に相談するのも恥ずかしいし、絶対にバレたくない。ドラムを叩きたくても実物を持ってるヤツなんかいない……そこで気付く。自宅にドラムセットを持ってるヤツがいるではないか、と」
律の推理が進み、皆の生温かい視線が澪へと注がれていく。
「そういうことなんだな、澪」
律が核心をつく質問を澪に投げかける。
「いっそ殺して……」
最早、顔を上げられず。虫の息で答えた澪だった。
その後のてんやわんやは割愛される。主に澪がここぞとばかりにからかい尽くされてしまったわけである。
「それにしても、ダイエットなんかのために夏音の父さんにドラム教えてもらうとかうらやましすぎなんだよ!!」
この点について、律は納得がいっていなかった。昨年の出会いがあってから、譲二は律の中で尊敬するドラマーとなっていたのだ。
動画サイトに上がっている本人のプレイを見尽くしたといっても過言ではないくらい、彼のファンになっていた律である。
ドラマーでもない澪が手ほどきを受ける(しかも不純な動機)ことほど羨ましいことはなかったのだ。
「教えたって言っても基本くらいさ。足のパターンなんか教えてねーのに出てくるわ出てくるわ。普段よく聞いてんだなって思ったよ。良いベーシストになるな」
その言葉にさっと顔を赤らめたのは律と澪。澪は純粋に褒められたことに、律は自分のドラムが澪の中にしっかりと刻み込まれているという事実に。
「俺は滅多に家いないであけてること多いんだが、嬢ちゃんさえよければ教えてもいいぞ」
「え?」
譲二から出てきた言葉に律が呆気にとられる。
「タイミングが合えば、な。遊びにこいよ」
「ほ、本当ですか!? 本当に教えてもらえるんですか?」
飛びつくように譲二に詰め寄る律。譲二はそんな律の反応を面白そうに見て、鷹揚に頷く。
「よかったねりっちゃん!」
まるで自分のことのように喜ぶ唯に律は思わず抱きつく。
「す、すごい……」
梓は目の前の出来事を呆然と眺めていた。これは世界中のドラマーに恨まれてもおかしくないほどの幸運なのだ。
一方、澪はそれを複雑な表情で祝福していた。きっかけがきっかけなだけに、手放しに喜ぶのはプライドが邪魔をするというものだ。
「ところで息子やい」
「なんだい父や」
「この中でお前のガールフレンドは誰だ?」
唐突な発言に空気がぴしりと音を立てて固まった。
「い、いないよ! 何いきなり言っちゃってんの馬鹿じゃないの!」
「は、反抗期か!?」
息子に馬鹿呼ばわりされたことで譲二はアルヴィに泣きついた。
「息子が! 息子が!」
「はいはい。みんなシャイなのよ。あなた本当に日本人なのかしら」
夫の背中をとんとんしながら苦笑するアルヴィ。その視線の先にはえらく気まずい様子でわなわな震える息子の姿が。
アルヴィはこの空気の落とし前をつけるだろう息子の未来を想像して少しだけ不憫になった。